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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
25/52

第21話 繋がり始める点と点



 金曜日は、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。


 まだ起きなくても間に合う時刻だったが、布団へ戻る気にはなれなかった。体を起こし、机に置いた携帯を確かめる。新しい着信はなかったが、昨夜、真弓からかかってきた電話のことが頭から離れなかった。


『今日話してくれた子、ほかにも思い出したことがあるって。明日、聞ける時に聞いてみるね』


 寝る前に聞いて、ありがとう、と答えた。その言葉を思い返しても、何を思い出したのかまでは分からない。早く聞きたい気持ちを抑えながら携帯を閉じ、リュックサックの口を開けた。


 教科書の間には、昨日使ったノートがあった。翔太と待ち合わせる時間も書いてある。

 借りた文庫本は、部屋の机へ置いたままにした。返せる時にすぐ出せるよう、袋に入れてあった。


 今日は来るだろうか。

 そう思ってから、ノートを戻した。来たら聞こうと思っていることを、また1つ増やしそうだった。会いたいのに、会えたら何から話せばいいのか、自分でも分からなくなっていた。


     * * *


 いつも待ち合わせる公園へ着くと、翔太が先に来ていた。

 今日は拾われたノートを見せてもらうため、2人で少し早く学校へ行く約束だった。


「早いな」


 俺が声をかけると、翔太はこちらへ顔を向けた。


「お前もだろ」


 俺は携帯を開き、約束の時刻より早いことを確かめた。


「うん。まだ5分あるね」

「昨日、帰ってからも考えてさ。名前が汚れてんなら、中に書いてあるかもしれねえと思って」


 翔太は、手に持っていた筆箱をリュックサックへ戻した。

 昨夜、自分の使っているノートも裏返して、名前を書けそうなところを見てみたらしい。


「持ってきてくれてるといいんだけど」

「約束したから、大丈夫だと思う」


 2人で公園を出て、学校へ向かった。

 教室に荷物を置く時、隣の机には今日も何も載っていなかった。まだいつもより早いのだから、分からない。そう思って、いったん目を離した。


 翔太と廊下へ出る。

 別のクラスの前まで来ると、入口にいた男子へ翔太が声をかけた。そいつは俺を見てから、鞄を持って近づいてきた。


「持ってきた」

「ありがとう。こいつも一緒に見ていい?」

「うん。鳥居から聞いてる」


 俺は名乗り、急に頼んでごめん、と言った。

 男子は首を振り、鞄から薄い袋を出した。


「汚れてたから、これに入れてある」


 袋から出てきたノートは、端が丸まり、閉じていても厚みが揃っていなかった。

 破れていることは、昨日、翔太に聞いていた。それでも実際に受け取ると、自分が使うノートとは、手に持った感じから違っていた。


「開けていい?」

「いいよ」


 入口の近くにある、その男子の机を借りた。

 袋を広げ、その上にノートを置く。


 表紙の角がなくなっていた。名前を書く欄は黒いマジックで何度も塗りつぶされ、元の字がほとんど見えなくなっている。俺は顔を近づけたが、読めたのは組の数字の一部だけだった。


「3組……かな」

「俺も、そうかなって思った。でも、そっから先は分かんなくて」


 男子が言う間も、翔太は机の向こうから名前の欄を見つめていた。


 表紙をめくると、内側の下の隅に、小さな鉛筆の字があった。

 真ん中の名前欄とは別のところだった。俺はそこへ目を近づけ、残っている名前を読んだ。


 1年3組。富田優子。


「あった」


 俺の声で翔太も身を寄せ、同じところを覗き込んだ。


「……富田のだ」


 自分で言って、ようやく息を吐いた。

 持ち主を確かめられたらよかったはずなのに、よかったとは言えなかった。


 男子が、小さく、そっか、と言った。


「そこに名前、あったんだな。俺、見えてなかった」

「表紙の方、ひどいしな」


 翔太が答えた。


 最初のページをめくると、英語のノートだと分かった。日付の下に短い文が並び、書き直した単語には、消しゴムでこすった跡もある。その上へ、黒いマジックの太い字が乱暴に重ねられていた。


 きもい。

 来るな。


 その下には、英語の続きがあった。ノートの罫線に合わせて、きちんと書かれている。優子が授業を聞きながら書いた字を、あとから誰かが踏みにじったのだと思うと、悔しかった。


 続きを見ようとしたら、裂けた端が隣の紙へ引っかかった。

 慌てて指を止める。このまま引けば、俺がさらに破ってしまいそうで、どこを持てばよいか少し迷った。


「ゆっくりでいいよ」


 翔太が言った。

 俺は頷き、引っかかったところを外した。


 書いている途中だったのか、空いているところもあった。まだ使えるページが残っていて、使い終えたから捨てた物ではないことが分かった。


「これ、いつ拾ったの?」


 男子へ聞いた。


「水曜。部活終わってから」

「一昨日?」

「うん。体育館から回って帰る時に、落ちてるの見えて。紙が飛んでくのかと思ったんだけど、近づいたらノートだった」


 俺は、顔を上げた。

 一昨日なら、優子が先に帰った日だった。


「その時には、もう破れてた?」

「うん。濡れてもいた。中、全部は開けてないけど」

「誰かが持ってきたところとかは」

「見てない。周りにも、もう誰もいなかったと思う」


 男子は少し考えてから、俺の方を見た。


「だから、水曜に落としたかどうかは、俺には分かんない。前からあったのかもしれないし」

「……うん」


 持ってきた記録用のノートを開き、拾ったのは水曜日、と書いた。

 捨てられた日まで分かったわけではない。そのことは別の行へ、男子が話したとおりに残しておいた。


 男子が拾った場所を説明してくれたが、俺の思っていた校舎裏と少し違っていた。

 近くにある水道を聞いて、ようやく分かった。


「あとで、そこ、見せてもらってもいい?」

「昼休みならいいよ」

「ありがとう」


 俺はノートを閉じ、優子のノートへ目を戻した。

 机の上で、表紙が少し浮いている。


「これ、俺が預かってもいいかな。持ち主、同じクラスだし、返せるようにしておきたい」

「うん。そのつもりで持ってきたから」


 男子は、袋も使っていいと言った。

 翔太が開き口を持ってくれたので、俺は破れた端を引っかけないように入れた。


「富田さん、休んでるんだっけ」

「昨日は。今日、来るかはまだ分からない」

「……そっか」


 男子は鞄を自分の机の横へ置いた。


「拾った時、ただ汚れてるんじゃないってのは分かったんだ。名前が読めたら返せるかなと思って、持って帰ったんだけど」


 俺たちを見て、少し言いよどんだ。


「そのあと、何したらいいか分かんなくてさ」

「持っててくれて、助かった」


 俺は言った。

 拾われずにあの場所にあったら、今日も見つからなかったかもしれない。


「ほかにも何か気づいたら、教えてほしい。分からないところは、分からないままでいいから」

「うん」


 男子が頷いた。

 翔太も礼を言い、俺たちは教室へ戻った。


 教室へ戻る廊下で、袋の端が腕に当たった。

 自分のノートなら、軽く2つに折って持つこともある。今は同じことができず、破れたところへ力をかけないよう、持ち直した。


「勝也」


 前を歩いていた翔太が振り返った。

 近くに人がいないことを確かめてから、少し声を落とす。


「本人のだったな」

「うん」

「1冊だけじゃ、なかったんだな」


 月曜日に見たのは社会の教科書で、今、持っているのは英語のノートだった。持ち物を1つ見つけるたびに、知らなかった被害まで増えていく。


 俺は頷いた。

 教室のドアまで来てから、翔太が先に開けてくれた。


     * * *


 朝の会で、優子は今日も休みだと伝えられた。


 来週の月曜日は祝日で、明日からは3連休になる。先生は休みの間の過ごし方を話し、次の登校日は火曜日だと念を押した。


 配られた紙にある火曜日の時間割を連絡帳へ写しながら、英語の欄で手が止まった。

 次の授業には、今朝のノートがいるだろうか。優子が来た時、何を使って勉強するのだろうと考えていた。


 先生が話し終えた時、戸田が友達に何か言った。

 富永が笑った。

 そちらを見ていると、戸田も顔を向けた。


「何?」


 俺は、返事をしかけた。

 誰がノートに書いたのか。

 捨てたのは誰なのか。

 そのどちらも、まだ答えが出ていない。


「別に」


 それだけ言って、机へ目を戻した。

 今朝受け取った袋は、リュックサックの1番奥に入れていた。


 後ろを通ったのりちゃんが、1度だけ俺の肩へ触れた。

 俺は顔を上げ、休み時間に、と小さく言った。


 話せる相手が、同じ教室にいた。

 そのことを確かめてから、1時間目の教科書を開いた。


     * * *


 最初の休み時間、のりちゃんへノートのことを伝えた。

 袋の中を一緒に見たのりちゃんは、しばらく何も言わなかった。


「水曜に拾って、持って帰ってくれたんやな」

「うん。部活のあとだって」

「ほな、いつからそこにあったんかも、聞ける人おらんか探してみる」


 俺は頷いた。

 翔太と春樹にも、拾った場所を簡単に説明した。


 次の休み時間には、綾香が来た。

 手に、小さく折った紙を持っていた。


「昨日言ってた子と、少し話せた」


 綾香は、机に紙を広げず、俺の方へ寄った。


「富田さんの机を、何人かで動かしてたの見たって。夏休み前に」

「動かした?」

「うん。本人がいない時に、廊下の方へ。通るのに邪魔だったからって言ってたけど、そのあと、富田さんが1人で戻してたところも見てるって」


 俺は廊下側の席を見た。

 以前、自分が座っていた辺りとは違う場所を、綾香が小さく示した。


「名前は分かる?」

「杉浦さんは、分かるって。ほかの子は、顔は覚えてるけど名前までは、って」


 そこで綾香は、言い足した。


「その子、富田さんと話したことがほとんどなくて。机を戻してる時も、自分でできてるように見えたから、通り過ぎちゃったんだって」


 教室の入口を通すには、1人で持てる向きに机を直さなければならない。

 椅子も運ぶなら、1度では済まなかったはずだ。廊下からそれを戻す優子を思い浮かべながら、自分の机の脚へ目を落とした。


「あとで、詳しく聞いてもいいか、もう1回聞いてみる。今日は、私に話すので精いっぱいみたいだったから」

「うん。ありがとう」


 綾香が頷いた。

 紙を持つ指が、少し動いた。


「まだ、分からないところ多いね」

「うん。でも、1つ、分かった」


 そう言うと、綾香は紙を折り直した。

 自分で見た人がいた。

 今は、それが大事だった。


 昼休みには、ノートを拾った場所へ行く約束がある。

 俺は連絡帳の空いたところへ、忘れないように時刻を書いた。


     * * *


 ノートが落ちていたのは、校舎の裏にある、細い通路だった。


 給食を食べ終え、食器を片づけてから翔太と合流した。昼休み、ノートを拾った男子に案内してもらい、3人で外へ出た。

 体育館から昇降口へ戻る時にも通れる。ただ、少し離れた方を歩けば、この壁際までは見えない。


「ここの、下の方」


 男子がしゃがんだ。

 低い段差の隅を指す。


「端が出てたんだ。風で動いてて、紙かなって」


 俺も同じところへしゃがみ、男子の指した隅を見た。

 今は乾いた葉がいくつか溜まっているだけだった。手を伸ばしても、ノートがあるわけではない。朝、自分で受け取ったのだから当たり前なのに、しばらくその場所から目を離せなかった。


 それでも、1度、そこを見たかった。


「この時、ほかにも本とか、紙とかは」

「近くにはなかったと思う。俺も、全部見たわけじゃないけど」


 翔太が通路の先を見た。

 そのまま歩き出しかけ、振り返る。


「少し、見ていく?」

「うん。でも、次の授業には戻ろう」


 男子も一緒に、壁際を探してくれた。

 扉の下や植え込みの手前など、風で紙が引っかかりそうなところを順に見る。翔太が白い物へ近づいたが、拾ってみると、それは何かの包装だった。


 その1つ1つに、俺も顔を向けていた。

 すぐに見つかってほしくて、優子の物ではあってほしくなかった。


 見える範囲を回り終え、昇降口へ戻った。

 拾った男子は、ほかのやつにも水曜に何か見なかったか聞いてみると言った。


「ありがとう。思い出せないところは、無理に埋めなくていいから」

「うん。分かってる」


 別れる時、翔太がその男子の肩へ軽く手を置いた。

 男子も頷き、自分の教室の方へ行った。


 階段へ向かうと、のりちゃんが下りてきた。

 俺たちを見つけて、足を速める。


「おった。ちょうど戻ってきた?」

「うん。どうした?」

「ちょっと、話してくれるやつがおる。水曜に富田を見たって」


 俺は頷いた。

 ノートのことだろうかと思った。


「どこで?」

「外。本人に聞いてもらうわ。こっち」


 のりちゃんの後ろについていくと、渡り廊下の手前に男子が立っていた。

 顔は知っていた。体育の授業のあと、のりちゃんと用具を戻していたことがある。

 翔太も挨拶をした。


「急にごめん。荒川から、富田を見たって聞いたんだけど」


 俺が言うと、男子は頷いた。


「何かされたところじゃないんだけど。白い髪の子だよな」

「うん」

「その子なら、一昨日、部活が終わる少し前に帰ってくところを見た」


 俺はすぐには返事ができなかった。言われた時刻が、昨日まで考えていた下校の時間とつながらなかった。


「……部活が、終わる前?」

「うん。俺、陸上部で。片づけ始める頃に、校門の方、歩いてったから」


 のりちゃんが、俺の顔を見た。

 俺ものりちゃんを見た。


 俺たちが靴箱を確かめたあと、のりちゃんは部活へ行った。

 今聞いているのは、その部活が終わる少し前のことだった。優子は帰ったと思っていた時間より、ずっとあとに、校門を出ていた。


「水曜日、だよな」


 俺は聞き返した。

 男子の顔が、少し戸惑ったようになった。


「うん。昨日じゃない。水曜は、最後に道具運んだから。その途中で見た」

「何時くらいか、分かる?」

「分までは分かんない。片づけてから着替えて帰るくらいの時間。まだ練習してる人もいたけど、俺たちは、もう終わりにしてて」


 俺は、のりちゃんへ向き直った。


「俺たちが見た時、のりちゃん、まだ部活始める前だったよな」

「うん。あのあと着替えて、普通に練習したで」


 のりちゃんの声も、いつもより低かった。

 指先が、ズボンの縫い目の辺りへ触れていた。


「校門へ、出ていった?」

「うん。そっちへ歩いて、門の外へ行ったのは見た。顔までは、近くで見てないけど。あの髪の子、ほかにいないだろ」

「1人だった?」

「1人」

「誰かと話してたとかは」

「それは、見てない」


 男子は少し眉を寄せた。


「俺、その子もう部活辞めたって聞いたことあったから、今日は残ってたんだなって思ったんだ。何してたかまでは、知らないけど」

「その時、日傘、差してた?」


 尋ねながら、空だった傘立てを思い出した。


「いや。傘は差してなかったよ」


 俺は、のりちゃんと顔を見合わせた。

 あの時は、日傘も持って帰ったのだと思っていた。


「閉じて、手に持ってたとかは?」

「そこまでは見てない。リュック背負ってたと思うけど、手元までは覚えてない」

「靴は?」

「ごめん。足元も見てなかった」

「いや。ありがとう」


 差していなかっただけなら、閉じて持っていたのかもしれない。

 傘立てになかった日傘が、その時どこにあったのかは、まだ分からなかった。


 俺はノートを出した。

 書こうとしたところで、手が止まった。


 水曜の記録には、先に下校、と書いてあった。


 男子へ日付と場所を確かめ直し、水曜日の記録の次の行へ書き足した。

 その間にのりちゃんが、ほかにも一緒に片づけていた人がいなかったか尋ねる。男子はいくつか名前を挙げたが、その人たちも優子を見たかどうかまでは、分からないと言った。


「思い出したことあったら、荒川君に言う」

「頼む。急に呼んでごめんな」


 のりちゃんが言った。

 男子が戻っていくのを、俺たちは少し見送った。


 翔太が、壁際へ寄った。


「……時間、合わねえよな」


 俺は、頷くことしかできなかった。


「あの日、俺たちが確認した時も、まだ学校にいたのかもしれない」


 口にすると、帰ったはずだと思っていた時間が急に怖くなった。


 靴箱が空だった時にも。

 日傘がないのを見た時にも。


 俺たちが、ちゃんと帰ったんだなと言っていた時、優子はまだ校内のどこかにいたのだろうか。何も知らずに帰ってしまったのかもしれないと思うと、胸が詰まった。


「1回帰って、戻ってきたとかは」


 翔太が言った。

 でも、言い終えて、俺たちを見た。


「……今の話じゃ、そこまでは分かんねえか」

「うん」


 俺は答えた。


「でも、先に帰ったって、俺たち、見たわけじゃなかった」


 のりちゃんが、ゆっくり息を吐いた。


「教室から出たんは、聞いた。けど、そのあと外へ出たんは、誰にも聞いてへん」

「靴も日傘もなかったから、帰ったと思った」

「うん」


 あの時は、それで全部つながったと思った。

 荷物がない。靴がない。日傘もない。

 だから、持って帰った。


 そうではなかったら。


 俺は外へ出る扉を見た。水曜日も、ここを通った。優子はもう家へ着いているかもしれないと考えながら、自分も帰ったのだった。


「どこに、いたんだろ」


 声が出た。

 のりちゃんも、翔太も答えなかった。


 校舎裏のノートも、水曜日に見つかっていた。

 でも、それだけで優子がそこにいたとは言えない。日傘だって、本人が持ち帰ったのではなく、誰かに動かされたのかもしれなかった。

 考えるほど、あの空の靴箱をもう1度確かめたくなった。俺たちは、何を見落としていたのだろう。


 見ても、水曜日には戻れない。


「勝也。授業、戻ろ」


 のりちゃんが言った。

 俺は時計を見た。昼休みが終わる時刻が近かった。


「午後、聞く時は水曜の放課後も聞こう」


 翔太が言った。


「帰ったと思ってたから、そこの話、してなかったし」

「……うん」


 先に下校、と書いた字は消さなかった。その横へ、確認できていない、と書き足してから、俺はノートを閉じた。


     * * *


 午後の授業の前に、真弓と春樹へ、今の話を短く伝えた。

 綾香にも、席へ戻る途中で聞いてもらった。


「じゃあ、ずっと学校にいたのかもしれないんだ」


 真弓が言った。


「うん。どこにいたかは、まだ分からないけど」


 そこで、次の先生が教室へ入ってきた。

 みんな、自分の席へ戻った。


 俺は、ノートを閉じたまま机の中へ入れた。

 授業の板書を写そうとしても、さっき聞いた声が戻ってきた。


 部活が終わる少し前。


 その時間なら、俺は家にいた。

 水曜日の夕方、何をしていただろう。着替えて、水を飲んで、鞄を開けた。そんな、あとから思い出そうとしても曖昧になるくらい、何でもない時間を過ごしていたはずだった。


 俺が家で過ごしていた頃に、優子が校門を出る姿を見た人がいる。それより前、学校のどこにいたのかは分からない。俺たちが帰ったと思ったあとも残っていたのなら、その間、何をしていたのだろう。


 鉛筆を強く握りすぎて、指が痛くなった。持ち直して黒板へ目を戻しても、優子のいた場所ばかり考えてしまった。


 次の休み時間、俺は2年生の教室がある階へ上がった。

 山崎先輩に、話を聞いてほしかった。


 部室ではよく話す先輩でも、2年生の教室まで呼びに来るのは、いつもと違った。

 入口にいた人へ名前を伝えると、その人が中へ声をかけてくれた。少し待ってから、山崎先輩がこちらへ出てきた。


「鵜飼くん。どうしたの?」

「急に、すみません。ちょっと、聞きたいことがあって」


 先輩の顔から、挨拶の時の笑みが少し引いた。

 俺の声のせいかもしれなかった。


「うん。ここで話せる?」

「できれば、あっちで」


 廊下の端へ寄った。

 通る人の邪魔にならないところで、俺はノートを開いた。


「同じクラスの、富田って子のことで。前、吹奏楽部にいたんですけど」

「うん」

「持ち物に、ひどいこと書かれてて。今、友達と、何があったのか聞いてるんです」


 先輩は、ノートへ目を落とした。

 月曜の記録と、今朝受け取った英語のノートについて書いた行を見せた。

 休んでいることも伝えたが、その理由はまだ知らないと付け足した。


「先生には?」

「話しました。俺が話す前にも、同じクラスの荒川が相談してたんです。でも、本人が言わないと、って」


 先輩は、しばらく黙っていた。


「それで、鵜飼くんたちが聞いてるの?」

「はい。誰が何をしたのか、分からないこと多くて。先輩の友達に、吹奏楽部の人、いましたよね」


 甘い物の店を教えてくれた人の話を、俺は覚えていた。

 あの日は、次に何を頼むかという話をしていた。

 今は、先輩の返事を待つ間にも、指がノートの端へ触れていた。


「いるよ。部活でも、何かあったかもしれないってこと?」

「綾香にも聞いてもらってます。でも、同じ部でも、練習する場所とか違うみたいだから。何か見たことがないか、聞いてもらえませんか」

「分かった。聞いてみる」


 先輩は、すぐに答えた。


「その子が話せるって言ったら、鵜飼くんにも伝える。今日、放課後は学校にいる?」

「聞きに行く相手が何人かいるので、います。外へ出るかもしれないですけど、戻れます」

「じゃあ、帰る前に1度、声かけて。私も見つけたら呼ぶから」

「ありがとうございます」


 頭を下げると、先輩は俺の手元を見た。


「ずっと、これ書いてたんだね」

「忘れないように。昨日から、みんなにも書いてもらってます」

「そっか」


 先輩は、それ以上、ノートをめくらなかった。

 見せていないページを、自分から読もうとしないのがありがたかった。


「分かったことがあったら、ちゃんと話すね」

「はい」


 予鈴が鳴った。

 俺たちは、それぞれの教室へ戻った。


 階段を下りながら、開いたまま持っていたノートを閉じた。

 いつもなら、先輩と話すうちに、何か1つは笑うことがあった。今日は別れるまで、1度もそうならなかった。


     * * *


 帰りの会が終わると、真弓が来た。


「昨日の子、今から少し話せるって」

「俺も行っていい?」

「うん。そう伝えてある」


 リュックサックを持ち、2人で教室を出た。

 廊下では、戸田たちが話していた。

 杉浦がこちらを見たが、声はかけてこなかった。


 昨日と同じ女子に、隣の教室で会った。

 今日は、最初から鞄を持って出てきてくれた。


「また、ごめん」


 俺が言うと、その子は、小さく首を振った。


「私が、真弓に言ったから」


 人が少なくなった階段の踊り場へ移った。

 その子は手すりの手前で立ち止まり、俺たちの方を向いた。


「昨日、富田さんのこと聞かれて、帰ってから考えてたんだけど」


 俺はノートを取り出した。

 その子は、1度、俺の手元を見た。


「中学の、教科書とかは分かんない。でも、小学校の時も、ちょっと、あった」


 ペンの先が、紙に触れる前に止まった。


「小学校?」

「うん。5年の時、同じクラスだったの」


 5年。俺はもう、隣の家にはいなかった。


「何があったの?」


 声が少し早くなった。

 真弓が俺を見てから、女子へ向き直った。


「覚えてることからでいいよ」


 女子は頷いた。


「富田さんが隣に座ると、席をずらしたり。班を作る時に、もう決まったからって断ったりしてた」

「いっぱいだったから?」

「違う。まだ空いてるのに。そのあと、ほかの子には、こっち来てって言ってたから」


 俺は紙に短く書いた。日付までは分からないので、5年生の、同じクラスだった頃、と残した。


「富田さんが何か聞いても、返事しないこともあった。聞こえてるはずなのに、隣の子とだけ話してて」

「それ、同じ人が?」

「うん。いつも同じ何人か。ほかの子まで、何となく話さなくなることもあったけど」


 女子は、1度唇を結んだ。


「私も、話しかけなかった日、ある」


 真弓が黙って聞いていた。

 俺も、続きを待った。


「その子たちと一緒に無視しようって、約束したわけじゃないんだけど。隣で話してたら、こっちまで何か言われるかなって思って」


 鞄の紐を持ち直した。


「だから、私が何もしてないみたいには、言えない」


 俺は、女子の顔を見た。

 こっちを見ようとして、途中で目を落としていた。


「富田は、その時、何て?」

「最初は、もう1回、聞いてた。聞こえなかったと思ったのかもしれないけど。ねえ、って」


 その声は、俺にも思い浮かべられた。

 ゲームの画面ばかり見て返事をしないでいると、優子が隣から顔を覗き込むことがあった。もう1度呼べば聞いてもらえると、あの頃の優子は思ってくれていた。


「でも、そのうち、聞かなくなって。1人で、先生のところへ行ったりしてた」

「……そっか」

「読書の時間とか、本のことなら話してくれる時もあった。でも、休み時間は、だんだん、自分から人のところへ行かなくなったと思う」


 いつからか、1人で読んでいることが増えた。

 女子は、そう話した。


 その子が話しているのは、俺の知らない、5年生の優子だった。

 人見知りは昔からしていた。それでも、俺の後ろから顔を出し、一緒に遊ぶうちにほかの子とも笑えるようになっていた。中学校へ来て急に変わったわけではなかったのだ。会わなくなった間に、声をかけても返事をもらえず、1人で本を読むようになっていった日々があった。


「それ、今も同じ学校の人?」


 俺は聞いた。


「いる子もいるけど、別の中学へ行った子もいる。昨日の富永さんとは違う人だよ」


 その子は、覚えている名前を挙げた。

 俺が知っている名前も、知らない名前もあった。

 今、教科書のことで気にしている顔とは違った。


 俺は新しいページへ書いた。小学校の頃の話だと分かるようにして、さっきの中学校の話の下へそのまま続けることはしなかった。


「6年の時は?」

「私、クラス違ったから、同じことが続いてたかは分からない。たまに見かけた時には、本読んでたけど」

「うん」

「だから、ずっとそうだったって、そこまでは言えない」


 俺は頷いた。

 分からない1年を、勝手に同じ出来事で埋めてはいけなかった。

 でも、5年の時の優子を見ていた人が、目の前にいた。


「昨日、何で言わなかったんだろうって、帰ってから思ったの」


 女子が言った。


「中学に入って、また別のクラスになったから。昔のことだし、今は違うかもって、私も思ってて」


 今は違うかもしれない。

 俺も、何度もそういう考え方をしていた。

 休んだのは風邪かもしれない。話さないのは照れているからかもしれない。

 何もない方の理由を考えたら、そちらを信じたくなった。


「話してくれて、ありがとう」


 俺は言った。


「俺、知らなかったから」


 女子は、少し顔を上げた。


「今のことも、ほかに見てないか考えてみるね」

「うん。思い出したら、真弓に言ってくれてもいいし」

「分かった」


 その子が戻っていってからも、俺は少し、その場に立っていた。真弓は急いで歩き出さず、隣にいてくれた。


「勝也、知らなかったんだね」

「……うん」


 階段を下りてきた人が通った。

 2人で少し端へ寄った。


「5年って、俺がもう転校したあとなんだ」

「うん」

「俺は、向こうでみんなと遊んでた。優子も、こっちでそうしてると思ってた」


 毎日一緒に遊んでいても、会わなくなったあとのことまでは分からない。

 今日は何をしたのか。明日は誰と遊ぶのか。あの頃は、わざわざ確かめるまでもなく聞けたことだった。それが、俺の知っている優子の話には、全部抜け落ちていた。


「再会した時、もっと、ちゃんと話せばよかった」


 真弓が、俺を見た。


「今、話せるようにするために、聞いてるんでしょ」

「……うん」

「さっきの子にも、もう1回話してくれてありがとうって、私から言っとく」


 俺は頷いた。

 小学校の話を、今の誰かへ怒りをぶつけるために聞いたのではない。

 どうして優子が声を小さくしていたのか、知らなかった時間の一部を、ようやく聞けたのだった。


「ありがとう。俺、これ、みんなにも話す」

「うん」


 真弓は自分の時計を見た。

 部活へ行く時刻になっていた。


「私、あとで1人、日傘のことで聞けそうな子がいる。分かったら連絡するね」

「頼む」


 別れる前に、俺は、夕方も家へ集まれるか聞いた。

 真弓は、昨日と同じくらいなら大丈夫だと答えた。

 その約束をしてから、俺は茶道部を休むことを伝えに行った。


 顧問と部長へ、今日は用事があって参加できないと言った。

 詳しいことを聞かれたら、どこまで話そうか考えていたけれど、無理はしないようにと言われた。

 ありがとうございます、と答えた。


 今朝受け取ったノートを持っていることは伝えなかった。担任へ相談した時の返事が頭に残っていて、学校へ預ければそれで済むとは、まだ思えなかった。


     * * *


 教室へ戻る途中で、春樹がこちらへ来た。


「勝也、まだいた。少し、時間ある?」

「うん」

「水曜に、校舎の裏へ教科書みたいな物を持っていった女子を見た人がいる」


 俺は足を止めた。


「朝のノートの場所?」

「それとは少し違う。今、本人に来てもらってる」


 春樹に連れられていくと、昇降口の近くに男子がいた。

 春樹の知り合いで、放課後、部室へ向かう途中に見かけたという。


「何冊か、持ってたんだ。本みたいな、ノートみたいな」


 男子は両手の間を少し空けた。


「誰かに渡すのかと思ったら、建物の横へ入ってって。出てきた時には、手に持ってなかった」

「捨てたところは、見た?」

「中までは見えなかった。でも、そこからそのまま出てきたのは見た」


 春樹が頷いた。


「どこかに置いただけかもしれないって、この人は言ってる。俺も、まだ中を見てないから」

「うん。場所、教えてもらえる?」


 男子は、こっち、と歩き出した。


 道具を置く建物の脇だった。

 昼に見たノートの場所からは、少し離れている。

 建物と塀の間に、人が1人入れるくらいの幅があった。


「ここへ入ってった。俺、そっちから来たから、途中で見えなくなったんだ」


 男子の指すところへ立つと、確かに奥は見えなかった。

 入口へ寄り、中を覗く。


 紙の束があった。


「……ある」


 春樹が隣へ来た。

 俺は奥へ足を入れ、しゃがんだ。


 奥には、教科書が2冊重なっていた。

 上の1冊は開いたままで、ページが地面に触れている。紙を引っ張らないように表紙を持ち上げると、ついていた土が少し落ちた。


 数学の教科書だった。

 後ろの名前を確かめる。


 富田優子。


 今朝より、早く読めた。

 読めたことが、嬉しくなかった。


 春樹が俺の肩越しに見て、黙った。

 下にあったのは英語の教科書だった。こちらも、名前は同じだった。


 表紙だけでなく、中も黒いマジックで汚されていた。練習問題の上には太い線が何重にも走り、問題文が黒く潰れている。答えを書くための印ではなかった。授業で開いても、何が書いてあるのか読めないところがいくつもあった。


 俺は、教科書を閉じた。


「その女子、誰か分かる?」


 男子へ聞いた。


「杉浦さん。3組の。前に同じ班になったから、顔は分かる」


 春樹が、もう1度確かめた。


「水曜に、杉浦さんがここへ入ったところを見た、で合ってる?」

「うん。何時かは見てないけど、帰りの会のあと。俺が部活に行く途中だった」


 先生が呼んでいるという伝言を頼んだ杉浦。

 そして、教科書のあった場所へ、何冊か抱えて入った杉浦。


 俺は、教科書を抱え直した。


「ありがとう。分かるところだけでも、助かる」

「それ、その子のだったの?」

「うん。名前、あるから」


 男子が唇を結んだ。


「……そんなふうになってるとは思わなかった」


 春樹が男子の話を短く書き留めている間に、俺はもう1度奥を見た。落ちていた小さな紙も拾ったが、それは教科書とは関係のない包み紙だった。


 全部が優子の物に見えそうになる。

 そう思って、手を止めた。


 教科書を入れる袋が足りなかった。

 自分のリュックサックへそのまま入れようとすると、春樹が待ってと言った。


「俺、部室から紙もらってくる。挟めば、ほかの物につかないでしょ」

「いいの?」

「使っていい紙あるから。聞いてくる」


 春樹は男子と先に戻った。

 俺は教科書を持ったまま、外で待った。


 顔を上げると、校舎の窓が見えた。

 今週、あの中で優子は授業を受けていた。

 そのあとで、教科書はこんなところへ置かれていた。


 戻ってきた春樹から厚めの紙を受け取り、教科書2冊を挟んだ。

 それからリュックサックへ入れ、朝のノートの袋との間に自分のファイルを差し込む。破れたところ同士が、引っかからないようにした。


「俺、部活行ってくる。さっきの人の話は、書いとくから」

「ありがとう。夕方、また、うちで」

「うん」


 春樹が戻っていった。

 俺は、リュックサックの紐を肩へかけた。


 今朝より、重かった。


     * * *


 山崎先輩には、昇降口へ戻ったところで会えた。


「ちょうどよかった。友達に聞けたよ」


 先輩は、俺を見つけると近づいてきた。


「部活のあとなら、話せるって。私も一緒でいい?」

「はい。お願いします」

「5時半くらいには出てこられると思う。校門のところで待ち合わせにしようか」


 俺は時計を見てから頷いた。

 それまでなら、ほかに聞ける人のところへ行ける。


「その時間には、戻ってきます」

「うん。もし遅れるようなら、連絡するね」


 先輩がそう言い、校舎へ戻っていった。

 すぐあとに真弓が来た。


「勝也、少し来て。日傘の話、今できるって」


 真弓の知り合いが、別の女子へ声をかけてくれていた。

 その子は、図書室で本を返してから帰るところだった。


「傘、壊されたんだよね」


 挨拶のあとで聞かれ、俺は頷いた。


「俺が拾った時には、壊れてた。誰が持っていったかとかは、見てないけど」

「……それ、終業式の日?」

「うん」


 女子は、真弓を見た。

 真弓が頷くと、壁の方へ少し寄った。


「私、多分、その傘、見てる」


 俺はすぐにはペンを出さず、女子が話し始めるのを待った。


「帰り道で、前に何人か歩いてたの。白い傘を持ってる子がいて」

「差してた?」

「ううん。閉じたまま。あの日、晴れてたでしょ。学校に日傘を持ってくる子って、富田さんくらいしか見たことなかったから、気になって」


 女子は、道の名前を言った。

 俺にも分かる場所だった。


「しばらく帰る方が同じだったから、後ろを歩いてたんだけど。富田の傘、って聞こえたの」


 聞き逃してはいけないと思った。優子の物だと知っていて持ち歩いていたのなら、間違えて持ち帰っただけでは済まなかった。


「はっきり、富田って?」

「うん。それは覚えてる。だから、誰かに返すのかと思ってた」


 俺はノートを開いた。

 女子へ、書いてもいいか尋ねた。

 頷いてもらってから、昨日の地図の次のページへ、同じ道を描く。


「そのあと、石の壁みたいなところで止まって」


 女子が、地図の1か所を指した。


「傘を、ぶつけたの」


 真弓が、隣で動かなくなった。


「歩いてて当たったんじゃなくて。持ち上げて、わざと」

「持ってたの、誰か分かる?」

「戸田さん」


 俺は、ペンを紙につけた。

 戸田、と書いたところで、先が止まった。


「1回じゃなかった。周りも笑ってて。富永さんも一緒にいた」

「富永も、傘をぶつけた?」

「それは見てない。私が見た時、持ってたのは戸田さん。富永さんは、横で見て笑ってた」


 俺は、書きかけた行を分けた。

 同じ場所にいた人と、持っていた人。

 そこを一緒にしないようにした。


「骨が変になったみたいで、閉じてるのに広がっちゃって。その形を見せて、また笑ってた」


 女子は、説明するように手を少し動かしてから、下ろした。


「私、曲がるところまで同じ道だったから。そこまでは、見た」

「公園へ行ったかどうかは?」

「分かんない。私、そこで別の道に入ったから。持ってるのは見たけど、捨てたところまでは見てない」


 俺は、昨日描いた公園の印を見た。

 その公園へ行く途中に、今聞いた場所があった。

 でも、その間をこの子は見ていなかった。


「分かった。ありがとう」


 俺が言うと、女子は首を少し下げた。


「ごめん。私、そのあと何も言ってない」


 真弓が顔を上げた。


「誰にも?」

「うん。先生にも。見てたって言ったら、次、こっちに来るかもしれないと思って」


 女子は、鞄の持ち手を握った。


「次の日から夏休みだったし。学校で会わないから、そのまま……」


 俺は、すぐには返せなかった。

 あの日、優子は壊れた日傘を受け取った。俺は届けて、それで帰った。見ていた人は、何も言わずに夏休みへ入った。


 それぞれ別の場所にいて、同じ傘のことを、少しずつしか知らなかった。


「今日、話してくれて助かった」


 俺は、そう言った。


「ほかに何を見たか思い出したら、教えてほしい。誰が持ってたか、ちゃんと確かめたかったから」

「……うん」


 書き終えたノートを、女子の方へ向けた。

 覚えていないと言われた言葉まで、俺が足していないか。捨てる場面は見ていない、と書けているか。そこを含めて、話した内容と違わないか確かめてもらった。


 女子はその2つを読んでから、頷いた。


     * * *


 話を聞いたあと、真弓は部活へ戻った。

 俺は1度、校門の外へ出た。


 日傘を見つけた公園へは、いつもの帰り道を進めばよかった。聞いた石の壁の場所も、その途中にある。公園まで行って学校へ戻る時間を考え、待ち合わせの5時半に間に合うことを確かめてから歩き出した。


 道を歩く間、あの白い傘を持ち上げた時の感触を思い出していた。

 閉じているのに、骨が少し飛び出していた。

 紙を当てる時、手に引っかけないようにした。


 あの形になるところを、見て笑った人がいた。


 ノートを開きかけたところで、自転車に気づくのが遅れた。

 そのまま歩きながら見てはいけないと思い、道の端へ寄った。通り過ぎるのを待ってから、立ち止まって地図を確かめた。


 女子が言っていた分かれ道に着いた。

 片方は公園へ続き、もう片方は住宅の間へ入っていく。

 ここで曲がれば、その先は見えない。


 見ていないと言った言葉まで、その場に来ると分かった。


 公園では、小さな子が遊んでいた。

 ベンチのそばに、自転車が2台止めてある。

 日傘を見つけた植え込みの前へ行った。


 今は傘もなく、枯れた葉が重なった間に、小さな紙くずがあるだけだった。夏休み前の傘が、また出てくるわけではない。


 それでも、少ししゃがんで見た。

 今朝受け取ったノートも、誰かが1度しゃがんでくれたから、見つかったのだった。


 植え込みに沿って歩くと、少し離れたところに、折れた厚紙が落ちていた。

 青い端が見えたので、足を止めた。


 ノートの表紙だった。


 土を払うと、半分だけ残った名前の欄が見えた。

 富田、という字が読めた。

 下の名前のところは、破れていた。


 俺は、しばらくそれを持っていた。

 さっきの日傘の話と、同じ公園だった。

 でも、だからといって、同じ日に捨てられたとは言えない。


 内側を見ても、ページはついていなかった。教科も、書いた日も分からない。


 リュックサックから、プリントを入れていた袋を出した。

 中身を自分のファイルへ移して場所を空け、拾った表紙を入れる。見つけた場所は、さっきの日傘の地図と混ざらないよう、別に描いておいた。


 金曜日。自分で見つけた。

 富田と読める。下の名前は不明。表紙のみ。


 そこまで書き、手を止めた。

 全部を、優子の物だと決めてしまいそうになっていた。


 近くをもう少し見たが、続きのページはなかった。

 生垣の向こうは、別の敷地だった。

 中へ入ることはせず、外から見えるところだけ確かめた。


 携帯で時刻を見た。学校へ戻っても、待ち合わせにはまだ余裕があった。

 帰ったあとは、みんなと今日聞いた話を合わせる。忘れないうちに書き足しておこうとノートを出しかけて、まずは学校へ戻らないといけないと思い直した。


 学校へ戻る道で、リュックサックが少し揺れた。

 中に増えた物が、背中に当たった。


     * * *


 山崎先輩は、校門の内側にいた。

 隣に、鞄を肩へかけた女子が立っていた。

 俺が近づくと、先輩が軽く手を上げた。


「お待たせ。今、来たところ?」

「はい」

「この子。さっき話した、同じ茶道部の鵜飼くん」


 紹介され、俺は頭を下げた。

 相手も小さく頷いた。


「部活のあとに、すみません」

「ううん」


 短い返事だった。

 先輩が、門の前を空けるように少し移動した。俺たちも、通路の端へ寄った。

 まだ帰る人がいたので、もう少し声を落とした。


「詩織から、富田さんのことで聞きたいって」

「はい。部活の時、何かありませんでしたか」


 相手は、俺の持っているノートを見た。


「私、同じ楽器じゃなかったから。ずっと一緒に練習してたわけじゃないんだけど」

「はい」

「見たことは、ある」


 先輩が、隣で黙っていた。

 相手の言葉を代わりに続けようとはしなかった。


「違う譜面、渡されてた」


 俺は、ペンを持ち直した。


「間違えた物を?」

「ううん。わざと」


 言い切った。

 昨日から話を聞いてきた中でも、ためらいのない答えだった。


「渡す前に、話してたから。こっち渡そう、違うの吹いたら分かるし、って」

「誰が、言ってたんですか」

「杉浦さん。杉浦玲奈さん」


 俺は、名前を書いた。

 水曜の伝言と、別の行に。


「周りにも何人かいて。笑ってた。富田さんは、その時、そこにいなかった」


 相手は、紙を手渡す形に手を動かした。


「そのあと戻ってきた富田さんに、杉浦さんが渡したの。次、こっち使うって」

「渡したところも、見たんですか」

「うん。私は自分の準備してたから、同じ場所にいた」


 俺は書いた。

 渡す前の会話。実際に渡したところ。


「富田さん、ありがとうって言ってた」


 そこだけ、書くのが遅れた。


 ありがとう。

 間違えないように、教えてもらったと思っていたのだろうか。


「で、あとから練習の音が止まって。富田さんだけ違う紙になってるって、先輩が気づいた」

「そのあと、杉浦は」

「一緒に配られた紙だと思った、みたいに言ってた。でも、渡す前に自分で違うって言ってたから。私は、間違えたんじゃないって分かってた」


 俺は、紙の端へ指を置いた。

 押さえていないと、ノートが閉じそうになった。


「その場で、言わなかったんですか」


 声に出してから、少し強かったと思った。

 相手の目が下がった。


「……言わなかった」


 山崎先輩は、俺を止めなかった。

 けれど、相手を責める言葉も足さなかった。


「楽器も違うし、私が入っていくことじゃないって、思った。あとで面倒になるのも嫌で」


 相手は、顔を上げた。


「知らなかったんじゃない。知ってたのに、何も言わなかった」


 俺は、その人の顔を見た。

 分からないと答えて、帰ることもできたはずだった。

 でも、その人は、自分が黙っていたことまで話した。


「ほかにも、ありましたか」

「あった」


 今度の返事は、少し小さかった。


「感じ悪いから、あの子は入れなくていいって。話しかけられても、放っておこうって、話してたことがある」

「それも、杉浦?」

「うん。言い始めたのは杉浦さん。ほかの子も頷いてた」


 周りにいた人については、顔と名前が一致している人だけを教えてもらった。

 全員、という言葉にはしなかった。


「練習場所が変わる時も、富田さんだけ知らないまま残ってて。迎えに行った先輩が、伝わってなかったよって言ってた」

「それも、わざとだったってことですか」

「その時、伝えなかったところを最初から見てたわけじゃない。でも、置いてっちゃおうって話してるのは聞いた」


 俺は、書いていた手を少し止めた。

 譜面と同じように、最初から最後まで見た話ではなかった。

 そこを、言われたとおりに書き分ける。


「自分の練習があるからって、私も、そのまま行った」


 相手は、そう続けた。


 優子が遅れてきた時に、何人かが笑った。

 どうして遅れたのかを知っている人がいても、本人が謝っていた。


 俺のノートへ、その話が増えた。


 演奏のことを聞いた時、優子は少し嬉しそうだった。

 音が揃っているのが分かったと言うと、俺の方を見てくれた。


 俺の知らない人たちとも、一緒に音を合わせられる場所なのだと思っていた。

 優子が楽しそうにしていた時も、本当にあった。それなのに、楽器を吹く前から、違う譜面を渡されたり、練習へ遅れるようにされたりしていた。


「日にちは、覚えてますか」

「正確には、覚えてない。でも、まだ富田さんが辞めるより前。譜面の話は、1学期の途中」

「分かりました」


 俺は、無理に日付を埋めなかった。

 同じ日に自分が見に行っていたかも、今の話だけでは分からなかった。


 書いたところを見てもらった。

 聞き取りにくかった言葉を1つ直し、誰の発言だったか、もう1度確かめた。


 山崎先輩が、横から言った。


「今日、これを話そうと思ってくれたのは、私が聞いたから?」


 相手は頷いてから、少し考えるように目を伏せた。


「それだけじゃなくて。教科書にもひどいことをされてるって聞いて、あれで終わりじゃなかったんだって」


 俺を見た。


「辞めたから、もう会わなくて済んでるんだと思ってた。部活だけじゃなかったんだね」


 俺は、はい、と答えた。

 同じクラスなら、部活を辞めても会う。

 授業のたび、同じ部屋にいる。


「先生に、今日のこと、もう1度話してもらうことになるかもしれません」


 俺は言った。


「その時、自分で見たこととして、話してもらえますか」


 相手は、少し時間を置いてから頷いた。


「うん。言う」

「ありがとうございます」


 ノートを閉じると、先輩の友達が、富田さんにごめんって、と言いかけた。

 けれど、最後までは続かなかった。俺へ預ける言葉なのか迷ったように、途中で口を閉じた。


「……今、私がそれ言ってもらうの、違うか。ちゃんと聞かれたこと、話すから」


 俺は頷いた。

 代わりに許していいことではなかった。

 優子へ何を伝えるかも、今、この場で簡単に引き受けられなかった。


 帰る方向が違ったので、先輩の友達とは校門で別れた。山崎先輩はすぐには歩き出さず、門から少し離れたところで俺の方を向いた。


「大丈夫?」


 先輩に聞かれ、俺はノートを見た。


「……書けました」

「うん。それは見てた」


 顔を上げると、先輩が俺を見ていた。

 俺は、今度は少し考えてから答えた。


「聞く前より、嫌な気持ちになります。でも、聞かない方がよかったとは思わないです」

「そっか」

「富田、俺が演奏を見た時、嬉しそうだったんです。だから、辞めたって聞いた時も、何でだろうって思っただけで」


 そこまで話すと、言葉が続かなくなった。先輩は急かさずに待ってから、静かに言った。


「その時、楽しかったことも、なくなったわけじゃないと思うよ」

「……はい」

「だから、話してくれたんじゃないかな。うまくできたって」


 俺は頷いた。

 何もかも間違っていたのだと考えそうになっていた。

 でも、優子が少し明るい声で答えたことまで、嘘だったわけではない。


「手伝えることあったら、また言って。私も、話せるって人がいたら、勝手に連れてくる前に聞くから」

「ありがとうございます。先輩がいてくれて、助かりました」

「鵜飼くんだけだと、聞けない人もいるもんね」

「はい」


 先輩は自分の帰り道の方へ体を向けてから、もう1度こちらを見た。


「今日は、まだ集まるの?」

「友達と、家で。今日聞いたこと、合わせます」

「じゃあ、帰ったら、少し座ってね」


 俺は、そこでようやく、はい、といつもの声で答えられた。

 先輩へ頭を下げ、家の方へ歩き出した。


     * * *


 家へ着いて、リュックサックを下ろした。

 肩の跡を指で押していると、家の電話が鳴った。


 翔太だった。


『勝也、もう帰ってるな。今から、1人連れてっていい?』

「話してくれる人?」

『うん。日傘。夏休み前の方』


 俺は、テーブルへ置いていたノートを開いた。


「いいよ。何時まで平気か、聞いておいて」

『ちょっと話したら帰るって。そんな遅くならないから』

「分かった。待ってる」


 電話を切って飲み物を出し、着替えを始めた。途中で玄関のチャイムが鳴ったので、慌ててシャツの裾を直した。


 翔太と一緒にいたのは、別のクラスの男子だった。

 部活の知り合いを通して、話を聞けることになったらしい。

 帰る途中に寄ってくれたという。


「急に、悪いな」

「こっちこそ。上がって」


 まだほかのみんなは来ていなかった。

 3人でテーブルへ座ると、翔太が男子の方を向いた。


「さっきのこと、もう1回、話してもらっていい?」

「うん」


 男子は、コップを少し手前へ寄せた。


「終業式の日、公園にいたんだ。帰りに、友達待ってて」


 公園の名前を聞いた。

 俺が日傘を拾ったところだった。

 さっき、自分でも行ってきた。


「そしたら、女子が何人か入ってきて。壊れた傘持っててさ」

「その時には、もう壊れてた?」

「うん。骨が変な方へ出てて。使えねえだろって思ったの覚えてる」


 俺は頷いた。


「それを見せ合って、笑ってた。何であんなの持って歩いてんだろうって見てたら、植え込みのところへ捨てた」


 男子は、ぽん、と物を放るように手を動かした。


「持ってたの、富永。富永莉奈。小学校で同じクラスだったから、間違えてない」


 翔太の顎に、少し力が入った。

 俺はペンを動かした。


「色とか、覚えてる?」

「白。真っ白っていうか、汚れてたけど。模様までは分かんない」


 今度は、地図を出した。

 昨日描いた公園の簡単な形を見せ、どの辺りか尋ねた。


 男子は入口の位置を確かめてから、植え込みの一角を指した。


「こっち。俺は、この辺にいたから、見えた」


 俺が拾ったところだった。

 今日しゃがんで見た場所とも、同じだった。


「俺、そのあと、ここで拾ったんだ」


 言うと、男子は少し驚いた顔をした。


「あれ、拾ったの?」

「うん。紙で巻いて、持ち主の家へ届けた」

「富田さんの、だったんだな」

「うん。本人にも確認してる」


 男子は、机へ目を落とした。


「知らなかった。何で笑ってんだよとは思ったけど、富田さんのだったのか」

「壊したところも、見た?」

「そこは見てない。公園に来た時から、もう壊れてたから」


 男子の話を書いていると、さっき聞いた道の途中の出来事と、つながるところが見えてきた。

 ただ、全部を同じ人が見たわけではない。どこからどこまでを誰が見たのか、そこが曖昧にならないように書き分けた。


 石の壁のところでは、戸田が持っていた。

 公園では、富永が持っていた。

 その間、いつ手渡されたかは、どちらの人も話していない。


 だからといって、聞けたことがなくなるわけではなかった。

 それぞれの場所で、持っていた人を見た人がいる。

 壊すところを見た人がいて、捨てるところを見た人がいて、俺が拾った。


 傘は、自分であの公園へ移動したのではなかった。


「そのあと、誰かには話した?」


 俺が聞くと、男子は首を振った。


「変だとは思ったけど。壊れた傘を捨ててたって先生に言ったら、見てたお前は何してたんだって言われそうで」


 そこで、少し口をつぐんだ。


「言い訳だけどな。夏休みになって、会わなくなったし、誰にも言わなかった」


 翔太が、膝へ置いていた手をほどいた。


「今、話してくれたから、分かった」


 いつもよりゆっくり言った。


「それは、ありがとな」


 男子は頷いた。

 俺も礼を言い、書いたものを確認してもらった。


 帰る時、男子は、また聞きたいことがあったら鳥居に言って、と言った。

 俺は玄関で、そうする、と答えた。


 靴を履いて外へ出るのを、翔太と2人で見送った。


「つながったな」


 ドアを閉めてから、翔太が言った。


「うん」

「知らなかった、で済む話じゃねえよな。傘、壊して捨ててんだぞ」


 俺は、玄関の床を見た。

 何度も、何も言い返せない場面が浮かんでいた。

 今朝、教室で戸田に何、と聞かれた時も。

 月曜、先生に誰が書いたか分からないのだろうと言われた時も。


 何も分からないわけでは、もうなかった。


「……ちゃんと、書こう」


 俺は言った。


「持ってた人も、見た場所も。後から、違う話にされないように」


 翔太が頷いた。

 2人で部屋へ戻ると、書きかけのノートの隣に、今日持ち帰った教科書やノートが置いてあった。


     * * *


 春樹と真弓、綾香が来た時、時計は18時を回っていた。

 のりちゃんは少し遅れて来たが、今日は昨日より早く帰らないといけないと言った。


「自分の聞いた分、先に話してええ?」

「うん」


 のりちゃんは座るなり、自分のノートを出した。


「水曜に、校舎の奥の方で、女子が何人かおったん見たやつがおる。富田を見たかは分からへんって」

「何時?」


 春樹が聞いた。


「部活で荷物取りに戻った時らしい。詳しいこと、今日は時間足りんくて、明日、家に電話してもええって言うてもらった」


 のりちゃんは、電話番号を書いたページを1度確かめた。

 俺たちへ見せるためではなく、自分が明日かけるためだった。


「何か聞こえたって言いかけてたんやけど、周りに人がおったから、そこでやめた」


 俺はノートへ1行足した。何を聞いたのかは、まだ分からない。それでも、俺たちが帰ったと思い込んでいた時間に、学校で何があったのかを知る手掛かりになるかもしれなかった。


「明日なら、俺、時間ある」

「うん。本人に、一緒でもええか聞くわ」


 のりちゃんは頷いた。


 今日受け取った物を、1つずつ順に見せた。

 英語のノートは、拾っていた生徒から受け取った。教科書2冊は、春樹の知り合いに聞いて、置かれていた場所へ取りに行った。

 公園の表紙だけは、俺がたまたま見つけた物だった。名字は読めても、下の名前までは確かめられないことも伝えた。


 真弓が、袋越しにノートを見た。


「これ、こんなに……」


 言葉が止まった。

 綾香も、名前のところを見たまま動かなかった。


「昨日、黒いマジックで塗りつぶされてたって聞いたけど。実物は、想像してたよりひどいね」


 春樹が言った。

 今日、一緒に教科書を拾った時から、何度か同じ場所を見ていた。


 翔太が、英語のノートを袋へ戻した。

 昨日なら、破れた紙をまっすぐにしてみようと言ったかもしれない。

 今日は、めくりにくいところへ手をかけずに戻した。


「これ、全部、返せるのかな」


 綾香が言った。

 使えるのか、ということなのかと思った。

 でも、綾香は、書き込まれた表紙を見ていた。


「見たら、嫌なこと思い出すよね。でも、勝手に捨てるわけにもいかないし」

「……うん」


 俺は答えた。


「まず、なくならないように持ってる。本人がどうしたいか、俺が決めるわけにいかないから」


 春樹が、手提げ袋を1つ出した。

 家へ寄った時にもらってきてくれたという。


「一緒に入れとく? 勝也、自分の教科書も、毎日持ってくんでしょ」

「うん。助かる」


 それぞれの袋ごと、教科書とノートを手提げへ入れた。

 いつ、どこで、誰から受け取ったのかも、小さな紙へ書いて添えておく。公園で見つけた表紙には、持ち主がまだ確定していないことを、忘れずに書き足した。


 今日だけで、何度、同じ名前を書いただろうと思った。

 本人とは、1度も話せていないのに。


     * * *


 日傘については、地図を真ん中へ置いた。

 真弓が一緒に聞いたところを説明し、翔太が連れてきてくれた男子の話を、俺が続けた。


 のりちゃんが、公園の印を指した。


「ここで、勝也が拾ったんやな」

「うん。今日、見た場所も合ってた」

「水曜になくなった傘とは、別の話やな」

「そう。夏休み前の方。水曜のは、まだ、どうなったか分からない」


 春樹が、その2つを別のページに分けた。

 同じ日傘という言葉だけで話すと、聞いている途中でも一緒になりそうだった。


 次に、山崎先輩の友達から聞いたことを話した。

 譜面をわざと違う物にしたこと。

 渡す前の相談と、実際に渡したところを、両方見ていた人だったこと。


 途中で、綾香が顔を上げた。


「私、その話、少しだけ、富田さんから聞いてる」

「譜面のこと?」

「うん。でも、違う譜面を見ちゃったって、言ってたから……」


 綾香の声が途切れた。


「私、自分で違う紙を出したんだと思ってた」


 俺は、先ほどのノートを見た。

 ありがとうと言って受け取った、と書いてある。


「渡されたって、言ってなかったんだ」

「うん。誰にもらったか、私、聞いてなかった」


 綾香が、手を膝へ下ろした。


「話してくれてたのに」


 俺は、すぐには、仕方ないと言えなかった。

 綾香を責めたかったのではない。

 自分も、似たようなところで聞くのを止めていたからだった。


「俺も、吹けたところの話しか聞いてなかった」


 そう言うと、綾香が俺を見た。


「うまくできたって、あの時、本当に嬉しそうだったんだよ」

「……うん。楽しそうな時、あったよ」


 綾香は頷いた。

 その記憶は、俺と同じだった。


「私、部活でほかにも話せそうな人に聞く。場所が違って、見てなかったところもあると思うから」

「頼む」


 小学校の話もした。

 俺が引っ越したあとに、優子が受けていた無視や仲間外れのこと。

 今の教科書や日傘の話とは、別の人たちによるものだったこと。


 翔太が、何度か口を開きかけた。

 最後まで聞いてから、膝へ視線を落とした。


「そっちでも、そんなだったのかよ」


 大きな声ではなかった。

 それだけ言って、しばらく黙った。


「昨日、慣れた相手とはよく笑ってたって聞いてさ。俺の知ってる富田と、うまく重ならなかったんだ。でも、そうやって言わなくなったんなら……」


 続きは、言わなかった。

 俺も、続きを考えた。


 呼んでも返事がない。

 入れてと言っても、断られる。

 次に同じことをする前に、言わない方がいいと考えるようになっても、おかしくなかった。


 返事が短いと、俺と話したくないのかもしれないと不安になった。昔からの人見知りや再会の照れだけで説明しようとして、話しかけても応えてもらえなかった時間のことを、俺は知らずにいた。


 春樹が、開いていたページを少し戻した。


「水曜の話、もう1回、時間だけ合わせよう」


 のりちゃんが時計を確かめ、まだ少し大丈夫だと言った。


 委員会が終わったあと、教室へ戻った。

 荷物を持って出たと聞いた。

 靴箱と傘立てを確かめた。

 そのあとで、のりちゃんは部活へ行った。


 陸上部の生徒が見たのは、それからずっとあとの、片づけを始める頃だった。


「ここ、空いてるんだね」


 真弓が言った。

 俺たちが帰ったと思った時から、実際に出ていく姿が見られるまでの間を指した。


「うん」


 俺は、昨日書いた1行を見た。

 富田は先に下校。


「俺が、帰ったって書いた」


 言うと、のりちゃんがすぐに顔を上げた。


「自分も、同じこと思った。勝也だけが決めたんやない」

「うん。でも、確認できたみたいに、書いてた」


 先に下校、という字の横へ、今日聞いた話のページを書いた。

 消して書き直すと、あの時の考えまでなかったことにできそうだった。

 俺は、そうしたくなかった。


「この時間に何があったのか、聞こう」


 春樹が言った。


「帰ったって思ってたから聞かなかったところ、今なら聞けるでしょ」


 のりちゃんが頷いた。


「あと、靴と日傘がなかったんは、別に確かめよう。富田が持ってたって見たやつは、まだおらへんから」


 俺は、その2つを書いた。

 空いていた靴箱を見ただけでは、何があったのか、まだ分からない。

 今度は、分からないまま書いた。


     * * *


 のりちゃんが帰る前に、明日、連絡がついたら知らせてもらう約束をした。

 家に電話する相手には、家へ。

 携帯の番号を知っている相手には、先に都合を聞く。

 急に6人で行ったり、同じ人に何度も同じ質問をしたりしないよう、それぞれが聞く相手を確かめた。


「自分、明日の午前は1回家におるから」


 のりちゃんが鞄を持った。

 俺も立ち上がり、玄関まで送った。


「今日も、ありがとう」

「うん。また連絡する」


 靴を履いたあと、のりちゃんは1度、こちらを見た。


「勝也。自分も、あの日、帰ったと思ってもうたん、ずっと考えてる」

「……うん」

「でも、今日の話してくれたやつが間違うてることにしても、何も変わらへんから」


 俺は、顔を上げた。


「分かってる」

「うん。ほな、また明日な」

「また明日」


 ドアを閉め、少しだけその場にいた。

 時刻が違うと分かった時、ほかの日の見間違いではないかと思いたくなった。

 のりちゃんも、同じだったのかもしれない。


 部屋へ戻ると、春樹が、紙を2つに分けていた。


「今日聞けたところと、明日聞くところ。別にしといた方が、朝、分かるでしょ」

「うん」


 真弓は、メモの1か所を指した。


「明日、勝也に直接話してもいいって子もいる。ほかの人は、いない方がいいみたいだけど」

「分かった。1人で行く」

「じゃあ、時間、もう1回聞いて連絡するね」


 綾香は、自分がもう1度確かめたいところへ、小さく丸をつけていた。

 今日は話せなかった相手にも、連休中に連絡を取ってみるという。


 翔太が、壁の時計を見た。


「学校休みでも、聞けるんだな」

「連絡ついた人ならね」


 春樹が答えた。


「あと、俺たちのノート、1回ちゃんと合わせないと。同じ話を違う人から聞いてるところ、もうあるから」

「うん。土日の、集まれる時にやろう」


 俺は頷いて、テーブルへ広がった紙を見た。

 春樹のノートに、綾香の小さなメモ。真弓が話しながら付け足した字もあり、今日増えた記録は、大きさも書き方も揃っていなかった。

 全部を俺の字で写すより、それぞれの書いた物を残して、本人に確かめてもらいながらまとめる方がよかった。


「連休の宿題も、忘れないでね」


 春樹が言った。

 翔太が顔を上げた。


「……あ」

「忘れてたでしょ」

「今、思い出した」

「同じことでしょ」


 真弓が言った。

 俺も、リュックサックの中に入れた問題集を思い出した。


「俺も、今日の分まだだった」

「じゃあ、帰ったらやる。ここは今日は終わり」


 春樹が、自分のノートを閉じた。


「それまで俺に見てもらうつもりじゃないよね」

「今日は、ちゃんと自分でやる」


 翔太が答えたので、俺も頷いた。

 真弓が少し笑った。

 綾香の口元も緩んだ。


 いつもの話だった。優子のことを考えている間に、こんな話をしてもいいのだろうかと思っていたけれど、みんなの顔を見ていると、息が少し楽になった。


 帰る時刻が来て、みんなが荷物を持った。

 19時になる前に、部屋には俺だけになった。


     * * *


 窓の外は、もう暗かった。


 テーブルを拭き、コップを片づけた。母さんが帰る21時頃までは、まだ時間がある。

 夕飯を温めて席へ座ると、リュックサックから、今日使った連絡帳を出した。


 火曜日に持っていく物が書いてあった。

 その隣に、聞き取りの約束と、分からないまま残っていることを書いた紙を置いた。


 ご飯を食べながら読もうとして、箸が止まった。

 また、紙に気を取られていた。これではいつまでも食べ終わらないと思い、いったん閉じて、先に夕飯を食べた。


 部屋へ戻ってから、優子の物を入れた手提げ袋を、机の横へ置いた。

 倒れて踏んでしまわない場所を選んだ。


 英語のノートには、優子が勉強した字が残っている。

 ひどい言葉を上から書かれても、ページを破られても、その下や続きには、授業を受けていた跡があった。俺と同じ先生の話を聞き、同じ問題を解いて、あの字を書いていた。


 そのノートがどこへ行ったのか、優子は知らないかもしれない。

 探しても出てこなかったのかもしれない。


 見つかったよと、伝えたかった。

 でも、このまま袋を開けて見せたら、あの字も、もう1度見せることになる。


 返すだけでは、何も元には戻らなかった。


 俺は机の上の袋から、借りた文庫本を取り出した。こちらには破れたところも、あとから書き込まれた字もない。借りた時と同じ形で、優子へ返せる物だった。


 これを貸してくれた時、優子は、少し嬉しそうだった。

 あの声で、また話してほしかった。


 優子の家へ行けば、会えるだろうか。

 玄関まで出てきてくれるだろうか。


 考えると、教室で教科書のことを聞いた時の顔が浮かんだ。

 また、何があったか説明させるために来たと思われたくなかった。

 今の俺には、聞きたいことが、あまりにも多かった。


 明日、話してくれる人がいる。

 優子に同じことを繰り返し尋ねなくても、確かめられることがまだある。


 俺は文庫本を袋へ戻し、自分のノートを開いた。


 水曜日の欄を開き、今日聞いた話を足していった。

 優子が校門を出るところを見た人。英語のノートを拾った人。杉浦が教科書を抱えて歩いていたところを見た人。それぞれが見聞きした時間を、もう1度確かめながら並べた。


 1つの午後にあったことなのに、まだ、間が抜けていた。


 靴箱を見た時、俺は、もう大丈夫だと思った。

 のりちゃんへ礼を言い、自分の靴を履いた。

 そうして外へ出たあとに、校舎の中で何があったのか。


 俺は、空いている行を見た。

 明日、そこへ何を書くことになるのかは分からなかった。


 でも、もう、何もなかったことにはできなかった。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

翔太とノートを受け取り、目撃情報を頼りに教科書も回収する。水曜日の下校についての思い込みを見直し、親友たちや詩織先輩と協力して、これまで知らなかった優子の過去と被害の経緯を確かめていく。


・荒川宣仁

水曜日の下校を見た生徒を勝也へ紹介し、優子は先に帰ったという勝也と自分の思い込みを振り返る。校内の様子を知る別の生徒にも話を聞く約束をする。


・鳥居翔太

朝は勝也と公園で合流し、早めに登校してノートを確認する。夕方には日傘が捨てられるところを見た男子を勝也宅へ案内し、聞き取りと記録を支える。


・鶴見春樹

教材を持ち運ぶ女子を見た知り合いを勝也へ紹介し、一緒に教科書を回収する。集まった情報と品物を整理し、翌日以降に確かめることを考える。


・加藤真弓

小学校時代の優子を知る女子への聞き取りに同行する。日傘の破壊を見た女子にもつなぎ、勝也を支えながら情報を集める。


・井上綾香

優子の机が動かされたという目撃情報を伝える。部活での証言を聞き、優子から以前聞いた譜面の話を捉え直して、さらに聞き取りを続けようとする。


・山崎詩織

勝也の相談を受け、吹奏楽部の友人へ話をつなぐ。聞き取りにも同席し、優子の被害を知って苦しむ勝也を気遣う。


・詩織の友人

玲奈が違う譜面を渡す前の会話と実行、仲間外れを促す言葉などを見聞きしていたと話す。黙っていたことも認め、必要なら教師にも説明すると約束する。


・ノートを拾った男子

水曜日の部活後に拾い、保管していた英語のノートを勝也たちへ渡す。昼休みには発見場所を案内し、周囲を探すのも手伝う。


・優子の下校を見た男子

水曜日の部活が終わる少し前、優子が校門を出るところを見たと話す。日傘を差していなかったことも伝え、勝也たちが下校時刻を見直すきっかけになる。


・真弓の知り合いの女子

小学校5年生の時に優子と同じクラスで、無視や仲間外れを見ていたと話す。自分も関わることを恐れ、話しかけなかった日があったと打ち明ける。


・教材の持ち出しを見た男子

水曜日、玲奈が本のような物を抱えて建物の脇へ入り、手ぶらで出てきたと話す。勝也と春樹をその場所へ案内する。


・日傘の破壊を見た女子

終業式の日、美咲が白い傘を石の壁へ繰り返しぶつけ、莉奈も隣で笑っていたと話す。怖くて教師へ伝えられなかったことも認める。


・日傘が捨てられるところを見た男子

翔太とともに勝也宅を訪れ、終業式の日、莉奈が壊れた白い傘を公園の植え込みへ捨てたと話す。場所は勝也が拾ったところと一致する。


・戸田美咲

朝の教室で勝也の視線に気づき、声をかける。聞き取りでは、夏休み前に日傘を壊すところを見たという証言が出る。


・富永莉奈

教室では美咲と普段どおりに過ごす。日傘の破壊を見て笑っていたことと、公園へ捨てたことについて、別々の目撃者から話が出る。


・杉浦玲奈

放課後、教室を出る勝也たちへ目を向ける。机の移動、教材の持ち出し、部活動での妨害について、見聞きした生徒から名前が挙がる。


・1年3組の担任

朝の会で優子の欠席を伝え、連休中の過ごし方や火曜日の予定を話す。


・茶道部の顧問と部長

活動を休むと伝えに来た勝也の申し出を受け、無理をしないよう声をかける。

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