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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
16/52

第14話 鵜飼君も


    * * 勝也視点 * *


「で、お菓子、あった?」


 教科書を机へ入れていると、翔太が聞いた。

 昨日、部活へ行く前に聞かれていたことを思い出す。


「あったよ。芋けんぴ」

「やっぱりかよ」

「教えてって言ったの、翔太でしょ」


 翔太は、そうだけど、と俺の前の椅子へ手を掛けた。

 持ち主は、まだ来ていなかった。


 9月4日、火曜日。

 今日から授業も給食も、いつもの時間割に戻る。

 昨日は軽くなったと思ったリュックサックも、教科書を入れれば、ちゃんと重くなっていた。


「2学期はさ、宿題、ためないようにしようぜ」


 翔太が言った。

 急に真面目な話になったので、顔を上げた。


「うん。それは俺も、そうしたい」

「また集まってやろう。春樹んちとかで」

「僕の予定も聞いてね」


 隣から春樹の声がした。

 翔太は、空いてる日、と言い足した。


「勝也もさ、俺が漫画読んでたら、宿題って言って」

「頼まれたら、できる時はやるけど」

「毎日」

「毎日は無理だって。俺にもやりたいことあるし」

「俺だって、あるから困ってんじゃん」

「じゃあ、俺の宿題は誰が言ってくれるの?」

「俺」

「2人とも忘れてたら終わりだね」


 春樹に言われ、翔太と顔を見合わせた。

 その横で、奈々が笑った。

 自分の机へ筆箱を置きながら、俺たちの話を聞いていたらしかった。


「そんなに残ってたの? 夏休みの宿題」

「全部終わったよ」

「終わる前の話。今の聞いてたら、ちょっと心配になるけど」


 奈々に言われ、翔太が春樹の方を見た。

 俺も、同じ方を見てしまった。


「ああ。鶴見君に手伝ってもらったんだ」

「まだ何も言ってないじゃん」

「今ので分かるでしょ」


 奈々が笑った。

 そこへ来た真弓が、だったら出た日にやれば、と言った。


「それを今、相談してる」

「相談しなくても、家帰ったら開けばいいんじゃない?」

「正しいことだけ言うの、やめてくれない?」


 俺も笑って、筆箱を開いた。

 今度は、まとめて残さないようにしたい。

 けれど、毎日翔太へ声をかけるところまで引き受けたら、自分も忘れた日に何を言われるか分からなかった。


 前の席の男子が来たので、翔太は椅子を戻した。

 俺も教科書をしまい終え、優子の席へ向かった。


「富田、おはよう」

「……おはよう、勝也くん」


 昨日より、少し早く顔が上がった。

 机の横にしゃがむと、優子は連絡帳の間から、小さな紙を出した。


「昨日の、本……題名、書いてきたの」

「あ、ありがとう。俺も聞こうと思ってた」


 紙を受け取った。

 題名と、その下に作者の名前が書いてあった。字は小さかったけれど、揃っていて読みやすかった。


「これ、もらってもいい?」

「うん。そのために、書いたから……」

「そっか。じゃあ、なくさないように入れとく」


 優子の口元が、少し緩んだ。

 俺は、書かれた題名をもう1度見た。


「最初から見直すと面白いって言ってたやつだよね」

「うん。最初に話してたことが……あとになって分かるの」

「途中では、気づかなかった?」

「私は、分からなかった。だから、もう1回読んだ時に……」


 そこで、優子は口を閉じた。

 俺の方を見て、少し困ったように笑う。


「……言うと、分かっちゃうね」

「じゃあ、そこは読んでから聞く」

「読むの?」

「うん。今読んでるの、終わったら。続けて読めそうなら探してみようかな」


 優子は、自分の手元へ目を落とした。

 しばらくして、もう1度、俺を見る。


「……私の、貸せるよ」

「いいの?」

「うん。今日は、家にあるけど……」

「急がなくて大丈夫。まだ途中のがあるから、読み終わったら言ってもいい?」

「……うん」


 嬉しかった。

 貸してもらえることも、優子の方から言ってくれたことも。

 読んだあとなら、俺からも話せることが増える。


「ありがとう。楽しみにしとく」


 優子が頷いた。

 昨日は聞けなかった題名が、今日は手の中にあった。


 チャイムが鳴り、俺は立ち上がった。

 自分の席へ戻ってから、紙を連絡帳へ挟む。明日の持ち物を書く時にも、ここなら目に入ると思った。


    * * 優子視点 * *


 紙を、受け取ってもらえた。


 机の上には、開いた連絡帳だけが残っていた。

 昨夜は、題名だけでも伝えられればいいと思っていた。

 今日はその先の、貸す約束までできた。


 楽しみにしとく。


 そう言ってくれた声を思い出すと、少し嬉しくなった。

 本を持ってこなくても、話せた。途中で言い方を考えて黙ってしまっても、勝也くんは待っていてくれた。

 そのことを、忘れたくなかった。


 数学の授業では、夏休み前の続きへ進んだ。

 教科書の問題を解き、ノートへ式を書く。

 間違えたところへ戻ると、符号が違っていた。直して、もう1度計算したら、答えが合った。


 隣の子が、私のノートを指した。


「そこ、先生、何て言ってた?」

「……こっちの、符号を……変えるって……」

「ああ。ありがとう」


 その子は書き足し、前を向いた。

 私は、ノートを自分の方へ戻した。

 途中で言葉が止まっても、分かるまで聞いてくれる人はいる。みんなが、美咲さんたちと同じわけではなかった。


 休み時間になると、その美咲さんが、莉奈さんと一緒に近づいてきた。


「また、鵜飼君と喋ってたね」


 手が止まった。

 机へ置こうとしていた教科書を、そのまま持った。


「……本の、話……」

「昨日もしてなかった?」

「題名を……聞かれてたから……」


 美咲さんは、私の机の上へ目を向けた。

 朝の紙は、もうここにはない。


「ふうん」


 それだけ言って、莉奈さんの方へ顔を戻した。

 2人は別の話をしながら離れていった。

 何も取られなかったので、教科書を机の中へ入れられた。


 話したことを、また見られていた。

 でも、今朝は、勝也くんが来てくれたのだった。

 私が追いかけていって、無理に呼び止めたわけではない。

 そう思うと、もう少しだけ、朝の嬉しさを残しておけた。


     * * *


 昼休みは、綾香さんと図書室の当番だった。


 夏休みに借りた本を、まとめて返す人が多かった。

 返却の確認が済んだ物を台車へ載せ、番号を見ながら棚へ戻す。

 少し離れたところで、綾香さんが本を持ち上げた。


「富田さん、これ、この棚?」

「……その、隣だと思う……」

「あ、本当だ。ありがとう」


 綾香さんは、空いたところへ本を差し込んだ。

 私も、持っていた本を戻した。

 ここでは、黙って手を動かしていても、何か言うように求められなかった。


「夏休み、結構読めた?」

「……うん。家に、いる時に……」

「いいな。私、読もうと思ったままの、まだあるんだ」

「……忙しかった?」

「部活もあったけど、帰ると違うことしてて。宿題と違って、誰も早く読んでって言わないから」


 綾香さんが笑った。

 私も、少しだけ笑えた。

 本棚へ戻せていない本は、私の部屋にもあった。


「面白かったの、今度教えてね」

「……うん」


 頷いて、次の本を取った。

 好きな本について聞かれることは、本当は嬉しかった。

 読んでくれたら、どこが好きだったか聞きたい。

 今朝、勝也くんに思ったことと同じだった。


 戻す分を運び終えると、先生に、今日はここまででいいと言われた。

 綾香さんは、借りたい本を探している女子へ声をかけられた。


「富田さん、先に戻ってて。これだけ、一緒に探してくるから」

「……うん。お先に……」

「また教室でね」


 図書室を出た。

 廊下の窓から、校庭の声が聞こえた。

 日の当たらない側を歩き、教室へ戻る。


 勝也くんと翔太くんの席は、空いていた。

 私も自分の席へ行き、午後の英語の教科書を出した。


 その下に入れたはずのノートが、なかった。


 机の中の物を取り出した。

 数学のノートと、国語の教科書。連絡帳。その下にも、青い表紙は見えなかった。

 リュックサックにも手を入れたけれど、なかった。


 家に忘れたのではない。

 今朝、ここへ入れた。


 足元を見てから、教室の後ろへ顔を向けた。

 美咲さんたちが話していた。

 私の方を見ているのかは、分からなかった。


「富田さん、これ?」


 クラスの男子が、ノートを持ってきた。

 青い表紙の、名前のところが見えた。


「……うん。どこに、あった……?」

「後ろのロッカーの横。床に落ちてた」

「……ありがとう……」


 受け取った。

 その男子は、友達に呼ばれて教室を出ていった。

 いつそこへ落ちたのかを、聞く前だった。


 机へ置くと、角が折れていた。

 伸ばそうとして、ページからはみ出している黒い線に気づいた。


 表紙を開いた。


 うざい。

 もう来ないで。


 夏休み前の、最後に使ったページだった。

 私が写した英語の上へ、太い字が重なっていた。

 次のページにも線が引かれていて、鉛筆で書いた物ではないと分かった。


 昨日の感想文より、はっきり読めた。

 国語のノートと、同じように消えない字だった。


 閉じようとして、指が紙の間へ挟まった。

 抜いてから閉じ直すと、表紙が机へ当たって音がした。


「見つかったんだ」


 莉奈さんが、横から覗き込んだ。

 美咲さんも、私の机の方へ来ていた。


「さっき、探してたよね。よかったじゃん」


 ノートを手前へ引いた。

 美咲さんの目が、それを追った。


「何か書いてあった?」


 私は、顔を上げた。

 中を見せていないのに、そう聞かれたことが怖かった。


「……書かないで、ほしい……」

「私が書いたって言った?」


 すぐに返されて、何も言えなくなった。

 書いていたところは、見ていない。

 図書室へ行っている間の教室を、私は知らなかった。


「そうやって、すぐ人のせいにするよね」


 莉奈さんが言った。

 玲奈さんも近づいてきて、閉じたノートを見た。


「名前書いてあるなら、間違えたんじゃないんじゃない?」


 間違えて書かれたとは思っていなかった。

 だから、見つかっても安心できなかった。


 廊下へ目を向けた。

 先生はまだ来ていない。

 勝也くんも、戻っていなかった。


「鵜飼君に言うつもり?」


 美咲さんが言った。

 何も言っていないのに、名前を出された。


「……そうじゃ……」

「何かあると、すぐあっち見てるもんね」


 ノートを膝へ下ろした。

 勝也くんに見てもらえたらと、思ったのは本当だった。

 こんな字が増えたことを、誰にも言わないままにするのは、もう嫌だった。


「でも、鵜飼君も知ってるから」


 美咲さんの言葉が、すぐには分からなかった。


「……何を……?」

「私たちが、富田さんに困ってるってこと」


 答えたのは、奈々さんだった。

 美咲さんの隣へ来て、こちらを見ていた。


「話しかけても、返事、ほとんど聞こえないし。ちょっと何か言うと、そんな顔するでしょ。そういうの、鵜飼にも話してるよ」


 勝也くんの席のそばで笑っていた顔を思い出した。

 昨日だけではなかった。

 夏休みの前にも、2人で冗談を言い合っていた。

 奈々さんは、私が知らない勝也くんの言葉を、たくさん聞いている人だった。


「……勝也くんが、何て……」

「頼まれたら、できる時はやるけど、って」


 奈々さんは、少し肩を上げた。


「毎日は無理だって。俺にもやりたいことあるし、って言ってた」


 膝の上のノートが、ずれた。

 両手で押さえた。


「私……毎日、頼んだりは……」

「自分では、そういうつもりないんでしょ」


 美咲さんが言った。


「でも、ずっと困った顔されてたら、ほっとけないじゃん。優しいから」


 昨日は、その優しさを、いい人ぶっているだけだと言われた。

 私は違うと答えた。

 今日も、違うと言いたかった。


「……朝も、本のこと……聞いてくれたから……」

「合わせてくれたんじゃない?」


 莉奈さんが言った。


「あんたが楽しそうにしてたら、もういいって言いにくいでしょ」

「でも……」

「鵜飼、あんたにだけ優しいわけじゃないし」


 奈々さんの声だった。

 私も、そのことは知っていた。

 知っているから、そこだけは否定できなかった。

 誰にでも優しい人が、私には嫌だと言えずにいたのだとしたら。


「目の前じゃ、言えないこともあるでしょ」


 玲奈さんが、机の端へ指を置いた。


「そこでまた、どうしたのって聞いてもらうのも、面倒だと思うけど」


 喉が、狭くなったようだった。

 息を吸ってから、奈々さんを見た。


「……迷惑って、言ってたの……?」


 そこだけは、聞かずにいられなかった。


「うん。正直、ちょっと迷惑だって」


 奈々さんは、すぐに答えた。

 そのあとで前髪へ触れ、耳の方へ寄せた。

 忘れ物の場所を教える時のような、普通の声だった。


 昨日、あんなに嬉しかった。

 今日も、紙を用意してよかったと思った。

 その間、勝也くんは、早く終わらないかと思っていたのだろうか。


「本人に聞かない方がいいよ」


 美咲さんが言った。


「言ってないって言わせるだけじゃん。嫌だって言われるまで、何回も聞くの?」


 私は、口を閉じた。

 そんなつもりではなかった。

 嫌だと思われているなら、困らせたくはなかった。


 チャイムが鳴った。

 廊下から人が戻ってきて、美咲さんたちは、それぞれの席へ離れていった。


 勝也くんも、翔太くんと戻ってきた。

 何かを話しながら笑っていた。

 奈々さんに声をかけられると、そちらを向いて、また短く笑った。


 その顔を見るのが、さっきまでとは違う意味で苦しかった。


 私が知らなかった話を、奈々さんは知っていた。

 そう思うと、今朝の声を思い出しても、簡単には安心できなくなっていた。


     * * *


 英語の授業では、黒い字のあるページを飛ばしてノートを開いた。


 日付を書き、先生の書いた文を写す。

 前のページを見直そうとして、手が止まった。

 そこへ書いてあった文は、もう、そのままでは読めなかった。


 教科書から探している間にも、授業は進んだ。

 先生が次の文を読むように言い、周りの声が揃った。

 私も、遅れて口を動かした。


 勝也くんは、こちらを見なかった。

 授業を受けているのだから、それが当たり前だった。

 でも、さっき聞いた言葉のせいで、見ない理由まで考えてしまった。


 話しかけられたら困るから、見ないようにしているのだろうか。


 そうではないと思いたくて、朝のことを思い出した。

 紙を受け取って、ありがとうと言ってくれた。

 自分から、読み終わったら借りてもいいかと聞いてくれた。


 奈々さんから聞いた話と、私が知っている勝也くんが、うまく重ならなかった。


 帰りの会が終わると、綾香さんが来た。

 図書委員の紙を職員室へ出しに行くので、途中まで一緒に行こうと誘ってくれた。


「……うん。ありがとう……」


 ノートを教科書の間へ入れた。

 勝也くんは、前の方で春樹くんと話していた。

 こちらから呼べば、振り向いてくれるかもしれない。

 でも、その顔が困っていたらと思うと、声を出せなかった。


 階段の途中で、綾香さんが歩く速さを緩めた。


「富田さん、今日、疲れた?」

「……少し……」

「久しぶりに授業もあったもんね。私も、昨日より長く感じた」


 頷いた。

 ノートのことを言うなら、今でもよかった。

 美咲さんたちも、奈々さんも、ここにはいなかった。


 けれど、口を開くと、迷惑という言葉が先に浮かんだ。

 勝也くんにもそう思われているのなら、綾香さんはどう思うのだろう。

 図書室で笑ってくれたことまで、疑いたくなかった。


「帰ったら、ゆっくりしてね」

「……うん」


 職員室の前で別れた。

 最後まで、ノートはリュックサックから出せなかった。


     * * *


 家へ帰ると、お母さんが麦茶を出してくれた。


「おかえり。今日も暑かったね」

「うん。ただいま」


 コップを受け取り、椅子へ座った。

 冷たい物を飲めることが、少し嬉しかった。


「日傘の見つかった場所、学校へ伝えたよ」


 コップから、顔を上げた。


「昨日、話したところ?」

「うん。優子の帰り道とは反対の方の公園だったって。前に話したことと一緒に、確認してもらうように言ったの」

「何か、分かった?」

「まだ、これからみたい。分かったことがあれば、連絡してくださるって」


 お母さんは、私の顔を見た。


「学校で、何か聞いた?」

「ううん。日傘のことは、何も」


 お母さんが頷いた。

 私はコップへ目を落とした。


 ノートも、別の場所から戻ってきた。

 それを話せば、お母さんは、また学校へ連絡してくれるだろう。

 でも、明日、先生に誰かが呼ばれたあとも、私は同じ教室で過ごさなければいけない。

 私が書いたって言った、と美咲さんに聞かれた時の声を思い出した。


「……ありがとう」


 それしか言えなかった。

 お母さんは、何か分かったら教えてね、と答えた。


 部屋で着替えてから、英語のノートを出した。

 消しゴムで少しこすってみると、下に書いてあった私の英語の方が薄くなった。

 黒い字は残っていた。


 引き出しから、まだ使っていないノートを出した。

 今日の授業で書いたところと、宿題で使う文を写す。

 途中の見えない単語は、教科書から探した。


 新しい方へ書けば、黒い字を見ずに勉強できる。

 でも、写している間は、ずっと古いページを開いていなければいけなかった。


 もう来ないで。


 英語を1行写すたびに、その字まで目に入った。

 ノートの端へ別の紙を置いて隠した。すると、写したい文も隠れてしまい、少しずつ位置を動かさなければならなかった。


 こんなことをしていなければ、もう宿題を始められていた。

 悔しくて、鉛筆を握る指へ力が入った。


 全部を写すことはできなかった。

 前に習ったところも必要になるので、古い方も捨てられなかった。

 閉じて重ねると、学校へ持っていくノートが1冊増えた。


     * * *


 夜、明日の支度をしてから、本棚の前へ立った。


 感想文に選んだ本は、昨日戻したところにあった。

 勝也くんへ貸せると言ったのは、私だった。

 頼まれていないのに、そう言ったから、断れなくなったのだろうか。


 手を伸ばして、背表紙へ触れた。


 でも、題名を聞いてくれたのは、勝也くんだった。

 私の方へ歩いてきたのも、紙をもらっていいか聞いたのも。

 それまで全部、嫌だったとは思えなかった。


 借りたいと言ってくれた時に、持っていないと答えたくなかった。

 読み直すつもりもあった本だった。

 紙のカバーを掛け直し、リュックサックの手前へ入れた。


 新しい英語のノートは、教科書と一緒にした。

 古い方は、間違えて出さないように、別のところへ入れた。


 今朝より、持っていく物は増えていた。

 話したいことも、聞きたいこともあった。

 けれど、明日、勝也くんの前で何を言えばいいかだけは、決められなかった。


    * * 勝也視点 * *


 翌朝、9月5日の水曜日も、優子は先に来ていた。


「富田、おはよう」


 自分の席へ行く途中で声をかけると、顔を上げてくれた。


「……おはよう」


 声が小さかった。

 机の上には、教科書が何冊か重なっていた。まだ荷物を出している途中のようだったので、俺もリュックサックを下ろしに行った。


 朝の会が始まるまで、昨日の宿題について翔太たちと話した。

 俺は、家に帰ってから先に終わらせたと言った。

 翔太は、部活から帰ってから、と言ったあと、少し黙った。


「終わった?」

「終わったよ。だから、そんな心配そうな顔すんなって」

「今、間があったから」

「先に漫画読んだなって思い出しただけ」


 真弓が笑った。

 俺も笑って、昨日借りる約束をした本の紙を、連絡帳の奥へ入れ直した。


     * * *


 最初の休み時間、奈々が俺の方へ椅子を向けた。


「鵜飼君、ちょっといい?」

「うん。何?」


 教科書をしまう手を止めた。

 奈々は教室の後ろを見てから、少し声を落とした。


「富田さんと、よく喋ってるよね」

「うん。本とかの話してるけど」

「それなんだけどさ」


 奈々が、机の端へ手を置いた。


「本読んでたいのに話しかけてくるから鬱陶しい、って言ってたよ」


 何を言われたのか、すぐには分からなかった。

 奈々の顔を見たまま、持っていた教科書を机へ置いた。


「……富田が?」

「うん」

「俺のこと?」

「そう。だから、読んでる時は、そっとしといた方がいいんじゃない?」


 優子の席を見た。

 そこには、今、誰もいなかった。


「でも、昨日、本貸してくれるって話してたんだけど」

「聞かれたから、返事しただけじゃない?」

「富田の方から、貸せるって言ってくれたよ」

「だから、目の前で邪魔とは言えないんでしょ」


 奈々は、困ったように少し首を傾けた。


「私も、仲いいと思ってたから、ちょっと意外だったけど」


 胸の辺りが、嫌な感じになった。

 優子がそんなことを言っているところを、想像できなかった。

 昨日は、紙まで用意してくれていた。

 貸せると言ってくれた時には、少し照れたように笑っていたと思う。


「何か、俺、長く話しすぎてたかな」

「さあ。私に言われても分かんないけど。あんまり、何回も話しかけない方がいいかもね」


 俺は、返事をしなかった。

 奈々は、机から手を離した。


「私から聞いたって、本人に言わないでよ。告げ口したみたいになるから」

「……うん」


 前の方から呼ばれ、奈々が立ち上がった。

 いつもの歩き方で、声をかけた女子のところへ行った。


 俺は、置いた教科書へ手を戻した。

 さっき、しまおうとしていた物だった。


 鬱陶しい。


 奈々の声で聞いた言葉を、優子の顔と合わせてみようとした。

 うまくできなかった。

 再会したばかりの頃は、俺ばかり喜んでいるのかと思ったこともあった。

 でも、この前まで、ちゃんと話してくれていた。

 好きな本のことになると、いつもより言葉が続いて、俺にも分かるように説明してくれた。


 あれが全部、嫌なのに付き合ってくれていただけなのだろうか。


 今、そう決めてしまうのは嫌だった。

 奈々から聞いただけだった。言い方が違ったのかもしれないし、たまたま続きが気になるところで、俺が話しかけたのかもしれない。


 またあとで、優子と話してみよう。


 昨日の本の話なら、俺からも続きを話せる。

 普段どおりに返してくれたら、それでいいと思った。


     * * *


 昼休み、優子は自分の席で本を開いていた。


 紙のカバーが掛かっていた。

 昨日は、家にあると言っていた本だろうか。


 奈々の言葉を思い出して、すぐには立てなかった。

 読んでいる時は、そっとしておいた方がいい。

 それだけなら、俺も分かった。


 けれど、あとでと言いながら何も聞かずに帰ったら、家でもずっと、あの言葉を考えていそうだった。


 優子が、ページから顔を上げた。

 目が合った。

 少し迷ってから、そちらへ行った。


「富田。今、少しいい?」


 椅子のそばへしゃがんだ。

 優子が、開いたページへ指を置いた。


「……勝也くん」

「それ、昨日の本?」

「……うん」

「持ってきてたんだ。俺も昨日、少し読んだから、あとちょっとなんだけど」


 優子は、こちらを見なかった。

 表紙へ手を添え、紙のカバーの端を指で押さえていた。


「読み終わったら、借りてもいいかなと思って」


 昨日したのと、同じ話だった。

 優子は、すぐには頷かなかった。


「……無理して、読まなくても……大丈夫だから」

「え?」

「貸す話……気にしなくても、いいよ」


 言おうとしていたことが、止まった。

 そんなつもりで来たのではなかった。


「いや、無理してるわけじゃないよ」

「……うん」


 返事のあとも、目は本へ向いたままだった。

 ページへ置いた指が、少し動いた。

 続きを読みたいのだろうかと思った。


「富田、何かあった?」


 顔が上がった。

 けれど、目が合うと、すぐに下を向いた。


「……何も、ないよ。大丈夫……」


 あ……マジなんだ……。


 そう思ってしまった。

 昨日までと、違っていた。

 返事が小さいだけではなかった。俺の言葉が終わるたびに、そこで話を終わらせたがっているように見えた。


 嫌な顔をしてくれた方が、まだ分かりやすかったかもしれない。

 でも、優子は怒りもせず、大丈夫と言っていた。

 面と向かって邪魔とは言えない、という奈々の言葉が、今の様子とつながった。


 しゃがんだまま、次に何を言えばいいのか分からなくなった。


 来なければよかった。

 それでも、確かめずにいることもできなかった。


「……そっか」


 立ち上がった。

 優子の手は、まだ本の上にあった。


「邪魔してごめんね……」


 返事を待つのが怖くて、そのまま自分の席へ戻った。

 背中を向けてから、声が少し小さくなりすぎたかもしれないと思った。

 でも、聞こえたかどうかを確かめるために、もう1度戻ることはできなかった。


    * * 優子視点 * *


 勝也くんが、離れていった。


 邪魔ではなかった。

 来てくれて、嬉しかった。

 さっき顔を上げたのも、勝也くんがどこにいるか、気になったからだった。


 それなのに、本へ置いた手を動かせなかった。


 読まなくても大丈夫。

 気にしなくていい。


 どうして、そんなことばかり言ってしまったのだろう。

 好きな本を読んでくれたら、嬉しいに決まっていた。

 でも、優しいから断れないのだと聞いたあとでは、貸すことまで負担にしていないか怖かった。


 無理しているわけではないと、勝也くんは言ってくれた。

 そこで、ありがとうと答えればよかった。

 私は、また気を遣わせたのではないかと考えて、顔を見られなくなった。


「……勝也くん……」


 呼んだ。

 教室の話し声の中で、自分でも聞こえにくい声だった。

 勝也くんは振り返らなかった。


 もう1度、呼ぼうとした。

 今度は、少し大きな声で。


「ほらね」


 奈々さんが、そばに立っていた。

 私は、そちらを見た。


「困ってたでしょ。無理に話させない方がいいよ」


 奈々さんは、勝也くんの席へ目を向けた。

 私も同じ方を見た。

 勝也くんは、自分の机へ座っていた。こちらには、顔を向けていなかった。


 最後の声を思い出した。

 朝の挨拶より、小さかった。

 いつもの、少し笑った声ではなかった。


 怒らせてしまったのだろうか。

 昨日聞いたことを、今日もまだ分からないままにして、とうとう嫌になってしまったのだろうか。


「……私、そんなつもりじゃ……」

「だったら、少し放っておいてあげたら?」


 奈々さんはそう言って、自分の席へ戻った。


 本を閉じた。

 さっき勝也くんがいたところには、椅子の脚と床が見えた。

 しゃがんでくれたから、目の高さは近かった。

 顔を見ようと思えば、見られたのに。


 行かないでほしかった。


 そう思っていることだけでも、伝わればよかった。

 私の言った言葉を思い返すと、どこにも、それが入っていなかった。


 ページの間に指を入れ、さっき読んでいたところを開いた。

 続きを読みたかったから、追い返したのではない。

 自分だけでも、そう分かっていたかった。


 でも、文字を見ても、何も入ってこなかった。


     * * *


 午後の授業では、何度も勝也くんの方を見そうになった。


 目が合ったら、邪魔ではなかったと言えるだろうか。

 そのことだけなら、短くても言えそうだった。

 けれど、目が合っても逸らされたらと思うと、顔を上げられなかった。


 先生に名前を呼ばれ、慌てて立った。

 読むところを探していると、隣の子が、ここ、と教科書を指してくれた。


「……ありがとう……」


 教えられたところを読んだ。

 最後まで読み終えて、座った時には、手のひらが湿っていた。

 何の授業を受けている時にも、同じことを考えてしまっていた。


 帰りの会のあと、本をリュックサックへ入れた。

 今日は、まだ貸していない。

 貸す話を気にしなくていいと言ってしまったけれど、もう貸したくないという意味ではなかった。


 教室の前では、勝也くんが翔太くんと話していた。

 笑い声が聞こえた。

 私のところから戻ったあとも、誰とも話せなくなったわけではない。

 それは当たり前のことなのに、私だけがうまくできなかったのだと思うと、寂しかった。


 立ち上がった時、こちらを向きかけた顔が見えた。

 私はリュックサックへ目を落とした。

 上がり切っていなかったファスナーを閉めた。


 もう1度見た時には、勝也くんは翔太くんへ返事をしていた。


 何も言わず、教室を出た。

 階段を下りながら、昼休みに呼んだ声は届いていたのだろうかと考えた。

 聞こえていなかったのなら、返事がなかったのも当たり前だった。

 そう思う方へ、何度も戻ろうとした。


    * * 勝也視点 * *


 優子は、先に帰っていった。


 顔が上がったら、またねと言おうと思っていた。

 けれど、俺がそちらを見た時には、荷物の方を向いていた。

 名前を呼ぶほどのことではないかと思って、やめた。


「勝也、聞いてた?」


 翔太に言われ、顔を戻した。


「ごめん。何だっけ?」

「今度やる時は、先に宿題終わらせてこようって話」

「うん。それは、そうしよう」

「大丈夫? 今日も何か出たぞ」


 春樹が、黒板を見た。

 俺も見てから、連絡帳を持ち上げた。


「書いたよ。そこは大丈夫」

「じゃあ、忘れるのは帰ってからか」

「まだ忘れてないのに決めないでよ」


 笑って返した。

 そのあとで、もう1度、優子の席を見てしまった。

 椅子は机の下へ入っていて、今度こそ、誰もいなかった。


     * * *


 家に帰り、宿題を出した。


 開いた連絡帳から、紙が落ちた。

 机の下へ落ちる前に押さえ、持ち上げた。


 優子が、昨日くれた紙だった。


 題名の下に、作者の名前がある。

 書いているところは見ていないけれど、どこかで俺のために、これを書いてくれたのだった。

 受け取った時には、それが嬉しかった。

 今、見ても、嬉しくなくなったわけではなかった。


 話しかけるのが、嫌なのだろうか。

 読んでいる途中に行くのが、嫌なのだろうか。

 それとも、俺が、何か気づかないことを言ったのだろうか。


 分けて考えようとすると、分からなくなった。

 昼休みには、奈々の言うとおりだったと思った。

 でも、この紙まで見ていると、全部そうだったと決めるのも難しかった。


 俺は、本の続きを話したかった。

 優子が笑ってくれたら、また話せてよかったと思うつもりだった。

 そのつもりで行ったから、返事を待つ短い間が、思ったより苦しかった。


 邪魔してごめんね。


 もっと普通に言えばよかった。

 怒ったみたいに聞こえただろうか。

 声を小さくしたのは、優子を困らせたかったからではなかった。


 紙を連絡帳へ戻した。

 捨てる理由は、何もなかった。

 読んでみたいと思ったことも、変わっていなかった。


 けれど、明日、また同じように近づく勇気は、今は出なかった。

 少しくらい、黙っていた方がいいのかもしれない。

 俺が話しかけなければ、優子も好きな本を読める。


 そう考えてから、自分の本を開いた。

 続きを読んでも、さっき考えていた優子の顔が浮かんだ。

 昨日はすぐに進んだところで、今日は、何度も同じ行へ戻っていた。


    * * 優子視点 * *


 家へ帰って着替えたあと、机の前へ座った。


 制服は、ハンガーへ掛けた。

 本もノートも、リュックサックから出した。

 学校で聞いた声だけは、置いて帰ることができなかった。


 膝へ下ろした手に、青い編み目が見えた。

 反対の手で、そっと触れた。


 小さい頃、勝也くんと作ったミサンガだった。


 公民館の机には、何色もの糸が置いてあった。

 私は、青が多くなるように選んだ。

 勝也くんの好きな色だったから。

 その理由は、あの時も言わなかった。


 編み始めると、途中で、次に動かす糸が分からなくなった。

 説明されたとおりに持っているつもりでも、見本とは違う形になっていた。


 隣で作っていた勝也くんが、私の手元を覗き込んだ。

 自分の物と並べて、どこから違うのか、一緒に探してくれた。

 ほどいてやり直している間も、隣にいた。


 できあがったあと、お互いの手首へ結んだ。

 片手では難しかったので、腕を差し出した。

 青い糸を、勝也くんが結んでくれた。


 ずっと、勝也くんと友達でいられますように。


 心の中で、そう願った。

 できた物を並べて見た時、勝也くんも笑っていた。

 あの時は、間違えても、手伝ってもらっても、一緒にいていいと思えていた。


 今の結び目へ、指を置いた。


 昔とは違うのかもしれない。

 離れていた間に、勝也くんにも、私の知らない毎日があった。

 それでも、日傘がなくて困っていた私に、折り畳み傘を貸してくれたのは、今の勝也くんだった。

 日差しのことも、肌のことも、覚えていてくれた。


 今日も、何かあったかと聞いてくれた。


 その時、本当のことを言えていたら。

 邪魔ではないと、ちゃんと顔を見て答えていたら。


 涙が出そうになって、俯いた。

 まだ何も確かめていなかった。

 勝也くんが迷惑だと言ったところを、私は聞いていない。

 でも、確かめることまで迷惑になるのだと言われてから、何をしても、もう嫌われてしまいそうだった。


 勝也くんのことが、好きだった。

 声をかけられなくなっても、その気持ちはなくならなかった。

 好きだから、嫌そうな顔をさせたくなかった。

 好きだから、本当は、もっと話していたかった。


 ミサンガを、手のひらで包んだ。

 小さい頃の願いより、今は、欲しいものが増えていた。

 また隣で笑いたかった。私と話すのも楽しいと、思ってもらいたかった。

 その前の、友達でいることまで難しくなるのは、怖かった。


 机の上の本を取った。

 勝也くんは、無理をしているわけではないと言ってくれた。

 その言葉も、今日、自分で聞いたはずだった。


 明日も、本は持っていこうと思った。

 こちらから貸す話をするかどうかは、決められなかった。

 でも、もし借りたいと言ってくれたら、今度は、ちゃんと頷きたかった。


 リュックサックへ本を入れた。

 青い糸が、ファスナーへ触れた。


 明日も、おはようって言ってくれるだろうか。


 その返事だけは、ちゃんとできるように。

 結び目へもう1度指を添え、声には出さず、そう願った。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

 優子から本の題名を書いた紙を受け取り、借りる約束をする。奈々の嘘と優子の遠慮が重なり、自分との会話を嫌がられているのかと悩む。


・富田優子

 英語のノートへの落書きに加え、勝也が迷惑がっているという嘘に傷つく。負担をかけまいと遠慮した結果、本当は話したい気持ちが伝わらなくなる。


・鶴見春樹

 宿題をためないための相談をする勝也と翔太に、冷静に言葉を返す。放課後には、勝也が宿題を忘れていないか気にかける。


・鳥居翔太

 宿題を忘れないよう、勝也へ毎日声をかけてほしいと頼む。その時の会話が、本人の知らないところで奈々の嘘に利用される。


・加藤真弓

 宿題をためない方法を相談する翔太たちに、出された日に取り組めばよいと返す。翌朝も仲間の会話に加わり、翔太の話に笑う。


・井上綾香

 優子と図書当番をしながら、夏休みに読んだ本の話をする。放課後には一緒に歩き、疲れた様子の優子を気遣う。


・戸田美咲

 勝也が優子への対応に困っているかのように話す。本人に確かめることまで迷惑になると思わせ、優子が相談するのをためらわせる。


・富永莉奈

 落書きされたノートを見つけた優子に、人のせいにすると言って責める。勝也も仕方なく話を合わせているのだと、不安をあおる。


・杉浦玲奈

 美咲たちに加わり、勝也が優子へ本音を言えずにいるかのように語る。心配してもらうことさえ負担になると思わせる。


・大島奈々

 宿題についての勝也の返事を、優子への不満にすり替える。勝也にも優子が会話を嫌がっていると嘘をつき、2人のすれ違いを生む。


・優子の母(富田美和)

 壊れた日傘が見つかった公園について学校へ伝え、優子に報告する。ノートの被害や、勝也をめぐる嘘については聞かされていない。


・英語のノートを拾った男子

 教室後方のロッカー横に落ちていたノートを拾い、優子へ返す。優子は受け取ったあと、中の落書きに気づく。


・優子の隣の席の生徒

 数学では優子に説明を尋ね、お礼を伝える。翌日の授業では、読む場所を見失った優子に教科書の箇所を示す。

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