↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
14/52

第12話 夏の終わり


    * * 勝也視点 * *


 夏休みが、あと少しになった。


 それは分かっていたのに、春樹の部屋で問題集を開くと、まだ白いところがあった。

 やったページの間に、やっていないページが挟まっている。難しかったので後回しにして、そのままになっていたところだった。


「勝也、そこ飛ばしてる」

「今、見つけた」

「よかったね。提出する前で」


 春樹は、自分のノートを俺の方へ寄せた。

 答えが見える向きではなかった。同じような問題を解いたところだけ、別の紙で隠さずに残してある。


「これと同じやり方でできると思う。数字だけ、ちゃんと見て」

「うん」


 隣では、翔太が原稿用紙を前に腕を組んでいた。

 持ってきたゲーム機は、鞄の上へ置かれている。宿題が終わってから、と春樹に言われたので、まだ触れないらしい。


「翔太は、何が残ってるの」

「作文」

「どこまで書いた?」


 春樹が聞くと、翔太は紙の上を指した。


「名前と組」

「それ、まだ書いてないって言うんだよ」

「提出した時、誰のかは分かるだろ」

「誰の白紙か分かっても困るでしょ」


 笑ったら、俺の鉛筆まで止まった。

 春樹の顔がこちらへ向いたので、慌てて問題へ戻る。


 今日は、昼ご飯を食べてから集まった。

 宿題が全部終わっている春樹に、残ったところを見てもらう約束だった。

 俺は作文の下書きも途中だったけれど、翔太は作文以外なら終わっていると言った。

 本当かと思って数学の問題を聞くと、すぐに説明してくれた。


「そこ、先にかけなくてよくね?」

「え?」

「こっちをまとめれば、数字小さくなるじゃん」


 翔太は、自分の原稿用紙をよけ、俺のノートの端を指した。

 言われたとおりに書くと、さっきまで何度も間違えていた計算が短くなった。


「……できた」

「だろ」

「翔太、これ分かるのに作文は書けないんだね」

「別の話だろ!」


 春樹まで笑った。

 翔太は俺のノートから手を離し、名前だけ書いた原稿用紙へ戻った。


「何を書けばいいかが分かんねえんだよ。夏休み、いろいろあったけど」

「その、いろいろから選べばいいんじゃない?」

「選んだあと、どう書くんだよ」

「まず、何を選んだか教えて」


 春樹に言われ、翔太は少し考えた。

 俺はその間に、次の問題へ進んだ。


 しばらくすると、部屋の中で鉛筆の音が続くようになった。

 冷房の風で、テーブルの隅に置いた紙が少し動く。春樹が筆箱を載せ、俺が飲み終えたコップを端へ寄せた。


 こうしていると、宿題はちゃんと進んだ。

 家でやっている時も、同じように座っているはずなのに、不思議だった。

 俺が時計を見たあとに漫画の背表紙へ目を向けると、その前で春樹の顔が上がった。


「まだ、休憩じゃないよ」

「何も言ってないじゃん」

「次、どれ読むか考えてたでしょ」


 当たっていたので、何も言えなかった。


 計算を終え、俺も作文の下書きを出した。

 夏祭りのあとに、みんなで花火をしたことを書いている。線香花火の玉が落ちたところで、昨日は続きを書くのをやめていた。


「それ、何で落としたんだっけ」


 春樹が聞いた。


「春樹の顔見て、笑ったから」

「じゃあ、そこも書けば?」

「どんな顔だったか?」

「違うよ。笑ったこと」


 俺は、下書きの続きを書いた。

 我慢しても笑い声が出て、手まで揺れたこと。すぐに落ちたので、みんなから早いと言われたこと。

 思い出しているうちに、書きたかったことが増えていった。


 楽しかったと書くだけでは、どの時のことか分からない。

 でも、翔太の声や、真弓に言い返されたことなら、まだよく覚えていた。


「……これで、どう?」


 紙を回すと、春樹は最後まで読んだ。


「うん。いいと思う。あと、ここの字」

「あ、ほんとだ」


 消して書き直した。

 翔太も少し遅れて紙を差し出し、春樹の指すところへ顔を寄せた。


 全部の直しが済んだ頃には、最初に入れてもらった麦茶の氷がなくなっていた。

 あとは、家で清書をすればいい。


「よし。終わり!」


 翔太が伸びをした。

 春樹は、まだ清書があるからね、と言ったけれど、今度はゲーム機を取っても止めなかった。


     * * *


 ゲームを始めようとした時、春樹のお母さんが、麦茶を持ってきてくれた。


「進んだ?」

「うん。あとは清書だけ」


 俺が答えると、お母さんは、よかったね、と笑った。

 コップへ麦茶を足してから、ふと思い出したように俺を見た。


「そういえば、勝也くん。この前、駅にいたでしょう。綺麗な女の子と」


 翔太の指が止まった。


「駅ですか?」

「うん。春樹と買い物に行った時。仲よさそうだったから、声をかけなかったんだけど」


 俺は春樹を見た。

 春樹も、見たよ、と頷いた。


「ああ。部活の先輩です」

「やっぱり、年上の子だったのね」

「1つ上です。茶道部の、2年生の先輩で」

「そう。楽しそうだったから、よかったなと思って」


 お母さんは、清書も忘れないでねと言い、部屋を出ていった。

 俺はコップを持ち上げた。


 その前に、翔太がゲーム機を閉じた。


「勝也」

「何」

「お前、彼女できたら言うって約束したよな」


 麦茶を飲めなかった。


「できてないよ」

「今、聞いたぞ」

「先輩と出かけたって話でしょ」

「2人で?」

「うん」

「それを、彼女できたって言うんじゃねえの!?」


 春樹が、声、と言った。

 翔太は少しだけ声を落としたけれど、俺へ寄ってきた距離は戻らなかった。


「付き合ってないよ。お店で甘い物食べて、本屋とか寄っただけ」

「デートじゃん!」

「出かけたことと、付き合ってるかどうかは別でしょ」


 春樹が言った。

 翔太は、今度は春樹へ顔を向けた。


「お前、見たのに黙ってたの?」

「勝也が出かけるたびに、翔太へ教えるわけじゃないから」

「そういうことじゃなくて!」


 何が違うのか、俺にも分からなかった。

 とりあえず麦茶を飲む。まだ冷たかった。


「どんな人?」

「どんなって」

「写真とか、ないの」


 聞かれ、携帯を出した。

 あの日、食べる前に撮った写真を開く。

 ワッフルとパフェの向こうに、白いブラウスを着た先輩が写っていた。


「これ。山崎先輩」


 俺が持ったまま画面を見せると、翔太は黙った。

 春樹が横から覗き、うん、この人、と言った。


「……この人、うちの学校?」

「そうだよ」

「本当に、2年?」

「何で、そこ疑うの」


 翔太はもう少し画面へ近づいた。

 さっきまで、あんなに大きかった声が出てこない。

 俺も写真を見ると、先輩と向かい合って座っていた時のことを思い出して、少し照れくさくなった。


「何で、出かけることになったんだよ」

「部活で話してて、誘ってもらって」

「先輩から?」

「うん」


 翔太は、両手を膝へ置いた。


「俺が、うちでそうめん食ってる間に……」

「その日、そうめんだったか分かんないでしょ」


 春樹が言った。


「うち、結構そうめん出るんだよ」

「そうめんの話じゃないと思うけど」


 俺は笑ってしまった。

 翔太がこちらを見たので、携帯を閉じた。


「笑うなよ。何の話したら、そんなことになるんだよ」

「彼女ができたら、どこへ行きたいかとか。そういう話だったと思う」

「お前、何て答えた?」

「向こうが行きたいところなら、俺も行ってみたいって」

「……それでいいの?」


 翔太が春樹を見た。

 春樹は、俺に聞かれても、と答えた。


 先輩たちに聞かれたことを、思い出せるところだけ話した。

 好きな人に笑っていてほしいこと。自分がされて嫌なら、彼女がいる時にほかの女子と2人では出かけないと思うこと。

 同じことを友達の前で言うのも、やっぱり少し恥ずかしかった。


「俺だって、彼女には笑っててほしいけど」

「うん」

「俺も、そういう話をする機会があれば……」

「今、してるね」

「お前らに話して、どうすんだよ!」


 春樹がまた、声、と言った。


「それで、付き合おうとかは、言われてないの?」


 今度は春樹が聞いた。

 俺は少し考え、先輩が駅で話したことを思い出した。


「今すぐ、付き合おうとは言われてないよ。彼女が欲しくなったら、声掛けてって」


 翔太の口が開いた。


「……言われてんじゃん!」

「だから、その時、先輩に彼氏がいなくて、俺も先輩と付き合いたいと思ったらって」

「何が違うんだよ!」

「今は、付き合ってないところ」


 俺が答えると、春樹は頷いた。

 翔太だけは、まだ納得していない顔だった。


「もっと話してみたいって言ってくれたんだよ。付き合ってから好きになることもあるって」

「じゃあ、勝也は?」

「俺は、まだ……よく分かんない」


 好きな人を思い浮かべるなら、誰になるのだろう。

 あのお店で、優子の隣を歩くことを考えた。

 先輩と手を繋ぐことも、考えた。

 けれど、想像した時に嬉しかったから、すぐに誰かへ付き合ってほしいと言えるわけではなかった。


 翔太と春樹まで思い浮かべたことは、今は黙っておいた。

 そこまで話すと、また別の騒ぎになりそうだった。


「でも、先輩とは、また遊びたいと思ったよ。本とか、アニメの話もできるし」

「まだ、ほかにも会ってんの?」

「この前、家でアニメ見た。先輩のお母さんもいたから、居間で」


 翔太が、ゆっくり前へ倒れた。

 額がテーブルへつきそうになっていた。


「……お母さんにまで、会ってんのかよ」

「俺たちも、今、春樹のお母さんに会ってるけど」

「その会い方と、違うだろ……」


 少し気の毒になった。

 でも、何を言えば慰めになるのか、俺には分からなかった。


「先輩の前では、ちゃんとした顔してんだろうな」


 翔太が、下を向いたまま言った。


「普通にしてるよ」

「俺らと一緒に、エロ本拾いに戻ったくせに」

「翔太、声!」


 春樹と俺の声が重なった。

 間に合わなかった。


 廊下から、足音が近づいてきた。


「……何を拾ったの?」


 春樹のお母さんが、入口から顔を出した。

 俺たちは同時に黙った。

 翔太が、しまったという顔で俺を見た。俺を見られても、今の言葉は取り消せなかった。


「その、落ちてて……」

「持って帰ったの?」


 翔太が、小さく頷いた。

 お母さんの目が春樹へ動く。春樹は、テーブルの上の原稿用紙を見ていた。


「廊下まで、丸聞こえよ。そんなに大きな声で話さないの」

「……はい」


 3人で答えた。

 お母さんはそれ以上聞かず、清書も今日のうちにね、と言って戻っていった。


 しばらく、誰も喋らなかった。

 春樹が、長く息を吐いた。


「俺、今日、ここで夕飯食べるんだけど」

「……ごめん」


 翔太の謝り方が素直だったので、笑いそうになった。

 笑ったら俺も怒られると思い、コップを持った。


 結局、遊ぶ時間はほとんどなくなった。

 帰る支度を始めると、翔太が鞄を持ったまま俺へ寄ってきた。


「なあ。その先輩、紹介してくれない?」

「会って、何話すの」

「お茶、おいしいですね、とか」

「飲んでないじゃん」


 春樹が、もう1度ため息をついた。


「先輩がいいって言ったらね。勝手には連れていけないから」

「うん。聞いといて」

「あんまり期待しないでよ」


 翔太は頷いた。

 けれど、その顔は、もう会えると思っているように見えた。


     * * *


 数日後、夏休み最後の部活の日になった。


 その日までに、翔太からは何度も、先輩には聞いたかと言われた。

 ゲームを始める前も、帰る時も聞かれた。

 俺はそのたびに、まだ、と答えていた。


 その日の茶道部は、学校の近くにある老人ホームへ行く予定だった。

 お茶を点てるのは先輩たちで、俺は荷物運びと準備、それから茶碗を運んだり下げたりする係だった。


「鵜飼くん、その箱、お願い」

「はい」


 部長に言われ、茶碗の入った箱を台車へ載せた。

 隣に、お盆を重ねた箱が置かれる。持ってきたのは、山崎先輩だった。


「今日は、飲む方はお客さんにお願いできるね」

「お腹、たぷたぷにならずに済みます」

「その代わり、腕が疲れるかも」


 先輩の言ったとおりになった。

 着いてから箱を運び、茶菓子のお皿を並べ、出来上がったお茶を席へ届ける。

 茶碗が空く前に次を飲むように言われることはなかったけれど、座っている時間もほとんどなかった。


「これ、あんたが点てたのかね」


 お茶を置くと、おじいさんに聞かれた。


「いえ。あちらの先輩です。俺は、運んできただけで」

「そうか。じゃあ、運んでくれた方に、ありがとうだ」


 嬉しかった。

 お盆を持って戻りながら、つい笑ってしまった。


 山崎先輩へ、さっきの人がおいしいと言っていたことも伝えた。

 先輩は、よかった、と笑った。

 俺が飲んだ時も、そうやって喜んでもらっていたのかもしれない。


 休憩になって水を飲んでいる時、ようやく、翔太のことを切り出した。


「俺の友達が、先輩に会ってみたいって言ってるんですけど」

「お祭りに一緒に行った子?」

「はい。バスケ部の、鳥居翔太っていう子です」


 駅で見られていたことと、その話を聞いた翔太が、俺に彼女ができたと思ったことを話した。

 会うたび紹介してと言われるので困っていると伝えたら、先輩は口元を押さえた。


「そんなに?」

「はい。俺がうちでそうめん食ってる間に、って」

「そうめん?」


 そこまで話すつもりはなかったのに、先輩が不思議そうにするので説明した。

 お昼ご飯は関係ないよね、と言いながら、先輩は笑った。


「いいよ。私も、会ってみたくなった」

「本当ですか」

「うん。今日も、学校にいるの?」

「午前中、部活だって言ってました。12時までって」

「じゃあ、私たちと同じだね。片づけのあと、少しなら大丈夫だよ」


 帰ったら、また聞かれるところだった。

 俺は、学校へ戻ったら伝えてきます、と答えた。


 そのあともお茶を運び、終わったら道具を拭いて箱へ戻した。

 施設の人から分けてもらったカステラを食べる頃には、腕が本当に疲れていた。


「ちゃんと、食べる方もするんだね」


 山崎先輩が言った。


「もらったので」

「うん。そこは、いつも通り」


 俺も笑って、残りを食べた。

 外へ出ると、朝より日差しが強かった。


 学校へ戻ってから、部長に断り、体育館へ行った。

 練習の合間に声をかけ、今日、先輩が会ってくれると伝える。


「……今日?」

「うん。部活のあと」

「あの写真の人?」

「ほかの人を紹介してどうするの」


 翔太はタオルで顔を拭いた。

 何日も言われていたのに、いざ決まると、俺が急に思いついたような顔をされる。


「校門で待ってて。こっちも、片づけが終わったら行くから」

「分かった。……なあ、髪、変じゃない?」

「まだ練習するんでしょ」


 翔太は、ああ、と言ってコートへ戻った。


 これで、ようやく紹介してと言われなくなる。

 部室へ歩きながら、その時は、そう思っていた。


     * * *


 校門にいた翔太は、背筋を伸ばして待っていた。


 髪が整っていた。

 シャツの襟も直し、鞄の持ち手を揃えている。

 俺を見つけても、いつものように大きく手を振らなかった。


「……あの子?」


 山崎先輩に聞かれ、頷いた。

 翔太はこちらへ少し顎を引き、薄く笑った。


「待った?」

「いや。今、来たところ」


 声が低かった。

 さっき体育館で聞いた声と違いすぎて、俺は思わず、翔太の喉を見た。


「山崎先輩。友達の、鳥居翔太です」

「1年の鳥居です。今日は、お時間をいただいて、ありがとうございます」


 俺は道の向こうを見た。

 翔太の顔を見ていたら、紹介を最後までできない気がした。


「山崎詩織です。よろしくね。そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」

「はい。よろしくお願いします」


 まだ、低い声だった。

 先輩が暑いから移動しようと言い、近くの公園へ向かうことになった。

 歩き出すと、翔太が俺の腕を軽くつついた。


「笑うなよ」

「今の声で話してよ」

「うるせえ」


 そこだけ、いつもの翔太だった。


 木陰のベンチへ着くと、先輩を真ん中にして、俺たちも座った。

 ほかには誰もいなかった。

 翔太は膝に鞄を載せ、先輩へ顔を向けた。


「こいつが、いつもお世話になってます」

「……お前、何の立場なの」


 笑う代わりに、声が出た。


「友達として、お礼言ってんだろ」

「こちらこそ。鵜飼くんには、荷物を運んでもらったりして、助かってるよ」


 先輩が答えると、翔太はゆっくり頷いた。


「それで、山崎さん」

「先輩は?」

「山崎先輩。その、うちの勝也とは、どういったご関係で?」

「うちの勝也って、何だよ」


 先輩の肩が揺れた。

 翔太は、まだ真面目な顔をしていた。


「同じ部活の、先輩と後輩だよ」

「それは、伺ってます」

「俺が言ったんだろ」

「今日は、先輩に聞いてるんだよ」


 俺は膝へ目を落とした。

 何もおかしくない顔をしようとしているのに、勝手に口元が緩む。


「2人で、お出かけになったとか」

「うん。お店に行って、本屋にも寄ったよ」

「お誘いは、どちらから?」

「私から。部活で話していて、もう少し話してみたいなと思って」


 翔太が俺を見た。

 だから、そう言ったじゃん、と目だけで返した。


「それで、うちの子の、どういうところがよかったんでしょうか」

「うちの子にまでなった!」


 先輩が、とうとう顔を伏せた。


「鳥居くん、お父さんみたい」

「大事な友達なので」

「同い年だよ。俺たち」


 その言葉だけなら、嬉しいはずだった。

 でも、今の翔太は、テレビで見る結婚の挨拶を受ける父親みたいだった。

 それだと、俺は隣に座っている娘なのだろうか。


「何で俺、嫁に出される方になってるんだよ」

「そこまでは、言ってねえだろ」


 先輩が顔を上げた。

 笑いすぎたのか、目元が少し濡れていた。


「話を聞いてくれるし、一緒にいて楽しいところかな。行きたいところの話をしたら、行ってみようって言ってくれるし」

「そうでしょう。昔から、そういう子なんです」

「育てたみたいに言うなよ」


 我慢できずに笑った。

 翔太は俺を睨んだあと、先輩へ向き直った。


「でも、俺だって、行きたいって言われたら行きますよ」

「今、お父さんの話はしてないよ」

「お父さんじゃねえよ!」


 いつもの声が出た。

 先輩まで笑うので、俺もなかなか止まらなかった。


「……それで、確認してもいいですか」


 翔太が、鞄の持ち手を握り直した。


「勝也に、彼女が欲しくなったら声を掛けてって。本当に、言ったんですか」


 先輩が俺を見た。

 俺は少し頭を下げた。


「話してたら、そこまで聞かれて」

「うん。どうやって聞かれたのか、今、分かった」


 先輩は翔太へ頷いた。


「言ったよ。その時に私に彼氏がいなくて、鵜飼くんも私と付き合ってみたいと思ったら、また話そうって」


 翔太は黙った。

 しばらくして、俺を見た。


「本当だった……」

「まだ疑ってたの?」

「99%は信じてたけど、残りの1%で、話を盛ってる可能性が」

「それで、何日も聞いてたんだ」


 翔太は鞄へ目を落とした。


「……盛っててほしかった」

「疑ってたんじゃなくて、願ってたんだね」


 先輩が口元を押さえた。

 俺は、会ってもらえば落ち着くと思っていたことを、少し後悔し始めていた。


「じゃあ、勝也のこと、彼氏にするのは、ありなんですか」


 翔太が聞いた。

 先輩は俺をちらりと見てから、翔太の方へ身を寄せた。

 口元へ手を添え、翔太の耳元で何か囁く。


 最初は、短い返事だったように見えた。

 それから、もう少し言葉を続ける。

 俺には、どちらも聞こえなかった。


 翔太の目が、少しずつ大きくなった。

 先輩が体を戻しても、その顔のまま俺を見ている。


「……何?」


 聞いたけれど、返事はなかった。

 先輩を見ると、口元を緩め、唇の前へ人差し指を立てた。

 俺の話をしているはずなのに、俺だけ分からない。


 翔太が、鞄をベンチへ置いて立ち上がった。

 俺と先輩を見て、何か言おうと口を開く。


「……何で、勝也ばっかりなんだよ……」


 そこで、膝が折れた。

 そのまま地面へ両膝をつき、前へ倒れるように両手もつく。

 頭ががっくりと下がった。


「ずるいだろ……そんなの……」

「俺に言われても」


 ベンチの前で丸くなった背中を見た。

 何を言われたのかも分からないまま、ずるいと言われても困った。

 さっきまで俺の父親みたいな顔をしていたのに、今は顔すら上がらない。


 先輩が、今、付き合うって決まったわけじゃないからね、と言った。

 翔太は地面へ向かって、分かってます、と答えた。

 分かっていても、そこから動けないらしかった。


「お前、よかったな」

「全然、よかったって思ってない声だけど」

「祝福しようとしてんだよ。ちょっと待て」

「だから、付き合ってないんだって」


 翔太はしばらくそのままでいたが、やがて体を起こした。

 立ち上がって手と膝についた土を払い、ようやくベンチへ戻ってくる。

 鞄を膝へ載せ直しても、背中は丸まったままだった。


 先輩が、また笑い始めた。

 翔太も、どう言えばいいか分からなくなったのか、両手で髪を押さえている。


「先輩、笑わないでくださいよ。俺、結構真剣なんです」

「ごめんね。でも、鵜飼くんが困ってたの、よく分かった」

「俺のこと、何て話したんだよ」

「紹介してって、何度も言われるって。あと、そうめんとか」

「うちの昼飯まで、話す必要あった!?」


 先輩が片手で顔を隠した。

 俺まで笑ってしまい、うまく返せなかった。


「詩織、あの、ちょっと待って」


 言ってから気づいた。


「ん? 何、勝也くん」


 すぐに返ってきた。

 翔太が動かなくなった。


「……詩織?」


 先輩が、楽しそうに俺を見た。

 俺は、今さら言い直しても遅いと思いながら、山崎先輩、と付け足した。


「呼び捨てだったよな。先輩も、勝也くんって」

「一緒に出かけた時、名前で呼んでほしいって、私が頼んだの」

「先輩から!?」

「もう、その聞き方、何回目なの」


 翔太が、また俺を見た。


「お前、そういうのは言っとけよ!」

「呼び方まで、全部話すと思わないじゃん。学校では先輩って呼んでるし、外でも、普段は詩織さんで……」


 説明するほど、話を増やしている気がした。

 先輩は、そうだね、と頷いた。


「詩織でいいよって言っても、さんがつくんだよね。勝也くん」


 最後の名前が、はっきり聞こえた。

 翔太が先輩を見た。


「先輩、今、面白がってませんか」

「……ちょっと」

「俺、いっぱいいっぱいなんですけど!」


 先輩は、ごめんねと言い、ようやく笑いを収めた。

 俺も息を吐いた。

 紹介しただけなのに、部活の荷物運びとは違うところが疲れていた。


     * * *


「先輩のお友達で、彼氏が欲しいって言ってる方とかは……」


 少し静かになったと思ったら、翔太が聞いた。

 途中から、低い声へ戻そうとしていた。


「その声、まだ出せたんだ」

「大事なところだから、黙っててくれ!」


 先輩が瞬きをして、それから頷いた。


「もしかして、そっちも考えてたの?」

「……はい」


 なるほど、と思った。

 会う前に髪や襟を直していた理由が、少し分かった。


「だから、ちゃんとしてたんだ」

「最初に、この子ならって思ってもらえたら、紹介してもらえるかもしれないだろ」

「それで、何で俺の父親になったの」


 翔太は黙った。

 先輩の肩が、また少し揺れた。


「今、ここで紹介できる子がいるよとは言えないの。その子の気持ちもあるし、鳥居くんとも今日、初めて話したところだから」

「……そうですよね」


 翔太は鞄の持ち手から、手を離した。

 さっきまでは、すぐに別の質問をしていたのに、今度は続かなかった。


「俺も、自分のこと好きになってくれる人、欲しいんですよ」


 声が小さかった。

 俺は、何か言いかけて口を閉じた。


「一緒に行こうって、言われたいし。俺といると楽しいって、思ってもらいたいです」


 先輩も、笑わなかった。

 膝へ置いた鞄を直し、翔太の方へ体を向けた。


「うん。勝也くんの話を聞いて、羨ましかったんだね」

「はい。かなり」

「今、気になる子はいる?」

「かわいいなって思う子はいますけど、誰か1人っていうのは、まだ」


 翔太の返事は、いつもよりゆっくりだった。

 彼女が欲しいとは何度も聞いていたけれど、今みたいな声で言うところは、あまり見たことがなかった。


「どうしたら絶対にできる、とは言えないけど。まずは、話してみたいなと思った子と、少しずつ話してみたら?」

「普通に、ですか」

「うん。その子もまた話したそうだったら、次に会った時も。鳥居くんの方も、もっと一緒にいたいなって思うかもしれないし」

「俺、変なことまで言いそうで」


 翔太が俺を見た。

 黙っていたら、今、そう思っただろ、と言われた。


「……ちょっと。でも、俺は翔太と喋るの、面白いよ」

「お前と女の子は違うだろ」

「それは、そうだけど。ゲームしてない時でも笑うし、お菓子作った時の話とかも、面白いじゃん」


 先輩が顔を上げた。


「お菓子、作るの?」

「時々です。クッキーとか」

「へえ。どんなの作るの?」


 翔太は少し迷ってから、焼いた時の話をした。

 同じくらいに分けたつもりでも、1枚だけ大きくなって、そこだけ焼けるのが遅くなったらしい。

 形を説明する時には、鞄から両手が離れた。


「ほかのと一緒に取ろうとしたら、真ん中で折れちゃって」

「じゃあ、大きいのだけ、もう少し焼いたんだ」

「はい。ちょっとずつ見ながら」


 翔太の声は、普通に戻っていた。

 先輩が続きを聞くと、すぐに答えていた。


「今の話、楽しかったよ。鳥居くんが普段何してるのか、最初より分かったし」

「こういうので、いいんですか」

「うん。私がどんなお菓子を好きか聞いてくれても、そこから話せるでしょ」


 翔太は少し考えて、頷いた。

 先輩は、すぐに誰かを紹介するとも、彼女ができるとも言わなかった。

 それでも、翔太の話を最後まで聞いてくれた。


 会ってもらってよかったと思った。

 最初は、俺に何度も聞かれるのが困るからだった。

 でも、翔太がさっきのことを俺だけに聞いていたら、こんなふうには答えられなかった気がする。


「ありがとうございました。ちゃんと聞いてもらって」


 翔太が頭を下げた。

 最初の挨拶より、ずっと普通だった。


「また学校で会ったら、話そうね。バスケの話も聞きたいな」

「はい」


 今度は、その返事だけで終わった。


 帰ることになって立ち上がると、急にお腹が空いているのに気づいた。

 カステラを食べたのは、もうだいぶ前だった。

 公園の出口で先輩と別れ、翔太と2人で歩き出した。


「……何か、負けた気がする」

「何に?」

「分かんないけど」


 翔太は下を向いていた。

 告白したわけでも、断られたわけでもないのに、大きな試合に負けた時みたいだった。


「紹介してくれたのは、ありがとな」

「うん」

「綺麗な人だったな。話も、ちゃんと聞いてくれたし」


 俺も頷いた。

 そのまま、しばらく歩いた。


「……茶道部、入ればよかった」

「バスケ、好きなんでしょ」

「好きだけど。それとは、別で」

「毎回あの声で挨拶してたら、大変そうだね」

「毎回は、やらねえよ!」


 俺が笑うと、翔太も少し笑った。

 直していた襟へ指を入れ、息を吐く。


「結構、喉、疲れた」

「練習のあとに、何やってるんだよ」


 また笑った。

 ようやく、いつもの帰り道になった。


     * * *


 家へ帰り、昼ご飯を食べ終えた頃、山崎先輩からメールが来た。


『今日は紹介してくれてありがとう。鳥居くん、楽しい子だね。帰りは大丈夫だった?』


 俺は、会えてよかったと喜んでいたことを返した。

 そのあとも羨ましいと言っていたことは、少しだけ書いた。


 返事には、クッキーの話が面白かったと書いてあった。

 また学校で話そうと伝えてね、と続いていた。


『次は、いつもの声で大丈夫だから(笑)』


 そこまで読んで、声が出た。

 次に翔太へ会った時に伝えよう。

 何て言ってた、ほかには、と聞かれそうだったけれど、今度はちゃんと教えてやりたかった。


 携帯を閉じ、机の上を片づけた。

 宿題の問題集と、清書を終えた作文が重なっている。

 残っている物がないか確かめても、もう、やらなければいけないページはなかった。


 部活も、宿題も終わった。

 休みの残りに、もう少し遊べる。


 学校が始まったら、また公園で待ち合わせて、5人で歩いていく。

 翔太が今日の話を始めるかもしれない。春樹が聞いたら、どこで笑うだろう。

 最初の低い声だけで、もう駄目な気がした。


 そう考えてから、教室にいる優子の顔も浮かんだ。


 部活を辞めて、時間に余裕ができたと言っていた。

 夏休みは、好きな本をゆっくり読めただろうか。

 また話せるなら、何を読んだか聞いてみたかった。


 俺も、先輩から借りた本の話ができる。

 同じ本を読んでいなくても、雨の日に公園で話した時みたいに、そこから別の話になるかもしれない。


 机の横へリュックサックを置いた。

 まだ暑いけれど、次に学校へ行く時には8月ではなくなっている。


 休みが終わるのは、惜しかった。

 それでも、また会えば話せることを考えるのは、嫌ではなかった。


    * * 優子視点 * *


 夏休み最後の日、午後になってから『ARIA』を開いた。


 宿題は、もう終わっていた。

 持っていく物も、机の端へ並べてある。

 だから、夕方までは好きなことをしていてよかった。


 ベッドへ座り、続きを読んだ。

 前に笑ったところで、今日も少し笑った。

 けれど、ページの端へかけた指が止まると、壁の時計を見てしまった。


 あと少しで夕方になる。

 夕飯を食べて、お風呂に入って、寝たら、明日だった。


 膝の上で本を開いたまま、足を引き寄せた。

 学校へ行くことを考えると、お腹の奥が固くなった。


 休みの間、家では漫画を読んだり、ゲームをしたりできた。

 お母さんとテレビを見て、笑った日もあった。

 楽しいと思えた時まで、全部なくなったわけではない。

 でも、同じ部屋で同じ本を読んでいるのに、今日は、明日のことが何度も割り込んできた。


 教室の入口。

 私の席の近くにいる、美咲さんたち。

 リュックサックを机へ掛ける時、誰が後ろを通るのか。


 まだ起きていないことまで、考えてしまった。


 休みが長かったから、もう私のことは気にしていないかもしれない。

 そんなふうにも考えたかった。

 けれど、忘れていてくれると思うだけでは、席へ座ったあとの怖さがなくならなかった。


 本を閉じ、机の方を見た。

 横に掛けた手提げ袋の中には、勝也くんの折り畳み傘がある。


 明日、返せる。


 そう思うと、会いたい気持ちが、すぐに出てきた。

 勝也くんの顔を見たい。声を聞きたい。

 おはよう、と、いつものように笑ってほしかった。


 それだけで、きっと嬉しくなる。

 私は、あの人のことが好きだった。

 また同じ学校へ通えるようになったことを、今でも嬉しいと思っていた。


 でも、勝也くんがいるから、学校に行くのも平気だとは思えなかった。


 好きな人に会いたいと思うたびに、教室へ入らなければいけないことも思い出す。

 学校が始まるのを楽しみにできない自分が、少し悲しかった。

 勝也くんと話したい気持ちまで、弱くなったわけではないのに。


 傘の袋へ、指先で触れた。

 壊れた日傘を届けてくれた日、晴れているのに貸してくれた。

 帰る時に日傘がない私を見て、必要だと気づいてくれたことが嬉しかった。


 助かったよ。

 貸してくれて、ありがとう。


 返す時は、顔を見て言いたかった。

 下を向いたまま、小さく頷くだけで終わりたくなかった。


 声に出そうとして、やめた。

 練習しているところをお母さんに聞かれたら、恥ずかしい。

 誰もいないのに、少し頬が熱くなった。


     * * *


 夕方、お母さんが制服を持ってきてくれた。


「ここに掛けておくね」

「うん。ありがとう」


 お母さんはハンガーを掛け、机の上を見た。

 問題集と作文を重ねた横に、始業式の持ち物を書いた紙が置いてある。


「忘れ物、なさそう?」

「うん。これから、鞄に入れるところ」

「消しゴムとか、大丈夫? 小さくなってない?」

「まだ使えるよ」


 開いて見せると、お母さんは、うん、と頷いた。

 新しい物を欲しいと言えば、買ってもらえる。

 でも、ちゃんとここにある物は、そのまま使いたかった。


 お母さんが出ていってから、リュックサックを椅子へ載せた。

 ファスナーを全部開け、底へ手を入れる。

 乾いていた。

 分かっていても、指を抜く前に、もう1度、隅まで触った。


 中を濡らされた時の、重たい感じを覚えている。

 持ち上げた教材から水が落ちたことも、指で離そうとして紙が貼りついたことも。

 あの時、お母さんには、自分で水をこぼしたと言った。


 家では、誰も濡らさない。

 ここに置いている間は、大丈夫だった。


 問題集を入れ、作文は折れないようにファイルへ挟んだ。

 持ち物の紙を見て、入れた物へ印をつける。

 順番に確かめれば、忘れ物は減らせる。

 けれど、なくならないようにするには、どうすればいいのか分からなかった。


 机の引き出しを開けると、端が波打ったノートが見えた。

 国語のノートも、その下にある。

 何が書かれているか分かっていたので、表紙は開かなかった。


 明日必要な物ではない。

 そう確かめて、引き出しを閉めた。

 休みが明ければ、また授業で使う日が来る。

 今は、その日のことまで考えられなかった。


 最後に、勝也くんの傘を見た。

 手提げ袋へ入れたまま、リュックサックの隣へ置く。

 学校へ持っていくのが、急に怖くなった。


 借りた物まで、なくなったら。

 私の物と同じように、どこかへ隠されたら。


 自分のノートを入れた時より、強く袋の持ち手を握った。

 朝、勝也くんに会ったら、先に渡そうと思った。

 それまでは、自分で持っていればいい。

 机へ掛けたまま、離れないようにしよう。


 そこまで決めると、少しだけ息を吐けた。


 夕飯に呼ばれて、部屋を出た。

 食卓では、お父さんがお茶を飲んでいた。


「宿題、全部できた?」

「うん。鞄にも入れたよ」

「そうか。頑張ったね」


 頷いて、席へ座った。

 お母さんが、明日の朝はいつもの時間でいいのね、と聞いた。

 私は、うん、と答えた。


 ご飯を食べながら、テレビの話もした。

 聞かれたことには答えられたし、お母さんが言い間違えた時には笑った。

 その間も、椅子の下で足の指へ力が入っていた。


 もう少し、家にいたい。


 言えたらいいのにと思った。

 でも、お父さんが何かあったのかと顔を向けるところを想像したら、次に何を話せばいいか分からなくなった。

 部活のことだけではない。日傘のことだけでもない。

 自分で水をこぼしたという話も、違うと言わなければいけなかった。


 どうして今まで言わなかったのか、自分でも、短くは説明できなかった。

 心配をかけたくない気持ちもあった。

 何をされたのか話しているうちに、泣いて、言葉が出なくなるのも怖かった。


「優子、お茶、もう少し飲む?」

「うん。少しだけ、お願い」


 お母さんが、湯飲みへ注いでくれた。

 ありがとうと答え、両手で持った。


 いつもの夕飯を、そのまま終わらせたかった。

 お母さんもお父さんもいる、この部屋でもう少し座っていたかった。


     * * *


 寝る前に、目覚ましを合わせた。


 長い休みの間に、少し遅くまで寝ていた日もあった。

 明日は、その時間では間に合わない。

 針を確かめてから、ベッドのそばへ置いた。


 持っていく物は、全部揃っている。

 制服も掛かっている。

 机の横には、リュックサックと、傘の入った袋が並んでいた。


 布団へ入る前に、もう1度だけ傘の袋を開けた。

 返す物が、ちゃんとそこにあることを見てから閉じる。


 勝也くんは、どんな夏休みを過ごしたのだろう。

 春樹くんたちと遊んだり、部活へ行ったりしたのだと思う。

 面白かったことを聞けたら、私も一緒に笑いたい。


 公園で雨宿りをした時、眼鏡の話をしてくれた。

 翔太くんと春樹くんが掛けているから、自分も買ってもらったのだと言っていた。

 その理由がおかしくて、笑った。

 笑ってから顔を見ると、勝也くんも笑っていた。


 明日も、そんなふうに話せたら。


 暗い部屋で、少しだけ口元が緩んだ。

 けれど、そのあとに、美咲さんの声まで思い出した。

 教室では、勝也くんと2人で座っているわけではなかった。


 横を向き、布団を肩まで引いた。

 今は家にいる。誰も入ってこない。

 そう考えても、胸の辺りが落ち着かなかった。


 勝也くんには、会いたい。

 学校へは、行きたくない。


 どちらも、本当だった。

 会えた時に嬉しくなる自分も、教室の前で足が止まりそうになる自分も、想像できた。


 目を閉じてから、また開いた。

 暗さに慣れると、お母さんが掛けてくれた制服が見えた。


 明日のおはようだけでも、ちゃんと返せたらいい。


 そう思いながら、もう1度目を閉じた。

 眠ってしまえば朝になることが、今夜は怖かった。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

 春樹たちと残った宿題を進め、茶道部では老人ホームを訪問する。翔太の頼みを受けて詩織を紹介し、2人のやり取りに振り回される。


・富田優子

 新学期の支度を整え、勝也へ傘を返す準備をする。勝也に会いたい気持ちと、教室へ戻る怖さを抱えて夏休み最後の夜を迎える。


・鶴見春樹

 自宅で勝也と翔太の宿題を手伝い、脱線する2人を落ち着かせる。勝也と詩織の外出についても、交際とは別だと冷静に受け止める。


・鳥居翔太

 勝也と詩織の関係を羨ましがり、紹介を頼み込む。対面では格好をつけて空回りするが、最後には自分も好かれたいという本音を話す。


・山崎詩織

 勝也から翔太を紹介され、父親のような質問に大笑いする。翔太の真剣な相談には丁寧に向き合い、自然に会話を重ねることを勧める。


・優子の母(富田美和)

 優子の制服を用意し、新学期の持ち物を一緒に確かめる。学校への恐怖を打ち明けられない優子に、普段どおり温かく接する。


・優子の父(富田泰臣)

 夕食の席で宿題の進み具合を尋ねる。宿題も登校の準備も済ませた優子に、頑張ったねと声をかける。


・春樹の母

 3人に麦茶を出し、駅で勝也と詩織を見かけたことを話す。翔太が大声で秘密を漏らした際には、廊下まで聞こえていると注意する。


・茶道部の部長と先輩たち

 老人ホームを訪問してお茶を振る舞う。勝也には道具の運搬や準備、配膳、片づけを任せる。


・老人ホームのおじいさん

 お茶を運んできた勝也に、本人が点てたのかと尋ねる。先輩が点てたと聞くと、運んでくれた勝也にも感謝を伝える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。