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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
21/52

第18話 もう行けない 【閲覧注意】

今回は閲覧注意です。


これまで以上に苛烈ないじめのシーンがあるので気分が悪くなるかもしれないです。


次の話(第19話)の前書きに今回の話を簡潔にまとめた文を書くので今回は飛ばしても大丈夫なようにします。



書き溜めもここまでです。


明日の朝と夜(8時と20時)に2本投稿予定です。

どんな内容を書くかは、もう決まっているのですが、間に合わなかったらごめんなさい


    * * 優子視点 * *


 火曜日の朝、リュックサックの口を開けて、もう1度中を見た。


 教科書。ノート。筆箱。

 連絡帳を開き、今日の時間割と1つずつ照らし合わせる。

 入れた物を確かめ終わっても、すぐには閉じられなかった。


 学校へ持っていかなければ、ここにある間は何もされない。

 でも、持っていかなければ授業を受けられない。


 昨日、勝也くんの教科書を一緒に見せてもらった時のことを思い出した。

 私が使えるように置いてから、自分が忘れたことにしてくれた。

 先生に注意されても、私の方を見たりはしなかった。


 あの時、ありがとうと言えた。

 それなのに、思い出すと嬉しい気持ちだけにはならなかった。


 今日も困ったら、また同じことをさせてしまう。

 そう思うと、教科書を1冊ずつ押し込む手に力が入った。


 ファスナーを閉じる。

 昨日までと同じように、持っていくことにした。


「優子、朝ご飯できてるよ」


 ドアの向こうから、お母さんに呼ばれた。


「……うん」


 声を返すと、廊下を歩く音が離れていった。

 私は、閉じたリュックサックをもう1度見てから立った。


     * * *


 教室のドアを開けると、窓際に勝也くんがいた。


 椅子に座り、机の中へ教科書を入れているところだった。

 廊下側にいた時より、入ってすぐには顔が見えない。何人かの机の間を通って近づくと、勝也くんが顔を上げた。


「おはよう、富田」


「……おはよう」


 今日も、先に言ってくれた。


 自分の席へ座るまで、口元を見られないように下を向いた。

 返事をしたことを、後ろから誰かが見ている気がした。振り向いて確かめることはできなかった。


「これ、昨日の続きなんだけど」


 勝也くんが、机の横から文庫本を出した。

 私が貸した本だった。

 表紙の上からかけた紙のカバーも、そのままだった。


「先のこと、言わなくていいから。1つだけ聞いていい?」


 私は頷いた。


「最初の方に出てきた人って、あの場面にもいたよな。読み間違えたかと思って、戻ったんだけど」


 示してくれたページを、隣から覗いた。

 私も最初に読んだ時、名前を確かめたところだった。


「……いたと思う」


「やっぱり?」


「その前に、1度だけ……」


 言いかけて止まった。

 続きを知っているから言えることまで、話してしまいそうだった。


 勝也くんが、少し笑った。


「あ。今、言わない方がいいところ?」


「……うん」


「じゃあ、あとで自分で確かめる」


 そう言って、本を閉じた。


 聞いたのに答えてもらえなかった、という顔はしなかった。

 むしろ、続きが楽しみになったみたいだった。


「読み終わったら、また聞いていい?」


「うん」


 思っていたより、はっきりした声が出た。

 自分で気づいて、口を閉じた。


 勝也くんは、カバーの端を指で整えてから、本をリュックサックへしまった。

 借り物だからなのか、雑に押し込んだりはしなかった。


 私の本が、あそこにある。

 今は、そのことに少し安心した。


     * * *


 2時間目が終わると、教室の中が一度に騒がしくなった。


 椅子を引く音がする。

 廊下へ出ていく人を避けながら、私は次の教科書を机の上へ出した。


 ページをめくる。

 昨日、家でも確認した。今日使うところには、大きな字は書かれていなかった。

 端が濡れて波打っているところを押さえ、ノートを重ねた。


「そこ、今日やるところ?」


 勝也くんに聞かれた。


「……多分」


「俺、1枚先まで開いてた」


 勝也くんは自分の教科書を戻した。

 私の方を見ていたのは、そのページを確かめるためだけだったのかもしれない。


 でも、机の端から手が離れなかった。

 どこを見られたのか、いつも考えてしまう。


 美咲さんが、通路の向こうから来た。

 莉奈さんと、何か話している。


 私はノートの角を揃えた。

 早くチャイムが鳴ってほしかった。


「鵜飼、次って小テスト?」


 美咲さんが言った。

 勝也くんの机の横で足を止める。


「今日は違うと思う。昨日、来週って言ってなかった?」


「あ、そうだっけ」


「範囲なら、連絡帳に書いたけど」


「いい、あとで聞く」


 美咲さんは、私の机を見た。

 教科書から筆箱へ、目が動いたように見えた。


 私は筆箱へ手を置いた。

 それだけで、何をしているのか分からなくなった。隠すほど不自然になる気がして、手を下ろそうとした。


 美咲さんは、何も取らなかった。


「鵜飼、ずっとここにいるね」


「俺の席だからね」


「そうだけど」


 莉奈さんが笑った。

 笑いながら、こちらを見た。


「最近、廊下とか出なくなったよね」


「用があれば行くよ」


 勝也くんの返事は、いつもと変わらなかった。

 莉奈さんは、まだ何か言いたそうにしていた。

 美咲さんが私の机をもう1度見てから、莉奈さんの腕を軽く引いた。

 2人は少しして、前の方へ戻っていった。


 私の筆箱は、まだここにあった。


 チャイムが鳴るより前に、胸から息が抜けた。

 その音が聞こえたかもしれないと思って、勝也くんの方を見た。


 勝也くんは、廊下から来た翔太くんに何か言われていた。

 私が見ていることには、気づかなかった。


    * * 勝也視点 * *


「お前、休み時間まで教科書見てんの」


 翔太が、俺の机へ片手をついた。


「次の準備してただけ」


「勉強に目覚めたのかと思った」


「準備しただけでそこまで言われるの?」


「夏休み、春樹に見てもらったの、どこの誰だよ」


「お前もだろ」


 翔太は、そうだった、と言って笑った。

 チャイムが鳴ったので、来たばかりなのに自分の席へ戻っていく。


 俺は椅子を少し前へ動かした。

 隣を見ると、優子はもうノートを開いていた。


 昨日、荒川と、どちらか1人は優子を見ていようと決めた。

 前は、休み時間になると翔太と廊下へ出たり、ほかの教室を覗きに行ったりしていた。

 今は、用がなければ自分の席にいる。

 翔太が来ればここで話すし、本もここで読める。ずっと座っていること自体は、別に苦ではなかった。


 どうしても席を離れる時だけ、荒川へ声をかける。

 俺が戻ってから荒川が出ていけば、同時に2人ともいなくなることは避けられた。


 教科書の字は、今日も気になっていた。

 あの1冊だけなのか、ほかにもあるのか。

 聞けば、また優子は困るかもしれない。だからといって、見なかったことにもできなかった。


 でも、今朝、本のことを話した時には、少し声が明るくなった。

 ああいう話なら、聞いてもらえるらしい。


 俺が気づいてから、何かが全部変わったわけではない。

 優子はいつものように席へ来て、授業の準備をしている。

 その中で、どこに困っているのかを、俺はまだうまく見つけられなかった。


     * * *


 3時間目が終わり、俺はトイレへ行くために立ち上がった。


 荒川は、少し前の席で友達と話していた。

 そばへ行き、小さく声をかける。


「ちょっと行ってくる」


「うん」


 荒川は頷くと、話していた友達と一緒に教室の後ろへ移った。

 俺と優子の席は、1番後ろにある。

 その後ろの壁までには、何人かで立って話せるくらいの広さがあった。


 荒川は窓寄りに立ち、友達の話へ相槌を打っていた。

 優子の方ばかりを見ているわけではない。それでも、誰かが席へ近づけば、すぐ気づける場所だった。


 俺は教室を出た。


 戻ってきた時も、荒川たちはそこにいた。

 後ろのドアを入ると、戸田と富永も近くに立っているのが見えた。


「荒川も、ずっとそこにいるね」


 富永が言った。

 荒川は、話していた友達から顔を上げた。


「ここ、広いしな」


「さっきもいなかった?」


「おったよ。通る?」


 荒川が半歩横へ避けた。

 けれど、富永は通ろうとはしなかった。


「別に、そういうことじゃないけど」


 声が少し尖って聞こえた。

 戸田が、戻ってきた俺を見た。それから、荒川の方へ目を動かす。


「もういいよ。行こ」


 2人は、そのまま前の方へ戻っていった。

 優子へ何か話しかけることも、後ろの棚から何かを取ることもなかった。


 俺は自分の席へ戻った。

 優子は、本を開いていた。2人が離れてから、止まっていた指がページの端をめくった。


 荒川の友達が自分の席へ戻ったところで、俺も椅子から少し離れた。

 荒川のそばへ行き、声を落とす。


「今の、何だったんだろ」


「分からん。自分らがここで話してたら、来たんやけど」


「俺もさっき、ずっと席にいるって言われた」


 荒川が、2人の戻った方を見た。


「自分がおっても、嫌そうに見えたな」


「……うん」


 俺が席にいる時も、俺の代わりに荒川が近くにいる時も、同じようなことを言われた。

 通路を塞いでいたわけではない。

 俺たちに何か用があったようにも見えなかった。


「教科書のこと、あの2人も関係あるのかな」


 言うと、荒川はすぐには頷かなかった。


「前に自分が見たこともあるし、気にはなる。けど、書いたとこは見てへんからな」


「うん。俺も見てない」


 昨日から、誰が書いたのだろうと考えていた。

 今は、あの2人の顔が浮かぶ。

 俺たちが優子のそばにいることが、何かの邪魔になっているのだろうか。


 ただ、それを確かめられることは、まだ何も見ていなかった。


「気にしとこ。何かしそうやったら、すぐ声かける」


「俺もそうする」


 荒川が頷いたところで、チャイムが鳴った。

 俺は自分の席へ戻った。


 優子は本をしまい、次の教科書を出していた。

 机の上の物は、俺が出ていく前と変わっていなかった。


     * * *


 昼休み、荒川が俺のところへ来た。

 最初は、その日返されたプリントの答えを聞かれた。


「最後、どっちにした?」


「俺、こっち」


「そっちか。自分、逆やと思ってたわ」


 2人で紙を見た。

 同じところを指しているのに、俺たちの説明は途中から噛み合わなかった。


「あ。待って。荒川、裏の話してる?」


「裏の最後やで」


「俺、表の最後だと思ってた」


「そら合わんわ」


 荒川が笑った。

 俺も笑って、紙を裏返した。


 その間に、優子は机へ出していた物を片づけ始めた。

 教科書だけではない。筆箱も、ノートも、連絡帳も、全部リュックサックへ戻している。


 席を立とうとしているようだった。


「富田、図書室?」


 俺が聞くと、優子は1度手を止めた。


「……うん。少し」


「そっか」


 リュックサックを背負い、俺の椅子の後ろを通っていく。

 横の通路を広くしようと椅子を寄せると、優子は小さく会釈した。


 優子が教室のドアへ向かうのを見ながら、荒川が声を落とした。


「荷物、全部持ってくんやな」


「……うん」


 俺も、同じことを思っていた。


 図書室へ行くなら本を持っていくのは分かる。

 でも、今は読みかけの本だけではなく、授業に使う物まで全部しまっていた。


「昨日のことがあるからかな」


「置いときたくないんかもしれんな」


 荒川は、優子の空いた机を見た。

 俺も見た。

 机の中には、何も見えなかった。


「俺、図書室まで行ってくる」


「うん。こっちは自分が見とく」


 荒川はプリントを持ち直した。


「答えの続きは、帰ってからでええな」


「うん。今度は裏って言って」


「そこからやな」


 小さく笑い、俺は席を立った。

 優子はまだ、廊下へ出たところだった。


「富田。俺も図書室、行っていい?」


 振り向いた優子が、少し間を置いて頷いた。

 並んで歩き始める。

 教室のドアのそばにいた荒川へ目を向けると、分かったというように頷いてくれた。


 図書室では、優子が棚を見ている間、俺も近くの背表紙を見た。

 どうして全部持ってきたのか、今は聞かなかった。

 優子が読みたい物を探しているところを、急かしたくはなかった。


 壁の時計を見てから、そろそろ戻る、と声をかけた。

 優子も本を棚へ戻し、俺と一緒に図書室を出た。


     * * *


 教室へ戻ると、荒川がこちらを見た。

 俺は軽く頷いてから、優子と一緒に席へ向かった。

 優子が背負っていたリュックサックを下ろし、次の授業で使う物を取り出す。


「間に合ったね」


「……うん」


「次のプリント、配られたみたい」


 優子の机の上を指した。

 同じ物が、俺の机にも置かれていた。


「ありがとう」


「俺が配ったんじゃないけど」


 言ってから、別にそこまで言わなくてもよかったと思った。

 優子の口元が、一瞬だけ緩んだ。


「……教えてくれたから」


「ああ。そっか」


 俺が頷くと、優子はプリントを教科書へ挟んだ。


 話している時、優子は時々、教室の前の方を見る。

 俺の向こうを見て、それから自分の手元へ目を落とす。

 誰を見ているのかは、まだ分からなかった。


 先生が来た。

 号令をかけるために立ち上がる。


 優子も、隣で立った。

 机から少し離れても、リュックサックを置いた方へ目を向けていた。


    * * 優子視点 * *


 火曜日は、教室で何かを取り上げられることはなかった。


 図書室へ行く時にも、帰る時にも、持ち物を全部持って歩いた。

 重かったけれど、背中に重みがある方がよかった。

 少なくとも、自分の知らないところで開けられることはない。


 勝也くんは、何度か話しかけてくれた。

 昨日の教科書について、繰り返し聞いたりはしなかった。


 もう、興味がなくなったのだろうか。

 そう思いかけて、すぐに違うと思った。

 使うところを見せてくれたし、配られた紙の場所も教えてくれた。


 話せなかったのは、私だった。


 家で夕飯を食べながら、お母さんに、今日はどうだった、と聞かれた。


「……授業、受けられた」


 そう答えた。

 何も取られなかった、と言ってしまいそうだったのを、途中で変えた。


 お母さんは、私の顔を見た。


「そう」


 それだけ言って、煮物の皿を少しこちらへ寄せてくれた。

 食べられそうなら、と言われて、私は1つ取った。


 味は分かった。

 温かかった。

 家に帰ってきたことも、ちゃんと分かっていた。


 それなのに、明日の時間割が、頭の中から離れなかった。


     * * *


 水曜日の朝、教科書の間に連絡帳を入れた。

 机の上に残った物は、何もなかった。


 昨日、全部持っていけば1日を終えられた。

 今日も、そうすればいい。


 そう思いながら、ファスナーを端まで閉じた。

 持ち手を引いて確かめ、背負った。


 お母さんは、玄関で私の髪へ目を向けた。


「肩紐に挟まってる」


 言われて、手を後ろへ回す。

 届くより先に、お母さんがそっと髪を出してくれた。


「はい」


「……ありがとう」


 背中へ戻った髪を、手のひらで撫でた。

 腰の辺りまである毛先が、制服の上を滑った。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 外へ出る。

 日傘を開くと、朝の光が少し遠くなった。


 学校へ向かう人たちの間を、いつもの速さで歩いた。

 遅刻しないように。誰かへぶつからないように。

 何かを忘れて、教室へ戻ることにならないように。


 昨日と同じ1日なら、それでよかった。


 昇降口へ着くと、日傘を畳み、いつもの傘立てへ入れた。

 靴を履き替え、教室へ向かった。


     * * *


 その日の勝也くんは、朝から委員会の連絡用紙を持っていた。

 小島さんが机のそばへ来て、放課後のことで確認している。


「今日、朝の挨拶運動の当番を決めるんだよね」


「うん。どのクラスが、どこに立つかも確認するって」


「じゃあ、これ持っていこう」


 小島さんは紙を折らずにしまい、自分の席へ戻っていった。

 勝也くんも、自分の紙をリュックサックの中へ入れた。


 私は、開いていた教科書へ目を戻した。


「富田」


 呼ばれて顔を上げると、勝也くんがこちらへ体を向けていた。


「俺、今日の放課後、委員会あるんだ。富田は図書の当番?」


「……今日は、ない」


「そっか」


 勝也くんは頷き、私の机の上へ目を向けた。


「教科書、ほかにも読めないところがあったら言って。俺のでよければ、見せられるから」


 月曜日に、一緒に見せてもらったページを思い出した。

 あの時だけで、終わりになったわけではなかった。


「今日は帰りの会が終わったら、すぐ委員会に行くから。その前に言ってくれれば、一緒に確かめられるし」


「……うん。ありがとう」


 まだ困っているところがないか、気にしてくれていた。

 頼っていいと言ってもらえたことは、嬉しかった。

 けれど、どのページを見せてほしいか考えようとすると、奈々さんの言葉まで思い出してしまった。


 勝也くんにも、自分の用事がある。

 いつも隣にいてくれるわけではない。

 分かっているのに、放課後という言葉が、その朝から気になった。


 まだ1時間目も始まっていない。

 それなのに、隣の椅子が空いたところを考えていた。


     * * *


 授業の間は、勝也くんがいた。


 ノートを取って、分からないところでは眉を寄せている。

 先生が黒板を消す前に、少し待ってくださいと言ったのは勝也くんだった。

 私もまだ書き終わっていなかったので、止まった黒板を見て続きを写した。


 書けた? と、小さく聞かれた。

 頷くと、勝也くんも、よかった、と口だけを動かした。


 私のためだけに待ってもらったわけではない。

 そう分かっている時には、少しだけ楽に返事ができた。


 休み時間になると、美咲さんたちが教室の前やドアのそばに集まった。

 こちらを見ていることもあった。

 目が合う前に、私は下を向いた。


 奈々さんは、勝也くんへ提出物のことを聞いていた。

 勝也くんが答えると、ありがとう、と明るく言った。

 昨日、私が小さく言った言葉と同じだった。

 でも、奈々さんが言うと、誰も変な顔をしなかった。


 私は、机の中へ手を入れた。

 筆箱があることを、触って確かめた。


 午前中に1度、トイレへ行こうと思った。

 けれど、リュックサックを持って立つと、奈々さんに見られた。


「また全部持ってくの?」


 足が止まった。


「……少し」


「少しって、何が?」


 答えを考えているうちに、奈々さんは別の子へ顔を向けた。

 私はリュックサックを下ろした。

 まだ、我慢できると思った。


 昼休みも、教室から出なかった。

 教科書を重ねた上に手を置いていると、自分が何をしているのかはっきりしてしまった。

 手を下ろした。

 少しして、また置いた。


 勝也くんは、翔太くんたちと話していた。

 笑い声が近くで聞こえる。

 そちらを見ている間だけ、時計を確かめるのを忘れられた。


 次の授業が始まる。

 座り直すと、お腹の辺りが落ち着かなかった。


 帰りに寄ればいい。

 全部持って、トイレへ行って、そのまま帰ればいい。


 教室へ荷物を置いて離れなくて済む。

 帰ってからなら、お母さんもいる。


 私は、黒板の日付を見て、ノートにも同じ数字を書いた。


 9月12日。


 数字を書き終え、先生の話へ耳を向けた。


    * * 勝也視点 * *


 掃除が終わって教室へ戻ると、荒川が窓を閉めていた。

 俺が持ってきたごみ箱を受け取り、元の場所へ戻してくれる。


「今日、委員会やったな」


「うん。帰りの会終わったら、すぐ」


「その間は自分が見とく。富田が帰るまでは、教室におるわ」


「ありがとう。終わったら戻る」


「うん」


 俺が委員会へ行っている間は、荒川が見ていてくれる。

 今日は体育委員の集まりはなく、放課後に集まるのは風紀委員だけだった。

 優子が帰ったことを確かめてから、荒川も部活へ行くつもりでいてくれた。


 優子は、もう席へ戻っていた。

 掃除の間も持っていたらしいリュックサックを、椅子の横へ置いている。

 昼にも見た動きだった。中を開き、いくつか手で触ってから閉じた。


 俺はその横へ座った。


「富田、これ落ちてた」


 机の脚の近くにあったプリントを拾って渡した。

 名前が書いてあったから、迷わなかった。


「……ありがとう」


「裏、踏まれてないと思うけど」


 優子は両面を見た。

 俺が思っていたより、長く確かめていた。


 ただ落ちただけでも、気になるのかもしれない。

 昨日の帰り、机の上に何も残さなかったところを思い出した。


 何かを言おうとしているうちに、担任が来た。

 俺は立って、号令をかけた。


     * * *


 帰りの会が終わり、リュックサックから委員会の紙を出した。

 小島さんがドアのそばで待っていた。


「鵜飼くん、行くよ」


「うん」


 俺は椅子を入れてから、優子の方を見た。


「じゃあ、また明日」


「……また、明日」


 返事があった。


 昨日の朝より、少し声が聞き取りやすかった。

 それが嬉しくて、俺は頷いてから教室を出た。


 出る前に、荒川とも目を合わせた。

 荒川は優子の席が見えるところにいて、軽く顎を引いた。


 廊下で小島さんと並んだ。

 階段へ向かう途中、ほかのクラスからも同じ紙を持った生徒が出てくる。


 集合する教室へ着くと、まだ席は半分くらいしか埋まっていなかった。

 俺は紙の端を揃え、いつもの場所へ座った。


 窓際の席とは、黒板を見る角度が違った。

 隣には小島さんがいて、その向こうで真弓が別のクラスの女子と話していた。


 委員会が始まった。

 今日の話は、朝の挨拶運動の当番についてだけだった。

 担当する日と校門で立つ場所を、クラスごとに確かめていく。

 俺は必要なところへ丸をつけた。


 帰ったら、本の続きを読もうと思った。

 読み終えたら、優子に昨日の場面のことを聞ける。


 その前に、今日のことも、ノートへ少し残しておこう。

 戸田と富永の様子は気になったけれど、誰が教科書へ書いたのかは、まだ分からない。

 優子が全部の荷物を持ち歩いていたことも、見たとおりに覚えておきたかった。


    * * 優子視点 * *


 勝也くんが出ていったあと、教室の音が少し違って聞こえた。


 椅子を机へ入れる音も、明日の話をする声も変わっていない。

 ただ、右側へ顔を向けても、誰もいなかった。


 私は、最後のプリントをリュックサックへ入れた。

 机の中を手で確かめる。

 連絡帳も、筆箱も入っている。


「荒川、先生が呼んでたって」


 教室の前の方で声がした。

 帰ろうとしていた男子が、荒川くんへ話しかけている。


「自分?」


「うん。職員室に来てって」


「今?」


「そうらしいよ。杉浦に、代わりに伝えといてって頼まれた」


「分かった。ありがと」


 荒川くんが、持っていた物をいったん机へ置いた。

 そのまま、教室を出ていく。


 私は、リュックサックの肩紐を両方持った。

 周りに人がいるうちに出ようと思った。


 ドアへ向かうと、奈々さんと目が合った。


「帰るの?」


「……うん」


「ふうん」


 それ以上は聞かれなかった。

 私は顔を下げ、その横を通った。


 教室の近くのトイレには、女子が何人か入っていくところだった。

 中からも声がする。

 入口の前まで行って、足が止まった。


 リュックサックを背負って入ったら、また全部持ってきたのかと聞かれるかもしれない。

 中に誰がいるのか分からない。

 さっき、教室にいなかった人もいる。


 私は、その前を通り過ぎた。


 少し離れたところにも、女子トイレがあった。

 教室の並んだ廊下から曲がると、人が少なくなる。

 以前通った時には、入口に誰もいなかった。


 そこへ寄ってから帰ろうと思った。

 急いで歩いた。


 肩紐が、肩へ食い込んだ。

 持っている物が重い。

 でも、それを置いてくることは、もうできなかった。


     * * *


 入口を曲がったところで、美咲さんが見えた。


 手洗いのそばに立っていた。

 莉奈さんもいる。

 窓の近くには、玲奈さんがいた。


 私は、1歩だけ後ろへ下がった。


「何。入んないの?」


 美咲さんが言った。


「……あとで」


「ここまで来て?」


 出口へ向き直ろうとした。

 後ろから来た奈々さんと、ぶつかりそうになった。


「危な」


「ごめんなさい」


 謝って、横へ避ける。

 その時、リュックサックを後ろから引かれた。


「何こんなに入れてんの」


 片方の肩紐が引っ張られ、体が斜めになった。

 私はもう一方の紐を掴んだ。


「……返して」


「まだ取ってないじゃん」


 リュックサックを引いている玲奈さんが笑った。

 紐を握っていた手に、別の手が重なった。

 莉奈さんだった。


「力入れないでよ」


 莉奈さんに肩も押さえられた。

 体の向きを変えられないまま、背中が軽くなった。


 リュックサックが、私の腕から離れた。


「あ……」


 手を伸ばす。

 玲奈さんは少し遠ざかり、ファスナーを開けた。


「全部入ってる」


「置いとけばいいのに」


「持って帰るんだから、入れるでしょ」


 話し声が重なった。

 私のリュックサックの中を見ながら、みんなで笑っている。


「返してください」


 さっきより、大きく言ったつもりだった。

 美咲さんが、私を見た。


「そんな言い方する?」


 私は口を閉じた。

 どんな言い方だったか、分からなかった。

 返してほしいとしか、考えられなかった。


 美咲さんは、取り出された筆箱を受け取った。

 中を開け、私のペンを1本抜いた。

 リュックサックを持った玲奈さんへ何か言い、表を向けさせる。

 私の名前が書いてあるところへ、黒い線を重ねた。


 手を伸ばすと、玲奈さんに肩を押さえられた。

 美咲さんの手元まで、届かなかった。


「最近、すぐ鵜飼に見せるよね」


「……見せて、ない」


「じゃあ、何で一緒に使ってんの」


 月曜日の教科書のことだった。

 私は返事ができなかった。


「あの子、優しいもんね」


 奈々さんが言った。

 教科書を1冊受け取り、表紙を開いている。


「困ったら何とかしてもらえるって思うよね」


「違う……」


「何が違うの?」


 違うところは、たくさんあった。

 私から見せたのではない。

 貸してほしいと頼んだのでもない。

 勝也くんは、たまたま見えたところに気づいてくれた。


 でも、言えば、勝也くんが自分からしたと話すことになる。

 そうしたら、また、あの時だけ違うと言われる。


 私は、取り出されていく物を見ていた。

 自分で揃えた順番ではなく、あちこちへ渡されていく。


 玲奈さんがリュックサックを床へ置き、ノートを開いた。

 昨日書いたページが見えた。


「結構ちゃんと書いてるね」


 端を持ったまま、引いた。

 紙の裂ける音がした。


 昨日、破られずに持って帰れたところだった。


「やめて……」


 声が、自分の耳に近く聞こえた。

 ほかの人には、あまり聞こえていないようだった。


 奈々さんが、表紙の名前の周りへ字を書いていた。

 莉奈さんは筆箱の中身を出し、手洗いの濡れたところへ置いた。

 玲奈さんがリュックサックを持ち上げ、まだ中に残っていた物を下へ落とした。

 奈々さんは別のノートも開き、ペンで線を重ねた。


 床に、教科書が開いて落ちた。


 私はかがもうとした。

 莉奈さんに腕を掴まれ、止められた。


「まだ入ってるよ」


 美咲さんが、リュックサックの横のポケットから携帯電話を取り出した。


「あ、それは……」


「持ってきてるんだ」


 美咲さんは携帯を開いて、画面を見た。

 私の声を聞いても、閉じて返してはくれなかった。


 お母さんと、お父さんの番号が入っている。

 連絡すると言って持たせてもらった物だった。


「返して。お願い……」


 美咲さんの腕へ手を伸ばした。

 莉奈さんに、私の腕を押さえ直された。

 美咲さんも、空いている方の手で私の手を遠ざけた。


 美咲さんは携帯電話を持ったまま、開いていた個室へ入った。


「待って……」


 追いかけようとしたところで、水が跳ねる音がした。

 美咲さんの手に、もう電話はなかった。


 便器の中へ、捨てられた。


 見えた物をすぐには信じられず、私は入口で立ち止まった。

 お母さんと連絡を取るための電話が、そこにあった。


 腕を離した莉奈さんが、手洗いに広げられた教科書へ水をかけた。紙の色が変わっていった。

 リュックサックは、その濡れた教材の下に置かれていた。


 美咲さんが、こちらへ戻ってきた。

 私の顔を見て吹き出すと、莉奈さんも声を上げて笑った。


「そんな顔する?」


 私は笑えなかった。

 2人は目を合わせて、まだ笑っていた。


 私は、画面を見ようとした。

 光っているかどうかも、ここからはよく分からなかった。


「お母さんに……」


「何?」


 聞き返されて、続きが出なくなった。

 電話をする物なのだと説明しても、分かってもらえるわけではない。

 分かった上で、している。


 それでも、どうすればやめてもらえるのかを考えた。

 私にできることが、何かあるはずだった。


「もう、帰りたい……」


「先に片づけたら?」


 美咲さんが足元を見た。

 私はその言葉だけを頼りに、床へしゃがんだ。


     * * *


 教科書の角へ、指が届いた。


 その上から、靴が重なった。

 何が起きたか分かるより先に、手を引こうとした。


 抜けなかった。


「……痛い」


 美咲さんを見上げた。

 私の手を踏み付けていた。


「動くからじゃん」


「痛い、やめて……」


 足は離れなかった。

 踏み付けたまま、ゆっくり足を動かした。

 声が勝手に出て、私はもう一方の手を床へついた。


 逃げようとしても、その手だけがここに残る。

 指を曲げることも、まっすぐにすることも怖かった。


「やめて、ください……」


 美咲さんは、私の顔を見ていた。

 声が出るたび、口元が緩んだ。

 莉奈さんの方を見て笑い、また私へ目を戻す。


 痛いと言ったことは、聞こえているはずだった。

 聞こえているから、笑っているのだと思った。


「何で、そっちばっか見てんの」


 髪が引かれた。

 莉奈さんの手だった。

 顔を下へ向けようとすると、もっと引かれた。


「こっち」


 顔を向けさせられた。

 莉奈さんが、近くから覗き込んだ。


 笑っていた。


 私は、目を閉じた。

 閉じても、さっきの顔が残った。


「やだ、何その顔」


 返事はできなかった。

 息を吸うと、泣いているみたいな音になった。


 少し離れたところで、紙を重ねる音がした。


「これ、もう使えないじゃん」


 玲奈さんが言った。


「代わりに捨てとくわ」


 私は、そちらを見ようとした。

 教科書とノートが、何冊かまとめられていた。


「待って……」


「持って帰るの? これ」


 玲奈さんが、1冊をこちらへ向けた。

 表紙にも、中のページにも、黒い字があった。

 濡れた端が垂れている。


「返して」


 それでも、私の物だった。

 読めるところが残っていれば使えるかもしれない。

 家に置いておけば、お母さんに見つからないようにできる。


「だから、捨ててあげるって」


 玲奈さんは笑いながら、持っている教科書を私の手の届かない方へ寄せた。

 隣の奈々さんも笑った。

 私が返してと言うほど、楽しそうになっていった。


 奈々さんは、床にあった別のノートを拾った。

 書き終えた教科書と重ね、濡れた端を指でつまんだ。


 拾ってくれるのではなかった。

 持っていくために、集めていた。


「これも持ってく?」


 奈々さんが、抱えた物を玲奈さんへ見せた。


「うん。そっち持って」


 玲奈さんが答えた。

 奈々さんは、自分で拾ったノートを1番上へ載せた。


 私は手を伸ばしたかった。

 でも、床から動かせなかった。


 玲奈さんが、1度廊下の方へ顔を出した。

 奈々さんも教材を抱えて、その隣へ行った。

 何か短く話してから、2人とも出ていった。


 教科書の背が見えなくなった。


 美咲さんの足が離れたのは、そのあとだった。


 私は手を胸元へ引き寄せた。

 触らなくても痛かった。

 もう片方の手で包もうとして、少し触れただけで体が縮んだ。


 床には、まだいくつも物が残っていた。

 拾えば帰れるのか、もう分からなかった。


    * * 勝也視点 * *


 教室のドアの外に、荒川が立っていた。


 さっき、優子が帰るまで教室にいると言ってくれたばかりだった。

 何かあったのかと思い、俺は手を止めた。


 入口に近い席の生徒へ何かを話してから、荒川が俺を見た。


「鵜飼、ちょっと確認したいことあるんやけど。すぐ済むから」


 俺は、前で紙をまとめている先生を見た。


「少し出てもいいですか」


「すぐ戻りなさい」


「はい」


 席を立ち、廊下へ出た。

 荒川は、開けたままのドアから少し離れた。


「どうしたの」


「富田、教室におらへん」


 近くへ寄って、小さな声で言った。


「荷物もなかった」


「もう帰った?」


「多分。けど、自分、出るところ見てへんねん」


 荒川が、言いにくそうに続けた。


「見とくって言うたのに、ごめん。先生に呼ばれたって聞いて、すぐ戻るつもりで出てもうた」


 荒川は、職員室へ行っていたと話した。

 先生が呼んでいると、別の生徒から伝言をもらったらしい。


「戻ったら、もうおらんかったから。先に言うとこ思って」


「先生の用は?」


「呼んでへんって」


 俺は荒川を見た。


「呼んでない?」


「うん。最初、先生おらんくて、近くの先生に聞いたんや。少しして戻ってきはったから聞いたら、今日は何もないって」


「誰から聞いたの」


 荒川は伝言をしてきた男子の名前を言った。

 そいつが、杉浦に頼まれたと言っていたことも。


「本人が先生に言われたわけやないらしい。伝わる途中で、何か違ったんかもしれん」


「杉浦には聞いた?」


「まだ。教室戻った時、おらんかった」


 俺は、ドアの向こうを見た。

 黒板の当番表は、もう埋まっていた。

 決まった担当に間違いがないか、最後の確認をしているところだった。


「あと、少しで終わる。当番は決まったから、最後に確認するだけ」


「うん」


「待っててもらっていい? 終わったら一緒に戻る」


「分かった。ここおるわ」


 俺は頷いて、教室へ戻った。

 小島さんが、黒板の当番表を指してくれた。


「うちのクラス、ここで決まったよ」


「ありがとう」


 自分の用紙へ、担当の日と立つ場所を書き込んだ。

 先生が当番を読み上げる声を聞きながら、優子の机を思い浮かべた。


 帰りの会が終わったら、帰ってもおかしくない。

 優子には、今日は図書の当番もないと聞いていた。


 それでも、2人とも姿を見ていないまま、帰ったことにはしたくなかった。

 伝言の間違いも、明日には確かめた方がいいと思った。


     * * *


 委員会が終わると、荒川は窓のそばで待っていた。


「ごめん」


「そんな待ってへんで」


 2人で教室へ戻った。

 廊下には、まだ生徒がいた。

 部活の道具を取りに戻る人も、友達と話している人もいる。


 教室のドアは開いていた。

 優子の席は空いていた。


 机の横にも、椅子の下にも、リュックサックはなかった。

 昨日と同じように、机の中まで空いていた。


「やっぱ、おらんな」


 荒川が言った。


 俺は、自分の机に紙を置いた。

 残っていたクラスの男子へ声をかける。


「富田、帰ったか分かる?」


「富田?」


 そいつは、優子の席を見た。


「出てったよ。リュック背負って」


「いつくらい?」


「帰りの会のあと。ちょっとしてから」


「1人で?」


「俺が見た時は1人だったけど」


 荒川も近くへ来た。


「教室から出たところ?」


「うん。どっち行ったかまでは見てない。何か用だった?」


「ちょっと、確認したかっただけ。ありがとう」


 俺は礼を言った。

 そいつは、話していた相手の方へ戻った。


 荷物を持って出たことは分かった。

 そのあと、図書室などへ寄ったのかもしれない。

 昨日も、昼休みにリュックサックを持って行っていた。


「靴、見てみよか」


 荒川が言った。

 俺は頷いた。


 リュックサックを持ち、2人で階段を下りた。

 途中の廊下にも、優子の姿はなかった。

 白い髪は、人が何人かいても見つけやすいはずだった。


 昇降口へ着き、優子の靴箱を確かめる。


 外で履く靴がなかった。

 上履きもなかった。


 俺は、1度、隣の名前を見た。

 場所を間違えたのかと思った。

 でも、優子の名前で合っていた。


「両方ないな」


 荒川も中を見た。


「上履きも、持って帰ってるのかな」


「今日、水曜やけど」


「……うん」


 週末なら、洗うために持ち帰ることもある。

 今日は、そういう日ではなかった。


 俺は、月曜に見た教科書を思い出した。

 昨日の昼、全部の荷物を持って図書室へ行ったことも。


「教科書、ああいうことされてたから。靴も置いていきたくない、とか」


 荒川が、俺の方を向いた。


「いたずらされんように、持って帰るってこと?」


「分かんないけど。机にも何も残してないし」


「……それは、あり得るな」


 荒川は、空の靴箱へもう1度目を向けた。


「待って。日傘も見てみよう」


 俺は、近くの傘立てへ向かった。

 優子が登校する時に差している日傘は、見覚えがあった。

 いつも入れている辺りを見てから、ほかの傘の陰も確かめた。


 なかった。


「日傘もない」


 荒川も、隣から覗き込んだ。


「ほな、それも持って出たんやな」


「うん。教室にも持ってきてなかったし」


 優子は荷物を持って教室を出た。

 外靴も、いつも使っている日傘もない。

 上履きを持ち帰ったと考えれば、そこもつながる。


 俺は、息を吐いた。


「じゃあ、ちゃんと帰ったんだな」


「うん。もう家へ向かってるんやと思う」


 無事に帰れたのだと思うと、ようやく肩の力が抜けた。

 家なら、少なくとも教室で誰かに持ち物を触られることはない。


 帰る姿そのものは、2人とも見ていなかった。

 それでも、持って帰るはずの物までなくなっていたことで、優子はもう校内にいないのだと納得してしまった。


「明日、普通に聞いてみる。上履き、持って帰ってるのかだけ」


「うん。杉浦の伝言も、自分、確かめるわ」


 荒川は頷いて、校舎の方へ体を向けた。

 部活へ行く時間が、少し遅くなっていた。


「待たせてごめんな」


「鵜飼のせいやないって」


 いつもの調子で返ってきた。

 俺は、ありがとうと言った。


 荒川を見送ってから、自分の靴を出した。

 履き替えて外へ出ると、運動場から声がした。

 笛が鳴り、何人かが走っていく。


 優子は、今どの辺りを歩いているのだろうと思った。

 もう家へ着いているかもしれなかった。


 俺は校門へ向かった。


    * * 優子視点 * *


 手を離してもらったあとも、帰れなかった。


 拾った物をリュックサックへ入れようとすると、まだ見ていると言われた。

 入口の方へ動くと、話の途中だと言われた。


 私は、手洗いから少し離れた壁のそばへ座っていた。

 膝の上に、痛む手を載せている。

 床の教科書へ目を向けると、また触ったらどうなるかを考えてしまった。


 美咲さんと莉奈さんは、別の話をしていた。

 知っている店の名前が聞こえた。

 週末に出かけるとか、何を買ったとか、普段の教室と同じ話だった。


 途中で、私を見た。

 笑う。

 また、2人の話へ戻る。


 しばらくして、奈々さんと玲奈さんが戻ってきた。

 さっき抱えていた教科書も、ノートも持っていなかった。


 2人の手元を見た。

 どこへ持っていったのか、聞きたかった。

 でも、返してと言った時の笑い声を思い出すと、口を開けなかった。


 何分経ったのか分からなかった。


 窓の向こうから、部活の声がする。

 ボールが弾む音も、時々聞こえた。

 そこには、普通に学校に残っている人がいる。


 私の声も届くだろうか。

 さっきは、痛いと何度も言った。

 届いていたら、誰かが来てくれるだろうか。


 廊下で足音がした。


「……何か、聞こえない?」


 知らない声だった。

 もう1人の声も、短く聞こえた。


 私は息を吸った。


「返して……」


 目の前にあるリュックサックへ手を伸ばすと、莉奈さんが足で遠ざけた。


「だから、まだだって」


 廊下の足音は、1度止まった。

 私は入口を見た。


 姿は見えなかった。

 しばらくして、足音が離れた。


 聞こえなかったのかもしれない。

 ほかの話だと思ったのかもしれない。

 ここへ来る用事のない人だったのかもしれない。


 考えているうちに、美咲さんが私の前へ戻ってきた。


「いつまでそうしてんの」


 立つように言われたのか、手を離すように言われたのか分からなかった。

 少し体を動かすと、美咲さんは笑った。


「別に立たなくていいけど」


 私は、もう1度壁へ背を寄せた。

 言われたことを間違えたくなかった。

 でも、何をすれば間違いでなくなるのかも、分からなかった。


     * * *


 玲奈さんが、床のリュックサックを持ち上げた。

 奈々さんは、残っていたノートとペンを拾っていた。


 少しあとに、入口から1人、こちらを覗いた。


 目が合いそうになった。

 私が顔を向けるより先に、その人は見えなくなった。


「誰か来た?」


 奈々さんが言った。


「別に」


 莉奈さんが、ドアのない入口の方を見た。

 それから私へ目を戻した。


「こっち見て」


 肩が固まった。

 さっき髪を引かれたことを思い出して、急いで顔を向けた。


 莉奈さんは、私の髪の先を持った。

 今朝、お母さんが肩紐から出してくれたところだった。


「長いよね、これ」


 私は、髪へ手を伸ばした。


「触ってるだけじゃん」


 手を下ろすと、莉奈さんは、美咲さん、と呼んだ。

 何かを見せるように、持っていた髪を少し上げた。


 美咲さんが近づいてきた。

 手に持っている物を見た。

 小さなはさみだった。


 嫌だった。

 それだけは、嫌だと思った。


「やめて」


 立とうとした。

 髪が引かれ、体が止まった。


「動かないでよ」


「お願い、やめて……」


 首を振った。

 美咲さんの手が近づいてくる。

 逃げようとすると、莉奈さんに押し戻された。


 戻ってきていた玲奈さんも、私の腕を押さえた。

 膝を立てても、前へ進めなかった。


 私は、はさみから逃げようと身をよじった。

 莉奈さんの顔から、笑いが消えた。


「動かないでってば」


 肩を殴られた。

 息が止まり、体を縮めると、今度は腕を強くつねられた。


「痛い……」


「じっとしてって言ってるじゃん」


 腕を引こうとすると、つねる指にまた力が入った。

 動いても痛かった。

 動かなければ、髪を切られてしまう。


 その時、入口から人が入ってきた。


 女子だった。

 手に小さなタオルを持っていた。

 こちらを見て、足を止めた。


 私はその人の方へ体を向けようとした。

 莉奈さんに脚を蹴られ、壁へ押し戻された。

 肩が当たり、思わずうつむいた。

 それでも、入口にいた人を見失いたくなくて、顔を上げた。


 入ってきた女子は、ほかの子たちと一緒に笑っている人ではなかった。


「助けて……」


 声が出た。


 恥ずかしいとか、何を説明すればいいとか、考える前に出ていた。

 その人へ、手を伸ばそうとした。


 目が合った。


 その人の顔が変わった。

 1歩、後ろへ下がった。


 私は、もう1度呼ぼうとした。


 走る音がした。

 入口から姿がなくなった。


 助けてと言った声だけが、まだ自分の耳に残っていた。


 誰かを呼びに行ってくれたのかもしれない。

 そう思おうとした。

 すぐに先生が来るかもしれない。


 廊下を見ていた。

 見ていたかった。

 でも、髪を引かれ、顔を戻された。


 耳の後ろで、乾いた音がした。


 軽くなった。


 何がなくなったのか、見なくても分かってしまった。

 美咲さんが手を下ろしたところへ、白い髪が落ちた。


 私の髪だった。


 今朝は、まだつながっていた。

 お母さんの手が触れて、私もそのあと触った。

 それが、床に落ちていた。


「ほら、動くから」


 美咲さんが言った。


 莉奈さんが、床の髪を見て笑った。


「そこだけ短いじゃん」


 美咲さんも笑った。

 さっきまで怒っていた莉奈さんは、もう楽しそうだった。

 2人が見ているところへ、私は手を伸ばすこともできなかった。


 私は、何も言えなかった。


 入口は、まだ開いていた。

 人が通れば、中へ入ってこられる。

 鍵をかけられたわけではなかった。


 それでも、ここから出られなかった。


     * * *


 次に入口の方で気配がした時、私は顔を上げた。


 見えたのは、人の肩の端だけだった。

 すぐに引っ込んだ。


 追いかけて、助けてと言いたかった。

 でも、さっきの声をもう1度出すことができなかった。


 目の前で、私の筆箱が閉じられた。

 中には、折れた物や、濡れた物が、そのまま入っていた。

 返すよ、と言われて、床へ置かれた。


 私は手を伸ばさなかった。


「いらないの?」


 聞かれて、慌てて引き寄せた。

 持ち上げようとすると、手が痛かった。

 落とさないように、膝へ挟んだ。


 奈々さんは、少し離れて立っていた。

 こちらを見ているのか、床を見ているのか、分からなかった。


「私、先に帰るわ」


 声は、教室で帰る時と同じだった。


「え、もう?」


「うん。また明日」


 奈々さんは、自分の荷物を持った。

 私の横を通って、出ていった。


 また明日。


 私も、さっき勝也くんへ言った。

 その時は、まだ明日の席を考えられた。


 今は、その言葉が聞こえるだけで、手を膝の下へ隠したくなった。


 少しして、美咲さんが窓の外を見た。


「そろそろ行こ」


 莉奈さんが、やっと、と言った。

 自分の荷物を確かめる。

 玲奈さんも、リュックサックを背負った。


 誰も、私の物を拾わなかった。

 美咲さんは入口へ向かいかけて、私の前で足を止めた。


「今日のこと、誰かに言ったらどうなるか、分かってる?」


 私は、膝に挟んだ筆箱を見ていた。

 返事ができずにいると、美咲さんが少し身をかがめた。


「鵜飼に教えてあげるよ。あんた、陰であいつの悪口言ってたって」


「……言ってない」


「鵜飼は知らないでしょ。あんたが誰に何言ってるかなんて」


 言っていないと、もう1度答えたかった。

 でも、美咲さんは笑っていた。

 本当に言ったかどうかを、確かめているのではなかった。


 勝也くんに、そんなことを信じてほしくなかった。

 隣で話しかけてくれた顔を思い出した。

 あの顔が、私を見ても笑わなくなるところまで、考えてしまった。


「それでも言いつけるなら、次は鵜飼にも同じことしよっか」


 莉奈さんが言った。

 足元に残っていた紙を、靴の先で押した。


 私は、顔を上げた。


「先生でも、親でも。私たちのこと喋ったら、あいつもただじゃ済まないから」


 美咲さんが、私を見ていた。


「……勝也くんには、何もしないで」


 その名前を出すと、声が震えた。

 私の教科書を気にしてくれた手が、浮かんだ。

 借りた本を、傷つけないようにしまってくれた手だった。


 勝也くんまで、同じようにされたら。


 床の紙へ目を向けると、自分の手の痛みも強くなった気がした。

 勝也くんに嫌われるのも、勝也くんが傷つくのも怖かった。

 どちらも嫌だった。


「じゃあ、黙ってればいいじゃん」


 美咲さんは、簡単なことを言うように返した。


 誰かに助けてほしかった。

 ここで何をされたのか、分かってほしかった。

 でも、話したあとで勝也くんに何かされたら、私は止められない。


「……言わないから」


 小さく言った。


「勝也くんには、何もしないで……」


 美咲さんは私を見下ろしたまま、少し口元を緩めた。


「分かったならいいけど」


 私は、痛む手を膝へ押しつけないようにした。

 それ以上の言葉は、出てこなかった。


 3人の足音が、廊下へ出た。

 途中で、笑い声がした。

 声は少しずつ遠くなった。


 私は、まだ動かなかった。


 立ったら戻ってくるかもしれない。

 拾ったら、また踏まれるかもしれない。

 帰っていいと、はっきり言われたわけではなかった。


 窓から入る光が、床の別のところにあった。

 さっきより、少し黄色く見えた。


 廊下では、もう誰も笑っていなかった。


 私は、足元のノートへ手を伸ばした。


     * * *


 最初に拾ったノートは、閉じられなかった。


 濡れたページが膨らんでいた。

 表紙を重ねても、中の紙がはみ出す。

 無理に押さえようとして、手を止めた。


 痛かった。


 片手でできることを探した。

 リュックサックの口を広く開け、ノートを寝かせたまま滑り込ませる。

 底も濡れていた。

 でも、今はそこへ入れるしかなかった。


 筆箱を入れた。

 ばらばらになった紙も拾った。

 名前の書いてあるところを見つけると、それだけは捨てていけない気がした。


 教科書が足りなかった。

 何がないのか、数えようとした。

 さっき抱えていかれた背表紙を思い出そうとすると、手の痛みまで戻ってきて、途中で分からなくなった。


 連絡帳はあった。

 汚れた表紙を開くと、今日の日付が残っていた。

 明日の欄にも、私の字があった。


 明日、何を持っていくのかが書いてある。

 その中の何冊かは、もうここになかった。


 私は、連絡帳を閉じた。


 携帯電話は、便器の中に残されていた。

 個室の入口で、しばらく動けなかった。

 あそこへ置いたまま帰ることもできず、ようやく取り出した電話を、ハンカチで包んだ。

 画面は暗いままだった。


 お母さんへ電話したかった。

 迎えに来てほしかった。


 でも、どうして、と聞かれたら答えられない。

 この場所を説明することも、今の自分を説明することもできなかった。


 使えなくなった電話を、包んだままリュックサックのポケットへ入れた。

 いつもなら、それがあれば連絡できるはずだった。

 今日は、中に入れても何も変わらなかった。


 床へ目を戻した。


 白い髪があった。


 拾おうとして、指が止まった。

 持ち帰ったら、お母さんが見る。

 持ち帰らなくても、後ろを見れば分かる。


 何を隠そうとしているのか、自分でも分からなかった。


 私は、髪から目を離した。

 リュックサックを持ち上げた。


 来た時より、軽かった。


 朝は、全部入っていることを確かめた。

 重くても、全部あった。

 今は、何がないのかもちゃんと分からないまま、背負った。


 立ち上がる時、壁へ手をつこうとしてやめた。

 痛くない方の手を使った。

 膝を伸ばすと、制服が少し引っ張られた。


 鏡は見なかった。


 入口まで歩き、廊下を確かめた。

 誰もいなかった。


 足音を小さくしようとしても、上履きが床へ触れる音はした。

 その音に、誰かが振り向くのではないかと思った。


 立ち止まった。

 誰も来なかった。


 また、歩いた。


     * * *


 昇降口へ着いた時には、窓から入る光が細くなっていた。


 自分の靴箱の前に立った。

 靴がなかった。


 隣を見た。

 上も、下も見た。

 名前をもう1度確かめた。


 私の場所だった。


 朝、ここへ入れた。

 その代わりに出して履いた上履きは、今も私の足にあった。


 何かを探そうとして、通路の先を見た。

 ほかの靴箱も並んでいる。

 1つずつ見るには、長い列だった。


 しゃがむのも怖かった。

 また手を伸ばして、上から靴が重なるところを考えてしまう。


 私は、痛む手を体へ寄せた。


 傘立ても見た。

 朝、自分で入れたところを探したけれど、日傘もなかった。


 靴だけではなかった。

 帰るために使う物まで、なくなっていた。


 どこへ行ったのか、考える力も残っていなかった。


 もう、ここにいたくなかった。


 上履きのまま、外へ出た。


 履き替えずに歩くと、足元がいつもと違った。

 かかとが少し頼りなかった。

 土の上を歩けば、汚れる。


 汚したら、洗わないといけない。

 明日までに乾くだろうか。


 そう考えたところで、足が止まった。


 明日も、履くつもりで考えていた。


 私は校舎を見なかった。

 校門の方だけを見て歩いた。


 道へ出ると、学校とは違う音がした。

 車が通る。

 自転車が横を過ぎる。


 帰っている人たちは、私のことを見ていないようだった。

 見ていても、何も言わなかった。


 それでよかった。

 何も聞かれたくなかった。


 でも、誰かに会っても何も変わらないことが、少し前には怖かった。

 今は、声をかけられることまで怖かった。


 リュックサックの肩紐を持ち直した。

 手が痛くなったので、すぐに離した。


 家までの道は分かっていた。

 角を曲がって、いつもの塀の横を歩けばいい。

 次にどこへ行けばいいか分かることだけが、今は助けになった。


 日傘がないので、通りの影になっているところを選んだ。

 遠回りをして探しに戻ることだけは、できなかった。


 門が見えた。


 見えてから、息の仕方が分からなくなった。

 ここまで帰ってきた。

 けれど、この姿で中へ入れば、お母さんがいる。


 何か言わなければならない。

 何があったのか、聞かれる。


 玄関まで行けなかった。

 門のところで、持ち手へ指を掛けたまま止まった。


 先に、内側から音がした。


「優子?」


 お母さんがいた。


 顔を見た瞬間、私の方から声が出ると思った。

 何か言えると思った。


 でも、喉が詰まっただけだった。


    * * 美和視点 * *


 門の外に立つ娘を見つけ、私は先に名前を呼んだ。


 いつもより遅かった。

 携帯へかけても返事がなく、もう1度外を見に出たところだった。


「おかえり。どうしたの、電話……」


 言いかけた言葉が止まった。


 優子は、上履きを履いていた。

 つま先に土がついている。

 リュックサックの下の方は濡れ、横へ黒い線が何本も走っていた。


 新しく出してあげた物だった。

 今朝、背負う時には、その線はなかった。


「優子」


 娘の顔を見た。

 眼鏡はかけている。

 けれど、前髪の奥に見える目が、こちらへ向かない。


 片方の手を、体の前へ寄せていた。

 その手にも傷が見えた。


 私は、門を大きく開けた。


「中へ入ろう」


 肩へ触れようとすると、優子の体が小さく縮んだ。

 手を止めた。


「リュック、持つね」


 見えるところで、持ち手を示した。

 娘が動かないままなので、急に引かず、少し待った。


 やがて、片方の肩が下がった。

 私はリュックサックを受け取り、門を閉めた。


 外から見えなくなったところで、もう1度顔を見た。


「どこが痛い?」


 返事はなかった。

 唇が少し動いたけれど、言葉にはならなかった。


「ここで話さなくていいから。先に座ろう」


 優子は、私の顔ではなく、足元を見た。

 そのまま、少しずつ歩いた。


 玄関で後ろへ回った時、髪の長さが不揃いなのが見えた。

 見間違いかと思った。

 肩紐の下へ入っているのかと思い、目を凝らした。


 違った。


 後ろ髪の一部が、短くなっていた。

 今朝、私が肩紐から出した長さではなかった。


 喉の奥が熱くなった。

 でも、娘より大きな声を出してはいけないと思った。


 優子は、上履きを脱ごうとしていた。

 手を使おうとして止め、足だけでかかとを浮かせようとしている。


「座っていいよ。大丈夫、手伝うから」


 上がり框へ座らせ、靴を脱ぐのを手伝った。

 立たせる時にも、傷のある手を引かないようにした。


 優子は、何も言わなかった。

 靴を揃えようとして、まだ足元を見ていた。


「それは、お母さんがやるから」


 そう言って、先に中へ促した。


     * * *


 リビングで座った娘へ、飲み物を持っていった。

 手を添えて渡そうとして、持たせるより置いた方がいいと気づいた。

 小さなテーブルへ置く。


 優子は、それを見ただけだった。


 リュックサックを開けてよいか聞くと、わずかに頷いた。

 口を開いた。


 中には、濡れて重なった教材があった。

 ノートは、書いたところから破られていた。

 表紙へ書き込まれた言葉は、授業で使うものではなかった。


 1冊を取り出したところで、私は手を止めた。

 まだ見ていない物が、その下にもあった。


「……これ、学校で?」


 優子の目から、涙が落ちた。


 声は出なかった。

 肯定したのか、聞かれたことがつらかったのかも、分からなかった。


 私は、開いた教材をいったん伏せた。


「今、全部説明しなくていいよ」


 娘の隣へ座った。

 優子は、膝の上の手を動かさなかった。


 肩へ触れる前に声をかけた。

 今度は、逃げようとはしなかった。

 背中へそっと手を置くと、娘の息が1度乱れた。


「帰ってきてくれてよかった」


 そう言うので精いっぱいだった。


 何があったのか聞きたい。

 誰がしたのか知りたい。

 髪も、手も、靴も、荷物も、どれから確かめればいいのか分からなかった。


 でも、目の前の優子は、1つの問いにも答えられずに泣いていた。


 私は、質問を続けるのをやめた。


     * * *


 着替えを手伝う間に、腕や脚にもあざがあることが分かった。

 ただ、持ち物が濡れたというだけではなかった。


 優子は、手を動かす時に顔をしかめた。

 それなのに、痛いとも言わなかった。


 服を整え、またリビングへ戻った。

 手の傷を手当てする間、娘はずっと膝を見ていた。


 携帯電話も、濡れて動かなくなっていた。

 私からの着信に答えなかったのではない。

 答えられなかったのだと分かった。


 時刻を見た。

 学校へ連絡する前に、優子へ向き直った。


「明日は、学校を休もう」


 娘の目が、初めてはっきりこちらへ動いた。


「無理に行かなくていい。お母さんから連絡するから」


 優子は、何かを飲み込むように口を閉じた。

 また、涙が流れた。


 嫌だと答えたわけでも、行くと言ったわけでもなかった。

 それで、明日の支度をさせることなどできなかった。


「ここにいていいよ」


 私は、娘の目を見て言った。


 優子の指が、膝の上で少しだけ動いた。

 それから、肩が下がった。


 私は立ち上がり、近くの電話へ向かった。


     * * *


 学校へ電話をすると、担任はまだ校内にいた。


 取り次いでもらう間、優子の方を見た。

 飲み物へ、少しだけ手を伸ばしている。

 片手で持ち、ほんの1口飲んでから戻した。


『お電話代わりました』


 私は名乗り、娘が今帰宅したところだと伝えた。

 上履きで帰ってきたこと。

 荷物が汚され、教科書やノートに悪意のある書き込みがあること。

 手に傷があり、髪の一部が切られていること。


 口にするたび、自分で見た物が頭に浮かんだ。

 私は、受話器を持つ手に力が入りすぎないようにした。


『それは、娘さんから学校でされたと?』


「まだ、何も話せない状態です。ただ、出かけた時にはなかった傷です。髪も、今朝とは違います」


『学校では、そういう話は聞いていないんですが』


 すぐに返事ができなかった。


「今、私が連絡しています」


 少し間が空いた。


「娘がこういう状態で帰ってきたと、今、お伝えしています。明日は休ませます」


『……分かりました。欠席ですね』


「欠席の連絡だけではありません。今日、学校で何があったのか、調べていただきたいんです」


『その点は、こちらでも確認しますので』


 先生は、さっきより丁寧な口調になった。


『まずは、娘さんが落ち着いてから、お話を聞いていただければ。何があったか分からないと、こちらも動きようがありませんから』


「話せないんです。聞くと泣いてしまって」


『ええ。ですから、無理には聞かずに』


 私は、息を整えた。


 話してほしいのか、話さなくていいのか。

 娘から説明ができるまで、学校は何も確かめられないのだろうか。


「先生の方で、今日の様子を確認していただくことはできますよね」


『こちらで調査します。ですので、少しお待ちください』


「確認したことは、必ず連絡してください」


『はい』


 電話を切った。

 受話器を置いたあとも、手が離れなかった。


 夏休みに、壊れた日傘のことを連絡した。

 そのあと、見つかった場所が分かった時にも、伝えることを考えた。

 1つずつでは何が起きているか分からなくても、何もないまま今日になったわけではなかった。


 優子が、こちらを見ていた。


 私は、できるだけいつもの声を出した。


「明日は、お休みするって伝えたよ」


 優子は、小さく頷いた。


 それ以上は聞いてこなかった。

 先生が何と言ったかも、誰に連絡したのかも。

 私は娘のそばへ戻り、冷えかけた飲み物を見た。


「お父さんにも、帰ってきてもらうね」


 優子の肩が、また少し上がった。


「怒るためじゃないよ。お父さんにも、今のことを知っておいてもらいたいから」


 そう説明してから、夫へ連絡した。


     * * *


 夫が帰宅した時、優子はまだリビングにいた。


 玄関で靴を脱ぐ音に、娘の顔が上がった。

 私は先に立ち、廊下で夫へ小さく頷いた。


 電話では、見たことをできるだけ伝えてあった。

 でも、入ってきた夫は、優子を見たところで足を止めた。


 娘の髪を見たのだと分かった。

 それから、手へ目を向けた。


「……優子」


 名前を呼び、向かいへ座った。

 仕事の時のように、急いで結論を求める声ではなかった。


「学校で、何かあったのか」


 優子は俯いた。


「言えるところだけでいい。誰に、何をされた?」


 娘の唇が震えた。

 私は横から顔を見た。

 言おうとしているのか、声を出すのを堪えているのか、分からなかった。


 1滴、膝へ涙が落ちた。


 夫は待った。

 何秒かして、優子がもう1度口を開いた。


 言葉は出なかった。

 涙だけが、続けて落ちた。


「……分かった。今は、答えなくていい」


 夫が言った。

 優子は顔を上げなかった。


「優子に怒っているんじゃない」


 もう1度、ゆっくり言った。


 優子の肩が動いた。

 でも、ほっとしたようには見えなかった。


 私たちが怒らないと言えば、それで話せるわけではない。

 今、ようやく、そのことが分かった気がした。


 言えない理由があるのだろう。

 その理由まで聞こうとしたら、また娘は答えなければならなくなる。


 私は、優子の背中へ手を置いた。


「少し横になろうか」


 娘は、しばらくして頷いた。


     * * *


 部屋へ行く前に、夫が受診のことを口にした。


「手も痛むだろう。今から、診てもらいに行こうか」


 優子の足が止まった。

 私たちを見ようとして、途中で目を伏せた。


「……今日は、もう何もしたくない」


 玄関へ戻りたくない、と言われたように聞こえた。

 人に会いたくないのかもしれない。

 説明したくないのかもしれない。


 娘が、自分から言った、今日初めての希望だった。


 夫と目を合わせた。


「分かった。今夜は、ここで休もう」


 私が答えた。

 夫も頷いた。


「つらくなったら、すぐ呼んで。話をするためじゃなくていいから」


 優子は、私の袖へ少しだけ触れた。

 引っ張るほどの力はなかった。

 私は娘と一緒に部屋へ向かった。


 ベッドへ座らせると、優子はまだ背中を丸めていた。

 髪の短いところと長いところが、肩の上で分かれている。


 整えてあげたいと思った。

 このままでは、動くたびに気になるだろう。

 でも、今、はさみを見せることがよいのか分からなかった。


 私は髪へ手を伸ばさず、枕元を整えた。


「今日は、このまま休んでいいよ」


 娘は、少し体を横へ倒した。

 目を閉じても、眉の間に力が入っていた。


 そばで、しばらく待った。

 寝息は聞こえてこなかった。


     * * *


 リビングへ戻ると、夫はテーブルの前に立っていた。


 私が出した教材と、濡れた携帯電話を見ていた。

 ノートへ手を伸ばし、途中で止める。


「これが、持って帰ってきた分か」


「ええ。全部あるのかは、分からない」


 夫は黙った。

 手のひらを、テーブルの端へ置いた。


「担任は、調べると言ったんだな」


「そう言っていたわ。学校では、そういう話は聞いていないとも」


「今、聞いたはずだろう」


 私は頷いた。


 娘からは何も聞けていない。

 でも、これは、誰かがしなければ起こらないことだった。

 教科書の言葉も、髪の切れ方も、傷も、上履きで帰ったことも、単なる忘れ物や失敗で説明できるものではなかった。


 夫は電話へ向かった。


「私からも話す」


 学校へ連絡し、担任へつなぐよう頼んだ。

 待つ間、夫は1度も教材から目を離さなかった。


 つながると名乗り、妻が先ほど連絡した件だと伝えた。


「娘の状態は、聞いていますね」


 相手の返事は、私には聞こえなかった。


「その後、何を確認したんですか」


 夫が聞いた。

 少し間があった。


「誰に聞いたのかを、伺っています」


 また、間が空いた。


 夫は受話器を耳へ当てたまま、目を閉じた。


「本人に話を聞ける状態ではないと、妻が伝えたはずです。だから、学校で確認してほしいとお願いしたんでしょう」


 声が低くなった。

 私は部屋のドアへ目を向けた。


「調査中だから待つように、ということですか」


 夫の手が、受話器を握り直した。


「娘は、学校へ行って、この状態で帰ってきている。待っていればよいという返答を、納得して受け取れると思いますか」


 そこだけ、声が少し大きくなった。

 夫は自分でも気づいたように、次の言葉の前に息を置いた。


「確認した事実を、知らせてください。調べているという言葉だけでは、何をしていただいたか分かりません」


 やり取りは、それ以上進まなかった。


 電話を切った夫は、その場に立ったままだった。

 怒っている顔から、少しずつ別の表情になっていった。


「……誰から何を聞いたのか、何も答えなかった」


 私へ向けて言った。


「それで、調査しているから待ってほしいと」


 私は、先ほど自分が受けた返事を思い出した。

 同じところへ戻るばかりだった。


「あの先生に任せておけばいいとは、もう思えないわ」


「ああ」


 夫は短く答えた。


 教科書を1冊ずつ、重ならないように置き直した。

 汚れた物だからといって、捨てるわけにはいかなかった。

 娘が持ち帰ってきた物だった。

 今、娘が話せないことの一部が、そこに残っていた。


「明日は、優子を休ませる」


「ええ」


「学校へどう話すかは、もう1度考えよう。あの担任だけに、これ以上任せるわけにはいかない」


 私は頷いた。


 今すぐ何もかも明らかにしたかった。

 けれど、娘が言ったのは、もう何もしたくない、だった。


 今夜、優子へまた答えを求めに行くことだけは、しないと決めた。


    * * 優子視点 * *


 部屋にいても、手の痛みはなくならなかった。


 学校から離れた。

 上履きも脱いだ。

 汚れたリュックサックは、お母さんが下へ置いてくれた。


 でも、目を閉じると、足が重なるところが見えた。

 手を少し動かすと、その時の声まで思い出した。


 動くからじゃん。


 動かなければ、やめてもらえたのだろうか。

 動かなかったら、ずっとあのままだったのだろうか。


 どちらを考えても、体が固くなった。


 枕の上へ、髪が落ちた。

 いつものように全部を後ろへ流そうとして、手が途中で止まった。

 指の先にあるはずの長さが、ところどころになかった。


 鏡は見たくなかった。

 でも、見なくても、違うことは分かった。


 明日、教室へ入ったら、みんなが見る。

 隣へ座った勝也くんも、きっと気づく。


 何か聞かれる。

 また、何も言えなくなる。


 私は、布団の端を握った。

 痛くない方の手だけで握った。


 明日は、休んでいい。

 お母さんが、そう言ってくれた。


 それなのに、帰りの会が終わった時のことを思い出していた。


 じゃあ、また明日。


 勝也くんは、普通に言ってくれた。

 私も、また明日と答えた。


 あの時に、何か言えばよかったのだろうか。

 言ったら、勝也くんは残ってくれただろうか。


 でも、何を言えばよかったのか分からなかった。

 委員会へ行かないでと言ったら、困らせる。

 何があるかも説明できないのに、ただ隣にいてとは言えない。


 今はもう、もし残っていてくれたらと考えることまで、申し訳なくなった。


 ドアが、小さく叩かれた。


「優子。少し、食べられそう?」


 お母さんの声だった。

 私は、目を開けた。


 すぐに答えられなかった。

 喉へ手をやりかけて、下ろした。


「……いらない」


 やっと、それだけ言えた。


 お腹が空いているのかどうかも、よく分からなかった。

 何かを口へ入れるところを考えるだけで、喉が詰まるようだった。


「そう。あとで食べたくなったら、言ってね」


 返事の代わりに、布団の中で小さく頷いた。


「少し、入るね」


 お母さんがドアを開けた。

 ベッドのそばへ来て腰を下ろし、布団から出ていた私の顔を見た。

 起きるようには言わなかった。

 食べられない理由も、聞かれなかった。


 私は横になったまま、お母さんを見ていた。


 何度か、言おうとした。


 今日だけではない。

 教科書だけでもない。

 私が悪いのか分からなくなって、誰に何を聞けばいいのかも分からない。


 でも、口を開こうとすると、トイレでこっちを見た人の顔が浮かんだ。


 助けてと、言った。

 聞こえるところにいる人へ、言えた。


 それでも、その人はいなくなった。


 お母さんは違う。

 分かっている。

 お母さんとお父さんが、私を置いて帰るわけではない。


 分かっているのに、声を出そうとすると、また同じことが起きる気がした。

 言葉が途中でなくなって、喉が痛くなった。


 お母さんが、背中をゆっくり撫でた。


「ここにいるよ」


 その言葉に頷こうとすると、涙が出た。

 言いたいことがあるのに、何も話せないままだった。


 お母さんは、泣く理由を聞かなかった。


     * * *


 お母さんはいったん部屋を出て、飲み物を持って戻ってきた。

 枕元へ飲み物を置き、明日のことを、また短く話してくれた。


「朝、学校へ行く支度はしなくていいからね」


 私は頷いた。


「お母さんは家にいるよ。何かあったら、呼んで」


「……うん」


 お母さんの手が、布団の端を整えた。

 私は、その手を見ていた。


 今朝は、肩紐に挟まった髪を出してくれた。

 行ってらっしゃいと言ってくれた。


 明日は、その支度をしなくていい。

 教科書を確かめなくていい。

 靴が見つからなかった理由を、先生へ説明しなくてもいい。


 そう思うと、息が少しだけ深く入った。


 でも、月曜も、火曜も、その前も、朝になったら学校へ行っていた。

 怖くても、休むとは言えなかった。

 行って、授業を受けて、帰ってくれば、1日が終わると思っていた。


 今日は、帰ってきても終わらなかった。


 手を握ろうとすると痛い。

 髪へ触れると、なくなったところがある。

 携帯電話も、明日の教科書も、元には戻っていない。


 いちばん戻らないのは、教室まで歩いていけると思っていた気持ちだった。


 明日の隣の席を思い浮かべた。

 勝也くんがいて、私の机がある。


 そこへ行くまでに、廊下がある。

 人の少ない曲がり角がある。

 放課後になれば、みんながいなくなる。


 布団の中で足を縮めた。


 もう、行けない。


 お母さんが休んでいいと言ってくれたからではなかった。

 もし明日も行くように言われていたとしても、私は玄関から動けなかったと思う。


 部屋のドアは、少しだけ開いていた。

 廊下から、家の明かりが入っていた。


 私はその細い明かりを見ながら、痛む手を動かさないように、横になっていた。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

 荒川と協力して優子を見守る。委員会後も優子を探すが、靴や日傘がないことから帰宅したと思ってしまう。


・富田優子

 放課後に持ち物を壊され、暴力を受ける。勝也への脅しもあって被害を話せず、学校へ行くことができなくなる。


・鳥居翔太

 休み時間に勝也の席へ来て、教科書を開いていることを冗談にする。


・加藤真弓

 水曜の放課後、勝也や小島と同じ風紀委員会に参加する。


・荒川宣仁

 勝也が席を離れる間、優子を見守る。偽の呼び出しで教室を離れ、戻ってから勝也と優子の行方を確かめる。


・小島裕香

 勝也と放課後の予定を確認する。風紀委員会では、朝の挨拶運動の当番を決める。


・戸田美咲

 優子の持ち物を壊し、手を踏み、髪を切る。被害を話せば勝也にも危害を加えると脅して口止めする。


・富永莉奈

 優子を押さえつけ、教材を濡らすなどの加害に加わる。勝也にも同じことをすると脅し、優子を追い詰める。


・杉浦玲奈

 偽の伝言で荒川を教室から離す。優子の教材を持ち去り、髪を切られる際には腕を押さえる。


・大島奈々

 優子の逃げ道を塞ぎ、教材への書き込みや持ち出しに加わる。その後は普段どおりの挨拶をして先に帰る。


・優子の母(富田美和)

 帰宅した優子の傷や髪、持ち物の異変に気づく。話せない娘に寄り添い、学校を休ませて担任へ調査を求める。


・優子の父(富田泰臣)

 美和の連絡を受けて帰宅し、優子を気遣う。担任へ具体的な調査内容を求めるが、対応への不信を強める。


・1年3組の担任

 優子の両親から被害の報告を受ける。調査すると答えるものの、何を確認したのかは示さない。


・荒川へ伝言した男子

 玲奈に頼まれ、先生が呼んでいるという偽の伝言を荒川へ伝える。


・優子が教室を出るところを見た男子

 優子がリュックサックを背負って教室を出たと伝える。その後どこへ向かったかは知らない。


・トイレの入口へ来た女子

 被害を受けている優子と目が合い、助けを求められるが、その場から走り去る。

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