第11話 夏休み
* * 優子視点 * *
夏休みの最初の朝も、いつもの時間に目が覚めた。
起きなければと思って、布団から足を出した。
机の横に掛けたリュックサックを見てから、今日は学校へ行かなくていいのだと思い出した。
制服に着替えなくていい。
教室に入る時、誰がこちらを見ているか気にしなくていい。
そう思うと、起きた時から固くなっていたお腹が、少し楽になった。
けれど、洗面所へ行く前に、机へ寄った。
勝也くんから借りた傘の袋を開き、中にあることを確かめた。
筆箱も開けて、消しゴムと定規を見た。
机に重ねたノートにも手を伸ばした。
波打った端は乾いていて、紙は指に貼りつかなかった。
その下にあった国語のノートを開きかけ、やめた。あの字が残っていることは、見なくても分かっていた。
昨日の夜にしまった物が、全部あった。
家なのに、と思った。
誰も隠したり、濡らしたりしないと分かっているのに、見ないで部屋を出るのは怖かった。
* * *
朝ご飯のあと、お母さんが学校へ電話をしてくれた。
私は部屋で問題集を開いていた。
廊下の向こうから声が聞こえたけれど、何を話しているかまでは分からなかった。
鉛筆を持ったまま、同じ問題を何度も読んだ。
しばらくして、お母さんが部屋へ来た。
「日傘のこと、伝えたよ。何か分かったら連絡をもらうことにしたから」
「うん。ありがとう」
「優子も、何か思い出したら教えてね」
頷いた時、美咲さんたちの顔が浮かんだ。
でも、傘を持っていたところを見たわけではない。
どうしてその人たちだと思うのか聞かれたら、ほかのことまで話さなくてはいけなくなる気がした。
何も付け足せないまま、問題集へ目を戻した。
お母さんが出ていってから、ようやく最初の式を書いた。
* * *
夏休みに入って数日経った午後、本棚から『ARIA』の1巻を出した。
今日の分の宿題は、もう終わっていた。
次のページまで進めようか迷ったけれど、今は漫画を読みたかった。
部活の時間を気にして、途中で支度を始めなくてもよかった。
ベッドの端へ座り、膝の上で本を開いた。
登場人物の表情を見てから、吹き出しを読んだ。水辺の景色が広く描かれたところでは、すぐに次へ進まず、しばらく絵を眺めた。
こういう場所を、ゆっくり歩いてみたい。
先を急がずに、気になったところで立ち止まって。
ページをめくるうちに、少し笑った。
声が出たことに自分で気づき、誰もいない部屋を見てから、また本へ目を戻した。
お茶を取りに行って戻ると、お母さんが畳んだ服を机へ置いていた。
その手元を、つい見てしまった。
「ここにあるノート、奥へ寄せるね」
「うん。そこなら大丈夫」
昨日、本が見えなくなって慌てた時に、動かすなら教えてほしいと頼んでいた。
お母さんは、今日も覚えていてくれた。
「服、自分でしまえる?」
「うん。ありがとう。お母さん、これ読んだら、おやつ食べてもいい?」
「いいよ。冷蔵庫にプリンがあるから」
「あれ、まだ残ってたんだ」
「優子の分、取ってあるよ」
嬉しくなって、あとで食べるねと答えた。
お母さんが出ていったあと、服をしまい、本を開いた。
勝也くんの傘は、返すための手提げ袋へ入れてある。
代わりの日傘を用意してもらったので、もう外へ持っていくことはなかった。
机の横で袋が少し揺れたのを見たけれど、中までは開けなかった。
さっきの続きが読みたかった。
気づくと、思っていたより先まで読んでいた。
本を閉じた時、廊下からテレビの音が聞こえた。時計を見ると、夕飯まではまだ時間がある。
プリンを食べてから、続きを読むことにした。
しおりを挟み、ベッドの上へ置いて立ち上がる。
部屋を出る前に、1度振り返った。
本も、筆箱も、傘の袋も、置いたところにあった。
帰ってきたら、また読める。
そう思えたので、今度はそのまま部屋を出た。
* * 勝也視点 * *
8月に入ると、学校へ着くまでの道が、前より暑くなった気がした。
部活のある日は、夏休みでも制服だった。
長袖の袖口を直し、リュックサックを背負い直す。背中へ当たるところだけ、風が通らなかった。
昇降口で靴を履き替えても、教室へは上がらない。
美術室の隣にある茶道部の部屋へ向かった。
「おはようございます」
「おはよう。入ったら、ふすま閉めてね」
和室へ入ると、冷たい空気が首元へ触れた。
「涼しい……」
「毎回言ってるね」
「毎回、そう思うんです」
先輩が笑った。
俺はリュックサックを壁際へ置き、畳へ座った。
ここへ来るまでが暑くても、着いたあとは快適だった。
道具を並べる人もいれば、練習が始まるまで問題集を開いている人もいる。
俺は、まず棚の上にある箱を下ろしてほしいと頼まれた。
「これ、こっちでいいですか」
「うん。ありがとう。今日は飲む方もお願いね」
「はい」
箱を置くと、その横へ菓子の皿が出てきた。
細いかりんとうが、何本も重なっていた。
「それと、これも」
皿を押したのは、2年生の山崎詩織先輩だった。
膝の横に、口を留めた大袋を置いている。
「前に開けた分、少し湿気っちゃって。今日、食べ切りたいんだよね」
「俺にですか?」
「鵜飼くん、かりんとう好きでしょ」
「好きですけど」
1本食べると、いつもより歯ごたえが違った。
それでも、噛んでいるうちに黒糖の味がして、俺は嫌いではなかった。
「食べられそう?」
「はい。俺は大丈夫です」
「よかった」
先輩が袋を傾けた。
皿の上の山が、少し高くなった。
「今、増えましたよね」
「まだ、こっちにもあるから」
「それ、全部食べる約束はしてないですよ」
部長まで笑った。
俺も笑いながら、もう1本取った。
茶道部では、俺が点てる順番は来なかった。
入った時から、飲む役と菓子を食べる役、それから荷物運びや片づけを任されている。
使う物の名前は少しずつ覚えたけれど、俺が茶筅を振ることはない。
代わりに、練習する人数が多い日は、何度も茶碗が回ってきた。
「これ、どう?」
「おいしいです」
「鵜飼くん、さっきもそれだった」
「おいしいんですって」
「もうちょっと、違う感想ない?」
俺は茶碗を見て、もう少し飲んだ。
さっきより苦いような気はする。でも、どちらも飲みやすかった。
そう伝えると、先輩は、そっか、と頷いた。
「じゃあ、次は少し変えてみようかな」
「あ、次もあるんですね」
「まだ飲める?」
「少しなら」
答えてから、菓子の皿もまだ減りきっていないことに気づいた。
ここへ来る前には、お昼に何を食べるか考えていた。
今は、その前に少し歩いた方がよさそうだった。
* * *
「鵜飼くん、今日このあと、予定あるの?」
休憩に入ってから、山崎先輩に聞かれた。
「夕方から、近所の夏祭りへ行きます。友達と」
「いつも話してる子たち?」
「はい。俺も入れて5人です」
「その中に、好きな子がいたりして」
「いないですよ。小学校から一緒に遊んでるんで」
「小学校から一緒でも、好きになることはあるでしょ」
別の先輩が横から言った。
それはそうなのかもしれないけれど、今まで、そういうつもりで集まったことはなかった。
「じゃあ、うちの部には?」
「いないですって」
「そんなにすぐ言わなくても」
「聞いたの、先輩じゃないですか」
笑われて、俺も笑ってしまった。
お茶を飲んでいた時には静かだった人まで、こちらを向いている。
「もし彼女ができたらさ。彼女が他の男子と2人で遊びに行くの、平気?」
「2人で、ですか?」
「うん。映画とか、ご飯とか」
少し考えた。
好きな人が、自分とは別の男子と待ち合わせて出かける。
想像してみると、あまり嬉しくなかった。
「俺は、嫌かもしれないです」
「意外。女子とも普通に遊ぶから、気にしない方かと思った」
「みんなで遊ぶのとは違う気がします。彼女だったら、俺が一緒に行きたいですし」
「じゃあ、自分がほかの女子に誘われたら?」
「行かないと思います。自分がされたら嫌なのに、俺だけ行くのも……」
先輩が、なるほどね、と頷いた。
向かいでは、昔からの友達なら平気だという人と、それでも嫌だという人が話し始めた。
同じ部屋にいても、答えは違った。
「鵜飼くんは、彼女とどこへ行きたい?」
「どうでしょう。彼女が行きたいところなら、俺も行ってみたいです」
「興味ないところでも?」
「行ったら、楽しいかもしれないので。喜んでくれたら、俺も嬉しいと思います」
山崎先輩が、持っていた茶碗を置いた。
俺は急に、ちゃんと聞かれていることが恥ずかしくなった。
「付き合ったことないんで、よく分からないですけど」
「うん」
「好きな人には、ずっと笑っててほしいです。だから、そのために俺ができることなら、やりたいなって」
言ってから、皿へ目を落とした。
かりんとうを食べていれば、次の質問にすぐ答えなくても済むだろうかと思った。
「……そういうの、いいね」
山崎先輩の声だった。
顔を上げると、からかっている時とは少し違う顔で笑っていた。
「会いたいって言われたら、会いに行く?」
別の先輩に聞かれ、頷いた。
「行けるなら」
「疲れてても?」
「少しくらいなら。会って喜んでくれるなら、行きたいと思います」
「本人に言ってあげたらいいのに」
「だから、まだいないです!」
また笑われた。
いつの間にか、俺に彼女ができたあとの話まで進んでいた。
毎日会いたいかどうかという話になり、質問が俺から離れた。
ようやくお茶を飲もうとした時、山崎先輩が隣へ寄った。
「鵜飼くん」
「はい?」
少し身をかがめてきたので、俺も声を落とした。
「今度、2人で遊びに行かない?」
茶碗を持つ手が止まった。
「……俺と、ですか?」
「うん。もう少し話してみたいなって思って」
向こうでは、毎日電話は長すぎるという話をしていた。
こちらを見ている人はいなかった。
「空いてる日、ある?」
「えっと、予定を見れば……」
「じゃあ、家で見てから教えて。連絡先、交換してもいい?」
頷いて、壁際のリュックサックへ手を伸ばした。
携帯を開き、赤外線の受信を選ぶ。
先輩の携帯と向きを合わせると、画面へ名前が出てきた。
山崎詩織。
部活で知っている人の名前なのに、自分の携帯に入ると、違う感じがした。
俺からも連絡先を送り、先輩が保存するのを待った。
「あとでメールしてね」
「はい」
先輩が元の場所へ戻った。
俺は携帯を閉じたあとも、すぐには顔を上げられなかった。
「鵜飼くん。毎日電話したいって言われたら、どうする?」
向こうから聞かれて、慌てて顔を上げた。
「え、誰にですか」
「彼女にだよ。今まで何の話してたの」
その隣で、山崎先輩が口元を押さえていた。
* * *
家へ帰って予定を確かめ、その日のうちにメールを送った。
先輩も空いていたので、3日後の午後に出かけることになった。
『甘い物のお店に行ってみたいんだけど、大丈夫?』
返事を読んで、すぐに、大丈夫です、と打った。
それだけでは短い気がして、俺も甘い物が好きなので、と付け足した。
『知ってる。今日、かりんとういっぱい食べてくれたもんね』
それを読んで笑った。
部活で話す時の先輩の声が、そのまま浮かんだ。
夕方には、翔太、春樹、真弓、綾香と合流した。
祭りの会場へ入ってすぐ、翔太が焼きそばの屋台を見つけた。
「先にあれ」
「まだ、ほか見てないよ」
「あとでも見る。今は焼きそば」
春樹へ答えながら、もう列に並んでいる。
俺もその後ろへ続いた。
「勝也も、先に食べるんだ」
真弓に言われて、頷いた。
「今日は、これを夕飯にするから」
「翔太くんと同じこと言ってる」
綾香が笑った。
部活でお腹がいっぱいだったことは、もう関係なかった。
輪投げでは、サイコロの形の消しゴムをもらった。
翔太はもっと大きな景品を狙って、俺たちが次の場所へ移ろうとした時も、もう1回だけと言っていた。
祭りのあとには、会場の横の広場で手持ち花火をした。
翔太のお母さんが、祭りの人がいる間なら使っていいと確かめてくれていた場所だった。
水を入れたバケツのそばで、最後に線香花火を持った。
「動くなよ」
「翔太が喋らないで」
真弓に言われ、翔太が口を閉じた。
その顔を見た春樹が笑うのをこらえて、俺まで笑いそうになった。
落としたくなくて、顔を背けた。
その動きで、赤い玉が落ちた。
「あー……」
「勝也、今、自分で動いたでしょ」
「春樹のせいだよ」
「俺、何も言ってないけど」
言っていないから余計に、返せる言葉がなかった。
帰り道、携帯を出して、時刻と一緒に待ち合わせのメールを確かめた。
先輩との待ち合わせは、3日後の13時、駅の改札前だった。
もう1度だけ思い出してから、翔太たちの話へ戻った。
* * *
祭りから3日後、俺は約束より少し早く駅へ着いた。
Tシャツの上へ、薄い長袖のシャツを羽織ってきた。
財布も、携帯も、鍵も持っている。
あとは先輩を待つだけなのに、柱の横へ立ってからも、何度か時刻を見た。
「勝也くん」
横から呼ばれ、顔を向けた。
返事が少し遅れた。
白いブラウスに、細かな模様の入った紺色のスカート。
学校ではまとめている髪を、今日は少し下ろしていた。横についた髪留めも、肩から掛けた小さなバッグも、見たことがなかった。
山崎先輩だった。
顔を見れば分かるのに、制服の時より大人っぽくて、少し驚いた。
「待った?」
「いえ。俺も、今来たところです」
「よかった。どうしたの?」
「あ、学校と違うなと思って」
見ていたことに気づかれ、慌てて顔へ目を戻した。
「先輩、すごくおしゃれですね。その髪型も似合ってます」
「ありがとう。ちょっと変えてみたの」
「綺麗だなって思いました」
先輩が、少し黙った。
それから、笑いながら俺を見た。
「本当に、彼女いたことないの?」
「ないですよ」
「そういうこと、さらっと言うから」
「似合ってると思ったら、ちゃんと言ってって、友達に教わったんです。友達のお姉さんにも」
「いい先生がいたんだね」
そうかもしれない、と答えた。
小さい頃から、似合っていると思えば、そう言っていた。
転校してからも、真弓や綾香、それに真弓のお姉さんに、言い方を教わることはあった。
でも、今日は教わった通りに言おうと考えたのではない。
先輩を見て、そう思ったから言っただけだった。
「考えてきてよかった。何着ようかなって、迷ったんだ」
先輩が嬉しそうにスカートを見たので、俺も少し嬉しくなった。
そのあとで、自分の服が気になった。
「俺、こんな格好で大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。勝也くんも似合ってる」
「ありがとうございます」
自分が言われると、簡単には顔を見ていられなかった。
先輩が笑い、こっち、と出口の方を指した。
「あの、さっき名前で呼ばれたので、びっくりしました」
「嫌だった?」
「いえ。学校では、鵜飼くんだったんで」
「今日は部活じゃないし。せっかくだから、私のことも詩織って呼んでほしいな」
「詩織先輩、ですか」
「詩織で」
返事が早かった。
俺は言い直そうとして、口を閉じた。
「……先輩なのに?」
「今日はいいよ」
「じゃあ、詩織さんで」
「さんはつくんだ」
「いきなり呼び捨ては、難しいです」
先輩が、楽しそうに笑った。
「綺麗って言ってくれた時は、平気そうだったのに」
「それとは違いますよ」
「うん。じゃあ、詩織さんで」
頷いて、隣へ並んだ。
甘い物を食べに行くだけなのに、まだ駅を出るところから落ち着かなかった。
* * *
店の前には、小さな黒板が出ていた。
桃のパフェと、アイスの載ったワッフルが描いてある。
詩織さんはその前で、少し足を止めた。
「どっちもおいしそう」
「来る前は、決まってたんですか」
「パフェにしようと思ってた。でも、こっちも見ちゃうとね」
俺も黒板を見た。
チョコレートのワッフルが、よさそうだった。
壁際の席へ通され、向かい合って座った。
部室と違って、ほかの先輩が横から話を続けることはない。
少し緊張していたけれど、祭りはどうだった、と聞いてもらえたので、友達と遊んだ時のことを普通に話せた。
「最後の線香花火、俺、結構残ってたんですけど」
「落ちちゃった?」
「友達が笑うのこらえてて。その顔が面白くて、つられました」
「楽しそう。私も今年、まだ花火してないな」
先輩も笑った。
俺は春樹の顔を思い出し、今度会ったら、やっぱりあれは春樹のせいだと言おうと思った。
話しながらメニューを広げたが、詩織さんはまだ迷っていた。
桃のパフェの写真と、ワッフルの写真を交互に見ている。
「俺、チョコのワッフルにしようと思うんですけど。少し食べます?」
「いいの?」
「はい。詩織さんがパフェにしたら、どっちも食べられるんで」
「じゃあ、私の桃も分けるね。でも、私に合わせて変えなくていいよ」
「これ、俺も食べたいので」
写真を指すと、先輩は頷いた。
ようやく注文が決まり、メニューを閉じた。
「このお店、どうやって知ったんですか」
「吹奏楽部の友達が教えてくれたの。一緒に来ようって話してたんだけど、その子、部活が忙しくて」
「夏休みも、練習多いみたいですね」
「うん。だから今日は、感想教えてって言われてる」
先輩がグラスの水を飲んだ。
俺も飲んでから、少し迷って尋ねた。
「この前、どうして小さい声で誘ったんですか」
「普通に言ったら、みんなに聞かれるでしょ」
「ああ……」
「あんな話してる時に、2人で出かけようなんて言ったら、質問が終わらなくなりそうだったし」
確かに、そうなりそうだった。
俺が返事をする前に、いつ、どこへ、と聞かれているところが想像できた。
「勝也くんと、ちゃんと話してみたかったの。横から誰かが質問するところじゃなくて」
先輩は、グラスの横へ手を置いた。
「彼女がほかの男子と2人で出かけたら嫌だって言ってたよね。自分も行かないって」
「はい」
「行きたいところも、一緒に楽しんでくれるって。あれ、私が彼氏にしてほしかったこと、そのままだったから」
顔を上げた。
「彼氏、いるんですか?」
「前にね。2週間だけ」
「2週間?」
「短いでしょ。私も、もっと続くと思ってた」
何と言えばいいか分からずにいると、先輩は、今も落ち込んでいるわけではないから、と言った。
「顔が好きだって言われて、最初は嬉しかったんだ。でも、私が何を好きかには、あんまり興味がなかったみたい」
「そうなんですか」
「出かけても、その人が行きたいところばっかりで。私がこっちも見たいって言うと、友達と行けばって」
詩織さんは、さっき閉じたメニューへ目を落とした。
「全部、私に合わせてほしかったんじゃないよ。でも、たまには一緒に見てほしかった」
「うん……」
「ほかの女子と2人で遊びに行くのも、嫌だって言ったことがあって。それも、友達なんだから気にしすぎって」
話を続けるか迷ったように、少し間が空いた。
俺は急いで返さず、先輩を見ていた。
「嫌なことを話しても、面倒くさがられちゃうなら、何で付き合ってるんだろうって思って。私から、別れようって言ったの」
先輩は、そう言って口を閉じた。
俺は、さっきメニューを見ていた時のことを思い出した。
「詩織さん、俺が食べたい物をちゃんと頼んでねって、言ってくれたじゃないですか」
「うん?」
「自分が迷ってても、俺が無理してないか気にしてくれたんだなって。嬉しかったんです」
先輩が、俺を見た。
「だから、詩織さんも、自分が好きな物の話を聞いてほしかったんですよね」
「……うん」
「一緒に楽しみにして出かけたのに、自分だけ我慢してたら、寂しいと思います」
付き合ったことがなくても、それなら分かる気がした。
友達と遊ぶ時にも、自分だけ楽しいところへ行けばいいとは思わない。
相手が楽しみにしていたことも、知りたいと思う。
先輩は少し黙ってから、そう、と頷いた。
「そういうことだったんだと思う」
「さっき、メニューを見てる時、すごく楽しそうだったので。俺も、どっちも食べたくなりました」
「そんなに顔に出てた?」
「はい」
先輩が口元へ手を当てた。
その向こうで笑っていたので、俺もほっとした。
「勝也くんは、その人のこと、悪く言わないんだね」
「前の彼氏ですか?」
「うん。こんな話したら、一緒に悪口を言うのかと思った」
俺は少し考えた。
「会ったことないので、どんな人かは分からないです。でも、詩織さんが嫌だったのは分かります。話そうとしてるのに、聞いてもらえなかったら、俺も嫌なので」
先輩は、グラスの縁を見た。
それから顔を上げて、さっきより柔らかく笑った。
「うん。それ、嬉しい」
俺も頷いた。
何かうまいことを言おうとは思わなかった。
話してくれたことへ、思った通りに答えていた。
「今日は、楽しかったって思って帰ってもらえたら、俺も嬉しいです」
「……勝也くん、女たらしだね」
「え。今のでそうなるんですか」
「さっきから、嬉しくなることばっかり言うんだもん」
「嬉しいなら、よかったですけど」
「ほら、そういうところ」
とうとう声を出して笑われた。
俺も笑い、褒められたことにしておこうと思った。
「詩織さん。もう少し、聞いてもいいですか」
「うん。何?」
「恋人って、親友とは違うんですか?」
「親友と?」
「親友にも笑っててほしいし、会えたら嬉しいじゃないですか。恋愛の好きって、それとどう違うんだろうって」
部室で聞かれた時には、彼女ができたらどうしたいかを考えた。
でも、その前に誰かを好きになるというのが、まだよく分かっていなかった。
詩織さんは、少し考えてから答えてくれた。
「私の場合は、その人の彼女になりたいって思ったかな。相手にも、友達としてだけじゃなくて、恋人として好きになってほしいって」
「……そういう気持ちが、俺にはまだよく分からないです」
「うん。説明するの、難しいね」
先輩は、グラスへ伸ばしかけていた手を止めた。
「でも、私が思うには、友達や親友と恋人の違いって、その人を独占したい気持ちもあるのかも」
「独占、ですか?」
「うん。その人にとって、自分が特別であってほしいとか。ほかの子より、自分と一緒にいたいって思ってほしいとか」
言われたことを、頭の中で繰り返した。
先輩は俺の顔を見て、少し首を傾げた。
「勝也くん、親友に女友達がいるでしょ?」
「はい。2人います」
「その子が自分の彼女だったらって、考えてみて。恋人として、2人で出かけたり、手を繋いだりするの」
真弓の顔を思い浮かべた。
続けて、綾香でも考えてみた。
遊びに行くのは楽しい。でも、彼女として手を繋いで歩くと言われると、何か違った。
どちらも大事な友達なのに、その先がうまく想像できない。
「……何か、違う気がします」
「そっか。じゃあ、ほかの女の子でもいいよ。その子と付き合ってたらって、考えてみて」
今度は、優子の顔が浮かんだ。
俺の隣を歩きながら、少し照れた顔で笑っている。
その手を、自分が繋いでいるところを考えた。
優子が、俺の彼女。
そう思った途端、少し顔が熱くなった。
誰にも言っていないのに、何だか照れくさい。
でも、嫌ではなかった。そんなふうに隣を歩いてくれたら、嬉しいと思った。
「その子が、ほかの男の子と同じように手を繋いでたら、どう思う?」
先輩に聞かれ、繋いでいた手を別の誰かのものに変えようとした。
すぐに、嫌だと思った。
優子があんな顔で笑うところを、遠くから見ていたくなかった。
隣にいるのは、自分がよかった。
「……それは、嫌かもしれないです」
「うん。自分とそうしていてほしいって思う気持ちも、恋人としての好きにはあるのかもね」
「……少し、分かった気がします」
さっきより、先輩の言っていることが分かった。
親友と恋人では、こういうところが違うのだろうか。
親友と比べるなら、翔太と春樹でも考えてみれば、もっと分かるかもしれない。
さっきまで優子がいたところへ、翔太を立たせてみた。
手を繋ぎ、ぴったりと隣へ寄ってくる。
その顔を、今度は春樹に入れ替えた。
……いや、キモいな。
何で俺、あいつらと手を繋ごうとしてるんだ。
自分で想像しておいて、顔をしかめてしまった。
向かいから、先輩が俺を覗き込んだ。
「……今、何を考えたの?」
「翔太と春樹が、俺の恋人だったらって」
「何でそっちまで考えたの!?」
先輩が吹き出した。
口元を手で押さえているのに、肩まで揺れていた。
「親友と比べた方が、分かるかと思って……」
「うん。真面目に考えてくれたのは分かった」
「俺も、途中で何考えてるんだろうって思いました」
そう答えると、また笑われた。
つられて、俺も笑った。
今度あいつらに会った時、変な顔をしないようにしないといけない。
笑っている先輩を見ていたら、もう1人、考えてみたくなった。
詩織さんが、俺の彼女だったら。
駅からここまで歩いてきた時のことを思い出した。
あの時、並んで歩くだけではなく、手を繋いでいたら。
繋いだ手を少し引かれて、勝也くん、と笑いかけられたら。
綺麗だと思った先輩の顔が、すぐ近くに浮かんだ。
それは、嬉しいと思った。
でも、手を繋いだまま、今みたいに普通に話せるだろうか。
目の前に本人がいるせいか、急に顔を見ていられなくなった。
「今度は、誰を考えてたの?」
先輩に聞かれ、グラスへ落としていた目を戻した。
「……詩織さんです」
「私?」
頷くと、先輩の目が少し丸くなった。
さっきみたいには笑われなかった。
「そっか。私だったら、どうだった?」
「……緊張しました」
「まだ想像なのに?」
「目の前にいるので……」
そう答えてから、また顔が熱くなった。
先輩も、少し照れたように笑った。
「じゃあ、これ以上は聞かないでおくね」
俺は頷き、水を飲んだ。
変な顔をしていないか気になって、すぐには顔を上げられなかった。
詩織さんを考えた時も、嬉しかった。
でも、優子の隣にほかの男子がいるところを想像した時の、あの嫌な感じも残っていた。
先輩の隣に誰かがいるところを考えても、同じ気持ちになるのかは、まだ分からなかった。
その違いをもう少し考えようとしたところで、注文した物が届いた。
桃の載ったパフェと、アイスを添えたワッフルへ、俺の目も向いた。
先輩はすぐに携帯を出した。
パフェのそばへ、俺のワッフルの皿も寄せる。
「俺も撮っていいですか」
「うん。まだ食べないで待ってる」
携帯を向けると、向こう側に先輩の顔も入った。
「詩織さんも写りますけど、大丈夫ですか」
「いいよ。変な顔だったら、撮り直してね」
少し笑ってくれたところで、ボタンを押した。
画面を見せると、先輩は頷いた。俺は写真を保存し、携帯をしまった。
取り皿へワッフルを切り分けると、先輩も桃を分けてくれた。
まず自分の分を食べた。
温かい生地に冷たいアイスが重なって、もうひと口食べたくなった。
「おいしい」
「ほんとだ。こっちも頼んでよかったね」
先輩も同じ顔をしていた。
どちらも食べてみようと言ってよかったと思った。
「こうやって、おいしいねって話したかったんだよね」
詩織さんが、フォークを置いて言った。
「何か買ってほしいとかじゃなくて。一緒に来たから、一緒に楽しみたかったんだと思う」
「はい」
「今日は、ちゃんと楽しいよ」
そう言ってもらえたので、今度は俺の方が照れた。
ごまかすように桃を食べると、それも甘くて、思わず顔が緩んだ。
「そっちもおいしいでしょ」
「はい。次に来たら、俺も迷いそうです」
「じゃあ、また分けよう」
返事をする前に、次に来る時のことを考えていた。
今日は、まだ食べていない物がいくつもあった。
* * *
店を出てからは、詩織さんが見たかった雑貨の店と、俺が寄りたかった本屋へ行った。
雑貨の店では、色の違う髪留めを見せられた。
「どっちがいいと思う?」
「俺に聞いて大丈夫ですか」
「うん。今、隣にいるから」
それはそうだった。
先輩の服と見比べ、青い方を指した。
「今日のスカートに、色が似てるので。こっちですかね」
「ああ。ほんとだ」
「詳しくないですけど」
「ちゃんと理由あるじゃん。こっちにしようかな」
先輩は、選んだ方を買った。
気に入ってもらえたようなので、少し安心した。
本屋では、探していた漫画の続きが、まだ出ていなかった。
残念に思って棚を離れると、先輩が小説の並んだ台を見ていた。
「詩織さんの見たい本は、ありました?」
「うん。これ」
手に取った題名を見て、俺も足を止めた。
「あ、『ひぐらしのなく頃に』」
「知ってる?」
「アニメ、見てました。小説もあるんですね」
先輩が持っているのは、鬼隠し編の上巻だった。
見覚えのある題名なのに、本の形で並んでいるのは初めて見た。
「今月出たの。私はもう買って、読んだんだけどね」
「面白かったですか」
「うん。早く続きを読みたい。アニメの方は見たことないんだ」
「俺は逆です。小説、読んでないので」
同じ作品の話なのに、互いに知らない方があった。
先輩は、登場人物の声がついたら、どんな感じになるのか気になると言った。
「去年やってたの、テレビで録って、DVDに残してあると思います。帰ったら探してみますね」
「ほんと? 見てみたい」
「俺も、最初の方はしばらく見てないんで」
「じゃあ、今度一緒に見ようよ。私は、小説を貸すから」
「ありがとうございます。読んでみたいです」
先輩は嬉しそうに頷いたあと、本を元の場所へ戻した。
「先の話、教えちゃ駄目だからね」
「言わないですよ」
「知ってる顔するのも駄目」
「それは、できるか分かんないですけど」
笑われた。
探していた漫画はなかったけれど、帰ってから確かめたい物ができた。
* * *
駅へ戻った時には、待ち合わせの時より、ずっと話しやすくなっていた。
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
「いえ。俺も楽しかったです」
「また行こうね。ただ、どっちかに付き合ってる人ができたら、2人で出かけるのはやめとこうか」
俺は顔を向けた。
先輩は、部室の話、私も同じだから、と言った。
「そうですね。俺も、その方がいいと思います」
楽しかったからこそ、次も同じように出かけられたらいい。
でも、付き合う相手に嫌な思いをさせてまでとは、思わなかった。
先輩もそう考えていると分かって、ほっとした。
人の流れを避けて立ち止まると、詩織さんが俺を見た。
「勝也くん。彼女が欲しくなったら、声掛けて」
「……え?」
「その時、私に彼氏がいなかったらね」
返事が出なかった。
先輩の顔を見て、少し遅れて口を開いた。
「それって、詩織さんが、俺のこと……」
「好きだからってこと?」
小さく頷くと、先輩は首を振った。
「今は、もっと知りたいって思ってる。一緒にいて楽しかったし、今日みたいに、いろいろ話してみたいなって」
「でも、付き合うのって、好きになってからじゃないんですか」
「私は、付き合ってから好きになるのも、いいと思うよ」
そういう考え方もあるのだと、初めて知った。
俺は、誰かを好きになったあとで付き合うものだと思っていた。
自分から、彼女を作ろうと考えたこともなかった。
「今、返事してほしいわけじゃないから。勝也くんがそう思って、その時、私と付き合ってみたいなって思ったら。また話そう」
「あ、はい」
先輩は、いつものように笑った。
俺だけが、どういう顔をすればいいか分からずにいた。
「詩織さん、すごいですね」
「何が?」
「自分がどう思ってるか、ちゃんと言えて」
「平気な顔してるだけかもよ」
先輩がバッグの持ち手を直した。
「こういう話、自分からするのは、ちょっと照れるから」
そう言われて、部室で好きな人の話をした時のことを思い出した。
言ったあとで顔が熱くなったのは、俺も同じだった。
先輩なら何でも平気なわけではないのだと思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
「じゃあ、DVD、見つかったら教えてね」
「はい。帰ったら探してみます」
「また学校でね、勝也くん」
手を振られ、俺も上げかけた。
その前に、もう1度、先輩の顔を見た。
「詩織」
呼ぶと、先輩の目が少し丸くなった。
今度は、さんをつけなかった。
「俺も今日、楽しかった。また、一緒に遊ぼう」
少し照れくさかったけれど、帰る前に、ちゃんと言っておきたかった。
詩織さんは、驚いた顔から、ゆっくり笑った。
「うん。また遊ぼうね、勝也くん」
先輩は改札へ、俺は家へ帰る方の出口へ向かった。
振り返ると、先輩もこちらを見ていた。
2人でもう1度手を振ってから、今度こそ歩き出した。
駅を出ると、蝉の声が聞こえた。
名前を呼んだ時の先輩の顔が、まだ頭に残っていた。
付き合ってから好きになる。
俺もそう考えられるのかは、まだ分からなかった。
ただ、今日みたいに、また出かけて話したいとは思った。
まず、DVDを探そう。
そう考えると、本屋で話していた時の先輩の顔が浮かんだ。
* * *
家へ帰って探すと、録画したDVDは、ほかの番組と一緒にしまってあった。
最初の話が入っている分を出し、少し再生してみた。
ちゃんと映ったので、先輩へメールを送った。
『今日はありがとうございました。ひぐらしのDVD、ありました。最初の話から残ってました』
返事は、夕飯の支度をしている間に来た。
『探してくれてありがとう。また部活で話そうね。次はかりんとう、湿気らせないようにしとく』
笑ってしまった。
駅で別れる時には少し大人っぽく見えた先輩も、最後の文では、いつもの部室にいる人だった。
* * *
2日後の部活で、先輩と次の約束をした。
学校では、俺は山崎先輩と呼び、向こうも鵜飼くんと呼んだ。
それがよそよそしいとは、思わなかった。
皿へ芋けんぴを足そうとしてくるところも、俺が、今日はまだあります、と止めるところも、いつも通りだった。
「来週、部活のない日に、うちで見ない?」
「先輩の家で、ですか」
「うん。お母さんにも、居間で見ていいか聞いたら、いいって」
家へ行くことになるとは思っていなかったので、少し驚いた。
でも、DVDを一緒に見るなら、どちらかの家になる。
予定を確かめ、昼ご飯を食べたあとに待ち合わせることにした。
母さんには、茶道部の先輩の家でアニメを見てくると伝えた。
部活のない日にも、出かける予定が増えた。
* * *
翌週、先輩の家へ行く日は、DVDを入れたことを確かめてから玄関を出た。
駅で会った先輩の髪には、あの日選んだ青い髪留めがついていた。
「それ、この前のですか」
「うん。買ってから、結構使ってるよ」
嬉しかった。
詳しくないからと黙らずに、あの時、選んでよかったと思った。
家では、先輩のお母さんが迎えてくれた。
俺は鵜飼ですと名乗り、頭を下げた。
「いらっしゃい。暑かったでしょう。ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます。お邪魔します」
靴を揃え、居間へ通してもらった。
テレビの前には低いテーブルがあり、その向こうにソファがあった。
ケースを出してから、端の方へ座った。
「もう少しこっちでいいよ。そんなに端だと、落ちそう」
「あ、はい」
「それと、今日はまた、詩織さんで」
「……はい。詩織さん」
先輩が笑い、麦茶を置いてくれた。
この前と同じ呼び方になったので、少し落ち着いた。
持ってきたのは、去年テレビで見た『ひぐらしのなく頃に』の、最初の鬼隠し編だった。
4話あると伝えると、途中で休憩しようということになった。
「小説の上巻より、先まで分かっちゃうと思いますけど、いいですか」
「うん。私が見たいって言ったんだし。下巻は出たら、そっちも読むよ」
頷いて、再生を始めた。
見たことがあるはずなのに、最初の場面で、俺も少し身構えた。
隣から、小さく息を吐く音がした。
「最初から、びっくりした」
「俺も初めて見た時、びっくりしました」
「今も、ちょっと前に出てたよ」
「全部は覚えてないんで」
詩織さんが笑った。
けれど、話が進み始めると、すぐに画面へ目が戻った。
1話が終わったところで止めると、先輩は、声がつくと違うね、と言った。
「本で読んでた時と、思ってた言い方が違うところがある」
「変でした?」
「ううん。こういう声なんだって。見てたら、だんだん、こっちの声になってきた」
俺には、逆の経験になるのだろうか。
あとで小説を読むのが、少し楽しみになった。
次も見始めると、先輩が話さなくなった。
グラスへ手を伸ばしかけて、そのまま戻している。
俺もつられて、知っているはずのところを真剣に見た。
2話目が終わった時には、先輩の方から休憩と言った。
麦茶を飲み、背もたれへ体を戻す。
「続きが気になるけど、ちょっと待ってほしい」
「止めてありますよ」
「うん。今、お茶飲みたい」
台所からお母さんに呼ばれ、先輩がクッキーを載せた皿を持ってきた。
俺も礼を言って、1枚取った。
「今日は、私が増やしてないからね」
「分かってますよ」
「先に言っとこうと思って」
部室と同じように笑うと、テレビを見ている間に入っていた肩の力が抜けた。
「勝也くん、2回目でも楽しい?」
「はい。忘れてるところもありますし。終わったあと、詩織さんと話せるのも面白いです」
「私、うるさくない?」
「そんなに話してないじゃないですか。どう思ったか聞ける方が、俺は楽しいですよ」
先輩は、そっか、と頷いた。
クッキーを食べ終え、続きを見た。
後半は、2人とも、ほとんど話さなかった。
先輩が驚いたところで、俺まで少し肩を動かしてしまい、横目で見られた。
全部は覚えていないのだと、もう1度言いたくなった。
4話目を見終え、止まった画面をしばらく見た。
台所から食器の音がして、窓の外では、まだ蝉が鳴いていた。
「……分からないこと、増えた」
先輩が言った。
「俺も、初めて見た時はそうでした」
「これ、続きも見たくなるね。でも、今日はここまでにしようかな。今見たところ、考えたい」
「俺も、そろそろ帰る時間なので」
「じゃあ、その前に、少しだけ話していい?」
「はい」
先輩が気になったところを話し、俺は聞いた。
途中で、それで合ってる、と聞かれた。
「俺が答えたら、先の話になるかもしれませんよ」
「あ、そうか。今のは答えないで」
自分で言って笑ったので、俺も笑った。
知っていることを全部話すより、先輩が何を気にしたか聞いていたかった。
* * *
帰る前に、約束していた小説を貸してもらった。
鬼隠し編の上巻だった。
本屋では表紙を見せてもらっただけだったけれど、手に持つと、思っていたより厚みがあった。
「急いで読まなくていいからね」
「はい。読み終わったら、部活で返します」
「感想も聞かせて」
「じゃあ、詩織さんも、俺の話を聞いてくださいね」
「うん。聞く」
すぐに答えてくれたので、読むのがますます楽しみになった。
DVDはケースへ戻し、本とはぶつからないように入れた。
空いたグラスを運んでから、お母さんへ礼を言い、玄関へ向かった。
先輩は、門のところまで送ってくれた。
「また部活でね、勝也くん」
「はい。また、詩織さん」
手を振って歩き出した。
来る前には、家で何を話せばいいか考えていた。
帰りには、本を読んだら話したいことが、すでにいくつかあった。
* * *
小説は、その日の夜から少しずつ読んだ。
最初は、テレビで見た顔と声が浮かんだ。
でも、読んでいるうちに、圭一が相手の言葉をどう受け取ったのかが気になり、前のページへ戻ることがあった。
同じ話を知っていても、読みながら止まるところは違った。
数日かけて上巻を読み終え、先輩へメールを送った。
返事には、どこが好きだったか、今度教えてね、と書いてあった。
次の活動日、本を忘れずにリュックサックへ入れた。
部室へ着くと、山崎先輩は窓際で問題集を開いていた。
「おはようございます。これ、ありがとうございました」
「おはよう。最後まで読めた?」
「はい。アニメで見てても、面白かったです」
本を受け取った先輩が、鉛筆を置いた。
俺も隣へ座り、読んでいて気になったところを話した。
「画面だと、話してる相手の顔を見てたんですけど。本だと、圭一がどう思ったかの方が気になりました」
「うん。あの時、そんなふうに考えてたんだって、分かるところあるよね」
「はい。見たのと同じところでも、読み返したくなって」
「私も、アニメを見てから読んだら、感じ方が変わりそう」
先輩は袋から少し本を出し、表紙を見た。
「貸してよかった。下巻が出たら、そっちも読むつもりだから。また貸そうか」
「お願いします。その時も、感想つきですね」
「そう。楽しみにしてる」
部長に呼ばれ、俺たちは顔を上げた。
俺は先に箱を運び、棚の前を空けた。
今日の菓子も、かりんとうだった。
山崎先輩が新しい袋を開き、皿へ出した。
「今度は、お茶の感想も詳しく聞こうかな」
「また、おいしいですだけじゃ駄目なんですね」
「駄目じゃないけど。どんなところかも聞けたら、嬉しい」
先輩が点てたお茶を受け取り、ひと口飲んだ。
「おいしいです」
すぐに、笑われた。
「まだひと口目ですから」
「うん。続きを待ってる」
俺も笑い、もう少し飲んだ。
さっき本の話をした時と同じように、思ったことを言えばよかった。
「飲んだあと、あんまり苦いのが残らないです。お菓子がなくても、飲みやすい感じで」
「そっか。ありがとう」
先輩は、使った道具へ目を向けた。
俺は空になった茶碗を返した。
学校までの道は、今日も暑かった。
けれど、ここへ来たら話せることが増えていた。
お茶を飲み、菓子を食べて、片づけをしながら、本の続きの話もする。
夏休みに入る前には、思ってもいなかった過ごし方だった。
帰る支度をする時、リュックサックの中から問題集が見えた。
借りた小説は読み終えたけれど、こちらはまだ、何ページも残っていた。
今日は帰ったら、少し進めよう。
そう思って、家で開く方が手前になるように入れ直した。
今回の登場人物
・鵜飼勝也
仲間との夏祭りや、詩織との外出を楽しむ。詩織との会話をきっかけに、親友と恋人への「好き」の違いを考え始める。
・富田優子
家でも持ち物を確かめてしまうが、少しずつ好きな漫画を楽しめるようになる。勝也から借りた傘は、自分で返すために大切に保管している。
・鶴見春樹
仲間と夏祭りや手持ち花火を楽しむ。線香花火では笑いをこらえる顔で勝也をつられそうにさせ、あとから責任を押しつけられる。
・鳥居翔太
祭りに着くなり焼きそばの屋台へ向かい、輪投げにも夢中になる。線香花火では真弓に静かにするよう言われ、口を閉じる。
・加藤真弓
仲間と夏祭りを楽しみ、食べ物へ向かう勝也にも声をかける。線香花火の最中には、喋る翔太へすかさず言い返す。
・井上綾香
勝也たちと夏祭りや花火を楽しむ。屋台の食べ物を夕飯にするという勝也を、翔太と同じだと笑う。
・優子の母(富田美和)
壊れた日傘の件を学校へ連絡する。家では優子の頼みを覚え、持ち物を動かす前に声をかける。
・山崎詩織
茶道部の2年生。勝也の恋愛観に関心を持って外出に誘い、甘い物や作品の感想を分かち合いながら距離を縮める。
・詩織の母
アニメを見に来た勝也を温かく迎える。居間で過ごす2人にクッキーを用意する。
・茶道部の部長と先輩たち
勝也にお茶の飲み役や荷物運びを頼み、和やかに活動する。休憩中には恋愛の話で盛り上がり、勝也にも次々と質問する。




