第10話 壊れた日傘
* * 勝也視点 * *
終業式の朝、翔太は公園へ来るなり、今日の夕方から遊べるかと聞いた。
「まだ学校、終わってないんだけど」
春樹が言うと、翔太はリュックサックの紐を引き上げた。
「終わったあとの話だろ」
「夏休みの宿題、配られるよ」
「それは、明日から」
「まだ配られてないのに、そこだけ決めてるんだ」
真弓が笑った。
俺も笑ったけれど、今日帰ってから問題集を開くつもりだったかと聞かれたら、返事には困ったと思う。
学校へ行かなくていい日が、明日から続く。
部活の予定はあるし、宿題もある。それでも、朝から授業を受け、帰ってから翌日の支度をする毎日とは違う。
昨日の夜、持ち帰る物を入れる袋を用意した時から、少し浮かれていた。
「俺、夕方なら大丈夫」
そう答えると、翔太はすぐに春樹を見た。
「春樹は?」
「行けるけど。荷物、ちゃんと持って帰ってからね」
「分かってるって」
俺も頷いた。
今日は、机の中を空にして帰らなければいけなかった。
* * *
体育館から教室へ戻ってきた頃には、シャツの背中が少し汗ばんでいた。
開いている窓のそばへ行くと、外から風が入ってきた。
涼しいとまでは言えなかったけれど、人の多い体育館にいたあとでは、それだけで気持ちがよかった。
「勝也、そこだけずるい」
「早く来ればいいじゃん」
翔太へ場所を空けると、2人の肩がぶつかった。
後ろから来た真弓に、窓を塞がないでと言われ、俺たちは少し離れた。
担任が教室へ戻り、席に着くように言った。
俺は自分の机へ向かいながら、優子の方を見た。
もう椅子へ座っていた。
配られた紙をファイルへ挟み、机の中から出した物と順番に重ねている。
リュックサックの横には、手提げ袋があった。
部活を辞めたと聞いてからも、教室では短く話していた。
本を読み終えたとか、宿題のここが分からなかったとか、そのくらいの話だった。
楽器の話は、俺から聞かなくなった。
話してくれた時には聞こうと思っていたけれど、何も聞かないことが気遣いなのか、時々分からなくなる。
今日は、夏休みの話ならできそうだった。
そう考えたところで、先生が名前を呼び始めた。
順番に前へ出て、通知表を受け取った。
席へ戻ると、翔太がこちらを見ていた。
「どうだった?」
「まだ開いてない」
「早く見ろよ」
「自分の見てなよ」
小さな声で返し、俺も中を見た。
よかったところと、もう少し頑張りたいところがあった。
同じ授業を受けていても、分かったつもりで先へ進んだところは、あとで問題を解くと止まる。
夏休みの宿題を、ただ終わらせるだけにしたら駄目なのだろうと思った。
思っただけでは、まだ1問も進まなかったけれど。
通知表をしまうと、今度は休み中の連絡を聞いた。
紙には宿題や、次に学校へ来る時のことが並んでいる。
先生は黒板へ日付を書き、写しておくように言った。
「明日から夏休みだからって、生活の時間を大きく変えないようにな」
後ろで、誰かが小さく返事をした。
先生がそちらを見ると、教室が静かになった。
少しすると、また紙の音に交じって話し声が聞こえた。
俺は、必要なところへ鉛筆で印をつけた。
これを忘れたら、休みの最後に春樹へ聞くことになりそうだった。
小学校の時は、休みに入っても、近くに住む友達とはすぐ会えた。
今も、翔太たちとは遊ぶ約束がある。
優子とは、学校へ来ると会えるようになったばかりだった。
しばらく、この教室では会わなくなる。
そのことを考えて、もう1度優子の方を見た。
こちらには気づかず、紙の端を押さえていた。
「じゃあ、忘れ物のないように。気をつけて帰れよ」
俺が号令をかけ、みんなで挨拶をした。
椅子を引く音が、一斉に重なった。
俺は配られた物をしまい、リュックサックを背負った。
机の中へ手を入れると、もう何もなかった。
優子の席のそばで、少し足を止めた。
まだ座っていたので、俺も机の横へしゃがんだ。
「富田、荷物、入りそう?」
顔を上げた優子が、リュックサックの口を見た。
「うん。あとは、こっちにも入れたから」
机の横の手提げを、小さく示した。
「俺も。最後の日にまとめて持って帰ろうとすると、多いね」
「少しずつ、持って帰ってた?」
「そのつもりだったんだけど。昨日になって、まだあったんだってなった」
優子が、ほんの少し笑った。
俺も笑い、肩へ掛けた紐を直した。
「じゃあ、またね。夏休み、ゆっくりできるといいね」
「うん……勝也くんも」
また明日、と言いそうになって、今日は違うと思った。
入口から翔太に呼ばれ、俺は立ち上がって手を上げた。
「何してんだよ。帰ろうぜ」
「今行く」
優子へ、もう1度小さく手を振った。
向こうも手を上げてくれたので、そのまま教室を出た。
* * *
忘れ物に気づいたのは、校門を出てしばらく歩いてからだった。
翔太が、自分の手提げを持ち替えた。
それを見て、俺は立ち止まった。
「……あ」
片手が空いていた。
もう片方も、リュックサックの紐を持っているだけだった。
「何?」
春樹が振り返った。
「袋、忘れた」
「持って帰るための?」
「うん」
「さっき、全部持ったって言ってなかった?」
言った。
教室で優子に、荷物が多いねとまで話した。
自分の袋を持たずに言っていたのだと思い出し、恥ずかしくなった。
「机の中は見たんだよ」
「横にも掛けてたでしょ」
「だから、横のを忘れたの」
翔太が笑った。
俺が言い返そうとすると、春樹まで口元を押さえていた。
「取りに戻ってくる。先に帰ってて」
「待ってようか?」
「いいよ。教室まで行くし、暑いから」
春樹は少し考え、それから頷いた。
「夕方まで忘れないでね」
「そっちは覚えてる」
「袋も、朝は覚えてたんだろ」
翔太が言ったので、俺は、うるさいな、と笑って返した。
2人へ手を振り、来た道を戻った。
さっきまで3人で話していた道が、急に長く感じた。
日の当たるところを歩くと、首の後ろが熱かった。
走ろうかと思ったけれど、学校へ着く前に汗だくになりそうで、少し速く歩くくらいにした。
校門から出てきた生徒とすれ違った。
何か忘れたの、と聞かれ、頷く。
言われなくても、たぶん顔に出ていたのだと思う。
昇降口へ着いた時、傘立ての前にしゃがんでいる人がいた。
白い髪が、肩から前へ落ちていた。
優子だった。
足元には、教室で見た手提げ袋がある。
傘立ての下を覗いてから立ち上がり、隣の列へ移ろうとしていた。
「富田?」
呼ぶと、優子がこちらを向いた。
「勝也くん……?」
「まだいたんだ。どうしたの?」
「傘、探してて」
「いつも使ってる日傘?」
頷いた。
近くで靴を履き替えていた男子が、俺たちの横を通って外へ出ていった。
「ここにないの?」
「うん。朝、入れたんだけど」
優子は、端の方を指した。
長い傘が何本か残っていたけれど、見覚えのある白い傘はなかった。
「隣のところは?」
「向こうまで見た。でも、なくて……」
傘立てへ向き直り、また膝を曲げた。
俺もそばにしゃがみ、下の隙間を覗いた。
ほかの傘の先と、傘立ての脚が見えた。
下へ落ちて隠れている物も、なさそうだった。
優子はこちらを見てから、足元へ目を戻した。
「勝也くん、帰ったんじゃなかったの?」
「帰ったんだけど、忘れ物してさ。机の横に袋、掛けたままだった」
「……私も」
「ん?」
「私も、さっき手提げを取りに戻ったの」
優子が持ち手へ触れた。
俺は、それと自分の空いている手を見比べた。
「同じことしてるね」
「うん。リュックサックは、ちゃんと閉めたのに」
「俺、机の中も見たよ。それで安心して、出てきちゃった」
優子の口元が少し緩んだ。
けれど、傘立てへ目を戻すと、その顔も戻ってしまった。
「教室まで持っていったとかは?」
「ううん。朝、ここで閉じて、入れたから」
「そっか。じゃあ、こっちだね」
言ってから、俺も立ち上がった。
後ろで話していた生徒たちが外へ出ると、昇降口には俺たちだけが残った。
「俺、教室まで行くから、途中も見てくるよ」
「でも、傘まで探してもらうのは……」
「どうせ上がるし。窓のところとか、立て掛けてあるかもしれないから」
誰かが場所を変えただけなら、すぐに見つかる気がした。
朝から雨は降っていない。ほかの人の傘と一緒に、どこかへ移したのかもしれなかった。
「こっちで待ってて。戻ってくるから」
「うん。ありがとう」
俺は靴を履き替え、階段へ向かった。
振り返ると、優子は手提げを足元へ置き直していた。
* * *
教室へ向かう途中、窓の下や、ドアの脇を見た。
傘を立て掛けられそうな場所は、いくつもあった。
掃除用具入れのそばにはモップがあったし、廊下の隅には、持ち主の分からない雑巾が落ちていた。
でも、白い日傘は見つからなかった。
教室のドアは開いていた。
俺の袋は、自分の机の横へ掛かったままだった。
持ち上げると、思っていたより重かった。
これだけの物を忘れていたのかと思うと、また少し恥ずかしかった。
中身を確かめ、今度は腕へ掛けた。
優子の席の周りも見た。
机の中へ勝手に手を入れるのはやめ、横と椅子のそば、壁までの間だけを覗いた。
傘を置いてある様子はなかった。
下りる時は、反対側の階段へ回った。
途中で会った生徒が、もう休みだな、と言ったので、俺も頷いた。
その人が手に持っているのも、教科書を入れた袋だった。
みんな、帰るところだった。
優子も、あとは傘を持つだけだったのだろう。
窓から外を見ると、校門へ続く道が明るかった。
優子は小さい頃から、晴れた日にも日傘を使っていた。
日差しが強い時は肌に気をつけなければいけないことも、昔から知っている。
遊びに出る前に、優子が傘を持ってくるのを待ったことがあった。
あの頃は、待つ理由をいちいち考えなかった。
優子が外へ出る時には必要な物なのだと、そう覚えていた。
今日も朝、学校へ入ってくる優子は、日傘を差していた。
戻ってくる時に歩いた道を思い出すと、何も差さずに帰らせるのは気になった。
昇降口へ戻った時、優子は手提げを持っていた。
俺を見ると、すぐにこちらへ向き直った。
「ごめん。教室と向こうの階段も見たんだけど、見つからなかった」
「そっか……」
「こっちは?」
小さく首を振った。
「なかった。でも……探してくれてありがとう」
俺は袋を持ち替えた。
結局、自分の忘れ物だけを持って戻ってきた。
すぐに見つけて持ってこられたらよかったのにと思った。
優子は、外へ向き直った。
「帰るの?」
「うん。もう、見つからないから」
昇降口の屋根が切れたところで、地面の色が変わっていた。
優子がそちらを見る時、まぶしそうに目を細めた。
「そのまま?」
「……大丈夫。家までだから」
それなら大丈夫だとは、思えなかった。
家までの道は、ずっと日陰が続いているわけではない。
俺は自分のリュックサックへ手を回した。
「ちょっと待ってて」
下ろして脇のファスナーを開くと、すぐに傘の袋へ触れた。
入っていたことは覚えていたけれど、取り出せると少しほっとした。
「これ、使っていいよ」
折り畳み傘を差し出した。
買ってから、まだほとんど使っていない物だった。
「でも、勝也くんの……」
「うん。今、俺は使わないから」
優子は受け取ろうとしなかった。
袋を見たあと、俺の顔を見た。
「雨が降ったら、困るでしょ」
「家に帰れば、ほかにもあるよ。今は晴れてるし」
「でも……」
「日傘とは違うけど、影はできるから。何もないまま帰るより、使っていってほしいな」
優子の指が、手提げの持ち手を握り直した。
借りたいのか、借りたくないのか、顔を見ただけでは分からなかった。
ただ、俺が傘をしまったら、そのまま外へ出ていきそうだった。
「そんなに、気にしなくていいよ。持ってたから貸すだけだし」
「うん。でも、勝也くんにまで……」
その先は、聞こえなかった。
優子は外を見て、それから、また傘へ目を戻した。
「それに…富田、昔から日傘、使ってたよね」
顔が上がった。
「日差し、気をつけないといけないんだよね。今日は、かなり強いし」
「……覚えてたの?」
「覚えてるよ。小学校の時も持ってたし、今だって使ってるじゃん」
そこを驚かれるとは思わなかった。
離れていた間のことは知らなくても、一緒に遊んでいた時のことまで忘れたわけではなかった。
優子は、傘の袋へそっと指を伸ばした。
けれど、持つ前に止まった。
「借りた物まで、何かあったら……」
「なくしたり、壊したりしたらってこと?」
「うん」
さっきから気にしていたのは、それだったのかと思った。
自分の傘が見つからない時に、人の物を借りるのは怖いのかもしれない。
「普通に差して帰るだけなら、そんなに心配しなくてもいいと思うよ」
優子はまだ、何か言いかけていた。
俺はその空いている手へ、傘をそっと載せた。
落とさないように指が閉じたところで、手を離した。
「俺が貸したくて貸してるんだから。何も差さずに帰る方が心配だよ」
優子は傘を持ったまま、俺を見ていた。
少ししてから、ようやく頷いた。
「……ありがとう。借りてもいい?」
「うん」
「ちゃんと返すね。でも、明日から夏休みだから」
「急がなくていいよ。夏休みが明けてからでも大丈夫」
「そんなに借りてて、いいの?」
「うん。使わない日も、リュックサックに入れてあった物だし」
優子が袋から傘を出した。
ゆっくり広げ、周りにぶつからないことを確かめてから開く。
布が張ると、手元が陰になった。
よかった、と思った。
日傘は見つからなかったけれど、何も持たずに帰ることにはならなかった。
「気をつけて帰ってね」
「うん。勝也くんも」
優子は手提げを持ち直した。
さっきまでよりはっきり、こちらを見た。
「探してくれたのも、ありがとう」
「見つけられなかったけどね」
「でも、一緒に見てくれたから」
その言葉が、少し嬉しかった。
俺はリュックサックを背負い直した。
「じゃあ、またね」
「うん。またね」
優子が歩き出してから、俺も靴を履き替えた。
外へ出ると、少し先に、さっき渡した傘が見えた。
その下を、優子が歩いていた。
帰る方向が違うので、校門の先で別れた。
俺は今度こそ持っている袋を確かめ、家の方へ向かった。
夕方、翔太に会ったら、忘れ物はあったのかと聞かれるだろう。
そう考えて少し笑い、それから、優子も自分の日傘を持って帰れたらよかったのにと思った。
* * *
学校から少し歩いたところに、公園があった。
いつもなら、入口の方を少し見るくらいで通り過ぎていた。
今日も、家へ帰って何を食べようかと考えながら、脇の道を歩いていた。
植え込みの下に、白い物が見えた。
初めは、袋か何かだと思った。
2歩ほど通り過ぎてから、今見えた形が気になり、戻った。
枝の下から、曲がった持ち手が出ていた。
その先に、細くまとまりきらない白い布がある。
傘だった。
俺は手提げを地面へ置き、近づいてしゃがんだ。
葉に隠れていた布の端が、風で少し動いた。
半分閉じたような形になっていたけれど、片側だけが膨らんでいる。
見覚えがある気がした。
優子が使っていた日傘も、こんな色だった。
持ち手も似ている。
でも、いつも見ていたのは差しているところで、傘だけをじっと見たことはなかった。
柄へ手を伸ばし、枝に引っかからないように持ち上げた。
乾いた葉が、地面へ落ちた。
「……壊れてる」
骨が曲がっていた。
布の端から外れたところもあり、閉じているはずなのに、細い先が外へ向いている。
下になっていた面には土がつき、布にも傷があった。
開けば確かめられるかと思って、やめた。
引っかかっているところを無理に動かしたら、もっと壊してしまいそうだった。
持ち手を回し、見えるところに名前がないか探した。
俺が見た範囲には、書かれていなかった。
優子の物だろうか。
さっきまで学校で探していた。
ないと思っていた物が目の前にあるかもしれないのに、見つかったと喜ぶことができなかった。
これがそうなら、使って帰れる形ではなかった。
俺は、学校の方を振り返った。
優子は、反対の道へ帰った。
俺が見ていたところから、わざわざこちらへ来る理由はない。
そもそも、さっきまで日傘は持っていなかった。
どうして、ここにあるのだろう。
考えても、分からなかった。
まだ、優子の物だと決まったわけでもない。
似た日傘を持っている人が、ほかにもいるのかもしれなかった。
もう1度、植え込みの下を見た。
俺が持ち上げた跡と、小さな葉が見えるだけだった。
誰かが傘を持ってきたところを、見たわけではない。
本人に、確かめてもらおう。
そう決めると、今度は持ち方に困った。
手提げもリュックサックも、学校から持ち帰った物でいっぱいだった。
飛び出した骨を、そのまま中へ入れるわけにもいかない。
柄の向きを変え、自分の腕に先が当たらないように持ち直した。
まず家へ帰ろうと思った。
荷物を置いて、尖ったところを何かで包んでからなら、もっと持ちやすくなる。
袋を拾い上げ、公園を出た。
腕へ掛けた持ち手が、食い込んだ。
忘れ物をしたせいで、いつもより長く歩いていた。
忘れずに帰っていたら、この傘にも気づかなかったかもしれない。
それをよかったと言っていいのかは、分からなかった。
* * *
家の鍵を開け、ようやく荷物を下ろした。
母さんは仕事へ行っていた。
部屋へ入る前に日傘を床へ置きかけ、踏みそうになる場所だと思い直した。
紙を広げられるところへ運び、先にリュックサックと手提げを片づけた。
家には、使い終えた紙があった。
何枚か重ね、骨が出ている部分へ当てる。
先へ指を近づけないように包むと、少し時間がかかった。
布をまとめる時も、曲がったところは戻せなかった。
まっすぐにしようと力を入れたら、折れてしまいそうだった。
直したつもりで悪くしたら、どう説明すればいいのか分からない。
開かずに、そのまま持っていくことにした。
紙で包むと、外へ飛び出していた部分が隠れた。
それでも、畳んだ傘の形には戻らなかった。
優子の物なら、戻ってきた方がいいと思う。
壊れているからといって、俺が捨ててしまっていい物ではなかった。
違ったら、その時は落とし物として届けよう。
巻いた紙が外れないことを確かめ、手を洗った。
昼ご飯を用意している間に、急にお腹がすいた。
学校を出る時には、もっと早く帰ってくるつもりだった。
食べ始めると、立ったまま傘を包んでいた時のことまで、少し前のことに感じた。
先に届けるなら、着替えてからにしよう。
汗をかいた制服のまま行くのも、何となく気になった。
食器を片づけ、学校から持ち帰った物を机へ並べた。
通知表は、母さんが帰ってきたら見せるために、ほかの紙と分けて置いた。
連絡の紙をなくさないようファイルへ入れたところで、畳んだままの制服が目に入った。
それも片づける。
小さな用事を順番に済ませているうちに、午後になっていた。
机の上にある問題集を見て、今日は何ページやればいいかと考えかけ、先に傘を届けるのだったと思い出した。
忘れ物を取りに帰った日に、届け物まで忘れるところだった。
時計を見ると、翔太たちとの約束には、まだ時間があった。
優子の家へ行き、いったん戻ってくれば間に合いそうだった。
傘を持ち、玄関の鏡へ少し顔を向けた。
髪の変なところが跳ねていたので、手で押さえた。
それから、何を気にしているのだろうと、自分で少し恥ずかしくなった。
落とし物かもしれない物を、確かめてもらいに行くだけだった。
鍵を取り、外へ出た。
* * *
優子の家へ向かう道は、覚えていた。
昔は、この道の先が自分の家でもあった。
角を曲がる前から、向こうに何があるか分かる。
少し変わっているところを見つけるたび、変わっていないと思っていた時間の長さにも気づいた。
中学校で再会してからは、毎日のように顔を見ていた。
でも、家まで来るのは、それとは違った。
小さい頃なら、優子がいるか聞いて、それから遊ぶ場所を決めていた。
今日は何を持ってきたのか、どうして来たのか、順番に説明しなければいけない気がした。
そう考えるほど、最初の言葉が決まらなくなった。
門の前で、足を止めた。
名前は、合っている。
場所も間違えていない。
帰る理由は何もないのに、インターホンへ手を伸ばすまでに時間がかかった。
優子が出てきたら、何と言おう。
これ、優子のかな。
さっき帰る時に見つけたんだけど。
それだけでよかった。
頭の中では、普通に言えた。
なのに、学校で話す時とは違う顔をして出てくるところを想像すると、急に落ち着かなくなった。
用もないのに来たと思われたら、少し恥ずかしい。
いや、傘を持っているのだから、用はある。
自分で考えたことへ返事をしながら、紙を巻いた部分を握り直した。
そのまま門の前に立っている方が、よほど変だった。
俺は小さく息を吐き、ボタンを押した。
『はい』
優子ではなかった。
聞こえてきた声にほっとしかけ、それから、余計に背筋が伸びた。
「あの、同じクラスの鵜飼です」
声が少し上ずった。
自分で分かったので、次はゆっくり言おうとした。
「富田さんの日傘かもしれない物を見つけたので、確認してもらえたらと思って」
『傘?』
「はい。その、見つけた時には、もう壊れてたんですけど」
『ちょっと待ってね』
返事が途切れた。
俺は日傘へ目を落とした。
先に、壊れていたことを言えてよかった。
手渡してから驚かれるよりは、いい気がした。
どこで拾ったかも、ちゃんと言えばいい。
ドアが開いた。
出てきたのは、優子のお母さんだった。
見覚えがあった。
昔、優子を呼んでもらった時の顔を思い出した。
あの頃はもっと見上げていたのだと、目の高さが違うことに気づいた。
「わざわざありがとう。学校で見つからなかったって聞いていたの」
「はい。これなんですけど」
差し出すと、お母さんの目が傘へ移った。
白い布から、まっすぐになっていない骨の方へ。
「あら……」
短い声だった。
俺は、巻いた紙のところを示した。
「ここ、先が出てるんです。紙を巻いただけなので、気をつけてください」
「うん。ありがとう。優子の物か確かめるね。今、呼んでくるから」
お母さんが家の方を向いた。
俺は、慌てて声を出した。
「あ、大丈夫です」
言ってから、何が大丈夫なのだろうと思った。
優子の物かどうか、まだ確かめてもらっていない。
でも、ここで待って、呼ばれて出てきた優子と話すところを考えると、顔が熱くなった。
「あの、このあと約束があるので。違ってたら、あとで教えてもらえれば」
「そう? せめてお礼だけでもと思ったんだけど」
「いえ。本当に、渡せれば大丈夫なので」
また、大丈夫と言ってしまった。
もっとほかの言い方があるはずなのに、口から出るのはそればかりだった。
お母さんは、傘の柄と紙を巻いた部分を持ってくれた。
ちゃんと受け取ってもらえたことを確かめてから、俺は手を離した。
「鵜飼くんね。ありがとう。優子に伝えておくね」
「はい。それじゃ、失礼します」
頭を下げ、1歩下がった。
お母さんが、気をつけてねと言った。
俺はもう1度頷き、道へ出た。
角を曲がるまで、後ろは見られなかった。
歩きながら、何度も、もう少し普通に話せばよかったと思った。
昔、隣に住んでいた勝也です。
そう言えば、分かってもらえたかもしれない。
今は鵜飼だけれど、あの頃は朝倉だった。
名字だけ名乗っても、昔の俺とつながるとは限らなかった。
でも、そこから久しぶりだとか、大きくなったとかいう話になったら、もっと照れくさくなったと思う。
優子まで出てきたら、どこを見て話せばいいのか分からなかった。
門の前へ行くまでは、確かめてもらうだけだと思っていたのに。
角を曲がってから、ようやく肩の力が抜けた。
渡せたことには、ほっとしていた。
そのあとで、拾った場所を言っていないことに気づいた。
公園にあった。
帰り道に、たまたま見つけた。
伝えるつもりだったことを、どちらも言わずに来てしまった。
ただ、優子の物かもしれないことと、見つけた時には壊れていたことは話した。
これで困ることはないだろうと、その時は思った。
そもそも、どうして、あの公園にあったのだろう。
優子が帰る方とは逆だった。
考えかけて、約束の時間が気になった。
携帯を開くと、思ったより遅くなっていた。
「……やば」
途中から、走って帰った。
家で水を飲み、財布と鍵を確かめた。
今度は、持っていく物をちゃんと手に取ってから、玄関へ向かった。
* * *
翔太と春樹は、先に来ていた。
「遅い」
翔太が言った。
俺は携帯を出し、時刻を見せた。
「まだ、約束の時間だけど」
「俺たちは、もう来てる」
「それ、早く来たって言うんだよ」
春樹が答えたので、俺は笑った。
走ってきた息を整えていると、翔太が顔を覗き込んだ。
「で、袋は?」
「取りに戻ったよ」
「ちゃんとあった?」
「あった。もう家」
「今日、何回学校行ったんだよ」
「2回だよ。そんな何回も行ってないって」
俺が言い返すと、春樹も笑った。
次はどこへ行くかという話になり、翔太が先に歩き出した。
明日は、授業がなかった。
今日決めきれなかったことを、また明日相談することもできる。
夏休みはまだ始まったばかりで、やりたいことがいくつもあった。
優子に傘を貸したことも、家へ届けたことも、忘れてはいなかった。
でも、どうしてあの場所にあったのかという疑問は、考えかけのままになった。
春樹に呼ばれ、俺は顔を上げた。
2人の隣へ並び、話の続きを聞いた。
* * 優子視点 * *
その日の午後、お母さんに呼ばれて部屋を出た。
少しだけ進めていた宿題は、机へ開いたままにしてあった。
何か手伝ってほしいのかと思って、廊下へ出たところで足が止まった。
お母さんが、白い傘を持っていた。
「優子。これ、今朝持っていった日傘?」
柄は、見慣れたものだった。
布の端にある模様も、自分の傘と同じだった。
でも、その上に紙が巻かれていた。
紙のないところから、細い骨が斜めに出ていた。
「……私のだ」
近づいて、柄へ手を伸ばした。
お母さんが持ったまま、見やすいように少し向きを変えてくれた。
「そこ、引っかけないようにね。先が出てるから」
「うん」
布が、骨に沿って揃っていなかった。
裂けたところに、土のような汚れがついていた。
朝、玄関で開いた時には、こんな形ではなかった。
帰ってきたら、もう探さなくていいと思っていた。
今日は見つからなくても、学校のどこかにあるのかもしれない。
そう考えようとしていた。
その傘が、開けなくなって戻ってきた。
「これ、どうしたの?」
「同じクラスの鵜飼くんが、届けてくれたの。優子のかもしれないからって」
顔を上げた。
「勝也くんが?」
「うん。見つけた時には、もうこうなっていたんだって。危なくないように、ここを巻いてくれたみたい」
私は、紙の重なったところを見た。
骨の先へ直接触れずに持てるようになっていた。
「いつ来たの?」
「今、帰ったところ。呼ぼうと思ったんだけど、このあと約束があるからって」
廊下の先に、玄関が見えた。
もう誰もいなかった。
来てくれたのなら、会いたかった。
ありがとうと、自分で言いたかった。
学校で別れたのは、お昼より前だった。
私は帰って、ご飯を食べて、持ち帰った物を片づけた。
それから少し休んで、宿題を始めていた。
その間も、勝也くんは探してくれていたのだろうか。
昇降口では、見つからないと諦めていた。
でも、勝也くんは、私が帰ったあとも、どこかを見てくれたのかもしれない。
その傘を持って、家まで来てくれた。
嬉しかった。
私のいないところでも、私のことを気にかけてくれたのが嬉しかった。
だから余計に、部屋にいた自分がもどかしかった。
「朝は、普通に使えたのよね」
お母さんの声で、傘へ目を戻した。
「うん。学校に着くまで差してた。傘立てに置いた時も、壊れてなかったよ」
「誰かが持っているところは、見てない?」
「見てない」
答えたあとで、今日、階段ですれ違った時のことが浮かんだ。
手提げ袋を取りに戻ろうとした時、美咲さんたちが下りてきた。
私を見て、話していた声が少し小さくなった。
まだ帰らないの、と聞かれた。
忘れ物をしただけだと答えると、そのまま下りていった。
あの時、誰が何を持っていたのか。
思い出そうとしても、顔と声ばかりが浮かんだ。
美咲さんたちがやったのだろうか。
そう考えた途端、傘の柄を握る手に力が入った。
莉奈さんがリュックサックへ水をかけていた時のことが浮かんだ。
やめてと言っても、濡れた本を見せても、笑って出ていってしまった。
部活を辞めても、教室では会う。
夏休みに入る、その最後の日にも。
でも、見ていない。
この傘を持っていたところも、壊したところも、私は見ていなかった。
「学校にも、連絡しておこうね。傘立てからなくなって、壊れた状態で見つかったって」
お母さんが言った。
「……誰が触ったのかは、分からないの」
「うん。分かっていることだけ、伝えるよ。何か気づいた人がいるかもしれないから」
私は頷いた。
誰かの名前を言うようには、聞かれなかった。
少し息がしやすくなって、柄から手を離した。
「新しい日傘も、見に行こう。しばらく、外へ出る時に困るものね」
「うん。お母さん、ありがとう」
「これは、ここに置いておくね。触る時は気をつけて」
お母さんは、紙を巻いたところが人に当たらないように、傘を端へ寄せた。
私はもう1度、曲がった骨を見た。
学校にあった物が、家でも怖い形をしていた。
部屋へ戻る途中で、後ろを振り返りそうになった。
* * *
机のそばには、勝也くんから借りた傘が置いてあった。
帰ってから、布を整えて、丁寧に畳んだ。
借りた時と同じように袋へ入れて、自分の持ち物とは少し離してあった。
持ち上げると、壊れた日傘よりも、ずっと小さかった。
それでも、今日、家まで歩く間、頭の上に影を作ってくれた。
日差しのことを、勝也くんは覚えていた。
小さい頃の私を覚えていて、今日も、気にしてくれた。
傘の袋を、両手で持った。
少し前まで勝也くんのリュックサックに入っていた物が、今は私の部屋にある。
そう思うと、壊れた骨ばかり浮かんでいた頭の中に、貸してくれた時の顔が戻ってきた。
ちゃんとお礼を言いたい。
貸してくれた傘のおかげで帰れたことも、家まで届けてくれて嬉しかったことも。
ありがとうと声に出してみた。
誰もいない部屋では、それだけの言葉が、すぐに言えた。
明日から、学校へ行かなくてよかった。
席へ着く前に机の中を確かめたり、休み時間に荷物から離れるのを怖がったりしなくてよかった。
そのことには、ほっとしていた。
でも、朝、勝也くんに会うこともなくなる。
おはようと言ってもらってから、返事をする時間もなかった。
学校には、行きたくない。
勝也くんには、会いたい。
どちらも、同じくらい本当だった。
借りた傘を、元の場所へ戻した。
上から本やノートが落ちないように、机の端も片づけた。
自分のノートを開く時に、あの字を見ないようにしている。
教科書の波打った端は、押さえても平らにならなかった。
この傘は、借りた時と同じ形で返したかった。
その時には、今日言えなかったお礼も、ちゃんと伝えようと思った。
今回の登場人物
・鵜飼勝也
日傘を探す優子を手伝い、自分の折り畳み傘を貸す。帰り道で壊れた日傘を見つけ、尖った部分を紙で包んで富田家へ届ける。
・富田優子
壊れて戻った日傘に胸を痛めながらも、勝也の気遣いを嬉しく思う。学校を離れられる安堵と、勝也に会えなくなる寂しさを感じる。
・鶴見春樹
終業式の朝、遊ぶ約束をする翔太に宿題や荷物のことを念押しする。忘れ物に戻る勝也を気遣い、夕方には一緒に出かける。
・鳥居翔太
朝から勝也と春樹を遊びに誘い、夏休みを楽しみにしている。荷物を忘れた勝也をからかい、夕方にも忘れ物の行方を尋ねる。
・加藤真弓
宿題を明日からにすると決めている翔太に笑う。教室では、窓辺に集まった勝也たちへ窓を塞がないよう声をかける。
・戸田美咲
忘れ物を取りに戻る優子と階段ですれ違い、まだ帰らないのかと尋ねる。日傘の破損への関与は、この話では確認されていない。
・優子の母(富田美和)
勝也から日傘を受け取り、優子に持ち主と状況を確認する。分かっている事実を学校へ伝え、新しい日傘も用意しようと話す。
・1年3組の担任
終業式後の教室で通知表を渡し、夏休みの宿題や登校日について説明する。休み中も生活の時間を大きく変えないよう呼びかける。




