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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
15/52

第13話 2学期


    * * 勝也視点 * *


 公園へ着くと、翔太がリュックサックから紙の束を出していた。


「おはよう。ここで提出するの?」

「違う。あるか見てるだけ」

「昨日も見てたでしょ」


 隣を歩いていた春樹が言った。

 翔太は、いたのかよ、という顔をした。マンションから一緒に来たのだから、いるに決まっていた。


「書くのと持ってくるのは、別なんだよ」

「そこまで分かってて、何で家を出てから心配になるの」


 真弓に言われ、翔太は感想文をしまった。


「あったんだから、いいだろ」

「折れてない?」


 綾香が聞くと、今閉めたばかりのファスナーが、また開いた。

 俺も自分のリュックサックに手をかけそうになった。昨夜、ちゃんと入れた。提出する物の紙を見ながら、全部確かめたはずだった。


「勝也まで始めないでね」

「まだ何もしてないよ」

「今からしそうだった」


 春樹に見られていた。

 手を下ろすと、翔太もようやく紙をしまい直した。


 9月3日、月曜日。

 夏休みが終わり、今日からまた学校だった。


 5人で公園を出た。

 休みの間も会っていたのに、制服で並ぶと、久しぶりのことをしている気がした。道の先にも同じ学校の生徒がいる。自転車で横を通った男子に手を上げてから、リュックサックを背負い直した。


「今日出したら、これ、軽くなるんだよな」

「うん」

「明日からも、このくらいでよくない?」

「明日は教科書がいるでしょ」


 綾香が答えた。

 翔太は、そうだった、と首を後ろへ倒した。


「まだ始まってないのに、もう明日まで決まってる」

「夏休みの前から決まってたよ」


 笑いながら歩いていたら、校門まではすぐだった。

 昇降口で靴を履き替え、見慣れた階段を上がる。部活で学校へ来た日とは違って、今日は教室へ向かった。


 ドアを開けると、あちこちで声が重なっていた。

 部活で会っていた相手にも、休みの間は顔を見なかった相手にも、おはようと言いながら自分の席へ行く。

 机は、休みの前と同じところにあった。


 優子も、もう来ていた。

 椅子に座り、小さな手提げ袋を膝の上に載せている。俺が荷物を下ろしている間、何度かこちらを見ていた。


 筆箱だけ出して、そちらへ行った。


「富田、おはよう」


 顔が上がった。


「……おはよう、勝也くん」


 呼ばれた時、少し嬉しくなった。

 こうして教室で話すのは、久しぶりだった。何を話そうか考えていたのに、返事をしてもらうと、それだけでも教室へ来てよかった気がした。


 通路の邪魔にならないところで、机の横にしゃがんだ。

 優子が、膝の上の袋を持ち上げる。


「これ……返したくて。朝、会えたら、渡そうと思ってたの」

「俺に?」

「うん。借りてた傘」


 開いた袋の口から、折り畳み傘が見えた。

 そこで、ようやく思い出した。


「あ。貸してたね」


 優子が俺を見た。


「……忘れてた?」

「うん。ごめん。家のどっかに置いたんだと思ってた」

「私、ずっと借りたままで……ごめんね」

「いや、困ってなかったから。持ってきてくれてありがとう」


 受け取ると、布の端がきれいに揃っていた。

 自分でしまった時には、留め具の近くが、もう少し膨らんでいる。


「俺が畳むより、ちゃんとなってる」

「使ったあと、乾かして……畳み直したから」

「そっか。ありがとう」


 空になった袋を返すと、優子は両手で受け取った。

 少しだけ、肩が下がったように見えた。


「あの日、助かったよ。まぶしくないところを歩けたから…」

「役に立ったなら、よかった」

「うん。それと……日傘も、届けてくれてありがとう」


 曲がった骨に紙を巻いたことを思い出した。


「あれ、富田のだった?」

「……うん。私のだった」


 返事が小さくなった。

 俺は、傘を持つ手を少し下げた。


「壊れてないまま見つかったら、よかったんだけど」

「でも、見つけてくれたから……。帰りも、探してくれてたの?」

「あれは、たまたま。帰る途中の公園にあったんだ」


 優子が眉を寄せた。


「公園?」

「うん。植え込みの下。あ、そうだ。お母さんに、拾った場所、言うの忘れちゃって」


 学校から帰る道を、短く説明した。

 優子は聞き終えると、畳みかけていた袋を止めた。


「……私、そっちには行ってない」

「そうだよね。帰る方、違うもんね」


 持ち主が通っていないところに、傘だけがあった。

 あの日にも、変だと思った。

 誰かが持っていったのだろうか。でも、その人が持っていたところも、捨てたところも、俺は見ていない。


「お母さんが、学校にも話してくれたの。でも……誰が持っていったのか、分からなくて」

「そっか。場所のことも、伝えておいて。俺に聞きたいことがあったら、説明するから」

「うん。ありがとう」


 俺に分かるのは、見つけた時のことだけだった。

 それより前に何があったかまで、分かったように言うことはできなかった。


「今は、別の日傘、使えてる?」

「うん。お母さんと買いに行ったから」

「なら、よかった。まだ暑いしね」


 優子が頷いた。

 少し間が空いたので、俺は、夏休みに聞こうと思っていたことを思い出した。


「本も、読めた?」

「……うん。漫画も、小説も」

「そっか。何か面白いのあった?」


 優子は袋の端を揃えてから、顔を上げた。


「感想文に書いた本が……読み終わってから、前の方を読むと、違う感じがして」

「最初に気づかなかったことがある?」

「そう。何でもない会話だと思ってたところが、あとで……大事だったって分かるの」

「そういうの、もう1回見たくなるよね」


 少し笑ってくれた。

 さっきまで日傘の話をしていた時より、言葉が続いた。


「うん。だから、読み終わったのに、なかなか本棚へ戻せなくて」

「気になる。今度、題名教えてね」

「……うん」


 先生が教室へ入ってきた。

 俺は立ち上がり、傘を持ち直した。


「じゃあ、またあとで」

「うん。またね」


 自分の席へ戻り、リュックサックの脇へ傘を入れた。

 なくしたわけでもなかった物が、戻ってくると、少し嬉しかった。

 役に立ったと、優子が自分で話してくれたからかもしれなかった。


    * * 優子視点 * *


 空になった袋を畳み、リュックサックへ入れた。


 返せた。

 お礼も、自分で言えた。


 家を出る前には、袋を落とさないか、汚さないかと、そればかり気にしていた。教室へ着いてからも、膝へ載せたまま、席を離れられなかった。

 今は、中を確かめなくてもよかった。

 勝也くんのところへ、ちゃんと返せたから。


 顔を見られて、嬉しかった。

 久しぶりに名前を呼ばれた時には、すぐに返事をしたいのに、声が出るまで少し時間がかかった。

 あの人は、今日も待ってくれた。

 私が座っていたから、目が合うところまでしゃがんでくれた。


 また話せる。

 そう思った時、近くで椅子が引かれた。


 美咲さんが立ち上がっていた。

 莉奈さんへ何かを言いながら、机の横を通る。

 私はリュックサックの口を閉じ、足を少し引いた。


 押されたわけではない。

 何も言われていない。

 それでも、莉奈さんに肩を押され、机へぶつかった時のことを思い出してしまった。


「廊下に並んで。体育館へ移動するぞ」


 先生の声で、私も立った。

 筆箱は机の中へ入れた。提出する感想文は、ファイルに挟んである。

 席を離れる前に、もう1度、リュックサックの口を指で押さえた。


 勝也くんの傘は、もう入っていない。

 そう考えて安心したあと、自分の物はまだここにあるのだと思った。


     * * *


 体育館では、膝の上へ手を置いて先生の話を聞いた。


 夏休みのこと。これからの学校生活のこと。

 休みの間に遅くなった生活の時間を戻すようにと言われ、前の列の子が、小さく欠伸をした。


 私も、昨夜はなかなか眠れなかった。

 朝になってほしくなくて、暗い部屋で制服を見ていた。

 でも、今はこうして、学校にいる。


 休みの前にあったことを、美咲さんたちは、もう忘れているかもしれない。

 そう思いたかった。

 今朝は、私の机の上には何もなかった。筆箱も、まだ自分で置いたところにあった。

 それだけでは何も決まらないと分かっていても、今日こそ何もなければと願っていた。


 長い話が終わり、立ち上がった。

 足の裏が少ししびれていたので、ゆっくり体重をかける。


「富田さん、大丈夫?」


 綾香さんが、横から聞いてくれた。


「……うん。ちょっと、足が……」

「私も。途中で動かせばよかったね」


 綾香さんは、列が進むのを待ちながら足を揃えた。

 私も同じようにしてみた。何かを笑われたわけではなかったので、少しだけ顔を上げて歩けた。


「今日、図書室の当番表、見に行く? 帰る前に」

「……うん。見て、おきたい……」

「じゃあ、あとでね」


 頷いた。

 部活は辞めたけれど、図書委員の仕事はある。

 綾香さんとは、これからも同じ当番の話ができる。そのことが、少し嬉しかった。


 清掃を終え、教室へ戻った。

 椅子はあった。机の中の筆箱も、自分の物だった。

 席へ座ってからファイルを開き、感想文の表紙まで確かめる。


 まだ、大丈夫だった。


 ほかの人は、提出する物を机へ出していた。

 私も同じように重ねた。先生が戻ってくるまで、少し時間があるらしかった。


 前の方から笑い声がした。

 顔を上げると、奈々さんが勝也くんの机の横にいた。


「目覚まし、増やせばいいってこと?」


 奈々さんが言った。

 勝也くんは、自分の方を指しながら首を振った。


「増やす前に、置く場所変えたら? 寝たまま止められないところ」

「それ、止めに行ったあと、戻って寝たら同じじゃない?」

「戻らなきゃいいんだよ」

「そこができたら、最初から起きてるって」


 奈々さんが笑った。

 勝也くんも、確かに、と笑っていた。


 私は、自分の席に座ったまま、その様子を見ていた。

 間を人が通ると、勝也くんの顔は見えなくなった。

 話し声が重なると、言葉も全部は聞き取れなかった。


 それでも、奈々さんが何か言い、勝也くんがすぐに返していることは分かった。

 奈々さんだけが話しかけ続けているのでもなかった。

 勝也くんの方からも、顔を上げて何かを尋ねている。


「じゃあ、今朝は何で起きられたの?」

「今日くらいは頑張ったから」

「それを明日もやればいいんじゃない?」

「それ、何も考えてくれてないでしょ」


 奈々さんが、勝也くんの持っていた連絡の紙を指した。

 勝也くんは紙を見てから、また何かを言った。そこは、後ろを通った人の声に重なった。

 奈々さんの肩が揺れ、勝也くんも笑った。


 夏休みの前にも、あんなふうに話していた。

 宿題や部活の話をしながら、私が自分の席から見ていた時と同じだった。


 いいな、と思った。


 声をかける理由を考えなくても、あそこへ行けることが羨ましかった。

 勝也くんが困らないか、忙しくないかと、何度も見直さなくても話し始められる。

 好きな人がほかの子と楽しそうにしているのを見ると、それだけで少し寂しかった。


 でも、今朝は私にも、本のことを聞いてくれた。

 奈々さんと話しているから、私と話したくないことにはならない。

 そう思って、机の上へ目を戻した。


 奈々さんは、勝也くんと、あんなに気軽に話せる人だった。

 私が知らない休み時間にも、きっと同じように話しているのだろう。


 感想文の表紙を、指で押さえた。

 私にも、次に話すことはある。

 題名を教えて、と言われた本のことを、あとで話せたらよかった。


    * * 勝也視点 * *


 問題集を重ねた箱は、持ち上げると思ったより重かった。


「これ、全部入れて大丈夫?」


 春樹が、底のところを覗いた。


「先生、入れてたけど」

「先生が入れたら破れないわけじゃないよ」

「じゃあ、半分にする?」


 もう1つの箱へ移すと、ちょうど同じくらいになった。

 名前を上にして揃え直し、両手を底へ回す。


「鵜飼、鶴見。職員室まで持っていってくれ。国語の分は、入口の近くの机に置いてもらえばいいから」

「はい」


 春樹が先にドアのところへ行った。

 俺はそのあとを追い、廊下へ出た。


 教室では、まだ感想文を出す順番になっていなかった。

 優子も自分の席で、紙を揃えているところだった。

 朝、話していた本の感想文だろうか。


 箱で前が見にくかったので、足元へ目を戻した。

 今日は全部出せれば、それでよかった。

 夏休みの間、机の端に積んであった物がなくなると思うと、まだ運んでいる途中なのに、少し気が楽になった。


    * * 優子視点 * *


 先生が、感想文の表紙へ書くことを黒板で確かめた。


 学年と組、名前。本の題名。

 私の紙には、全部書いてあった。


「確認したら、前へ出して。ほかの物と混ぜないようにな」


 廊下から呼ばれ、先生が出入口へ向かった。

 私はファイルから感想文を取り出した。

 家で何度も見直した文字が、教室の机の上にあった。


「それ、富田さんの?」


 美咲さんが、表紙を覗き込んだ。

 すぐ横には、莉奈さんもいた。


「……うん」

「見せて。何で書いたの?」


 題名へ指を向ける前に、美咲さんが紙を持ち上げた。

 私は、空いた机の上を見た。


「……今、出すから……」

「見たら返すよ」


 美咲さんは、表紙をめくった。

 莉奈さんが肩越しに覗き込み、近づいてきた玲奈さんも、下の方へ目を向けた。


「いっぱい書いてる」

「本読むの、好きだもんね」


 玲奈さんが言った。

 好きだということまで、変なことのように聞こえた。


 私は椅子から腰を浮かせた。

 返して、と言いたかった。

 でも、見ているだけだと言われたら、何と答えればいいのか分からなかった。


「……順番、変わっちゃうから……」

「変えないって」


 莉奈さんが、下から次の紙を引いた。

 上の角が表紙へ引っかかり、少し折れた。

 手を出しかけたところで、紙が美咲さんの方へ寄った。


「そんなに取らなくても、返すよ」


 私は手を止めた。

 まだ、自分の物へ触れてもいなかった。


「奈々、これ、知ってる?」


 美咲さんが声をかけた。

 自分の席へ戻りかけていた奈々さんが、こちらへ来た。


「本? 題名は見たことあるけど」

「富田さん、読んだんだって」


 奈々さんが、紙の方へ顔を向けた。

 4人が、私の感想文を見ていた。

 持っているのは美咲さんだった。莉奈さんが指で行をたどり、玲奈さんがその指の先へ目を寄せる。

 私だけが、すぐには読めない向きだった。


「ここ、何の話?」


 莉奈さんに聞かれた。

 立ち上がり、指されたところを見る。


「……最後の、場面のこと……」

「どんな場面?」

「それまで……言えなかったことを、話すところが……あって……」


 美咲さんが、紙から顔を上げた。


「誰が?」

「……主人公が……」

「誰に?」


 答えようとして、息を吸った。

 書く時には、どの部分を説明すればいいか分かっていた。

 今は、聞き返されるたびに、最初に言おうとしたことが抜けていった。


「相手の人に……ちゃんと、聞いたら……前に話してたことも、違う意味だったって……」

「え。どの話が?」


 莉奈さんが、もう1度同じところを指した。

 私は、自分の文を読もうとした。


「あの……そこだけじゃ、なくて。前から……」

「前から全部読まないと分かんないの?」


 美咲さんに言われ、口が止まった。

 説明が足りなかったのだろうか。

 お母さんに読んでもらった時には、私が話したいことは分かったと言ってもらえた。

 でも、読んでくれる人が変われば、それでは足りないのかもしれなかった。


「ちょっと……直すから。返して……」

「まだ見てるでしょ」


 返ってこなかった。


 教室の反対側では、真弓さんと綾香さんが、配られた紙を広げていた。

 その近くで、男子の笑い声がした。

 こちらで言われていることも、同じような普通の話に見えるのだろうか。

 私の声は、机の向こうへ届くだけで精いっぱいだった。


「夏休み、ずっと本読んでたんでしょ。少しは喋る練習したらよかったのに」


 莉奈さんが言った。


「……ずっと、じゃ……」

「でも、朝は喋ってたよね」


 奈々さんだった。

 私は顔を向けた。


「鵜飼君には、今より普通に話してたじゃん」

「……傘の、お礼を……言ってたから……」

「分かってる。それくらいの声でいいんじゃないってこと」


 私には、それが難しかった。

 勝也くんは、返事が遅くても、途中で別のことを聞かなかった。

 どこか分からないところがあれば、そこだけを、もう1度聞いてくれた。


 そのことを言ったら、私たちの聞き方が悪いの、と聞かれるだろうか。

 そう考えて、唇を閉じた。


「鵜飼君、優しいもんね」


 美咲さんが言った。

 その声に、少しだけ顔を上げてしまった。


「誰にでもああやって、いい人ぶってるだけじゃない?」


 違う、と思った。


「……勝也くんは、そんな人じゃない」


 口に出したあとで、美咲さんと目が合った。

 莉奈さんも、こちらを見ていた。


「へえ」


 美咲さんが、少し笑った。

 私は、感想文へ目を落とした。


「そういうことは、すぐ言えるんだ」


 怖くなった。

 何も言わなければよかったのかもしれないと思った。でも、勝也くんが、よく思われたいだけで優しくしているとは、どうしても思えなかった。

 誰も見ていない公園でも、話を聞いてくれた。

 帰る時には、自分の傘を貸してくれた。

 私がいないところで、日傘を拾って、家まで届けてくれた。


 それを、嘘みたいに言われるのが嫌だった。


「別に、悪口言ったわけじゃないけど」


 美咲さんが言った。


「そんなに庇わなくてもよくない?」


 莉奈さんが、私を見てから美咲さんへ顔を向けた。

 2人の口元が緩んだ。

 何を思われたのか、聞かなくても分かる気がした。


 好きなの、と聞かれたら。


 指先が冷たくなった。

 今、ここで、そのことだけは話したくなかった。

 勝也くんには、まだ何も伝えていない。自分の気持ちなのに、誰かが先に言葉にして、勝手に持っていってしまいそうだった。


「……本当に、親切に……してくれたから……」


 そこまでしか言えなかった。

 美咲さんは、ふうん、と答えた。


「じゃあ、私たちにもそのくらい返事してよ」


 話が戻った。

 戻ってくれたことに、ほっとしてしまった。

 それでも、莉奈さんがまだ私を見ているのが分かり、顔を上げられなかった。


 美咲さんが、感想文を机へ置いた。

 私は、ようやく返してもらえたと思った。


「忘れないように、書いとけば?」


 莉奈さんが鉛筆を持っていた。

 表紙の名前の下へ、先が下りた。


 大きな声で話しましょう。


「……やめて……」


 紙を押さえた。

 最後の文字の横へ、鉛筆の線が少し伸びた。


「動かすから、変になったじゃん」

「それ……出す物、だから……」

「鉛筆だよ。消えるでしょ」


 莉奈さんが手を離した。

 玲奈さんが、私の押さえたところを見た。


「今くらいの声なら、聞こえたよ」


 美咲さんが笑った。

 莉奈さんも、鉛筆を指の間で持ち直しながら笑った。


 私の声が聞こえるかどうかを、試していたのだろうか。

 聞こえたのなら、やめてと言ったことも分かったはずだった。


「……書かないで、ほしかった……」


 表紙を見たまま言った。

 字が増えたところに、指を置けなかった。


「だから、消せばいいじゃん。変なこと書いてないし」


 莉奈さんは、それで終わりにした。


 国語のノートに書かれた字を思い出した。

 あれは、誰が書いたのか見ていない。消しゴムでこすっても、消えなかった。

 今日は、目の前で書かれた。

 やめてと言ったのに、紙に手を置くまで止まらなかった。


 見ていれば大丈夫だと思っていた。

 自分で持っていれば、どこかへなくなることも、勝手に何かをされることも減ると思っていた。

 でも、返してと言っても返してもらえなかったら、私には取り戻すことさえ難しかった。


 奈々さんが、ばらけた紙を重ねた。


「順番、変わってないからね」


 端を揃え、私の方へ置いた。

 折れた角は、そのままだった。


「……うん……」


 それしか返せなかった。

 4人が離れていってから、私は椅子へ座った。


 自分の机だった。

 筆箱も、ファイルもある。

 さっきまで、全部あったと安心していた場所で、感想文を開くのが怖くなっていた。


     * * *


 消しゴムを、紙の端へ当てた。


 莉奈さんの字は、私の名前より濃かった。

 少しこすっただけでは、線が残った。

 名前まで消さないように、細いところを使って、少しずつ動かす。


 大きな声で話しましょう。


 消している間も、読めてしまった。

 言われたことを忘れないようにと、自分で書いたみたいだった。


 私は、何を思ったか書いてきた。

 面白かったところも、読み直したくなった理由も、自分で選んで書いた。

 その前に、この言葉を読まれるのは嫌だった。


 もう少し強くこすった。

 紙が、指の下でずれた。

 慌てて止めると、さっき折れた角のそばに、細いしわが寄っていた。


 これ以上やると、破れる。


 手を止め、消しゴムのかすを集めた。

 字は、薄くなっていた。

 けれど、紙を少し傾けると、押された跡がまだ分かった。


 誰かに読まれなければいい。

 そう思ってから、悲しくなった。

 先生に読んでもらうために、時間をかけて書いた物だったのに。


 折れた角を、爪を立てないように伸ばした。

 表紙と下のページを揃える。

 順番は変わっていなかった。それだけで、元に戻ったわけではなかった。


 ドアが開き、勝也くんと春樹くんが戻ってきた。

 箱は、もう持っていなかった。


「置く場所、最初から机に書いてあればよかったのにね」

「うん。でも、これで終わり」


 春樹くんの声がした。

 勝也くんは手のひらを軽く払ってから、自分の席へ向かった。


 顔を見ると、さっき私が言った言葉を思い出した。


 勝也くんは、そんな人じゃない。


 私は、そう思っていた。

 今も、思っている。

 だから、ここへ来てくれたら、何があったのか話せるかもしれない。


 感想文を、少し持ち上げた。

 その向こうで、美咲さんがこちらを見た。


 私は紙を下ろした。


 庇ったことを、すぐにからかわれた。

 今、勝也くんを呼んだら、また同じ顔をされるだろうか。

 あの人へ何か話すことまで、見られている気がした。


 先生が戻ってきた。


「まだ出していない人は、出して。それが済んだら、明日の連絡をするから」


 立ち上がり、感想文を持っていった。

 教卓の上へ置く前に、表紙をもう1度だけ見た。

 全部消えたのか、やっぱり分からなかった。


 次の人が近づいてきたので、手を離した。

 私の紙の上へ、別の感想文が重なった。


 もう、直せなかった。


 席へ戻ってからも、鉛筆の跡が目の前にあるようだった。

 夏休みの間に何を書こうか考えていた時間が、あの言葉を消していた時間に押しのけられていた。


 連絡帳を出した。

 明日からは、いつもの授業と給食が始まる。

 先生が黒板へ書く物を、順に写した。


「それから、金曜日には席替えをするぞ」


 近くで、楽しみにする声がした。

 窓際がいいと言った人へ、日が当たると暑いよ、と誰かが返していた。


 私は、席替え、と小さく書いた。

 美咲さんたちから離れられるかもしれない。

 そう思ったけれど、どこになるかは分からなかった。

 今の席より、もっと話しかけにくい場所になることもある。


 金曜日までは、まだ何日もあった。

 まず明日、同じところへ来なければいけなかった。


    * * 勝也視点 * *


 帰りの挨拶が終わると、教室が急に騒がしくなった。


 連絡帳をしまい、リュックサックを持ち上げる。

 来た時より、ずっと軽かった。


「翔太、宿題、置いてきてない?」

「出したよ。全部」

「いや、この軽さ、ちょっと不安にならない?」


 持ち上げて見せると、翔太も自分の物を揺らした。


「分かる。教科書、忘れたみたい」

「今日は持ってこなくていい日だからね」


 春樹が言った。

 俺は笑って、机の中へ最後に手を入れた。

 何も残っていないことを確かめてから、立ち上がった。


 綾香が、優子の席のそばにいた。


「じゃあ、当番表、見に行こうか」

「……うん」


 優子がファイルをしまい、ファスナーを閉めた。

 こちらを向いたので、俺も顔を向けた。


「図書室?」

「……うん。当番の、確認に……」

「そっか。俺も部活、顔出してくる」


 頷いてから、優子は口を少し開いた。

 何か話そうとしている気がして、待った。


「本の……」

「あ、さっきの。俺も題名、聞こうと思ってた」


 優子が、自分のリュックサックの方を見た。


「今日、持ってきてなくて……」

「持ってこなくても大丈夫だよ。題名聞けば、俺も探せるし」

「うん……」

「また明日、聞いてもいい?」


 顔が上がった。

 優子は、俺を見て頷いた。


「……うん」

「じゃあ、またね」


 綾香と一緒に、教室を出ていった。

 短い返事だったけれど、約束はできた。

 俺も、自分のリュックサックを肩へかけた。


     * * *


 翔太とは、途中まで同じ方へ歩いた。


「勝也、今日もお菓子あるの?」

「分かんない。連絡だけって聞いてるけど」

「それであったら、ずるくない?」

「何が?」

「こっちは体育館だぞ」

「お菓子が出ても、俺が決めたわけじゃないでしょ」


 翔太が、あったら教えろよ、と言った。

 聞いたら余計に羨ましくなるだけではないかと思ったが、分かった、と答えておいた。


 曲がり角の向こうに、山崎先輩がいた。

 俺たちに気づくと、軽く手を上げてくれた。


「鵜飼くん。鳥居くんも、おはよう」

「おはようございます」


 俺に続いて、翔太も挨拶をした。

 今日は、いつもの声だった。

 先輩が、にこっと笑った。


「部活?」

「はい。これからです」

「暑いから、気をつけてね」

「はい。じゃ、勝也、またな」


 翔太は先輩へ頭を下げ、体育館の方へ行った。

 数歩先で、こちらを振り返った。

 何か言うのかと思ったら、俺にだけ口を動かした。


 多分、お菓子、と言っていた。


「どうしたの?」

「いや。何でもないです」


 笑ってしまったので、何でもなくはなさそうな顔をされた。


 部室へ着くと、靴を脱いで上がった。

 今日は、お茶を点てる準備はしていなかった。部長が次の活動について話し、先輩たちが、使った物を戻した場所を確認していた。


 俺も呼ばれ、棚の上へ置く箱を持ち上げた。


「そこ、届く?」

「はい。手前でいいですか?」

「うん。ありがとう」


 置いてから、隣の箱へぶつかっていないか確かめた。

 名前を覚えた道具が増えて、言われた物を探す時、前ほど迷わなくなっていた。

 俺が点てるわけではないけれど、どこに何があるか分かると、手伝えることは増えた。


 片づけが済むと、部長が袋を出した。


「これ、少し食べていって。芋けんぴ」


 翔太に、あったと報告することになった。

 俺は出してもらった分を受け取り、先輩たちと座った。


「宿題、ちゃんと出せた?」


 山崎先輩に聞かれ、頷いた。


「はい。なくなったら、リュック、すごい軽くなりました」

「明日は教科書、忘れないでね」

「さっき、同じこと言われました」


 先輩が笑った。

 俺も笑いながら、芋けんぴを1本取った。


「学校始まる前は、休み、もう少し欲しかったんですけど」

「来たら、そうでもなかった?」

「はい。久しぶりに話せた人もいたし」


 優子が、感想文の本について話していた顔を思い出した。

 読み終わってから、もう1度、前を読みたくなったと言っていた。

 俺にもそういうことはあった。今度は、何が面白かったのか、もう少し聞けるとよかった。


「じゃあ、明日も起きられそうだね」

「そこは、ちゃんと目覚ましかけます」


 奈々と話していたことを思い出して、少し笑った。

 俺だって、休みの間は起きるのが遅くなった日がある。

 教室で言った手前、明日、自分が遅れていくわけにはいかなかった。


 食べ終えてから、使った物を片づけた。

 まだ昼前だった。

 外へ出ると、校門へ向かう生徒が何人かいて、俺も同じ方へ歩いた。


 明日から、またいつもの学校だった。

 授業があって、給食があって、休み時間には友達と話せる。

 早く終わった今日より、話せる時間もありそうだった。


    * * 優子視点 * *


 図書室で当番表を確かめ、綾香さんと昇降口で別れた。

 綾香さんは部活へ行き、私は日傘を差して帰った。


 家の鍵を開けると、お母さんの声がした。


「おかえり。暑かったでしょう」

「うん。ただいま」


 日傘を閉じた。

 今日は、自分で持って帰れた。

 留め具を掛け、置いてから靴を脱いだ。


「傘、返せた?」

「うん。朝、渡せたよ」


 お母さんが、よかったね、と言った。

 私も頷いた。


「それで、前の日傘が見つかったところも、教えてもらったの」

「どこだったの?」


 勝也くんから聞いた公園を説明した。

 お母さんは、私が普段帰ってくる道を確かめた。


「その日も、そちらには行ってないのよね」

「うん。学校から、いつもの道で帰ったよ」

「そう。場所が分かったことは、学校にも伝えておくね」


 お母さんは、忘れないようにと紙へ書いた。


「鵜飼くんが、聞きたいことがあったら説明するって」

「そう言ってくれたの。ありがとうって、また伝えてね」

「うん」


 お母さんが紙を置いた。

 その手元を見ていると、感想文の表紙を思い出した。


 今日も、書かれた。

 そう言ったら、お母さんは、ペンを持ち直すだろうか。

 誰に、何を、と聞いてくれるだろうか。


 私は、リュックサックの紐を握った。


 鉛筆だった。消せた。

 そう言われたことが、ここでも口を塞いでいた。

 嫌だったと話したいのに、消した紙は、もう手元になかった。

 ちゃんと説明しようとしたら、勝也くんの話でからかわれたことまで話すことになる。


「お昼、もう少し待てる?」

「うん。先に着替えてくるね」


 部屋へ上がった。

 ドアを閉めてから、肩の力を抜いた。

 もう、返事を急かす人はいなかった。


     * * *


 昼ご飯を食べ、部屋へ戻ったあと、机の引き出しを開けた。


 感想文の下書きが、残っていた。

 消して書き直したところに、矢印で言葉を足してある。

 その字は、自分で書いた物だった。


 お母さんに、どこが好きだったのか聞かれたことを思い出した。

 うまく説明できなくて、本を開いて見せた。

 この人は、前にはこんなことを言っていたのに、と話すと、お母さんは、前のページへ戻ってくれた。


 その時間まで、今日の教室と同じにしたくなかった。


 下書きを、最後まで読んだ。

 途中で説明を足したくなるところはあったけれど、何を書こうとしたかは分かった。

 私は、あの本が好きだった。

 好きだから、頑張って書いたのだった。


 そう思うと、悔しくなった。


 紙を返してほしかった。

 書かないでと言ったら、やめてほしかった。

 大きな声が出せなくても、私の物へ勝手に字を書いていいことには、ならないはずだった。


 下書きを置き、両手を膝へ下ろした。

 ここでは分かることが、あの人たちの前では、うまく言葉にならなかった。

 また明日、同じように言われたら、今日よりはっきり言えるかは分からない。


 しばらく座ってから、連絡帳を開いた。

 明日は授業がある。

 使う教科書を出し、ノートを重ねた。


 国語のノートは、表紙を開かずに入れた。

 あの黒い字を、今からもう1度見るのは嫌だった。

 学校へ持っていかなければ使えないし、持っていけば、また何かをされるかもしれない。

 しまい終わっても、明日の支度ができたとは思えなかった。


 本棚から、感想文に選んだ本を取った。

 勝也くんに、題名を聞かれていた。


 教室では、うまく話せなかった。

 何を話しても、近くで美咲さんたちが聞いている気がした。

 それでも、また明日と言ってもらえた時は、嬉しかった。


 勝也くんは、そんな人じゃない。


 口にした時の怖さと一緒に、あの言葉を思い出した。

 朝、私の隣へしゃがんでくれた人を、美咲さんに言われたとおりには思えなかった。

 私が話し終えるまで、待っていてくれた。

 あの優しさまで、疑いたくなかった。


 小さな紙へ、本の題名を書いた。

 明日、言葉が出なくなっても、これなら見せられる。

 本そのものを学校へ持っていくのは、まだ怖かった。


 紙を連絡帳の間へ挟んだ。

 教室へ戻ることを考えると、胸の辺りが苦しくなった。

 それでも、勝也くんと話す約束まで、諦めたくなかった。


 明日、この紙を出せるといい。


 そう思いながら、端が折れないように、そっと連絡帳を閉じた。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

 優子から傘を返してもらい、壊れた日傘を拾った場所を伝える。夏休みに読んだ本の話にも耳を傾け、翌日も話す約束をする。


・富田優子

 勝也へ傘を返し、自分の言葉でお礼を伝える。感想文への嫌がらせを受ける中、勝也の優しさを悪く言われると思わず庇う。


・鶴見春樹

 提出物を気にする翔太や勝也に、落ち着いた言葉を返す。勝也と一緒に、集めた宿題を職員室へ運ぶ。


・鳥居翔太

 登校前の公園で感想文を確かめ、仲間と賑やかに新学期を迎える。詩織にはいつもの声で挨拶し、茶道部のお菓子も気にしている。


・加藤真弓

 始業式の朝も仲間と公園で合流する。家を出てから提出物を心配し始めた翔太に、すかさず言葉を返す。


・井上綾香

 始業式のあと、足のしびれた優子を気遣う。帰る前には一緒に図書室へ行き、当番表を確認する。


・戸田美咲

 優子の感想文を取り上げ、返してほしいという頼みに応じない。勝也の優しさを疑う言葉を向け、庇った優子をからかう。


・富永莉奈

 優子の話し方を責め、感想文の表紙へ「大きな声で話しましょう」と書く。嫌がる優子に、鉛筆だから消せばよいと言い放つ。


・杉浦玲奈

 美咲たちと優子の感想文を覗き込む。書き込みを止めようとした優子に、今くらいの声なら聞こえたと告げる。


・大島奈々

 勝也と早起きの話で気軽に冗談を交わす。一方で感想文を囲む輪にも加わり、優子へ勝也と話す時のように喋ればよいと指摘する。


・優子の母(富田美和)

 優子が傘を返せたことを喜ぶ。壊れた日傘が見つかった公園を聞き取り、学校へ追加で伝えるために書き留める。


・山崎詩織

 廊下で勝也と翔太に挨拶し、部活へ向かう翔太を気遣う。茶道部では勝也と宿題や新学期の話を交わす。


・茶道部の部長と先輩たち

 次の活動予定や道具の置き場所を確認し、勝也にも片づけを頼む。作業後には芋けんぴを分け、和やかな時間を過ごす。


・1年3組の担任

 夏休みの宿題を集め、翌日の授業や金曜日の席替えを知らせる。優子が感想文への嫌がらせを受けている間は、出入口へ離れている。

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