↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
26/52

第22話 繋がった点と点



 土曜日の朝、ノートを鞄へ入れてから、もう1度出した。


 昨日聞いた話が、何ページにも分かれていた。

 日傘のことに、吹奏楽部のこと。水曜日、俺たちが帰ったあとに、優子が校門を出るところを見た人の話も書いてある。最後のページを開くと、今日会う相手の名前と、待ち合わせる場所があった。


 相手は、真弓が連絡をつけてくれた女子だった。富田さんのことで、鵜飼くんに直接話したい。ただ、ほかの人がいないところで。昨夜、真弓からそう教えてもらった。


 何を知っているのかまでは聞いていない。

 聞いたことを全部話してもらえるとも、まだ決まっていなかった。


 携帯を開くと、時刻の上に9月15日と表示されていた。3連休の初日だ。月曜日も祝日で休みなので、優子の席を次に見るのは火曜日になる。


 机に置いた文庫本へ目が行った。

 読み終わったあとに話そうと思っていたところには、まだ付箋が挟まっていた。

 そこへノートを重ねないようにして、鞄を閉じた。


     * * *


 待ち合わせたのは、駅へ向かう道の途中にある、小さな広場だった。


 ベンチの半分には、木の影が落ちていた。

 自転車を押して来た女子が、俺に気づいて足を止める。学校で見かけたことも、真弓と話していた姿も覚えていた。ただ、こうして2人だけで話すのは初めてだった。


「おはよう。来てくれて、ありがとう」

「うん……」


 その子は自転車を端へ止めた。

 鞄を持ってベンチへ座り、俺が少し間を空けて腰を下ろすと、膝の上で持ち手を揃えた。


「真弓から、富田のことで話してくれるって聞いたんだけど」

「先に、1つ聞いていい?」

「うん」


 俺が頷くと、その子は1度だけ周りを見た。

 買い物袋を提げた人が、前の道を通り過ぎた。その人が離れ、話を聞かれそうな人がいなくなってから、女子はこちらへ顔を向けた。


「鵜飼くん、本当に、富田さんのこと気にしてるの?」


 すぐには、質問の意味が分からなかった。


「うん。学校、休んでるし。教科書も、ひどいことになってたから」

「……そっか」

「何か、俺のことも聞いた?」


 女子は頷きかけて、首を少し傾けた。


「聞いたっていうか。富田さんに言ってるの、聞こえたから」


 鞄からノートを取り出し、膝の上へ載せた。

 開こうとしたところで、その子の手が止まったのが見えた。俺は表紙へかけた指を戻し、先に顔を見た。


「先に、聞く。書いていいかは、あとで聞くから」

「うん」


 ノートを閉じたまま、膝へ置いた。

 その子は俺の手元を見てから、話し始めた。


「2学期が始まって、すぐの火曜日。3組に、友達に借りてたノート返しに行ったの」


 始業式の次の日だった。

 俺は、その日の時間割を思い出そうとした。


「休み時間の終わりくらい。富田さんのところに、戸田さんたちがいて。ノートの話をしてたと思うんだけど、そこは途中からだったから、よく分からなくて」

「うん」

「そのあと、大島さんが、鵜飼くんも迷惑だって言ってた、って」


 ベンチの背に触れていた腕を、離した。


「……俺が?」

「うん」

「何を?」

「富田さんに、頼られるのが、っていう感じの話だった。毎日は無理とか、自分にもやりたいことがあるとか」


 聞き覚えのある言い方だった。

 けれど、それは、優子へ言った言葉ではなかった。


「大島が、そう言ったの?」

「うん。富田さんが、迷惑って言ってたの、って聞いて。それに、正直、ちょっと迷惑だって、って答えてた」


 女子の声が小さくなった。

 俺の顔を見て、言葉を止める。


「……違う?」

「言ってない」


 すぐに答えた。

 自分の声が、思っていたより強かった。


「ごめん。大きくなって。富田のこと、そんなふうに言ったことはない」


 その子の指が、鞄の持ち手から少し離れた。


「でも、毎日は無理っていうのは、言った気がする」


 説明するうちに、あの朝の教室を思い出した。

 宿題をためないようにしたいと、翔太が言い出したのだった。春樹の家へ集まる話をして、その流れで、俺にも毎日声をかけてくれと頼んだ。優子のことを話していたわけではなかった。


 奈々は、そばにいた。

 笑って、夏休みにそんなに宿題が残っていたのかと聞いた。


「翔太に言ったんだ。宿題やれって、毎日言ってくれって頼まれて。俺にもやりたいことあるって」

「宿題……?」

「うん。富田の話はしてない。そこには、いなかったし」


 女子は、しばらく黙っていた。

 それから、顔を下げた。


「私、本当にそう思ってるんだと思ってた」


 膝の上のノートを押さえた。その子は俺の声を直接聞いていない。それでも、奈々がそう言っただけで、俺が優子を迷惑がっていることになっていた。知らないところで自分の気持ちを決められていたことが、気持ち悪かった。


「真弓が、鵜飼くんが心配して調べてるって言ってたから、あれ、って思って。でも、私が聞いた方が違うのかも分からなくて」

「だから、2人で話したかった?」

「うん。みんないるところで聞くの、嫌だったし。私が言ったって大島さんに伝わるのも、怖かった」


 俺は頷いた。

 その子へ怒ってはいけないと思った。

 分かっていても、指がノートの端を強く押していた。


「富田、それを聞いて、何て言ってた?」

「そのあと、あんまり喋ってなかったと思う。戸田さんが、本人に聞かない方がいいって言ってた」

「何で?」

「言ってないって言わせるだけだって。嫌だって言われるまで聞くの、って」


 息を吸いかけて、止まった。


 俺には聞けなかった。

 そういうことだったのだろうか。


 奈々は、俺にも言っていた。

 本を読んでいたいのに話しかけられて鬱陶しいと、優子が言っていたのだと。


 そのあと本の話をしに行くと、優子は顔を伏せ、無理して読まなくてもいいと言った。俺は、それを早く会話を終わらせたいという意味に受け取ってしまった。邪魔してごめんね、と言って席へ戻ったことまで、はっきり思い出せた。


 あの時、優子も俺の言葉だと思って、奈々の話を聞いていたのかもしれない。

 俺へ伝えた話も嘘だったのか、今ここでは確かめられない。それでも、優子本人から聞いていない言葉を、あの小さな返事だけで本当だと思いかけていた。


 再会した頃は、久しぶりだから照れくさいのだろうと思っていた。隣になってから本の話をした時には、嬉しそうにしてくれた顔も覚えている。それなのに、途中で声が小さくなると、俺は理由を聞けないまま話を終えていた。


 俺が知らないところで、俺に迷惑がられていると聞かされていたのなら。

 本人へ確かめることまで、迷惑だと言われていたのなら。


「……教えてくれて、ありがとう」


 言ってから、ノートを開いた。


「今のこと、書いてもいい?」


 女子は頷いた。

 俺は日付を書き、相手の名前を書いた。

 大島から富田へ、と書いたところで、ペンが止まる。


 迷惑。


 書かなくても、忘れられるような言葉ではなかった。

 それでも、どんな言い方をしたのか、今聞いたままに残しておきたかった。あとで自分の怒りが混ざって、実際よりひどい言葉に変わってしまわないように。


 その子は、読んで確かめてくれた。

 始めから全部聞いていたわけではないことと、俺自身の発言を聞いたわけではないことを、もう1度言った。

 どちらも付け足した。


「富田さんには、違うって言う?」


 ノートを返しながら聞かれた。


「……言いたい」


 すぐに会えるなら、今すぐにでも言いたかった。


「俺は、そんなこと思ってないから」


 女子は、小さく頷いた。

 自転車のところへ戻る前に、また思い出したことがあれば真弓へ言う、と約束してくれた。


 女子が帰ったあとも、すぐには立てなかった。

 ベンチから前の道を見ると、親子が並んで歩いていた。手を引かれた子供が何か見つけ、顔を上げる。俺はその様子を見ながら、さっき聞いた言葉を考えていた。


 優子に、何を言っていたのだろう。

 俺が近くにいて、何も知らずに笑っていた時に。


     * * *


 真弓へ電話をかけた。


 話を聞けたことと、その内容を短く伝えると、返事がしばらくなかった。

 電話が切れたのかと思って、画面を見た。


『……そんなこと、言われてたの』

「うん。俺の言った言葉も、一部、混ざってた。でも、翔太に宿題のことで言ったやつだった」

『覚えてる。私も、途中からいたから』

「俺、その話のあとで、本の題名、聞きに行ったんだ」


 言いながら、あの朝の順番を思い出していた。まだ普通に話せて、本の題名を書いた紙も見せてもらえた。今度読ませてほしいと思ったし、優子も貸せると言ってくれた。


「優子、途中から急に話さなくなることがあって。そのせいだったのかもしれない」

『うん……』

「これから、家に行ってみる」


 口にすると、ようやく何をしに行きたいのか、自分でもはっきりした。聞いたことを確かめるより先に、伝えなければならないことがあった。


『富田さんの?』

「うん。会えるか分かんないけど」

『今聞いたこと、全部聞くの?』

「いや。俺はそんなこと言ってないって、それだけでも、伝えたい」


 昨日は、訪ねて何を話すのか分からなかった。教科書を見せて、誰にされたか聞けば、また答えられなくなるかもしれない。休んでいる優子を、さらに困らせたくはなかった。


 でも、自分の言ったことなら説明できる。

 優子に、何があったか話してもらわなくても。


『分かった。午後のことは、のりちゃんに伝えておくね』

「ありがとう。帰ったら連絡する」


 電話を閉じ、駅とは別の道へ曲がった。

 そのまま手ぶらで行くのも何となく落ち着かず、途中の店で、小さな袋入りの焼き菓子を買った。

 家の人と一緒に食べられそうな物を選んだ。


 袋を受け取りながら、今の優子が何を好きなのかも知らないことに気づいた。小さい頃に一緒に食べた物は思い出せても、それを今も好きかは分からない。


 会えたら、そんな話もできるだろうか。


 袋を持ち直し、歩くのを速めた。


     * * *


 優子の家の前へ着くと、門は閉まっていた。


 夏休み前、日傘を届けた時と同じ塀と、門の横の表札が見えた。

 ここからでは、奥の庭はよく見えない。大きなガレージの扉も閉まっていて、中に車があるかどうかは分からなかった。家の人が出かけているのか、外から確かめられるものはなかった。


 門の前で服の裾を引き、鞄の紐を肩へ掛け直した。

 どちらも、直さなければならないほど乱れてはいなかった。久しぶりに会うわけでもないのに緊張して、手を止めていると落ち着かなかった。


 会ったら、最初に何と言おう。

 大丈夫、と聞くのは違う気がした。

 大丈夫ではないから、休んでいるのかもしれない。


 水曜日も、隣の席で話していた。板書が終わったかを聞くと、優子は頷いてくれた。あれから、まだ3日しか経っていない。


 俺はインターホンを押した。


 呼び出し音が鳴り、俺は手を下ろして門の方を見た。


 すぐに誰かが出てくると思っていたわけではなかった。家の中で、手が離せないことをしているかもしれない。そう思いながら待つ間、持っている手提げの紐を指でなぞった。


 車が1台、後ろの道を通った。

 遠くで、自転車のブレーキが鳴った。


 返事はなかった。


 もう1度だけインターホンを押して、さっきより長く待った。

 門の奥へ声をかければ聞こえるだろうか。でも、休んでいる優子を大きな声で呼び出すのは嫌で、口を開きかけたまま、やめた。


 留守なのだろうか。


 中から足音は聞こえなかった。

 どこかへ出かけているのか、俺がいる場所からは分からない。

 俺に会いたくないから出てこないのかもしれないと、一瞬考えた。


 まだ何も分からないのに、そこまで決めてはいけなかった。

 さっきまで、そのことでノートを書いていたのに。


 手提げへ目を落とすと、口から焼き菓子の袋が見えていた。

 ここへ掛けて帰ろうかとも思った。でも、暑い外に置いたままにはしたくないし、誰からか分からない物が残っていても困るだろう。持ち手を握り直し、そのまま持ち帰ることにした。


 門の前から、1歩離れた。

 すぐには歩き出せず、表札をもう1度見た。


 昔は、隣の家へ行けばよかった。出かけていて会えないことだってあったはずなのに、その時は、またあとで行けばいいと思えた。


 今は、今日会えなかったら、いつ話せるのかも分からなかった。


 俺は来た道へ戻った。

 門は、振り返っても閉じたままだった。


     * * *


 家へ帰ると、台所のテーブルへ手提げを置いた。

 袋は、出る前と同じ形をしていた。


 真弓へ電話をかけ、留守だったみたいだと伝えた。


『そっか……。午後は、のりちゃんも来られるって』

「うん。分かった。ありがとう」


 電話を切ってからも、手提げはテーブルへ置いたままだった。少しして、春樹から電話が来た。


『聞いたよ。今、家?』

「うん」

『行ってもいい? 書いたの、見せて』


 少しして、春樹が来た。

 上がってもらい、朝のページを開いた。

 春樹は読む間、ほとんど何も言わなかった。


「これ、始業式の次の日?」

「うん」

「翔太が、毎日宿題見てほしいって言ってた日だね」


 同じことを言われて、俺は頷いた。

 あの会話は、俺だけの記憶ではなかった。


「俺、優子に迷惑だなんて思ったことない」

「分かってるよ」


 春樹は、迷わずそう言ってくれた。俺の言葉を疑われていないことに少しだけほっとして、同じ説明を繰り返さずに済んだ。


「せっかく隣になれて、話せると思ってたんだ。でも、あの時にはもう、俺がそう言ったことになってた」

「うん」

「俺が普通にしてても、嫌なの我慢してると思われてたのかな」


 春樹は、朝のメモから顔を上げた。


「そこは、本人に聞かないと分からないと思う」

「……うん」

「でも、本は貸してくれたんでしょ」


 机の文庫本へ目が行った。

 春樹も、そちらを見た。


「あれ?」

「うん」

「今も、話せることがあるんだと思うよ。会えたら、そこからでも」


 貸せるよ、と言ってくれたのは優子の方だった。

 その時の声を思い出した。俺は、奈々に何を言われていたのかも知らずに、本を受け取っていた。それでも、優子が持ってきてくれたことまで、違う出来事になるわけではなかった。


「……本のことも、話したい」

「うん」


 春樹はそれ以上、優子の気持ちを決めるようなことは言わなかった。

 俺も、開いたページへ目を戻した。


 奈々が言ったことと、俺が本当に言ったこと。

 その2つを、別の行に書き足した。

 春樹は午後にも聞きたい相手がいると言い、書いたところを確かめてから帰っていった。


     * * *


 午後、のりちゃんと待ち合わせた。

 昨日、話を聞く約束をしていた相手が、電話だけでなく直接でもいいと言ってくれたらしい。

 一緒にいた友達も来るというので、4人で会うことになった。


 公園の入口に、男子が2人立っていた。

 のりちゃんが手を上げると、1人がこちらへ向き直った。


「こっちが、さっき電話で言うた勝也」

「鵜飼だよな。知ってる」

「うん。時間取ってもらって、ごめん」


 話しかけた相手は、俺とは別のクラスだった。

 隣の男子も同じ学年だという。2人とも、制服ではなかった。

 校内で聞いた話を、学校とは違う場所で聞くのは、少し変な感じがした。


「水曜の放課後、奥の方の校舎で、女子が騒いでたんだよ」


 最初の男子が言った。

 のりちゃんは俺がノートを出すのを待ってから、尋ねた。


「どの辺りか、もう1回教えてくれる?」


 俺は空いたページへ、覚えている範囲で校舎を描いた。

 男子が、その角を指した。


「ここから、こっちへ行ったところ。女子トイレあるだろ」


 ペンを止めた。


 教室から少し離れた方にあるトイレだった。俺も場所は分かったけれど、そこへ優子が行ったとは、まだ誰にも聞いていなかった。


「中から聞こえた?」

「うん。廊下にいた時から、笑ってる声がして。近く通ったら、返してって聞こえた」


 もう1人が、横で頷いた。


「こいつが、何か聞こえないかって言って、止まったんだよ」

「うん。で、返してって。そのあと、まだだって言ってた。何を返すのかは、見てないから分からない」


 のりちゃんが、2人の顔を見比べた。


「2人とも、中は見てへんのやな」

「見てない。女子トイレだし」

「中にいた人の名前は?」


 俺が聞くと、最初の男子は少し考えた。


「その時は、誰の声か分かんなかった。昨日、荒川君に聞かれて、あれかもって思っただけで」

「俺も。富田さんだって分かって見たんじゃない」


 もう1人もそう言った。


 2人とも、白い髪を見たわけではなく、名前を呼ぶ声を聞いたわけでもなかった。

 俺は日付の下へ場所を書き、話してくれた言葉を並べた。分かったことと、自分が気にしていることを、一緒に書かないようにした。


「返してって言ってた方も、笑ってた?」


 聞くと、2人はほとんど同時に首を振った。


「いや。そっちは、違う」

「泣いてたのかは分かんないけど、笑ってる声じゃなかった。小さかったし」

「でも、ほかの女子は笑ってた?」

「うん」


 男子は、そこだけは迷わず答えた。


「何人かで、普通に。だから、ふざけてるのかなって最初は思って」


 言い終わる前に、もう1人が顔を下げた。


「でも、返してって言ってる方は、本当に返してほしそうだった」


 俺は、書く手を止めた。

 同じ廊下へ出て、同じ声を聞いていたら、自分ならどうしただろう。

 その場にいなかった俺が、簡単に言えることではなかった。


 けれど、誰かが困っている声は、外へ届いていた。


「先生には、言った?」


 のりちゃんが聞いた。

 責めるような言い方ではなかった。


「……言ってない」

「俺も。中、見てないし、誰かも分からなかったから」


 最初の男子が、靴の先で地面を擦った。


「面倒なことになりたくないと思ったのも、ある」


 のりちゃんは少し黙った。

 俺は、男子の靴を見ないようにした。


「それ、何時くらい?」

「時計までは見てない。帰りの会のすぐあとではないよ。1回、別のところ行ってから通ったから」


 その前はどこにいて、何をしていたのかも尋ねた。

 2人の話は、途中で少し違っていた。1人が先に廊下へ出て待ち、もう1人が戻ってから、一緒に歩き出したという。笑い声に気づいた位置も、同じところではなかった。


 のりちゃんが、俺の描いた図へ指を置いた。


「ここで合流して、こっち通ったんやな」

「そう。そのあと、外へ出た」


 同じところを一緒に歩いていても、全部が同じ記憶になるわけではなかった。

 俺は2人の名前を分け、どこから一緒に聞いたかを書いた。


 書き終わって確認してもらうと、最初の男子が、笑い声、と書いたところを見ていた。


「富田さん、ここにいたの?」

「まだ、分からない」


 俺は答えた。


「でも、その日、俺たちが帰ったあとに、校門を出る富田を見た人がいるんだ。俺たちはもう帰ったと思ってたから、その間、どこにいたのか知りたくて」


 男子は頷いた。

 隣の友達が、もし先生に聞かれたら、この話はすると言った。

 最初の男子も、少し遅れて同じように頷いた。


「話してくれて、ありがとう」


 俺が言うと、その子は首を振った。


「こっちこそ。今さらで」


 返す言葉を探しているうちに、2人は自転車の方へ歩き出した。

 のりちゃんが、それぞれへ礼を言った。

 俺はノートを閉じ、2人が道へ出るまで見送った。


     * * *


 のりちゃんと歩きながら、学校の位置を確かめるように、道の向こうを見た。

 ここから校舎は見えなかった。


「場所、聞けたな」


 のりちゃんが言った。


「うん」

「富田やとは、まだ言い切れへんけど」


 俺は頷いた。

 公園を出たところで人が途切れ、のりちゃんが少し声を落とした。


「勝也、午前中、家行ったんやって?」

「うん。会えなかった」

「そっか」


 今朝聞いたことを、俺の口からも話した。

 真弓から短く聞いていたらしいが、のりちゃんは途中で何度も眉を寄せた。


「そんなことまで、しとったんか」

「俺、全然知らなかった。優子が話してくれないの、俺が邪魔なのかなって、そんなことまで考えてた」

「知らされてへんかったんやろ」

「うん。でも、言ったことになってた」


 のりちゃんは返事をしなかった。

 横断歩道の手前で止まり、信号を見た。


 向こう側から、小さな子が親の手を握って渡ってきた。

 青になっても、俺は一瞬、その2人を見ていた。

 のりちゃんが歩き出したので、あとを追った。


「優子に、俺は違うって言いたい」

「うん」

「それも、今はできない」

「会えた時に、ちゃんと言お」


 のりちゃんは、こちらを向いた。


「それまで、ほかに分かること、増やそ。自分も聞くから」


 うまく返事が出ず、頷いた。

 口にしたいことはあるのに、相手に会えないだけで、何も届かなかった。


 今朝も、本当に留守だったのか、出かけていたならどこへ行ったのか、分からないままだった。

 優子も一緒に出られていたならいいと思った。

 でも、それを、元気なのだという理由にはできなかった。


     * * *


 夕方、俺の部屋へ翔太が来るなり、朝のメモを見せてほしいと言った。


 部活が終わってから、真弓の家へ電話したらしい。

 鞄を置く前に、その場へしゃがみ込んだ。


「俺に言ったやつだろ、これ」

「うん」

「毎日、宿題やれって言ってくれって、俺が頼んだやつだよな」


 翔太は紙を見たまま、もう1度言った。


「俺、覚えてるぞ。奈々もいた。夏休みのこと聞かれたから」

「春樹も覚えてた」

「だったら、何でそれが富田の話になんだよ」


 部屋にいた春樹が、翔太の荷物を少し横へ寄せた。

 翔太は礼を言うのも忘れたように、メモから目を離さなかった。


「俺が変なこと言ったからか」

「違うよ」


 俺はすぐに言った。


「お前は、宿題の話しただけだろ。俺も、普通に返しただけで」

「でも、それ使われたんだろ」

「お前が優子に言ったんじゃない」


 翔太は黙った。

 春樹が、もう1冊のノートを開いた。


「誰に向けて言ったか、その場に誰がいたか、残しておこう。朝の話と比べれば分かるから」


 翔太は床へ座り直し、自分のリュックからペンを出した。

 俺の言葉を勝手に使ったのは奈々だった。

 なのに翔太まで、自分が頼まなければと考えている。


 同じことを、優子も考えたのだろうか。

 俺に何かを頼んだ自分が悪いのだと。


 ノートの上へ、翔太の手が動いた。

 いつもの字より、ゆっくりだった。


 少しして、真弓と綾香も来た。

 のりちゃんは家の用事があるため、今日は電話で、聞いた話を確かめることになった。6人全員が同じ部屋にいなくても、昼間に何が分かったのかは、こうして伝え合えた。


「私も、1人、明日会えることになった」


 真弓が言った。


「水曜日、あのトイレの近くを通った子。中、ちょっと見たって」


 俺は顔を上げた。


「さっきの2人とは、別?」

「うん。女子。私の知ってる子が、話を聞いたことあるって教えてくれたの。それで聞いてもらったら、私になら話すって」

「俺は、いない方がいい?」

「最初は私だけがいいみたい。聞いてから、勝也にも話せるか、また聞くね」


 俺は頷いた。

 聞きたいからと、約束していない相手のところへ、急に行くわけにはいかなかった。


 綾香も、自分のメモを出した。


「私が話した子は、休み時間、富田さんが席へ戻ろうとしたら、リュックの中に水が入ってたのを見たって」

「2学期に入ってから?」

「うん。席替えより前だって」


 俺は日付を書こうとして、先に、席替えより前、と書いた。

 綾香が続けた。


「水を入れた人を見たわけじゃないの。でも、机の横が濡れてて、富田さんが1人で拭いてたところは見てた」


 ノートやリュックのことを、ほかの生徒にも尋ねてくれたらしい。

 名前の分からない人が教科書を隠したのを見たという話もあった。

 ただ、持ち主が優子だと分かった理由を、もう1度聞きたいと言った。


「席の場所だけで、そう思ったのかもしれないから。そこ、聞き忘れちゃって」

「うん。分かったら、教えて」


 春樹は、新しいノートへ見出しを書いた。

 何枚か先を開いて、別の日付を書く。


「このままだと、聞いた順と、起きた順が混ざるから。あとで見返す方、作ろう」


 俺のノートでは、金曜日の記録の途中に夏休み前の話があった。土曜日のページには、2学期が始まってすぐの出来事を書いている。

 聞いた日としては、どちらも合っていた。ただ、いつ何が起きたのかを確かめるには、前から順に全部読み直さなければならなくなっていた。


「元のメモは、残すんだよね」


 真弓が聞いた。


「うん。聞き間違えて直したところもあるから。まとめた方だけだと、誰に聞けば確かめられるか分からなくなる」


 春樹が言い、俺の方を見た。


「全部、勝也1人で書かなくていいよ。聞いた人が、自分の聞いたところから書けば」


 俺は頷いた。

 綾香が、空いたページへ自分のメモを置いた。

 翔太は、朝の宿題の会話を書き終えると、ペンを置かずに次を開いた。


 優子がいない場所で、優子について書く字だけが増えていく。

 少し前なら、こんなノートを作ることになるとは思わなかった。


 誰かへ説明する時、途中で言葉に詰まっても、このノートを開けば続きを話せる。

 俺が思い出せないところにも、翔太や綾香の字がある。自分1人の記憶に頼らなくてもよいのだと、並んだ文字を見ながら思った。


 俺は、最初のページへ優子の名前を書いた。

 その下へ、今までに聞いた出来事の日付を、離して並べていった。


     * * *


 日曜日の昼前、真弓から電話が来た。

 約束していた女子の話を、聞き終えたところだという。


『あの場所にいたの、富田さんだった』


 俺は椅子へ座った。

 ノートを開き、携帯を持ち替える。


『白い髪だったから、見間違いじゃないって。壁のそばに座ってて、床に教科書とか、ノートがあった。リュックは、ほかの子が持ってたって』

「誰が持ってたか、分かった?」

『顔は覚えてるけど、名前は知らないって。美咲と莉奈、奈々は、分かるみたい』


 俺は名前を3つ書いた。


『奈々、ノートを持ってたって。ペンも。書くところを見たか聞いたら、そこまでは見てないって言ってた』

「うん」

『富田さんが、こっち向きそうになって、目が合うのが怖くて離れたって。莉奈にも見られたくなかったって』


 俺はペンを止めた。

 昨日の2人は、中を見ていなかった。

 今日のその子は、見たから、誰がいたかを覚えていた。


『何で先生に言わなかったか、私も聞いたんだけど』

「何て?」

『言ったのが自分だって分かったら、次は自分かもしれないと思ったって。あと、富田さんが何か言って、あとで先生に話すかもしれないって思って、そのままにしたって』


 あとで、本人が言うかもしれない。

 そのあとが、来ないままになっていた。


「俺にも、話してくれそう?」

『うん。明日、私も一緒なら。今日は、このあと予定があるんだって』

「分かった。ありがとう」

『勝也』


 電話を切る前に、呼ばれた。


『富田さん、壁に背中つけて、手を膝に載せてたんだって。笑ってなかったって』


 さっき書いた名前を見た。

 教室で何度も呼んだことのある名前だった。


「……うん」

『ただ、見たのはそれだけだから。何で手をそうしてたかまでは、分からないって』

「明日、ちゃんと聞く」


 電話を終えても、しばらく携帯を持ったままだった。


 俺たちが誰もいない教室を見て、優子は帰ったと思った日だった。けれど、その日の放課後に、校内で優子を見た人も、俺が帰ったあとに校門を出る優子を見た人もいた。俺ものりちゃんも、優子本人が帰るところを確かめてはいなかった。


 教室にいないからといって、学校にもいないとは限らない。

 紙へ書けば、それだけのことだった。その違いを確かめずに帰った間、優子は、帰りたくても帰れないところにいたのかもしれなかった。


 俺は、昨日描いた校舎の図を開いた。

 あの女子トイレのところへ、今聞いたページの番号を書いた。


     * * *


 日曜の午後は、春樹と一緒に話を聞きに行った。


 今度の相手は、春樹が別の知り合いから紹介してもらった男子だった。

 先に電話で少し聞いたが、持っている物を見せたいと言われたという。

 家の近くで待っていると、その男子が、薄い紙袋を抱えて来た。


「これなんだけど」


 中から、ノートが出てきた。

 表紙の角が折れ、下の方に泥のような物がついている。

 触ると、紙が波打っていた。


 名前欄は残っていた。

 富田優子。

 今度は、表紙を裏返す必要もなかった。


「理科のノートだと思う。勝手に中、見て悪いけど」


 ページを少しだけ開くと、小さな字で授業の内容が書かれていた。

 その字の上から、太い黒い線が何度も重ねられていた。文の途中が塗り潰され、何を書いていたのか読み取れない。端から破られたページも何枚かあり、めくろうとするたび、不揃いな切れ目が指に触れた。


「どこにあった?」


 春樹が聞いた。

 男子は、自分の家とは反対の方を指した。


「こっち。学校から帰る道の脇。水曜の夕方」

「拾った時には、もう濡れてた?」

「湿ってた。だから、家で広げてたんだけど、ほかにもひどいこと書いてあって。次の日、持ってくの、やめた」


 俺は顔を上げた。


「何で?」

「教室で渡したら、みんなに見られると思って。誰かに聞かれたら、どう言えばいいか分かんなかったし。富田さん、どのクラスかも、すぐには分からなかったから」


 その子は、紙袋を指で折った。


「でも、先生に持っていくことは、できたと思う」


 春樹は、ノートを受け取る前に俺の方を見た。

 俺は頷いた。


「保管してくれて、ありがとう。持ってていい?」

「うん。そのために持ってきたから」


 拾った場所まで案内してもらった。

 細い道の端に草が生え、その向こうに低い段差があった。

 水が流れるところではなく、その横の乾いたところに落ちていたという。


「この辺。表紙の色が見えてた」


 俺はしゃがんだ。

 紙がありそうな場所を見たが、落ち葉と小石しかなかった。

 もう少し先まで歩き、道の反対側も見た。


 春樹が、俺の名前を呼んだ。


「ここに残りがあるとは限らないよ」

「うん。でも、一応」


 男子も、足元を見ながら歩いてくれた。

 3人で少し探したが、その日は、ほかには見つからなかった。


 ノート1冊が見つかっただけでもよかった。

 そう思おうとして、中の破れたところが浮かんだ。

 元どおりになるわけではなかった。


 男子と別れたあと、春樹が紙袋を持ってくれた。

 俺は手に残った土を払った。


「この間の青い表紙も、続き、見つからないな」

「うん」

「優子のかどうかも、まだ分かんないし」

「分からない物は、分からないまま分けとこう。混ぜたら、あとで困るから」


 春樹は袋の口を折り、持つところを変えた。

 自分の服へ汚れがつくのを避けているのかと思ったが、そうではなかった。中のノートの角が、これ以上折れないように支えてくれていた。


 その手を見て、俺も、袋の底を支えた。


     * * *


 帰る途中、翔太の家へ寄った。

 まだ戻っていなかったが、もうすぐ帰ると思うと言われたので、家の前で少し待った。


 自転車の音がして、翔太が曲がり角から来た。

 俺たちを見つけ、足を地面につく。


「どうした?」

「あとで、うち来られるか聞きに」

「行ける。俺も、話ある」


 翔太は自転車を置き、家へ声をかけた。

 部活の荷物を下ろして戻ると、俺たちと一緒に歩き始めた。


「今日、昨日聞いたやつにもう1回聞いたんだ。水曜に女子が何か持ってたってやつ」

「その話、直接聞けた?」

「うん。ただ、教科書を持ってたやつの名前は、分かんないって」


 翔太は、ポケットから折り畳んだ紙を2枚取り出した。片方には、学校の提出物を控えたらしい字が見えた。どちらを読むつもりなのかと思っていると、翔太はもう1枚を広げた。


「こっちだよ」


 翔太には、顔で分かったらしい。


「まだ何も言ってないだろ」

「見たじゃん」


 春樹が、2人の間へ顔を向けた。


「今、読むの、そっちで合ってる?」

「合ってる。さすがに間違えねえよ」


 ほんの少し、笑えた。

 翔太も口元を緩めたが、メモへ目を落とすと、すぐに表情が戻った。


「女子2人が、教科書とか持って歩いてて。片方が、取り返しに来たらどうする、みたいなこと言ったんだって」


 俺も、足を止めた。


「もう1人が、手、踏み付けてたから無理でしょって言って、笑ってたって」


 紙が風で揺れた。

 翔太は、両手で持った。


「……誰の手?」

「その場では、名前までは聞いてない。だから富田のことか、まだ分かんないって」

「相手の顔は?」

「覚えてる。次に見たら分かると思うって。杉浦かって、俺からは言ってない」


 春樹が、俺の手元の袋を見た。

 俺も、汚れたノートの角を見た。


 取り返しに来られない。


 物をどこかへ持っていく間、本人をその場から動けないようにしていたのだろうか。

 そんなことを考えて、首の後ろが熱くなった。


「その子にも、俺、話を聞きたい」

「言っといた。明日なら、家にいるって」

「ありがとう」

「でも、踏み付けてるところを見たわけじゃねえから。そこは、違うって言ってた」

「うん」


 立ち止まったままでは、同じ場面を何度も想像してしまいそうで、俺は歩き始めた。

 見ていないところを、頭の中で勝手につないではいけない。今まで、ノートへ書く時にも、何度も確かめてきたことだった。


 分かっていても、優子が手を隠すように置いていたという話が、離れなかった。


     * * *


 その日の夕方、綾香が連れてきてくれた女子は、俺の部屋へ入る前に、本当に大丈夫かと聞いた。


「大島さんには、まだ言わないんだよね」

「うん。話を聞いた人の名前を、そのまま言いに行ったりはしてない」


 俺が答えると、その子は綾香を見た。

 綾香が、一緒にいるから、と言う。

 春樹と翔太は、あとで話を聞くことにして、1度帰ってくれていた。


 女子は、テーブルの端へ座った。

 綾香が隣へ座り、俺は向かいに腰を下ろした。


「私が聞いたの、2学期始まってすぐの頃なんだけど」


 女子は、日付までは覚えていないと言った。

 でも、まだ席替えをしていなかった時だという。


「大島さんと富永さんが、廊下で話してて。鵜飼くんの名前、出してた」


 俺は、顔を上げないようにした。

 先に続きを聞きたかった。


「富田さん、信じたんだ、って富永さんが言って。大島さんが、うん、聞いてたからそのまま言った、って」

「何を?」

「宿題の話。毎日は無理とか、やりたいことあるとか。ほとんどそのままじゃんって、笑ってた」


 綾香が、膝の上で手を重ねた。

 俺はノートの端を押さえたまま、続きを待った。


「そのあと、大島さんが、迷惑までは言ってなかったけど、って言ったの」


 ペン先が、紙へ点をつけた。


「言ってなかったけど?」

「うん。そこは、自分で足したみたいな言い方だった。富永さん、笑ってた」


 俺は、しばらく何も書けなかった。

 昨日の子が聞き違えたのでも、優子が意味を取り違えたのでもなかった。


 宿題の話だったと、知っていた。

 俺が迷惑とは言っていないことも、知っていた。

 知っていて、そう言った。


「ほかには、何か言ってた?」


 俺の声は、自分でも平らに聞こえた。


「鵜飼くんに聞かれたら、って話もしてたと思う。でも、そこは、通り過ぎちゃったから、返事まで聞いてない」

「分かった」


 綾香が、俺の置いた麦茶のコップを、少し前へ動かした。

 飲むように言われたわけではなかったけれど、俺は持ち上げた。

 冷たい物が喉を通った。


「その時、富田さんに言ったことだって、分かった?」

「うん。名前出してたから。でも、何でそんなこと言ったのか、前の話までは分かんなくて」


 女子は、綾香へ目を向けた。


「ただ、聞かれたら困るようなことなんだとは思った。だから、今、これを言うのも……」

「怖いよね」


 綾香が言った。

 女子は頷いた。


 俺は、顔を上げた。


「話してくれて、助かった。俺が言ってないことを、言ったことにされてたから」

「……うん」

「今のことも、読んで確かめてもらっていい?」


 書いた紙を向けると、女子は時間をかけて読んでくれた。

 普段は奈々と呼ぶことがあっても、ノートには、大島奈々、と名字から書いた。俺たち以外の人が読んでも、誰の話なのか分かるようにしておきたかった。


 女子は、日付の欄を指した。


「ここ、何日かは本当に分かんない。始まってから席替えまでの間ってだけ」

「うん。それで残す」


 聞き終わったあと、綾香が、その子を送っていった。

 俺は玄関のドアを閉めてから、昨日の朝に書いたページと今のページを、並べて見た。


 優子へ言った言葉。

 そのあと、仲間へ話した言葉。


 どちらの時も、奈々は同じ教室へ戻ってきたのだろう。俺にも普通に話しかけ、宿題や提出物の話をしていた。席が近かったので、紙を渡したりもした。その普段どおりの声で、俺には、優子が会話を嫌がっていると伝えた。


 それを、優子が見ていたかもしれない。


 迷惑だと言ったはずの俺と、それを教えた奈々が、何もなかったように話しているところを。


 ノートを閉じた。

 閉じても、今聞いた言葉は残っていた。


     * * *


 月曜日は休みだった。

 目覚ましより先に目が覚め、枕元の時計を見た。


 いつもなら、もう少し寝ていてもいいと思うところだった。

 でも、昨日書き足したページが頭に浮かび、起きた。


 制服ではない服を出した。

 明日は学校へ行く。

 優子が来るかどうかは、まだ分からなかった。


 朝食のあと、翔太の家へ電話をかけた。

 約束した時刻を確かめてから、昨日の夜、綾香と聞いた話も伝えた。


『あいつ、分かってて言ってたのかよ』

「うん」

『……そうか』


 翔太は、少し黙った。

 いつものように、文句をいくつも重ねなかった。


『今日、聞くやつ、午前中で大丈夫だって。俺んち来て。一緒に行こう』

「分かった」


 ノートを鞄へ入れ、昨日の続きも書けるよう、ペンのインクを確かめた。

 机の端には、土曜日に持っていった焼き菓子が残っていた。家の前で持ち帰ることにした時と、袋の形は変わっていなかった。


 今日、もう1度行こうかと思った。

 でも、今から会う相手には約束をしていた。

 昨日になって話してもいいと思ってくれた人を、俺の都合で待たせたくなかった。


 聞き終えてから考えようと、袋を机の奥へ寄せた。

 届けたい相手は、変わっていなかった。


     * * *


 翔太と一緒に会った男子は、最初に、昨日も言ったけど、と断った。


「見たのは、持って歩いてるところだけだから」

「うん。そこも聞いてる」


 俺は頷いた。

 学校帰りに通る道のベンチで、男子の話を聞いた。

 そいつは自分の隣へ鞄を置き、両手を膝の間へ下ろした。


 水曜日の放課後。

 2人の女子が、冊子やノートのような物を持って、校舎から出てきた。

 1人が取り返しに来たらどうする、と笑いながら言った。

 もう1人が、手を踏み付けていたから来られないと答えた。


「取られた側の名前は、言ってなかったと思う。でも、持ってるのがその2人の物じゃないんだとは思った」

「それで、2人の顔は覚えてる?」

「うん。片方、杉浦だと思う。昨日は、名前が出てこなくて」


 翔太が、隣で顔を上げた。


「確か?」

「同じ小学校だったやつに、名前の読み方聞いた。顔も一緒に確認したわけじゃないから、絶対とは言えないけど。学校で見れば分かる」


 俺は、杉浦の名前の横へ、本人確認はまだ、と書いた。

 その子にだけ、ほかの人の証言を教えて答えを合わせてもらうつもりはなかった。


「どっちが、手を踏み付けてたって言った?」

「杉浦だと思う方」

「誰が踏み付けてたかは?」

「そこまでは言ってなかった」


 俺は頷いた。

 今の話だけでは、誰が誰の手を踏み付けたのかまでは分からない。優子の手だとも、まだ断定できなかった。けれど、同じ日の、同じ頃の出来事だということが、どうしても頭から離れなかった。


 持っていた教材の一部は、濡れているようにも見えたという。

 水が垂れるほどだった、とは言わなかった。ただ、端の紙がくっついて、うまく揃っていなかったらしい。その説明を聞きながら、昨日受け取ったノートの形を思い出した。


「拾った人もいて、少しずつ見つかってるんだ」


 俺が言うと、男子は顔を上げた。


「富田さんの物?」

「名前があったのは、そうだった」

「……だったら、その話かもしれないな」

「うん。だから、確かめたい」


 男子は、学校で相手を見て確認できたら伝えると言ってくれた。

 俺も、その時は頼む、と答えた。


 別れたあと、翔太はしばらく無言で歩いた。

 横を見ると、前へ顔を向けたまま、奥歯を噛みしめているようだった。


「翔太」

「分かってる。まだ、誰が踏み付けてたかは分かってない」

「うん」

「でも、手を踏み付けてたから取り返しに来られねえって、笑って言うことかよ」


 俺は答えられなかった。

 誰が誰の手を踏み付けていたかが分からなくても、その言葉を笑って言った人がいる。


 翔太は、道端の小石を避けて歩いた。

 いつもなら、蹴っていたかもしれない。

 今日は靴に触れないよう、少し遠回りした。


「こんなこと聞きたくねえよ。知っとかなきゃいけないのは、分かるけど」

「……俺も」


 ノートを入れた鞄が、歩くたびに脇へ当たった。

 字を書いた分だけ、重さが変わるわけではないはずだった。

 でも、家を出た時より、重く感じた。


     * * *


 午後、真弓と待ち合わせて、昨日話を聞いてくれた女子に会った。

 水曜日に、トイレの入口から中を見た子だった。


 真弓の書いたメモを、その子と一緒に読み返した。

 俺が最初から同じ話を全部聞き直す必要はなかった。既に話してくれたところを確かめ、どちらの意味か分からない箇所だけ、本人へ尋ねた。


「富田は、立ってたんじゃなくて、座ってた?」

「うん。壁のところ。手を膝に載せてた」

「ほかの子が、入口を塞いでた?」

「そこには、立ってなかった。中にいて、話してた」


 女子は、自分の手を膝へ置いた。

 それから、思い出したように、片方をもう片方の上へ重ねた。


「こんなふうだったと思う。下向いてたんだけど、こっちに気づいたみたいで」


 そこで声が止まった。

 真弓は隣で、黙って待っていた。


「私、目、合わせなかった」


 俺は、紙に載せていた指を離した。


「何か言われる前に、戻っちゃった。富永さんにも見られたら嫌で」


 戻った先で何をしたかを、その子は自分から話した。

 友達に、あっちはやめておこうと言った。

 その時は理由までは言わなかった。

 別のトイレへ行った。


 連れの友達も中を見たのだと、思いかけていた。

 でも、実際に入口から見たのは、この子1人だった。話を聞いた真弓が、元のメモの脇へ、その違いも書き足した。


「富田さんの物が落ちてるって、見て分かった?」


 真弓が聞くと、その子は頷いた。


「拾おうとするみたいに、何回もそっち見てたし。リュックも、教室で持ってるの見たことあったから」

「誰かが捨てるところまでは、見てないんだよね」

「うん。私が見た時には、もう床にあった」


 聞いたことを確かめ、名前を書いた紙も見てもらった。

 その子は、学校へ聞かれたら同じ話をすると言った。


「鵜飼くんたちが話を聞いてるって分からなかったら、まだ言ってなかったと思う」


 そう言って、真弓を見た。


「今からでも、言えるならと思って」

「うん。伝えてくれて、ありがとう」


 真弓が答えた。

 俺も頭を下げた。

 その子が目を伏せたので、何度も同じ礼を言うのはやめた。


 別れてから、真弓は少しの間、俺の隣を歩いていた。


「みんな、見てたんだね」


 小さな声だった。


「全部じゃなくても、誰かは、どこか見てたんだね」

「うん」

「私、同じクラスで、普通に喋ってたのに」


 何を言えばいいか分からず、前を見た。

 昨日までも、同じことを考えていた。

 誰かが自分を責めるたびに、俺もそうだと言うことしかできなかった。


 真弓が、抱えていたノートを持ち替えた。


「あと1人、電話で聞けるかもしれない。その子も、水曜に、あそこへ行ったって」

「今から?」

「夕方、家へ電話してって言われてる。聞けたら、今日中に持っていく」


 俺は頷いた。

 知りたいと思ったことが、もう、教科書に字を書いた人だけではなくなっていた。


     * * *


 そのあと、春樹とのりちゃんから、別々に電話がかかってきた。


 のりちゃんは、以前、担任が戸田たちへ注意するところを聞いた生徒と話せたという。

 詳しいことは電話で済ませず、俺の家へ来てから説明してくれた。


「先生、自分の名前、出しとったらしい」


 玄関を上がってすぐの言葉だった。

 俺は、持っていたコップを台所へ戻した。


「のりちゃんの?」

「うん。荒川から聞いたけど、富田とも仲良くしろよ、みたいに」


 のりちゃんは部屋へ入り、鞄から紙を出した。

 相手の話を聞きながら書いた物だった。


「先生が行ったあと、富永が、やっぱ荒川だったんだ、って言うたのも聞いとる。前に誰かから聞いてたみたいな話し方やったって」


 俺は、学校の廊下を思い出した。

 本人が困っていると言ったのか。

 椅子は戻ったのだろう。

 のりちゃんは、そう言われても、気にして見てくれていた。


「先生が、誰が言ったか教えたんだ」

「そうらしい」

「……だから、見てないところでやるようになったのかな」


 のりちゃんは、すぐには答えなかった。


「関係は、あるかもしれへんな」


 それから紙を見た。


「自分、見てる時に何もなかったら、少しはましになったんかもって思ってた」

「うん」

「やめたんやなくて、見えんようにしとったんやとしたら」


 そこから先は、言わなかった。

 俺にも、続きは分かった。


 俺が教室に残るようになった時、戸田たちは何度も後ろを見た。

 のりちゃんが優子の席の後ろで友達と話していると、富永が嫌そうにしていた。

 あの時は、何が気に入らないのか分からなかった。


 何もできないから、嫌だったのだろうか。


「その子は、先生にも同じ話をしてくれそう?」

「自分が聞いたことは話すって。ただ、先生本人には、言いに行きたくないって」

「……そっか」


 俺も、あの担任へ、また同じように説明できる気がしなかった。

 名前を伏せて話したつもりでも、そのまま相手へ教えられてしまうかもしれない。話してくれた人たちの名前が並ぶノートを、ただ渡して任せようとは思えなかった。


 のりちゃんは、紙を俺の方へ寄せた。


「けど、このままにはせえへん。聞いたことは、なくならんようにしとこ」


 俺は頷いた。

 相手の名前も、どこで先生の声を聞いたかも、全部残っていた。


     * * *


 春樹の話は、水曜日の外靴と日傘についてだった。


「本人が来られるって。ここでもいい?」


 電話で聞かれ、頼む、と答えた。

 しばらくして、春樹が男子を1人連れてきた。

 のりちゃんも、その場に残った。


 男子は、学校から少し離れた曲がり角のそばで、女子が靴と傘を置いていくところを見たという。

 ただ置いたのではなく、人目につきにくい植え込みの奥へ押し込んでいた。


「どんな靴だったか、分かる?」


 のりちゃんが聞いた。


「白っぽい、普通に学校へ履いてくるやつ。上履きじゃなかった」


 俺は、のりちゃんを見た。

 のりちゃんも、こちらを見ていた。


「傘は、開いてた?」

「閉じたまま。2つとも持って歩いてて、傘から先に奥へ入れてた」

「誰の物かは、何で分かった?」

「別の子に、富田の、って言ってたから。俺、そっちへ歩いてて、聞こえたんだよ」

「杉浦。杉浦玲奈」


 男子は、続けて相手の名前を言った。

 同じ小学校だったので、顔と名前は分かるという。


 俺は、その名前を書いた。

 教材を持って校舎の外へ出たところだけでなく、靴と傘を置いていくところも見た人がいた。

 同じ水曜日のことだった。


「水曜日で、間違いない?」

「うん。その日は帰ってから出かける用事があって、すぐ帰ったから」


 いつ学校を出たかも、思い出してもらった。

 帰りの会のあと、教室に少し残り、それから昇降口へ行ったという。

 部活の終わる頃ではなかった。


「勝也」


 のりちゃんの声がした。

 俺は頷いた。


 靴箱も、傘立ても空だった。

 俺たちが、帰ったと思った理由だった。


 そこにない物が、本人と一緒に帰ったとは限らなかった。


「……上履きは」


 口に出してから、止めた。

 この男子が見たのは、捨てられる外靴だった。

 その時、優子が何を履いていたかまでは見ていない。


 のりちゃんが、ノートへ目を落とした。


「自分ら、上履きも持って帰っとるんかもって、話したんや」

「俺も、そう思った。置いとくのが心配だからって」


 俺は、書いた行を見た。

 持ち物を守るために全部持ち帰るのなら、あり得る。

 そう考えて、安心した。


 守ろうとしている本人から、さらに奪う人がいるとは、そこまで考えられなかった。


 男子は俺たちの顔を見ていた。


「俺、傘は捨てたところから少し出てたから、あとで拾えるかなと思ったんだけど」

「うん」

「そのまま帰っちゃった。富田さんに渡そうにも、どう話せばいいか分かんなくて」


 俺は、ペンを置いた。


「場所、教えてくれる?」


 前に描いた学校の周りの図を出すと、男子は曲がる道を指した。

 春樹が、自分も分かると言った。


 男子が帰ったあと、俺たちは3人で教えてもらった場所へ向かった。

 道側から植え込みを覗き、奥も確かめる。立つ位置を変えて、さっきの角度では見えなかったところも見た。


 外靴も、日傘もなかった。


 誰かが片づけたのか、さらに別のところへ移されたのかは分からない。

 見つからないから、話がなかったことになるわけではなかった。

 でも、優子へ返せる物は増えなかった。


「ないな」


 のりちゃんが言った。


「うん」


 俺は、もう1度だけ葉の間を見た。

 細い枝が、風で揺れていた。


 陸上部の男子は、日傘を差していなかったと言っていた。

 手に持っていたかは、見ていない。

 あの時には分からなかったことが、今、別の場所からつながってきた。


 それでも、帰り道で優子がどうしていたかまでは分からなかった。日差しがまだ残る道を、日傘も差せずに歩いたのだろうか。もし、踏み付けられたというのが優子の手だったなら、荷物を持つことさえつらかったかもしれない。


 考え始めると、足が動かなくなりそうだった。

 春樹が、戻ろう、と声をかけた。

 俺は、ノートへ、見に来たが見つからず、と書いた。


     * * *


 夕方になると、家のテーブルにはノートを置く場所が足りなくなっていた。


 最初は、ノートが1冊あれば足りると思っていた。

 今は、話してくれた人ごとのメモと、出来事の順にまとめた物を広げるだけで、テーブルがいっぱいになった。傷んだ教材は床の別の場所へ置き、麦茶も、紙のそばには持ってこないようにした。


 真弓が、電話を終えてから来た。

 表情を見て、俺はペンを置いた。


「もう1人、トイレへ行った子の話、聞けた」


 綾香が、真弓のために場所を空けた。

 真弓は座ってから、自分の書いた紙を開いた。


「入口のところまで行って、すぐ引き返したんだって。中に女子が何人かいて、富田さんは、壁の方に座ってた」


 昼間の子と似ていた。

 でも、その次の言葉は違った。


「床に、白い髪が落ちてたって」


 誰も、すぐには返事をしなかった。


 真弓が、紙の上へ手を置いた。


「最初、何か分からなかったらしいんだけど、富田さんの髪、後ろの1か所だけ、長さが違って見えたって。だから、髪だと思ったって」

「……切ったの?」


 自分が言った声だと、少し遅れて分かった。


「切るところは、見てない。入口まで来た時には、もう落ちてたって」


 真弓は俺を見た。


「でも、普通に遊んでる感じじゃなかった。富田さん、俯いてたし、近くにいた子たちは笑ってたって」


 俺は、机に置いた自分の手を見た。

 指を開こうとしても、すぐには動かなかった。


 優子の髪は、いつも長かった。

 小さい頃に隣を歩いていた時も、学校で肩越しに振り返ってくれた時も、白い髪があった。顔を上げると一緒に髪が揺れた、小さな動きまで思い出した。


 勝手に切ったのだろうか。

 優子が嫌だと言っても。


「どの子がいたか、分かった?」


 春樹が聞いた。


「美咲と莉奈は、顔が分かるって。ほかは全部見てない。怖くなって、すぐ戻ったから」


 真弓は、その子の名前を書いたところを示した。

 翌日、学校で直接話すこともできると言ってくれているらしい。


 翔太が、膝へ手を置いた。


「物だけじゃ、ねえのかよ」


 声が掠れた。


「教科書だけでもひどいのに、そこまでやんのかよ」


 真弓は頷いた。

 目を伏せ、もう1度メモを見た。


「私、聞き間違いかと思って、もう1回聞いた。白い髪だったのかって」

「うん」

「同じこと言ってた。覚えてるって」


 俺は、自分の頬へ手を当てた。

 熱くなっていた。


 優子に、会いたかった。

 髪を見て確かめたいのではなかった。

 今、誰かと一緒にいてほしかった。

 家では、もうそんなことをされていないと知りたかった。


 時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。

 今から出ていけば、着く頃には暗くなる。

 家の前で急に呼び出して、こんな話を始めたら、また怖がらせるかもしれなかった。


 明日、学校が終わったら行こうと思った。

 会えなかったとしても、家の人には、少しでも伝えたい。


 そのために、今、聞いたことをまとめておきたかった。


     * * *


 春樹がまとめたノートのページを数え、真弓の記録の次へ、綾香が自分のメモを並べた。

 俺も、聞いた相手の名前と、その人が実際に見た内容を見比べる。名前だけ知っている人の話と、本人から聞けた話が混ざらないように確かめた。


 教科書の本文を、黒いマジックで読めなくなるほど塗り潰しているところを見た人もいた。

 ただ、その人が見た表紙には名前が見えず、優子の机から取ったので優子の物だと思ったという。

 別の人は、ノートの端を破った場面を覚えていた。

 その時、優子の名前を出して笑っていた女子の声も聞いていた。


 その2つは、同じ教科書やノートを見た話ではなかった。

 日付も、昼休みだったか、授業前だったかも違った。

 いくつかの話では、誰が書き込み、誰が周りで笑ったかまで分かっていた。

 分からないところへ、俺たちの知っている名前を入れたりはしなかった。


 綾香が土曜に、もう1度聞くと言っていた話も、確かめられていた。

 教材を隠された相手が優子だと分かったのは、直後に優子がその棚を探し、周りの子が笑っていたのを見たからだった。

 隠した物の中身や、そのあと返したかまでは分からなかった。


 別のページには、人ごとの名前もまとめた。

 同じクラスの人だけではなく、所属する部や委員会も、分かった範囲で書く。あとで本人へ話を聞き直したい時に、どこへ行けば会えるか分かるようにしたかった。

 教えてくれた人の学年とクラス、優子をどう知っていたかも残した。


「小学校が同じなら、名前が分かるのはそのためって書けるね」


 春樹が言い、真弓が横から文字を足した。

 戸田たちについては、同じ小学校だった人から、兄弟や親の勤め先を聞いた箇所もあった。その話は、本人が学校で何をしたかとは分けて、名前の後ろのページへ書いた。

 俺が知らなかったことを、すべて確かなこととして並べるわけにはいかなかった。

 誰から聞いたのかを、そちらにも付け足した。


 大きな出来事の間にも、いくつもの小さな場面があった。

 俺が友達と話していた間。

 部活へ行っていた間。

 昼休みが終わるまで、まだ時間があると思っていた間。


 優子は、そのたびに探したり、拾ったり、拭いたりしていたのだろうか。


 俺は、書きかけの行へ目を戻した。

 考えただけのことまで、ノートへ入れそうになっていた。


「勝也。そこ、聞いた日を書く方」


 春樹に言われ、手を止めた。

 出来事の日付を、違う欄へ書きかけていた。


「あ、ごめん」

「1回、休もう」

「あと、ここだけ」

「そのあと、さっきもあった」


 春樹は俺の前のノートを取り上げず、自分のペンを置いた。

 それを見た綾香も、いったん手を止めた。俺も少し遅れて、握ったままだったペンから指を離した。


 翔太が背中を伸ばし、うう、と小さな声を出した。


「手、痛え」

「いつもより書いてるもんね」


 真弓が言った。


「いつもだって書いてる。今日は、消すのも多いだけ」

「自分で読めなくなってたところ?」

「……そこも、ある」


 少しだけ、みんなの口元が緩んだ。

 俺は台所から麦茶を足して戻った。

 部屋へ入ると、5人とも、椅子や壁へ少しずつ体を預けていた。


 のりちゃんが、名前を書いたページを見ていた。


「ずいぶん増えたな」

「同じ話の人もいるから、出来事の数とは違うけど」


 春樹が答えた。

 直接話を聞いた人の名前は、最初のページに収まらなくなっていた。

 俺とのりちゃんが最初に見たことを除いても、20人近くになっていた。


 全員が、全部を知っているわけではない。それでも、誰かが聞いた声と、別の誰かが見た手元が、同じ日の欄へ並んでいた。その隣には、優子の名前を読める教科書も置いてある。別々に聞いた時には分からなかったことが、少しずつ見えてきていた。


「学校で聞かれたら話すって人、何人かいたよね」


 綾香が言った。


「うん」

「私が聞いた子も。もう1回聞くなら、本人が話すって」


 真弓も頷いた。

 俺は、名前の横へ書いた小さな丸を見た。

 勝手に話した人の名前を出すのではなく、必要な時に自分から説明してくれるかを聞いた印だった。


 俺たちが、誰かの代わりに全部を言い切る必要はなかった。実際に見た人が、自分の言葉で説明してくれる。ノートを持っていくだけでは伝わらないことも、今度こそ聞いてもらえるかもしれないと思った。


 のりちゃんは、手元の紙を揃えた。


「明日、話してくれるって言うとる人も、まだおるしな」

「うん。俺も、教科書持ってた女子の顔、確かめてもらう」


 翔太が言った。

 俺は、その下へ、火曜日に確認、と書いた。

 話が続いているうちに、またペンを持っていた。


 春樹がこちらを見たので、今度は、あと1行、と先に言った。


「それ終わったら、夕飯食べて」

「うん」


 みんなも家へ帰る時刻になっていた。

 綾香が持参したメモをノートへ挟み、真弓がページの右上へ番号を書いた。翔太は順番に数えて、抜けがないか確かめる。のりちゃんも、自分の聞いた話のところを、最後にもう1度読み返していた。


 春樹はもう1冊を閉じた。


「こっちは持って帰る。今日の分まで、写しておくから」

「全部?」

「元のメモはあるし、分けて書いた分も、同じようにまとめた方がいいでしょ。これだけ1冊なくなったら困る」

「俺も、手伝う」

「勝也は、こっちを揃えておいて。明日増えたら、そこだけ見せて」


 春樹は、俺の前のノートを指した。

 中には、俺とは違う字が何種類もあった。

 春樹の揃った字。翔太がゆっくり書いた、少し大きな字。真弓が線を引いて直したところ。綾香があとから書き足した、細い字。


 どのページも、俺1人では書けなかった。


 立ち上がって、ノートを鞄へ入れた。

 傷んだ教材は、別の手提げへ戻した。


「明日、それ、持ってく?」


 春樹が聞いた。


「うん。学校終わったら、優子の家に行ってみる。今度は、これも持って」


 翔太が、手提げを見た。


「頼む。拾ってくれたやつらのことも、言えたら」

「うん。ちゃんと伝える」


 まだ、全部が見つかったわけではなかった。外靴も日傘も戻っていないし、青い表紙は、本当に優子の物なのか分からないままだった。


 それでも、返せる物があった。

 優子の物だからという理由で、探してくれた人がいた。

 それも、伝えたかった。


     * * *


 火曜日の朝、手提げ袋を持って学校へ向かった。


 歩くたびに中身が動かないよう、手提げの口を軽く押さえていた。

 いつもの登校の待ち合わせで翔太に、持とうか、と聞かれたが、大丈夫と答えた。重さよりも、運ぶ間に角が折れたり、破れた紙が擦れたりすることが気になっていた。


 校門が見えても、連休明けの登校という感じはしなかった。この3日間、学校の話ばかりしていたからかもしれない。鞄の中には、休み前には知らなかった出来事が何ページも増えていた。


 昇降口で靴を履き替える。

 優子の靴箱へ、目が向いた。

 何もなかった。


 今度は、それだけで何かが分かったとは思わなかった。


 教室へ入ると、窓際の席も空いていた。

 俺は自分の机の横へ手提げを置いた。

 椅子を引き、連絡帳を出す。


 前の方で、戸田が笑っていた。

 富永も、そのそばにいた。

 奈々が何かを見せ、杉浦が覗き込んだ。


 いつもの教室だった。

 俺が知ったことは、まだ、あそこでは何も起きていないようだった。


 奈々と目が合った。

 一瞬、何か言いかけたように見えた。

 俺は顔を下げ、筆箱を出した。


 今、普通に返事をしたら、どんな声になるか分からなかった。


 のりちゃんが、机の後ろへ来た。


「持ってきたんやな」

「うん」


 手提げの中は見せなかった。

 のりちゃんは、俺が閉じたまま置いたノートを見た。


「今日、終わったら行く?」

「うん。優子の家。会えたら、渡してくる」


 近くにほかの生徒がいないのを確かめ、声を落として答えた。

 のりちゃんは頷いた。


「渡せたら、教えて」

「うん」


 そう言った時、後ろのドアが開いた。

 入ってきたのは優子ではなかった。

 俺は、顔を上げてしまった自分に気づき、前を向いた。


 朝の連絡でも、優子は休みだと言われた。

 担任は、そのあとすぐ、提出物の話へ移った。


 俺は連絡帳へ日付を書いた。

 9月18日。

 火曜日。


 同じ日付を、調査のノートにも書くことになる。

 今日は、本人に会えた、とも書けたらいいと思った。


     * * *


 午前中の休み時間、翔太に廊下へ呼ばれた。

 昨日話してくれた男子が、別のクラスの前で待っていた。


「杉浦で、合ってた」


 俺を見て、そいつは言った。


「さっき、顔見た。水曜に本持ってた方の1人」


 俺は、言われた方向を振り返らずに聞いた。


「手を踏み付けてたって言った方?」

「うん。そっち」

「もう1人は?」

「今日は、まだ見てない。名前も知らないから」


 俺は頷いた。

 昨日の紙を開き、顔を見て確かめた日を書き足した。

 杉浦だと思う、と書いたところは消さず、その下へ新しく書いた。


「ありがとう。確かめてくれて」


 男子は少し頷き、チャイムの前に自分の教室へ戻っていった。

 翔太は、俺がノートを閉じるまで待っていた。


「のりちゃんに、聞き間違いかもって言ってたんだよな。杉浦」

「うん」

「のりちゃん呼び出したの、やっぱり……」


 翔太は言い切らなかった。

 俺も、続きを言わなかった。


 先生は呼んでいなかった。

 杉浦は、誰と間違えたのかも分からないと言った。

 そのあと、自分の物ではない教材を持って、校舎の外へ出ていた。


 別々に聞いた話が、同じ人の名前へ集まってきていた。


 教室へ戻ると、真弓が、昼休みに少し話せるかと聞いた。

 昨夜、電話で白い髪のことを話してくれた女子が、直接でもいいと言っているらしい。


 俺は、頼む、と答えた。

 隣の机へ目を向ける前に、次の授業の教科書を出した。


     * * *


 給食を片づけてから、真弓と一緒に廊下へ出た。

 昨夜の女子は、真弓を見つけると、窓から離れてこちらへ来た。


 本人に聞いても、昨夜の電話の内容は変わらなかった。

 水曜日の放課後、奥の女子トイレへ行くと、入口から見える床に、白い髪のような物が落ちていた。優子の後ろ髪も、一部分だけ短く見えたという。ただし、切っているところを見たのではなかった。


「長い髪、知ってたから。あれ、って思った」


 その子は言った。


「でも、私、すぐ戻った。富田さん、こっち見たかもしれないけど、分かんない」


 何か言われたかを聞くと、首を振った。

 その子が聞いた範囲では、優子は何も言っていなかった。


 俺は確認したところへ印をつけた。

 真弓が、ほかに思い出したら教えてね、と言った。

 その子は頷いて、自分の教室へ戻った。


 真弓は、しばらく俺の横に立っていた。


「勝也、顔、怖いよ」


 言われ、顔を上げた。


「……ごめん」

「私に謝らなくていいけど」


 真弓は、俺のノートを見た。


「今聞いたこと、あとでみんなにも言おう」

「うん」


 廊下の向こうから、真弓を呼ぶ声がした。

 別の話を聞く約束をしていたらしい。

 真弓が、すぐ戻るね、と言って歩いていったので、俺は1人で教室の方へ向かった。


 その時、後ろから声をかけられた。


「鵜飼くん」


 振り返ると、女子が立っていた。

 別のクラスの子だった。

 手には、折った小さなタオルを持っていた。


「今、少し、話してもいい?」


 俺はノートを持ち直した。


「うん。何?」


 女子は、こちらへ近づく途中で足を止めた。


「富田さんのことで、聞いてるって……」

「うん」

「私も、見たの」


 声が細くなった。

 その子は、タオルを両手で握った。


「水曜日。あの、トイレのところ」


     * * *


 人の通る真ん中を避け、階段から少し離れた窓際へ寄った。

 教室へ戻るつもりで持っていたノートを、俺は開いた。


 ノートを開いても、女子はタオルを握ったままだった。

 俺はすぐに書き始めず、顔を見た。何から話せばよいか迷っているのかもしれないと思い、先に言葉が出てくるのを待った。


「名前、聞いてもいい?」


 名前とクラスを教えてくれた。

 俺は、まず、それだけを書いた。


「何か知ってたら教えてって、友達が聞かれたって言ってて。その子から、鵜飼くんたちが調べてるって聞いたの」

「うん」

「私、昨日まで、何も言ってなかった」


 女子は、俺の顔を見た。

 目が合うと、すぐに下へ戻した。


「でも、さっき、ほかの子とも話してたから。今、言わないと、また言わないままになると思って」


 俺はペンを持ったまま、待った。

 その子が来たことを、俺は誰からも聞いていなかった。

 俺に言おうと思って、自分で来てくれたのだった。


「私、普通に使おうと思って、入ったの」


 そう言って、廊下の先を見た。


「教室から離れてる方の、女子トイレ。中から声がしてたけど、そこにいるとは思わなくて」

「富田が?」

「うん。入ったら、壁のそばにいて。何人かで、押さえてた」


 指の力が強くなった。

 俺は、ペンを握り直した。


「誰がいたか、分かる?」

「戸田さんと、富永さんは分かる。もう1人、腕を押さえてた子の名前は、知らない」

「ほかには?」

「入口から見たところしか、分からない。全部、数えてない」


 俺は頷いた。

 その子は、言葉を探しながら続けた。


「富永さん、髪、持ってて。富田さんが動こうとしても、離さなくて」

「髪を?」

「うん。あと、腕も。つねるみたいに、指で強く掴んでた。富田さんが、痛いって言ってた」


 翔太が調べてくれた、踏み付けられた手の話が浮かんだ。

 それと一緒に考えかけて、止めた。今は、目の前のこの子が見たことを聞いている。先に知った話で、その続きまで決めてはいけなかった。


「戸田は?」

「はさみ、持ってた」


 廊下で誰かが走る音がした。

 その音が通り過ぎても、女子の言葉だけは残った。


「小さい、普通のはさみ。髪の方へ、持っていこうとしてた。だから富田さん、逃げようとしてたんだと思う」


 俺は何かを書こうとして、何も書けなかった。

 昨夜聞いた、床に落ちた白い髪が浮かんだ。


「それで、切るところを見た?」


 声が、喉へ引っかかった。


「ううん。私は、その前に……」


 女子は、口を閉じた。

 タオルが、両手の中で小さくなった。


「私が入ったのに気づいて、富田さん、こっち向こうとしたの。それで、富永さんに脚、蹴られて。壁の方へ押されて」


 机に手を置いているわけでもないのに、俺は指を広げた。

 何かを掴んでいないと、立っていられない気がした。


「肩が、壁に当たってた。音もして」


 その子は、そこまで言って顔を上げた。

 今度は、目を逸らさなかった。


「助けて、って言われた」


 返事が出なかった。


 女子の唇が、少し動いた。

 同じ言葉を繰り返すのかと思ったが、次の声は、もっと小さかった。


「私に、言ったの。こっち見て、手、伸ばそうとして」


 俺は、その子を見ていた。

 周りの声が遠くなった。


「それで……」


 自分が何を聞こうとしているのか、分からないまま言った。


「先生、呼びに行った?」


 女子は首を振った。


 何度も振らなかった。

 1度、はっきり振ってから、顔を下げた。


「逃げた」


 窓から風が入った。

 ノートのページが動いたが、押さえるのを忘れていた。


「怖くて、走って戻った。誰にも言わなかった」

「……何で」


 言葉が出た。

 女子の肩が、小さく動いた。


 その顔を見て、俺は口を閉じた。

 質問の続きは、出せなかった。


「富永さん、すごく怒ってて。私まで見られたら、何かされると思って。富田さん、見てたのに、私……」


 声が途切れた。

 廊下の向こうで、誰かが笑った。

 ここで話していることとは、何も関係のない笑い声だった。


 俺は水曜日、校門の外へ出た。

 もう帰ったのだと思っていた。

 その間、優子は、誰かへ助けてと言っていた。


 何も言えなかったのではなかった。

 言えた時が、あった。


 助けてほしいと、声に出していた。


「……富田、何か、ほかにも言ってた?」


 聞き終わる前に、唾を飲み込んだ。


「やめてって。痛いって。入る前から、聞こえてた」


 女子は、そこでまた顔を下げた。


「私が戻ったあと、どうなったかは分からない。はさみ持ってたけど、切ったところは見てない」

「うん」


 俺は、やっと頷いた。

 紙に、言葉を1つずつ書いた。


 戸田。はさみ。

 富永。髪。腕。脚。

 別の女子。押さえていた。


 そこまで書いたところで、もう1度、手が止まった。

 次の言葉は、どこへ書いても、ひどく目立った。


 助けて。


 小さく書いても、消えなかった。


「私が、誰か呼んでたら……」


 女子が言った。

 俺は顔を上げた。

 その先を、聞きたくなかった。


 呼んでくれていたら。

 戻ってくれていたら。

 俺が探す場所を間違えなかったら。


 今、ここで言っても、水曜日へ戻れなかった。


「先生に聞かれたら、今のこと、話してもらえる?」


 俺は聞いた。

 女子は、目元をタオルで押さえた。


「うん」

「見たことを、そのまま。俺が言ったからじゃなくて、自分が見たこととして」

「……うん。話す」


 ノートを向けると、女子は書かれた言葉を、ゆっくり確かめた。

 腕を掴んでいたのが誰なのかも、分かる範囲でもう1度教えてくれた。名前の分からない子については、そのままにした。ほかの話で知った名前を、俺が足すことはできなかった。


 予鈴が鳴った。

 廊下を歩く生徒が増えた。


「話してくれて、ありがとう」


 言うと、女子は首を振った。


「今まで、言わなくて、ごめんなさい」


 俺は、いいよとは言えなかった。

 優子が何と思うか、俺が決めることはできなかった。


「聞いたこと、残しておく」


 それだけ答えた。

 女子はもう1度頷き、自分の教室の方へ歩いていった。


 俺はノートを閉じた。

 階段の方から、授業に遅れるぞ、と先生の声がした。

 足を動かさなければと思った。


 教室へ戻るまで、優子の声を思い出そうとしていた。

 小さく名前を呼ばれた時の声は、覚えていた。

 本を貸すと言ってくれた声も、覚えている。


 助けてと言った声だけを、俺は聞けていなかった。


     * * *


 午後の授業は、ほとんど頭へ入らなかった。


 黒板を写していても、途中で手が止まってしまった。前の行を読み返しても、何を書いているのかすぐには分からない。さっき聞いた言葉の方が、先生の説明よりはっきりと頭に残っていた。


 隣の机が、視界に入っていた。

 椅子の背もたれは、俺の椅子と同じ高さだった。

 そこへ座っていた優子は、いつも少し肩を縮めていた。


 知らなかったことを聞くたび、前に見た優子の顔が、違う意味で思い出された。

 俺が話しかけたあと、急に周りを見たこと。本の話で笑いかけてくれたのに、すぐに口を閉じたこと。教科書を見られないよう、隠そうとした手も覚えていた。


 本人が言わないから。

 先生の声が浮かんだ。


 言っていた。

 やめてと、返してと、痛いと。

 最後には、助けてとまで言っていた。


 その言葉を聞いても、続けた人がいた。

 近くで見て、笑っていた人がいた。


 前の方で、戸田が何かを落とした。

 床へかがみ、拾った。

 隣の女子が何か言うと、少し笑って、机へ置いた。


 自分の物なら、拾えた。

 誰にも、手を踏み付けられずに。


 鉛筆の先が折れ、ようやく自分が強く押しつけていたことに気づいた。腹が立っているのは戸田たちなのに、ノートに穴を開けそうになっている。俺は芯のかけらを拾い、筆箱の中へ入れた。


     * * *


 次の休み時間、みんなへ話した。

 教室では言えず、のりちゃんと4人に廊下へ来てもらった。


 何を見た人なのか。

 誰が何を持っていたのか。

 何と言われて、その人がどうしたのか。


 聞いた時には覚えられたはずなのに、自分が話す番になると、言葉が続かなかった。

 途中からノートを開き、書いたところを見ながら説明した。誰が何を見たのか、抜かしてしまわないよう、1つずつ話した。


 翔太は顔を下げたまま、何も言わなかった。真弓は口元へ手を当て、綾香は目から落ちた涙をすぐに拭った。誰かが何かを言ってくれるのを待つような沈黙が続き、俺もノートから目を上げられなかった。


 のりちゃんは、壁へ置いていた手を下ろした。


「……助けてって、言うとったんか」

「うん」


 俺が答えると、のりちゃんは、それ以上何も言わなかった。

 春樹は、俺のノートへ目を向けた。


「その子、自分から来たんだね」

「うん。俺たちが調べてるの、聞いたって」

「分かった。今のところも、写しておく」


 春樹の鞄には、昨夜、持って帰ったノートが入っていた。

 俺は、書いたページを見せた。

 少しの間貸してほしいと言われ、渡した。


 誰も、次の話題へ移ろうとしなかった。

 さっきから廊下を通る生徒たちは、いつもと変わらなかった。

 俺たちの横を通り、友達を呼び、教室へ戻っていく。


「俺、あいつらに、話、聞く」


 言うと、真弓が顔を上げた。


「美咲たちに?」

「うん」


 翔太も、こちらを見た。


「知らねえって言いそうだけど」

「聞いた人がいる。拾った物も、ある」


 木曜日なら、知らないと言われたら、その先を続けられなかった。けれど今は、俺だけが隣の席で黒い字を見たわけではない。見ていた人も、聞いていた人もいる。その人たちの話を聞いたあとで、俺まで黙ってはいられなかった。


 教室の中で、予鈴を待たずに先生が教科書を開いた。

 春樹がノートを閉じ、今すぐには行かないよね、と聞いた。


「帰りの会、終わってから」


 俺は答えた。

 声を張ったつもりはなかった。

 けれど、春樹は1度、俺の顔を見たまま黙った。


     * * *


 帰りの会が始まる前に、ノートが戻ってきた。


「写せた。聞いた人の名前も、こっちにある」


 春樹が言った。


「ありがとう」


 俺は受け取り、リュックサックへ入れた。

 手提げも、自分の足元へ寄せた。


 担任が入ってくると、日直の声で帰りの会が始まった。

 提出物を出していない生徒が呼ばれ、明日までに持ってくるように言われる。俺も連絡帳を開き、黒板の横に書かれた連絡を、いつもと同じように写した。


 学校は、普段と同じように終わろうとしていた。


 最後に挨拶をした。

 椅子が動く音が重なった。

 先生が教室を出ていくと、部活へ行く人が立ち上がった。


 のりちゃんも、道具を持って俺のところへ来た。


「自分、先、部活行くな。あとで連絡するわ」

「うん」

「家、行けたら、教えてな」


 俺は頷いた。

 廊下から同じ部の生徒に呼ばれ、のりちゃんは後ろのドアへ向かった。


 春樹と翔太は、まだ教室にいた。

 真弓も、綾香も、俺の方を見ていた。

 俺が聞くと言ったので、残ってくれているのだと分かった。


 戸田は、机へ腰を寄せて話していた。

 富永もそばにいた。

 笑い声がした。


 俺は手提げから、紙に包んだ教科書を出した。

 持っただけで、固くなったページが擦れた。

 あの音を、優子は何度聞いたのだろうと思った。


「勝也」


 翔太が呼んだ。

 顔を向けると、何か言いかけていた口が止まった。


 春樹が立ち上がった。

 椅子の脚が、床を短く擦った。


 教科書を持ち直し、窓側の最後列にある自分の席から歩き出した。

 前へ向かう途中、鞄を持った男子と机の間ですれ違う。廊下からは、部活へ行くぞ、と誰かを呼ぶ声が聞こえていた。


 誰かの帰り支度が終わるのを、待つ気にはなれなかった。


 戸田が、こちらを見た。

 笑っていた口元が、少しだけ止まった。


「戸田」


 俺は、その顔を見た。


「富田に何したんだよ」



今回の登場人物


・鵜飼勝也

奈々が自分の発言を優子への不満にすり替えたことを知り、優子の家を訪ねるが会えない。連休中の聞き取りを経て、火曜日に届いた最後の証言を聞き、放課後、美咲へ問いかける。


・荒川宣仁

女子トイレ付近で声を聞いた生徒へ勝也をつなぎ、聞き取りや被害品の捜索に協力する。担任が自分の名前を出して注意していたことも、別の生徒から聞いて伝える。


・鳥居翔太

宿題の会話が悪用されたことに憤り、自分の発言も記録に残す。教材を運ぶ女子の会話を聞いた生徒へ勝也をつなぎ、相手の確認にも付き添う。


・鶴見春樹

聞いた順序と出来事が起きた順序を分けて記録を整理する。理科のノートの受け取りや外靴・日傘の捜索を手伝い、皆でまとめた記録の写しを残す。


・加藤真弓

奈々の言葉を聞いた女子との面会を取り持ち、女子トイレを訪れた生徒たちからも話を聞く。見た範囲や覚えていることを確かめ、勝也へ伝える。


・井上綾香

教材やリュックの被害について聞き取りを重ね、奈々と莉奈の会話を聞いた女子に付き添う。仲間と記録を整理し、火曜日には優子が助けを求めたという話を聞く。


・大島奈々

宿題についての勝也の返事を優子への不満にすり替え、言っていない言葉も足したことが、別々の生徒の証言から明らかになる。連休明けも教室にいる。


・戸田美咲

女子トイレで、押さえられている優子のそばではさみを持っていたと証言される。火曜日の放課後、傷んだ教科書を持った勝也から問いかけられる。


・富永莉奈

奈々が嘘について話す場面や、女子トイレで優子の髪を掴み、脚を蹴る場面を見聞きした生徒が現れる。連休明けも美咲のそばにいる。


・杉浦玲奈

教材を運ぶ女子の1人として、目撃した男子が火曜日に顔を確かめる。外靴と日傘を捨てる場面でも、名前が挙がる。


・奈々の言葉を聞いた女子

土曜日、勝也と2人で会い、奈々が優子へ伝えた言葉を話す。勝也本人の返事を聞き、宿題についての発言だったと知る。


・女子トイレ付近で声を聞いた男子2人

水曜日の放課後、笑い声と、物を返してほしいと求める声を聞いたと話す。中は見ておらず、誰がいたかは分からないと伝える。


・トイレの入口から優子を見た女子

壁のそばに座る優子と、床に落ちた教材を見たことを、真弓を通して勝也へ伝える。月曜日には直接会い、見た範囲を確かめてもらう。


・理科のノートを拾った男子

道端で拾い、家で乾かして保管していたノートを渡す。すぐ学校で渡せなかった理由も話し、勝也と春樹を拾った場所へ案内する。


・教材を運ぶ女子の会話を聞いた男子

手を踏み付けたことを話し、笑っていた女子を見たと証言する。月曜日の聞き取りでは名前を断定せず、火曜日に顔を確かめて玲奈だと伝える。


・奈々と莉奈の会話を聞いた女子

綾香に付き添われて勝也宅へ来る。奈々が宿題の会話を使い、勝也の言っていない言葉も足したと話していたことを伝える。


・外靴と日傘の廃棄を見た男子

玲奈が優子の名前を出し、外靴と傘を植え込みへ押し込んでいたと話す。勝也たちへ、捨てられた場所を図で示す。


・床に落ちた白い髪を見た女子

トイレの床に白い髪が落ち、優子の後ろ髪の一部が短く見えたと真弓へ話す。火曜日には勝也とも直接話し、切るところは見ていないと伝える。


・優子から助けを求められた女子

火曜日、勝也へ自分から声をかける。女子トイレで見たことと、優子に助けを求められながら逃げてしまったことを伝える。


・担任の先生

連休明けの帰りの会を、普段どおり進める。以前、相談した宣仁の名前を出して美咲たちへ注意していたことが、聞き取りで分かる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。