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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
23/52

第20話 終わらない昨日


    * * 優子視点 * *


 目を閉じると、笑う声がした。


 誰かが、すぐそばにいるような気がした。

 私は布団の中で手を引き、目を開けた。


 目に入ったのは、いつもの天井だった。

 見慣れた照明のそばに、消したあとの小さな明かりが残っている。廊下へ続くドアも、さっきと同じように少しだけ開いていた。


 家だった。


 水曜日の夜、学校から帰ってきてから、何度も同じことを確かめていた。

 制服はもう脱いだし、上履きも履いていない。濡れたリュックサックは、お母さんが下へ置いてくれた。学校にあった物からは、離れているはずだった。


 ここには、誰も入ってきていない。

 分かっているのに、目を閉じると、昼間の顔がすぐ近くに戻ってきた。


 手が痛んだので、お母さんが手当てしてくれたところを布団の上へ出した。

 見ても、上には何も載っていない。それなのに、まだ押さえられているような感じがして、すぐには動かせなかった。


 痛くない方の手で、布団の端を持った。

 肩まで引き上げ、もう1度横を向いた。


 眠れば、朝になる。

 いつもは、そうだった。

 布団へ入って、今日読んだ本のことを少し考えているうちに、次に目を開けた時には明るくなっていた。


 今日は、本の中のことが思い出せなかった。


 代わりに、私の顔を覗き込んだ莉奈さんが浮かんだ。

 やめてと言った時、口元が笑っていた。


 私は目を開けた。

 まだ、同じ天井だった。


     * * *


 枕元には、コップが置いてあった。


 少し前に、お母さんが持ってきてくれた水だった。

 喉は乾いていたけれど、起き上がろうとすると手が気になった。そこへ体重をかけないよう、肘と背中を少しずつ動かして、ようやく体を起こした。


 片手でコップを持った。

 水を1口飲むと、口の中が少し冷たくなった。


 何も食べていないことを思い出した。

 さっきも、お母さんに聞かれて、いらないと答えた。

 お腹が空いたのかどうかも、よく分からなかった。


 コップを戻す時、台へ当たる音がした。


 筆箱が落ちたところを思い出した。

 床に転がった物を、拾おうとした時のことも。


 慌てて手を膝へ戻した。

 ここで何か落としたのなら、自分で拾えばよかった。誰かに聞かなくても、手を伸ばしていい。自分の部屋なのだから、そのくらいは分かっているはずだった。


 でも、体が先に止まった。

 動かないままいると、今度は、何をしているのだろうと思った。

 自分の部屋にいるのに。


 ドアの向こうで、足音がした。

 私は顔を上げた。


「優子。起きてる?」


 少し開いていたドアの向こうから、お母さんが顔を覗かせた。

 私は小さく頷いた。

 それを見て、お母さんはそっとドアを開けた。部屋の明かりをつけず、ベッドのそばへ来てくれた。


「眠れない?」


 私は頷いた。


「手が痛む?」


 それもあった。

 でも、痛いから起きているだけではなかった。


 どう答えようか迷っていると、お母さんが椅子へ座った。


「少し、ここにいるね」


 私は頷き、布団へ目を落とした。


 お母さんの手が、布団の上へ来た。

 手当てしたところに当たらないよう、端を整えてくれた。


「明日は、学校の支度をしなくていいからね」


 さっきも聞いた言葉だった。

 私は、もう1度頷いた。


 お母さんがいる間なら、目を閉じても大丈夫かもしれないと思った。

 ゆっくりまぶたを下ろした。


 まぶたを閉じた途端、床の模様が浮かんだ。

 そこに自分の手があって、その上へ靴が重なっている。見たくないと思う前に、昼間と同じところまで思い出してしまった。


 息を吸ったところで、肩が動いた。

 すぐに目を開けると、お母さんがこちらを見ていた。


「優子?」


 何か言おうと口を開いた。

 怖い。目を閉じると、今日のことが見えてしまう。本当は、それをお母さんへ伝えたかった。


 それだけなのに、どの言葉から出せばいいのか分からなかった。

 声になる前に、喉のところが痛くなった。


 私は小さく首を横に振った。

 何でもないと伝えたかったわけではなかった。けれど、怖いとも、助けてほしいとも言えず、唇を閉じた。


 お母さんは、その仕草の意味を問い返さなかった。

 私が見ている方へ、少し体を寄せた。


「お母さん、ここにいるよ」


 私はその顔を見た。

 見ていれば、少なくとも目の前にいるのは、お母さんだった。


     * * *


 しばらくすると、お母さんの手が止まった。


 眠くなったのかと思った。

 私が寝ないせいで、お母さんも寝られない。


 もう大丈夫だから、休んでほしい。

 そう伝えようとして、口を開いた。けれど、言葉は出なかった。


 お母さんが顔を上げた。


「少し、横になってみる?」


 私は小さく頷いた。

 もう大丈夫になったからではなかった。けれど、いつまでそばにいてほしいのか聞かれたとしても、自分では答えられそうになかった。


 お母さんは、すぐには立たなかった。

 私が枕へ頭をつけるところを見ていた。


「眠れなかったら、また呼んで。お水でも、何でも」


 私は頷いた。


「話したいことがなくても、いいからね」


 もう1度、小さく頷いた。

 お母さんはコップの位置を確かめ、足音を小さくして部屋を出た。

 ドアは、閉め切らずにいてくれた。


 私は、廊下の細い明かりを見た。


 呼んでいいと言われた。

 それでも、さっき出ていった人を、すぐにまた呼ぶことができなかった。


 目を閉じずに眠れればいいのにと思った。

 天井を見たまま、何も考えずにいられたら。


 目を開けていても、声までは消えなかった。

 私の物を持っていく時、誰が、どんなふうに笑っていたのか。もう要らなくなった物のようにノートを扱われたことまで、天井を見ている間にも思い出した。


 お母さんが買ってくれた物だった。

 大事に使おうと思っていた。


 私は、部屋の隅へ目を向けた。

 いつもリュックサックを置く場所には、何もなかった。

 そこにないのに、中に入っていた物のことばかり考えた。


     * * *


 体の向きを変えた時、髪が頬へ落ちてきた。


 いつもなら、後ろへ流せばまとまるはずだった。

 腰まである髪が下敷きにならないよう、寝る時は枕の横へ出していた。今日も同じようにしようとして、指が途中で止まった。


 短いところがあった。

 長いままのところもあった。

 見なくても、揃っていないことが分かった。


 私は手を離した。

 髪へ触れただけで、押さえられた時のことを思い出した。


 嫌だと言った。

 やめてと言った。

 それでも、私の方が動くから悪いように言われた。


 動かなければ、よかったのだろうか。

 そう考えて、すぐに分からなくなった。

 動かなかったら、逃げることもできなかった。


 枕へ顔を向けると、まぶたに布が触れた。

 また目の前が暗くなった。


 私は顔を上げた。

 横になっているだけなのに、息が速くなっていた。


 時計を見た。

 思っていたより、少ししか進んでいなかった。


 何度も寝返りを打った。水を飲み、お母さんにもそばにいてもらった。

 それだけのことをしているのに、時計は少ししか進んでいなかった。まだ夜が続くのだと思うと、どこを見ていればいいか分からなくなった。


 枕の向きを変えた。

 布団を少し下げた。

 顔を横へ向けたり、上へ向けたりしてみた。


 どの向きでも、目を閉じたあとのことは同じだった。


     * * *


 眠るのをやめて、本を読もうと思った。


 机の明かりをつけ、本を1冊だけ持ってベッドへ戻った。

 何度も読み返した本だから、次にどうなるかは分かっている。最初から読まなくても、好きなところを開けば、その場面を思い出せるはずだった。


 片手で表紙を開いた。

 ページを押さえる指を変えると、挟んであった栞が布団へ落ちた。


 拾おうとして、手が止まった。


 誰もいない。大丈夫。

 自分に言い聞かせてから指を伸ばし、落ちた栞を拾って表紙の上へ置いた。それだけのことをするのに、いつもよりずっと時間がかかった。


 最初の行を読んだ。

 次の行へ目を動かしたところで、何が書いてあったか分からなくなった。


 もう1度、同じところを読んだ。

 今度は、言葉の1つが、学校で聞いた声へ変わった。


 私は、本を閉じた。


 勝也くんへ貸した本のことを思い出した。

 今、どの辺りを読んでいるだろう。

 もう読み終わっているかもしれなかった。


 貸す時には、感想を聞くのが楽しみだった。

 それなら、私から話しかけてもよいと思った。

 どこが好きだったか聞いたら、少し長く話せるかもしれない。


 隣になった時、小学校でも何度か隣だったと、勝也くんが言ってくれた。

 私も同じことを思い出していたのに、先に話してくれたのは向こうだった。


 思い出すと、会いたくなった。


 でも、今の髪を見られるところまで考えると、顔を上げられなくなった。

 何か聞かれたら、また黙ってしまう。

 手のことも、荷物のことも、隠しきれない。


 奈々さんの声を思い出した。

 勝也くんが、私をどう思っているのか。自分で聞いた言葉ではないのに、何度も繰り返し考えているうちに、本当にそう言われたような気がして、頭から離れなくなっていた。


 そんなことは言わないと思いたかった。

 でも、もし本当に迷惑だったら。

 困った顔をしていたから、放っておけなかっただけだったら。


 勝也くんが優しいことは、今も分かっていた。

 分からなくなったのは、その優しさを私が喜んでもよいのか、ということだった。優しい人だから、嫌だと言えずにいてくれたのかもしれない。そう考えると、会いたい気持ちまで止めたくなった。


 私は、閉じた本へ手を置いた。

 会いたいと思うことまで、いけないことのように感じた。


     * * *


 廊下の明かりが、1度、少し強くなった。


 足音が近づき、部屋の前で止まった。

 私は横になったまま、動かなかった。


 眠っていると思われたかもしれなかった。

 布団の端へ触れる気配がして、やがて、足音が遠ざかった。


 呼ぼうと思った。


 お母さん、と、口だけを動かした。

 声が出なかった。


 今日、トイレへ来た人の顔を思い出した。

 助けてと、言えた。

 聞こえるところへ来た人に、初めて言えた。


 でも、その人は、行ってしまった。


 お母さんは、その人とは違う。

 帰ってきた私を家の中へ入れ、手当てをして、学校も休んでいいと言ってくれた。そばにいてくれたことを、何も忘れたわけではなかった。


 それなのに、声を出そうとすると、あの時の足音が先に戻ってきた。

 また聞いてもらえなかったら、と、考えるより前に喉が固くなった。


 私は、枕へ頬を押しつけた。

 泣いている音を聞かれたくなかった。


 心配してほしくないわけではなかった。

 気づいてほしかった。

 でも、気づいて来てくれた時に、何を言えばいいか分からなかった。


 涙が止まっても、眠くはならなかった。

 目が疲れて、まぶたを下ろしたくなる。でも、少し閉じるだけで、体にはまた力が入った。眠りたいのに、そのまま目を閉じていられなかった。


 私は、廊下から入る光を見続けた。


     * * *


 窓の方が白くなり始めた時、まだ起きているのだと分かった。


 眠ってから目を覚ました朝ではなかった。

 暗かったカーテンの隙間へ、少しずつ外の光が増えていく。その間をずっと見ていたのだと気づいて、私は布団の中で瞬きをした。


 木曜日になっていた。

 今日は、学校へ行かない日だった。


 昨日の夜、お母さんがそう言ってくれた。

 連絡もしてくれた。

 だから、起きて制服へ着替える必要はなかった。


 それでも、いつも家を出る時間が近づくのが怖かった。


 今日は休んでいい。

 でも、今日が終わったら、明日が来る。


 金曜日には、行けるようにならなければいけないのだろうか。

 手の痛みがなくなったら、もう大丈夫だと思われるだろうか。

 髪を整えてもらったら、教科書を用意してもらったら。


 どれが元に戻っても、私は、あの場所へ戻るところを考えられなかった。


 布団の上で、足を縮めた。

 重い体を動かすと、昨日のあざが痛んだ。


 窓の外で、鳥の声がした。

 階下からは、食器を動かす音が聞こえた。

 朝ご飯の支度が始まっていた。


 いつもの朝だった。

 違うのは、私だけのように思えた。


 お母さんに言えばよかった。

 今日だけでは足りない。明日も、その先も、学校が怖い。


 頭の中なら、何度も同じ言葉を並べられた。

 今日だけでは足りない。明日も怖い。それだけのことを言いたいのに、お母さんを呼ぶために声を出そうとすると、そこから先へ進めなかった。


 明るくなった机を見た。

 昨夜、閉じた本があった。

 栞は、その表紙に載っていた。


 眠れなかった夜が終わっても、昨日のことは遠くならなかった。

 新しい朝が来たことを、少しも嬉しいと思えなかった。


     * * *


 そこから先のことは、あとで思い返してもうまく順番にならなかった。


 もう苦しいことを考えなくて済む。

 そんな思いが浮かんだ。

 ほかに何もないように思い込んでいた。


 次に覚えているのは、痛みだった。

 思っていたことと目の前で起きていることが合わなかった。

 熱いというより、深く冷たいものが走る感覚。

 それなのに、痛い。

 痛いはずなのに、どこか遠くの出来事みたいに感じた。


 急に、まぶたが重くなった。

 ずっと眠れなかった時とは違って、自分で目を開けていることが難しかった。

 昨夜は、一睡もしていない。

 なのに今は、どうしようもなく眠たかった。


 眠いのかもしれないと思った。

 でも、どこへ体を預ければいいかも分からなくなった。

 指先の感覚がぼやけて、自分の手がどこにあるのかも曖昧だった。

 カッターナイフが、手元から落ちた。

 硬い音がした。

 拾おうとは思えなかった。


 これで楽になれる。

 そう思った。


 誰にも何も言われない。

 自分の持ち物を壊されることもない。

 暴力を振るわれることもない。

 明日、また学校へ行くことを考えなくていていい。


 そう思うと、少しだけ体が軽くなった気がした。


 でも……


 意識が途切れるその寸前ふと、一人の顔が浮かんだ。

 ずっと、小さい時から大好きだった。


 中学校で再会できて、少しだけど話せた。

 席替えで、隣の席になった。

 また話せると思っていた。

 もっと、いろんなことを話したかった。


 勝也の名前を呼びたかった。

 まだ、話したいことがあった。


 その先は、覚えていなかった。


    * * 美和視点 * *


 台所にいると、2階で物音がした。


 小さな物が床へ当たり、そのあとに、少し重い音が続いたように聞こえた。

 私は朝食の椀を出しかけたまま、手を止めた。もう1度何か聞こえないかと、階段の方へ顔を向けた。


 優子が起きたのだろうか。


 窓からは、朝の光が入っていた。

 今日は学校の支度をしなくていいと、昨夜、何度か話した。

 夜中に様子を見た時には、静かに横になっていた。

 少しは眠れたのならよいと思っていた。


 朝ご飯は食べられるだろうか。

 昨夜は、何も食べていなかった。

 少しだけ持っていくか、先に聞いてこようと思った。


 夫は、リビングにいた。

 今日は仕事を休むため、連絡を入れていた。


「優子、起きたみたい。見てくるね」


 夫がこちらを向き、頷いた。


 階段を上がる途中で、私は1度、上を見た。

 さっきの物音のあとには、何も続いていなかった。起きて動いているのなら聞こえそうな足音も、今はしなかった。


 部屋の前へ来て、ドアを軽く叩いた。


「優子。起きた? 朝ご飯、少し食べられそう?」


 返事がなかった。


 耳を澄ませた。

 布団が動く音もしなかった。

 寝返りを打った時に、何か落としただけなのだろうか。


 もう1度、ドアを叩いた。


「優子。入るよ」


 声をかけてから、ドアを開けた。


 娘は、ベッドのそばで体を崩していた。

 顔がこちらへ向かなかった。


 腕に血が見えた。

 服にも、床にもついていた。

 昨夜の手の擦り傷とは違う光景に、私は一瞬、足を止めた。


「優子!」


 名前を呼び、そばへ膝をついた。

 娘は目を閉じていた。

 もう1度呼んでも、返事がなかった。


 近くの床に、カッターナイフが落ちていた。

 さっき聞こえた音が、頭の中でつながった。


 眠っているだけだとは、思えなかった。


「優子。お母さんだよ」


 返事はなかった。

 私は夫を呼んだ。

 自分の声が、廊下と階段へ響いた。


 下から足音がした。

 部屋へ入ってきた夫も、娘を見て、顔が変わった。


「救急車を、お願い。優子が、返事をしないの」


 夫はすぐ携帯を取り出した。

 私は娘のそばにいたまま、名前を呼んだ。


 昨夜、学校で何をされたのか聞いても、娘は話せなかった。

 泣くことしかできずにいた。その顔を思い出しながら名前を呼んでいるのに、今は、その返事さえ聞こえてこなかった。


 傷のある手。切られた髪。持ち帰った教科書の文字。

 それらが、目の前の光景と一緒になった。


 夫が電話で話す声がした。

 娘の年齢と、今いる場所。出血していて、呼びかけに答えないこと。

 問い返され、夫が私へ確かめた。


 私は、言われたことを1つずつ確かめ、答えた。

 呼吸はしていた。

 そのことが分かっても、返事がない怖さは消えなかった。


 電話で教えられたとおりに対応しながら、私は娘へ声をかけ続けた。


「優子。ここにいるよ」


 なぜ、と言いそうになった。

 でも、いま理由を尋ねる相手は、目を開けることもできていなかった。


 夫の声も、いつもと違っていた。

 娘の方を見たまま、電話から聞こえた言葉を私へ繰り返していた。


 昨夜から私たちは、学校へどう対応を求めればいいのか、話し合っていた。

 優子が話せるようになるまで、問い詰めずに待とうとも決めた。その間もこの子が1人で夜を過ごしていたことを、今になって繰り返し考えていた。


 私は、娘の名前を呼んだ。

 ほかの言葉が出てこなかった。


 やがて、まぶたがわずかに動いた。


「優子?」


 娘の目が、少しだけ開いた。

 こちらを見ているのか、すぐには分からなかった。


「お母さん、ここ。分かる?」


 唇が動いた。

 言葉にはならなかった。


 私は夫へ、目を開けたと伝えた。

 夫は、そのまま電話の相手へ伝えた。

 手を止めず、指示を聞き続けた。


 娘の目が私の顔まで動いた時、泣きそうになった。

 けれど、目を開けたからもう大丈夫だとは、少しも思えなかった。


「病院へ行こうね。お母さんも一緒に行くから」


 娘は、また口を動かした。

 私は顔を近づけた。


「……ごめん、なさい」


 胸が詰まった。


「謝らなくていい。今は、そのままでいて」


 声が震えた。

 落ち着かなければと思うほど、言葉がうまく続かなかった。


 階下では、まだ朝食の用意が途中だった。

 食べられるか聞こうと思って、私はここへ来た。


 その続きを、どうしても考えられなかった。

 私は、助けが来るまで娘のそばを離れなかった。


     * * *


 病院で、優子の手から自分の手を離す時、指がうまく開かなかった。


 診てもらうために、少し場所を譲るだけだった。

 看護師さんが、こちらで待っていてください、と椅子を示してくれた。分かりましたと頷いたのに、優子のそばから下がる足が、すぐには動かなかった。


「お母さま。すぐそばにいていただいて大丈夫ですから」


 示された椅子へ座った。

 優子は、周りの人の顔を見ようとして、途中で目を伏せた。


「お母さん、ここにいるよ」


 もう1度伝えると、娘の目が、私の膝の辺りまで来た。


 家を出る時から、いくつものことを聞かれた。

 いつ気づいたのか。直前はどうしていたか。昨日から食べられていたか。

 答えられるものには答え、分からないことは分からないと言った。


 昨夜、ベッドのそばに座った時には、問いかけに小さく頷いていた。

 夜中にも1度、部屋を見た。でも、その時は目を閉じていたので、起こさないよう声をかけなかった。

 眠っていたかと尋ねられ、私は、確かめていないと答えた。


 優子の名前を書く紙を渡され、私はペン先を見ながら、1文字ずつ記入した。

 学校の書類にも、毎年、何度となく書いてきた名前だった。今日は書き終わるまで、そこから目を離せなかった。


 少しして、夫が来た。

 家を出る段取りを引き受け、私たちとは別に病院へ向かっていた。


「優子は」


 私は娘の方を見た。

 夫もそちらへ目を向け、足音を小さくして近づいた。


「お父さんも来たぞ」


 優子は顔を上げなかった。

 でも、膝の上で指が少し動いた。


 夫は、その動きを見てから、私の隣へ椅子を寄せた。

 昨夜、学校へ電話していた時の声とは違っていた。

 私へ何か聞く時も、娘を驚かせないように、1つずつ話した。


 処置を受けている優子が顔をしかめるたびに、椅子から立ち上がりそうになった。

 そばへ寄っても、代わってあげることはできない。起きたことをなかったことにもできず、私は膝の上で手を重ねたまま見ていた。


「痛かったら、言っていいよ」


 先生が声をかけた。

 優子は、小さく頷いた。

 それ以上は言わなかった。


 我慢できているのだと思ってよいのか、私には、もう分からなかった。

 昨夜も、あの子は、手が痛む時さえ黙っていた。


     * * *


 昨日からの経緯を尋ねられた時、私は娘の方を見た。


 優子は、私が話し始めることに気づいたようだった。

 顔が下がり、肩へ力が入った。


「昨日、帰ってきた時のことを、お母さんからお話しするね」


 娘は動かなかった。

 私は、今ここで診てもらうために必要なことだけだと、短く伝えた。

 学校で何があったのか、娘の代わりに決めて話すことはできなかった。


 帰宅時、手に傷があったこと。

 腕や脚にあざがあったこと。

 持ち物が汚され、髪も一部、短くなっていたこと。

 昨夜も今朝も、食事を取れていないこと。


 先生は、私の話を途中で止めずに聞いた。

 そのあと、優子へ顔を向けた。


「昨夜は、眠れたかな」


 娘は、ゆっくり首を振った。


「少しも?」


 また、小さく首を振った。


 私は娘を見た。

 夜中、目を閉じていたのを、眠れたのかもしれないと思った。

 その間も、この子は起きていたのだ。


 娘の唇が、わずかに開いた。

 けれど、声は出なかった。私も夫も待ったが、やがて娘は顔を下げた。


 先生は答えを急かさず、少し時間を置いてから、静かに尋ねた。


「昨日のこと、今、少し話せそうかな」


 優子は、膝の上を見ていた。


「答えたくないことまで、無理に言わなくていいよ」


 娘の唇が動いた。

 私も夫も、黙って待った。


 目から涙が落ちた。

 そのまま、口を固く閉じてしまった。


 手を伸ばしかけて、途中で止めた。

 どこへ触れれば痛くないのだろう。それを考えている間に、看護師さんが娘の方へティッシュを差し出してくれた。


 優子は受け取り、目元へ押し当てた。


「今は、難しいね」


 先生が言った。


「それなら、そのお話はいったん置こう」


 返事を出すまで同じ質問を続けることはしなかった。

 聞かれたことに答えられないままでも、その場から追い返されるわけではなかった。


 私は娘の背中を見た。

 ほんの少しだけ、呼吸の間隔が変わったように見えた。


 そのあとも、先生たちは時間をかけて、体の状態と今の気持ちを確かめてくれた。

 優子が頷ける問いもあれば、黙ってしまう問いもある。答えられない時は少し待ち、私たちにも、家ではどう過ごしていたかを尋ねた。

 帰宅後のことは、私たちが答えなければならなかった。誰が家にいるか。困った時はどこへ連絡できるか。娘が1人で抱え込む時間を作らないために、何をすればよいのか。説明を聞きながら、1つずつ確かめた。


 夫は、当面は仕事を休んで家にいると答えた。

 私も、家にいることを伝えた。


 家にいれば、それだけで足りると思っていた。

 さっきまで、同じ家の中にいた。


 私は膝の上の手を握り、それから、ほどいた。


「話せるようになるまで、待とうと思っていました」


 言うと、声が揺れた。


「昨日、帰ってきてから、聞くと泣いてしまうので……」


 先生は頷いた。


「今すぐ全部説明してもらわなくても、できることを一緒に考えましょう」


 責める口調ではなかった。

 それでも、自分の中にあった後悔が、急になくなるわけではなかった。


 待つと言いながら、私は何を待っていたのだろう。

 娘が自分で、分かるように話してくれることを、待っていたのではなかったか。


 これからも、言葉が出ない時はある。

 そのたびに、話してくれるまで何も分からないままでは、いられなかった。


 次の受診について、夫と一緒に説明を聞いた。

 自宅で心配な変化があった時の連絡先も、渡された紙へ書き込む。1度聞いただけでは、帰ってから何か抜けてしまいそうで、私は書いたところをもう1度読み直した。


     * * *


 診察と手当てが済み、先生から、命に関わる状態ではないと説明を受けた。

 そのあとも様子を見てもらい、家での過ごし方を相談した。入院はせず、両親が付き添って帰宅することになった。


 家へ戻れると分かった時、ほっとしたのは確かだった。


 けれど、もう心配はいらないと言われたわけではなかった。

 傷の手当てが済んでも、娘がここへ来ることになった事情は、何も解決していなかった。


 優子は、帰れるという言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。


「おうちに帰ろう。お母さんも、お父さんも一緒」


 私が言うと、頷いた。


 夫が、帰りの手続きへ行った。

 私は優子のそばに残った。

 娘は服の端を見ていた。そこに何か書かれているわけでもないのに、目を動かさなかった。


「寒くない?」


 首を振った。


「お水、飲む?」


 少し迷ってから、頷いた。

 私は飲み物を渡し、持ちにくくないか確かめた。


 優子が飲み物へ口をつけるのを見て、昨夜もこうして水を勧めたことを思い出した。

 あの時、目の前にいた娘も、今、隣に座っている娘も、同じ子だった。今朝、突然、別の子になってしまったわけではない。


 見えていた顔だけで、どれくらい苦しいか分かったつもりになっていた。


 娘はコップを持ったまま、私の方を見た。

 何か言いたそうに唇が動いたが、声にはならなかった。


 何を考えているのか、私には分からなかった。

 それでも、仕事を休んだことや、病院へ来たことまで、この子に背負わせたくなかった。


「病院へ来たことは、気にしなくていいよ」


 娘の顔を見て言った。


「つらい時は、診てもらおう。お母さんたちだけで分からないことも、相談していいんだから」


 優子はコップへ目を落とした。

 分かってくれたかどうかは、まだ分からなかった。


 私は、娘の痛くない方の肩へ、そっと手を置いた。

 何も言えなくても、手をどかそうとはしなかった。


     * * *


 夫が戻ってきた時、看護師さんが、娘へ帰りの身支度の声をかけてくれた。

 夫が、少し話したいと私へ伝えた。看護師さんに優子のそばにいてもらい、私たちは、先ほど説明を受けた隣の部屋へ移った。

 ドアを閉めてから、向かい合った。


 夫が、私の手元の紙を見た。

 帰宅後の相談先を書き留めた物だった。


「それは、帰ったら電話のそばにも置いておこう」

「ええ」


 夫は、声を落とした。


「学校へ戻すことを、先に考えるのはやめよう」


 私は頷いた。


「あの担任へ話せば何とかなるとは、もう思えない」


 昨夜、夫は怒っていた。

 今は、その怒りをどこへ向けるかよりも、娘をあそこから離すことを考えているように見えた。


「……やっぱり、公立中学は駄目だな」


 夫の小さな声がした。

 私はすぐに返事をせず、夫の手元を見た。

 帰宅後の相談について書いた紙を、まだ持っていた。


「別の学校も、考えよう。私立で、受け入れられるところがあるかもしれない。必要なら、住む場所だって変えればいい」


 夫は、続けて言った。


 転校や、引っ越し。

 夫の顔を見ながら、その言葉を考えた。昨日の朝までは、いつもの学校へ送り出すことを疑っていなかった。それが今は、同じ場所へもう1度行かせる方が、どうしても考えられなかった。


「でも、今、優子へ選ばせるのは、やめましょう」


 私が言うと、夫は頷いた。


「分かっている。今日、決める話ではない」

「まず、家で休めるようにしてから。落ち着いたら、優子がどうしたいかも聞いて」

「ああ。そのために、こちらで考えられることを考えておこう」


 手続きが済んだわけではなかった。

 行き先が決まったわけでもなかった。

 夫も、その話をすぐ娘へ向けるつもりはないと、もう1度言った。


 話を切り上げ、娘の待つ部屋へ戻った。

 優子は、帰る支度を終えて座っていた。


「お待たせ。帰ろうね」


 差し出した私の手を、娘はしばらく見た。

 それから、ゆっくり、痛くない方の手を重ねた。


     * * *


 車で帰る間、優子は外を見なかった。


 夫が運転し、私は優子の隣へ座った。

 交差点で車が止まった時、向こうの歩道を制服姿の生徒が通った。それが見えたのか、娘の肩へ、急に力が入った。


 同じ学校の子かどうか、私には分からなかった。

 娘は顔を下げ、膝の辺りを見ていた。


「もう、家へ帰るところだからね」


 そう言うと、頷いた。

 窓の外へ顔を戻すことはなかった。


 私は自分の携帯を鞄の中で確かめた。

 学校へ、このことを伝えなければいけないのか。

 ふと考えたが、昨夜の声が浮かんだ。


 娘さんから聞いた話ですか。

 何があったか分からないと。


 今、もう1度そのやり取りをすることはできなかった。

 娘の状態をどこまで伝えれば、言葉だけではなく動いてもらえるのか、考えることさえ苦しかった。


 携帯を戻した。

 夫も、学校へ連絡しようとは言わなかった。


 隣で、優子の目が閉じた。

 眠ったのかと思ったが、曲がり角で車が傾くと、すぐに開いた。

 私の袖に触れていた指が、少しだけ強くなった。


 私は、その手が離れるまで動かなかった。


    * * 優子視点 * *


 家の門をくぐった時、まだ外は明るかった。


 昨日、ここへ戻ってきた時とは違う明るさだった。

 でも、玄関へ入る足は、今日も遅かった。

 お父さんが先にドアを開け、お母さんが隣にいてくれた。


 靴を脱ぐために、上がり框へ座った。

 上履きはなかった。

 お母さんが片づけてくれたのだと思った。


「ゆっくりでいいよ」


 言われて、頷いた。

 早くしようとしているつもりはなかったけれど、靴を脱げないと、みんなが中へ入れなかった。


 私が足を上げると、お母さんが履物を揃えた。

 お父さんは、私が立ち上がるまで少し先で待っていた。


 見慣れた廊下が、リビングまで続いていた。

 ただいま、と言おうとして、口を閉じた。


「帰ってきたね。少し休もう」


 お母さんの声に、小さく頷いた。

 ようやく家へ戻れたのだと、その顔を見て確かめた。


     * * *


 部屋へ戻る前に、お母さんが、リビングで少し待っていてと言った。

 お父さんが一緒にいてくれた。


 ソファの端へ座ると、お父さんも隣へ腰を下ろした。

 テレビはついていなかった。私も何を話せばいいのか分からず、そのまま、お父さんとリビングにいた。


 お父さんの鞄から、紙が少し見えていた。

 病院でもらった物だと思った。


 私は目を逸らした。

 今日、自分の命を終わらせようとした。

 病院から戻っても、そのことを、どう話せばいいのか分からなかった。

 病院で誰かに尋ねられるたび、お母さんが答えた。

 答えられないところでは、お母さんも困っていた。


 隣のお父さんへ顔を向けると、目が合った。

 私はすぐに俯いた。


 今度こそ、叱られるかもしれないと思った。

 ごめんなさいと、言わなければいけない気がした。けれど、何をしたのかも、どうしてそうしたのかも説明できず、膝の上の手を見つめた。


 お父さんは、すぐには話さなかった。

 私の顔を見て、それから、少し声を落とした。


「今、何て言えばいいか、私も考えている」


 思っていなかった言葉だった。

 私は顔を少し上げた。


「昨日から、聞き方も、間違えたかもしれない。答えられないのに、答えてもらおうとした」


 私は小さく首を横に振った。

 お父さんが悪いわけではなかった。

 聞かれたことに、私が答えられなかっただけだった。


「優子に、今、説明を全部させたいわけではないんだ」


 お父さんは続けた。


「帰ってきたんだから、今日はここで過ごそう。明日のことは、急がなくていい」


 私は膝を見た。

 平日の昼間なのに、お父さんはここにいた。会社を休ませてしまったのだと思うと、ますます顔を上げられなかった。


 少しして、お父さんが続けた。


「仕事は休むようにしてある。お父さんが決めたことだから、気にしなくていい」


 私は顔を少し上げた。


「仕事の電話をすることはある。でも、今日はここにいる。しばらく、家にいるようにしてある」


 私は小さく頷いた。

 何日くらいなのかは聞かなかった。

 聞いたら、その日までに何とかしなければいけない気がした。


 お父さんがいてくれることは、嬉しかった。

 安心してほしいと思って顔を上げたけれど、うまく笑えなかった。


 お父さんは、笑ってごらんとは言わなかった。

 私がまた俯いても、そのまま隣にいてくれた。


     * * *


 部屋は、少しだけ変わっていた。


 お母さんが布団を整え、枕元には新しい水を用意してくれていた。

 本と栞も、机の端へ並べてある。いつも自分が使っている部屋なのに、私は入口から、置いてある物を1つずつ見ていた。


 私はドアのところで止まった。

 中へ入ってもよいか、分からなくなった。


「ここで休むの、嫌だったら、下にいてもいいよ」


 お母さんが言った。


 嫌だと、はっきり言えるわけではなかった。

 どこへ行っても、今日のことを思い出した。

 でも、自分の部屋なら、知らない人が入ってくることはなかった。


 私は、部屋の中へ向き直った。

 お母さんが先に1歩入り、私もそのあとについていった。


 ベッドへ腰を下ろすと、体が重かった。

 横になった方が楽なのは分かったけれど、枕へ頭をつけるところまで、少し時間がかかった。


 お母さんが椅子を持ってきた。

 机の方を向いていた椅子を、ベッドの近くへ動かした。


「お母さんも、ここにいていい?」


 私は頷いた。

 聞かれてからではなく、本当は、自分から頼みたかった。


 座ったお母さんは、私を見続けなかった。

 コップが手の届くところにあるか確かめ、カーテンの隙間を少し直した。

 それから、自分の膝へ手を置いた。


 お母さんが膝へ置いた指を見ていた。

 病院でも、その手はすぐそばにあった。何か聞かれて答えられない時には、私が顔を向けるより早く、お母さんが代わりに話してくれた。


 そのたびに助かった。

 それでも、誰が何をしたかは、言えなかった。


 お母さんの顔へ目を上げると、目が合った。

 口を開いたところで、昨日の声が浮かんだ。

 笑う声。やめてと言っても、やめてもらえなかった時の顔。


 お母さんを見ているのに、頭の中には、別の人がいた。


 唇を閉じると、涙が流れた。

 お母さんがティッシュを取ってくれた。


「今、言えなくてもいいよ」


 私はそれを受け取った。

 片手で折ろうとして、うまくできず、そのまま目元へ当てた。


 話してしまいたかった。

 何も知らないでほしいわけではなかった。

 お母さんに、誰も気づかなかったことを、知っていてほしかった。


 でも、言葉にしたら、またあの場所へ戻るような気がした。

 何から始めても、昨日の床や、囲まれた時の顔へつながってしまった。


 お母さんの手が、布団の上へ来た。


「話をするためじゃなくても、呼んでいいからね」


 私は頷こうとした。


「お水でも、ここに座ってでも。それだけでいいよ」


 涙で、顔がよく見えなかった。

 私はティッシュを下げ、お母さんの方へ少しだけ手を伸ばした。

 何も言えなかったけれど、お母さんは椅子を、もう少し近づけてくれた。


     * * *


 しばらくして、お母さんが学校のことを口にした。


「優子。しばらく学校、お休みしようか」


 私は、手を止めた。


 今日は休んでいい。それは、昨夜も聞いていた。

 けれど、お母さんの言う、しばらく、がどのくらいなのかは分からなかった。明日のことまで含んでいるのか、確かめずにはいられなかった。


「……明日も?」

「うん。明日も」


 私は、お母さんを見た。


「今日は休んでいいって、昨日言ったでしょう。でも、明日になったら必ず行かなきゃいけない、ということじゃないよ」


 お母さんは、ゆっくり言った。


「朝になって、行く支度をしなくていい」


 そこまでは、分かった。

 でも、明日が終われば、その先があった。


 土曜日と日曜日は、もともと休みだった。

 月曜日も、カレンダーの数字が赤くなっていた。

 そこまでは、学校へ行かない日が続く。


 火曜日になったら、どうなるのだろう。

 その先にも、学校へ行く日は続いていた。


 聞きたかった。

 けれど、何日も先のことまで尋ねたら、休みたがっていると思われるかもしれなかった。お母さんの方を見たまま、唇を開けなかった。


 お母さんは、少し待ってから続けた。


「明日だけの話じゃないよ。来週のことも、今は決めなくていいからね」


 私はすぐには頷けなかった。

 聞き間違いではないかと思い、お母さんの顔を見ていた。


 休んでもよい理由を、まだ説明できていなかった。

 痛いところが治ったら、教科書を揃えてもらったら、それで行くのだと思っていた。行けると言わなくても、本当によいのだろうか。


 お母さんが、布団の端へ手を置いた。


「学校のことは、お父さんとお母さんで考えるから。優子が今日のうちに、いつから行くか決めなくていいの」


 私は、その言葉を頭の中でもう1度聞いた。


 いつから行くか、決めなくていい。


「今、行けるって約束しなくていいよ。分からない時は、分からないままでいい」


 お母さんは、返事を待たずに、そう言ってくれた。


 鼻の奥が痛くなった。

 顔を隠そうとして、手を途中で止めた。


 ずっと、明日のことを考えていた。

 今日は家にいられても、次の日には出ていかなければならないのかもしれない。その次の日にも学校はあって、休んだ分を説明しなければならない。1日休めると分かるたび、その先に行かなければならない日を探してしまった。


 お母さんが明日もと言っても、私はすぐ、その先を探していた。


 今は、その日を決めなくていいと言われた。


 息を吐いた。

 胸の辺りが、少しだけ動いた。

 それまで、小さく吸って、すぐ止めていたのだと分かった。


 ようやく、小さく頷いた。

 その拍子に、涙がまた出た。

 何があったかは、まだ1つも話せなかった。

 でも、お母さんは、休む前に聞かせてとは言わなかった。


 私は布団の端を握った。

 さっきより、少しだけ弱い力で握れた。


     * * *


 それからも、心配なことはなくならなかった。


 学校を休んでいる間、授業は進む。

 教科書には、もう読めなくなったところがある。

 ノートも、どこまで残っているのか分からない。


 机の方を見ていると、お母さんが私の視線を追った。


「勉強のことも、気になってる?」


 少し迷ってから、頷いた。


「お休みすれば、授業には出られないね」


 お母さんは、そんなことはないと言わなかった。

 私は、膝の辺りを見た。


「でも、今日、取り戻そうとしなくていいよ」


 少しして、続きが聞こえた。


「できるようになってから、どうするか考えよう。今、痛い手でノートを書かなくてもいいの」


 私は、机へ目を向けた。

 いつものリュックサックは置いていなかった。


 いつもの場所が空いていることが、気になった。

 お母さんが、そちらへ目を向けた。


「荷物は、持って帰ってきた分をお母さんが置いてあるよ」


 私はお母さんを見た。


「捨てずに、乾かせる物は乾かして、まとめてあるから。今は、見なくて大丈夫」


 私は頷いた。

 見たいのか、見たくないのか、自分でも分からなかった。

 なくなってしまうのは嫌だった。

 でも、あの文字を、もう1度開くのも嫌だった。


 ごめんなさいと、謝りたかった。

 でも、声にしようとすると、喉が詰まった。


 日傘も、リュックサックも、携帯電話も、お母さんが買ってくれた物だった。

 大事に使おうと思っていたのに、持って帰った時には、どれも違う形になっていた。家へ持って帰ることさえできなかった物もあった。


「なくなった物も、壊れた物もあるのは、分かってるよ」


 お母さんが言った。


「でも、それを優子が1人で何とかしなくていい。何が足りないかも、今日、全部言わなくていいから」


 私は、また頷いた。

 うん、と声にするのは難しかった。


「携帯も、今は使えないままだけど。お父さんと相談しておくね」


 その言葉で、水の中にあった画面を思い出した。

 私は目を閉じた。


 電話をかけたかった。

 昨日、あそこから、お母さんの声が聞けたらと思った。

 でも、家に帰って、目の前にお母さんがいても、言葉は出なかった。


 新しくしてもらうことより先に、また壊されたらどうしようと思った。

 そこまで言えずにいると、お母さんは、それ以上携帯の話をしなかった。


 机の上には、本があった。

 昨夜、栞を落とした本だった。


「それ、手元に置いておく?」


 お母さんに聞かれ、首を横に振った。

 今日は、読めない。表紙を見ているだけでも、昨夜、何度も同じ行を読み直したことを思い出した。


「じゃあ、机に置いておこうね。今は読まなくていいよ」


 読まなくていいと言われただけなのに、少し楽だった。

 好きな物まで、いつもどおりに楽しめる顔をしなくてよかった。


     * * *


 夕方になっても、お腹が空いたとは思わなかった。


 それでも、お母さんが少しだけ食べてみるかと聞いた時、私は頷いた。

 朝から、何も口に入れていなかった。

 昨日の夜からだと、もっと長かった。


 部屋へ持ってこようかと聞かれ、首を横に振った。

 ベッドの上にいると、時計と机ばかり見てしまった。少し迷ってから、布団の外へ足を下ろした。


「下へ行ってみる?」


 私は小さく頷いた。


 お母さんが隣を歩いた。

 リビングへ入ると、お父さんが立ち上がりかけ、それから、そのまま椅子を引いてくれた。


「ここでいいか」


 私は頷いた。


 食卓には、いつものように大きなお皿がいくつも並んではいなかった。

 私の前にあるのは、小さな器とスプーンだった。椅子へ座ると、お母さんが、そこへおかゆを置いてくれた。


「熱かったら、少し待ってね」


 白い湯気が上がっていた。

 私はスプーンを持ち、ほんの少しすくった。


 口へ入れると、温かいことは分かった。

 柔らかいご飯が、舌に触れるのも分かった。


 味がしなかった。


 飲み込んでから、もう1度器を見た。

 おかゆだから、薄いだけなのだろうか。でも、いつもなら、薄くてもご飯の味は分かった。口の中に残るはずの味を探しても、今日は分からなかった。


 次の1口をすくった。

 今度も、温かくて、柔らかかった。

 それ以外のことが、うまく分からなかった。


「飲み込みにくい?」


 お母さんが聞いた。

 私は首を振った。


「……味が、分からない」


 それだけが、ようやく声になった。

 言ってから、お母さんの顔を見た。

 作ってくれた物だった。

 おいしくないと言ったように聞こえたかもしれなかった。


 違うの、と言い直そうとして、喉が詰まった。

 おいしくないわけではないと伝えたいのに、味の違いを考えると、どちらも分からなかった。どう説明すればよいのか迷って、続きが出てこなかった。


 お母さんは、私の器へ何か足そうとはしなかった。


「うん。味が、よく分からないんだね」


 私は頷いた。


「教えてくれてありがとう。次に診てもらう時、そのことも相談しようね」


 次、という言葉を聞いて、病院の椅子を思い出した。

 また行くのかと思うと、怖かった。

 でも、お母さんは、今すぐ食べて確かめなさいとは言わなかった。


 私は、もう1口だけ食べた。

 飲み込むと、そこで手が止まった。


「もう、いい?」


 お母さんに聞かれ、頷いた。

 器には、まだほとんど残っていた。


 残した器を見て、顔を下げた。

 せっかく作ってもらったのに、ほとんど食べられなかった。


「ここに置いておこうか。もう少しあとで欲しくなったら、また用意するから」


 スプーンを置いた。

 お父さんも、お母さんも、私が食べた回数を数えるようなことは言わなかった。


 お母さんが、湯飲みをお父さんの前へ置いた。

 お父さんが小さく礼を言い、湯飲みを手に取る。


 私は、そのやり取りを少しだけ見ていた。

 いつもの食卓でも、何度も見ていた光景だった。

 それでも、おかゆの味は、最後まで思い出せなかった。


     * * *


 部屋へ戻る前に、ピアノのそばを通った。


 ピアノの蓋は閉じたままで、上には、前に使った楽譜が重ねてあった。

 夏休みには、ご飯のあとに少し弾こうと思って、椅子へ座ったこともある。その時は、ここを通ると自然に手を伸ばせた。


 今日は、椅子へ座ろうとは思えなかった。

 手が痛いことだけが理由ではなかった。

 音を出したら、どんな気持ちになるのかも分からなかった。


 お母さんは、私が立ち止まったことに気づいた。

 でも、弾いてみるとは聞かなかった。


「お部屋、戻ろうか」


 私は頷いた。


 廊下の途中で、お父さんの携帯が鳴った。

 体が少し固くなった。


「仕事の電話だよ」


 お父さんが、画面を見てから言った。


「ここで話しているから」


 学校からではないと分かって、足が動いた。

 お母さんは私の歩く速さに合わせて、部屋まで来てくれた。


 ベッドへ座ると、窓の外は、朝とは違う色になっていた。

 今日は、教室へ行かなかった。

 朝の会も、授業も、帰りの会も、この部屋には来なかった。


 それでも、1日は長かった。


 学校へ行かなければ、すぐ元の自分に戻れるわけではなかった。

 本を読みたいと思っても読めず、食べ物を口へ入れても味が分からなかった。

 お母さんへ言いたいことも、まだ喉のところで止まっていた。


 私は、制服を置く場所へ目を向けた。

 明日のために、新しい物が出してあるわけではなかった。


 それでも、そこから目を離せなかった。

 明日になれば、また支度をしなければいけない気がした。


 お母さんが椅子を動かす手を止め、私の見ている方へ顔を向けた。


「明日の支度は、しなくていいよ」


 私は小さく頷いた。

 言ってもらったことは覚えていた。それでも、こうしてもう1度聞けると、少しだけ肩の力が抜けた。


 お母さんが座るのを待ってから、私も横になった。

 枕へ髪が広がり、長いところと短いところがあるのを思い出した。けれど、今夜は確かめようと指を入れず、そのままにしておいた。


 ドアの外から、お父さんの声がかすかに聞こえた。

 仕事の話だった。


 お母さんの袖へ、少しだけ触れた。

 こちらへ顔を向けてくれた。


 伝えたいことは、たくさんあった。

 つらかったのは昨日だけではないこと。助けてと言ったのに、そのまま行ってしまった人がいたこと。勝也くんのことまで、どう信じればいいのか分からなくなっていること。

 頭の中には次々に浮かぶのに、お母さんの顔を見ると、声にはできなかった。


 今は、そのどれも話せなかった。


「……まだ、ここにいて」


 お母さんは、椅子へ座り直した。


「いるよ」


 私は頷いた。

 それだけ頼んでも、お母さんは、何の話かと聞かなかった。


 眠れるかどうかは、分からなかった。

 目を閉じたら、また昨日のことを思い出すかもしれなかった。


 でも、明日の朝までに、学校へ行けるようにならなくてよかった。


 私は、お母さんのいる方へ体を少し向けた。

 まだ涙が出た。

 お母さんは、何も聞かずに、そばにいてくれた。



今回の登場人物


・富田 優子

眠れないまま迎えた欠席初日の朝、自分を傷つけて意識を失い、美和に発見される。受診後も必要な短い言葉しか出ず、主に頷きや首振りで応じるが、登校を急がなくてよいと聞き、翌日以降への不安が少し和らぐ。


・富田 美和

夜も優子を気にかけて様子を見る。翌朝、2階の物音を聞いて起きたのかと思い、朝食について声をかける。返事がないため入室して異変を発見。受診に付き添い、帰宅後もそばで過ごして、登校を急がなくてよいと伝える。


・富田 泰臣

仕事を休んで自宅にいる。朝、美和の呼ぶ声で娘の異変を知り、救急の連絡や受診後の段取りを担う。担任への不信を深め、娘を今の学校へ戻すことを前提にしない方針を美和と話し合う。


・病院の医師、看護師たち

優子の手当てと状態の確認を行う。事情を話すことが難しい優子に配慮しながら、両親と帰宅後の見守りや継続した受診について相談する。

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