第13話 2学期
* * 勝也視点 * *
公園へ着くと、翔太がリュックサックから紙の束を出していた。
「おはよう。ここで提出するの?」
「違う。あるか見てるだけ」
「昨日も見てたでしょ」
隣を歩いていた春樹が言った。
翔太は、いたのかよ、という顔をした。マンションから一緒に来たのだから、いるに決まっていた。
「書くのと持ってくるのは、別なんだよ」
「そこまで分かってて、何で家を出てから心配になるの」
真弓に言われ、翔太は感想文をしまった。
「あったんだから、いいだろ」
「折れてない?」
綾香が聞くと、今閉めたばかりのファスナーが、また開いた。
俺も自分のリュックサックに手をかけそうになった。昨夜、ちゃんと入れた。提出する物の紙を見ながら、全部確かめたはずだった。
「勝也まで始めないでね」
「まだ何もしてないよ」
「今からしそうだった」
春樹に見られていた。
手を下ろすと、翔太もようやく紙をしまい直した。
9月3日、月曜日。
夏休みが終わり、今日からまた学校だった。
5人で公園を出た。
休みの間も会っていたのに、制服で並ぶと、久しぶりのことをしている気がした。道の先にも同じ学校の生徒がいる。自転車で横を通った男子に手を上げてから、リュックサックを背負い直した。
「今日出したら、これ、軽くなるんだよな」
「うん」
「明日からも、このくらいでよくない?」
「明日は教科書がいるでしょ」
綾香が答えた。
翔太は、そうだった、と首を後ろへ倒した。
「まだ始まってないのに、もう明日まで決まってる」
「夏休みの前から決まってたよ」
笑いながら歩いていたら、校門まではすぐだった。
昇降口で靴を履き替え、見慣れた階段を上がる。部活で学校へ来た日とは違って、今日は教室へ向かった。
ドアを開けると、あちこちで声が重なっていた。
部活で会っていた相手にも、休みの間は顔を見なかった相手にも、おはようと言いながら自分の席へ行く。
机は、休みの前と同じところにあった。
優子も、もう来ていた。
椅子に座り、小さな手提げ袋を膝の上に載せている。俺が荷物を下ろしている間、何度かこちらを見ていた。
筆箱だけ出して、そちらへ行った。
「富田、おはよう」
顔が上がった。
「……おはよう、勝也くん」
呼ばれた時、少し嬉しくなった。
こうして教室で話すのは、久しぶりだった。何を話そうか考えていたのに、返事をしてもらうと、それだけでも教室へ来てよかった気がした。
通路の邪魔にならないところで、机の横にしゃがんだ。
優子が、膝の上の袋を持ち上げる。
「これ……返したくて。朝、会えたら、渡そうと思ってたの」
「俺に?」
「うん。借りてた傘」
開いた袋の口から、折り畳み傘が見えた。
そこで、ようやく思い出した。
「あ。貸してたね」
優子が俺を見た。
「……忘れてた?」
「うん。ごめん。家のどっかに置いたんだと思ってた」
「私、ずっと借りたままで……ごめんね」
「いや、困ってなかったから。持ってきてくれてありがとう」
受け取ると、布の端がきれいに揃っていた。
自分でしまった時には、留め具の近くが、もう少し膨らんでいる。
「俺が畳むより、ちゃんとなってる」
「使ったあと、乾かして……畳み直したから」
「そっか。ありがとう」
空になった袋を返すと、優子は両手で受け取った。
少しだけ、肩が下がったように見えた。
「あの日、助かったよ。まぶしくないところを歩けたから…」
「役に立ったなら、よかった」
「うん。それと……日傘も、届けてくれてありがとう」
曲がった骨に紙を巻いたことを思い出した。
「あれ、富田のだった?」
「……うん。私のだった」
返事が小さくなった。
俺は、傘を持つ手を少し下げた。
「壊れてないまま見つかったら、よかったんだけど」
「でも、見つけてくれたから……。帰りも、探してくれてたの?」
「あれは、たまたま。帰る途中の公園にあったんだ」
優子が眉を寄せた。
「公園?」
「うん。植え込みの下。あ、そうだ。お母さんに、拾った場所、言うの忘れちゃって」
学校から帰る道を、短く説明した。
優子は聞き終えると、畳みかけていた袋を止めた。
「……私、そっちには行ってない」
「そうだよね。帰る方、違うもんね」
持ち主が通っていないところに、傘だけがあった。
あの日にも、変だと思った。
誰かが持っていったのだろうか。でも、その人が持っていたところも、捨てたところも、俺は見ていない。
「お母さんが、学校にも話してくれたの。でも……誰が持っていったのか、分からなくて」
「そっか。場所のことも、伝えておいて。俺に聞きたいことがあったら、説明するから」
「うん。ありがとう」
俺に分かるのは、見つけた時のことだけだった。
それより前に何があったかまで、分かったように言うことはできなかった。
「今は、別の日傘、使えてる?」
「うん。お母さんと買いに行ったから」
「なら、よかった。まだ暑いしね」
優子が頷いた。
少し間が空いたので、俺は、夏休みに聞こうと思っていたことを思い出した。
「本も、読めた?」
「……うん。漫画も、小説も」
「そっか。何か面白いのあった?」
優子は袋の端を揃えてから、顔を上げた。
「感想文に書いた本が……読み終わってから、前の方を読むと、違う感じがして」
「最初に気づかなかったことがある?」
「そう。何でもない会話だと思ってたところが、あとで……大事だったって分かるの」
「そういうの、もう1回見たくなるよね」
少し笑ってくれた。
さっきまで日傘の話をしていた時より、言葉が続いた。
「うん。だから、読み終わったのに、なかなか本棚へ戻せなくて」
「気になる。今度、題名教えてね」
「……うん」
先生が教室へ入ってきた。
俺は立ち上がり、傘を持ち直した。
「じゃあ、またあとで」
「うん。またね」
自分の席へ戻り、リュックサックの脇へ傘を入れた。
なくしたわけでもなかった物が、戻ってくると、少し嬉しかった。
役に立ったと、優子が自分で話してくれたからかもしれなかった。
* * 優子視点 * *
空になった袋を畳み、リュックサックへ入れた。
返せた。
お礼も、自分で言えた。
家を出る前には、袋を落とさないか、汚さないかと、そればかり気にしていた。教室へ着いてからも、膝へ載せたまま、席を離れられなかった。
今は、中を確かめなくてもよかった。
勝也くんのところへ、ちゃんと返せたから。
顔を見られて、嬉しかった。
久しぶりに名前を呼ばれた時には、すぐに返事をしたいのに、声が出るまで少し時間がかかった。
あの人は、今日も待ってくれた。
私が座っていたから、目が合うところまでしゃがんでくれた。
また話せる。
そう思った時、近くで椅子が引かれた。
美咲さんが立ち上がっていた。
莉奈さんへ何かを言いながら、机の横を通る。
私はリュックサックの口を閉じ、足を少し引いた。
押されたわけではない。
何も言われていない。
それでも、莉奈さんに肩を押され、机へぶつかった時のことを思い出してしまった。
「廊下に並んで。体育館へ移動するぞ」
先生の声で、私も立った。
筆箱は机の中へ入れた。提出する感想文は、ファイルに挟んである。
席を離れる前に、もう1度、リュックサックの口を指で押さえた。
勝也くんの傘は、もう入っていない。
そう考えて安心したあと、自分の物はまだここにあるのだと思った。
* * *
体育館では、膝の上へ手を置いて先生の話を聞いた。
夏休みのこと。これからの学校生活のこと。
休みの間に遅くなった生活の時間を戻すようにと言われ、前の列の子が、小さく欠伸をした。
私も、昨夜はなかなか眠れなかった。
朝になってほしくなくて、暗い部屋で制服を見ていた。
でも、今はこうして、学校にいる。
休みの前にあったことを、美咲さんたちは、もう忘れているかもしれない。
そう思いたかった。
今朝は、私の机の上には何もなかった。筆箱も、まだ自分で置いたところにあった。
それだけでは何も決まらないと分かっていても、今日こそ何もなければと願っていた。
長い話が終わり、立ち上がった。
足の裏が少ししびれていたので、ゆっくり体重をかける。
「富田さん、大丈夫?」
綾香さんが、横から聞いてくれた。
「……うん。ちょっと、足が……」
「私も。途中で動かせばよかったね」
綾香さんは、列が進むのを待ちながら足を揃えた。
私も同じようにしてみた。何かを笑われたわけではなかったので、少しだけ顔を上げて歩けた。
「今日、図書室の当番表、見に行く? 帰る前に」
「……うん。見て、おきたい……」
「じゃあ、あとでね」
頷いた。
部活は辞めたけれど、図書委員の仕事はある。
綾香さんとは、これからも同じ当番の話ができる。そのことが、少し嬉しかった。
清掃を終え、教室へ戻った。
椅子はあった。机の中の筆箱も、自分の物だった。
席へ座ってからファイルを開き、感想文の表紙まで確かめる。
まだ、大丈夫だった。
ほかの人は、提出する物を机へ出していた。
私も同じように重ねた。先生が戻ってくるまで、少し時間があるらしかった。
前の方から笑い声がした。
顔を上げると、奈々さんが勝也くんの机の横にいた。
「目覚まし、増やせばいいってこと?」
奈々さんが言った。
勝也くんは、自分の方を指しながら首を振った。
「増やす前に、置く場所変えたら? 寝たまま止められないところ」
「それ、止めに行ったあと、戻って寝たら同じじゃない?」
「戻らなきゃいいんだよ」
「そこができたら、最初から起きてるって」
奈々さんが笑った。
勝也くんも、確かに、と笑っていた。
私は、自分の席に座ったまま、その様子を見ていた。
間を人が通ると、勝也くんの顔は見えなくなった。
話し声が重なると、言葉も全部は聞き取れなかった。
それでも、奈々さんが何か言い、勝也くんがすぐに返していることは分かった。
奈々さんだけが話しかけ続けているのでもなかった。
勝也くんの方からも、顔を上げて何かを尋ねている。
「じゃあ、今朝は何で起きられたの?」
「今日くらいは頑張ったから」
「それを明日もやればいいんじゃない?」
「それ、何も考えてくれてないでしょ」
奈々さんが、勝也くんの持っていた連絡の紙を指した。
勝也くんは紙を見てから、また何かを言った。そこは、後ろを通った人の声に重なった。
奈々さんの肩が揺れ、勝也くんも笑った。
夏休みの前にも、あんなふうに話していた。
宿題や部活の話をしながら、私が自分の席から見ていた時と同じだった。
いいな、と思った。
声をかける理由を考えなくても、あそこへ行けることが羨ましかった。
勝也くんが困らないか、忙しくないかと、何度も見直さなくても話し始められる。
好きな人がほかの子と楽しそうにしているのを見ると、それだけで少し寂しかった。
でも、今朝は私にも、本のことを聞いてくれた。
奈々さんと話しているから、私と話したくないことにはならない。
そう思って、机の上へ目を戻した。
奈々さんは、勝也くんと、あんなに気軽に話せる人だった。
私が知らない休み時間にも、きっと同じように話しているのだろう。
感想文の表紙を、指で押さえた。
私にも、次に話すことはある。
題名を教えて、と言われた本のことを、あとで話せたらよかった。
* * 勝也視点 * *
問題集を重ねた箱は、持ち上げると思ったより重かった。
「これ、全部入れて大丈夫?」
春樹が、底のところを覗いた。
「先生、入れてたけど」
「先生が入れたら破れないわけじゃないよ」
「じゃあ、半分にする?」
もう1つの箱へ移すと、ちょうど同じくらいになった。
名前を上にして揃え直し、両手を底へ回す。
「鵜飼、鶴見。職員室まで持っていってくれ。国語の分は、入口の近くの机に置いてもらえばいいから」
「はい」
春樹が先にドアのところへ行った。
俺はそのあとを追い、廊下へ出た。
教室では、まだ感想文を出す順番になっていなかった。
優子も自分の席で、紙を揃えているところだった。
朝、話していた本の感想文だろうか。
箱で前が見にくかったので、足元へ目を戻した。
今日は全部出せれば、それでよかった。
夏休みの間、机の端に積んであった物がなくなると思うと、まだ運んでいる途中なのに、少し気が楽になった。
* * 優子視点 * *
先生が、感想文の表紙へ書くことを黒板で確かめた。
学年と組、名前。本の題名。
私の紙には、全部書いてあった。
「確認したら、前へ出して。ほかの物と混ぜないようにな」
廊下から呼ばれ、先生が出入口へ向かった。
私はファイルから感想文を取り出した。
家で何度も見直した文字が、教室の机の上にあった。
「それ、富田さんの?」
美咲さんが、表紙を覗き込んだ。
すぐ横には、莉奈さんもいた。
「……うん」
「見せて。何で書いたの?」
題名へ指を向ける前に、美咲さんが紙を持ち上げた。
私は、空いた机の上を見た。
「……今、出すから……」
「見たら返すよ」
美咲さんは、表紙をめくった。
莉奈さんが肩越しに覗き込み、近づいてきた玲奈さんも、下の方へ目を向けた。
「いっぱい書いてる」
「本読むの、好きだもんね」
玲奈さんが言った。
好きだということまで、変なことのように聞こえた。
私は椅子から腰を浮かせた。
返して、と言いたかった。
でも、見ているだけだと言われたら、何と答えればいいのか分からなかった。
「……順番、変わっちゃうから……」
「変えないって」
莉奈さんが、下から次の紙を引いた。
上の角が表紙へ引っかかり、少し折れた。
手を出しかけたところで、紙が美咲さんの方へ寄った。
「そんなに取らなくても、返すよ」
私は手を止めた。
まだ、自分の物へ触れてもいなかった。
「奈々、これ、知ってる?」
美咲さんが声をかけた。
自分の席へ戻りかけていた奈々さんが、こちらへ来た。
「本? 題名は見たことあるけど」
「富田さん、読んだんだって」
奈々さんが、紙の方へ顔を向けた。
4人が、私の感想文を見ていた。
持っているのは美咲さんだった。莉奈さんが指で行をたどり、玲奈さんがその指の先へ目を寄せる。
私だけが、すぐには読めない向きだった。
「ここ、何の話?」
莉奈さんに聞かれた。
立ち上がり、指されたところを見る。
「……最後の、場面のこと……」
「どんな場面?」
「それまで……言えなかったことを、話すところが……あって……」
美咲さんが、紙から顔を上げた。
「誰が?」
「……主人公が……」
「誰に?」
答えようとして、息を吸った。
書く時には、どの部分を説明すればいいか分かっていた。
今は、聞き返されるたびに、最初に言おうとしたことが抜けていった。
「相手の人に……ちゃんと、聞いたら……前に話してたことも、違う意味だったって……」
「え。どの話が?」
莉奈さんが、もう1度同じところを指した。
私は、自分の文を読もうとした。
「あの……そこだけじゃ、なくて。前から……」
「前から全部読まないと分かんないの?」
美咲さんに言われ、口が止まった。
説明が足りなかったのだろうか。
お母さんに読んでもらった時には、私が話したいことは分かったと言ってもらえた。
でも、読んでくれる人が変われば、それでは足りないのかもしれなかった。
「ちょっと……直すから。返して……」
「まだ見てるでしょ」
返ってこなかった。
教室の反対側では、真弓さんと綾香さんが、配られた紙を広げていた。
その近くで、男子の笑い声がした。
こちらで言われていることも、同じような普通の話に見えるのだろうか。
私の声は、机の向こうへ届くだけで精いっぱいだった。
「夏休み、ずっと本読んでたんでしょ。少しは喋る練習したらよかったのに」
莉奈さんが言った。
「……ずっと、じゃ……」
「でも、朝は喋ってたよね」
奈々さんだった。
私は顔を向けた。
「鵜飼君には、今より普通に話してたじゃん」
「……傘の、お礼を……言ってたから……」
「分かってる。それくらいの声でいいんじゃないってこと」
私には、それが難しかった。
勝也くんは、返事が遅くても、途中で別のことを聞かなかった。
どこか分からないところがあれば、そこだけを、もう1度聞いてくれた。
そのことを言ったら、私たちの聞き方が悪いの、と聞かれるだろうか。
そう考えて、唇を閉じた。
「鵜飼君、優しいもんね」
美咲さんが言った。
その声に、少しだけ顔を上げてしまった。
「誰にでもああやって、いい人ぶってるだけじゃない?」
違う、と思った。
「……勝也くんは、そんな人じゃない」
口に出したあとで、美咲さんと目が合った。
莉奈さんも、こちらを見ていた。
「へえ」
美咲さんが、少し笑った。
私は、感想文へ目を落とした。
「そういうことは、すぐ言えるんだ」
怖くなった。
何も言わなければよかったのかもしれないと思った。でも、勝也くんが、よく思われたいだけで優しくしているとは、どうしても思えなかった。
誰も見ていない公園でも、話を聞いてくれた。
帰る時には、自分の傘を貸してくれた。
私がいないところで、日傘を拾って、家まで届けてくれた。
それを、嘘みたいに言われるのが嫌だった。
「別に、悪口言ったわけじゃないけど」
美咲さんが言った。
「そんなに庇わなくてもよくない?」
莉奈さんが、私を見てから美咲さんへ顔を向けた。
2人の口元が緩んだ。
何を思われたのか、聞かなくても分かる気がした。
好きなの、と聞かれたら。
指先が冷たくなった。
今、ここで、そのことだけは話したくなかった。
勝也くんには、まだ何も伝えていない。自分の気持ちなのに、誰かが先に言葉にして、勝手に持っていってしまいそうだった。
「……本当に、親切に……してくれたから……」
そこまでしか言えなかった。
美咲さんは、ふうん、と答えた。
「じゃあ、私たちにもそのくらい返事してよ」
話が戻った。
戻ってくれたことに、ほっとしてしまった。
それでも、莉奈さんがまだ私を見ているのが分かり、顔を上げられなかった。
美咲さんが、感想文を机へ置いた。
私は、ようやく返してもらえたと思った。
「忘れないように、書いとけば?」
莉奈さんが鉛筆を持っていた。
表紙の名前の下へ、先が下りた。
大きな声で話しましょう。
「……やめて……」
紙を押さえた。
最後の文字の横へ、鉛筆の線が少し伸びた。
「動かすから、変になったじゃん」
「それ……出す物、だから……」
「鉛筆だよ。消えるでしょ」
莉奈さんが手を離した。
玲奈さんが、私の押さえたところを見た。
「今くらいの声なら、聞こえたよ」
美咲さんが笑った。
莉奈さんも、鉛筆を指の間で持ち直しながら笑った。
私の声が聞こえるかどうかを、試していたのだろうか。
聞こえたのなら、やめてと言ったことも分かったはずだった。
「……書かないで、ほしかった……」
表紙を見たまま言った。
字が増えたところに、指を置けなかった。
「だから、消せばいいじゃん。変なこと書いてないし」
莉奈さんは、それで終わりにした。
国語のノートに書かれた字を思い出した。
あれは、誰が書いたのか見ていない。消しゴムでこすっても、消えなかった。
今日は、目の前で書かれた。
やめてと言ったのに、紙に手を置くまで止まらなかった。
見ていれば大丈夫だと思っていた。
自分で持っていれば、どこかへなくなることも、勝手に何かをされることも減ると思っていた。
でも、返してと言っても返してもらえなかったら、私には取り戻すことさえ難しかった。
奈々さんが、ばらけた紙を重ねた。
「順番、変わってないからね」
端を揃え、私の方へ置いた。
折れた角は、そのままだった。
「……うん……」
それしか返せなかった。
4人が離れていってから、私は椅子へ座った。
自分の机だった。
筆箱も、ファイルもある。
さっきまで、全部あったと安心していた場所で、感想文を開くのが怖くなっていた。
* * *
消しゴムを、紙の端へ当てた。
莉奈さんの字は、私の名前より濃かった。
少しこすっただけでは、線が残った。
名前まで消さないように、細いところを使って、少しずつ動かす。
大きな声で話しましょう。
消している間も、読めてしまった。
言われたことを忘れないようにと、自分で書いたみたいだった。
私は、何を思ったか書いてきた。
面白かったところも、読み直したくなった理由も、自分で選んで書いた。
その前に、この言葉を読まれるのは嫌だった。
もう少し強くこすった。
紙が、指の下でずれた。
慌てて止めると、さっき折れた角のそばに、細いしわが寄っていた。
これ以上やると、破れる。
手を止め、消しゴムのかすを集めた。
字は、薄くなっていた。
けれど、紙を少し傾けると、押された跡がまだ分かった。
誰かに読まれなければいい。
そう思ってから、悲しくなった。
先生に読んでもらうために、時間をかけて書いた物だったのに。
折れた角を、爪を立てないように伸ばした。
表紙と下のページを揃える。
順番は変わっていなかった。それだけで、元に戻ったわけではなかった。
ドアが開き、勝也くんと春樹くんが戻ってきた。
箱は、もう持っていなかった。
「置く場所、最初から机に書いてあればよかったのにね」
「うん。でも、これで終わり」
春樹くんの声がした。
勝也くんは手のひらを軽く払ってから、自分の席へ向かった。
顔を見ると、さっき私が言った言葉を思い出した。
勝也くんは、そんな人じゃない。
私は、そう思っていた。
今も、思っている。
だから、ここへ来てくれたら、何があったのか話せるかもしれない。
感想文を、少し持ち上げた。
その向こうで、美咲さんがこちらを見た。
私は紙を下ろした。
庇ったことを、すぐにからかわれた。
今、勝也くんを呼んだら、また同じ顔をされるだろうか。
あの人へ何か話すことまで、見られている気がした。
先生が戻ってきた。
「まだ出していない人は、出して。それが済んだら、明日の連絡をするから」
立ち上がり、感想文を持っていった。
教卓の上へ置く前に、表紙をもう1度だけ見た。
全部消えたのか、やっぱり分からなかった。
次の人が近づいてきたので、手を離した。
私の紙の上へ、別の感想文が重なった。
もう、直せなかった。
席へ戻ってからも、鉛筆の跡が目の前にあるようだった。
夏休みの間に何を書こうか考えていた時間が、あの言葉を消していた時間に押しのけられていた。
連絡帳を出した。
明日からは、いつもの授業と給食が始まる。
先生が黒板へ書く物を、順に写した。
「それから、金曜日には席替えをするぞ」
近くで、楽しみにする声がした。
窓際がいいと言った人へ、日が当たると暑いよ、と誰かが返していた。
私は、席替え、と小さく書いた。
美咲さんたちから離れられるかもしれない。
そう思ったけれど、どこになるかは分からなかった。
今の席より、もっと話しかけにくい場所になることもある。
金曜日までは、まだ何日もあった。
まず明日、同じところへ来なければいけなかった。
* * 勝也視点 * *
帰りの挨拶が終わると、教室が急に騒がしくなった。
連絡帳をしまい、リュックサックを持ち上げる。
来た時より、ずっと軽かった。
「翔太、宿題、置いてきてない?」
「出したよ。全部」
「いや、この軽さ、ちょっと不安にならない?」
持ち上げて見せると、翔太も自分の物を揺らした。
「分かる。教科書、忘れたみたい」
「今日は持ってこなくていい日だからね」
春樹が言った。
俺は笑って、机の中へ最後に手を入れた。
何も残っていないことを確かめてから、立ち上がった。
綾香が、優子の席のそばにいた。
「じゃあ、当番表、見に行こうか」
「……うん」
優子がファイルをしまい、ファスナーを閉めた。
こちらを向いたので、俺も顔を向けた。
「図書室?」
「……うん。当番の、確認に……」
「そっか。俺も部活、顔出してくる」
頷いてから、優子は口を少し開いた。
何か話そうとしている気がして、待った。
「本の……」
「あ、さっきの。俺も題名、聞こうと思ってた」
優子が、自分のリュックサックの方を見た。
「今日、持ってきてなくて……」
「持ってこなくても大丈夫だよ。題名聞けば、俺も探せるし」
「うん……」
「また明日、聞いてもいい?」
顔が上がった。
優子は、俺を見て頷いた。
「……うん」
「じゃあ、またね」
綾香と一緒に、教室を出ていった。
短い返事だったけれど、約束はできた。
俺も、自分のリュックサックを肩へかけた。
* * *
翔太とは、途中まで同じ方へ歩いた。
「勝也、今日もお菓子あるの?」
「分かんない。連絡だけって聞いてるけど」
「それであったら、ずるくない?」
「何が?」
「こっちは体育館だぞ」
「お菓子が出ても、俺が決めたわけじゃないでしょ」
翔太が、あったら教えろよ、と言った。
聞いたら余計に羨ましくなるだけではないかと思ったが、分かった、と答えておいた。
曲がり角の向こうに、山崎先輩がいた。
俺たちに気づくと、軽く手を上げてくれた。
「鵜飼くん。鳥居くんも、おはよう」
「おはようございます」
俺に続いて、翔太も挨拶をした。
今日は、いつもの声だった。
先輩が、にこっと笑った。
「部活?」
「はい。これからです」
「暑いから、気をつけてね」
「はい。じゃ、勝也、またな」
翔太は先輩へ頭を下げ、体育館の方へ行った。
数歩先で、こちらを振り返った。
何か言うのかと思ったら、俺にだけ口を動かした。
多分、お菓子、と言っていた。
「どうしたの?」
「いや。何でもないです」
笑ってしまったので、何でもなくはなさそうな顔をされた。
部室へ着くと、靴を脱いで上がった。
今日は、お茶を点てる準備はしていなかった。部長が次の活動について話し、先輩たちが、使った物を戻した場所を確認していた。
俺も呼ばれ、棚の上へ置く箱を持ち上げた。
「そこ、届く?」
「はい。手前でいいですか?」
「うん。ありがとう」
置いてから、隣の箱へぶつかっていないか確かめた。
名前を覚えた道具が増えて、言われた物を探す時、前ほど迷わなくなっていた。
俺が点てるわけではないけれど、どこに何があるか分かると、手伝えることは増えた。
片づけが済むと、部長が袋を出した。
「これ、少し食べていって。芋けんぴ」
翔太に、あったと報告することになった。
俺は出してもらった分を受け取り、先輩たちと座った。
「宿題、ちゃんと出せた?」
山崎先輩に聞かれ、頷いた。
「はい。なくなったら、リュック、すごい軽くなりました」
「明日は教科書、忘れないでね」
「さっき、同じこと言われました」
先輩が笑った。
俺も笑いながら、芋けんぴを1本取った。
「学校始まる前は、休み、もう少し欲しかったんですけど」
「来たら、そうでもなかった?」
「はい。久しぶりに話せた人もいたし」
優子が、感想文の本について話していた顔を思い出した。
読み終わってから、もう1度、前を読みたくなったと言っていた。
俺にもそういうことはあった。今度は、何が面白かったのか、もう少し聞けるとよかった。
「じゃあ、明日も起きられそうだね」
「そこは、ちゃんと目覚ましかけます」
奈々と話していたことを思い出して、少し笑った。
俺だって、休みの間は起きるのが遅くなった日がある。
教室で言った手前、明日、自分が遅れていくわけにはいかなかった。
食べ終えてから、使った物を片づけた。
まだ昼前だった。
外へ出ると、校門へ向かう生徒が何人かいて、俺も同じ方へ歩いた。
明日から、またいつもの学校だった。
授業があって、給食があって、休み時間には友達と話せる。
早く終わった今日より、話せる時間もありそうだった。
* * 優子視点 * *
図書室で当番表を確かめ、綾香さんと昇降口で別れた。
綾香さんは部活へ行き、私は日傘を差して帰った。
家の鍵を開けると、お母さんの声がした。
「おかえり。暑かったでしょう」
「うん。ただいま」
日傘を閉じた。
今日は、自分で持って帰れた。
留め具を掛け、置いてから靴を脱いだ。
「傘、返せた?」
「うん。朝、渡せたよ」
お母さんが、よかったね、と言った。
私も頷いた。
「それで、前の日傘が見つかったところも、教えてもらったの」
「どこだったの?」
勝也くんから聞いた公園を説明した。
お母さんは、私が普段帰ってくる道を確かめた。
「その日も、そちらには行ってないのよね」
「うん。学校から、いつもの道で帰ったよ」
「そう。場所が分かったことは、学校にも伝えておくね」
お母さんは、忘れないようにと紙へ書いた。
「鵜飼くんが、聞きたいことがあったら説明するって」
「そう言ってくれたの。ありがとうって、また伝えてね」
「うん」
お母さんが紙を置いた。
その手元を見ていると、感想文の表紙を思い出した。
今日も、書かれた。
そう言ったら、お母さんは、ペンを持ち直すだろうか。
誰に、何を、と聞いてくれるだろうか。
私は、リュックサックの紐を握った。
鉛筆だった。消せた。
そう言われたことが、ここでも口を塞いでいた。
嫌だったと話したいのに、消した紙は、もう手元になかった。
ちゃんと説明しようとしたら、勝也くんの話でからかわれたことまで話すことになる。
「お昼、もう少し待てる?」
「うん。先に着替えてくるね」
部屋へ上がった。
ドアを閉めてから、肩の力を抜いた。
もう、返事を急かす人はいなかった。
* * *
昼ご飯を食べ、部屋へ戻ったあと、机の引き出しを開けた。
感想文の下書きが、残っていた。
消して書き直したところに、矢印で言葉を足してある。
その字は、自分で書いた物だった。
お母さんに、どこが好きだったのか聞かれたことを思い出した。
うまく説明できなくて、本を開いて見せた。
この人は、前にはこんなことを言っていたのに、と話すと、お母さんは、前のページへ戻ってくれた。
その時間まで、今日の教室と同じにしたくなかった。
下書きを、最後まで読んだ。
途中で説明を足したくなるところはあったけれど、何を書こうとしたかは分かった。
私は、あの本が好きだった。
好きだから、頑張って書いたのだった。
そう思うと、悔しくなった。
紙を返してほしかった。
書かないでと言ったら、やめてほしかった。
大きな声が出せなくても、私の物へ勝手に字を書いていいことには、ならないはずだった。
下書きを置き、両手を膝へ下ろした。
ここでは分かることが、あの人たちの前では、うまく言葉にならなかった。
また明日、同じように言われたら、今日よりはっきり言えるかは分からない。
しばらく座ってから、連絡帳を開いた。
明日は授業がある。
使う教科書を出し、ノートを重ねた。
国語のノートは、表紙を開かずに入れた。
あの黒い字を、今からもう1度見るのは嫌だった。
学校へ持っていかなければ使えないし、持っていけば、また何かをされるかもしれない。
しまい終わっても、明日の支度ができたとは思えなかった。
本棚から、感想文に選んだ本を取った。
勝也くんに、題名を聞かれていた。
教室では、うまく話せなかった。
何を話しても、近くで美咲さんたちが聞いている気がした。
それでも、また明日と言ってもらえた時は、嬉しかった。
勝也くんは、そんな人じゃない。
口にした時の怖さと一緒に、あの言葉を思い出した。
朝、私の隣へしゃがんでくれた人を、美咲さんに言われたとおりには思えなかった。
私が話し終えるまで、待っていてくれた。
あの優しさまで、疑いたくなかった。
小さな紙へ、本の題名を書いた。
明日、言葉が出なくなっても、これなら見せられる。
本そのものを学校へ持っていくのは、まだ怖かった。
紙を連絡帳の間へ挟んだ。
教室へ戻ることを考えると、胸の辺りが苦しくなった。
それでも、勝也くんと話す約束まで、諦めたくなかった。
明日、この紙を出せるといい。
そう思いながら、端が折れないように、そっと連絡帳を閉じた。
今回の登場人物
・鵜飼勝也
優子から傘を返してもらい、壊れた日傘を拾った場所を伝える。夏休みに読んだ本の話にも耳を傾け、翌日も話す約束をする。
・富田優子
勝也へ傘を返し、自分の言葉でお礼を伝える。感想文への嫌がらせを受ける中、勝也の優しさを悪く言われると思わず庇う。
・鶴見春樹
提出物を気にする翔太や勝也に、落ち着いた言葉を返す。勝也と一緒に、集めた宿題を職員室へ運ぶ。
・鳥居翔太
登校前の公園で感想文を確かめ、仲間と賑やかに新学期を迎える。詩織にはいつもの声で挨拶し、茶道部のお菓子も気にしている。
・加藤真弓
始業式の朝も仲間と公園で合流する。家を出てから提出物を心配し始めた翔太に、すかさず言葉を返す。
・井上綾香
始業式のあと、足のしびれた優子を気遣う。帰る前には一緒に図書室へ行き、当番表を確認する。
・戸田美咲
優子の感想文を取り上げ、返してほしいという頼みに応じない。勝也の優しさを疑う言葉を向け、庇った優子をからかう。
・富永莉奈
優子の話し方を責め、感想文の表紙へ「大きな声で話しましょう」と書く。嫌がる優子に、鉛筆だから消せばよいと言い放つ。
・杉浦玲奈
美咲たちと優子の感想文を覗き込む。書き込みを止めようとした優子に、今くらいの声なら聞こえたと告げる。
・大島奈々
勝也と早起きの話で気軽に冗談を交わす。一方で感想文を囲む輪にも加わり、優子へ勝也と話す時のように喋ればよいと指摘する。
・優子の母(富田美和)
優子が傘を返せたことを喜ぶ。壊れた日傘が見つかった公園を聞き取り、学校へ追加で伝えるために書き留める。
・山崎詩織
廊下で勝也と翔太に挨拶し、部活へ向かう翔太を気遣う。茶道部では勝也と宿題や新学期の話を交わす。
・茶道部の部長と先輩たち
次の活動予定や道具の置き場所を確認し、勝也にも片づけを頼む。作業後には芋けんぴを分け、和やかな時間を過ごす。
・1年3組の担任
夏休みの宿題を集め、翌日の授業や金曜日の席替えを知らせる。優子が感想文への嫌がらせを受けている間は、出入口へ離れている。




