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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
17/52

第15話 見えないところ


    * * 勝也視点 * *


 教室へ入る前に、昨日の声を思い出した。


 邪魔してごめんね。


 言い方が、よくなかった。

 昨日、家へ帰ってからも考えていた。優子を責めたかったわけではないのに、あれでは、怒ったみたいに聞こえたかもしれなかった。


「勝也、そこ通るよ」


 後ろから春樹に言われ、ドアの前を空けた。


「あ、ごめん」

「リュック、引っ掛かる」


 肩紐を直して、俺も中へ入った。

 9月6日、木曜日。明日が終われば、また土日になる。

 机の上へ荷物を置くと、翔太が黒板を見ながら言った。


「明日の席替えさ、俺、今度こそ後ろがいい」

「何で?」

「後ろに誰もいないと、落ち着くだろ」

「椅子、傾けたいんじゃなくて?」


 春樹が聞いた。

 翔太は、少しだけ黙った。


「今、考えたでしょ」

「違うって。どの席でも、ちゃんと座るし」

「じゃあ、どこでも大丈夫だね」


 真弓が言うと、翔太は、そういう話じゃない、と言い返した。

 俺も笑って、リュックサックから教科書を出した。


 連絡帳の間には、優子にもらった紙が挟んであった。

 題名と作者の名前。それを見れば、読んでみたいと思った時のことは思い出せた。

 奈々から聞いた話を思い出すのは、そのあとだった。


 本を読んでいたいのに、話しかけてくるから鬱陶しい。


 昨日、優子へ声をかけた時には、本当にそうなのだと思った。

 けれど、こちらから挨拶までしなくなったら、それも違う気がした。

 話を長くしないことと、知らないふりをすることは、同じではなかった。


 教室の入口に、白い髪が見えた。


「富田、おはよう」


 いつもより少し離れたところから、声をかけた。

 優子が顔を上げた。


「……おはよう、勝也くん」


 名前まで返ってきて、ほっとした。

 昨日の最後の声で、怒らせたわけではなかったのかもしれない。


 優子は自分の席へ行き、荷物を下ろした。

 教科書を出したところで、もう1度、こちらを向いたように見えた。

 何か用だろうかと思った時には、また手元へ目を落としていた。


 俺も椅子を引いた。

 今朝は、これくらいでいいのだと思った。

 嫌がっているかもしれない相手へ、返事をしてくれたからと何度も近づくのは、やめた方がよかった。


 そう考えると、自分の席から優子のところまでが、昨日より遠く感じられた。


    * * 優子視点 * *


 今日も、挨拶してくれた。


 教科書を机へ入れながら、勝也くんの声を思い返した。

 昨日の夜、何度も気にしていたことだった。もう話しかけてもらえなくなったら、どうしようと思っていた。


 おはようと答えられた。

 勝也くんの名前も、呼べた。

 それだけで嬉しかったのに、勝也くんが自分の椅子へ座ると、少し寂しくなった。


 いつもなら、机のそばへ来てくれた。

 座っている私に合わせてしゃがみ、昨日の続きや、今日使う物の話をしてくれた。

 今日は、それがなかった。


 挨拶は、同じクラスだからしてくれたのだろうか。

 その先の話は、もうしたくないのだろうか。


 まだ朝なのに、そこまで考えてしまうのが嫌だった。

 昨日、私の方が、話を終わらせるようなことばかり言った。

 来てほしかったことは、伝えていない。

 何も言わないまま、勝也くんにだけ分かってほしいと思っていた。


 リュックサックから文庫本を出しかけた。

 紙のカバーに指を掛けて、止める。


 今、出したら、貸すのを待っているみたいだろうか。

 読まなくても大丈夫と言ったばかりなのに、また気を遣わせないだろうか。


 本を戻した。

 読みたくなったら、あとで出せばよかった。


「富田さん」


 美咲さんの声に、手が止まった。

 莉奈さんもそばにいた。


「今日も来たんだ」


 何を答えればいいのか分からなかった。

 学校へ来たことを、わざわざ聞かれたのだろうか。


「……うん」

「ふうん」


 美咲さんは、私の机の中を少し見てから離れた。

 何も取られなかった。

 それでも、取り出したばかりのノートへ手を置いたまま、しばらく動かせなかった。


     * * *


 最初の授業が終わったあと、トイレへ行った。


 次の時間に使う物は、先に机へ出してあった。

 すぐに戻れば、チャイムまでには座れる。

 廊下では、別のクラスの女子が、宿題を忘れた話をしながら走っていった。


 個室へ入って鍵を掛けると、外の声が少し遠くなった。

 ここでは、机の中を見られることもなかった。

 誰かの顔を見て、どう返事をするか考えなくてもよかった。


 手を洗う音が止まった。

 何人かが出ていく声を聞いてから、私は鍵を開けた。


 洗面台の前に、美咲さんがいた。

 壁際には莉奈さん。入口の方に、玲奈さんも立っていた。


「遅くない?」


 莉奈さんが言った。

 私は、開けたドアの横で止まった。


「……何か、用……?」

「普通に話しかけただけだけど」


 美咲さんが、私の顔を見た。

 その隣の蛇口へ手を伸ばすには、近くへ行くしかなかった。

 空いている洗面台の前へ立ち、水を出した。


「朝も、そんな顔してたよね」

「……そんな、顔……?」

「私たちが話しかけると、嫌そうにするじゃん」


 水に濡れた指が、動かなくなった。

 嫌だったのではなく、何を言われるのか怖かった。

 でも、怖いと答えれば、何が怖いのか聞かれると思った。


「……そういう、つもりじゃ……」

「じゃあ、ちゃんとこっち見れば?」


 蛇口を閉めた。

 顔を向けると、莉奈さんが、私の前髪を見た。


「それ、邪魔じゃないの」


 ハンカチを出そうとした時、手が伸びてきた。

 頬の横の髪をつかまれた。


「……っ」


 頭が横へ引かれ、足が半歩ずれた。

 根元が痛くて、反対側へ戻ろうとしたら、もっと痛かった。


「動かないでよ」

「痛い……離して……」


 莉奈さんの手へ、自分の手を重ねた。

 指をほどこうとしても、うまく力が入らなかった。


「ほら。顔、見えるじゃん」


 鏡の中で、私の眼鏡が傾いていた。

 美咲さんは、それを見て笑っていた。

 玲奈さんも、入口から近づいてきた。


「髪、隠したって白いの分かるけど」

「目も、何か怖いんだよね」


 莉奈さんに言われ、目を閉じた。

 髪をつかむ指が、もう1度動いた。


「……やめて」


 ようやく離された時には、洗面台へ手をついていた。

 顔を戻しても、引かれたところは痛かった。

 勝手に涙が浮かび、鏡を見られなくなった。


「大げさ」


 莉奈さんが言った。

 笑わないでほしかった。

 痛いと言えば、少しくらいは手を緩めてくれると思っていた。

 そんなことまで、期待しなければよかったのだろうか。


「その目で見られるの、嫌だって言ってるの」

「……見て、ない……」

「今、見たじゃん」


 また下を向いた。

 すると、美咲さんが息を吐いた。


「そういうところ。人が話してるのに、聞いてないみたいな顔して」


 顔を上げても、下げてもいけなかった。

 自分の目を、今ここで変えることはできない。

 髪を切っても、色が変わるわけではなかった。


 赤い眼鏡の端へ触れた。

 ずれたままだと、耳に当たるところが痛かった。


「それも目立つよね」


 莉奈さんに言われ、手を止めた。

 気に入っていた眼鏡だった。

 掛けているところを見て、勝也くんは笑わなかった。

 その顔を思い出しただけで、今、ここにいないことが苦しくなった。


「ちょっと、通っていい?」


 入口から別の女子の声がした。

 玲奈さんが体をずらすと、その子は空いている個室へ入った。


 誰かが来た。

 ドアが閉まる前に、私も外へ出ようと思った。


「……戻るね」


 美咲さんの横を通ろうとすると、肩を押さえられた。

 強く突き飛ばされたわけではなかった。それでも、足が止まった。


「まだ話してるけど」

「次……授業だから……」

「知ってるよ。同じクラスじゃん」


 玲奈さんが言った。

 個室の鍵が掛かる音がした。

 私は、閉じたドアを見た。


 助けてと言ったら、聞こえる距離だった。

 でも、美咲さんの手は、まだ肩にあった。

 あのドアが開く前に何をされるかと思うと、口が動かなかった。


「あとで、先生に変なこと言わないでね」


 美咲さんが言った。


「普通に喋ってただけなんだから」


 髪を引っ張られたところが、まだ痛かった。

 私には、普通に喋っていただけではなかった。

 違うと言うと、また顔を近づけられる気がした。


「返事は?」

「……うん……」


 肩から手が離れた。

 3人が、私より先に出ていった。


 私は鏡へ向き直り、眼鏡を直した。

 引かれた髪を戻すと、見た目は来た時とあまり変わらなかった。

 赤くなった目も、少し待てば戻るかもしれない。


 ハンカチで手を拭いた。

 洗ったあとに髪をつかむ手へ触れたことが気になり、もう1度洗った。

 それでも、痛かったところは変わらなかった。


     * * *


 国語の授業では、問題集の答えを読むように言われた。


 どこを読むかは分かっていた。

 自分で書いた答えだった。鉛筆を置き、問題集を持ち上げた。


「相手に……まだ、帰ってほしく……なかったから……」


 途中で声が小さくなった。

 先生は待っていてくれたので、最後まで読めた。


「うん。そうだね。そこが理由になってる」


 座ってから、少し息を吐いた。

 合っていた。

 さっきまでのことを考えて、問題も解けなくなったわけではなかった。


 先生が黒板へ、もう少し短い答え方を書いた。

 私も、自分の答えの下へ写した。

 字を追っている間は、髪のことを少し忘れていられた。


 授業が終わり、問題集を閉じた時だった。


「喋れるんじゃん」


 玲奈さんが、通りすがりに言った。

 こちらを見ず、そのまま莉奈さんのところへ行く。


 答えを読めたことまで、いけなかったのだろうか。

 声を出せと言われたから出しても、安心はできなかった。


 勝也くんの方を見た。

 翔太くんが机の横へ来て、何かを話していた。

 勝也くんも返事をしていた。


 誰かと話しているところへ行くのは、昨日までより怖かった。

 用事もないのに呼んだと思われたら、また困らせてしまう。

 髪を引かれたと話すのも、助けてと頼むことになる。


 私は、閉じた問題集を机の中へ入れた。

 先生がつけた宿題の印を、連絡帳へ写した。

 忘れないように書いている間も、勝也くんの笑い声が聞こえていた。


    * * 勝也視点 * *


 給食を食べ終えてから、読みかけの本を出した。


 昨夜は、思ったほど進まなかった。

 残りのページを指で挟むと、もう薄くなっていた。

 今日のうちには、読み終わりそうだった。


「それ、怖い話?」


 奈々が、表紙を見ながら聞いた。


「違うよ」

「表紙、暗くない?」

「夜の絵だからね」

「私、夏休みにテレビで怖いの見てさ。こういうの、全部そう見える」

「最後まで見たの?」

「途中でやめた」

「じゃあ、どうなったか分かんないじゃん」

「だから、ずっと怖いんだって」


 奈々が笑った。

 俺も、最後まで見た方が怖くなくなったかもしれないのに、と答えた。


 昨日、優子の話をした時とは違う、いつもの会話だった。

 もう1度、あの話を聞こうかと思った。

 本当に、俺と喋るのが嫌だと言っていたのか。


 でも、聞き直しても、奈々は昨日と同じことを答えるだろう。

 優子がいないところで、優子の気持ちを何度も聞くのも嫌だった。


 本を開く前に、廊下へ出た。

 手を洗って戻ろうとしたところで、教室から出てくる優子と重なった。

 手に、紙のカバーの本を持っていた。


「あ、富田。先いいよ」


 横へよけると、優子も足を止めた。


「……ありがとう」


 顔を上げてくれた。

 俺の方を見たまま、口が少し動いた。


「何かあった?」


 聞きかけて、昨日も同じことを聞いたと思った。

 優子は、持っている本へ目を落とした。


「……ううん。何でも、ない……」

「そっか」


 言葉を足さずに待った。

 優子が通り過ぎてから、俺も教室へ戻った。


 今日のうちに読み終わりそうだと、言えばよかっただろうか。

 でも、借りる話は気にしなくていいと言われていた。

 また同じことを聞いたら、昨日と同じ顔をさせるかもしれなかった。


 俺の方から近づかなければ、優子が困ることもない。

 朝、そう決めたはずだったのに、通り過ぎただけの廊下が寂しかった。


 席へ戻り、続きを読んだ。

 今度は、ページをめくれた。

 最後まで読めば、感想も話せる。読み終わったことは、嘘でも用事を作るためでもなかった。

 そう思うと、少しだけ気が楽になった。


    * * 優子視点 * *


 何でもないと答えてから、また同じことを言ってしまったと思った。


 昨日は邪魔ではなかった。

 話してくれたら、嬉しい。

 言いたかったのは、そのことだった。


 廊下の途中で、本を持ち直した。

 今から戻れば、まだ勝也くんは教室にいる。

 呼んで、さっきの続きを話せばよかった。


「富田さん、図書室?」


 奈々さんが、後ろから来た。

 振り向くと、こちらの本を見ていた。


「……うん……」

「最近、あんまり喋らなくなったね」


 誰と、と聞かなくても分かった。


「……勝也くんの、こと……?」

「うん。あれくらいの方が、鵜飼君も楽なんじゃない?」


 さっきの、通路を空けてくれた姿を思い出した。

 私が何でもないと答えたら、勝也くんも、それ以上は聞かなかった。


「私……別に、そんな……」

「私とは、普通に話してたでしょ」


 奈々さんは教室へ目を向けた。

 給食のあと、本の表紙を見て笑っていたことを、私も見ていた。


「富田さんと話さなくても、困ってないじゃん」


 困らせたかったわけではなかった。

 私がいなければ誰とも話せないでほしいと、思っていたわけでもなかった。

 ただ、私とも話したいと思っていてほしかった。


 そう答える前に、喉が詰まった。


「せっかく落ち着いたんだから、また変に聞いたりしない方がいいよ」


 奈々さんはそう言い、廊下の向こうから来た女子へ手を振った。

 そちらへ歩きながら、もう別の話を始めていた。


 私は、その場に残った。

 落ち着いてなんて、いなかった。

 私が声をかけられない間も、勝也くんの顔や、昨日の言い方を考えていた。


 でも、勝也くんには、見えないことだった。

 私にも、勝也くんが何を考えているかは見えなかった。

 奈々さんの言葉ばかりが、その間へ入ってくる。


 図書室へ向かった。

 本を読める場所へ行きたかった。

 もう、誰にも話しかけられたくなかった。

 そう思いながらも、勝也くんにだけは呼び止めてほしかった。


     * * *


 図書室には、空いている席があった。


 窓からの日差しが直接当たらないところへ座った。

 今日は当番ではない。受付に座っている生徒へ小さく頭を下げ、本を開いた。


 読んだことのあるページだった。

 登場人物が、このあと何を話すかも覚えていた。

 それでも、最初の行を読み直した。


 本の中なら、さっき言った言葉を確かめられる。

 聞き間違えたかもしれないと思えば、戻って読める。

 勝也くんの言葉も、そうやって確かめられたらよかった。


 無理しているわけではないと、昨日、言ってくれた。

 今朝は、おはようと言ってくれた。

 それなのに、嫌がられているかもしれないと考える方を、やめられなかった。


 隣の机で、女子が友達へ本を渡した。


「これ、読み終わったら貸して」

「いいよ。まだ半分くらいだけど」

「急がなくていいから」


 私は、ページへ目を戻した。

 火曜日には、私も同じような約束をした。

 あの時の嬉しさは、まだ覚えていた。


 貸したくなくなったわけではない。

 明日、借りたいと言われたら、渡せるようにしておきたかった。

 本のカバーの角を、指で伸ばした。


 時計を見ると、教室へ戻るまで、あと少しだった。

 誰よりも早く戻るのは嫌だった。美咲さんたちしかいなかったら、また何か言われる。

 遅くなって、教室の全員に見られながら入るのも怖かった。


 周りで椅子が引かれ始めたところで、栞を挟んだ。

 入口へ向かう人たちの少し後ろを歩いた。

 一緒に話しているわけではなかったけれど、廊下に私だけでいるより、少し安心できた。


     * * *


 午後の授業では、先生が机の間を歩いていた。


 分からない問題のところで手を上げた子に、説明をしていた。

 その子が頷くと、次の列へ移る。

 私も、机の端へ手を置いた。


 今なら、先生は近くに来てくれる。

 髪を引っ張られたことを話せば、聞いてくれるかもしれなかった。


 でも、私が美咲さんたちの名前を言ったあとも、授業は続く。

 次の休み時間も、帰りの会のあとも、同じ教室にいる。

 先生がいなくなってから、なぜ話したのかと聞かれたら。


 朝、肩を押さえられたところが気になった。

 机へ置いた手を、膝へ戻した。


「名前、書いておこうね」


 そばへ来た先生が、私のプリントを指した。


「……はい……」


 鉛筆を持ち、空欄へ自分の名前を書いた。

 先生は次の席へ進んだ。

 呼び止める言葉を考えるうちに、黒板の前へ戻っていった。


 プリントを見直した。

 名前は書けたのに、さっきの問題は、まだ途中だった。


     * * *


 帰りの会で、担任の先生が明日の席替えについて話した。


「机に入れたままの物は、今日のうちに持って帰るように。明日、動かす時に落とさないようにしなさい」


 後ろの方で、誰かが返事をした。

 前の席は嫌だという声や、誰の近くになるだろうという声も聞こえた。

 私は連絡帳に、席替えと書いた。


 今の場所から離れれば、少し変わるだろうか。

 美咲さんたちの方を見なくても、教室へ入れる席になるかもしれない。

 その反対に、もっと近くなることもあると思った。


 帰りの挨拶をしてから、机の中を空にした。

 普段は持ち帰らない物もあったので、リュックサックが重くなった。

 新しい英語のノートを入れ、その下へ古い方も重ねた。


「富田さん、国語の宿題って、最後の問題だけだったよね?」


 綾香さんが来た。

 私は、今しまった問題集を出した。


「……ここ。あと、終わってないところが……あれば……」

「ありがとう。最後のだけ、考えてこようと思ってたから」


 指したところを見て、綾香さんが頷いた。

 私も、そこだけ残っていた。

 答えが思いつかなかったのではなく、書く前にチャイムが鳴ってしまったのだった。


「もう帰る?」

「……うん……」

「私も部活に行くから、途中まで一緒に行こう」


 教室の後ろを見た。

 美咲さんと奈々さんが、机のそばで話していた。

 今なら、2人の近くで立ち止まらずに出られる。


「……ありがとう……」


 文庫本を、内側の小さな仕切りへ入れた。

 綾香さんは、私がファスナーを閉めるまで待っていてくれた。


 廊下へ出る時、勝也くんの席が見えた。

 もう荷物を持ち、翔太くんたちと教室の反対側のドアへ向かっていた。

 また明日と言うには、声を大きくしなければならなかった。

 私は、綾香さんの後ろを歩いた。


「お昼、図書室だった?」

「……うん。本、読んでた……」

「涼しかった?」

「……教室よりは……」

「そっか。私も行けばよかった。教室、午後になると暑いよね」


 頷いた。

 窓を開けても、教室の奥までは風が来ない時があった。

 綾香さんは、明日は風の来る席だといいな、と言った。


「富田さんは、どの辺がいい?」


 美咲さんたちから、遠いところ。

 そう思ったけれど、口には出せなかった。


「……まだ、分からない……」

「くじだもんね。考えてても違うところになるか」


 綾香さんが笑った。

 返事が短くても、怒られなかった。

 どんな顔をしていればいいのか考えずに、少しだけ横を向けた。


 階段のところで、綾香さんが止まった。


「じゃあ、また明日ね」

「……また、明日……」


 手を振ってくれたので、私も手を上げた。

 綾香さんは上へ向かい、私は下りた。

 靴音が遠ざかると、急に廊下が静かになった気がした。


 もう少し、一緒に歩いていたかった。

 その気持ちを言ったら、部活がある綾香さんを困らせるだろうと思った。


     * * *


 昇降口へ向かう途中で、名前を呼ばれた。


「富田さん。ちょっと」


 美咲さんと莉奈さんが、後ろから来ていた。

 私が廊下の端へ寄ると、美咲さんは、さっき下りてきた階段を見た。


「井上さん、部活?」

「……うん……」

「何、話してたの」

「宿題と……席の、話……」

「私たちのこと、何か言ってない?」


 首を振った。

 綾香さんには、何も話していなかった。

 話したくても、言葉にできなかった。


「……言って、ない……」

「じゃあ、こっち来て」


 美咲さんが、昇降口とは違う方を向いた。


「私、もう……帰るから……」


 莉奈さんに、肩紐を引かれた。

 足が止まり、体が後ろへ戻った。


「すぐ終わるって」


 手が離れても、歩き出せなかった。

 引かれたところを握り直し、美咲さんのあとへついていった。


 朝とは違う階の、女子トイレだった。

 入口に玲奈さんが立っていた。

 私たちを見ると、中へ入った。


 洗面台を見た途端、髪をつかまれた時の痛さを思い出した。

 入口のそばで止まると、莉奈さんに、入って、と言われた。


「何も言ってないなら、そんな顔しなくてよくない?」


 美咲さんが言った。


「……して、ない……」

「だから、今の顔だって」


 どんな顔になっているのか、自分では分からなかった。

 笑えばいいのだろうか。

 笑ったら、何がおかしいのかと聞かれる気がした。


 莉奈さんが、リュックサックの肩紐へ手を伸ばした。


「それ、下ろせば?」


 また引かれる前に、自分で外した。

 足元へ置こうとすると、玲奈さんが持ち手を取った。


「……返して……」


 ファスナーが開いた。

 筆箱と教科書が、洗面台の脇へ置かれた。

 ノートを引き出された拍子に、連絡帳が落ちかけたので、私は両手で受け止めた。


「ノート、また買ったんだ」


 莉奈さんが、新しい英語のノートを開いた。


「……それ、使うの……」

「知ってるよ。書いてあるし」


 火曜日の夜に写したページだった。

 下の方には、昨日の授業で書き足した文もある。

 何か秘密を書いて、隠していたわけではなかった。

 もう、書き込まれた字を見ずに勉強したかっただけだった。


「……返して……お願い……」


 手を伸ばした時、莉奈さんがページの端をつまんだ。

 紙が裂ける音がした。


「あ……」


 昨日書いた英文の途中を、白い破れ目が通った。

 ページの半分ほどが、莉奈さんの手に残った。


 どうして。

 使う物だと、言ったのに。


 ノートへ伸ばした手を、そのままにしていた。

 莉奈さんは切れ端を残ったページへ挟み、私へ差し出した。


「ほら。返したよ」


 受け取った。

 開いたままでは紙が落ちそうで、すぐに閉じた。


 美咲さんは、別の教科書を手に取っていた。

 私の筆箱から出した黒いペンを持っていた。


「これも、そんなに大事?」

「……授業で、使うから……」


 返事が終わる前に、ペンが紙へ下りた。

 印刷された文の上に、太い線が重なった。


「やめて……」


 手を出すと、教科書を遠ざけられた。

 ノートと連絡帳を抱えていたので、両手では取り返せなかった。


 美咲さんが書いた字が見えた。


 死ね。


 息を吸ったまま、止まった。

 書かれたのは紙の上なのに、自分の顔へ向かって言われたような気がした。

 その言葉の下にも、私が授業で読んだ文章があった。

 昨日までは、同じ先生の話を聞きながら開いていたページだった。


「……読めなく、なる……」

「じゃあ、読まなきゃいいじゃん」


 教科書が落とされた。

 角が床へ当たり、表紙が曲がったまま開いた。


 私は、しゃがんだ。

 連絡帳を脇へ挟み、空いた手で教科書を拾った。

 開いているページを閉じようとした時、水の音がした。


 玲奈さんが、洗面台にリュックサックを置いていた。

 開いた口の中へ、水が流れ込んでいた。


「やめて……!」


 立ち上がって、そばへ行った。

 玲奈さんは、私の顔を見てから手を離した。


「大きい声、出せるんだ」


 持ち手をつかむと、重くなっていた。

 手前へ引き出し、抱えていた物を離れた端へ置いた。

 それから蛇口を閉めた。


 底から落ちる水の音だけが残った。

 中には、まだ教科書も、古い英語のノートも入っていた。

 上から見える紙の端が、水を吸って濃くなっていた。


「乾けばいいでしょ」


 莉奈さんが、筆箱を持ち上げた。

 消しゴムが床へ落ちた。

 拾うために目を下げた間に、筆箱も濡れたリュックサックへ戻された。


 どれから取ればいいのか、分からなくなった。

 乾いているノートへ水がつかないようにしたかった。

 でも、中に残した本も、早く出さなければいけなかった。


「明日、隣になった人に変なこと言わないでね」


 美咲さんが言った。

 私は、その顔を見た。


 目の前には、破られた紙も、書き込まれた教科書もある。

 水の落ちる音も、まだしていた。

 それを話すことの方が、悪いことになるのだろうか。


「聞いてる?」

「……うん……」


 頷くと、3人は入口へ向かった。

 廊下で玲奈さんが何か言い、莉奈さんが笑った。

 もう、次の場所へ行く話をしていた。


 私は、濡れた持ち手を握ったまま残った。


     * * *


 先に、床の消しゴムを拾った。


 持っている物を全部見ていると、何もできなくなりそうだった。

 拾った消しゴムを乾いた場所へ置き、次に筆箱を出した。

 ハンカチで拭くと、布の色が濃くなった。


 リュックサックの中へ手を入れ、ノートを取り出した。

 表紙が、底の布へ張りついていた。

 ゆっくり離して持ち上げると、端から水が落ちた。


 夏休み前にも、濡らされた。

 あの時、乾かしても紙が元には戻らなかったことを、私は知っていた。

 ただ待てばいいわけではないと、知っているのが嫌だった。


 ページを開きかけ、指を止めた。

 濡れた紙が一緒に動いた。

 ここで無理にめくったら、今度は自分で破ってしまいそうだった。


「……大丈夫?」


 入口に、知らない女子が立っていた。

 私の顔と、洗面台の脇に並んだ本を見ていた。


「それ、濡れちゃったの?」

「……うん……」


 教科書の表紙が、少し開いていた。

 私は手を置き、閉じた。

 知らない人へ、あの字を見られたくなかった。


「先生、呼ぼうか?」


 首を振った。

 朝、髪を引かれたところが痛んだ。


「自分で……持って帰れるから……」

「でも、結構濡れてるよ」

「……大丈夫……」


 大丈夫ではなかった。

 1人では、どこから片づければいいかも分からなかった。

 先生を呼んでくれたら、タオルや袋を借りられるかもしれない。


 その代わり、何があったかを話さなければならなかった。

 3人の名前を出したあと、明日ここへ来ることまで考えると、何も言えなかった。


 女子は、しばらくそばにいた。

 私が筆箱を拭き続けていると、小さく、そっか、と言った。


 その子が出ていってから、入口を見た。

 呼び止めるなら、まだ間に合うかもしれなかった。

 ハンカチを持つ手に力が入るだけで、声は出なかった。


 最後に、内側の仕切りから文庫本を取った。

 紙のカバーの端が湿っていた。

 そっと開くと、中のページはほとんど濡れていなかった。


 よかったと思った。

 何もよくないのに、その本だけはまだ貸せることが、嬉しかった。


 水が落ちなくなるまで待ち、持ち物を戻した。

 濡れた底へ触れないよう、文庫本はほかの本の上に載せた。

 破れた紙は、新しい英語のノートへ挟んだままにした。


 背負おうとして、やめた。

 背中に当たる布まで、まだ湿っていた。

 持ち手を握り、体から少し離して下げた。


 教室から持ってきた時より、重かった。

 学校へ来る時には、この重さまで持って帰るとは思っていなかった。


     * * *


 日傘を差して歩く間、何度も持ち手を握り直した。


 片方の手には日傘、もう片方にはリュックサックがあった。

 少しずつ指が痛くなり、信号を待つ時だけ下ろした。

 持ち上げるたびに、中で本がずれるのが分かった。


 前を歩いている女子たちが笑った。

 美咲さんたちではないと分かっていても、追いつかないように歩いた。


 早く家へ帰りたかった。

 帰れば、髪を引かれることはない。

 でも、お母さんにリュックサックを見られたら、何て言えばいいのだろう。


 水をこぼしたと言うには、濡れすぎていた。

 何も言わずに部屋へ入ったら、それも変に思われる。

 帰り道に考えても、答えは見つからなかった。


 玄関の前で日傘を閉じた。

 重い方の手を持ち替え、ドアを開けた。


「ただいま」

「おかえり。……優子、それ、どうしたの?」


 台所から出てきたお母さんが、足を止めた。

 視線がリュックサックへ下りた。


「濡れちゃって……」

「中も濡れてる?」

「うん」


 それ以上は言えなかった。

 指に食い込んだ持ち手を、握り直した。


「ちょっと待ってね」


 お母さんは奥へ行き、大きなタオルを持ってきた。

 玄関へ広げ、ここに置こう、と言った。


 下ろすと、腕が軽くなった。

 お母さんの手が、ファスナーへ向かった。


「自分で、出すから……」


 慌てて、その上へ手を置いた。

 お母さんの手が止まった。

 私も、そこから動かせなくなった。


「分かった。じゃあ、部屋までは持っていってもいい?」


 お母さんの顔を見た。


「中は開けないよ。重かったでしょう」

「……うん。ありがとう」


 持ち手から指を離した。

 指の内側に、赤い線が残っていた。

 お母さんはそれを見たけれど、何も言わずに持ち上げてくれた。


 私は、もう1枚のタオルを受け取った。

 敷く場所を空けるために、先に自分の部屋へ行った。


     * * *


 お母さんが部屋を出てから、机へ中身を並べた。


 全部が同じように濡れたわけではなかった。

 表紙の角だけ湿った本も、紙が重くなっているノートもあった。

 筆箱を開いて鉛筆を出すと、消しゴムの横へ小さな水たまりができた。


 文庫本のカバーを外した。

 本体は、ほとんど無事だった。

 乾かすために机の端へ置き、濡れた物から離した。


 新しい英語のノートを開くと、切れ端が滑り落ちた。

 拾い上げ、残っている紙へ合わせた。

 端を揃えると、英文はつながった。


 火曜日の夜に、時間をかけて写した字だった。

 黒い書き込みの間から単語を探し、見えないところは教科書で確かめた。

 もう、同じページを開くたびに嫌な字を見なくていいと思っていた。


 2日しか、使っていなかった。


 紙を押さえている間だけ、元のページのように見えた。

 手を離すと、破れたところが浮いた。

 私は、また指を置いた。


 勝也くんは、今、何をしているのだろう。

 部活で先輩たちと話しているかもしれない。

 友達と笑いながら、明日の席のことを話しているかもしれなかった。


 私は、何も変なことを頼みたかったわけではない。

 好きな本の話をして、授業を受けて、帰ってきたら宿題をしたかった。

 ほかの人がしていることと、そんなに違わないはずだった。


 その前に、濡れた鉛筆を拭かなければならない。

 破られたページを揃え、読めなくなった文を探さなければならない。

 今日の宿題を始めるところまでが、遠かった。


 制服を着たままだと思い出し、立ち上がった。

 着替える時、髪が襟へ引っ掛かった。

 朝、引かれたところが痛くて、手を止めた。


 ゆっくり外せば、痛みは弱くなった。

 誰かに引かれた時とは違い、自分では止められる。

 それだけのことに、ほっとしてしまった。


 着替えてから、鏡の前へ立った。

 目も髪も、朝と同じだった。

 どこかを変えれば何も言われなくなるのなら、変えたかった。

 でも、眼鏡を外しても、前髪を直しても、莉奈さんの言ったことが全部なくなるわけではなかった。


 鏡から離れ、机へ戻った。


 書き込まれた教科書を開いた。

 黒い線の間から、印刷された字を読もうとした。

 少し顔を近づけても、消えた部分は見えなかった。


 目に入るのは、美咲さんが書いた言葉の方だった。

 私が知りたかったのは、授業で使う文章だったのに。


 閉じた。

 明日、必要な物だけを先に調べようと思った。

 連絡帳を見ると、今日の国語の問題集は、最後の問題が残っていた。


 そこは、まだ使えた。

 教科書の角は湿っていたけれど、宿題で読むページは濡れていなかった。

 鉛筆を拭いて、答えを書いた。


 朝、思いついたのと、同じ言葉だった。

 授業中に書けていれば、今はもう終わっていた問題だった。


 書き終えると、涙が落ちた。

 慌てて紙をずらした。

 せっかく濡れていなかったところを、自分でも濡らしたくなかった。


 机の上から顔を離し、目を押さえた。


 今日は、自分から勝也くんに話しかけなかった。

 美咲さんたちにも、言い返していなかった。

 綾香さんに、何も話さなかった。


 言われたとおりにしても、何もよくならなかった。

 それなのに、逆のことをすればよかったと思えるほどの勇気もなかった。


 怖かった。

 明日も、同じ人たちのいる教室へ行くのが怖かった。


 口へ手を当て、声が大きくならないようにした。

 自分の部屋なのに、誰かが聞いているような気がした。


     * * *


「優子、お茶、持ってきたよ」


 ノックがして、顔を上げた。

 教科書を重ね、破れた紙を連絡帳へ挟んだ。

 濡れた物を隠すことはできなかったけれど、書かれた字は見えなくなった。


「入ってもいい?」

「うん。いいよ」


 お母さんが、コップを持って入ってきた。

 私の顔を見てから、机の空いているところを指した。


「ここ、置ける?」

「うん。ありがとう」


 筆箱を寄せた。

 コップが置かれる音が、いつもよりはっきり聞こえた。


「タオルは足りてる?」

「こっちの、もう濡れちゃった」

「じゃあ、替えを持ってくるね」


 お母さんは、すぐに新しい物を持ってきてくれた。

 本へは触れず、私が持ち上げるのを待って、下のタオルを替えてくれた。


「持って帰るの、大変だったね」


 頷いた。

 この濡れ方では、自分で水をこぼしたとは思っていないかもしれない。

 お母さんは、私が教科書を急いで閉じたことにも、気づいていたかもしれなかった。


「学校で、何かあった?」


 優しい声だった。

 それでも、返事をする前に喉が詰まった。


「……私……」


 そのあとが、出なかった。

 名前を言えば、お母さんは学校へ連絡するだろう。

 悪いことではなかった。助けてもらうためには、そうした方がいいのかもしれない。

 でも、明日、教室の入口で美咲さんに待たれていたら。


 膝の上で、手を重ねた。


「ごめんなさい……」

「謝らなくていいよ」


 お母さんは、そばの椅子へ座った。


「うまく話せなくても、怒らないからね」


 顔を上げた。

 お母さんは、次の質問をしなかった。

 それがありがたくて、同時に、何も言えないことが申し訳なかった。


「リュック……明日までに、乾かなかったら……」

「別のがあると思うよ。使えるか見てくるね」

「うん」


 頼めたのは、それだけだった。

 どうして濡れたのかではなく、明日何を持っていくかの話だった。


 お母さんは立ち上がる前に、私がコップを持つのを待った。

 麦茶を飲むと、泣いて詰まっていた喉へ、少しずつ通っていった。


「夕飯の時、呼ぶね。その前でも、用があったら呼んで」

「……ありがとう」


 ドアが閉まった。

 廊下を歩く音が、台所の方へ遠ざかった。


 部屋には来てほしかった。

 そばにいてもらえると、少し楽になった。

 でも、何があったかを聞かれるのは怖かった。

 違うことを同時に思ってしまう自分が、嫌だった。


    * * 美和視点 * *


 棚から別のリュックサックを出し、中を確かめた。


 ファスナーは動いた。

 肩紐も、ほつれてはいなかった。

 明日、使える物があってよかったと思ったあとで、あの子は明日も学校へ行くつもりなのだと思った。


 玄関で持ったリュックサックは、中まで濡れていた。

 今日は雨ではなかった。優子の制服も濡れていなかった。

 どうしてあんな状態になったのか、説明は聞けていなかった。


 部屋で見た顔には、泣いたあとがあった。

 学校で何かあったかと聞くと、答える代わりに謝った。


 夏休みが終わって疲れただけではない。

 そう思うには、気になることが重なりすぎていた。


 日傘の件も、まだ分かっていない。

 学校には話したけれど、壊れた理由も、あの公園にあった理由も聞けていなかった。

 今日のことと関係があるのかどうかさえ、今の私には分からなかった。


 聞かなければ分からない。

 けれど、問い詰めれば話せるという様子ではなかった。


 今、優子が頼んでくれたのは、明日使う物だった。

 まず、それにはちゃんと応えたかった。


 部屋の前で、軽くノックした。


「別の、使えそうだよ。ここへ置いておくね」

「ありがとう」


 中から返事があった。


「ご飯、もう少しでできるから」

「うん」


 いつもの言葉には、返事ができる。

 その声まで出なくなるほど、質問を続けたくはなかった。


 台所へ戻り、小さな皿を出した。

 今夜は、食べられる分を自分で取れるようにしようと思った。

 学校でどう過ごしたかではなく、まずは、ここで少し休めるようにしたかった。


    * * 優子視点 * *


 夕飯のあと、部屋へ戻った。


 お母さんは、食卓ではリュックサックのことを聞かなかった。

 おかわりがいるかと聞かれ、少しだけもらった。

 全部を食べられたわけではなかったけれど、机の前で泣いていた時より、胸の苦しさは弱くなっていた。


 借りたリュックサックを、椅子へ置いた。

 いつもと少し違う形だった。

 筆箱や連絡帳を入れる場所を確かめ、明日使う物を揃えた。


 紙は、まだ乾いていない物もあった。

 今夜は机に広げたままにして、朝、もう1度確かめることにした。

 破れたページも、書き込みのある古いノートも、捨てなかった。

 必要なところが、まだ残っていた。


 文庫本の紙のカバーは、端が丸まっていた。

 中のページを確かめてから、新しい紙を出した。

 机の乾いたところへ広げ、本に合わせて折った。


 勝也くんが借りてくれるかは、分からなかった。

 でも、もし言ってくれた時に、すぐ渡せるようにはしておきたかった。


 カバーを掛け直した本を、別のリュックサックへ入れた。

 こちらから、読んでと頼む勇気はなかった。

 それでも、本棚へ戻す気にはなれなかった。


 明日は、席が変わる。


 美咲さんたちから離れたら、教科書を出す時、少しは手が震えなくなるだろうか。

 誰かが隣にいて、何をされているのか気づいてくれたら。

 そこまで考えてから、そんなに都合よくはいかないと思った。


 それでも、明日も全部同じだと決めてしまうのは、つらかった。


 連絡帳へ、本を持っていく印をつけた。

 もう入れた物だったけれど、明日の朝に迷って出してしまわないようにしたかった。


 明日、もしまた声をかけてくれたら。


 邪魔じゃないよと、言いたかった。

 本当は、ずっと話したかったんだよと。


 リュックサックの口を閉じた。

 伝えたい言葉は、なくなっていなかった。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

 優子への挨拶は続けるが、嫌がられているかもしれないと思い、長い会話を控える。本の話をしたい気持ちは残り、距離を取ることに寂しさを感じる。


・富田優子

 髪を引かれ、ノートや教科書を傷つけられても、報復が怖くて事情を話せない。それでも勝也に貸したい本を整え、話せる機会を待つ。


・鶴見春樹

 教室の入口で立ち止まる勝也に声をかける。席替えで後ろを希望する翔太には、椅子を傾けたいのではと問い返す。


・鳥居翔太

 翌日の席替えで後ろの席になりたいと話す。春樹や真弓に言い返しながら、勝也とも普段どおりに会話する。


・加藤真弓

 席替えの話に加わり、どの席でもちゃんと座るという翔太へ、それならどこでも大丈夫だと返す。


・井上綾香

 優子に宿題の範囲を尋ね、帰りには途中まで一緒に歩く。短い返事も自然に受け止め、図書室や席替えの話をする。


・戸田美咲

 トイレから出ようとする優子を引き止め、先生へ話さないよう迫る。放課後には教科書へ暴言を書き込み、翌日の席替え後も口外しないよう念を押す。


・富永莉奈

 優子の髪をつかんで引き、心ない言葉を向ける。放課後には、優子が書き写し直した英語のノートを破る。


・杉浦玲奈

 美咲たちと優子を責め、授業で答えを読めたことまでからかう。放課後にはリュックサックを開け、中へ水を流し込む。


・大島奈々

 勝也とは普段どおりに話す一方、優子には会話が減った方が勝也も楽だと言う。本人へ確かめようとする気持ちを抑え込む。


・優子の母(富田美和)

 濡れた荷物と泣いたあとの優子を見て、学校での異変を感じる。問い詰めず、タオルや代わりのリュックサックを用意して支える。


・国語の先生

 声が小さくなった優子が答えを読み終えるまで待ち、内容が合っていると伝える。


・1年3組の担任

 翌日の席替えに備え、机の中の物を持ち帰るようクラスへ伝える。


・放課後にトイレへ来た女子

 濡れた持ち物を片づける優子に気づき、先生を呼ぼうかと声をかける。優子が断ったあとも、しばらくそばにいる。

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