第16話 席替え
* * 勝也視点 * *
9月7日、金曜日。
朝の支度を終えてから、昨日読み終えた文庫本をもう1度開いた。
最初の方へ戻ってみると、途中で気にならなかった言葉にも、別の意味があるように思えた。
机の前で少し読み返していると、出かける時刻になった。
今日は、これを持っていかなくてもいい。
そう思ったのに、結局、リュックサックへ入れた。
優子の本を借りられるかどうかは、まだ分からなかった。
春樹と綾香と一緒に、いつもの公園へ向かった。
「勝也、今日の国語、教科書持ってきた?」
歩きながら、綾香が聞いた。
「持ってきたよ。何で?」
「昨日、全部持って帰ったでしょ。机の中にあると思って置いてきそうになったから」
「俺も朝、確認した。何か今日、いつもより重くない?」
「勝也、本も入ってるんじゃない?」
春樹に言われ、頷いた。
「読み終わったんだけど、もうちょっと見たくて」
「じゃあ、入れたの自分でしょ」
「そうだけどさ」
公園には、翔太と真弓がいた。
翔太は俺たちに気づくと、ベンチから立ち上がった。リュックサックを背負い直しながら、俺を指した。
「勝也、席替えのくじ、委員長だから先に見られたりしねえの?」
「見られないよ」
「知ってても、翔太には教えないと思う」
真弓が横から言った。
「まだ頼んでねえだろ」
「頼むつもりではあったんだ」
「話だけでも聞こうかと思って」
「今、聞いたじゃん」
春樹が言うと、翔太は俺を見た。
「じゃあ、俺の運がよくなるように祈っといて」
「何で俺が」
「減らねえだろ、祈るくらい」
笑いながら、公園を出た。
翔太ほどではないけれど、俺も、今日はどこへ移るのか気になっていた。
黒板が見やすいところなら、どこでもいい。そう思っていたはずなのに、教室に近づくと、窓の方の席を思い浮かべた。
優子の席は、今の俺のところから少し離れている。
声をかけるには、そこまで歩いていかなければならなかった。
用がある時なら、それでよかった。でも、ただ少し話したいだけの時には、今は、その距離が気になった。
同じようなところになったら、話しやすいだろうか。
考えてから、本を読みたい時に近くから声をかけられるのも、困るかもしれないと思った。
奈々から聞いた言葉が、また浮かんだ。
教室へ入ると、優子はリュックサックから連絡帳を出していた。
いつもと違うリュックサックだった。上の方を大きく開け、内側のポケットへ手を入れている。
「富田、おはよう」
声をかけると、すぐに顔が上がった。
「……おはよう、勝也くん」
昨日と同じように、名前まで返ってきた。
ほっとして、自分の机へ向かった。
挨拶のあとで本の話をしようと思っていたのに、優子が何かを探している途中だったので、続けるのをやめた。
自分の連絡帳を出すと、間に挟んでいた紙が少しずれた。
優子が書いてくれた題名と、作者の名前が見えた。
読み終わったから、借りてもいいかな。
聞く言葉は、それだけだった。
何度も頭の中で言い直すほど、難しいことではないはずだった。
* * *
数学の時間、途中までは合っていた計算が、最後で違った。
休み時間に翔太へ見せると、指がすぐに止まった。
「ここ」
「どこ?」
「お前、上には引くって書いてんのに、下で足してる」
「……あ、本当だ」
「何で途中で変えたんだよ」
「分かってたんだけど」
「分かってたら変わんねえだろ」
言い返せなかった。
消しゴムを使い、そこから計算し直した。今度は、黒板へ書かれた答えと同じになった。
「合った」
「俺のおかげだな」
「ありがとう」
素直に礼を言うと、翔太は一瞬、何か言いかけた。
それから、うん、とだけ答えた。
「そこは普通に言われると困るんだ」
春樹が笑った。
翔太は困ってねえよと言い、俺のノートを返してきた。
ノートを閉じながら、優子の方を見た。
机には教科書が開いていた。何かを書き足してから、ページの端を手のひらで押さえていた。
声をかけようかと思った時、綾香がそのそばへ来た。
2人は少し話し、優子が頷いた。
俺は鉛筆を筆箱へ戻した。
今でなくてもよかった。
そう思うのは、今日、もう2回目だった。
* * 優子視点 * *
「昼休み、本を返しに行くんだけど、富田さんも行く?」
綾香さんに聞かれて、私は頷いた。
「……うん。私も、返すのが……あるから」
「じゃあ、食べ終わったら声かけるね」
「……ありがとう」
綾香さんが自分の席へ戻った。
その向こうでは、勝也くんが翔太くんたちと話していた。
今日も、挨拶してくれた。
今朝はリュックサックのどこへ筆箱を入れたのか分からなくなっていて、返事をしたあと、また下を向いてしまった。
昨日の夜には、声をかけてもらえたら話そうと思っていたのに。
机の中へ手を入れ、文庫本の背に触れた。
昨夜かけ直した紙のカバーは、まだきれいだった。
図書室へ返す本とは別に、リュックサックの内側へ入れて持ってきた。
勝也くんが借りてくれるなら、今日、渡せる。
でも、もう読みたくなくなっていたら。
私に言ったことを覚えていても、わざわざ借りたくはないのかもしれない。
手を戻した時、椅子の横を通った莉奈さんが立ち止まった。
「リュック、変えたんだ」
肩が固くなった。
昨日、その中へ水が入った時の音を思い出した。
「……借りた、の……」
「へえ。よかったね、代わりあって」
莉奈さんの指が肩紐へ近づいた。
私は、とっさに紐を持った。
これは、お母さんの物だった。
これまで濡らされたら、どうしよう。
「何。見ただけじゃん」
「……ごめん、なさい……」
指が離れた。
莉奈さんは、玲奈さんに呼ばれると、そちらへ行った。
私は紐を持ったまま、2人が離れるのを待った。
今日は使わない英語のノートと、黒い字を書かれた教科書は、家へ置いてきた。
連絡帳を見て、何度も確かめてから置いた。
必要な物だけでも、乾いた紙は元の形に戻らなかった。
教科書を閉じると、端が少し浮いた。
そこを押さえた。
上から力をかければ、少しは平らになるような気がした。
* * *
昼休み、綾香さんと図書室へ行った。
借りていた本を返すと、綾香さんは棚の前で足を止めた。
私は、通り道を空けるように横へ寄った。
「これ、前に話してた本?」
綾香さんが背表紙を指した。
「……うん。それ……」
「借りられるね。長い?」
「そんなには……。短い話が、いくつか……入ってるから……」
「じゃあ、途中でも止めやすそう」
綾香さんは本を抜き、目次を見た。
好きだった話が、その中にあった。
その題名へ目が止まったのを見て、何か言おうとした。
「……それ、最後の……」
「最後の話?」
「ううん。その話の……最後が、好きで……」
綾香さんは、指を置いていたところをもう1度見た。
「分かった。読んでみる」
それだけで、少し嬉しかった。
途中で言葉が止まっても、待ってもらえた。
説明がうまくできなくても、嫌な顔をされなかった。
貸し出しの手続きを待つ間、私は、別の棚にある本を見た。
今日持ってきた文庫本は、そこにはなかった。
勝也くんに渡すところを考えると、また、胸が落ち着かなくなった。
本の話なら、前には話せた。
どんなところが面白かったか聞いてくれて、続きまで話しそうになると、読むから待って、と笑ってくれた。
あの時も、本当は迷惑だったのだろうか。
奈々さんの言葉を思い出すたび、楽しかった会話まで、違う物に見えてしまうのが悲しかった。
「富田さん、戻ろう」
「……うん」
綾香さんの横を歩いた。
廊下を曲がると、教室から笑い声が聞こえた。
今日の最後には、席が変わる。
美咲さんたちのすぐそばでなければいい。
それより先のお願いは、口にするだけでも、欲張りすぎるような気がした。
* * 勝也視点 * *
5時間目が終わると、先生から、黒板へ席の図を書いておくように言われた。
小島が教卓に置かれた紙を取り、俺へ半分見えるように向けた。
「私、こっち書くね。鵜飼君、そっちお願い」
「うん」
黒板へ、机の形を並べて書いた。
前後の間が狭くなり、最後の段だけ小さくなったので、そこだけ消して書き直した。
「勝也、そこ、俺の席だったら狭くね?」
翔太が後ろから言った。
「黒板の図だよ。机は縮まないよ」
「分かってるって」
「じゃあ、言わなくていいでしょ」
小島が笑い、残りの線を引いた。
男女の列が交互になるように、くじと同じ番号を入れていく。
黒板へ向かって左側に窓、右側に廊下と書いた。
翔太は、窓側の後ろを見ていた。
俺も、チョークを置く前に、そこを見た。
今よりずっと後ろになる席だった。
6時間目のチャイムが鳴ると、担任が教卓の前へ来た。
まだ立っていた人へ座るように言い、黒板の図を確かめた。
「先に確認する。黒板が見えにくいなど、前の席が必要な人はいるか」
何人かが手を挙げた。
先生は話を聞き、前の席を決めた。その分のくじを箱から抜き、小島へ番号を確認させた。
残りは、男子と女子で別の箱だった。
「出席番号順に来ること。引いたら、見せてから戻る。移動は全員が決まってからだ」
最初の方だったので、俺はすぐに立った。
箱へ手を入れると、折り畳んだ紙が指に触れた。
どれを取っても同じだと思いながら、最初に触った物を1度離し、隣にあった物を取った。
紙を開く。
番号を見てから、黒板を見た。
窓側の、最後列だった。
窓にいちばん近い女子の席の、その右隣。
「ここか」
思わず声に出た。
先生へ番号を見せ、小島が名前を書くのを見てから戻った。
翔太が、俺の持っている紙を覗き込んだ。
「お前、ずるくね?」
「何もしてないよ」
「俺がさっきから言ってたとこじゃん」
「だから、祈れって言われた分、自分にも祈った」
「そっち優先したのかよ」
声を抑えて笑った。
窓側なのは嬉しかった。後ろを気にしなくていいのも、少し落ち着きそうだった。
その横に、誰の名前が入るのかが気になった。
順番が進むたび、黒板の空いているところが埋まっていった。
春樹は、廊下側の前の方だった。
次に翔太が紙を開いた時には、少しの間、黒板を見たまま動かなかった。
「鳥居、番号」
「……はい」
翔太の名前が、春樹の前へ書かれた。
俺は、自分の机へ戻ってくる顔を見て、笑うのを我慢した。
「そんなに遠く行くことある?」
翔太が、座りながら小さく言った。
「同じ教室だよ」
「窓と逆だし、後ろでもねえし」
「後ろには俺がいるよ」
春樹が言った。
「お前がいると、ちゃんと座れって言われんじゃん」
「ちゃんと座ってたら言わないよ」
翔太は、返事の代わりに自分のくじを折り直した。
そのあと女子が呼ばれ始め、教室のあちこちから、小さな声が上がった。
綾香は前の方へ移ることになった。
奈々の名前は、窓側の前の列に書かれた。
戸田は真ん中辺りだった。
俺の隣は、まだ空いていた。
白い髪が動いた時、そちらを見た。
* * 優子視点 * *
箱の中へ手を入れた。
指先に触れた紙を、取れなかった。
これを開いたら、またしばらく、その場所で過ごすことになる。
美咲さんたちの席は、もういくつか決まっていた。
でも、まだ空いているところにも、怖い場所はあった。
「富田、引いたか」
「……あ、はい……」
紙を1枚つまんで、箱から出した。
折り目を開き、番号を見た。
黒板の左側を、上から追った。
最後の段に、同じ番号があった。
隣には、鵜飼、と書いてあった。
何度も確かめた。
隣の列を見間違えているのかと思って、手元の紙を見直した。
勝也くんの、隣だった。
「番号、見せて」
小島さんに言われ、慌てて紙を差し出した。
「……ここ、です……」
「うん。窓のとこの、いちばん後ろね」
自分の名前が書かれるのを見ていた。
勝也くんの名前と、すぐ横に並んだ。
嬉しかった。
隣がいいと、考えないようにしていた。ほかの人に聞かれるわけでもないのに、そんなことを願って、駄目だった時が怖かった。
その場所に、自分の名前があった。
元の席へ戻りかけて、勝也くんを見た。
こちらを向いていた。
目が合うと、勝也くんが少し笑った。
私も、笑えたと思う。
顔が熱くなり、持っていた紙を胸の前へ寄せた。
座ってからも、黒板を見た。
顔を少し横へ向ければ、勝也くんがいる席になる。
そのことを考えるだけで、さっきまで固くなっていたお腹が、少し楽になった。
残りの名前が埋まっていく。
莉奈さんも玲奈さんも、私のすぐ隣には来なかった。
安心して、息を吐いた。
でも、勝也くんは、どう思っているのだろう。
教室の反対側から、もう1度、顔を見たくなった。
奈々さんから聞いた話が浮かんだ。
私が頼ってばかりいることを、嫌だと思っているなら。
隣になったら、またそうされると、困っているかもしれなかった。
さっき、笑ってくれた。
それを、すぐに疑いたくなかった。
先生が移動するように言った。
椅子を引き、机の中が空いているのを確かめた。
新しい席は近かった。周りの人が机を動かしたところで、私も、机の両端を持って運んだ。
窓側の最後列へ置く。
椅子とリュックサックを取りに戻り、もう1度、その場所へ来た。
隣は、まだ空いていた。
教室の向こうで、勝也くんが、机を持った人に先を譲っていた。
待っている間に、連絡帳を出した。
本を開く気にはなれなかった。
勝也くんが来てくれるところを、ちゃんと見ていたかった。
* * 勝也視点 * *
机を持ち上げたところまではよかったけれど、通る場所がなかった。
前からも後ろからも机が来て、いったん元のところへ下ろした。
椅子なら先に運べるかと思ったが、今度は、そこへ別の人の机が入ってきた。
「鵜飼、それ、どっち?」
「窓の方」
「じゃあ、先にこっち行くわ」
「うん」
空いたところへ、少しずつ進んだ。
ようやく最後列へ来ると、優子はもう座っていた。
俺が机を置こうとしたので、椅子を少し窓へ寄せてくれた。
「ありがとう。遅くなった」
「……大丈夫」
机の脚を、前の机に合わせた。
椅子と荷物を取りに戻っている間に、教室の真ん中を行き来する人も減っていた。
戻ってきて腰を下ろすと、いつもとは違う角度で黒板が見えた。
隣を向く。
優子は連絡帳の角を揃えていた。
本は出していなかった。
「富田、よろしくね」
「……うん。よろしく、お願いします」
少し改まった返事だった。
緊張しているのかと思った。でも、目が合うと、口元がほんの少し緩んだ。
俺も嬉しかった。
くじを開く前には、ここまで期待しているつもりはなかった。
名前が横に書かれた時には、思わず優子を探していた。
ただ、嬉しくなったからと、ずっと話しかけていいわけではない。
机の上に本がないことを、もう1度だけ確かめた。
周りでは、まだ椅子を運ぶ音がしていた。
俺は、隣にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「小学校でも何度か隣だったよね」
優子の手が止まった。
こちらを見て、それから、頷いた。
「……うん。覚えてる」
「何か、久しぶりだね」
「……うん。久しぶり」
教室も、机の大きさも違った。
それでも、横を向いたところに優子がいるのは、知っている感じがした。
俺がまだ、この学校へ来る前から知っていたことだった。
「俺、机の真ん中から物、はみ出してなかった?」
「……してた」
「やっぱり」
優子が、少し笑った。
「筆箱、開けると……こっちまで、来てた」
「あれ、広げると大きかったんだよ」
「分かってる。だから、私の……少し、ずらしてた」
「そうだったんだ。ごめんね」
「ううん。……嫌じゃ、なかったから」
最後の声が小さくなった。
優子は、連絡帳へ目を戻した。
今も、そんなふうに思ってくれるだろうか。
聞けるはずもなく、自分の筆箱を机の真ん中へ置いた。
「今度は、こっちに置いとく」
わざと右へ寄せると、優子がこちらを見た。
「……そんな端だと、落ちちゃうよ」
「あ、本当だ」
少し戻した。
優子の肩が、小さく動いた。
笑ってくれたのが分かり、俺も笑った。
邪魔だっただろうかと考える前に、話せたことが嬉しかった。
昔の話を覚えていてくれた。
再会してからも何度か話したけれど、隣に座って聞くと、また少し違った。
「そこ、話はあと。前と列を揃えて」
先生の声で前を向いた。
机が少し出ていたので、2人で脚の位置を直した。
優子の机へぶつからないよう、ゆっくり動かした。
移動が終わると、先生は黒板が見えるか聞いた。
俺は前の人の肩越しに、日付のところを見た。
ちゃんと読めた。
「富田、見える?」
「……うん。大丈夫」
優子は頷いて、教科書を机へ入れ始めた。
重ねた中の1冊だけ、紙の端が波打っていた。
閉じていても、そこだけ厚みがあった。
「それ、濡れちゃった?」
聞くと、優子の手が止まった。
「……うん」
表紙を押さえ、机の中へ入れた。
「……でも、読めるから」
「そっか」
優子は、残りもその上へ重ねた。
いつ濡れたのか聞きかけて、先生が配る紙を取るように言ったので、前から回ってきた束へ手を伸ばした。
自分の分と優子の分を取った。
「はい」
「……ありがとう」
紙を渡すと、優子は、さっき教科書を押さえていた手で受け取った。
開けば読めると言っていたし、乾いているようにも見えた。
俺も前を向いた。
先生は新しい席のまま、連絡を始めた。
前の席にいる翔太が、春樹の方へ少し振り返った。
すぐ、春樹に黒板を指されて戻った。
離れたところからでも、何を言われたのか想像できた。
配られた紙は、連絡帳に挟むには少し大きかった。
俺は半分に折って入れたが、横がはみ出した。
優子は、端を先に細く折ってから、半分にしていた。
「そうすればいいのか」
小さく言うと、優子が顔を向けた。
「……ここだけ。先に、折ったら」
「うん。ありがとう」
同じように折り直した。
今度は、連絡帳から出なかった。
優子は、収まったのを見てから、自分の連絡帳を閉じた。
そのくらいのことを、横を向くだけで聞けた。
今日のくじは、よかったと思った。
* * *
帰りの挨拶が終わると、机の中へ入れたばかりの物を、またリュックサックへ詰めた。
土日の宿題に必要な物を確かめていると、翔太が教室の前から手を振った。
「勝也、ちょっと来いよ」
何かと思って行くと、翔太は自分の席から窓の方を指した。
「あっち、どう? 黒板見える?」
「見えるよ」
「そうか」
「何で残念そうなの」
「いや、俺のとこ、すげえ見えるからさ。細かい字まで」
「交換はしないよ」
「まだ言ってねえだろ」
春樹が、椅子へ座ったまま笑った。
「翔太、前も見えるし、後ろに俺もいるし、よかったじゃん」
「お前、俺の後ろで嬉しそうだな」
「見てるだけで面白いから」
「前向いとけよ」
俺も笑った。
いつもなら、ここでそのまま荷物を取り、部室の方へ向かうところだった。
今日は、自分の机の上に置いた連絡帳を思い出した。
あの紙を、また持って帰るだけにはしたくなかった。
* * 優子視点 * *
勝也くんが翔太くんたちのところへ行ってからも、私は、すぐには立てなかった。
連絡帳を閉じ、まだ荷物の残っている隣の机を見た。
小学校でも何度か隣だったよね。
勝也くんの方から、覚えていると言ってくれた。
あの頃のことを話しても、困った顔をしなかった。
筆箱を端へ寄せすぎた時、少しだけ、昔と同じように笑えた。
私ばかり覚えているのではなかった。
離れていた間も、全部忘れてしまったわけではなかった。
そのことが、嬉しくてたまらなかった。
「鵜飼の隣になった途端、嬉しそうだったね」
顔を上げた。
美咲さんが、勝也くんの机の横に立っていた。
胸の中が、急に冷たくなった。
教室の前では、勝也くんが翔太くんたちと話していた。
「……え……」
「くじ引いた時。そんなに嬉しかった?」
答えられなかった。
美咲さんの口元は笑っていた。でも、何を言っても、そこから何かが始まる気がした。
嬉しくなかったとは、言いたくなかった。
嬉しかったと言えば、もっと聞かれる。
「……私……」
「隣になっただけなのにね」
美咲さんが、私の机の上を見た。
教科書は、もうしまってあった。
「昨日、言ったこと忘れないでよ」
息が止まった。
隣になった人に、変なことを言わないように。
昨日、あの教科書を持ちながら言われたことだった。
勝也くんを見たかった。
でも、今見たら、その視線まで見られると思った。
連絡帳を持つ指へ力が入った。
「……何も……」
「なら、いいけど」
美咲さんは、それだけ言って離れた。
私の返事を待っているのではなかった。
さっきまで、ここに座れて嬉しかった。
今も、その気持ちはなくなっていなかった。
でも、嬉しそうにしているところまで見られているのだと思うと、顔を上げるのが怖くなった。
文庫本をリュックサックへ入れようとした。
朝と同じ場所へ戻せば、今日は終わりだった。
「富田」
呼ばれて、手を止めた。
勝也くんが戻ってきていた。
私がまだ座っていたので、自分の椅子を引いて、隣へ腰を下ろした。
「この前の本、借りてもいいかな」
すぐには返事ができなかった。
持っていた本と、勝也くんの顔を、順に見た。
「……これ?」
「うん。昨日、自分の読み終わったから」
勝也くんは、連絡帳から紙を出した。
私が題名を書いた紙だった。
捨てずに、持っていてくれた。
「今日、持ってきてたんだね」
「……うん。持って、きてた」
「今、読んでる途中だったら、あとでも大丈夫だけど」
「読み終わってる。……大丈夫、貸せるよ」
最後だけ、少し早口になった。
待っていたのが分かってしまいそうで、言い足すのをやめた。
新しいカバーをかけた本を、机の上へ置いた。
その時になって、昨日、水がかかったところが気になった。
中はほとんど濡れなかった。でも、借りる人が嫌になるような跡が、どこかに残っていないだろうか。
表紙を開き、端を確かめた。
紙は、昨夜見た時と同じだった。
「……ちょっと、待ってね」
「うん」
挟んでいた栞を抜いた。
自分でも、何をそんなに確かめているのか分からなくなった。
勝也くんは、急かさずに待ってくれた。
「……はい」
「ありがとう。折らないようにするね」
両手で受け取ってくれた。
勝也くんの指が、私のかけた紙の端をそっと押さえた。
「前に言ってたの、最初の方、覚えておくといいんだよね」
「うん。……最後まで読んだあとに、戻ると……」
続けかけて、止まった。
そこまで話すと、何を気にして読めばいいのか、分かってしまう。
「……やっぱり、言わない方がいいかも」
「気になるじゃん、そこまで言われたら」
勝也くんが笑った。
私も、口元が緩んだ。
「読み終わったら、聞いてもいい?」
「……うん。聞いて」
「じゃあ、今日から読む」
本当に、読んでくれる。
私の好きだったところまで、この本を持って、読んでくれるのだと思った。
読み終わったあとにも、話す約束ができた。
嬉しくて、次の言葉がすぐに出そうになった。
そこまで読んだら、あの場面も覚えていてほしい。どの人が好きだったか、聞いてみたい。
でも、さっきの美咲さんの声が浮かんだ。
嬉しそうだったね。
顔を上げたままでいられなくなった。
「……急がなくて、いいから」
「うん。ゆっくり読むよ」
勝也くんは、私の言い方を責めなかった。
自分のリュックサックを開き、本を教科書と分けて入れた。
今度こそ、言いたかった。
話しかけてくれて、嬉しい。
隣になれて、嬉しい。
今日だけではなくて、ずっと、勝也くんが来てくれるのを待っていた。
でも、そこまで言ったら困らせるかもしれないと思うと、声が出なかった。
渡せた本のあったところへ、指を置いた。
「富田、もう帰る?」
「……うん」
「俺、部活行ってくる。また月曜日」
月曜日。
次に来た時も、ここへ座っていい。
今日だけの席ではなかった。
「……うん。また、月曜日」
そこまでは、顔を見て言えた。
* * 勝也視点 * *
教室を出てから、リュックサックの口をもう1度確かめた。
借りた本の上に、筆箱が乗っていないか気になった。
教科書の背の横に、きちんと収まっていた。
貸してもらえた。
それも、どこか面白いのか聞くと、優子の方から話そうとしてくれた。
途中で止めたのは、先のことを言ってしまいそうになったからだったと思う。
あの顔は、嫌そうには見えなかった。
階段を上がりながら、少し安心した。
俺が話しかけるのを、何もかも嫌がっているわけではないのかもしれない。
それでも、最後にはまた、優子の声が小さくなった。
俺が長く話しすぎたのか、帰るところを引き止めてしまったのか。
考え始めると、さっきの笑った顔まで、よく分からなくなりそうだった。
俺は、肩紐を持ち直した。
まずは、借りた本を読もうと思った。
読んでみたいと言ったのは、本当だった。
読み終わったら、どこが面白かったか、ちゃんと話せる。
* * *
部室では、先輩に頼まれた物を運んだ。
棚の前へ箱を置き、持ち手を畳んでから、廊下へ出ていた分を取りに戻った。
「鵜飼くん、こっちもお願いしていい?」
「はい」
山崎先輩が、床へ置いていた袋を持ち上げた。
受け取ると、中で物が動かないように口を押さえた。
「今日、席替えしたんです」
「そうなんだ。どうだった?」
「窓側の、いちばん後ろになりました」
「黒板、見える?」
「見えます。前の人で隠れたりもしなかったです」
「じゃあ、よかったね」
頷いた。
優子が隣になったことまで、続けて言おうとは思わなかった。
何と説明すればいいのか、自分でも分からなかった。
片づけを終えると、お茶をいただいた。
茶菓子を食べている間に、今日出た宿題の話になった。
自分でもできそうなところは先に終えて、分からないところを見てもらうことにした。
数学のノートを出した時、朝、翔太に指摘された計算が目に入った。
次の問題では、符号を確かめてから下の行へ写した。
最後まで解くと、答えが合った。
少し進めておけば、家で本を読む時間も取れそうだった。
そう考えたら、もう1問だけやっておこうと思えた。
* * 優子視点 * *
勝也くんと別れてから、私は昇降口へ下りた。
靴を履き替えて立ち上がったところで、奈々さんに会った。
奈々さんは、私のリュックサックを見てから、顔を上げた。
「鵜飼君と隣になったね」
頷いていいのか、迷った。
くじで決まったことだった。私が何か頼んだわけではなかった。
「……うん……」
「さっきも話してた?」
「……本を、貸して……」
奈々さんは、ふうん、と言った。
「近くなった分、気をつけた方がいいと思うよ」
胸が、また苦しくなった。
さっきまで、借りてもらえたことを何度も思い返していた。
「……何、を……」
「困った時、毎回頼るとか。席が隣だと、嫌でも離れられないでしょ」
靴箱の扉に添えていた指が、動かなくなった。
「別に、話しちゃ駄目って言ってるんじゃないよ。ただ、鵜飼君にも、やりたいことあるから」
奈々さんは、私の返事を待たずに、外へ向いた。
名前を呼ぶ声に手を上げ、その人のところへ歩いていった。
私は、その場に残った。
隣になれば、前より話しやすくなると思った。
勝也くんの方からも、話してくれた。
嫌でも離れられない。
そんなふうに考えているのだろうか。
だから、私が変に気にしないように、昔の話をしてくれたのだろうか。
靴箱を閉めた。
人が来たので、少し横へ寄った。
でも、本の話は、席が決まる前だった。
そのことを思い出した。
題名を聞いてくれたのも、読み終わったら借りたいと言ってくれたのも、今日ではなかった。
隣になったから、仕方なく借りたのだと、全部をそう考えることはできなかった。
あの紙を、持っていてくれた。
貸せると言ったら、ありがとうと笑ってくれた。
奈々さんの話が間違っているとは、まだ思えなかった。
勝也くんとあんなに普通に話せる人が、私の知らない話を聞いていても、おかしくないと思っていた。
でも、私が今日見た顔も、あった。
日傘を開き、昇降口を離れた。
月曜日には、話しかけすぎないようにしよう。
そう考えながら、もし本のことを聞かれたら、今度こそ、嬉しい顔のまま答えたいと思った。
* * *
家へ着くと、お母さんが、台所から顔を出した。
「おかえり」
「……ただいま」
靴を揃えていると、リュックサックの方へ目が向いた。
私は、少しだけ肩紐を持ち直した。
「それ、重くなかった?」
「うん。大丈夫。……借りてよかった。ありがとう」
「よかった。いつものも、だいぶ乾いたわよ」
洗面所の方を見た。
昨日、中を拭いてもらったリュックサックが、口を開けて置いてあった。
形は戻っていた。でも、あそこへ手を入れるところを考えると、昨日のことが浮かんだ。
「……もう少し、こっち使っててもいい?」
「いいわよ。急いで戻さなくて大丈夫」
お母さんは、理由を聞かなかった。
私は頷いて、部屋へ荷物を置きに行った。
教科書と連絡帳を出した。
文庫本を入れていたところには、何もなかった。
忘れてきたのではなかった。
勝也くんに、渡せたのだった。
いつもなら、読み終えた本は自分の棚へ戻す。
今日は、勝也くんの家へ行く。
私がページをめくったところを、勝也くんも読んでくれる。
机の前で、少し笑ってしまった。
そのあとすぐに、美咲さんの声を思い出して、口元へ手を当てた。
ここには、いない。
自分の部屋だった。
ゆっくり、手を下ろした。
家に帰ってきてまで、笑った顔を見られるのが怖くなっていたことに気づき、悲しくなった。
お母さんが、廊下から声をかけた。
「飲み物、ここへ持ってくる?」
「ううん。そっち、行く」
連絡帳を閉じて、立った。
今日は、机に並べた物をずっと見ているより、お母さんのいるところへ行きたかった。
台所でコップを受け取ると、お母さんが向かいへ座った。
「席、変わったの?」
「うん。窓の方の、後ろになった」
「黒板は見える?」
「見える。前の人とも、重なってなかった」
「そう。それならよかった」
冷たいコップを、両手で持った。
窓のそばになったことは話せた。
その隣に誰がいるかを話したら、どうして嬉しいのかも、どうして怖いのかも、うまく説明できなくなりそうだった。
「明日は、お休みね」
お母さんが言った。
「……うん」
「朝、ゆっくりしていいからね」
頷いた。
明日、美咲さんたちに会わなくていいことに、ほっとした。
月曜日が来なければいいと思うくらい、学校へ行くのは怖かった。
それでも、今日渡した本が、今は勝也くんのところにあった。
もう学校に、嫌なことしかないわけではなかった。
その嬉しさまでなくしてしまいたくなくて、コップへ目を落とした。
* * 勝也視点 * *
家へ帰ると、先に借りた本を机へ置いた。
教科書の間に入れていたので、カバーの角も折れていなかった。
リュックサックを下ろし、着替えてから、椅子へ座った。
表紙を開く前に、優子が抜いていた栞を思い出した。
俺も、読みかけのところを折らないように、机の引き出しから栞を出した。
最初のページを読む。
すぐに大きな事件が起きる話ではなかった。
登場人物が話しているところを追いながら、この何でもなさそうな言葉が、あとで気になるのかもしれないと思った。
先を知っている優子は、ここをどんな顔で読んだのだろう。
続きを教えかけて、やめた時の顔が浮かんだ。
そんな顔をするくらい、この本が好きなのだと思った。
借りてよかった。
まだ読み始めたばかりなのに、そう思えた。
何ページか進んでから、いったん栞を挟んだ。
机の端には、部活で途中まで進めた宿題があった。
そのまま本を読み続けたら、夜になってから、やっていないことを思い出しそうだった。
残りを開き、鉛筆を取った。
計算の途中で、窓側の最後列を思い浮かべた。
優子に教わったとおりに折った紙が、連絡帳へきれいに収まっていた。
筆箱がはみ出していたことも、覚えていた。
嫌ではなかったと、小さな声で言ってくれた。
昔の俺は、隣にいるのが当たり前すぎて、そんなことを気にしたこともなかった。
今は、短い返事だけでも、どういう意味だったのか考えてしまう。
話しかけていいのか、もうやめた方がいいのか。
奈々から聞いた言葉を、今日の会話だけで忘れることはできなかった。
でも、優子と話せたことは嬉しかった。
貸すために本を差し出してくれた手も、読み終わったら聞いていいと言った声も、ちゃんと覚えていた。
宿題を終え、本をもう1度開いた。
急いで最後まで読んで、返すためだけの感想を考えるのは、もったいなかった。
優子が面白いと思った話を、俺も、ちゃんと読んでみたかった。
時計を見るまで、少しの間、教室のことを考えずに読めた。
今日は、ここまでにしようと思ったところへ、栞を挟んだ。
閉じると、白い紙のカバーが見えた。
その下にある題名を、もう覚えていた。
月曜日、どこまで読んだか話せるだろう。
優子が本を開いていない時に、少しだけ聞いてみようと思った。
今度は、教室の反対側まで歩かなくてもよかった。
隣を向けば、優子がいる。
借りた本を、机の乾いたところへ置いた。
読み終わるまで、大事に持っていようと思った。
今回の登場人物
・鵜飼勝也
席替えで優子の隣になり、小学校時代の思い出を話す。自分から約束の本を借り、また感想を話せることを楽しみに読み始める。
・富田優子
勝也の隣になれたことを喜び、大切に持ってきた本をようやく貸せる。美咲や奈々の言葉に怯えながらも、勝也と話せた嬉しさを大事にする。
・鶴見春樹
席替えで翔太の後ろになり、希望どおりにならなかった翔太へ冗談を返す。新しい席でも、翔太に前を向くよう促す。
・鳥居翔太
数学で勝也の計算間違いを見つけ、解き直しを助ける。席替えでは希望した窓側の後ろを勝也に引かれ、自分は廊下側の前になる。
・加藤真弓
登校前の公園で、席替えのくじを先に知ろうとする翔太に言葉を返す。勝也が知っていても翔太には教えないだろうとからかう。
・井上綾香
優子を図書室へ誘い、以前勧めてもらった本を借りる。言葉を探す優子を待ち、好きな話を読んでみると伝える。
・小島裕香
勝也と黒板に座席図を書き、くじの番号や名前を確認する。副委員長として席替えの進行を手伝う。
・戸田美咲
勝也の隣になって喜ぶ優子をからかう。前日の脅しを持ち出し、被害を隣の勝也へ話さないよう圧力をかける。
・富永莉奈
優子が母から借りたリュックサックに気づき、肩紐へ手を伸ばす。とっさに守ろうとした優子へ、見ただけだと言い返す。
・杉浦玲奈
優子のリュックサックを気にする莉奈に声をかける。席替えでは、莉奈とともに優子のすぐ隣から離れた席になる。
・大島奈々
勝也の隣になった優子へ、困るたびに頼らないよう告げる。隣では嫌でも離れられないという言葉で、優子の不安を強める。
・優子の母(富田美和)
優子が借りたリュックサックを使い続けたいと言うと、理由を問い詰めず受け入れる。新しい席の話を聞き、休日はゆっくり休むよう伝える。
・山崎詩織
部活で勝也に荷物運びを頼み、席替えの話を聞く。窓側の最後列でも黒板が見えると知り、よかったねと声をかける。
・1年3組の担任
黒板の見え方などから前の席が必要な生徒を確認し、残りの席をくじで決める。移動後には机の列や黒板の見え方を確かめる。




