第1話 再開
以前も書いていましたが、設定に大きな矛盾と破綻があったので修正しました。
1話~18話までを予約投稿を使って10分刻みで今日中にアップロードします。
今回の修正作業にAIをガッツリ使って見やすさなどを調整したので作品設定にあるAI使用状況の方も関節利用から直接利用に変更しました。
* * 勝也視点 * *
「おっ、来た来た。遅いぞ、新中学生!」
公園の入口まで来ると、翔太がベンチから立ち上がった。
新品の学ランで胸を張っている。見慣れた顔なのに、制服のせいで少しだけ別の学校のやつみたいだった。
「まだ待ち合わせの時間じゃないだろ」
隣を歩いていた春樹が答える。俺は制服の襟へ指を入れ、首との間に少し隙間を作った。
「翔太、それ苦しくない?」
「学ラン? 全然。むしろ似合ってるだろ」
「苦しくないか聞いたんだけど」
「格好いいって意味かと思った」
「どう聞いたらそうなるの」
真弓が呆れた声を出した。その横で、綾香が口元を押さえて笑う。
俺と春樹、綾香は同じマンションから来た。ここで翔太と真弓に合流するのも、小学校の頃から変わらない。
今日から通う学校と、着ている物だけが違っていた。
「5人とも同じクラスだったらいいね」
綾香が言った。
「なるって。俺、そういう予感してる」
「外れたら?」
「その時は、その時の予感を信じる」
「今の予感はどうしたんだよ」
春樹に言われても、翔太は気にせずリュックサックを背負った。
俺も笑っていたけれど、綾香の言葉には頷きたかった。知らない人ばかりの教室で、最初に誰へ話しかければいいのか。そんなことを考えると、少し緊張する。
今みたいに、何を言っても誰かが返してくれる相手がいれば心強い。
「クラスが違っても、帰る時は集まればいいだろ」
「そうだね。朝も一緒だし」
綾香が答えると、翔太が大きく頷いた。
「そうそう。トリッピーズは不滅だからな」
「私たち2人、入ってないけど」
「5人とも不滅!」
真弓の指摘に、翔太はすぐ言い直した。
鵜飼、鶴見、鳥居。名字に鳥の字が入っている俺たち3人は、小学生の頃からそう呼ばれている。翔太は、これが結構気に入っているらしい。
「不滅なのは分かったから、行こう。学校には遅れたくないし」
俺が言うと、4人も公園の出口へ向かった。
4月の朝の風は、まだ少し冷たい。新品の靴を見下ろして歩いているうちに、首元の窮屈さを忘れていた。
* * *
川瀬中学校の昇降口の前には、人だかりができていた。
新入生と、その保護者。俺たちと同じ制服が並んでいるのに、知らない顔がずっと多い。小学校で見かけたやつを1人見つけただけで、少しほっとした。
「クラス、あそこだ」
春樹が掲示板を指す。
翔太が勢いよく近づきかけ、前にいた親子に気づいて足を止めた。俺たちも後ろへ並び、空いたところから名前を探す。
「鳥居……あった、3組!」
「声、でかいって」
「勝也もあるぞ。ほら、鵜飼」
指された先に、俺の名前があった。
1年3組、鵜飼勝也。出席番号は4番。
今では当たり前に自分の名前だと分かるけれど、小学4年で転校した頃には、まだ慣れていなかった名字だ。
「俺も3組」
春樹の声に顔を上げる。
「本当? じゃあ3人一緒か」
「私も」
「え、真弓も?」
綾香が、女子の名前を指で追った。
「……あった。私も3組だ」
5人で顔を見合わせた。
全員同じところに名前がある。さっきまで1人くらいは離れるかもしれないと思っていたから、すぐには信じられなかった。
「ほらな! 俺の予感!」
「今回だけは当たったね」
「真弓、今回だけって何だよ。もっと信用してくれよ」
「さっき、外れた時のことも言ってたじゃん」
「そこは忘れていいから」
俺はもう1度、自分たちの名前を確かめた。
学校へ来る前より、中学校が楽しみになっていた。教室に4人がいる。それだけで、これから始まる生活を少し想像できる。
「じゃあ、教室行こう。後ろの人も見たいだろうし」
「勝也君、何階だっけ?」
「2階。3組は……あっちかな」
「今度は予感で案内するなよ」
「ちゃんと案内の紙、見てるって」
春樹に掲示を指して見せてから、昇降口へ向かった。
母さんとは家を出る前に、学校で会おうと話してある。俺たちが生徒用の入口へ進む横を、保護者の人たちは別の受付へ歩いていった。
2階へ上がったところで、前にいた男子の足が止まった。
上履きのかかとを直そうとしたらしく、脇に挟んでいた封筒が傾く。何枚かの紙が廊下へ落ち、その1枚が階段の方へ滑った。
「あ、待って」
俺は紙が段へ落ちる前に拾った。
男子も慌ててしゃがむ。そのすぐ後ろから、別の生徒が上がってきていた。
「ごめん、ちょっと待ってもらっていい? 紙、落ちてるから」
声をかけると、上がってきた人が足を止めてくれた。
春樹も1枚拾って、男子へ渡す。
「これで全部かな」
「うん。ありがとう」
「大丈夫。こっちは折れてないと思う」
拾った紙を揃えて渡した。男子はほっとした顔で封筒へ戻す。
「俺もさっき、同じことしそうになった」
「制服、持つところ少ないよね」
「そう。それで全部脇に挟むと、こうなる」
2人で少し笑った。初めて話した相手でも、拾う物があれば何を言おうか迷わずに済む。
先に行っていた翔太が振り返っている。
「勝也、こっち!」
「うん。じゃあ」
男子へ手を上げ、4人に追いついた。
1年3組の札は、そこからすぐ先にあった。
教室の黒板には座席表が貼ってあった。
男女別の出席番号順らしく、俺は廊下側の列。4人とは席が離れていたけれど、振り向けば同じ部屋にいる。
自分の机へリュックサックを掛けた途端、翔太が後ろから呼んだ。
「勝也、俺ここ!」
「見えてるよ」
「春樹、遠くね?」
「教室の中だろ」
少し離れた席から、春樹が返した。
つい笑っていると、隣の席の女子と目が合った。
「あ、よろしく」
「うん、よろしく」
それだけのやり取りをして、座る。
もっと何か言った方がよかったかなと思ったが、相手もリュックサックを開けたので、俺も前を向いた。
まだ友達じゃない人と、少しずつ知り合っていく。中学校でも、小学校へ転校した時と同じようにできるだろうか。
あの時よりは、きっと楽だ。今日は、初めてなのが俺だけじゃない。
机の上には、学校の名前が入った封筒が置かれていた。
中身を覗きかけた時、入口の方が少し静かになった。
顔を上げる。
白い髪の女子が、教室へ入ってきた。
長い髪が、紺色の制服の上へ流れている。前髪の下には細い眼鏡のフレームが見えた。
小柄なその子は入口で足を止め、黒板の座席表を見上げた。
「……え」
声が漏れた。
手に持っていた封筒を、机へ置く。
白い髪は昔より長く、背も伸びていた。眼鏡だって、俺の知っている頃にはかけていなかった。
それでも、横を向いた顔に覚えがあった。
優子だ。
富田優子。
頭の中で名前を呼んだ瞬間、胸が弾んだ。
こんなところで会えるなんて、思っていなかった。
幼稚園の頃から、小学4年で俺が転校するまで、家が隣だった。
学校から帰ると、俺が優子の家へ行ったり、優子がうちへ来たりした。ゲームの続きをする約束を、帰り道でもう決めていた。
小さな頃には、俺が玄関へ出ると、隣の家からも出てきたことがある。
遊ぶ相手を探そうと思う前に、そばにいた女の子だった。
両親が離婚して、母さんとあの家を離れてから、直接会っていない。
遠くの県へ引っ越したわけではなかったのに、小学校が変わると、毎日顔を合わせることはなくなった。同じ中学校になるかもしれないなんて、今朝まで考えていなかった。
優子は自分の席を見つけ、ゆっくり歩き出した。
俺とは離れたところだった。リュックサックを机の横へ掛けてから、椅子へ座る。
名前を呼びたくなった。
優子。
久しぶり。
昔なら、考える前に口から出ていたはずだ。
けれど、立ち上がろうとしたところで、少し気恥ずかしくなった。
俺も優子も、もうランドセルを背負っていない。顔が見えたから嬉しくなって、そのまま大きな声で呼んだら、周りまで振り向きそうだった。
「何見てるの」
真横から春樹の声がして、肩が跳ねた。
「びっくりした」
「そんなに驚く?」
「急に声かけるから」
「2回呼んだよ」
全然聞こえていなかった。
春樹の後ろには、翔太も来ている。
「もう気になる子いた?」
「そういうんじゃないって」
「まだ何も言ってないだろ」
「今言ったじゃん」
翔太は楽しそうに笑う。俺は、その向こうの優子をもう1度見た。
誰かが机のそばを通っただけで、優子は少し身体を寄せた。知らない人が多くて、緊張しているのかもしれない。
俺が話しかけたら、どんな顔をするだろう。
昔みたいに名前を呼び返してくれたら、嬉しい。
「何か落ち着かないね、勝也」
「お前らが横にいるからだよ」
春樹にそう答えたところで、先生が入ってきた。
自分の席へ戻るように言われ、2人も離れていく。
俺は椅子に座り直した。
まだ午前中も終わっていない。話す時間は、きっとある。
そう思っても、先生が出席を確かめる間、優子の名前が呼ばれるのを待ってしまった。
「富田」
「は、はい……」
返事は小さかった。
それでも聞こえた声に、俺は少し口元が緩んだ。
記憶の中より落ち着いた声だったけれど、やっぱり優子だった。
* * *
入学式の間、何度か優子の方を見そうになった。
同じクラスの列だから、少し目を動かせば白い髪が分かる。けれど、見つけるたびにそちらを向いていたら、怪しいだけだ。
俺は膝の上へ手を置き、壇上へ顔を戻した。
勉強のこと。新しい仲間のこと。これからの3年間のこと。
校長先生の話を聞きながら、さっきまでいなかったはずの優子が、これから同じ教室にいるのだと考えた。
休み時間に、最近何のゲームをしているのか聞ける。昔みたいに、分からないところを2人で考えることもあるかもしれない。
会っていない間に話したかったことが、今になっていくつも浮かんだ。
そのあとで、自分ばかり先のことを考えているのに気づいた。
まだひと言も話していない。
まずは、久しぶりと言うところからだ。
式が終わり、教室へ戻る廊下で、翔太が小さく息を吐いた。
「腹減った」
「まだそんな時間じゃないでしょ」
真弓が答えた。俺は、そこで自分もお腹が空いていることに気づく。
「帰ったら何か食べたいな」
「だよな。給食、今日からあってもよくない?」
「今日はないって書いてあったよ、翔太君」
「知ってるけど、希望は言ってもいいだろ」
「なら、さっき校長先生に言えばよかったのに」
「春樹、俺を何だと思ってんだ」
口元を押さえながら、教室へ入った。
保護者への説明は別に続くので、生徒は先に配布物を確認するらしい。先生が紙の束を置きに教室を離れると、席から立つ人が増えた。
優子の机にも、何人かの女子が近づいていた。
「髪、染めてるの?」
「違うんじゃない? すごい白いね」
廊下側まで、その声が聞こえた。
優子は顔を上げたけれど、すぐには答えなかった。少しして口が動き、1人の女子が聞き返す。
「え? 地毛?」
「……うん」
膝の上で手を重ねたまま、優子が頷いた。
小さい頃から、髪のことを聞かれることはあった。俺には見慣れた色でも、初めて見た人は驚くのだろう。
綺麗だと言われても、優子はあまり顔を上げなかった。
女子の1人が隣の席へ戻り、別の子も自分の封筒を取りに離れる。
今なら話せると思った。
立ち上がると、急に学ランの袖が気になった。さっきまで気にもしていなかったのに、片方だけ引っ張ってしまう。
何をしているんだ、俺は。
優子に挨拶するだけだ。
机の間を歩いて、そばへ行った。
優子は封筒の口を開けている。近くで見ると、前髪は眼鏡にかかるくらい長かった。
俺は椅子のそばにしゃがみ、座っている優子と目の高さを合わせた。
昔の顔と今の顔が、ようやく同じ人として落ち着いた気がした。
「優子、久しぶりだね」
言えた。
声が少し上ずった気がしたけれど、もう言ってしまったので仕方がない。
優子が顔を上げた。
淡い色の目が、眼鏡の向こうで大きくなる。
「……え」
「あの、俺。分かる?」
自分を指しかけて、やめた。
優子は俺の顔を見て、それから胸元の方へ目を落とした。すぐに、また顔を見る。
驚いているのは分かった。でも、懐かしい相手を見つけた顔なのか、知らない男子に名前を呼ばれて困っている顔なのかは分からなかった。
「……鵜飼くん?」
「うん。今は鵜飼なんだけど」
教室で呼ばれた名字は聞いていたらしい。
俺は少し笑ってから、続けた。
「転校したあと、家のことで名字が変わって。前は朝倉」
優子の唇が、何か言いかけるように動いた。
その拍子に、机の端に置かれていた紙がずれた。封筒へ入れる途中だった1枚が、椅子の方へ落ちかける。
「あ」
俺は手を伸ばした。
紙の角をつかんで持ち上げると、優子の目がその手に止まった。
「はい、これ」
渡そうとしても、すぐには受け取らなかった。
俺の制服の袖が少し上がっている。そこを見ていた優子が、ゆっくり顔を上げた。
「……勝也くん」
その呼び方を聞いた途端、安心した。
覚えていてくれた。
俺が誰なのか、ちゃんと分かってくれた。
「うん。久しぶり」
「……久しぶり」
優子が紙を受け取った。
白い指が、端を揃える。俺は、思っていたより嬉しくなっていた。
もう1度会えたというだけでなく、名前を呼んでくれたことが嬉しかった。
「同じクラスだったんだね。俺、入ってきた時、びっくりした。また会えて、嬉しいよ」
言ってから、少し照れ臭くなった。でも、本当にそう思っていた。
優子は紙の端を押さえたまま、俺を見た。
「……うん」
「元気だった?」
「うん……。勝也くんは?」
「俺も元気。見ての通り」
少し大げさに胸を張ってみた。
優子の口元が動いたけれど、笑ったのかどうかは、すぐ伏せられた顔では分からなかった。
俺も、胸を張った姿勢をやめる。
「髪、伸びたね」
「……うん」
「眼鏡も。昔は、かけてなかったから」
そう言うと、優子がフレームへ触れた。
何かを確かめるように、ほんの少し指で押す。
「……変、かな」
「え? 違う違う。似合ってると思う」
慌てて答えた。
変わったなと思っただけで、変だと言いたかったわけじゃない。
「俺もかけるようになったし。ほら」
「……うん」
優子が、俺の眼鏡を見る。
今度はすぐに目を逸らさなかった。その視線が気恥ずかしくて、鼻のところへ触れてしまう。
眼鏡が曲がっていないか、急に気になった。
「勝也くんも……似合ってる」
「本当? ありがとう」
嬉しくて笑うと、優子はまた下を向いた。
「家は前より遠くなっちゃったけど、また遊びたいね」
優子の指が、封筒の縁で止まった。
「……うん」
小さく頷いたのを見て、俺も笑った。
また一緒に遊べるなら嬉しい。けれど、いつならいいかまでは聞けなかった。
俺は次の話を考えた。
何を聞こう。今でもゲームをしているか。どんな漫画を読んでいるか。前みたいに、何でも話していいのだろうか。
考えている間に、優子の指がまた封筒の縁をなぞった。
あれ。
もしかして、あんまり嬉しくないのかな。
そう思ったら、さっきまでの嬉しさが急に落ち着かなくなった。
昔の優子なら、俺が1つ聞く間に、昨日のことや今日遊びたいことをいくつも話してくれた。
目の前の優子は、聞いたことには答えてくれる。でも、返事をしたあとは、次に俺が何か言うのを待っているように見えた。
久しぶりに会ったことを、俺だけが大きなことだと思っていたのかもしれない。
「……私のこと、覚えてたの?」
優子の声に顔を上げた。
「覚えてるよ。あんなに一緒に遊んでたんだし」
答えてから、少し恥ずかしくなった。
あんなに、というところだけ、声が大きくなった気がした。
隣の席で封筒を片づけていた女子が、ちらりとこちらを見る。俺は視線を戻し、机へ置きかけていた手を下ろした。
「富田と同じクラスなら、また話せるね」
呼び慣れていた名前を、今度は飲み込んだ。
小さい頃と同じように呼ぶのは、急に照れ臭くなっていた。
優子は、1度だけ俺の顔を見た。
「……うん」
返事を聞いて、頷く。
もっと話したかった。けれど、優子は封筒を持ったままだった。片づける途中で呼び止めてしまったし、いつまでも話しかけていていいのか迷った。
「じゃあ、また」
「……うん」
俺は立ち上がった。
席へ戻る途中で、1度だけ振り向いた。
優子は、まだ机の上を見ていた。
その姿を見たら、胸の中がすとんと落ちた。
もう少し喜んでくれると思っていた。そんな期待を勝手にしていたことまで、恥ずかしくなった。
椅子に座り、封筒を開く。
さっき自分で1度開けていたのに、また同じところへ指を入れていた。
「勝也、今の子、知り合い?」
戻ってきた翔太が、机へ片手をついた。
「うん。前の小学校で」
「へえ。だから見てたのか」
「そうだよ。お前が変なこと言うから」
「まだ何も言ってないだろ」
「気になる子がどうとか言った」
「それ聞いただけじゃん」
いつもなら、その顔を見ただけでもう少し言い返していた。
今日は、翔太の方を向いていても、優子の小さな返事を思い出していた。
「……勝也?」
「何?」
「いや、何か静かだから」
「式で疲れた。座ってるのって、案外疲れるね」
「分かる。俺も腹減った」
「それ、疲れたのとは違うだろ」
ようやく笑えた。
翔太も笑って、先生が戻ってきたのを見て自分の席へ向かう。
俺は封筒から紙を出し、机へ並べた。
転校してから、俺には春樹たちとの毎日があった。
優子にも、俺の知らない毎日があったはずだ。
ずっと会っていなかったのに、昔と同じ反応をしてくれると思う方が、都合がよかったのかもしれない。
そう考えても、残念な気持ちはすぐには消えなかった。
せっかく会えたのに。
そう思う自分が、少し子どもっぽく感じられた。
先生が、次に登校する時の持ち物を説明し始めた。
俺は紙へ目を落とした。今度は聞き逃さないように、必要なところへ線を引く。
それでも、説明が途切れると、離れた席が気になった。
優子は、前を向いていた。
眼鏡の奥の表情は、ここからでは分からなかった。
話しかけるのが嫌だったかどうかも、今の俺には分からない。
けれど、名前を呼んでくれたことと、眼鏡が似合うと言ってくれたことは、ちゃんと覚えておこうと思った。
同じ教室にいるのだから、次に来た時には、おはようくらい言える。
何を話せばいいのかは、その時に考えればいい。
俺は黒板に書かれた持ち物を、もう1つ書き足した。
その下へ自分の名前を書きかけて、必要ないと気づく。
消しゴムで消す間も、久しぶりに聞いた、勝也くん、という声が残っていた。
* * 優子視点 * *
先生の話を聞きながら、机の下で指を重ねていた。
ちゃんと前を見ていないと、また勝也くんの方を向いてしまう。
さっきから、何度もそうなりかけていた。
勝也くんだった。
本当に、勝也くんだった。
そう思うたびに、顔が熱くなる。
入学式の日に会えるなんて、考えていなかった。同じ学校になるかもしれないと思うことはあっても、本当にそうなると信じて待つのは怖かった。
会えなかった時に、寂しくなるから。
それなのに、同じクラスだった。少し顔を動かせば見えるところに、勝也くんが座っている。
嬉しかった。
隣に住んでいた頃のように、何も考えず近づけたら、もっといっぱい話してしまったと思う。
会いたかったことも。今まで、何をしていたのか聞きたいことも。
さっきは、その1つも上手く言えなかった。
今朝、2階へ上がった時、階段のところで何人かが立ち止まっていた。
落ちた紙を拾っている男の子がいて、後ろから来る人へ少し待ってほしいと声をかけていた。
黒いフレームの眼鏡をかけた、明るい声の人。
紙を落とした男の子に笑いかけて、その子が封筒へしまうところまで待っていた。
優しい人だな、と思った。
友達に呼ばれて振り向いた横顔も、好きだった。
かっこいい、と思ってから、知らない男の子をそんなふうに見てしまったことが恥ずかしくなった。
その人が3組へ入ったので、同じクラスなのだと分かった。
声をかけようとは思えなかったけれど、教室へ入ったあと、どこに座ったのか1度探してしまった。
出席を取る時に、鵜飼と呼ばれていた。
朝倉ではなかった。
眼鏡も、声も、私の覚えている勝也くんとは違った。だから、自分の好きな顔に似ていると思っても、本人だとは思えなかった。
入学式が終わってから、その人が私の席へ来た。
名前を呼ばれて驚いた。声をかけてもらったことにも、下の名前を知っていることにも、心臓が跳ねた。
前は朝倉だったと言われても、すぐには信じられなかった。
会いたかった人が目の前にいるなんて、そんな都合のいいことが起きているのか、分からなくなった。
それから、紙を取ってくれた手首に、白い編み目が見えた。
昔、一緒に作った腕輪。
あれを見たら、ばらばらだったものが全部つながった。
前より低くなった声にも、笑った時の口元にも、私の知っているところがあった。
大きくなって、眼鏡をかけて、名字が変わっても、勝也くんだった。
まだ着けてくれていたことまで嬉しくて、何から話せばいいのか分からなくなった。
私の手首にあるものは、袖の中に隠れたままだった。
私が座っていると、隣に座ったり、しゃがんだりして目線を合わせてくれる。小さい頃から、勝也くんはそうだった。
さっきも、当たり前のようにそうしてくれた。そのことまで、嬉しかった。
勝也くんが転校してから、私は自分の気持ちが恋なのだと分かった。
一緒に遊ぶのが好きだった。優しくしてくれるのが嬉しかった。笑っている顔を、もっと見ていたかった。
小さい頃からあったその気持ちは、会わなくなっても消えなかった。
今日、別の誰かに見えていた時でさえ、また同じ人を、いいなと思っていた。
恥ずかしくて、机の下の手を握り直した。
勝也くんの顔を見ると、好きだと気づかれてしまいそうだった。
でも、見ないようにしたら、何も話せなくなる。
元気だったか聞かれた時も、似合っていると言ってくれた時も、返事を考えている間に、その声ばかり聞いてしまった。
会えて嬉しいと言ってくれた声を、何度も思い返した。
再会を喜んでいるのは、私だけじゃなかった。勝也くんも、私に会えて嬉しかった。
それが分かると、口元が緩みそうになった。机の上の紙へ目を落としても、顔の熱さは引かなかった。
また遊びたいとも言ってくれた。
もう隣の家には住んでいない。それでも、また一緒に過ごせるかもしれない。
学校で会うだけでなく、休みの日にも勝也くんと話せたら。何をして遊ぼうかと、前みたいに相談できたら。
まだ約束したわけでもないのに、考えるだけで嬉しかった。
私も、また遊びたい。
そう答えたかったのに、あの時は、うん、と言うだけで精いっぱいだった。
嬉しくないから黙っていたんじゃない。嬉しすぎて、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
「この紙は、家の人と一緒に確認してください。名前を書くところを忘れないように」
先生の声で、目の前の紙へ視線を戻した。
どこに名前を書くのかを確かめる。聞いていなかったと気づかれるのが怖くて、前の席の子がめくった紙と同じものを探した。
「これだよ」
隣の女子が、小さな声で自分の紙を示してくれた。
「あ、ありがとう……」
「ううん」
その子はすぐに前を向いた。
私も、同じ紙を1番上へ出す。
お礼は言えた。今の声は、聞こえたと思う。
けれど、そのあと、口元が強ばっていなかったか気になった。せっかく教えてくれたのに、嫌そうに見えていなかっただろうか。
小学校では、話しかけても返事をしてもらえないことがあった。
仲間に入れてもらえず、自分が何か言うと、また嫌な顔をされるかもしれないと思うようになった。
何を言えばいいのか、言ってからどう思われるのか。先に考えることが増えて、声を出す前に口を閉じることが多くなっていた。
勝也くんと遊んでいた頃は、そんなふうに考えていなかった。
名前を呼べば振り向いてくれたから、話したいと思ったことを、そのまま話せていた。
今も、さっきも、優しく聞いてくれた。
それなのに私は、前みたいにできなかった。
勝也くんにだけは、変に思われたくなかった。
そう思うほど、返事が小さくなる。
恥ずかしくて俯いたことも、言葉を選んで黙ったことも、勝也くんには分からない。
せっかく来てくれたのに、話したくないみたいになっていなかっただろうか。
離れていく時の笑顔を思い出した。
最初に声をかけてくれた時より、少しだけ小さく見えた。
私のせいなのかもしれないと思うと、胸が苦しくなった。
もう1度、話したかった。
先生が話し終え、紙をしまうように言った。
周りで封筒が開かれる音がする。私は端を揃え、折れないように入れた。
勝也くんが拾ってくれた1枚も、その中にあった。
顔を上げると、離れた席にいる勝也くんが、友達の男の子に何かを言っていた。
相手が笑う。勝也くんも、困ったように笑った。
あんなふうに、今はあの人たちと毎日話しているのだと思った。
友達がいるのは、いいことだった。勝也くんが楽しく過ごしていたのなら、嬉しい。
でも、私だけが、ずっと前の話しかできないことが少し寂しかった。
さっき、1度だけ、富田と呼ばれた。
最初は優子だったのに、そのあとは富田になっていた。
どうしてかは分からない。中学生になったから、女の子を下の名前で呼ぶのは恥ずかしいのかもしれない。
そう考えても、少しだけ胸がちくりとした。
私だけが今も勝也くんと呼んでいいのか、次に呼ぶ時には迷ってしまいそうだった。
けれど、会えて嬉しいと、また遊びたいと言ってくれた。
呼び方が変わった理由は分からなくても、その言葉は聞けた。
次に話せたら、私も遊びたいと、ちゃんと伝えたかった。
帰りの挨拶が終わると、教室は急に賑やかになった。
友達を呼ぶ声の間に、勝也、という名前が聞こえた。
思わずそちらを見る。
男の子が2人、女の子が2人、勝也くんのところへ来ていた。朝も一緒にいた人たちだった。
「先生、親がまだ説明の方にいるんですけど」
入口の近くで、誰かが尋ねた。
「もう少しかかると思うから、迎えに来る約束の人は教室で待っていていいよ」
私は、掛けていたリュックサックから手を離した。
お母さんと、終わったらここで会うことになっていた。
勝也くんも、友達と入口の方へ行ったあと、廊下で立ち止まっている。
今なら、近づけるかもしれない。
立ち上がるところまで考えて、足が動かなかった。
何を話すのか聞かれたら、上手く答えられない。
嬉しかったことを伝えたいだけなのに、友達のいるところへ行って、それを言うのは恥ずかしかった。
声をかけられない自分が、嫌になった。
今度は、私から。
そう思っても、簡単にはできそうになかった。
でも、次に話しかけてくれた時には、顔を見て返事をしたい。
嬉しいことくらい、少しでも伝わるようにしたい。
私は袖の中の腕輪へ、そっと指を添えた。
同じものが、勝也くんの手首にもあった。
直接会えなかった時間のあいだも、あれを着けていてくれた。そのことを思うと、俯いていた顔が少し緩んだ。
学校へ来れば、また会える。
遠くの記憶の中にいる人を思い出すだけではなく、同じ教室で、その日の声を聞ける。
それが嬉しくて、まだ胸が落ち着かなかった。
顔を上げると、廊下から勝也くんの笑い声が聞こえた。
私は口元へ手を当てた。
会えて嬉しかった。
勝也くんが思っているより、きっと、ずっと。
いつかは、私からも言いたい。
その気持ちを抱えたまま、もう1度、開いている教室の扉を見た。
今回の登場人物
・鵜飼勝也
親友4人と中学校へ入学し、幼馴染の優子と再会する。嬉しくて声をかけるが、優子の返事が短く、自分ほど喜んでいないのかと不安になる。
・富田優子
昔一緒に作った腕輪を見て、目の前の男子が勝也だと確信する。ずっと会いたかった相手との再会を喜びながらも、照れや緊張で気持ちを伝えられない。
・鶴見春樹
勝也たちと登校し、廊下で落ちた紙を拾うのを手伝う。翔太の冗談に冷静に返し、教室では落ち着かない勝也へ声をかける。
・鳥居翔太
朝から元気に仲間を迎え、5人全員が同じクラスになったことを喜ぶ。優子を気にする勝也をからかい、会話のあとは静かになった様子にも気づく。
・加藤真弓
翔太の調子のよい発言に、遠慮なく突っ込む。5人が同じクラスになるという予感が当たっても、翔太を軽くからかう。
・井上綾香
5人とも同じクラスになれたらと願い、名簿で自分の名前を見つけて喜ぶ。仲間たちのやり取りに笑いながら、新しい学校生活を迎える。
・廊下で紙を落とした男子
封筒から落ちた紙を勝也と春樹に拾ってもらい、礼を伝える。勝也とは初対面ながら、制服で荷物を持つ難しさを話して笑い合う。
・優子の隣の席の女子
配布物の説明についていけなくなった優子に、どの紙を見ればよいかそっと教える。
・1年3組の担任
入学初日の出席確認や配布物の説明を行う。保護者を待つ生徒には、教室で待っていてよいと伝える。




