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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
27/52

第23話 衝突と衝撃



「……何?」


 戸田が俺の顔から手元へ目を落とした。教科書を包んだ紙の端が指に当たっていて、持ち直すと、中で固くなったページが擦れた。


「富田に、何したんだよ」


 もう1度聞いた。

 戸田は寄りかかっていた机から、少しだけ体を起こした。


「何って。知らないけど」

「水曜日の放課後。向こうの女子トイレで」


 富永が、俺を見た。

 戸田の横で肩にかけようとしていた鞄を、そのまま持っている。


「……何の話?」

「富田の荷物、取り上げただろ」


 戸田は答えなかった。

 隣にいた富永へ目を動かす。それを見て、俺も富永へ顔を向けた。


「富永も、いたよな」

「だから、何?」


 返事は戸田から来た。

 俺は紙を開いた。


 数学の教科書だった。乾いても表紙は波打ったままで、重ねた紙の間へうまく収まらない。下の角は、ほかのところより黒くなっていた。

 拾ってきた時の汚れだけではなかった。表紙を開けば、本文を黒いマジックで塗り潰されたページが見える。何度も重ねられた太い線の下では、文の続きさえ読めなくなっていた。


「これ、富田の教科書」


 空いている机の端へ、包んだ紙ごと教科書を載せた。大きな音を立てて置きたくなくて、机につくまで両手を添えていた。


「校舎の裏で見つかった。春樹と、取りに行ったんだ」

「ふうん」


 戸田が言った。


「それで?」


 顔を上げた。これを見せても、そんな返事しかしないのか。知っているのか、どうしてこんなことになったのか。聞きたかったことを口にする前に、腹の底が熱くなった。


「何でこんなことになってるんだよ」

「私に聞かれても、分かんない」

「富田が自分でしたって言うのか」

「そこまで言ってないじゃん」


 戸田は、少し口元を曲げた。

 俺が大げさなことを言ったような顔だった。


 この教科書がどこにあったのか、俺たちも一緒に探した。名前を確かめてから、ほかにも落ちていないか周りを見た。汚れたところへ触れないように包み、今日、優子へ届けるつもりで持ってきた物だった。


 その間にも、何度も考えた。こんなことをされた教科書で、どうやって授業を受けるのだろう。使う時間が来るたびに、優子は何と言ってこれを取り出せばよかったのだろう。


 戸田は、表紙を見ただけだった。


「勝手に決めつけないでよ。落としたのかもしれないし」

「本文が読めなくなるまで塗り潰してあるだろ。落としただけで、こうなるわけないじゃん」

「だから、私がやったの?」


 後ろで椅子が動き、真弓が近くまで来ていた。春樹も少し離れたところに立っていて、俺の手元と戸田たちの顔を見ていた。


「見た人がいる」


 俺は言った。


「何を」

「富田の物、隠してるところも、汚してるところも。水曜日、あのトイレにお前らがいたところも」


 富永の鞄が、机へ下ろされた。


「誰がそんなこと言ったの」

「名前は言わない」

「じゃあ、分かんないじゃん。嘘かもしれないでしょ」


 俺は、教科書の端を押さえた。

 巻き上がった表紙が、少し戻る。


「俺に話してくれた人を、嘘つきにするなよ」


 声が、自分で思っていたより低くなった。

 富永が、俺の顔を見た。


「聞いたことを、全部そのまま信じてるわけじゃない。見たところと、見てないところも聞いた。分からないことは、分からないって言ってくれた」


 尋ねると、その時のことをもう1度考えてくれた人がいた。日にちまでは覚えていないと言った人も、誰が捨てたのかは見ていないと念を押してくれた人もいた。


 俺たちが聞きたいことに合わせて、何でも答えてくれたわけではなかった。


「富田が痛いって言ってたのも、やめてって言ってたのも、聞いた人がいる。それも全部、嘘なのか」


 廊下へ出ようとしていた男子が、足を止めた。

 ドアの近くで、別の子が小さく何か聞いた。

 俺はそちらを見なかった。


「トイレにいたからって、何なの」


 戸田が言った。


「女子トイレなんだから、女子がいたって普通じゃん」

「普通に使ってただけなら、何で富田の教科書が床に落ちてるんだよ」

「知らないってば」

「じゃあ、髪は」


 言うと、戸田の口が閉じた。


「富田の髪、何で床に落ちてたんだよ」


 富永が戸田へ顔を向けた。その向こうでは杉浦が足を止め、机の間にいた奈々もこちらを見ていた。


 いつも同じところに集まっていた顔だった。俺が自分の席へ戻ると話をやめたり、のりちゃんが後ろで友達と話している時には、別の方へ行ったりしていた。その顔が、今は揃ってこちらを向いていた。


 奈々だけが、すぐに目を伏せた。口元へ手を当て、何かを飲み込むように喉を動かしたあと、その手を机の縁へ戻した。


 あの時、俺たちがいると何が困るのかは分からなかった。今も、黙った顔だけで全部が分かるわけではない。それでも、髪の話を出してから、知らないと言っていた戸田まで聞き返さなくなったことは分かった。


「はさみ、持ってたよな」


 俺は戸田へ聞いた。


「富田が嫌がってるのに。富永が、髪、掴んで」

「ちょっと待って」


 戸田が片手を上げた。

 俺を止めるための手だった。


「何でそんな話になってんの。髪くらいで」


 その手を見た。

 指はすぐに下ろされた。


「……髪くらい?」

「だって、伸びるじゃん」


 富永が、小さく笑った。

 教科書へ向けていた目が、俺の顔へ戻っていた。


「そこまで騒ぐこと?」


 背中の方から、息を呑む音がした。

 真弓だったのか、綾香だったのか、振り返らなかったので分からない。


 俺は戸田の顔を見ていた。水曜日に何をしたのかと聞いた時には、知らない、何の話かと返してきた。それなのに今は、髪は伸びると言っている。何をしたのか、やっぱり分かっているんじゃないかと思った。


「知らないって、さっき言っただろ」

「細かいなあ。何の話か分かんなかっただけだって」

「俺、最初に、水曜日のトイレって言った」


 戸田が口を閉じた。もう1歩近づこうとしたところで、その手が教科書の角にかかりそうになっているのが見え、俺は足を止めた。


 教科書を閉じ、包んでいた紙を戻してから、机のこちら側へ寄せた。ようやく見つけて、優子へ返そうとしている物だった。また取られたり、何かされたりするのは嫌だった。


「富田は、やめてって言ったんだろ」

「そんなの、あの子、何でも言うじゃん」


 戸田は教科書から手を離した。


「すぐ嫌がるし、すぐ泣きそうになるし。ちょっと言っただけで、そんな顔するんだよ」

「嫌だからだろ」


 声が、強くなった。

 近くにいた富永が、眉を寄せた。


「嫌だって言ってんのに、何でやめなかったんだよ!」

「そんな言い方しなくても聞こえてるし」


 戸田が言った。

 俺の聞いたことには、答えなかった。


     * * *


 窓の外で笛が鳴った。短い音に続いて何人かの声がして、教室の中まで聞こえてきた。


 部活が始まっていた。

 のりちゃんも、今頃は道具を置いているのかもしれない。

 俺もいつもなら、部室へ向かったり、翔太たちと帰る話をしたりしている時間だった。


 水曜日も、そうだった。

 自分の用事が終われば、帰っていいと思っていた。


「富田、まだ学校にいたんだぞ」


 俺は言った。


「水曜日、俺たちが帰ったあとも」

「それが?」

「自分で帰らなかったんじゃないだろ。帰れなかったんだろ」


 戸田の目が、少しだけ細くなった。


「ずっとそこにいさせて、荷物持っていって。靴も、傘もなくなってた」


 杉浦が何か言いかけた。

 けれど、声にはならなかった。


 のりちゃんと並んで覗いた、空の靴箱を思い出した。上履きも持って帰ったのかもしれないと話し、傘立ても確かめた。どちらにもないのを見て、俺たちはもう帰ったのだと頷いてしまった。


 何かあったと分かっていれば、探せたはずだった。そう考えるたびに、あの日、のりちゃんと立っていた靴箱の前へ戻りたくなった。


「杉浦」


 声をかけると、杉浦がこちらを見た。


「のりちゃんが呼ばれてるって言ったの、本当に聞き間違いか」

「……そう言ったじゃん」

「誰と間違えたんだよ」

「だから、覚えてないって」

「先生は、のりちゃんを呼んでなかった。俺が委員会へ行って、のりちゃんが職員室へ行った間に、富田はいなくなった」


 杉浦は、自分の鞄の紐を持ち直した。


「私のせいって言いたいの?」

「何を聞いたのか、聞いてるんだよ」


 杉浦の顔を見た。

 木曜日にも、のりちゃんと一緒に聞いた。

 その時は、間違えたのならそれ以上は分からないと、席から離れた。


 もう、それで終わりにはできなかった。


「富田が持ち物を取られてた時、杉浦もいたんだろ」

「そこにいたら、全部私がやったことになるの?」

「全部なんて言ってない」


 俺は答えた。


「いたのに、知らないって言うから、聞いてるんだろ」


 誰も答えないまま、春樹が俺の少し後ろへ来た。さっきから近くにいるのは分かっていた。それでも、戸田たちから目を離して振り返ることができなかった。


 戸田は、杉浦へ目をやったあとで言った。


「1人で何、マジになってんの」

「1人じゃねえよ」


 翔太の声がした。

 戸田が、俺の肩越しに目を動かした。


「富田のことだろ。俺たちも聞いてんだよ」


 翔太は、机の横に立っていた。

 いつもの、何か言って笑わせる時の顔ではなかった。


「お前ら、何でそんなふうに言えるんだよ」

「鳥居まで何なの。関係ないじゃん」

「関係なくねえだろ。同じクラスだぞ」


 翔太の声が上がった。

 戸田は唇を尖らせ、こちらへ顔を戻した。


「みんなで聞いたから、本当なんだ? 本人から聞いたの?」


 俺は答えなかった。


「富田が、私たちにそうされたって言ったの?」


 教科書を押さえる手に、力が入った。

 紙が少し鳴ったので、離した。


 本人が言ったのか。先生にもそう聞かれた。優子が話せないから相談したのに、結局、本人が話すまで待てというところへ戻されてしまう。戸田の口からまで同じ言葉を聞かされ、黙って聞いているのが苦しくなった。


 戸田が、俺の顔を見たまま口元を緩めた。


「ほら。聞いてないじゃん」

「本人が言えなかったら、何してもいいのかよ!」


 言い終わった時には、自分の声が教室の奥まで届いたのが分かった。

 残っていた生徒の会話が、止まった。


「言ってこないから知らないって、そんなわけないだろ。お前ら、自分でやってたんだろ!」

「決めつけないでって言ってるんだけど」

「富田が話さなくても、見てた人がいるんだよ」


 戸田の目が、ドアの方へ向いた。

 そこに立っていた女子が、1歩、廊下の方へ下がった。


 俺はその間へ体を動かした。

 誰が話したのか、探すように周りを見てほしくなかった。


「聞くなら、俺に聞けよ」


 戸田が、俺を見た。


「誰が言ったかより、自分が何したのか、ちゃんと答えてよ」


 真弓が、俺の横から言った。


「富田さんが嫌がってたことくらい、分かってたでしょ」

「だから、あの子が嫌がりすぎなの」


 戸田は、今度は真弓へ答えた。


「普通、あれくらいで学校休む? メンタル弱すぎじゃない?」


 教室の音が、遠くなった気がした。


 何日も、あの机に座っていた優子を見ている。落書きを隠す紙を押さえたまま黒板を見て、読めないところがあっても、先生に手を挙げて教科書を見せようとはしなかった。


 弱いから、休んだ。


 その言葉を、戸田が言った。

 休むまで何があったのか、俺が1つずつ、人に頭を下げて聞いていた間も、学校へ来て、友達と話していた戸田が。


「……あれくらいって、何だよ」


 戸田へ顔を戻した。


「教科書を使えなくされるのも、靴を捨てられるのも、髪を切られるのも。全部、あれくらいなのか!」

「声、大きいって」

「富田が学校に来られなくなってんの、分かってんだろ!」

「だから、それはあの子の問題じゃん」


 戸田が言った。


「私たちに全部押しつけられても、困るんだけど」


     * * *


「勝也」


 春樹が呼んだ。

 すぐ後ろにいた。


 振り返ると春樹と目が合った。何か言いかけた口が少し開いたまま止まり、俺の肩へ伸ばしかけていた手も、その途中で動かなくなった。


 春樹は息を吸ったけれど、何も言わなかった。俺へ向けていた足をわずかに引くのが見えた。その動きに気づいても、今は、何を言おうとしたのか尋ねる余裕がなかった。


 その横で、翔太も立ち止まっていた。

 さっき戸田へ言い返した時とは、顔が違っていた。唇が開いているのに、声が出てこない。

 俺が目を向けると、喉だけが動いた。


 いつもなら、どうした、と聞くところだった。

 俺は何も聞かず、戸田へ顔を戻した。


「俺が迷惑がってるって話も、富田の問題なのかよ」


 戸田の向こうで、奈々が顔を上げた。


「俺が、富田に頼られて迷惑だって。そう言ったことになってたんだろ」


 奈々は、俺を見ていた。

 机の端へ置いていた手が、ゆっくり離れた。


「俺、そんなこと1度も言ってない」


 言ううちに、喉が熱くなった。土曜日から何度も口の中で繰り返し、優子に会えたら最初に伝えようと思っていた言葉だった。あの家の門でインターホンを押した時も、それを言えるように用意して待っていた。


 まだ、本人には言えていない。


「翔太と宿題の話してただけだろ。何で富田の話にしたんだよ」

「それは……」


 奈々の声が、小さく聞こえた。

 俺は待った。

 その続きを、聞こうとした。


 戸田が、横から言った。


「話、違ってたのかもしれないじゃん」

「お前にも聞いてるんだよ」


 戸田が俺を見た。


「俺に確かめるなって、富田に言っただろ」


 その時の言葉を聞かされた時、どうしてそんなことまで言うのかと思った。

 俺が嫌がっていると言った。

 その俺に尋ねたら、また嫌がられると言った。


 優子は、何を聞けばよかったのだろう。

 俺の顔を見て、どこまで信じればよかったのだろう。


「本人に聞いたら、言ってないって言わせるだけだって。何でそんなこと言ったんだよ」

「……そんな前のこと、いちいち覚えてない」

「俺は、さっきまで知らなかったんだぞ」


 声が上ずり、言い直した。


「土曜に聞くまで。自分が何言ったことになってんのかも、知らなかったんだよ」


 俺の隣に座った優子は、小学校の時の席を覚えていて、本も貸してくれた。少し明るくなった声が、途中でまた小さくなってしまうことがあった。奈々から、優子が会話を嫌がっていると聞かされた時には、その返事まで、俺が邪魔なのだという意味に受け取ってしまった。


 あの時に聞かされた言葉も、本人から確かめたわけではない。分かっているのは、俺の返事を別の話に変えて優子へ伝えたのも、俺へ優子の気持ちを伝えたのも、同じ奈々だったということだ。


 あの時、俺に何か言われると思っていたのだろうか。

 そうだったかどうかさえ、まだ聞けていない。


「俺の名前、勝手に使うなよ!」


 奈々は俯いた。

 戸田は、その横顔を見ていた。


「富田が困ってる時に、俺には頼めないようなこと、勝手に言うなよ!」


「……ごめん」


 奈々の声だった。

 戸田が何か言おうとした口を閉じ、そちらを向いた。


「宿題の話だったの、分かってた。富田さんのことじゃないって」


 奈々は机の縁を握っていた。俺を見ようと顔を上げたけれど、目が合うと唇を噛んだ。それでも、俯き切る前に、また口を開いた。


「勝手に、ああいうふうに言った。ごめん。富田さんにも、悪いことしたと思ってる」

「……は?」


 戸田が、奈々を見た。


「何それ。今さら、自分だけ助かろうと思ってんの?」


 奈々の肩が小さく動いた。

 富永も、俺から奈々へ向き直った。


「奈々だって、一緒にやってたじゃん」

「……うん。私も、やった」


 否定はしなかった。

 机を握る指へ目を落とし、奈々は言葉を続けた。


「でも、あの日、トイレに戻ってから、美咲が髪まで切って……。富田さんが嫌がってるのに、誰もやめなくて」


 そこで、声が詰まった。

 奈々は口元を押さえ、1度、ゆっくり息を吐いた。


「見てたら、気持ち悪くなった。もう、やりすぎだって思った。でも、止めなかった。私だけ、先に帰った」

「帰ったんだから、いいじゃん」


 富永が言った。

 奈々は首を横に振った。


「帰ってからも、富田さんの声、思い出すの。髪が落ちたところも。自分もあそこにいたのに、置いて帰ったって……」


 目の縁に溜まった涙を、奈々は指で拭った。拭いたあとも、顔を上げられずにいた。


「気持ち悪くなったからって、私がやったこと、なくならないのに」


 杉浦が、鞄の紐を引いた。


「今まで、そんなこと言わなかったじゃん」

「……言わなかった。悪いって思ってても、何も」

「じゃあ何で今、言うの。鵜飼が怒ってるからでしょ」


 戸田の声が重なった。

 奈々はすぐには答えなかった。机を掴んでいた手を離し、制服の裾を握り直した。


「今、聞かれなかったら、まだ言えてなかったかもしれない。でも、もう知らないって言いたくない。私も、悪いことしたから」


 最後の言葉は、俺にも聞こえた。

 奈々は顔を上げ、頭を下げた。


「ごめんなさい」


 戸田が、短く息を吐いた。

 富永は奈々から目を逸らし、杉浦も何も言わなくなった。


 俺は、すぐには返せなかった。

 奈々が悪かったと言っても、優子に伝わった言葉は戻らない。やめてほしかった時には、誰もやめなかった。それでも、今まで知らないとしか返ってこなかった場所で、初めて、自分がしたことを認める声を聞いた。


「……それ、富田にも、ちゃんと話してよ」


 奈々が、顔を上げた。


「俺が言ってないことも。奈々が、何したのかも」


 奈々は頷いた。涙を拭いながら、もう1度、ごめん、と言った。

 俺は頷き返せなかった。優子の代わりに、いいよとは言えなかった。


 教科書のある机へ、春樹が手を伸ばした。

 俺が離れたところで、紙の角を折り直していた。

 それを見てから、俺は両手を下ろした。


 戸田と俺の間には、もう教科書がなかった。


「じゃあ、本人に違うって言えばいいじゃん」


 戸田が言った。


 俺は、黙ってその顔を見た。


「そんなに嫌なら、そうすれば。私たちに怒ってもしょうがなくない?」

「会えなかったんだよ!」


 自分の声が、詰まった。


「学校にも来てないんだよ。ずっと!」


 あの家の門が浮かんだ。インターホンの向こうから返事がなくて、何度も押したら困らせると思い、持っていった袋を下げたまま帰った。あの日も、優子とは話せなかった。


 その時、俺が何を考えていたか、戸田は知らない。

 知らないまま、本人に言えば済むと口にした。


「来たら言えばいいじゃん」


 戸田が言った。


「いつまでそんな顔してんの。マジになって、ダサいよ」


 富永が、短く息を漏らした。

 笑ったのだと分かった。


「もしかして、富田のこと好きなの?」


 戸田が、俺の顔を覗き込むようにした。


「だから、そんな怒ってるんだ」

「今、何の話してると思ってんだよ」

「違うの?」

「富田にしたこと、聞いてるんだろ!」


 気づくと、自分の手を強く握りしめていた。腹が立っているのに、何を言っても、戸田は優子にしたことへ話を戻そうとしない。指を開こうとしても、すぐには力が抜けなかった。


「好きじゃなかったら、あんなことされても、どうでもいいのかよ!」


 戸田は少し体を引いた。

 けれど、口元にはまだ、笑うような形が残っていた。


「だから、何でも大げさなんだって。あの子も、鵜飼も」


 戸田が言った。


「私たちだって、ずっと我慢してたんだけど。あの子、何言っても直さないし」

「何を」

「感じ悪いところ。ちゃんと話せって言ってんのに、いつも下向いてさ」


 月曜日、教科書を隠していた優子の手が浮かんだ。何があったのか聞くと、俺の顔を見るより先に、誰かが聞いていないか周りを確かめていた。


 そんな顔をさせていた相手が、下を向くのを怒っていた。


「痛いって言う時だけ、ちゃんと声出るんだよね」


 富永が言った。

 戸田の方を向いて、笑った。


 今日話してくれた女子は、途中で何度も口を閉じ、優子が助けを求めた時のことを言って泣きそうになった。あの子がやっとのことで話した場面を、富永は笑い話にしている。痛がる声を聞いていたことまで、自分から口にした。


 耳の奥が、熱くなった。


「……それ、聞こえてたんだな」

「そりゃ、近くにいたし」


 戸田が答えた。


「こっちだって、ちゃんとできるように教えてあげてたんだから」

「教える?」

「そう。ちょっと教育してあげただけじゃん」


 戸田の口が動いた。


「それで休まれても、知らないって」


 後ろで、春樹が俺の名前を呼びかけた。

 最初の1音だけ聞こえて、途切れた。

 視界の端に、机の縁を掴んだ手があった。そこから、動かなかった。


 左手が、出ていた。

 戸田の制服の襟元を掴んだ。


「何が、教育だよ」


 布が、手の中で固く寄った。

 戸田が、目を見開いた。


「ちょっと、何――」


 その声を最後まで聞かず、襟元を掴んだまま踏み出した。戸田が下がった先は、廊下側の、前の入口へ続く通路だった。


 戸田の上履きが床を擦り、近くの椅子に俺の脚が当たった。椅子が横へずれる音に、後ろで翔太が息を詰める音が重なった。すぐそばにいるはずなのに、俺の腕へ伸びてくる手はなかった。


「離して!」


 戸田の手が、俺の左腕へかかった。

 強く引かれた。

 俺は離さなかった。


「何が教えてやっただよ!」


 前の入口まで押していったところで、戸田の背中が引き戸へ当たった。開けたまま片側へ寄せられていた戸が大きく鳴り、上の方が斜めに傾いた。


 一瞬、何が動いたのか分からなかった。

 戸田の後ろから支えがなくなり、引き戸が廊下側へ倒れた。


 重い音がした。

 続けて、ガラスの割れる音が重なった。


 入口の外にいた生徒が、悲鳴を上げた。

 戸の枠が床へぶつかって跳ね、細かいものが廊下へ散った。


「危ない!」


 誰かが叫んだ。

 戸田の体が後ろへ揺れたので、俺は襟元を掴んでいた左腕を引いた。

 戸田の足が、入口の手前で踏み直された。


 襟元は、まだ手の中にあった。


     * * *


 廊下から、足音が近づいてきた。

 隣の教室の方で、何があったのかと声がした。


 俺は、戸田を見ていた。

 目の前の顔は、さっきまでと違っていた。

 けれど、口から出たのは、謝る言葉ではなかった。


「何してんの、馬鹿じゃないの!」


 戸田の爪が俺の左腕へ食い込んだ。長袖の白いYシャツは、掴み合ううちに左袖が肘の近くまでずり上がっていた。そこから出た腕の内側へ、爪を立てたまま引っ掻かれた。皮膚の薄いところがひりつき、赤い線に血が滲んだ。掴み直されたところにも爪の跡が残った。

 痛い、と思った。それでも、襟元を掴んだ左手を動かそうとはしなかった。


「離せって言ってんでしょ!」


 戸田が、両手で俺の腕を剥がそうとした。

 息が顔に当たった。


 離して。

 やめて。

 そう言う声が聞こえた時、お前らは、笑っていた。


「聞こえてたんだろ」


 俺は言った。


「富田が、やめてって言ってたの」

「そんなの、関係ないじゃん!」

「関係あるだろ!」


 戸田の肩が、びくっと動いた。

 後ろで、真弓の声が小さく聞こえた。


「かつ、や……」


 そこで止まった。

 綾香は、口元へ両手を当てていた。

 翔太も春樹も近くにいる。けれど、誰の足も、俺の方へは動いてこなかった。


 入口を覗いた男子が、割れたガラスを見て何か言った。

 何組かで見たことのある顔が、廊下の向こうから続いていた。


 誰が来たのか、確かめなかった。


「離してよ! あんた、これ、どうすんの!」


 戸田が倒れた戸の方を見ようとした。

 制服が引かれ、俺の手の中で縫い目が小さく鳴った。


「富田にも、同じこと聞いたのかよ」

「何であの子の話ばっかしてんの!」


 声が、耳に刺さった。

 この教室で、いなくなった優子の話をすることまで、嫌がられた。


「そんなに富田が大事なら、あの子のところ行けばいいじゃん! あんたも一緒に休めば?」


 戸田が、笑おうとした。

 口元だけが動いた。


「お似合いなんじゃないの。2人で休めばいいじゃん」


 戸田は、俺の左手へ目を落とした。


「離せって言ってるでしょ!」


 右手が、跳ね上がった。

 頬で乾いた音がして、顔が横へ向いた。遅れて熱い痛みが広がった。何をされたのかは、戻っていく戸田の手を見て分かった。


 平手で、叩かれた。


「女相手に、何マジになってんの」


 戸田はまだ、顔を守ろうとはしていなかった。叩いた手を俺の左腕へ戻し、掴んでいる指を剥がそうとした。顔を戻した俺を見ても、さっきと同じように口元を曲げた。


 その次の言葉を待たず、右の拳で殴った。


 拳が戸田の顔へ当たった。

 腕に重い感触が返ってきた。翔太と喧嘩した時にも、こんな力で殴ったことはなかった。今は、当たる直前に力を緩めようともしていなかった。


 戸田の顔が横を向いた。

 左の瞼の端が切れ、血が頬へ流れ始めた。


「……え……」


 俺を見ようとした顔が、途中で止まった。

 口が少し開いたまま、次の言葉が出てこない。左目の周りが腫れ始め、その目を大きく開こうとしても、うまく開けられないようだった。


 俺の腕へかかっていた手から、力が抜けた。

 膝が折れ、制服を掴んでいる左手に、急に重さがかかった。


 さっきまで重なっていた声が、全部途切れた。


 入口から覗き込んでいた男子が、口を開けたまま動かなくなっていた。その隣の女子は壁に背中をつけ、俺と目が合いそうになると顔を引いた。すぐ後ろにいる翔太たちの声も、聞こえなかった。


「……痛い……」


 戸田の顎が細かく震えていた。

 歯の触れ合う音がして、頬へ上げかけた手も止まらなかった。踏ん張ろうとした足がずれ、また腰が落ちた。


 俺は、その声を聞いた。

 優子が同じ言葉を口にした時、こいつは笑っていた。


「富田も、そう言っただろ!」


 左手を離さず、戸田を引き寄せた。

 床へ座り込みかけていた体が引き戻され、上履きが擦れた。戸田は息を詰め、震える手を顔の前へ上げた。


 その向こうへ、もう1度、拳を出した。


 顔を庇おうとした手が押し戻され、爪が頬を擦った。引き寄せた戸田の口元へ、拳が当たった。

 右手に歯の硬い感触が返り、すぐに鋭い痛みに変わった。それでも、左手は離さなかった。2発目も、力を加減してはいなかった。


 戸田の唇に血が滲んだ。

 口を開こうとすると、内側からも赤いものが溢れ、顎へ伝った。頬には、さっき自分の爪が擦ったところに細い傷ができていた。


 俺の拳からも、床へ血が落ちた。

 赤い滴を見ても、その時は、自分の手を確かめようとは思わなかった。


「ごめ……なさ……」


 戸田の声が、途切れた。

 息を吸おうとして喉が鳴り、もう1度、口が動いた。


「ごめんなさい……」


 さっきまでの笑うような顔は、どこにもなかった。

 目が合うと肩が跳ね、顔の前へ上げた両手が震えた。足に力が入らないのか、襟元を掴んでいなければ、そのまま床へ崩れそうだった。


「痛いって、やめてって、何回も言ったんだろ!」


 喉が痛かった。

 自分の声が、廊下の奥へ響いた。


「お前ら、それ聞いて、笑ってただろ!」


 戸田の目から、涙が出た。

 謝る声が聞こえても、俺は怒鳴るのをやめられなかった。


「富田は、学校に来られなくなってんだぞ! 殴られたところが痛いだけじゃないんだよ! 教科書開くのも、人に話すのも、怖がるようなことして!」


 息を吸った。

 吸っても、胸の中が苦しかった。


「痛いって言うことまで、笑われて! 助けてって言っても、誰も来なくて! それでも、お前ら、やめなかったんだろ!」


 黙り込んだ廊下へ、俺の声だけが響いた。

 誰も言葉を挟まなかった。

 戸田の息が引っかかる音だけが、すぐ近くで聞こえた。


「何が、あれくらいだよ!」


 戸田が顔を伏せようとした。

 俺は、まだ左手を離さなかった。


「自分が痛い時だけ、分かってもらえると思うなよ!」


 血のついた右手を握り直した。

 3発目を出そうと、腕を上げた。


 その腕を、横から掴まれた。


「勝也!」


 強く引かれ、肩が後ろへ動いた。

 右手が、前へ出なかった。


「やめろ!」


 顔を向けようとして、すぐには向けなかった。

 俺の腕に、両手がかかっていた。


「勝也、自分や! 荒川や!」


 のりちゃんが、すぐ横にいた。息を切らし、俺の腕を両手で掴んでいた。部活へ行ったはずの顔が戻ってきたことに、ようやく気づいた。


「もう、殴るな!」


     * * *


 右腕を引く力が、少し変わった。

 のりちゃんが、俺の顔を見ようとしていた。


「勝也。聞こえとるか」


 何か言おうとしても、喉が詰まって声にならなかった。すぐ目の前には戸田がいて、さっきまで言っていたことを思い出すと、まだ腕を下ろしたくなかった。


「手、離せ」


 のりちゃんが言った。


「そっちも。服、掴んでる方」


 左手へ目を落とすと、まだ戸田の襟元を掴んでいた。指の下で白い布に何本も皺が寄り、握り込まれた形のままになっていた。


 戸田が息を吸い、しゃくり上げた。さっきまでの、俺へ言い返すために吸う息とは違っていた。そこでようやく、泣いている音がはっきり聞こえた。


「勝也」


 のりちゃんは、俺を呼んだ。


「これ以上は、あかん。自分が止める」


 のりちゃんの声を聞いた。

 今日の昼、話を聞いてくれた時の顔が浮かんだ。

 助けてと言っていたのかと、尋ねた声も。


 俺と同じ話を聞いて、優子が何をされたのか知っている。そののりちゃんが、俺を止めていた。分かっていないから邪魔をしているのではない。そのことが、ようやく頭へ入ってきた。


 のりちゃんの顔を見て、息を吐いた。

 上げたままだった右腕から、少しずつ力が抜けた。


「悪い……」


 すぐ隣にいるのりちゃんへ、静かに言った。

 のりちゃんは俺の顔を確かめ、短く頷いた。俺が拳を下ろすのに合わせて、その腕を掴んでいた手も離れた。


 戸田へ目を戻した。

 肩が震えていた。さっきから同じ言葉を繰り返している口元には血がつき、膝は曲がったままで、襟元を掴む左手に体の重さがかかっていた。


 その足の後ろに、割れたガラスがあった。


 このまま手を離したら、そこへ座り込んでしまう。

 指を開きかけて、止めた。


 足元を確かめ、戸田の横へ身を寄せた。


 戸田の喉から、引きつった短い声が漏れた。俺の右手へ目を走らせ、顔を守るように腕を上げた。肩がすくみ、また何かされると思ったのか、俺から離れようと体が傾いた。


「ごめんなさい……」


 襟元を掴む指を緩め、戸田の腕の下へ左肩を入れた。膝が折れかけたところで体の重さを受け止め、服から離した左手を背中へ添えた。


 左腕の傷がひりついた。

 右手は下げたまま、戸田が足を踏み直すのを待った。


「こっちに、座ろう」


 戸田が俺を見上げた。すぐに目を逸らしたのに、また顔を上げ、俺の顔と、肩へ預けた自分の腕を交互に見た。

 口が少し開き、何か言いかけたまま止まる。俺の服を掴みかけた指も、すぐに緩んだ。支えにしていいのか迷うように、その手が肩の上で浮いた。


 真弓が、机の横から椅子を引いた。

 富永も近づき、戸田の反対側の腕へ手を添えた。


 椅子までの床にガラスがないことを確かめ、ゆっくり体を向けた。

 戸田の指が、迷うように俺の肩の布を掴んだ。さっきまで離れようとしていた体が、少しずつこちらへ傾く。腕はまだ震えていたが、俺の肩へ重さを預け、何も言わずに足を出した。

 ときどき俺の顔を見上げながらも、戸田は肩につかまったまま、おとなしくついてきた。俺はその歩幅に合わせて進み、椅子の前でゆっくり膝を曲げた。


 戸田の体が座面へ収まってから、背中の手を離した。

 戸田はすぐに富永の方へ身を寄せた。両手を顔の前へ上げ、小さく、ごめんなさい、と繰り返していた。


 俺は肩を抜き、1歩下がった。

 その場で、戸田へ頭を下げた。


「服、破ってごめん」


 声が、掠れた。

 もう1度、息を吸った。


「本気で、2回も殴って、ごめん」


 深く頭を下げた。

 自分の上履きが見えた。


 戸田からは、返事がなかった。

 泣く声だけが聞こえた。


 頭を上げると、戸田が俺を見ていた。目が合うと身をすくめたが、今度はすぐには目を逸らさなかった。顔の前に浮いた手を、そのまま下ろせずにいた。

 俺も、下ろしたままの左手の指がわずかに震えていた。


 のりちゃんが、俺と戸田の間へ半歩出た。

 何も言わず、俺の顔を確かめていた。


 廊下へ顔を向けると、茶道部の部長が入口の前に立ち、出てきた生徒を手で止めていた。


 その隣に、山崎先輩がいた。


「鵜飼くん……?」


 目が合った。

 先輩は俺を見て、それから俺の右手と、戸田の方を見た。

 何か聞こうとしていた口を、1度閉じた。


 いつ来たのかは分からなかった。廊下にはさっきより人が増え、1年生に交じって、見覚えのある2年生や普段この階では会わない先輩の顔も見えた。そんなに集まっていることにも、止められるまで気づいていなかった。


 割れた戸が、その人たちと俺の間に倒れていた。


 入口にいた生徒が動きかけ、足元を見て止まった。

 ガラスは戸の枠の中だけでなく、その外にも散っていた。


 俺が壊した。


 俺が戸田を押して、戸へぶつけた。それで戸が外れたのだ。戸田の足元へ向けていた目が、少しずつ周りへ動いた。


 倒れた戸。

 横へずれた椅子。

 少し離れた机で、教科書を包み直している春樹。


 綾香は、そのそばに立っていた。

 両手を胸の前で重ね、俺を見ていた。

 目が合うと、口元が小さく動いた。

 声は、聞こえなかった。


「勝也。手、血が……」


 翔太が、俺の右手を見ていた。

 目を落とすと、拳の切れ目から血が出ていた。2発目が当たった時、歯に触れたところだった。指を動かすと傷が開き、指先を伝った血が床へ落ちた。もう1滴落ちるのを見て、近くの女子が小さく息を呑んだ。


「それ、お前の血かよ」


 翔太の声が、掠れた。

 左腕にも、赤い線が何本か伸びていた。ずり上がった袖を戻すと、爪を立てられた跡から滲んだ血が、白い生地に移った。頬には、平手で叩かれた熱さが残っていた。


「……あとでいい」

「よくねえよ。落ちてるだろ」


 俺は左手でYシャツの右の裾を引き出し、拳へ当てた。白い生地に赤い染みが広がっていく。生地越しに傷を押さえるうちに、ようやく痛みがはっきりしてきた。

 翔太は何か言いかけて、口を閉じた。俺の手を見ていた目が、血の染みた裾へ落ちた。


 翔太は俺の顔を見かけて、自分の腕へ目を落とした。

 袖から出たところを、もう片方の手で擦った。


「マジで、怖かった。声も出なかった」


 何と言えばいいのか分からなかった。翔太はふざけているのではなく、俺のことが怖かったと言っている。何か返さなければと思ったのに、目の前で自分の腕を擦る姿を見ているだけになってしまった。翔太も、その先は言わなかった。


 戸田の方を見た。

 椅子へ座ったまま、顔を押さえている。左の瞼は大きく腫れ、切れたところから頬へ血の筋が残っていた。爪が擦った頬にも傷があり、腫れた唇と口の中から滲む血を、富永に渡されたハンカチで押さえていた。

 その布を持つ手が、まだ震えていた。


 制服の襟につながる縫い目が、裂けていた。

 俺が手を離したところで、糸の端が出ていた。


 その戸田と、目が合った。

 戸田が肩をすくめ、椅子の背へ身を押しつけた。


 戸田はもう笑っていなかった。俺が顔を向けただけで息を詰めるのを見て、自分がこの顔に拳を当てたのだと、改めて分かった。


 殴ったのは俺だ。平手で叩かれた。でも、手が滑ったわけでも、たまたま当たったわけでもない。1発目で痛いと言った相手を引き寄せ、俺はもう1度、本気で殴った。翔太と喧嘩した時にさえ使わなかった力を、2回とも緩めなかった。


 そのことを、なかったことにするつもりはなかった。

 それでも、殴る必要はなかったとは、まだ思えなかった。

 何を言っても笑われて、やめてと言う側ばかりが我慢して、それで終わるのを、もう見ていたくなかった。


 戸田は、富永の方へ少し体を向けていた。


「……富田にしたことは、ちゃんと話してくれよ」


 のりちゃんの手が、俺の右腕へ少し強く触れた。

 俺は動かなかった。


「知らないじゃ、済まないだろ」


 大きな声には、ならなかった。

 それでも、近くにいた人たちは黙っていた。


 戸田はハンカチを口元へ押さえ直した。

 奈々は、机の横で俯いていた。

 杉浦は俺と戸田を交互に見て、何も言わなかった。


     * * *


「何をやってる!」


 廊下から先生の声がすると、入口に集まっていた人の間が開いた。俺も、そちらへ顔を向けた。


 担任が、倒れた戸の手前で足を止めた。

 割れたガラスを見て、教室の中へ顔を向ける。


「誰がやったんだ、これは!」


 答えようとした。

 その前に、富永が声を出した。


「鵜飼が、美咲を殴って……」


 先生の目が、戸田へ向いた。

 泣いている顔と、口元へ当てたハンカチを見た。

 それから、俺へ向き直った。


「鵜飼!」

「……はい」

「お前か!」

「俺です」


 のりちゃんが、俺の腕から手を離した。

 けれど、俺の横には立ったままだった。


「女子相手に、何を考えてるんだ!」


 先生の声が大きくなった。

 俺は、先生を見ていた。


「戸田も、勝也の顔を叩いたんです」


 翔太が言った。

 先生はそちらを見たが、何があったのか聞き返さなかった。


「だから殴っていいと言っているのか。鳥居は黙っていなさい」


 翔太の口が閉じた。先生は、また俺へ向き直った。


「戸も、お前が壊したのか!」

「はい。ドア、壊してしまって、すみません」


 頭を下げた。

 上げると、先生はまだ俺を見ていた。


「謝って済むと思ってるのか。こんなに壊して!」


 入口を通れないので、先生は別の入口へ回ろうとした。

 廊下に集まった生徒へ、どきなさい、と怒鳴る声がした。


 俺は戸田の方を見た。

 何か言うだろうかと思った。

 水曜日のことを、先生へ話すだろうかと。


 戸田は顔を伏せたままだった。

 富永がその肩へ手を添えている。


「勝也」


 春樹が、すぐ後ろから声をかけた。

 振り返ると、教科書はもう手元になかった。


「包んで、袋に戻したから」


 小さい声だった。

 俺は頷いた。


 ちゃんと持って帰らなければと思った。優子の物だから、本人へ返すつもりで持ってきたのだ。戸田へ見せたまま、自分がここへ置いていくわけにはいかなかった。


 教室の後ろから、先生が入ってきた。


「鵜飼、こっちへ来い」


 呼ばれて、俺はそちらを向いた。

 真弓が1歩、前へ出た。


「先生。その前に、富田さんのことで――」

「加藤は下がっていなさい」

「でも、今、その話をしてて」

「今は鵜飼に聞いてるんだ!」


 真弓の肩が動いた。

 俺は先生の方へ歩いた。


「富田のことで、戸田に聞いてました」


 自分から言った。

 先生は、俺の話の途中で手を動かした。


「それが、殴る理由になるのか!」

「何でこんなことしたんだって、聞いてたんです」

「その結果がこれか。物は壊す、相手には怪我をさせる。どんなつもりだ!」


 月曜日の廊下が浮かんだ。教科書に書かれた字のことを話し、優子本人に聞いてほしいと、この先生へ頼んだ時のことだった。


 あの時、先生に何とかしてほしかった。

 どう言えば、聞いてもらえるのか考えながら話した。


 今、先生は、俺へ声を張り上げていた。

 優子が何をされたのかとは、1度も聞かなかった。


「先生。自分も、前に相談したんですけど」


 のりちゃんが言った。


「富田のこと。鵜飼も相談してたって――」

「荒川もだ。関係ない者は下がりなさい」

「関係なくないです。自分も見てたことがあって」

「今ここで言い合いをするつもりはない!」


 のりちゃんの口が閉じた。

 先生は、俺へ向き直った。


「鵜飼、生徒指導室へ来なさい」


 俺は、すぐには返事をしなかった。

 先生の顔を見た。

 月曜日と同じ人だった。


 あの時より、声が大きかった。

 それだけだった。


「返事は!」

「……はい」


 答えると、翔太が俺を見た。

 何か言おうとして、俺と先生の間へ目を動かした。


 俺は、首を横に振った。


 先生は、俺が戸田に何を聞いたのかも、優子の教科書のことも聞こうとしなかった。この上、翔太まで怒鳴られたところで、話が進むとは思えなかった。


「荷物を持って、早くしなさい」


 言われて、自分の席へ戻った。


 窓側の最後列にある自分の席まで歩いた。隣の優子の机には何も載っておらず、椅子も朝から同じ向きのままだった。


 帰りの会が終わる前と、そこだけ何も変わっていなかった。


     * * *


 リュックサックへ手を伸ばしかけ、動きを止めた。拳へ当てていたYシャツの裾には、血が広く染みていた。少し離すだけでも傷が痛む。左腕も、肩を動かすと引っ掻かれたところがひりついた。


 春樹が、持ち手を起こしてくれた。


「背負える?」

「うん」


 傷へ当てていた裾をいったん離し、右手をぶつけないように、春樹に持ってもらった肩紐へ腕を通した。春樹はリュックサックを支え、最後に口が閉まっているか確かめてから手を離した。


 中には、みんなで書いたノートが入っている。土曜日も日曜日も、昨日もテーブルへ広げていた物だった。誰に聞いたのか、いつのことなのかを確かめ、聞き直して書き直したところもある。今日の最後の話は、昼休みのあとに書き足したばかりだった。


 まだ、先生へ渡していなかった。

 持っていることも、話していなかった。


 春樹が、そのリュックサックを1度見た。


「こっちにも、書いたのあるから」


 俺にだけ聞こえる声で言った。

 何のことか、すぐ分かった。


「……うん」

「あとで連絡する」

「ありがとう」


 礼を言うと、春樹は少し眉を寄せた。

 いつもより、返事まで間があった。


「さっき、声、かけたんだけど」

「うん」

「……止めなきゃって、思ってた」


 春樹が自分の手へ目を落とした。さっき、俺に近づこうとして止まり、机の縁を掴んでいた手だった。


「でも、動けなかった。お前が、戸田を掴んだ時も。殴った時も」


 俺は、春樹の顔を見た。

 声の終わりが少し震えていて、続く言葉を待つ間も、春樹は俺から目を逸らさなかった。


「怖くて。止めなきゃいけないのに、足が動かなかった」


 俺は首を振った。


「春樹が、謝ることじゃないよ」


 そこまでしか言えなかった。

 もう大丈夫だと答えようとして、3度目に振り上げた拳を思い出した。

 のりちゃんに止められるまで、自分で下ろそうとはしていなかった。


 春樹が伸ばしかけた手も、声を出せなくなっていた翔太の顔も、今になってはっきり思い出せた。2人とも、怒っている俺へいつものようには近づけなかった。

 あれは、俺自身を怖がっていた顔だった。


「鵜飼、まだか!」


 先生に呼ばれた。

 右手を血の染みた裾の内側へ寄せ、左手で手提げを取った。


 紙で包んだ教科書が、上に戻っていた。

 その下のノートは、別の紙に包まれている。

 春樹は向きも崩さずに戻してくれていた。


 持ち上げると、左腕の傷がひりついた。教材を傾けないよう持ち手を握り直し、腕をあまり動かさずに下げた。


 綾香が通路を空けてくれた。

 その時、小さな声がした。


「……大丈夫?」


 顔を向けた。

 綾香の目が赤かった。


 大丈夫と、すぐに言えなかった。

 何について聞かれているのか、分からなかった。

 腕なのか、先生についていくことなのか、それとも今の俺のことなのか。


「行ってくる」


 そう答えた。

 綾香は、唇を結んで頷いた。


 真弓が、教室の後ろの入口に立っていた。

 廊下にいる人へ、ここを空けて、と言っている。

 俺を見ると、横へ寄った。


「あとで、ちゃんと話すから」


 真弓が言った。


「私たちが聞いたことも」


 俺は頷いた。

 何か返そうとすると、喉が詰まった。

 殴った時よりも、今の方が、息がうまくできなかった。


 教室から出る時、のりちゃんが先生の方を見ていた。

 先生は、廊下にいる生徒へ帰るように言っていた。


 のりちゃんが俺へ顔を戻した。


「主任の先生、呼んでくる」


 小さいけれど、はっきりした声だった。


「自分から話すわ」


 俺は、のりちゃんを見た。もう先生へ言い返そうとはせず、職員室の方へ体を向けている。目が合うと、俺の腕を止めた時のように、はっきり頷いてくれた。


「……頼む」


 声が出た。

 のりちゃんは1度だけ頷いて、廊下へ出た。


 先輩たちの間を抜け、職員室のある方へ向かった。

 その背中が見えなくなる前に、先生が俺を呼んだ。


     * * *


 廊下へ出ると、教室の中から見た時より、人が多かった。

 壁際へ寄った生徒が、俺を見ていた。


 前の入口にはまだ部長が立ち、近づこうとする生徒を止めていた。山崎先輩は、廊下の奥から来た別の先生に、何か説明していた。


「……怪我をしている子が、中にいます」


 そこだけ聞こえた。

 その先生が足を速め、教室へ向かった。


 山崎先輩が、こちらを振り返った。

 俺の左袖から、血の染みたYシャツの裾へ目を動かした。


「鵜飼くんも、手……」

「大丈夫です」


 今度は、反射のように返事が出た。

 けれど、先輩は頷かなかった。


「大丈夫じゃないよ。そんなに血が出てる」


 俺は自分のYシャツへ目を落とした。拳を当てていた裾は、折り重ねたところまで赤くなっていた。言い直す言葉が出ないまま、右手を体のそばへ寄せ直した。

 先輩は先生へ顔を向けた。


「この子も怪我をしています。先に手当てをしてもらえませんか」

「分かっている。今から話を聞くから、君たちも部活へ戻りなさい」


 先生が答えた。

 足は止めなかった。


 先輩の口が閉じた。

 俺は小さく頭を下げ、先生について歩いた。


 少し進んだところで、後ろから呼ばれた。


「鵜飼くん」


 振り返った。

 山崎先輩は、もう、俺の腕を見ていなかった。


「私が聞いた話も、先生に伝えるね」


 先輩の顔を見た。

 金曜日、話を聞く相手を紹介してくれた時と、同じように、俺の返事を待っていた。


「……お願いします」


 答えると、先輩は頷いた。

 それから部長の方へ戻り、何か声をかけた。

 続きは、聞こえなかった。


 俺は前を向いた。

 先生は、少し先で待っていた。


「早くしなさい」

「はい」


 その横へ追いついた。

 隣の教室の入口にも、生徒が立っていた。

 見たことのある男子と目が合うと、向こうから目を逸らされた。


 さっきの音は、そこにも聞こえたのだろう。

 俺の声も。


 思い出そうとしても、出来事は順番どおりには戻ってこなかった。戸田の顔が横を向いたところと、その前に誰かが俺の名前を呼んだことは、はっきり覚えている。けれど、のりちゃんに止められるまで周りに誰がいたのかは、よく分からなかった。


 俺は、1度、手提げを持ち直した。


 戸田は、痛いと言った。

 言ったあとで、泣いた。

 今、先生がそこに行っている。


 優子のところには、誰も来なかった。


 そう考えたら、また、胸の奥が熱くなった。

 昼に話してくれた女子が、俯いていた顔を思い出した。

 自分も怖くて、逃げたと言った。


 俺は、それを聞くまで、知らなかった。

 あの日、優子が帰ったと思っていた。


 足を止めそうになって、先生の背中を見た。その背中は立ち止まることなく進んでいく。言いたいことをまた飲み込み、俺も足を出した。


「あとで、きちんと説明してもらうからな」


 先生が言った。


「はい」

「人に怪我をさせて、学校の物まで壊して。分かっているのか」

「……分かってます」


 ドアを壊し、戸田に怪我をさせたのは俺だった。そこを聞かれたら、さっき教室で答えたのと同じように答えるつもりだった。


 でも、それだけで今日の話を終わらせられたくなかった。

 優子の教科書には、俺が殴るより前から、あの字があった。

 優子が休み始めたのも、今日のことではない。


 何日も前に、先生へ伝えた。

 俺より先に、のりちゃんも伝えていた。


 手提げが膝に当たり、俺は少し腕を離した。包んだ本が中で傾かないように、持つ位置を変えてから歩き直した。


 これを、優子へ返したかった。

 使えなくなったところがあっても、見つかった物は、本人のところへ戻したかった。

 それから、俺はそんなことを言っていないと、直接伝えたかった。


 学校を出たら、もう1度、あの門まで行く。


 そのつもりで持ってきた手提げを、下げたまま歩いた。


 先生が、1つの部屋の前で止まった。

 生徒指導室の戸が開けられた。


「入りなさい」


 言われた部屋へ入ると、教室とは違う机と、向かい合うように置かれた椅子があった。窓から差し込む光が、机の半分ほどを照らしていた。


 先生が、俺の後ろで戸を閉めた。

 廊下の音が、小さくなった。


「そこに座れ」


 俺はリュックサックを下ろした。

 手提げは倒れないように、椅子の足元へ置いた。

 包んだ紙の端が、少しだけ見えていた。


 椅子を引いて、座った。

 左腕の袖口が、赤く滲んでいる。

 右手を膝の上へ置き、血のついたYシャツの裾を引き寄せ、左手で拳へ当てた。指が少し震えていて、力を抜くと拳が脈打つように痛んだ。


 先生が、向かいの椅子へ手をかけた。


 俺は顔を上げた。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

美咲を本気で2度殴り、3度目を宣仁に止められると、静かに「悪い……」と返す。怯える美咲に肩を貸し、椅子へ座らせた直後に謝罪したあと、担任と生徒指導室へ向かう。


・戸田美咲

優子の被害を軽く扱い、襟元を掴む勝也へ平手打ちをする。殴り返されて怯え、急に優しく支える勝也に戸惑いながらも、その肩へ身を預けておとなしく椅子へ向かう。


・富永莉奈

美咲のそばで問いかけに言い返し、優子が痛がったことも笑って話す。美咲が殴られたあとはそばへ寄り、担任へ勝也に殴られたと伝える。


・杉浦玲奈

宣仁への呼び出しについて勝也に問われ、聞き間違いだったという説明を繰り返す。奈々が罪悪感を打ち明けると、今まで言わなかったことを責める。


・大島奈々

勝也の言葉を偽って伝えたことを認め、トイレでの加害に罪悪感を抱きながら、止めずに先に帰ったことを話す。胸倉を掴む騒動の前に謝罪し、自分だけ助かろうとしているのかと美咲たちに責められる。


・荒川宣仁

教室へ戻り、勝也の3度目の殴打を止める。勝也が冷静さを取り戻すまで声をかけ、後に担任が話を聞こうとしない様子を見て学年主任を呼びに向かう。


・鳥居翔太

美咲へ言い返すが、勝也の怒りに圧倒されて止めに入れず、制止後にその怖さを伝える。拳からの出血に気づいて勝也へ声をかけ、担任には美咲も勝也を叩いたと話す。


・鶴見春樹

勝也のそばで傷んだ教科書を守り、包み直して手提げへ戻す。勝也を止められなかった怖さを打ち明け、調査の記録は自分の手元にもあると伝える。


・加藤真弓

美咲へ問いかけ、制止後には勝也が支える美咲のために椅子を用意する。担任に優子の話を遮られても、自分たちが聞いたことをあとで説明すると勝也へ伝える。


・井上綾香

教室でやり取りを見守るが、勝也の怒りに言葉を失う。担任についていく勝也へ、目を赤くしたまま大丈夫かと声をかける。


・山崎詩織

教室へ駆けつけ、怪我をした生徒のことを教師へ伝える。勝也の手の出血にも気づいて手当てを求め、自分が聞いた話も教師へ伝えると約束する。


・茶道部の部長

壊れた戸の前に立ち、散ったガラスへ近づきそうな生徒を手で制する。


・1年3組の担任

引き戸の破損と美咲の怪我を見て、勝也を叱責する。真弓や宣仁が優子の被害について話そうとしても遮り、勝也を生徒指導室へ連れていく。


・廊下へ来た別の先生

詩織から教室内に怪我をした生徒がいると聞き、足を速めて向かう。


・周囲の生徒たち

騒ぎに気づいて教室や廊下に集まる。殴打と勝也の怒号に言葉を失い、勝也が教室を出る時にも距離を取って見ている。

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