第15話 見えないところ
* * 勝也視点 * *
教室へ入る前に、昨日の声を思い出した。
邪魔してごめんね。
言い方が、よくなかった。
昨日、家へ帰ってからも考えていた。優子を責めたかったわけではないのに、あれでは、怒ったみたいに聞こえたかもしれなかった。
「勝也、そこ通るよ」
後ろから春樹に言われ、ドアの前を空けた。
「あ、ごめん」
「リュック、引っ掛かる」
肩紐を直して、俺も中へ入った。
9月6日、木曜日。明日が終われば、また土日になる。
机の上へ荷物を置くと、翔太が黒板を見ながら言った。
「明日の席替えさ、俺、今度こそ後ろがいい」
「何で?」
「後ろに誰もいないと、落ち着くだろ」
「椅子、傾けたいんじゃなくて?」
春樹が聞いた。
翔太は、少しだけ黙った。
「今、考えたでしょ」
「違うって。どの席でも、ちゃんと座るし」
「じゃあ、どこでも大丈夫だね」
真弓が言うと、翔太は、そういう話じゃない、と言い返した。
俺も笑って、リュックサックから教科書を出した。
連絡帳の間には、優子にもらった紙が挟んであった。
題名と作者の名前。それを見れば、読んでみたいと思った時のことは思い出せた。
奈々から聞いた話を思い出すのは、そのあとだった。
本を読んでいたいのに、話しかけてくるから鬱陶しい。
昨日、優子へ声をかけた時には、本当にそうなのだと思った。
けれど、こちらから挨拶までしなくなったら、それも違う気がした。
話を長くしないことと、知らないふりをすることは、同じではなかった。
教室の入口に、白い髪が見えた。
「富田、おはよう」
いつもより少し離れたところから、声をかけた。
優子が顔を上げた。
「……おはよう、勝也くん」
名前まで返ってきて、ほっとした。
昨日の最後の声で、怒らせたわけではなかったのかもしれない。
優子は自分の席へ行き、荷物を下ろした。
教科書を出したところで、もう1度、こちらを向いたように見えた。
何か用だろうかと思った時には、また手元へ目を落としていた。
俺も椅子を引いた。
今朝は、これくらいでいいのだと思った。
嫌がっているかもしれない相手へ、返事をしてくれたからと何度も近づくのは、やめた方がよかった。
そう考えると、自分の席から優子のところまでが、昨日より遠く感じられた。
* * 優子視点 * *
今日も、挨拶してくれた。
教科書を机へ入れながら、勝也くんの声を思い返した。
昨日の夜、何度も気にしていたことだった。もう話しかけてもらえなくなったら、どうしようと思っていた。
おはようと答えられた。
勝也くんの名前も、呼べた。
それだけで嬉しかったのに、勝也くんが自分の椅子へ座ると、少し寂しくなった。
いつもなら、机のそばへ来てくれた。
座っている私に合わせてしゃがみ、昨日の続きや、今日使う物の話をしてくれた。
今日は、それがなかった。
挨拶は、同じクラスだからしてくれたのだろうか。
その先の話は、もうしたくないのだろうか。
まだ朝なのに、そこまで考えてしまうのが嫌だった。
昨日、私の方が、話を終わらせるようなことばかり言った。
来てほしかったことは、伝えていない。
何も言わないまま、勝也くんにだけ分かってほしいと思っていた。
リュックサックから文庫本を出しかけた。
紙のカバーに指を掛けて、止める。
今、出したら、貸すのを待っているみたいだろうか。
読まなくても大丈夫と言ったばかりなのに、また気を遣わせないだろうか。
本を戻した。
読みたくなったら、あとで出せばよかった。
「富田さん」
美咲さんの声に、手が止まった。
莉奈さんもそばにいた。
「今日も来たんだ」
何を答えればいいのか分からなかった。
学校へ来たことを、わざわざ聞かれたのだろうか。
「……うん」
「ふうん」
美咲さんは、私の机の中を少し見てから離れた。
何も取られなかった。
それでも、取り出したばかりのノートへ手を置いたまま、しばらく動かせなかった。
* * *
最初の授業が終わったあと、トイレへ行った。
次の時間に使う物は、先に机へ出してあった。
すぐに戻れば、チャイムまでには座れる。
廊下では、別のクラスの女子が、宿題を忘れた話をしながら走っていった。
個室へ入って鍵を掛けると、外の声が少し遠くなった。
ここでは、机の中を見られることもなかった。
誰かの顔を見て、どう返事をするか考えなくてもよかった。
手を洗う音が止まった。
何人かが出ていく声を聞いてから、私は鍵を開けた。
洗面台の前に、美咲さんがいた。
壁際には莉奈さん。入口の方に、玲奈さんも立っていた。
「遅くない?」
莉奈さんが言った。
私は、開けたドアの横で止まった。
「……何か、用……?」
「普通に話しかけただけだけど」
美咲さんが、私の顔を見た。
その隣の蛇口へ手を伸ばすには、近くへ行くしかなかった。
空いている洗面台の前へ立ち、水を出した。
「朝も、そんな顔してたよね」
「……そんな、顔……?」
「私たちが話しかけると、嫌そうにするじゃん」
水に濡れた指が、動かなくなった。
嫌だったのではなく、何を言われるのか怖かった。
でも、怖いと答えれば、何が怖いのか聞かれると思った。
「……そういう、つもりじゃ……」
「じゃあ、ちゃんとこっち見れば?」
蛇口を閉めた。
顔を向けると、莉奈さんが、私の前髪を見た。
「それ、邪魔じゃないの」
ハンカチを出そうとした時、手が伸びてきた。
頬の横の髪をつかまれた。
「……っ」
頭が横へ引かれ、足が半歩ずれた。
根元が痛くて、反対側へ戻ろうとしたら、もっと痛かった。
「動かないでよ」
「痛い……離して……」
莉奈さんの手へ、自分の手を重ねた。
指をほどこうとしても、うまく力が入らなかった。
「ほら。顔、見えるじゃん」
鏡の中で、私の眼鏡が傾いていた。
美咲さんは、それを見て笑っていた。
玲奈さんも、入口から近づいてきた。
「髪、隠したって白いの分かるけど」
「目も、何か怖いんだよね」
莉奈さんに言われ、目を閉じた。
髪をつかむ指が、もう1度動いた。
「……やめて」
ようやく離された時には、洗面台へ手をついていた。
顔を戻しても、引かれたところは痛かった。
勝手に涙が浮かび、鏡を見られなくなった。
「大げさ」
莉奈さんが言った。
笑わないでほしかった。
痛いと言えば、少しくらいは手を緩めてくれると思っていた。
そんなことまで、期待しなければよかったのだろうか。
「その目で見られるの、嫌だって言ってるの」
「……見て、ない……」
「今、見たじゃん」
また下を向いた。
すると、美咲さんが息を吐いた。
「そういうところ。人が話してるのに、聞いてないみたいな顔して」
顔を上げても、下げてもいけなかった。
自分の目を、今ここで変えることはできない。
髪を切っても、色が変わるわけではなかった。
赤い眼鏡の端へ触れた。
ずれたままだと、耳に当たるところが痛かった。
「それも目立つよね」
莉奈さんに言われ、手を止めた。
気に入っていた眼鏡だった。
掛けているところを見て、勝也くんは笑わなかった。
その顔を思い出しただけで、今、ここにいないことが苦しくなった。
「ちょっと、通っていい?」
入口から別の女子の声がした。
玲奈さんが体をずらすと、その子は空いている個室へ入った。
誰かが来た。
ドアが閉まる前に、私も外へ出ようと思った。
「……戻るね」
美咲さんの横を通ろうとすると、肩を押さえられた。
強く突き飛ばされたわけではなかった。それでも、足が止まった。
「まだ話してるけど」
「次……授業だから……」
「知ってるよ。同じクラスじゃん」
玲奈さんが言った。
個室の鍵が掛かる音がした。
私は、閉じたドアを見た。
助けてと言ったら、聞こえる距離だった。
でも、美咲さんの手は、まだ肩にあった。
あのドアが開く前に何をされるかと思うと、口が動かなかった。
「あとで、先生に変なこと言わないでね」
美咲さんが言った。
「普通に喋ってただけなんだから」
髪を引っ張られたところが、まだ痛かった。
私には、普通に喋っていただけではなかった。
違うと言うと、また顔を近づけられる気がした。
「返事は?」
「……うん……」
肩から手が離れた。
3人が、私より先に出ていった。
私は鏡へ向き直り、眼鏡を直した。
引かれた髪を戻すと、見た目は来た時とあまり変わらなかった。
赤くなった目も、少し待てば戻るかもしれない。
ハンカチで手を拭いた。
洗ったあとに髪をつかむ手へ触れたことが気になり、もう1度洗った。
それでも、痛かったところは変わらなかった。
* * *
国語の授業では、問題集の答えを読むように言われた。
どこを読むかは分かっていた。
自分で書いた答えだった。鉛筆を置き、問題集を持ち上げた。
「相手に……まだ、帰ってほしく……なかったから……」
途中で声が小さくなった。
先生は待っていてくれたので、最後まで読めた。
「うん。そうだね。そこが理由になってる」
座ってから、少し息を吐いた。
合っていた。
さっきまでのことを考えて、問題も解けなくなったわけではなかった。
先生が黒板へ、もう少し短い答え方を書いた。
私も、自分の答えの下へ写した。
字を追っている間は、髪のことを少し忘れていられた。
授業が終わり、問題集を閉じた時だった。
「喋れるんじゃん」
玲奈さんが、通りすがりに言った。
こちらを見ず、そのまま莉奈さんのところへ行く。
答えを読めたことまで、いけなかったのだろうか。
声を出せと言われたから出しても、安心はできなかった。
勝也くんの方を見た。
翔太くんが机の横へ来て、何かを話していた。
勝也くんも返事をしていた。
誰かと話しているところへ行くのは、昨日までより怖かった。
用事もないのに呼んだと思われたら、また困らせてしまう。
髪を引かれたと話すのも、助けてと頼むことになる。
私は、閉じた問題集を机の中へ入れた。
先生がつけた宿題の印を、連絡帳へ写した。
忘れないように書いている間も、勝也くんの笑い声が聞こえていた。
* * 勝也視点 * *
給食を食べ終えてから、読みかけの本を出した。
昨夜は、思ったほど進まなかった。
残りのページを指で挟むと、もう薄くなっていた。
今日のうちには、読み終わりそうだった。
「それ、怖い話?」
奈々が、表紙を見ながら聞いた。
「違うよ」
「表紙、暗くない?」
「夜の絵だからね」
「私、夏休みにテレビで怖いの見てさ。こういうの、全部そう見える」
「最後まで見たの?」
「途中でやめた」
「じゃあ、どうなったか分かんないじゃん」
「だから、ずっと怖いんだって」
奈々が笑った。
俺も、最後まで見た方が怖くなくなったかもしれないのに、と答えた。
昨日、優子の話をした時とは違う、いつもの会話だった。
もう1度、あの話を聞こうかと思った。
本当に、俺と喋るのが嫌だと言っていたのか。
でも、聞き直しても、奈々は昨日と同じことを答えるだろう。
優子がいないところで、優子の気持ちを何度も聞くのも嫌だった。
本を開く前に、廊下へ出た。
手を洗って戻ろうとしたところで、教室から出てくる優子と重なった。
手に、紙のカバーの本を持っていた。
「あ、富田。先いいよ」
横へよけると、優子も足を止めた。
「……ありがとう」
顔を上げてくれた。
俺の方を見たまま、口が少し動いた。
「何かあった?」
聞きかけて、昨日も同じことを聞いたと思った。
優子は、持っている本へ目を落とした。
「……ううん。何でも、ない……」
「そっか」
言葉を足さずに待った。
優子が通り過ぎてから、俺も教室へ戻った。
今日のうちに読み終わりそうだと、言えばよかっただろうか。
でも、借りる話は気にしなくていいと言われていた。
また同じことを聞いたら、昨日と同じ顔をさせるかもしれなかった。
俺の方から近づかなければ、優子が困ることもない。
朝、そう決めたはずだったのに、通り過ぎただけの廊下が寂しかった。
席へ戻り、続きを読んだ。
今度は、ページをめくれた。
最後まで読めば、感想も話せる。読み終わったことは、嘘でも用事を作るためでもなかった。
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
* * 優子視点 * *
何でもないと答えてから、また同じことを言ってしまったと思った。
昨日は邪魔ではなかった。
話してくれたら、嬉しい。
言いたかったのは、そのことだった。
廊下の途中で、本を持ち直した。
今から戻れば、まだ勝也くんは教室にいる。
呼んで、さっきの続きを話せばよかった。
「富田さん、図書室?」
奈々さんが、後ろから来た。
振り向くと、こちらの本を見ていた。
「……うん……」
「最近、あんまり喋らなくなったね」
誰と、と聞かなくても分かった。
「……勝也くんの、こと……?」
「うん。あれくらいの方が、鵜飼君も楽なんじゃない?」
さっきの、通路を空けてくれた姿を思い出した。
私が何でもないと答えたら、勝也くんも、それ以上は聞かなかった。
「私……別に、そんな……」
「私とは、普通に話してたでしょ」
奈々さんは教室へ目を向けた。
給食のあと、本の表紙を見て笑っていたことを、私も見ていた。
「富田さんと話さなくても、困ってないじゃん」
困らせたかったわけではなかった。
私がいなければ誰とも話せないでほしいと、思っていたわけでもなかった。
ただ、私とも話したいと思っていてほしかった。
そう答える前に、喉が詰まった。
「せっかく落ち着いたんだから、また変に聞いたりしない方がいいよ」
奈々さんはそう言い、廊下の向こうから来た女子へ手を振った。
そちらへ歩きながら、もう別の話を始めていた。
私は、その場に残った。
落ち着いてなんて、いなかった。
私が声をかけられない間も、勝也くんの顔や、昨日の言い方を考えていた。
でも、勝也くんには、見えないことだった。
私にも、勝也くんが何を考えているかは見えなかった。
奈々さんの言葉ばかりが、その間へ入ってくる。
図書室へ向かった。
本を読める場所へ行きたかった。
もう、誰にも話しかけられたくなかった。
そう思いながらも、勝也くんにだけは呼び止めてほしかった。
* * *
図書室には、空いている席があった。
窓からの日差しが直接当たらないところへ座った。
今日は当番ではない。受付に座っている生徒へ小さく頭を下げ、本を開いた。
読んだことのあるページだった。
登場人物が、このあと何を話すかも覚えていた。
それでも、最初の行を読み直した。
本の中なら、さっき言った言葉を確かめられる。
聞き間違えたかもしれないと思えば、戻って読める。
勝也くんの言葉も、そうやって確かめられたらよかった。
無理しているわけではないと、昨日、言ってくれた。
今朝は、おはようと言ってくれた。
それなのに、嫌がられているかもしれないと考える方を、やめられなかった。
隣の机で、女子が友達へ本を渡した。
「これ、読み終わったら貸して」
「いいよ。まだ半分くらいだけど」
「急がなくていいから」
私は、ページへ目を戻した。
火曜日には、私も同じような約束をした。
あの時の嬉しさは、まだ覚えていた。
貸したくなくなったわけではない。
明日、借りたいと言われたら、渡せるようにしておきたかった。
本のカバーの角を、指で伸ばした。
時計を見ると、教室へ戻るまで、あと少しだった。
誰よりも早く戻るのは嫌だった。美咲さんたちしかいなかったら、また何か言われる。
遅くなって、教室の全員に見られながら入るのも怖かった。
周りで椅子が引かれ始めたところで、栞を挟んだ。
入口へ向かう人たちの少し後ろを歩いた。
一緒に話しているわけではなかったけれど、廊下に私だけでいるより、少し安心できた。
* * *
午後の授業では、先生が机の間を歩いていた。
分からない問題のところで手を上げた子に、説明をしていた。
その子が頷くと、次の列へ移る。
私も、机の端へ手を置いた。
今なら、先生は近くに来てくれる。
髪を引っ張られたことを話せば、聞いてくれるかもしれなかった。
でも、私が美咲さんたちの名前を言ったあとも、授業は続く。
次の休み時間も、帰りの会のあとも、同じ教室にいる。
先生がいなくなってから、なぜ話したのかと聞かれたら。
朝、肩を押さえられたところが気になった。
机へ置いた手を、膝へ戻した。
「名前、書いておこうね」
そばへ来た先生が、私のプリントを指した。
「……はい……」
鉛筆を持ち、空欄へ自分の名前を書いた。
先生は次の席へ進んだ。
呼び止める言葉を考えるうちに、黒板の前へ戻っていった。
プリントを見直した。
名前は書けたのに、さっきの問題は、まだ途中だった。
* * *
帰りの会で、担任の先生が明日の席替えについて話した。
「机に入れたままの物は、今日のうちに持って帰るように。明日、動かす時に落とさないようにしなさい」
後ろの方で、誰かが返事をした。
前の席は嫌だという声や、誰の近くになるだろうという声も聞こえた。
私は連絡帳に、席替えと書いた。
今の場所から離れれば、少し変わるだろうか。
美咲さんたちの方を見なくても、教室へ入れる席になるかもしれない。
その反対に、もっと近くなることもあると思った。
帰りの挨拶をしてから、机の中を空にした。
普段は持ち帰らない物もあったので、リュックサックが重くなった。
新しい英語のノートを入れ、その下へ古い方も重ねた。
「富田さん、国語の宿題って、最後の問題だけだったよね?」
綾香さんが来た。
私は、今しまった問題集を出した。
「……ここ。あと、終わってないところが……あれば……」
「ありがとう。最後のだけ、考えてこようと思ってたから」
指したところを見て、綾香さんが頷いた。
私も、そこだけ残っていた。
答えが思いつかなかったのではなく、書く前にチャイムが鳴ってしまったのだった。
「もう帰る?」
「……うん……」
「私も部活に行くから、途中まで一緒に行こう」
教室の後ろを見た。
美咲さんと奈々さんが、机のそばで話していた。
今なら、2人の近くで立ち止まらずに出られる。
「……ありがとう……」
文庫本を、内側の小さな仕切りへ入れた。
綾香さんは、私がファスナーを閉めるまで待っていてくれた。
廊下へ出る時、勝也くんの席が見えた。
もう荷物を持ち、翔太くんたちと教室の反対側のドアへ向かっていた。
また明日と言うには、声を大きくしなければならなかった。
私は、綾香さんの後ろを歩いた。
「お昼、図書室だった?」
「……うん。本、読んでた……」
「涼しかった?」
「……教室よりは……」
「そっか。私も行けばよかった。教室、午後になると暑いよね」
頷いた。
窓を開けても、教室の奥までは風が来ない時があった。
綾香さんは、明日は風の来る席だといいな、と言った。
「富田さんは、どの辺がいい?」
美咲さんたちから、遠いところ。
そう思ったけれど、口には出せなかった。
「……まだ、分からない……」
「くじだもんね。考えてても違うところになるか」
綾香さんが笑った。
返事が短くても、怒られなかった。
どんな顔をしていればいいのか考えずに、少しだけ横を向けた。
階段のところで、綾香さんが止まった。
「じゃあ、また明日ね」
「……また、明日……」
手を振ってくれたので、私も手を上げた。
綾香さんは上へ向かい、私は下りた。
靴音が遠ざかると、急に廊下が静かになった気がした。
もう少し、一緒に歩いていたかった。
その気持ちを言ったら、部活がある綾香さんを困らせるだろうと思った。
* * *
昇降口へ向かう途中で、名前を呼ばれた。
「富田さん。ちょっと」
美咲さんと莉奈さんが、後ろから来ていた。
私が廊下の端へ寄ると、美咲さんは、さっき下りてきた階段を見た。
「井上さん、部活?」
「……うん……」
「何、話してたの」
「宿題と……席の、話……」
「私たちのこと、何か言ってない?」
首を振った。
綾香さんには、何も話していなかった。
話したくても、言葉にできなかった。
「……言って、ない……」
「じゃあ、こっち来て」
美咲さんが、昇降口とは違う方を向いた。
「私、もう……帰るから……」
莉奈さんに、肩紐を引かれた。
足が止まり、体が後ろへ戻った。
「すぐ終わるって」
手が離れても、歩き出せなかった。
引かれたところを握り直し、美咲さんのあとへついていった。
朝とは違う階の、女子トイレだった。
入口に玲奈さんが立っていた。
私たちを見ると、中へ入った。
洗面台を見た途端、髪をつかまれた時の痛さを思い出した。
入口のそばで止まると、莉奈さんに、入って、と言われた。
「何も言ってないなら、そんな顔しなくてよくない?」
美咲さんが言った。
「……して、ない……」
「だから、今の顔だって」
どんな顔になっているのか、自分では分からなかった。
笑えばいいのだろうか。
笑ったら、何がおかしいのかと聞かれる気がした。
莉奈さんが、リュックサックの肩紐へ手を伸ばした。
「それ、下ろせば?」
また引かれる前に、自分で外した。
足元へ置こうとすると、玲奈さんが持ち手を取った。
「……返して……」
ファスナーが開いた。
筆箱と教科書が、洗面台の脇へ置かれた。
ノートを引き出された拍子に、連絡帳が落ちかけたので、私は両手で受け止めた。
「ノート、また買ったんだ」
莉奈さんが、新しい英語のノートを開いた。
「……それ、使うの……」
「知ってるよ。書いてあるし」
火曜日の夜に写したページだった。
下の方には、昨日の授業で書き足した文もある。
何か秘密を書いて、隠していたわけではなかった。
もう、書き込まれた字を見ずに勉強したかっただけだった。
「……返して……お願い……」
手を伸ばした時、莉奈さんがページの端をつまんだ。
紙が裂ける音がした。
「あ……」
昨日書いた英文の途中を、白い破れ目が通った。
ページの半分ほどが、莉奈さんの手に残った。
どうして。
使う物だと、言ったのに。
ノートへ伸ばした手を、そのままにしていた。
莉奈さんは切れ端を残ったページへ挟み、私へ差し出した。
「ほら。返したよ」
受け取った。
開いたままでは紙が落ちそうで、すぐに閉じた。
美咲さんは、別の教科書を手に取っていた。
私の筆箱から出した黒いペンを持っていた。
「これも、そんなに大事?」
「……授業で、使うから……」
返事が終わる前に、ペンが紙へ下りた。
印刷された文の上に、太い線が重なった。
「やめて……」
手を出すと、教科書を遠ざけられた。
ノートと連絡帳を抱えていたので、両手では取り返せなかった。
美咲さんが書いた字が見えた。
死ね。
息を吸ったまま、止まった。
書かれたのは紙の上なのに、自分の顔へ向かって言われたような気がした。
その言葉の下にも、私が授業で読んだ文章があった。
昨日までは、同じ先生の話を聞きながら開いていたページだった。
「……読めなく、なる……」
「じゃあ、読まなきゃいいじゃん」
教科書が落とされた。
角が床へ当たり、表紙が曲がったまま開いた。
私は、しゃがんだ。
連絡帳を脇へ挟み、空いた手で教科書を拾った。
開いているページを閉じようとした時、水の音がした。
玲奈さんが、洗面台にリュックサックを置いていた。
開いた口の中へ、水が流れ込んでいた。
「やめて……!」
立ち上がって、そばへ行った。
玲奈さんは、私の顔を見てから手を離した。
「大きい声、出せるんだ」
持ち手をつかむと、重くなっていた。
手前へ引き出し、抱えていた物を離れた端へ置いた。
それから蛇口を閉めた。
底から落ちる水の音だけが残った。
中には、まだ教科書も、古い英語のノートも入っていた。
上から見える紙の端が、水を吸って濃くなっていた。
「乾けばいいでしょ」
莉奈さんが、筆箱を持ち上げた。
消しゴムが床へ落ちた。
拾うために目を下げた間に、筆箱も濡れたリュックサックへ戻された。
どれから取ればいいのか、分からなくなった。
乾いているノートへ水がつかないようにしたかった。
でも、中に残した本も、早く出さなければいけなかった。
「明日、隣になった人に変なこと言わないでね」
美咲さんが言った。
私は、その顔を見た。
目の前には、破られた紙も、書き込まれた教科書もある。
水の落ちる音も、まだしていた。
それを話すことの方が、悪いことになるのだろうか。
「聞いてる?」
「……うん……」
頷くと、3人は入口へ向かった。
廊下で玲奈さんが何か言い、莉奈さんが笑った。
もう、次の場所へ行く話をしていた。
私は、濡れた持ち手を握ったまま残った。
* * *
先に、床の消しゴムを拾った。
持っている物を全部見ていると、何もできなくなりそうだった。
拾った消しゴムを乾いた場所へ置き、次に筆箱を出した。
ハンカチで拭くと、布の色が濃くなった。
リュックサックの中へ手を入れ、ノートを取り出した。
表紙が、底の布へ張りついていた。
ゆっくり離して持ち上げると、端から水が落ちた。
夏休み前にも、濡らされた。
あの時、乾かしても紙が元には戻らなかったことを、私は知っていた。
ただ待てばいいわけではないと、知っているのが嫌だった。
ページを開きかけ、指を止めた。
濡れた紙が一緒に動いた。
ここで無理にめくったら、今度は自分で破ってしまいそうだった。
「……大丈夫?」
入口に、知らない女子が立っていた。
私の顔と、洗面台の脇に並んだ本を見ていた。
「それ、濡れちゃったの?」
「……うん……」
教科書の表紙が、少し開いていた。
私は手を置き、閉じた。
知らない人へ、あの字を見られたくなかった。
「先生、呼ぼうか?」
首を振った。
朝、髪を引かれたところが痛んだ。
「自分で……持って帰れるから……」
「でも、結構濡れてるよ」
「……大丈夫……」
大丈夫ではなかった。
1人では、どこから片づければいいかも分からなかった。
先生を呼んでくれたら、タオルや袋を借りられるかもしれない。
その代わり、何があったかを話さなければならなかった。
3人の名前を出したあと、明日ここへ来ることまで考えると、何も言えなかった。
女子は、しばらくそばにいた。
私が筆箱を拭き続けていると、小さく、そっか、と言った。
その子が出ていってから、入口を見た。
呼び止めるなら、まだ間に合うかもしれなかった。
ハンカチを持つ手に力が入るだけで、声は出なかった。
最後に、内側の仕切りから文庫本を取った。
紙のカバーの端が湿っていた。
そっと開くと、中のページはほとんど濡れていなかった。
よかったと思った。
何もよくないのに、その本だけはまだ貸せることが、嬉しかった。
水が落ちなくなるまで待ち、持ち物を戻した。
濡れた底へ触れないよう、文庫本はほかの本の上に載せた。
破れた紙は、新しい英語のノートへ挟んだままにした。
背負おうとして、やめた。
背中に当たる布まで、まだ湿っていた。
持ち手を握り、体から少し離して下げた。
教室から持ってきた時より、重かった。
学校へ来る時には、この重さまで持って帰るとは思っていなかった。
* * *
日傘を差して歩く間、何度も持ち手を握り直した。
片方の手には日傘、もう片方にはリュックサックがあった。
少しずつ指が痛くなり、信号を待つ時だけ下ろした。
持ち上げるたびに、中で本がずれるのが分かった。
前を歩いている女子たちが笑った。
美咲さんたちではないと分かっていても、追いつかないように歩いた。
早く家へ帰りたかった。
帰れば、髪を引かれることはない。
でも、お母さんにリュックサックを見られたら、何て言えばいいのだろう。
水をこぼしたと言うには、濡れすぎていた。
何も言わずに部屋へ入ったら、それも変に思われる。
帰り道に考えても、答えは見つからなかった。
玄関の前で日傘を閉じた。
重い方の手を持ち替え、ドアを開けた。
「ただいま」
「おかえり。……優子、それ、どうしたの?」
台所から出てきたお母さんが、足を止めた。
視線がリュックサックへ下りた。
「濡れちゃって……」
「中も濡れてる?」
「うん」
それ以上は言えなかった。
指に食い込んだ持ち手を、握り直した。
「ちょっと待ってね」
お母さんは奥へ行き、大きなタオルを持ってきた。
玄関へ広げ、ここに置こう、と言った。
下ろすと、腕が軽くなった。
お母さんの手が、ファスナーへ向かった。
「自分で、出すから……」
慌てて、その上へ手を置いた。
お母さんの手が止まった。
私も、そこから動かせなくなった。
「分かった。じゃあ、部屋までは持っていってもいい?」
お母さんの顔を見た。
「中は開けないよ。重かったでしょう」
「……うん。ありがとう」
持ち手から指を離した。
指の内側に、赤い線が残っていた。
お母さんはそれを見たけれど、何も言わずに持ち上げてくれた。
私は、もう1枚のタオルを受け取った。
敷く場所を空けるために、先に自分の部屋へ行った。
* * *
お母さんが部屋を出てから、机へ中身を並べた。
全部が同じように濡れたわけではなかった。
表紙の角だけ湿った本も、紙が重くなっているノートもあった。
筆箱を開いて鉛筆を出すと、消しゴムの横へ小さな水たまりができた。
文庫本のカバーを外した。
本体は、ほとんど無事だった。
乾かすために机の端へ置き、濡れた物から離した。
新しい英語のノートを開くと、切れ端が滑り落ちた。
拾い上げ、残っている紙へ合わせた。
端を揃えると、英文はつながった。
火曜日の夜に、時間をかけて写した字だった。
黒い書き込みの間から単語を探し、見えないところは教科書で確かめた。
もう、同じページを開くたびに嫌な字を見なくていいと思っていた。
2日しか、使っていなかった。
紙を押さえている間だけ、元のページのように見えた。
手を離すと、破れたところが浮いた。
私は、また指を置いた。
勝也くんは、今、何をしているのだろう。
部活で先輩たちと話しているかもしれない。
友達と笑いながら、明日の席のことを話しているかもしれなかった。
私は、何も変なことを頼みたかったわけではない。
好きな本の話をして、授業を受けて、帰ってきたら宿題をしたかった。
ほかの人がしていることと、そんなに違わないはずだった。
その前に、濡れた鉛筆を拭かなければならない。
破られたページを揃え、読めなくなった文を探さなければならない。
今日の宿題を始めるところまでが、遠かった。
制服を着たままだと思い出し、立ち上がった。
着替える時、髪が襟へ引っ掛かった。
朝、引かれたところが痛くて、手を止めた。
ゆっくり外せば、痛みは弱くなった。
誰かに引かれた時とは違い、自分では止められる。
それだけのことに、ほっとしてしまった。
着替えてから、鏡の前へ立った。
目も髪も、朝と同じだった。
どこかを変えれば何も言われなくなるのなら、変えたかった。
でも、眼鏡を外しても、前髪を直しても、莉奈さんの言ったことが全部なくなるわけではなかった。
鏡から離れ、机へ戻った。
書き込まれた教科書を開いた。
黒い線の間から、印刷された字を読もうとした。
少し顔を近づけても、消えた部分は見えなかった。
目に入るのは、美咲さんが書いた言葉の方だった。
私が知りたかったのは、授業で使う文章だったのに。
閉じた。
明日、必要な物だけを先に調べようと思った。
連絡帳を見ると、今日の国語の問題集は、最後の問題が残っていた。
そこは、まだ使えた。
教科書の角は湿っていたけれど、宿題で読むページは濡れていなかった。
鉛筆を拭いて、答えを書いた。
朝、思いついたのと、同じ言葉だった。
授業中に書けていれば、今はもう終わっていた問題だった。
書き終えると、涙が落ちた。
慌てて紙をずらした。
せっかく濡れていなかったところを、自分でも濡らしたくなかった。
机の上から顔を離し、目を押さえた。
今日は、自分から勝也くんに話しかけなかった。
美咲さんたちにも、言い返していなかった。
綾香さんに、何も話さなかった。
言われたとおりにしても、何もよくならなかった。
それなのに、逆のことをすればよかったと思えるほどの勇気もなかった。
怖かった。
明日も、同じ人たちのいる教室へ行くのが怖かった。
口へ手を当て、声が大きくならないようにした。
自分の部屋なのに、誰かが聞いているような気がした。
* * *
「優子、お茶、持ってきたよ」
ノックがして、顔を上げた。
教科書を重ね、破れた紙を連絡帳へ挟んだ。
濡れた物を隠すことはできなかったけれど、書かれた字は見えなくなった。
「入ってもいい?」
「うん。いいよ」
お母さんが、コップを持って入ってきた。
私の顔を見てから、机の空いているところを指した。
「ここ、置ける?」
「うん。ありがとう」
筆箱を寄せた。
コップが置かれる音が、いつもよりはっきり聞こえた。
「タオルは足りてる?」
「こっちの、もう濡れちゃった」
「じゃあ、替えを持ってくるね」
お母さんは、すぐに新しい物を持ってきてくれた。
本へは触れず、私が持ち上げるのを待って、下のタオルを替えてくれた。
「持って帰るの、大変だったね」
頷いた。
この濡れ方では、自分で水をこぼしたとは思っていないかもしれない。
お母さんは、私が教科書を急いで閉じたことにも、気づいていたかもしれなかった。
「学校で、何かあった?」
優しい声だった。
それでも、返事をする前に喉が詰まった。
「……私……」
そのあとが、出なかった。
名前を言えば、お母さんは学校へ連絡するだろう。
悪いことではなかった。助けてもらうためには、そうした方がいいのかもしれない。
でも、明日、教室の入口で美咲さんに待たれていたら。
膝の上で、手を重ねた。
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいよ」
お母さんは、そばの椅子へ座った。
「うまく話せなくても、怒らないからね」
顔を上げた。
お母さんは、次の質問をしなかった。
それがありがたくて、同時に、何も言えないことが申し訳なかった。
「リュック……明日までに、乾かなかったら……」
「別のがあると思うよ。使えるか見てくるね」
「うん」
頼めたのは、それだけだった。
どうして濡れたのかではなく、明日何を持っていくかの話だった。
お母さんは立ち上がる前に、私がコップを持つのを待った。
麦茶を飲むと、泣いて詰まっていた喉へ、少しずつ通っていった。
「夕飯の時、呼ぶね。その前でも、用があったら呼んで」
「……ありがとう」
ドアが閉まった。
廊下を歩く音が、台所の方へ遠ざかった。
部屋には来てほしかった。
そばにいてもらえると、少し楽になった。
でも、何があったかを聞かれるのは怖かった。
違うことを同時に思ってしまう自分が、嫌だった。
* * 美和視点 * *
棚から別のリュックサックを出し、中を確かめた。
ファスナーは動いた。
肩紐も、ほつれてはいなかった。
明日、使える物があってよかったと思ったあとで、あの子は明日も学校へ行くつもりなのだと思った。
玄関で持ったリュックサックは、中まで濡れていた。
今日は雨ではなかった。優子の制服も濡れていなかった。
どうしてあんな状態になったのか、説明は聞けていなかった。
部屋で見た顔には、泣いたあとがあった。
学校で何かあったかと聞くと、答える代わりに謝った。
夏休みが終わって疲れただけではない。
そう思うには、気になることが重なりすぎていた。
日傘の件も、まだ分かっていない。
学校には話したけれど、壊れた理由も、あの公園にあった理由も聞けていなかった。
今日のことと関係があるのかどうかさえ、今の私には分からなかった。
聞かなければ分からない。
けれど、問い詰めれば話せるという様子ではなかった。
今、優子が頼んでくれたのは、明日使う物だった。
まず、それにはちゃんと応えたかった。
部屋の前で、軽くノックした。
「別の、使えそうだよ。ここへ置いておくね」
「ありがとう」
中から返事があった。
「ご飯、もう少しでできるから」
「うん」
いつもの言葉には、返事ができる。
その声まで出なくなるほど、質問を続けたくはなかった。
台所へ戻り、小さな皿を出した。
今夜は、食べられる分を自分で取れるようにしようと思った。
学校でどう過ごしたかではなく、まずは、ここで少し休めるようにしたかった。
* * 優子視点 * *
夕飯のあと、部屋へ戻った。
お母さんは、食卓ではリュックサックのことを聞かなかった。
おかわりがいるかと聞かれ、少しだけもらった。
全部を食べられたわけではなかったけれど、机の前で泣いていた時より、胸の苦しさは弱くなっていた。
借りたリュックサックを、椅子へ置いた。
いつもと少し違う形だった。
筆箱や連絡帳を入れる場所を確かめ、明日使う物を揃えた。
紙は、まだ乾いていない物もあった。
今夜は机に広げたままにして、朝、もう1度確かめることにした。
破れたページも、書き込みのある古いノートも、捨てなかった。
必要なところが、まだ残っていた。
文庫本の紙のカバーは、端が丸まっていた。
中のページを確かめてから、新しい紙を出した。
机の乾いたところへ広げ、本に合わせて折った。
勝也くんが借りてくれるかは、分からなかった。
でも、もし言ってくれた時に、すぐ渡せるようにはしておきたかった。
カバーを掛け直した本を、別のリュックサックへ入れた。
こちらから、読んでと頼む勇気はなかった。
それでも、本棚へ戻す気にはなれなかった。
明日は、席が変わる。
美咲さんたちから離れたら、教科書を出す時、少しは手が震えなくなるだろうか。
誰かが隣にいて、何をされているのか気づいてくれたら。
そこまで考えてから、そんなに都合よくはいかないと思った。
それでも、明日も全部同じだと決めてしまうのは、つらかった。
連絡帳へ、本を持っていく印をつけた。
もう入れた物だったけれど、明日の朝に迷って出してしまわないようにしたかった。
明日、もしまた声をかけてくれたら。
邪魔じゃないよと、言いたかった。
本当は、ずっと話したかったんだよと。
リュックサックの口を閉じた。
伝えたい言葉は、なくなっていなかった。
今回の登場人物
・鵜飼勝也
優子への挨拶は続けるが、嫌がられているかもしれないと思い、長い会話を控える。本の話をしたい気持ちは残り、距離を取ることに寂しさを感じる。
・富田優子
髪を引かれ、ノートや教科書を傷つけられても、報復が怖くて事情を話せない。それでも勝也に貸したい本を整え、話せる機会を待つ。
・鶴見春樹
教室の入口で立ち止まる勝也に声をかける。席替えで後ろを希望する翔太には、椅子を傾けたいのではと問い返す。
・鳥居翔太
翌日の席替えで後ろの席になりたいと話す。春樹や真弓に言い返しながら、勝也とも普段どおりに会話する。
・加藤真弓
席替えの話に加わり、どの席でもちゃんと座るという翔太へ、それならどこでも大丈夫だと返す。
・井上綾香
優子に宿題の範囲を尋ね、帰りには途中まで一緒に歩く。短い返事も自然に受け止め、図書室や席替えの話をする。
・戸田美咲
トイレから出ようとする優子を引き止め、先生へ話さないよう迫る。放課後には教科書へ暴言を書き込み、翌日の席替え後も口外しないよう念を押す。
・富永莉奈
優子の髪をつかんで引き、心ない言葉を向ける。放課後には、優子が書き写し直した英語のノートを破る。
・杉浦玲奈
美咲たちと優子を責め、授業で答えを読めたことまでからかう。放課後にはリュックサックを開け、中へ水を流し込む。
・大島奈々
勝也とは普段どおりに話す一方、優子には会話が減った方が勝也も楽だと言う。本人へ確かめようとする気持ちを抑え込む。
・優子の母(富田美和)
濡れた荷物と泣いたあとの優子を見て、学校での異変を感じる。問い詰めず、タオルや代わりのリュックサックを用意して支える。
・国語の先生
声が小さくなった優子が答えを読み終えるまで待ち、内容が合っていると伝える。
・1年3組の担任
翌日の席替えに備え、机の中の物を持ち帰るようクラスへ伝える。
・放課後にトイレへ来た女子
濡れた持ち物を片づける優子に気づき、先生を呼ぼうかと声をかける。優子が断ったあとも、しばらくそばにいる。




