第14話 鵜飼君も
* * 勝也視点 * *
「で、お菓子、あった?」
教科書を机へ入れていると、翔太が聞いた。
昨日、部活へ行く前に聞かれていたことを思い出す。
「あったよ。芋けんぴ」
「やっぱりかよ」
「教えてって言ったの、翔太でしょ」
翔太は、そうだけど、と俺の前の椅子へ手を掛けた。
持ち主は、まだ来ていなかった。
9月4日、火曜日。
今日から授業も給食も、いつもの時間割に戻る。
昨日は軽くなったと思ったリュックサックも、教科書を入れれば、ちゃんと重くなっていた。
「2学期はさ、宿題、ためないようにしようぜ」
翔太が言った。
急に真面目な話になったので、顔を上げた。
「うん。それは俺も、そうしたい」
「また集まってやろう。春樹んちとかで」
「僕の予定も聞いてね」
隣から春樹の声がした。
翔太は、空いてる日、と言い足した。
「勝也もさ、俺が漫画読んでたら、宿題って言って」
「頼まれたら、できる時はやるけど」
「毎日」
「毎日は無理だって。俺にもやりたいことあるし」
「俺だって、あるから困ってんじゃん」
「じゃあ、俺の宿題は誰が言ってくれるの?」
「俺」
「2人とも忘れてたら終わりだね」
春樹に言われ、翔太と顔を見合わせた。
その横で、奈々が笑った。
自分の机へ筆箱を置きながら、俺たちの話を聞いていたらしかった。
「そんなに残ってたの? 夏休みの宿題」
「全部終わったよ」
「終わる前の話。今の聞いてたら、ちょっと心配になるけど」
奈々に言われ、翔太が春樹の方を見た。
俺も、同じ方を見てしまった。
「ああ。鶴見君に手伝ってもらったんだ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「今ので分かるでしょ」
奈々が笑った。
そこへ来た真弓が、だったら出た日にやれば、と言った。
「それを今、相談してる」
「相談しなくても、家帰ったら開けばいいんじゃない?」
「正しいことだけ言うの、やめてくれない?」
俺も笑って、筆箱を開いた。
今度は、まとめて残さないようにしたい。
けれど、毎日翔太へ声をかけるところまで引き受けたら、自分も忘れた日に何を言われるか分からなかった。
前の席の男子が来たので、翔太は椅子を戻した。
俺も教科書をしまい終え、優子の席へ向かった。
「富田、おはよう」
「……おはよう、勝也くん」
昨日より、少し早く顔が上がった。
机の横にしゃがむと、優子は連絡帳の間から、小さな紙を出した。
「昨日の、本……題名、書いてきたの」
「あ、ありがとう。俺も聞こうと思ってた」
紙を受け取った。
題名と、その下に作者の名前が書いてあった。字は小さかったけれど、揃っていて読みやすかった。
「これ、もらってもいい?」
「うん。そのために、書いたから……」
「そっか。じゃあ、なくさないように入れとく」
優子の口元が、少し緩んだ。
俺は、書かれた題名をもう1度見た。
「最初から見直すと面白いって言ってたやつだよね」
「うん。最初に話してたことが……あとになって分かるの」
「途中では、気づかなかった?」
「私は、分からなかった。だから、もう1回読んだ時に……」
そこで、優子は口を閉じた。
俺の方を見て、少し困ったように笑う。
「……言うと、分かっちゃうね」
「じゃあ、そこは読んでから聞く」
「読むの?」
「うん。今読んでるの、終わったら。続けて読めそうなら探してみようかな」
優子は、自分の手元へ目を落とした。
しばらくして、もう1度、俺を見る。
「……私の、貸せるよ」
「いいの?」
「うん。今日は、家にあるけど……」
「急がなくて大丈夫。まだ途中のがあるから、読み終わったら言ってもいい?」
「……うん」
嬉しかった。
貸してもらえることも、優子の方から言ってくれたことも。
読んだあとなら、俺からも話せることが増える。
「ありがとう。楽しみにしとく」
優子が頷いた。
昨日は聞けなかった題名が、今日は手の中にあった。
チャイムが鳴り、俺は立ち上がった。
自分の席へ戻ってから、紙を連絡帳へ挟む。明日の持ち物を書く時にも、ここなら目に入ると思った。
* * 優子視点 * *
紙を、受け取ってもらえた。
机の上には、開いた連絡帳だけが残っていた。
昨夜は、題名だけでも伝えられればいいと思っていた。
今日はその先の、貸す約束までできた。
楽しみにしとく。
そう言ってくれた声を思い出すと、少し嬉しくなった。
本を持ってこなくても、話せた。途中で言い方を考えて黙ってしまっても、勝也くんは待っていてくれた。
そのことを、忘れたくなかった。
数学の授業では、夏休み前の続きへ進んだ。
教科書の問題を解き、ノートへ式を書く。
間違えたところへ戻ると、符号が違っていた。直して、もう1度計算したら、答えが合った。
隣の子が、私のノートを指した。
「そこ、先生、何て言ってた?」
「……こっちの、符号を……変えるって……」
「ああ。ありがとう」
その子は書き足し、前を向いた。
私は、ノートを自分の方へ戻した。
途中で言葉が止まっても、分かるまで聞いてくれる人はいる。みんなが、美咲さんたちと同じわけではなかった。
休み時間になると、その美咲さんが、莉奈さんと一緒に近づいてきた。
「また、鵜飼君と喋ってたね」
手が止まった。
机へ置こうとしていた教科書を、そのまま持った。
「……本の、話……」
「昨日もしてなかった?」
「題名を……聞かれてたから……」
美咲さんは、私の机の上へ目を向けた。
朝の紙は、もうここにはない。
「ふうん」
それだけ言って、莉奈さんの方へ顔を戻した。
2人は別の話をしながら離れていった。
何も取られなかったので、教科書を机の中へ入れられた。
話したことを、また見られていた。
でも、今朝は、勝也くんが来てくれたのだった。
私が追いかけていって、無理に呼び止めたわけではない。
そう思うと、もう少しだけ、朝の嬉しさを残しておけた。
* * *
昼休みは、綾香さんと図書室の当番だった。
夏休みに借りた本を、まとめて返す人が多かった。
返却の確認が済んだ物を台車へ載せ、番号を見ながら棚へ戻す。
少し離れたところで、綾香さんが本を持ち上げた。
「富田さん、これ、この棚?」
「……その、隣だと思う……」
「あ、本当だ。ありがとう」
綾香さんは、空いたところへ本を差し込んだ。
私も、持っていた本を戻した。
ここでは、黙って手を動かしていても、何か言うように求められなかった。
「夏休み、結構読めた?」
「……うん。家に、いる時に……」
「いいな。私、読もうと思ったままの、まだあるんだ」
「……忙しかった?」
「部活もあったけど、帰ると違うことしてて。宿題と違って、誰も早く読んでって言わないから」
綾香さんが笑った。
私も、少しだけ笑えた。
本棚へ戻せていない本は、私の部屋にもあった。
「面白かったの、今度教えてね」
「……うん」
頷いて、次の本を取った。
好きな本について聞かれることは、本当は嬉しかった。
読んでくれたら、どこが好きだったか聞きたい。
今朝、勝也くんに思ったことと同じだった。
戻す分を運び終えると、先生に、今日はここまででいいと言われた。
綾香さんは、借りたい本を探している女子へ声をかけられた。
「富田さん、先に戻ってて。これだけ、一緒に探してくるから」
「……うん。お先に……」
「また教室でね」
図書室を出た。
廊下の窓から、校庭の声が聞こえた。
日の当たらない側を歩き、教室へ戻る。
勝也くんと翔太くんの席は、空いていた。
私も自分の席へ行き、午後の英語の教科書を出した。
その下に入れたはずのノートが、なかった。
机の中の物を取り出した。
数学のノートと、国語の教科書。連絡帳。その下にも、青い表紙は見えなかった。
リュックサックにも手を入れたけれど、なかった。
家に忘れたのではない。
今朝、ここへ入れた。
足元を見てから、教室の後ろへ顔を向けた。
美咲さんたちが話していた。
私の方を見ているのかは、分からなかった。
「富田さん、これ?」
クラスの男子が、ノートを持ってきた。
青い表紙の、名前のところが見えた。
「……うん。どこに、あった……?」
「後ろのロッカーの横。床に落ちてた」
「……ありがとう……」
受け取った。
その男子は、友達に呼ばれて教室を出ていった。
いつそこへ落ちたのかを、聞く前だった。
机へ置くと、角が折れていた。
伸ばそうとして、ページからはみ出している黒い線に気づいた。
表紙を開いた。
うざい。
もう来ないで。
夏休み前の、最後に使ったページだった。
私が写した英語の上へ、太い字が重なっていた。
次のページにも線が引かれていて、鉛筆で書いた物ではないと分かった。
昨日の感想文より、はっきり読めた。
国語のノートと、同じように消えない字だった。
閉じようとして、指が紙の間へ挟まった。
抜いてから閉じ直すと、表紙が机へ当たって音がした。
「見つかったんだ」
莉奈さんが、横から覗き込んだ。
美咲さんも、私の机の方へ来ていた。
「さっき、探してたよね。よかったじゃん」
ノートを手前へ引いた。
美咲さんの目が、それを追った。
「何か書いてあった?」
私は、顔を上げた。
中を見せていないのに、そう聞かれたことが怖かった。
「……書かないで、ほしい……」
「私が書いたって言った?」
すぐに返されて、何も言えなくなった。
書いていたところは、見ていない。
図書室へ行っている間の教室を、私は知らなかった。
「そうやって、すぐ人のせいにするよね」
莉奈さんが言った。
玲奈さんも近づいてきて、閉じたノートを見た。
「名前書いてあるなら、間違えたんじゃないんじゃない?」
間違えて書かれたとは思っていなかった。
だから、見つかっても安心できなかった。
廊下へ目を向けた。
先生はまだ来ていない。
勝也くんも、戻っていなかった。
「鵜飼君に言うつもり?」
美咲さんが言った。
何も言っていないのに、名前を出された。
「……そうじゃ……」
「何かあると、すぐあっち見てるもんね」
ノートを膝へ下ろした。
勝也くんに見てもらえたらと、思ったのは本当だった。
こんな字が増えたことを、誰にも言わないままにするのは、もう嫌だった。
「でも、鵜飼君も知ってるから」
美咲さんの言葉が、すぐには分からなかった。
「……何を……?」
「私たちが、富田さんに困ってるってこと」
答えたのは、奈々さんだった。
美咲さんの隣へ来て、こちらを見ていた。
「話しかけても、返事、ほとんど聞こえないし。ちょっと何か言うと、そんな顔するでしょ。そういうの、鵜飼にも話してるよ」
勝也くんの席のそばで笑っていた顔を思い出した。
昨日だけではなかった。
夏休みの前にも、2人で冗談を言い合っていた。
奈々さんは、私が知らない勝也くんの言葉を、たくさん聞いている人だった。
「……勝也くんが、何て……」
「頼まれたら、できる時はやるけど、って」
奈々さんは、少し肩を上げた。
「毎日は無理だって。俺にもやりたいことあるし、って言ってた」
膝の上のノートが、ずれた。
両手で押さえた。
「私……毎日、頼んだりは……」
「自分では、そういうつもりないんでしょ」
美咲さんが言った。
「でも、ずっと困った顔されてたら、ほっとけないじゃん。優しいから」
昨日は、その優しさを、いい人ぶっているだけだと言われた。
私は違うと答えた。
今日も、違うと言いたかった。
「……朝も、本のこと……聞いてくれたから……」
「合わせてくれたんじゃない?」
莉奈さんが言った。
「あんたが楽しそうにしてたら、もういいって言いにくいでしょ」
「でも……」
「鵜飼、あんたにだけ優しいわけじゃないし」
奈々さんの声だった。
私も、そのことは知っていた。
知っているから、そこだけは否定できなかった。
誰にでも優しい人が、私には嫌だと言えずにいたのだとしたら。
「目の前じゃ、言えないこともあるでしょ」
玲奈さんが、机の端へ指を置いた。
「そこでまた、どうしたのって聞いてもらうのも、面倒だと思うけど」
喉が、狭くなったようだった。
息を吸ってから、奈々さんを見た。
「……迷惑って、言ってたの……?」
そこだけは、聞かずにいられなかった。
「うん。正直、ちょっと迷惑だって」
奈々さんは、すぐに答えた。
そのあとで前髪へ触れ、耳の方へ寄せた。
忘れ物の場所を教える時のような、普通の声だった。
昨日、あんなに嬉しかった。
今日も、紙を用意してよかったと思った。
その間、勝也くんは、早く終わらないかと思っていたのだろうか。
「本人に聞かない方がいいよ」
美咲さんが言った。
「言ってないって言わせるだけじゃん。嫌だって言われるまで、何回も聞くの?」
私は、口を閉じた。
そんなつもりではなかった。
嫌だと思われているなら、困らせたくはなかった。
チャイムが鳴った。
廊下から人が戻ってきて、美咲さんたちは、それぞれの席へ離れていった。
勝也くんも、翔太くんと戻ってきた。
何かを話しながら笑っていた。
奈々さんに声をかけられると、そちらを向いて、また短く笑った。
その顔を見るのが、さっきまでとは違う意味で苦しかった。
私が知らなかった話を、奈々さんは知っていた。
そう思うと、今朝の声を思い出しても、簡単には安心できなくなっていた。
* * *
英語の授業では、黒い字のあるページを飛ばしてノートを開いた。
日付を書き、先生の書いた文を写す。
前のページを見直そうとして、手が止まった。
そこへ書いてあった文は、もう、そのままでは読めなかった。
教科書から探している間にも、授業は進んだ。
先生が次の文を読むように言い、周りの声が揃った。
私も、遅れて口を動かした。
勝也くんは、こちらを見なかった。
授業を受けているのだから、それが当たり前だった。
でも、さっき聞いた言葉のせいで、見ない理由まで考えてしまった。
話しかけられたら困るから、見ないようにしているのだろうか。
そうではないと思いたくて、朝のことを思い出した。
紙を受け取って、ありがとうと言ってくれた。
自分から、読み終わったら借りてもいいかと聞いてくれた。
奈々さんから聞いた話と、私が知っている勝也くんが、うまく重ならなかった。
帰りの会が終わると、綾香さんが来た。
図書委員の紙を職員室へ出しに行くので、途中まで一緒に行こうと誘ってくれた。
「……うん。ありがとう……」
ノートを教科書の間へ入れた。
勝也くんは、前の方で春樹くんと話していた。
こちらから呼べば、振り向いてくれるかもしれない。
でも、その顔が困っていたらと思うと、声を出せなかった。
階段の途中で、綾香さんが歩く速さを緩めた。
「富田さん、今日、疲れた?」
「……少し……」
「久しぶりに授業もあったもんね。私も、昨日より長く感じた」
頷いた。
ノートのことを言うなら、今でもよかった。
美咲さんたちも、奈々さんも、ここにはいなかった。
けれど、口を開くと、迷惑という言葉が先に浮かんだ。
勝也くんにもそう思われているのなら、綾香さんはどう思うのだろう。
図書室で笑ってくれたことまで、疑いたくなかった。
「帰ったら、ゆっくりしてね」
「……うん」
職員室の前で別れた。
最後まで、ノートはリュックサックから出せなかった。
* * *
家へ帰ると、お母さんが麦茶を出してくれた。
「おかえり。今日も暑かったね」
「うん。ただいま」
コップを受け取り、椅子へ座った。
冷たい物を飲めることが、少し嬉しかった。
「日傘の見つかった場所、学校へ伝えたよ」
コップから、顔を上げた。
「昨日、話したところ?」
「うん。優子の帰り道とは反対の方の公園だったって。前に話したことと一緒に、確認してもらうように言ったの」
「何か、分かった?」
「まだ、これからみたい。分かったことがあれば、連絡してくださるって」
お母さんは、私の顔を見た。
「学校で、何か聞いた?」
「ううん。日傘のことは、何も」
お母さんが頷いた。
私はコップへ目を落とした。
ノートも、別の場所から戻ってきた。
それを話せば、お母さんは、また学校へ連絡してくれるだろう。
でも、明日、先生に誰かが呼ばれたあとも、私は同じ教室で過ごさなければいけない。
私が書いたって言った、と美咲さんに聞かれた時の声を思い出した。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
お母さんは、何か分かったら教えてね、と答えた。
部屋で着替えてから、英語のノートを出した。
消しゴムで少しこすってみると、下に書いてあった私の英語の方が薄くなった。
黒い字は残っていた。
引き出しから、まだ使っていないノートを出した。
今日の授業で書いたところと、宿題で使う文を写す。
途中の見えない単語は、教科書から探した。
新しい方へ書けば、黒い字を見ずに勉強できる。
でも、写している間は、ずっと古いページを開いていなければいけなかった。
もう来ないで。
英語を1行写すたびに、その字まで目に入った。
ノートの端へ別の紙を置いて隠した。すると、写したい文も隠れてしまい、少しずつ位置を動かさなければならなかった。
こんなことをしていなければ、もう宿題を始められていた。
悔しくて、鉛筆を握る指へ力が入った。
全部を写すことはできなかった。
前に習ったところも必要になるので、古い方も捨てられなかった。
閉じて重ねると、学校へ持っていくノートが1冊増えた。
* * *
夜、明日の支度をしてから、本棚の前へ立った。
感想文に選んだ本は、昨日戻したところにあった。
勝也くんへ貸せると言ったのは、私だった。
頼まれていないのに、そう言ったから、断れなくなったのだろうか。
手を伸ばして、背表紙へ触れた。
でも、題名を聞いてくれたのは、勝也くんだった。
私の方へ歩いてきたのも、紙をもらっていいか聞いたのも。
それまで全部、嫌だったとは思えなかった。
借りたいと言ってくれた時に、持っていないと答えたくなかった。
読み直すつもりもあった本だった。
紙のカバーを掛け直し、リュックサックの手前へ入れた。
新しい英語のノートは、教科書と一緒にした。
古い方は、間違えて出さないように、別のところへ入れた。
今朝より、持っていく物は増えていた。
話したいことも、聞きたいこともあった。
けれど、明日、勝也くんの前で何を言えばいいかだけは、決められなかった。
* * 勝也視点 * *
翌朝、9月5日の水曜日も、優子は先に来ていた。
「富田、おはよう」
自分の席へ行く途中で声をかけると、顔を上げてくれた。
「……おはよう」
声が小さかった。
机の上には、教科書が何冊か重なっていた。まだ荷物を出している途中のようだったので、俺もリュックサックを下ろしに行った。
朝の会が始まるまで、昨日の宿題について翔太たちと話した。
俺は、家に帰ってから先に終わらせたと言った。
翔太は、部活から帰ってから、と言ったあと、少し黙った。
「終わった?」
「終わったよ。だから、そんな心配そうな顔すんなって」
「今、間があったから」
「先に漫画読んだなって思い出しただけ」
真弓が笑った。
俺も笑って、昨日借りる約束をした本の紙を、連絡帳の奥へ入れ直した。
* * *
最初の休み時間、奈々が俺の方へ椅子を向けた。
「鵜飼君、ちょっといい?」
「うん。何?」
教科書をしまう手を止めた。
奈々は教室の後ろを見てから、少し声を落とした。
「富田さんと、よく喋ってるよね」
「うん。本とかの話してるけど」
「それなんだけどさ」
奈々が、机の端へ手を置いた。
「本読んでたいのに話しかけてくるから鬱陶しい、って言ってたよ」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
奈々の顔を見たまま、持っていた教科書を机へ置いた。
「……富田が?」
「うん」
「俺のこと?」
「そう。だから、読んでる時は、そっとしといた方がいいんじゃない?」
優子の席を見た。
そこには、今、誰もいなかった。
「でも、昨日、本貸してくれるって話してたんだけど」
「聞かれたから、返事しただけじゃない?」
「富田の方から、貸せるって言ってくれたよ」
「だから、目の前で邪魔とは言えないんでしょ」
奈々は、困ったように少し首を傾けた。
「私も、仲いいと思ってたから、ちょっと意外だったけど」
胸の辺りが、嫌な感じになった。
優子がそんなことを言っているところを、想像できなかった。
昨日は、紙まで用意してくれていた。
貸せると言ってくれた時には、少し照れたように笑っていたと思う。
「何か、俺、長く話しすぎてたかな」
「さあ。私に言われても分かんないけど。あんまり、何回も話しかけない方がいいかもね」
俺は、返事をしなかった。
奈々は、机から手を離した。
「私から聞いたって、本人に言わないでよ。告げ口したみたいになるから」
「……うん」
前の方から呼ばれ、奈々が立ち上がった。
いつもの歩き方で、声をかけた女子のところへ行った。
俺は、置いた教科書へ手を戻した。
さっき、しまおうとしていた物だった。
鬱陶しい。
奈々の声で聞いた言葉を、優子の顔と合わせてみようとした。
うまくできなかった。
再会したばかりの頃は、俺ばかり喜んでいるのかと思ったこともあった。
でも、この前まで、ちゃんと話してくれていた。
好きな本のことになると、いつもより言葉が続いて、俺にも分かるように説明してくれた。
あれが全部、嫌なのに付き合ってくれていただけなのだろうか。
今、そう決めてしまうのは嫌だった。
奈々から聞いただけだった。言い方が違ったのかもしれないし、たまたま続きが気になるところで、俺が話しかけたのかもしれない。
またあとで、優子と話してみよう。
昨日の本の話なら、俺からも続きを話せる。
普段どおりに返してくれたら、それでいいと思った。
* * *
昼休み、優子は自分の席で本を開いていた。
紙のカバーが掛かっていた。
昨日は、家にあると言っていた本だろうか。
奈々の言葉を思い出して、すぐには立てなかった。
読んでいる時は、そっとしておいた方がいい。
それだけなら、俺も分かった。
けれど、あとでと言いながら何も聞かずに帰ったら、家でもずっと、あの言葉を考えていそうだった。
優子が、ページから顔を上げた。
目が合った。
少し迷ってから、そちらへ行った。
「富田。今、少しいい?」
椅子のそばへしゃがんだ。
優子が、開いたページへ指を置いた。
「……勝也くん」
「それ、昨日の本?」
「……うん」
「持ってきてたんだ。俺も昨日、少し読んだから、あとちょっとなんだけど」
優子は、こちらを見なかった。
表紙へ手を添え、紙のカバーの端を指で押さえていた。
「読み終わったら、借りてもいいかなと思って」
昨日したのと、同じ話だった。
優子は、すぐには頷かなかった。
「……無理して、読まなくても……大丈夫だから」
「え?」
「貸す話……気にしなくても、いいよ」
言おうとしていたことが、止まった。
そんなつもりで来たのではなかった。
「いや、無理してるわけじゃないよ」
「……うん」
返事のあとも、目は本へ向いたままだった。
ページへ置いた指が、少し動いた。
続きを読みたいのだろうかと思った。
「富田、何かあった?」
顔が上がった。
けれど、目が合うと、すぐに下を向いた。
「……何も、ないよ。大丈夫……」
あ……マジなんだ……。
そう思ってしまった。
昨日までと、違っていた。
返事が小さいだけではなかった。俺の言葉が終わるたびに、そこで話を終わらせたがっているように見えた。
嫌な顔をしてくれた方が、まだ分かりやすかったかもしれない。
でも、優子は怒りもせず、大丈夫と言っていた。
面と向かって邪魔とは言えない、という奈々の言葉が、今の様子とつながった。
しゃがんだまま、次に何を言えばいいのか分からなくなった。
来なければよかった。
それでも、確かめずにいることもできなかった。
「……そっか」
立ち上がった。
優子の手は、まだ本の上にあった。
「邪魔してごめんね……」
返事を待つのが怖くて、そのまま自分の席へ戻った。
背中を向けてから、声が少し小さくなりすぎたかもしれないと思った。
でも、聞こえたかどうかを確かめるために、もう1度戻ることはできなかった。
* * 優子視点 * *
勝也くんが、離れていった。
邪魔ではなかった。
来てくれて、嬉しかった。
さっき顔を上げたのも、勝也くんがどこにいるか、気になったからだった。
それなのに、本へ置いた手を動かせなかった。
読まなくても大丈夫。
気にしなくていい。
どうして、そんなことばかり言ってしまったのだろう。
好きな本を読んでくれたら、嬉しいに決まっていた。
でも、優しいから断れないのだと聞いたあとでは、貸すことまで負担にしていないか怖かった。
無理しているわけではないと、勝也くんは言ってくれた。
そこで、ありがとうと答えればよかった。
私は、また気を遣わせたのではないかと考えて、顔を見られなくなった。
「……勝也くん……」
呼んだ。
教室の話し声の中で、自分でも聞こえにくい声だった。
勝也くんは振り返らなかった。
もう1度、呼ぼうとした。
今度は、少し大きな声で。
「ほらね」
奈々さんが、そばに立っていた。
私は、そちらを見た。
「困ってたでしょ。無理に話させない方がいいよ」
奈々さんは、勝也くんの席へ目を向けた。
私も同じ方を見た。
勝也くんは、自分の机へ座っていた。こちらには、顔を向けていなかった。
最後の声を思い出した。
朝の挨拶より、小さかった。
いつもの、少し笑った声ではなかった。
怒らせてしまったのだろうか。
昨日聞いたことを、今日もまだ分からないままにして、とうとう嫌になってしまったのだろうか。
「……私、そんなつもりじゃ……」
「だったら、少し放っておいてあげたら?」
奈々さんはそう言って、自分の席へ戻った。
本を閉じた。
さっき勝也くんがいたところには、椅子の脚と床が見えた。
しゃがんでくれたから、目の高さは近かった。
顔を見ようと思えば、見られたのに。
行かないでほしかった。
そう思っていることだけでも、伝わればよかった。
私の言った言葉を思い返すと、どこにも、それが入っていなかった。
ページの間に指を入れ、さっき読んでいたところを開いた。
続きを読みたかったから、追い返したのではない。
自分だけでも、そう分かっていたかった。
でも、文字を見ても、何も入ってこなかった。
* * *
午後の授業では、何度も勝也くんの方を見そうになった。
目が合ったら、邪魔ではなかったと言えるだろうか。
そのことだけなら、短くても言えそうだった。
けれど、目が合っても逸らされたらと思うと、顔を上げられなかった。
先生に名前を呼ばれ、慌てて立った。
読むところを探していると、隣の子が、ここ、と教科書を指してくれた。
「……ありがとう……」
教えられたところを読んだ。
最後まで読み終えて、座った時には、手のひらが湿っていた。
何の授業を受けている時にも、同じことを考えてしまっていた。
帰りの会のあと、本をリュックサックへ入れた。
今日は、まだ貸していない。
貸す話を気にしなくていいと言ってしまったけれど、もう貸したくないという意味ではなかった。
教室の前では、勝也くんが翔太くんと話していた。
笑い声が聞こえた。
私のところから戻ったあとも、誰とも話せなくなったわけではない。
それは当たり前のことなのに、私だけがうまくできなかったのだと思うと、寂しかった。
立ち上がった時、こちらを向きかけた顔が見えた。
私はリュックサックへ目を落とした。
上がり切っていなかったファスナーを閉めた。
もう1度見た時には、勝也くんは翔太くんへ返事をしていた。
何も言わず、教室を出た。
階段を下りながら、昼休みに呼んだ声は届いていたのだろうかと考えた。
聞こえていなかったのなら、返事がなかったのも当たり前だった。
そう思う方へ、何度も戻ろうとした。
* * 勝也視点 * *
優子は、先に帰っていった。
顔が上がったら、またねと言おうと思っていた。
けれど、俺がそちらを見た時には、荷物の方を向いていた。
名前を呼ぶほどのことではないかと思って、やめた。
「勝也、聞いてた?」
翔太に言われ、顔を戻した。
「ごめん。何だっけ?」
「今度やる時は、先に宿題終わらせてこようって話」
「うん。それは、そうしよう」
「大丈夫? 今日も何か出たぞ」
春樹が、黒板を見た。
俺も見てから、連絡帳を持ち上げた。
「書いたよ。そこは大丈夫」
「じゃあ、忘れるのは帰ってからか」
「まだ忘れてないのに決めないでよ」
笑って返した。
そのあとで、もう1度、優子の席を見てしまった。
椅子は机の下へ入っていて、今度こそ、誰もいなかった。
* * *
家に帰り、宿題を出した。
開いた連絡帳から、紙が落ちた。
机の下へ落ちる前に押さえ、持ち上げた。
優子が、昨日くれた紙だった。
題名の下に、作者の名前がある。
書いているところは見ていないけれど、どこかで俺のために、これを書いてくれたのだった。
受け取った時には、それが嬉しかった。
今、見ても、嬉しくなくなったわけではなかった。
話しかけるのが、嫌なのだろうか。
読んでいる途中に行くのが、嫌なのだろうか。
それとも、俺が、何か気づかないことを言ったのだろうか。
分けて考えようとすると、分からなくなった。
昼休みには、奈々の言うとおりだったと思った。
でも、この紙まで見ていると、全部そうだったと決めるのも難しかった。
俺は、本の続きを話したかった。
優子が笑ってくれたら、また話せてよかったと思うつもりだった。
そのつもりで行ったから、返事を待つ短い間が、思ったより苦しかった。
邪魔してごめんね。
もっと普通に言えばよかった。
怒ったみたいに聞こえただろうか。
声を小さくしたのは、優子を困らせたかったからではなかった。
紙を連絡帳へ戻した。
捨てる理由は、何もなかった。
読んでみたいと思ったことも、変わっていなかった。
けれど、明日、また同じように近づく勇気は、今は出なかった。
少しくらい、黙っていた方がいいのかもしれない。
俺が話しかけなければ、優子も好きな本を読める。
そう考えてから、自分の本を開いた。
続きを読んでも、さっき考えていた優子の顔が浮かんだ。
昨日はすぐに進んだところで、今日は、何度も同じ行へ戻っていた。
* * 優子視点 * *
家へ帰って着替えたあと、机の前へ座った。
制服は、ハンガーへ掛けた。
本もノートも、リュックサックから出した。
学校で聞いた声だけは、置いて帰ることができなかった。
膝へ下ろした手に、青い編み目が見えた。
反対の手で、そっと触れた。
小さい頃、勝也くんと作ったミサンガだった。
公民館の机には、何色もの糸が置いてあった。
私は、青が多くなるように選んだ。
勝也くんの好きな色だったから。
その理由は、あの時も言わなかった。
編み始めると、途中で、次に動かす糸が分からなくなった。
説明されたとおりに持っているつもりでも、見本とは違う形になっていた。
隣で作っていた勝也くんが、私の手元を覗き込んだ。
自分の物と並べて、どこから違うのか、一緒に探してくれた。
ほどいてやり直している間も、隣にいた。
できあがったあと、お互いの手首へ結んだ。
片手では難しかったので、腕を差し出した。
青い糸を、勝也くんが結んでくれた。
ずっと、勝也くんと友達でいられますように。
心の中で、そう願った。
できた物を並べて見た時、勝也くんも笑っていた。
あの時は、間違えても、手伝ってもらっても、一緒にいていいと思えていた。
今の結び目へ、指を置いた。
昔とは違うのかもしれない。
離れていた間に、勝也くんにも、私の知らない毎日があった。
それでも、日傘がなくて困っていた私に、折り畳み傘を貸してくれたのは、今の勝也くんだった。
日差しのことも、肌のことも、覚えていてくれた。
今日も、何かあったかと聞いてくれた。
その時、本当のことを言えていたら。
邪魔ではないと、ちゃんと顔を見て答えていたら。
涙が出そうになって、俯いた。
まだ何も確かめていなかった。
勝也くんが迷惑だと言ったところを、私は聞いていない。
でも、確かめることまで迷惑になるのだと言われてから、何をしても、もう嫌われてしまいそうだった。
勝也くんのことが、好きだった。
声をかけられなくなっても、その気持ちはなくならなかった。
好きだから、嫌そうな顔をさせたくなかった。
好きだから、本当は、もっと話していたかった。
ミサンガを、手のひらで包んだ。
小さい頃の願いより、今は、欲しいものが増えていた。
また隣で笑いたかった。私と話すのも楽しいと、思ってもらいたかった。
その前の、友達でいることまで難しくなるのは、怖かった。
机の上の本を取った。
勝也くんは、無理をしているわけではないと言ってくれた。
その言葉も、今日、自分で聞いたはずだった。
明日も、本は持っていこうと思った。
こちらから貸す話をするかどうかは、決められなかった。
でも、もし借りたいと言ってくれたら、今度は、ちゃんと頷きたかった。
リュックサックへ本を入れた。
青い糸が、ファスナーへ触れた。
明日も、おはようって言ってくれるだろうか。
その返事だけは、ちゃんとできるように。
結び目へもう1度指を添え、声には出さず、そう願った。
今回の登場人物
・鵜飼勝也
優子から本の題名を書いた紙を受け取り、借りる約束をする。奈々の嘘と優子の遠慮が重なり、自分との会話を嫌がられているのかと悩む。
・富田優子
英語のノートへの落書きに加え、勝也が迷惑がっているという嘘に傷つく。負担をかけまいと遠慮した結果、本当は話したい気持ちが伝わらなくなる。
・鶴見春樹
宿題をためないための相談をする勝也と翔太に、冷静に言葉を返す。放課後には、勝也が宿題を忘れていないか気にかける。
・鳥居翔太
宿題を忘れないよう、勝也へ毎日声をかけてほしいと頼む。その時の会話が、本人の知らないところで奈々の嘘に利用される。
・加藤真弓
宿題をためない方法を相談する翔太たちに、出された日に取り組めばよいと返す。翌朝も仲間の会話に加わり、翔太の話に笑う。
・井上綾香
優子と図書当番をしながら、夏休みに読んだ本の話をする。放課後には一緒に歩き、疲れた様子の優子を気遣う。
・戸田美咲
勝也が優子への対応に困っているかのように話す。本人に確かめることまで迷惑になると思わせ、優子が相談するのをためらわせる。
・富永莉奈
落書きされたノートを見つけた優子に、人のせいにすると言って責める。勝也も仕方なく話を合わせているのだと、不安をあおる。
・杉浦玲奈
美咲たちに加わり、勝也が優子へ本音を言えずにいるかのように語る。心配してもらうことさえ負担になると思わせる。
・大島奈々
宿題についての勝也の返事を、優子への不満にすり替える。勝也にも優子が会話を嫌がっていると嘘をつき、2人のすれ違いを生む。
・優子の母(富田美和)
壊れた日傘が見つかった公園について学校へ伝え、優子に報告する。ノートの被害や、勝也をめぐる嘘については聞かされていない。
・英語のノートを拾った男子
教室後方のロッカー横に落ちていたノートを拾い、優子へ返す。優子は受け取ったあと、中の落書きに気づく。
・優子の隣の席の生徒
数学では優子に説明を尋ね、お礼を伝える。翌日の授業では、読む場所を見失った優子に教科書の箇所を示す。




