第20話 終わらない昨日
* * 優子視点 * *
目を閉じると、笑う声がした。
誰かが、すぐそばにいるような気がした。
私は布団の中で手を引き、目を開けた。
目に入ったのは、いつもの天井だった。
見慣れた照明のそばに、消したあとの小さな明かりが残っている。廊下へ続くドアも、さっきと同じように少しだけ開いていた。
家だった。
水曜日の夜、学校から帰ってきてから、何度も同じことを確かめていた。
制服はもう脱いだし、上履きも履いていない。濡れたリュックサックは、お母さんが下へ置いてくれた。学校にあった物からは、離れているはずだった。
ここには、誰も入ってきていない。
分かっているのに、目を閉じると、昼間の顔がすぐ近くに戻ってきた。
手が痛んだので、お母さんが手当てしてくれたところを布団の上へ出した。
見ても、上には何も載っていない。それなのに、まだ押さえられているような感じがして、すぐには動かせなかった。
痛くない方の手で、布団の端を持った。
肩まで引き上げ、もう1度横を向いた。
眠れば、朝になる。
いつもは、そうだった。
布団へ入って、今日読んだ本のことを少し考えているうちに、次に目を開けた時には明るくなっていた。
今日は、本の中のことが思い出せなかった。
代わりに、私の顔を覗き込んだ莉奈さんが浮かんだ。
やめてと言った時、口元が笑っていた。
私は目を開けた。
まだ、同じ天井だった。
* * *
枕元には、コップが置いてあった。
少し前に、お母さんが持ってきてくれた水だった。
喉は乾いていたけれど、起き上がろうとすると手が気になった。そこへ体重をかけないよう、肘と背中を少しずつ動かして、ようやく体を起こした。
片手でコップを持った。
水を1口飲むと、口の中が少し冷たくなった。
何も食べていないことを思い出した。
さっきも、お母さんに聞かれて、いらないと答えた。
お腹が空いたのかどうかも、よく分からなかった。
コップを戻す時、台へ当たる音がした。
筆箱が落ちたところを思い出した。
床に転がった物を、拾おうとした時のことも。
慌てて手を膝へ戻した。
ここで何か落としたのなら、自分で拾えばよかった。誰かに聞かなくても、手を伸ばしていい。自分の部屋なのだから、そのくらいは分かっているはずだった。
でも、体が先に止まった。
動かないままいると、今度は、何をしているのだろうと思った。
自分の部屋にいるのに。
ドアの向こうで、足音がした。
私は顔を上げた。
「優子。起きてる?」
少し開いていたドアの向こうから、お母さんが顔を覗かせた。
私は小さく頷いた。
それを見て、お母さんはそっとドアを開けた。部屋の明かりをつけず、ベッドのそばへ来てくれた。
「眠れない?」
私は頷いた。
「手が痛む?」
それもあった。
でも、痛いから起きているだけではなかった。
どう答えようか迷っていると、お母さんが椅子へ座った。
「少し、ここにいるね」
私は頷き、布団へ目を落とした。
お母さんの手が、布団の上へ来た。
手当てしたところに当たらないよう、端を整えてくれた。
「明日は、学校の支度をしなくていいからね」
さっきも聞いた言葉だった。
私は、もう1度頷いた。
お母さんがいる間なら、目を閉じても大丈夫かもしれないと思った。
ゆっくりまぶたを下ろした。
まぶたを閉じた途端、床の模様が浮かんだ。
そこに自分の手があって、その上へ靴が重なっている。見たくないと思う前に、昼間と同じところまで思い出してしまった。
息を吸ったところで、肩が動いた。
すぐに目を開けると、お母さんがこちらを見ていた。
「優子?」
何か言おうと口を開いた。
怖い。目を閉じると、今日のことが見えてしまう。本当は、それをお母さんへ伝えたかった。
それだけなのに、どの言葉から出せばいいのか分からなかった。
声になる前に、喉のところが痛くなった。
私は小さく首を横に振った。
何でもないと伝えたかったわけではなかった。けれど、怖いとも、助けてほしいとも言えず、唇を閉じた。
お母さんは、その仕草の意味を問い返さなかった。
私が見ている方へ、少し体を寄せた。
「お母さん、ここにいるよ」
私はその顔を見た。
見ていれば、少なくとも目の前にいるのは、お母さんだった。
* * *
しばらくすると、お母さんの手が止まった。
眠くなったのかと思った。
私が寝ないせいで、お母さんも寝られない。
もう大丈夫だから、休んでほしい。
そう伝えようとして、口を開いた。けれど、言葉は出なかった。
お母さんが顔を上げた。
「少し、横になってみる?」
私は小さく頷いた。
もう大丈夫になったからではなかった。けれど、いつまでそばにいてほしいのか聞かれたとしても、自分では答えられそうになかった。
お母さんは、すぐには立たなかった。
私が枕へ頭をつけるところを見ていた。
「眠れなかったら、また呼んで。お水でも、何でも」
私は頷いた。
「話したいことがなくても、いいからね」
もう1度、小さく頷いた。
お母さんはコップの位置を確かめ、足音を小さくして部屋を出た。
ドアは、閉め切らずにいてくれた。
私は、廊下の細い明かりを見た。
呼んでいいと言われた。
それでも、さっき出ていった人を、すぐにまた呼ぶことができなかった。
目を閉じずに眠れればいいのにと思った。
天井を見たまま、何も考えずにいられたら。
目を開けていても、声までは消えなかった。
私の物を持っていく時、誰が、どんなふうに笑っていたのか。もう要らなくなった物のようにノートを扱われたことまで、天井を見ている間にも思い出した。
お母さんが買ってくれた物だった。
大事に使おうと思っていた。
私は、部屋の隅へ目を向けた。
いつもリュックサックを置く場所には、何もなかった。
そこにないのに、中に入っていた物のことばかり考えた。
* * *
体の向きを変えた時、髪が頬へ落ちてきた。
いつもなら、後ろへ流せばまとまるはずだった。
腰まである髪が下敷きにならないよう、寝る時は枕の横へ出していた。今日も同じようにしようとして、指が途中で止まった。
短いところがあった。
長いままのところもあった。
見なくても、揃っていないことが分かった。
私は手を離した。
髪へ触れただけで、押さえられた時のことを思い出した。
嫌だと言った。
やめてと言った。
それでも、私の方が動くから悪いように言われた。
動かなければ、よかったのだろうか。
そう考えて、すぐに分からなくなった。
動かなかったら、逃げることもできなかった。
枕へ顔を向けると、まぶたに布が触れた。
また目の前が暗くなった。
私は顔を上げた。
横になっているだけなのに、息が速くなっていた。
時計を見た。
思っていたより、少ししか進んでいなかった。
何度も寝返りを打った。水を飲み、お母さんにもそばにいてもらった。
それだけのことをしているのに、時計は少ししか進んでいなかった。まだ夜が続くのだと思うと、どこを見ていればいいか分からなくなった。
枕の向きを変えた。
布団を少し下げた。
顔を横へ向けたり、上へ向けたりしてみた。
どの向きでも、目を閉じたあとのことは同じだった。
* * *
眠るのをやめて、本を読もうと思った。
机の明かりをつけ、本を1冊だけ持ってベッドへ戻った。
何度も読み返した本だから、次にどうなるかは分かっている。最初から読まなくても、好きなところを開けば、その場面を思い出せるはずだった。
片手で表紙を開いた。
ページを押さえる指を変えると、挟んであった栞が布団へ落ちた。
拾おうとして、手が止まった。
誰もいない。大丈夫。
自分に言い聞かせてから指を伸ばし、落ちた栞を拾って表紙の上へ置いた。それだけのことをするのに、いつもよりずっと時間がかかった。
最初の行を読んだ。
次の行へ目を動かしたところで、何が書いてあったか分からなくなった。
もう1度、同じところを読んだ。
今度は、言葉の1つが、学校で聞いた声へ変わった。
私は、本を閉じた。
勝也くんへ貸した本のことを思い出した。
今、どの辺りを読んでいるだろう。
もう読み終わっているかもしれなかった。
貸す時には、感想を聞くのが楽しみだった。
それなら、私から話しかけてもよいと思った。
どこが好きだったか聞いたら、少し長く話せるかもしれない。
隣になった時、小学校でも何度か隣だったと、勝也くんが言ってくれた。
私も同じことを思い出していたのに、先に話してくれたのは向こうだった。
思い出すと、会いたくなった。
でも、今の髪を見られるところまで考えると、顔を上げられなくなった。
何か聞かれたら、また黙ってしまう。
手のことも、荷物のことも、隠しきれない。
奈々さんの声を思い出した。
勝也くんが、私をどう思っているのか。自分で聞いた言葉ではないのに、何度も繰り返し考えているうちに、本当にそう言われたような気がして、頭から離れなくなっていた。
そんなことは言わないと思いたかった。
でも、もし本当に迷惑だったら。
困った顔をしていたから、放っておけなかっただけだったら。
勝也くんが優しいことは、今も分かっていた。
分からなくなったのは、その優しさを私が喜んでもよいのか、ということだった。優しい人だから、嫌だと言えずにいてくれたのかもしれない。そう考えると、会いたい気持ちまで止めたくなった。
私は、閉じた本へ手を置いた。
会いたいと思うことまで、いけないことのように感じた。
* * *
廊下の明かりが、1度、少し強くなった。
足音が近づき、部屋の前で止まった。
私は横になったまま、動かなかった。
眠っていると思われたかもしれなかった。
布団の端へ触れる気配がして、やがて、足音が遠ざかった。
呼ぼうと思った。
お母さん、と、口だけを動かした。
声が出なかった。
今日、トイレへ来た人の顔を思い出した。
助けてと、言えた。
聞こえるところへ来た人に、初めて言えた。
でも、その人は、行ってしまった。
お母さんは、その人とは違う。
帰ってきた私を家の中へ入れ、手当てをして、学校も休んでいいと言ってくれた。そばにいてくれたことを、何も忘れたわけではなかった。
それなのに、声を出そうとすると、あの時の足音が先に戻ってきた。
また聞いてもらえなかったら、と、考えるより前に喉が固くなった。
私は、枕へ頬を押しつけた。
泣いている音を聞かれたくなかった。
心配してほしくないわけではなかった。
気づいてほしかった。
でも、気づいて来てくれた時に、何を言えばいいか分からなかった。
涙が止まっても、眠くはならなかった。
目が疲れて、まぶたを下ろしたくなる。でも、少し閉じるだけで、体にはまた力が入った。眠りたいのに、そのまま目を閉じていられなかった。
私は、廊下から入る光を見続けた。
* * *
窓の方が白くなり始めた時、まだ起きているのだと分かった。
眠ってから目を覚ました朝ではなかった。
暗かったカーテンの隙間へ、少しずつ外の光が増えていく。その間をずっと見ていたのだと気づいて、私は布団の中で瞬きをした。
木曜日になっていた。
今日は、学校へ行かない日だった。
昨日の夜、お母さんがそう言ってくれた。
連絡もしてくれた。
だから、起きて制服へ着替える必要はなかった。
それでも、いつも家を出る時間が近づくのが怖かった。
今日は休んでいい。
でも、今日が終わったら、明日が来る。
金曜日には、行けるようにならなければいけないのだろうか。
手の痛みがなくなったら、もう大丈夫だと思われるだろうか。
髪を整えてもらったら、教科書を用意してもらったら。
どれが元に戻っても、私は、あの場所へ戻るところを考えられなかった。
布団の上で、足を縮めた。
重い体を動かすと、昨日のあざが痛んだ。
窓の外で、鳥の声がした。
階下からは、食器を動かす音が聞こえた。
朝ご飯の支度が始まっていた。
いつもの朝だった。
違うのは、私だけのように思えた。
お母さんに言えばよかった。
今日だけでは足りない。明日も、その先も、学校が怖い。
頭の中なら、何度も同じ言葉を並べられた。
今日だけでは足りない。明日も怖い。それだけのことを言いたいのに、お母さんを呼ぶために声を出そうとすると、そこから先へ進めなかった。
明るくなった机を見た。
昨夜、閉じた本があった。
栞は、その表紙に載っていた。
眠れなかった夜が終わっても、昨日のことは遠くならなかった。
新しい朝が来たことを、少しも嬉しいと思えなかった。
* * *
そこから先のことは、あとで思い返してもうまく順番にならなかった。
もう苦しいことを考えなくて済む。
そんな思いが浮かんだ。
ほかに何もないように思い込んでいた。
次に覚えているのは、痛みだった。
思っていたことと目の前で起きていることが合わなかった。
熱いというより、深く冷たいものが走る感覚。
それなのに、痛い。
痛いはずなのに、どこか遠くの出来事みたいに感じた。
急に、まぶたが重くなった。
ずっと眠れなかった時とは違って、自分で目を開けていることが難しかった。
昨夜は、一睡もしていない。
なのに今は、どうしようもなく眠たかった。
眠いのかもしれないと思った。
でも、どこへ体を預ければいいかも分からなくなった。
指先の感覚がぼやけて、自分の手がどこにあるのかも曖昧だった。
カッターナイフが、手元から落ちた。
硬い音がした。
拾おうとは思えなかった。
これで楽になれる。
そう思った。
誰にも何も言われない。
自分の持ち物を壊されることもない。
暴力を振るわれることもない。
明日、また学校へ行くことを考えなくていていい。
そう思うと、少しだけ体が軽くなった気がした。
でも……
意識が途切れるその寸前ふと、一人の顔が浮かんだ。
ずっと、小さい時から大好きだった。
中学校で再会できて、少しだけど話せた。
席替えで、隣の席になった。
また話せると思っていた。
もっと、いろんなことを話したかった。
勝也の名前を呼びたかった。
まだ、話したいことがあった。
その先は、覚えていなかった。
* * 美和視点 * *
台所にいると、2階で物音がした。
小さな物が床へ当たり、そのあとに、少し重い音が続いたように聞こえた。
私は朝食の椀を出しかけたまま、手を止めた。もう1度何か聞こえないかと、階段の方へ顔を向けた。
優子が起きたのだろうか。
窓からは、朝の光が入っていた。
今日は学校の支度をしなくていいと、昨夜、何度か話した。
夜中に様子を見た時には、静かに横になっていた。
少しは眠れたのならよいと思っていた。
朝ご飯は食べられるだろうか。
昨夜は、何も食べていなかった。
少しだけ持っていくか、先に聞いてこようと思った。
夫は、リビングにいた。
今日は仕事を休むため、連絡を入れていた。
「優子、起きたみたい。見てくるね」
夫がこちらを向き、頷いた。
階段を上がる途中で、私は1度、上を見た。
さっきの物音のあとには、何も続いていなかった。起きて動いているのなら聞こえそうな足音も、今はしなかった。
部屋の前へ来て、ドアを軽く叩いた。
「優子。起きた? 朝ご飯、少し食べられそう?」
返事がなかった。
耳を澄ませた。
布団が動く音もしなかった。
寝返りを打った時に、何か落としただけなのだろうか。
もう1度、ドアを叩いた。
「優子。入るよ」
声をかけてから、ドアを開けた。
娘は、ベッドのそばで体を崩していた。
顔がこちらへ向かなかった。
腕に血が見えた。
服にも、床にもついていた。
昨夜の手の擦り傷とは違う光景に、私は一瞬、足を止めた。
「優子!」
名前を呼び、そばへ膝をついた。
娘は目を閉じていた。
もう1度呼んでも、返事がなかった。
近くの床に、カッターナイフが落ちていた。
さっき聞こえた音が、頭の中でつながった。
眠っているだけだとは、思えなかった。
「優子。お母さんだよ」
返事はなかった。
私は夫を呼んだ。
自分の声が、廊下と階段へ響いた。
下から足音がした。
部屋へ入ってきた夫も、娘を見て、顔が変わった。
「救急車を、お願い。優子が、返事をしないの」
夫はすぐ携帯を取り出した。
私は娘のそばにいたまま、名前を呼んだ。
昨夜、学校で何をされたのか聞いても、娘は話せなかった。
泣くことしかできずにいた。その顔を思い出しながら名前を呼んでいるのに、今は、その返事さえ聞こえてこなかった。
傷のある手。切られた髪。持ち帰った教科書の文字。
それらが、目の前の光景と一緒になった。
夫が電話で話す声がした。
娘の年齢と、今いる場所。出血していて、呼びかけに答えないこと。
問い返され、夫が私へ確かめた。
私は、言われたことを1つずつ確かめ、答えた。
呼吸はしていた。
そのことが分かっても、返事がない怖さは消えなかった。
電話で教えられたとおりに対応しながら、私は娘へ声をかけ続けた。
「優子。ここにいるよ」
なぜ、と言いそうになった。
でも、いま理由を尋ねる相手は、目を開けることもできていなかった。
夫の声も、いつもと違っていた。
娘の方を見たまま、電話から聞こえた言葉を私へ繰り返していた。
昨夜から私たちは、学校へどう対応を求めればいいのか、話し合っていた。
優子が話せるようになるまで、問い詰めずに待とうとも決めた。その間もこの子が1人で夜を過ごしていたことを、今になって繰り返し考えていた。
私は、娘の名前を呼んだ。
ほかの言葉が出てこなかった。
やがて、まぶたがわずかに動いた。
「優子?」
娘の目が、少しだけ開いた。
こちらを見ているのか、すぐには分からなかった。
「お母さん、ここ。分かる?」
唇が動いた。
言葉にはならなかった。
私は夫へ、目を開けたと伝えた。
夫は、そのまま電話の相手へ伝えた。
手を止めず、指示を聞き続けた。
娘の目が私の顔まで動いた時、泣きそうになった。
けれど、目を開けたからもう大丈夫だとは、少しも思えなかった。
「病院へ行こうね。お母さんも一緒に行くから」
娘は、また口を動かした。
私は顔を近づけた。
「……ごめん、なさい」
胸が詰まった。
「謝らなくていい。今は、そのままでいて」
声が震えた。
落ち着かなければと思うほど、言葉がうまく続かなかった。
階下では、まだ朝食の用意が途中だった。
食べられるか聞こうと思って、私はここへ来た。
その続きを、どうしても考えられなかった。
私は、助けが来るまで娘のそばを離れなかった。
* * *
病院で、優子の手から自分の手を離す時、指がうまく開かなかった。
診てもらうために、少し場所を譲るだけだった。
看護師さんが、こちらで待っていてください、と椅子を示してくれた。分かりましたと頷いたのに、優子のそばから下がる足が、すぐには動かなかった。
「お母さま。すぐそばにいていただいて大丈夫ですから」
示された椅子へ座った。
優子は、周りの人の顔を見ようとして、途中で目を伏せた。
「お母さん、ここにいるよ」
もう1度伝えると、娘の目が、私の膝の辺りまで来た。
家を出る時から、いくつものことを聞かれた。
いつ気づいたのか。直前はどうしていたか。昨日から食べられていたか。
答えられるものには答え、分からないことは分からないと言った。
昨夜、ベッドのそばに座った時には、問いかけに小さく頷いていた。
夜中にも1度、部屋を見た。でも、その時は目を閉じていたので、起こさないよう声をかけなかった。
眠っていたかと尋ねられ、私は、確かめていないと答えた。
優子の名前を書く紙を渡され、私はペン先を見ながら、1文字ずつ記入した。
学校の書類にも、毎年、何度となく書いてきた名前だった。今日は書き終わるまで、そこから目を離せなかった。
少しして、夫が来た。
家を出る段取りを引き受け、私たちとは別に病院へ向かっていた。
「優子は」
私は娘の方を見た。
夫もそちらへ目を向け、足音を小さくして近づいた。
「お父さんも来たぞ」
優子は顔を上げなかった。
でも、膝の上で指が少し動いた。
夫は、その動きを見てから、私の隣へ椅子を寄せた。
昨夜、学校へ電話していた時の声とは違っていた。
私へ何か聞く時も、娘を驚かせないように、1つずつ話した。
処置を受けている優子が顔をしかめるたびに、椅子から立ち上がりそうになった。
そばへ寄っても、代わってあげることはできない。起きたことをなかったことにもできず、私は膝の上で手を重ねたまま見ていた。
「痛かったら、言っていいよ」
先生が声をかけた。
優子は、小さく頷いた。
それ以上は言わなかった。
我慢できているのだと思ってよいのか、私には、もう分からなかった。
昨夜も、あの子は、手が痛む時さえ黙っていた。
* * *
昨日からの経緯を尋ねられた時、私は娘の方を見た。
優子は、私が話し始めることに気づいたようだった。
顔が下がり、肩へ力が入った。
「昨日、帰ってきた時のことを、お母さんからお話しするね」
娘は動かなかった。
私は、今ここで診てもらうために必要なことだけだと、短く伝えた。
学校で何があったのか、娘の代わりに決めて話すことはできなかった。
帰宅時、手に傷があったこと。
腕や脚にあざがあったこと。
持ち物が汚され、髪も一部、短くなっていたこと。
昨夜も今朝も、食事を取れていないこと。
先生は、私の話を途中で止めずに聞いた。
そのあと、優子へ顔を向けた。
「昨夜は、眠れたかな」
娘は、ゆっくり首を振った。
「少しも?」
また、小さく首を振った。
私は娘を見た。
夜中、目を閉じていたのを、眠れたのかもしれないと思った。
その間も、この子は起きていたのだ。
娘の唇が、わずかに開いた。
けれど、声は出なかった。私も夫も待ったが、やがて娘は顔を下げた。
先生は答えを急かさず、少し時間を置いてから、静かに尋ねた。
「昨日のこと、今、少し話せそうかな」
優子は、膝の上を見ていた。
「答えたくないことまで、無理に言わなくていいよ」
娘の唇が動いた。
私も夫も、黙って待った。
目から涙が落ちた。
そのまま、口を固く閉じてしまった。
手を伸ばしかけて、途中で止めた。
どこへ触れれば痛くないのだろう。それを考えている間に、看護師さんが娘の方へティッシュを差し出してくれた。
優子は受け取り、目元へ押し当てた。
「今は、難しいね」
先生が言った。
「それなら、そのお話はいったん置こう」
返事を出すまで同じ質問を続けることはしなかった。
聞かれたことに答えられないままでも、その場から追い返されるわけではなかった。
私は娘の背中を見た。
ほんの少しだけ、呼吸の間隔が変わったように見えた。
そのあとも、先生たちは時間をかけて、体の状態と今の気持ちを確かめてくれた。
優子が頷ける問いもあれば、黙ってしまう問いもある。答えられない時は少し待ち、私たちにも、家ではどう過ごしていたかを尋ねた。
帰宅後のことは、私たちが答えなければならなかった。誰が家にいるか。困った時はどこへ連絡できるか。娘が1人で抱え込む時間を作らないために、何をすればよいのか。説明を聞きながら、1つずつ確かめた。
夫は、当面は仕事を休んで家にいると答えた。
私も、家にいることを伝えた。
家にいれば、それだけで足りると思っていた。
さっきまで、同じ家の中にいた。
私は膝の上の手を握り、それから、ほどいた。
「話せるようになるまで、待とうと思っていました」
言うと、声が揺れた。
「昨日、帰ってきてから、聞くと泣いてしまうので……」
先生は頷いた。
「今すぐ全部説明してもらわなくても、できることを一緒に考えましょう」
責める口調ではなかった。
それでも、自分の中にあった後悔が、急になくなるわけではなかった。
待つと言いながら、私は何を待っていたのだろう。
娘が自分で、分かるように話してくれることを、待っていたのではなかったか。
これからも、言葉が出ない時はある。
そのたびに、話してくれるまで何も分からないままでは、いられなかった。
次の受診について、夫と一緒に説明を聞いた。
自宅で心配な変化があった時の連絡先も、渡された紙へ書き込む。1度聞いただけでは、帰ってから何か抜けてしまいそうで、私は書いたところをもう1度読み直した。
* * *
診察と手当てが済み、先生から、命に関わる状態ではないと説明を受けた。
そのあとも様子を見てもらい、家での過ごし方を相談した。入院はせず、両親が付き添って帰宅することになった。
家へ戻れると分かった時、ほっとしたのは確かだった。
けれど、もう心配はいらないと言われたわけではなかった。
傷の手当てが済んでも、娘がここへ来ることになった事情は、何も解決していなかった。
優子は、帰れるという言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。
「おうちに帰ろう。お母さんも、お父さんも一緒」
私が言うと、頷いた。
夫が、帰りの手続きへ行った。
私は優子のそばに残った。
娘は服の端を見ていた。そこに何か書かれているわけでもないのに、目を動かさなかった。
「寒くない?」
首を振った。
「お水、飲む?」
少し迷ってから、頷いた。
私は飲み物を渡し、持ちにくくないか確かめた。
優子が飲み物へ口をつけるのを見て、昨夜もこうして水を勧めたことを思い出した。
あの時、目の前にいた娘も、今、隣に座っている娘も、同じ子だった。今朝、突然、別の子になってしまったわけではない。
見えていた顔だけで、どれくらい苦しいか分かったつもりになっていた。
娘はコップを持ったまま、私の方を見た。
何か言いたそうに唇が動いたが、声にはならなかった。
何を考えているのか、私には分からなかった。
それでも、仕事を休んだことや、病院へ来たことまで、この子に背負わせたくなかった。
「病院へ来たことは、気にしなくていいよ」
娘の顔を見て言った。
「つらい時は、診てもらおう。お母さんたちだけで分からないことも、相談していいんだから」
優子はコップへ目を落とした。
分かってくれたかどうかは、まだ分からなかった。
私は、娘の痛くない方の肩へ、そっと手を置いた。
何も言えなくても、手をどかそうとはしなかった。
* * *
夫が戻ってきた時、看護師さんが、娘へ帰りの身支度の声をかけてくれた。
夫が、少し話したいと私へ伝えた。看護師さんに優子のそばにいてもらい、私たちは、先ほど説明を受けた隣の部屋へ移った。
ドアを閉めてから、向かい合った。
夫が、私の手元の紙を見た。
帰宅後の相談先を書き留めた物だった。
「それは、帰ったら電話のそばにも置いておこう」
「ええ」
夫は、声を落とした。
「学校へ戻すことを、先に考えるのはやめよう」
私は頷いた。
「あの担任へ話せば何とかなるとは、もう思えない」
昨夜、夫は怒っていた。
今は、その怒りをどこへ向けるかよりも、娘をあそこから離すことを考えているように見えた。
「……やっぱり、公立中学は駄目だな」
夫の小さな声がした。
私はすぐに返事をせず、夫の手元を見た。
帰宅後の相談について書いた紙を、まだ持っていた。
「別の学校も、考えよう。私立で、受け入れられるところがあるかもしれない。必要なら、住む場所だって変えればいい」
夫は、続けて言った。
転校や、引っ越し。
夫の顔を見ながら、その言葉を考えた。昨日の朝までは、いつもの学校へ送り出すことを疑っていなかった。それが今は、同じ場所へもう1度行かせる方が、どうしても考えられなかった。
「でも、今、優子へ選ばせるのは、やめましょう」
私が言うと、夫は頷いた。
「分かっている。今日、決める話ではない」
「まず、家で休めるようにしてから。落ち着いたら、優子がどうしたいかも聞いて」
「ああ。そのために、こちらで考えられることを考えておこう」
手続きが済んだわけではなかった。
行き先が決まったわけでもなかった。
夫も、その話をすぐ娘へ向けるつもりはないと、もう1度言った。
話を切り上げ、娘の待つ部屋へ戻った。
優子は、帰る支度を終えて座っていた。
「お待たせ。帰ろうね」
差し出した私の手を、娘はしばらく見た。
それから、ゆっくり、痛くない方の手を重ねた。
* * *
車で帰る間、優子は外を見なかった。
夫が運転し、私は優子の隣へ座った。
交差点で車が止まった時、向こうの歩道を制服姿の生徒が通った。それが見えたのか、娘の肩へ、急に力が入った。
同じ学校の子かどうか、私には分からなかった。
娘は顔を下げ、膝の辺りを見ていた。
「もう、家へ帰るところだからね」
そう言うと、頷いた。
窓の外へ顔を戻すことはなかった。
私は自分の携帯を鞄の中で確かめた。
学校へ、このことを伝えなければいけないのか。
ふと考えたが、昨夜の声が浮かんだ。
娘さんから聞いた話ですか。
何があったか分からないと。
今、もう1度そのやり取りをすることはできなかった。
娘の状態をどこまで伝えれば、言葉だけではなく動いてもらえるのか、考えることさえ苦しかった。
携帯を戻した。
夫も、学校へ連絡しようとは言わなかった。
隣で、優子の目が閉じた。
眠ったのかと思ったが、曲がり角で車が傾くと、すぐに開いた。
私の袖に触れていた指が、少しだけ強くなった。
私は、その手が離れるまで動かなかった。
* * 優子視点 * *
家の門をくぐった時、まだ外は明るかった。
昨日、ここへ戻ってきた時とは違う明るさだった。
でも、玄関へ入る足は、今日も遅かった。
お父さんが先にドアを開け、お母さんが隣にいてくれた。
靴を脱ぐために、上がり框へ座った。
上履きはなかった。
お母さんが片づけてくれたのだと思った。
「ゆっくりでいいよ」
言われて、頷いた。
早くしようとしているつもりはなかったけれど、靴を脱げないと、みんなが中へ入れなかった。
私が足を上げると、お母さんが履物を揃えた。
お父さんは、私が立ち上がるまで少し先で待っていた。
見慣れた廊下が、リビングまで続いていた。
ただいま、と言おうとして、口を閉じた。
「帰ってきたね。少し休もう」
お母さんの声に、小さく頷いた。
ようやく家へ戻れたのだと、その顔を見て確かめた。
* * *
部屋へ戻る前に、お母さんが、リビングで少し待っていてと言った。
お父さんが一緒にいてくれた。
ソファの端へ座ると、お父さんも隣へ腰を下ろした。
テレビはついていなかった。私も何を話せばいいのか分からず、そのまま、お父さんとリビングにいた。
お父さんの鞄から、紙が少し見えていた。
病院でもらった物だと思った。
私は目を逸らした。
今日、自分の命を終わらせようとした。
病院から戻っても、そのことを、どう話せばいいのか分からなかった。
病院で誰かに尋ねられるたび、お母さんが答えた。
答えられないところでは、お母さんも困っていた。
隣のお父さんへ顔を向けると、目が合った。
私はすぐに俯いた。
今度こそ、叱られるかもしれないと思った。
ごめんなさいと、言わなければいけない気がした。けれど、何をしたのかも、どうしてそうしたのかも説明できず、膝の上の手を見つめた。
お父さんは、すぐには話さなかった。
私の顔を見て、それから、少し声を落とした。
「今、何て言えばいいか、私も考えている」
思っていなかった言葉だった。
私は顔を少し上げた。
「昨日から、聞き方も、間違えたかもしれない。答えられないのに、答えてもらおうとした」
私は小さく首を横に振った。
お父さんが悪いわけではなかった。
聞かれたことに、私が答えられなかっただけだった。
「優子に、今、説明を全部させたいわけではないんだ」
お父さんは続けた。
「帰ってきたんだから、今日はここで過ごそう。明日のことは、急がなくていい」
私は膝を見た。
平日の昼間なのに、お父さんはここにいた。会社を休ませてしまったのだと思うと、ますます顔を上げられなかった。
少しして、お父さんが続けた。
「仕事は休むようにしてある。お父さんが決めたことだから、気にしなくていい」
私は顔を少し上げた。
「仕事の電話をすることはある。でも、今日はここにいる。しばらく、家にいるようにしてある」
私は小さく頷いた。
何日くらいなのかは聞かなかった。
聞いたら、その日までに何とかしなければいけない気がした。
お父さんがいてくれることは、嬉しかった。
安心してほしいと思って顔を上げたけれど、うまく笑えなかった。
お父さんは、笑ってごらんとは言わなかった。
私がまた俯いても、そのまま隣にいてくれた。
* * *
部屋は、少しだけ変わっていた。
お母さんが布団を整え、枕元には新しい水を用意してくれていた。
本と栞も、机の端へ並べてある。いつも自分が使っている部屋なのに、私は入口から、置いてある物を1つずつ見ていた。
私はドアのところで止まった。
中へ入ってもよいか、分からなくなった。
「ここで休むの、嫌だったら、下にいてもいいよ」
お母さんが言った。
嫌だと、はっきり言えるわけではなかった。
どこへ行っても、今日のことを思い出した。
でも、自分の部屋なら、知らない人が入ってくることはなかった。
私は、部屋の中へ向き直った。
お母さんが先に1歩入り、私もそのあとについていった。
ベッドへ腰を下ろすと、体が重かった。
横になった方が楽なのは分かったけれど、枕へ頭をつけるところまで、少し時間がかかった。
お母さんが椅子を持ってきた。
机の方を向いていた椅子を、ベッドの近くへ動かした。
「お母さんも、ここにいていい?」
私は頷いた。
聞かれてからではなく、本当は、自分から頼みたかった。
座ったお母さんは、私を見続けなかった。
コップが手の届くところにあるか確かめ、カーテンの隙間を少し直した。
それから、自分の膝へ手を置いた。
お母さんが膝へ置いた指を見ていた。
病院でも、その手はすぐそばにあった。何か聞かれて答えられない時には、私が顔を向けるより早く、お母さんが代わりに話してくれた。
そのたびに助かった。
それでも、誰が何をしたかは、言えなかった。
お母さんの顔へ目を上げると、目が合った。
口を開いたところで、昨日の声が浮かんだ。
笑う声。やめてと言っても、やめてもらえなかった時の顔。
お母さんを見ているのに、頭の中には、別の人がいた。
唇を閉じると、涙が流れた。
お母さんがティッシュを取ってくれた。
「今、言えなくてもいいよ」
私はそれを受け取った。
片手で折ろうとして、うまくできず、そのまま目元へ当てた。
話してしまいたかった。
何も知らないでほしいわけではなかった。
お母さんに、誰も気づかなかったことを、知っていてほしかった。
でも、言葉にしたら、またあの場所へ戻るような気がした。
何から始めても、昨日の床や、囲まれた時の顔へつながってしまった。
お母さんの手が、布団の上へ来た。
「話をするためじゃなくても、呼んでいいからね」
私は頷こうとした。
「お水でも、ここに座ってでも。それだけでいいよ」
涙で、顔がよく見えなかった。
私はティッシュを下げ、お母さんの方へ少しだけ手を伸ばした。
何も言えなかったけれど、お母さんは椅子を、もう少し近づけてくれた。
* * *
しばらくして、お母さんが学校のことを口にした。
「優子。しばらく学校、お休みしようか」
私は、手を止めた。
今日は休んでいい。それは、昨夜も聞いていた。
けれど、お母さんの言う、しばらく、がどのくらいなのかは分からなかった。明日のことまで含んでいるのか、確かめずにはいられなかった。
「……明日も?」
「うん。明日も」
私は、お母さんを見た。
「今日は休んでいいって、昨日言ったでしょう。でも、明日になったら必ず行かなきゃいけない、ということじゃないよ」
お母さんは、ゆっくり言った。
「朝になって、行く支度をしなくていい」
そこまでは、分かった。
でも、明日が終われば、その先があった。
土曜日と日曜日は、もともと休みだった。
月曜日も、カレンダーの数字が赤くなっていた。
そこまでは、学校へ行かない日が続く。
火曜日になったら、どうなるのだろう。
その先にも、学校へ行く日は続いていた。
聞きたかった。
けれど、何日も先のことまで尋ねたら、休みたがっていると思われるかもしれなかった。お母さんの方を見たまま、唇を開けなかった。
お母さんは、少し待ってから続けた。
「明日だけの話じゃないよ。来週のことも、今は決めなくていいからね」
私はすぐには頷けなかった。
聞き間違いではないかと思い、お母さんの顔を見ていた。
休んでもよい理由を、まだ説明できていなかった。
痛いところが治ったら、教科書を揃えてもらったら、それで行くのだと思っていた。行けると言わなくても、本当によいのだろうか。
お母さんが、布団の端へ手を置いた。
「学校のことは、お父さんとお母さんで考えるから。優子が今日のうちに、いつから行くか決めなくていいの」
私は、その言葉を頭の中でもう1度聞いた。
いつから行くか、決めなくていい。
「今、行けるって約束しなくていいよ。分からない時は、分からないままでいい」
お母さんは、返事を待たずに、そう言ってくれた。
鼻の奥が痛くなった。
顔を隠そうとして、手を途中で止めた。
ずっと、明日のことを考えていた。
今日は家にいられても、次の日には出ていかなければならないのかもしれない。その次の日にも学校はあって、休んだ分を説明しなければならない。1日休めると分かるたび、その先に行かなければならない日を探してしまった。
お母さんが明日もと言っても、私はすぐ、その先を探していた。
今は、その日を決めなくていいと言われた。
息を吐いた。
胸の辺りが、少しだけ動いた。
それまで、小さく吸って、すぐ止めていたのだと分かった。
ようやく、小さく頷いた。
その拍子に、涙がまた出た。
何があったかは、まだ1つも話せなかった。
でも、お母さんは、休む前に聞かせてとは言わなかった。
私は布団の端を握った。
さっきより、少しだけ弱い力で握れた。
* * *
それからも、心配なことはなくならなかった。
学校を休んでいる間、授業は進む。
教科書には、もう読めなくなったところがある。
ノートも、どこまで残っているのか分からない。
机の方を見ていると、お母さんが私の視線を追った。
「勉強のことも、気になってる?」
少し迷ってから、頷いた。
「お休みすれば、授業には出られないね」
お母さんは、そんなことはないと言わなかった。
私は、膝の辺りを見た。
「でも、今日、取り戻そうとしなくていいよ」
少しして、続きが聞こえた。
「できるようになってから、どうするか考えよう。今、痛い手でノートを書かなくてもいいの」
私は、机へ目を向けた。
いつものリュックサックは置いていなかった。
いつもの場所が空いていることが、気になった。
お母さんが、そちらへ目を向けた。
「荷物は、持って帰ってきた分をお母さんが置いてあるよ」
私はお母さんを見た。
「捨てずに、乾かせる物は乾かして、まとめてあるから。今は、見なくて大丈夫」
私は頷いた。
見たいのか、見たくないのか、自分でも分からなかった。
なくなってしまうのは嫌だった。
でも、あの文字を、もう1度開くのも嫌だった。
ごめんなさいと、謝りたかった。
でも、声にしようとすると、喉が詰まった。
日傘も、リュックサックも、携帯電話も、お母さんが買ってくれた物だった。
大事に使おうと思っていたのに、持って帰った時には、どれも違う形になっていた。家へ持って帰ることさえできなかった物もあった。
「なくなった物も、壊れた物もあるのは、分かってるよ」
お母さんが言った。
「でも、それを優子が1人で何とかしなくていい。何が足りないかも、今日、全部言わなくていいから」
私は、また頷いた。
うん、と声にするのは難しかった。
「携帯も、今は使えないままだけど。お父さんと相談しておくね」
その言葉で、水の中にあった画面を思い出した。
私は目を閉じた。
電話をかけたかった。
昨日、あそこから、お母さんの声が聞けたらと思った。
でも、家に帰って、目の前にお母さんがいても、言葉は出なかった。
新しくしてもらうことより先に、また壊されたらどうしようと思った。
そこまで言えずにいると、お母さんは、それ以上携帯の話をしなかった。
机の上には、本があった。
昨夜、栞を落とした本だった。
「それ、手元に置いておく?」
お母さんに聞かれ、首を横に振った。
今日は、読めない。表紙を見ているだけでも、昨夜、何度も同じ行を読み直したことを思い出した。
「じゃあ、机に置いておこうね。今は読まなくていいよ」
読まなくていいと言われただけなのに、少し楽だった。
好きな物まで、いつもどおりに楽しめる顔をしなくてよかった。
* * *
夕方になっても、お腹が空いたとは思わなかった。
それでも、お母さんが少しだけ食べてみるかと聞いた時、私は頷いた。
朝から、何も口に入れていなかった。
昨日の夜からだと、もっと長かった。
部屋へ持ってこようかと聞かれ、首を横に振った。
ベッドの上にいると、時計と机ばかり見てしまった。少し迷ってから、布団の外へ足を下ろした。
「下へ行ってみる?」
私は小さく頷いた。
お母さんが隣を歩いた。
リビングへ入ると、お父さんが立ち上がりかけ、それから、そのまま椅子を引いてくれた。
「ここでいいか」
私は頷いた。
食卓には、いつものように大きなお皿がいくつも並んではいなかった。
私の前にあるのは、小さな器とスプーンだった。椅子へ座ると、お母さんが、そこへおかゆを置いてくれた。
「熱かったら、少し待ってね」
白い湯気が上がっていた。
私はスプーンを持ち、ほんの少しすくった。
口へ入れると、温かいことは分かった。
柔らかいご飯が、舌に触れるのも分かった。
味がしなかった。
飲み込んでから、もう1度器を見た。
おかゆだから、薄いだけなのだろうか。でも、いつもなら、薄くてもご飯の味は分かった。口の中に残るはずの味を探しても、今日は分からなかった。
次の1口をすくった。
今度も、温かくて、柔らかかった。
それ以外のことが、うまく分からなかった。
「飲み込みにくい?」
お母さんが聞いた。
私は首を振った。
「……味が、分からない」
それだけが、ようやく声になった。
言ってから、お母さんの顔を見た。
作ってくれた物だった。
おいしくないと言ったように聞こえたかもしれなかった。
違うの、と言い直そうとして、喉が詰まった。
おいしくないわけではないと伝えたいのに、味の違いを考えると、どちらも分からなかった。どう説明すればよいのか迷って、続きが出てこなかった。
お母さんは、私の器へ何か足そうとはしなかった。
「うん。味が、よく分からないんだね」
私は頷いた。
「教えてくれてありがとう。次に診てもらう時、そのことも相談しようね」
次、という言葉を聞いて、病院の椅子を思い出した。
また行くのかと思うと、怖かった。
でも、お母さんは、今すぐ食べて確かめなさいとは言わなかった。
私は、もう1口だけ食べた。
飲み込むと、そこで手が止まった。
「もう、いい?」
お母さんに聞かれ、頷いた。
器には、まだほとんど残っていた。
残した器を見て、顔を下げた。
せっかく作ってもらったのに、ほとんど食べられなかった。
「ここに置いておこうか。もう少しあとで欲しくなったら、また用意するから」
スプーンを置いた。
お父さんも、お母さんも、私が食べた回数を数えるようなことは言わなかった。
お母さんが、湯飲みをお父さんの前へ置いた。
お父さんが小さく礼を言い、湯飲みを手に取る。
私は、そのやり取りを少しだけ見ていた。
いつもの食卓でも、何度も見ていた光景だった。
それでも、おかゆの味は、最後まで思い出せなかった。
* * *
部屋へ戻る前に、ピアノのそばを通った。
ピアノの蓋は閉じたままで、上には、前に使った楽譜が重ねてあった。
夏休みには、ご飯のあとに少し弾こうと思って、椅子へ座ったこともある。その時は、ここを通ると自然に手を伸ばせた。
今日は、椅子へ座ろうとは思えなかった。
手が痛いことだけが理由ではなかった。
音を出したら、どんな気持ちになるのかも分からなかった。
お母さんは、私が立ち止まったことに気づいた。
でも、弾いてみるとは聞かなかった。
「お部屋、戻ろうか」
私は頷いた。
廊下の途中で、お父さんの携帯が鳴った。
体が少し固くなった。
「仕事の電話だよ」
お父さんが、画面を見てから言った。
「ここで話しているから」
学校からではないと分かって、足が動いた。
お母さんは私の歩く速さに合わせて、部屋まで来てくれた。
ベッドへ座ると、窓の外は、朝とは違う色になっていた。
今日は、教室へ行かなかった。
朝の会も、授業も、帰りの会も、この部屋には来なかった。
それでも、1日は長かった。
学校へ行かなければ、すぐ元の自分に戻れるわけではなかった。
本を読みたいと思っても読めず、食べ物を口へ入れても味が分からなかった。
お母さんへ言いたいことも、まだ喉のところで止まっていた。
私は、制服を置く場所へ目を向けた。
明日のために、新しい物が出してあるわけではなかった。
それでも、そこから目を離せなかった。
明日になれば、また支度をしなければいけない気がした。
お母さんが椅子を動かす手を止め、私の見ている方へ顔を向けた。
「明日の支度は、しなくていいよ」
私は小さく頷いた。
言ってもらったことは覚えていた。それでも、こうしてもう1度聞けると、少しだけ肩の力が抜けた。
お母さんが座るのを待ってから、私も横になった。
枕へ髪が広がり、長いところと短いところがあるのを思い出した。けれど、今夜は確かめようと指を入れず、そのままにしておいた。
ドアの外から、お父さんの声がかすかに聞こえた。
仕事の話だった。
お母さんの袖へ、少しだけ触れた。
こちらへ顔を向けてくれた。
伝えたいことは、たくさんあった。
つらかったのは昨日だけではないこと。助けてと言ったのに、そのまま行ってしまった人がいたこと。勝也くんのことまで、どう信じればいいのか分からなくなっていること。
頭の中には次々に浮かぶのに、お母さんの顔を見ると、声にはできなかった。
今は、そのどれも話せなかった。
「……まだ、ここにいて」
お母さんは、椅子へ座り直した。
「いるよ」
私は頷いた。
それだけ頼んでも、お母さんは、何の話かと聞かなかった。
眠れるかどうかは、分からなかった。
目を閉じたら、また昨日のことを思い出すかもしれなかった。
でも、明日の朝までに、学校へ行けるようにならなくてよかった。
私は、お母さんのいる方へ体を少し向けた。
まだ涙が出た。
お母さんは、何も聞かずに、そばにいてくれた。
今回の登場人物
・富田 優子
眠れないまま迎えた欠席初日の朝、自分を傷つけて意識を失い、美和に発見される。受診後も必要な短い言葉しか出ず、主に頷きや首振りで応じるが、登校を急がなくてよいと聞き、翌日以降への不安が少し和らぐ。
・富田 美和
夜も優子を気にかけて様子を見る。翌朝、2階の物音を聞いて起きたのかと思い、朝食について声をかける。返事がないため入室して異変を発見。受診に付き添い、帰宅後もそばで過ごして、登校を急がなくてよいと伝える。
・富田 泰臣
仕事を休んで自宅にいる。朝、美和の呼ぶ声で娘の異変を知り、救急の連絡や受診後の段取りを担う。担任への不信を深め、娘を今の学校へ戻すことを前提にしない方針を美和と話し合う。
・病院の医師、看護師たち
優子の手当てと状態の確認を行う。事情を話すことが難しい優子に配慮しながら、両親と帰宅後の見守りや継続した受診について相談する。




