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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
11/52

第10話 壊れた日傘


    * * 勝也視点 * *


 終業式の朝、翔太は公園へ来るなり、今日の夕方から遊べるかと聞いた。


「まだ学校、終わってないんだけど」


 春樹が言うと、翔太はリュックサックの紐を引き上げた。


「終わったあとの話だろ」

「夏休みの宿題、配られるよ」

「それは、明日から」

「まだ配られてないのに、そこだけ決めてるんだ」


 真弓が笑った。

 俺も笑ったけれど、今日帰ってから問題集を開くつもりだったかと聞かれたら、返事には困ったと思う。


 学校へ行かなくていい日が、明日から続く。

 部活の予定はあるし、宿題もある。それでも、朝から授業を受け、帰ってから翌日の支度をする毎日とは違う。

 昨日の夜、持ち帰る物を入れる袋を用意した時から、少し浮かれていた。


「俺、夕方なら大丈夫」


 そう答えると、翔太はすぐに春樹を見た。


「春樹は?」

「行けるけど。荷物、ちゃんと持って帰ってからね」

「分かってるって」


 俺も頷いた。

 今日は、机の中を空にして帰らなければいけなかった。


     * * *


 体育館から教室へ戻ってきた頃には、シャツの背中が少し汗ばんでいた。


 開いている窓のそばへ行くと、外から風が入ってきた。

 涼しいとまでは言えなかったけれど、人の多い体育館にいたあとでは、それだけで気持ちがよかった。


「勝也、そこだけずるい」

「早く来ればいいじゃん」


 翔太へ場所を空けると、2人の肩がぶつかった。

 後ろから来た真弓に、窓を塞がないでと言われ、俺たちは少し離れた。


 担任が教室へ戻り、席に着くように言った。

 俺は自分の机へ向かいながら、優子の方を見た。


 もう椅子へ座っていた。

 配られた紙をファイルへ挟み、机の中から出した物と順番に重ねている。

 リュックサックの横には、手提げ袋があった。


 部活を辞めたと聞いてからも、教室では短く話していた。

 本を読み終えたとか、宿題のここが分からなかったとか、そのくらいの話だった。

 楽器の話は、俺から聞かなくなった。

 話してくれた時には聞こうと思っていたけれど、何も聞かないことが気遣いなのか、時々分からなくなる。


 今日は、夏休みの話ならできそうだった。

 そう考えたところで、先生が名前を呼び始めた。


 順番に前へ出て、通知表を受け取った。

 席へ戻ると、翔太がこちらを見ていた。


「どうだった?」

「まだ開いてない」

「早く見ろよ」

「自分の見てなよ」


 小さな声で返し、俺も中を見た。

 よかったところと、もう少し頑張りたいところがあった。

 同じ授業を受けていても、分かったつもりで先へ進んだところは、あとで問題を解くと止まる。

 夏休みの宿題を、ただ終わらせるだけにしたら駄目なのだろうと思った。


 思っただけでは、まだ1問も進まなかったけれど。


 通知表をしまうと、今度は休み中の連絡を聞いた。

 紙には宿題や、次に学校へ来る時のことが並んでいる。

 先生は黒板へ日付を書き、写しておくように言った。


「明日から夏休みだからって、生活の時間を大きく変えないようにな」


 後ろで、誰かが小さく返事をした。

 先生がそちらを見ると、教室が静かになった。

 少しすると、また紙の音に交じって話し声が聞こえた。


 俺は、必要なところへ鉛筆で印をつけた。

 これを忘れたら、休みの最後に春樹へ聞くことになりそうだった。


 小学校の時は、休みに入っても、近くに住む友達とはすぐ会えた。

 今も、翔太たちとは遊ぶ約束がある。

 優子とは、学校へ来ると会えるようになったばかりだった。


 しばらく、この教室では会わなくなる。


 そのことを考えて、もう1度優子の方を見た。

 こちらには気づかず、紙の端を押さえていた。


「じゃあ、忘れ物のないように。気をつけて帰れよ」


 俺が号令をかけ、みんなで挨拶をした。

 椅子を引く音が、一斉に重なった。


 俺は配られた物をしまい、リュックサックを背負った。

 机の中へ手を入れると、もう何もなかった。


 優子の席のそばで、少し足を止めた。

 まだ座っていたので、俺も机の横へしゃがんだ。


「富田、荷物、入りそう?」


 顔を上げた優子が、リュックサックの口を見た。


「うん。あとは、こっちにも入れたから」


 机の横の手提げを、小さく示した。


「俺も。最後の日にまとめて持って帰ろうとすると、多いね」

「少しずつ、持って帰ってた?」

「そのつもりだったんだけど。昨日になって、まだあったんだってなった」


 優子が、ほんの少し笑った。

 俺も笑い、肩へ掛けた紐を直した。


「じゃあ、またね。夏休み、ゆっくりできるといいね」

「うん……勝也くんも」


 また明日、と言いそうになって、今日は違うと思った。

 入口から翔太に呼ばれ、俺は立ち上がって手を上げた。


「何してんだよ。帰ろうぜ」

「今行く」


 優子へ、もう1度小さく手を振った。

 向こうも手を上げてくれたので、そのまま教室を出た。


     * * *


 忘れ物に気づいたのは、校門を出てしばらく歩いてからだった。


 翔太が、自分の手提げを持ち替えた。

 それを見て、俺は立ち止まった。


「……あ」


 片手が空いていた。

 もう片方も、リュックサックの紐を持っているだけだった。


「何?」


 春樹が振り返った。


「袋、忘れた」

「持って帰るための?」

「うん」

「さっき、全部持ったって言ってなかった?」


 言った。

 教室で優子に、荷物が多いねとまで話した。

 自分の袋を持たずに言っていたのだと思い出し、恥ずかしくなった。


「机の中は見たんだよ」

「横にも掛けてたでしょ」

「だから、横のを忘れたの」


 翔太が笑った。

 俺が言い返そうとすると、春樹まで口元を押さえていた。


「取りに戻ってくる。先に帰ってて」

「待ってようか?」

「いいよ。教室まで行くし、暑いから」


 春樹は少し考え、それから頷いた。


「夕方まで忘れないでね」

「そっちは覚えてる」

「袋も、朝は覚えてたんだろ」


 翔太が言ったので、俺は、うるさいな、と笑って返した。

 2人へ手を振り、来た道を戻った。


 さっきまで3人で話していた道が、急に長く感じた。

 日の当たるところを歩くと、首の後ろが熱かった。

 走ろうかと思ったけれど、学校へ着く前に汗だくになりそうで、少し速く歩くくらいにした。


 校門から出てきた生徒とすれ違った。

 何か忘れたの、と聞かれ、頷く。

 言われなくても、たぶん顔に出ていたのだと思う。


 昇降口へ着いた時、傘立ての前にしゃがんでいる人がいた。


 白い髪が、肩から前へ落ちていた。

 優子だった。


 足元には、教室で見た手提げ袋がある。

 傘立ての下を覗いてから立ち上がり、隣の列へ移ろうとしていた。


「富田?」


 呼ぶと、優子がこちらを向いた。


「勝也くん……?」

「まだいたんだ。どうしたの?」

「傘、探してて」

「いつも使ってる日傘?」


 頷いた。

 近くで靴を履き替えていた男子が、俺たちの横を通って外へ出ていった。


「ここにないの?」

「うん。朝、入れたんだけど」


 優子は、端の方を指した。

 長い傘が何本か残っていたけれど、見覚えのある白い傘はなかった。


「隣のところは?」

「向こうまで見た。でも、なくて……」


 傘立てへ向き直り、また膝を曲げた。

 俺もそばにしゃがみ、下の隙間を覗いた。

 ほかの傘の先と、傘立ての脚が見えた。

 下へ落ちて隠れている物も、なさそうだった。


 優子はこちらを見てから、足元へ目を戻した。


「勝也くん、帰ったんじゃなかったの?」

「帰ったんだけど、忘れ物してさ。机の横に袋、掛けたままだった」

「……私も」

「ん?」

「私も、さっき手提げを取りに戻ったの」


 優子が持ち手へ触れた。

 俺は、それと自分の空いている手を見比べた。


「同じことしてるね」

「うん。リュックサックは、ちゃんと閉めたのに」

「俺、机の中も見たよ。それで安心して、出てきちゃった」


 優子の口元が少し緩んだ。

 けれど、傘立てへ目を戻すと、その顔も戻ってしまった。


「教室まで持っていったとかは?」

「ううん。朝、ここで閉じて、入れたから」

「そっか。じゃあ、こっちだね」


 言ってから、俺も立ち上がった。

 後ろで話していた生徒たちが外へ出ると、昇降口には俺たちだけが残った。


「俺、教室まで行くから、途中も見てくるよ」

「でも、傘まで探してもらうのは……」

「どうせ上がるし。窓のところとか、立て掛けてあるかもしれないから」


 誰かが場所を変えただけなら、すぐに見つかる気がした。

 朝から雨は降っていない。ほかの人の傘と一緒に、どこかへ移したのかもしれなかった。


「こっちで待ってて。戻ってくるから」

「うん。ありがとう」


 俺は靴を履き替え、階段へ向かった。

 振り返ると、優子は手提げを足元へ置き直していた。


     * * *


 教室へ向かう途中、窓の下や、ドアの脇を見た。


 傘を立て掛けられそうな場所は、いくつもあった。

 掃除用具入れのそばにはモップがあったし、廊下の隅には、持ち主の分からない雑巾が落ちていた。

 でも、白い日傘は見つからなかった。


 教室のドアは開いていた。

 俺の袋は、自分の机の横へ掛かったままだった。


 持ち上げると、思っていたより重かった。

 これだけの物を忘れていたのかと思うと、また少し恥ずかしかった。

 中身を確かめ、今度は腕へ掛けた。


 優子の席の周りも見た。

 机の中へ勝手に手を入れるのはやめ、横と椅子のそば、壁までの間だけを覗いた。

 傘を置いてある様子はなかった。


 下りる時は、反対側の階段へ回った。

 途中で会った生徒が、もう休みだな、と言ったので、俺も頷いた。

 その人が手に持っているのも、教科書を入れた袋だった。


 みんな、帰るところだった。

 優子も、あとは傘を持つだけだったのだろう。


 窓から外を見ると、校門へ続く道が明るかった。

 優子は小さい頃から、晴れた日にも日傘を使っていた。

 日差しが強い時は肌に気をつけなければいけないことも、昔から知っている。

 遊びに出る前に、優子が傘を持ってくるのを待ったことがあった。


 あの頃は、待つ理由をいちいち考えなかった。

 優子が外へ出る時には必要な物なのだと、そう覚えていた。


 今日も朝、学校へ入ってくる優子は、日傘を差していた。

 戻ってくる時に歩いた道を思い出すと、何も差さずに帰らせるのは気になった。


 昇降口へ戻った時、優子は手提げを持っていた。

 俺を見ると、すぐにこちらへ向き直った。


「ごめん。教室と向こうの階段も見たんだけど、見つからなかった」

「そっか……」

「こっちは?」


 小さく首を振った。


「なかった。でも……探してくれてありがとう」


 俺は袋を持ち替えた。

 結局、自分の忘れ物だけを持って戻ってきた。

 すぐに見つけて持ってこられたらよかったのにと思った。


 優子は、外へ向き直った。


「帰るの?」

「うん。もう、見つからないから」


 昇降口の屋根が切れたところで、地面の色が変わっていた。

 優子がそちらを見る時、まぶしそうに目を細めた。


「そのまま?」

「……大丈夫。家までだから」


 それなら大丈夫だとは、思えなかった。

 家までの道は、ずっと日陰が続いているわけではない。

 俺は自分のリュックサックへ手を回した。


「ちょっと待ってて」


 下ろして脇のファスナーを開くと、すぐに傘の袋へ触れた。

 入っていたことは覚えていたけれど、取り出せると少しほっとした。


「これ、使っていいよ」


 折り畳み傘を差し出した。

 買ってから、まだほとんど使っていない物だった。


「でも、勝也くんの……」

「うん。今、俺は使わないから」


 優子は受け取ろうとしなかった。

 袋を見たあと、俺の顔を見た。


「雨が降ったら、困るでしょ」

「家に帰れば、ほかにもあるよ。今は晴れてるし」

「でも……」

「日傘とは違うけど、影はできるから。何もないまま帰るより、使っていってほしいな」


 優子の指が、手提げの持ち手を握り直した。

 借りたいのか、借りたくないのか、顔を見ただけでは分からなかった。

 ただ、俺が傘をしまったら、そのまま外へ出ていきそうだった。


「そんなに、気にしなくていいよ。持ってたから貸すだけだし」

「うん。でも、勝也くんにまで……」


 その先は、聞こえなかった。

 優子は外を見て、それから、また傘へ目を戻した。


「それに…富田、昔から日傘、使ってたよね」


 顔が上がった。


「日差し、気をつけないといけないんだよね。今日は、かなり強いし」

「……覚えてたの?」

「覚えてるよ。小学校の時も持ってたし、今だって使ってるじゃん」


 そこを驚かれるとは思わなかった。

 離れていた間のことは知らなくても、一緒に遊んでいた時のことまで忘れたわけではなかった。


 優子は、傘の袋へそっと指を伸ばした。

 けれど、持つ前に止まった。


「借りた物まで、何かあったら……」

「なくしたり、壊したりしたらってこと?」

「うん」


 さっきから気にしていたのは、それだったのかと思った。

 自分の傘が見つからない時に、人の物を借りるのは怖いのかもしれない。


「普通に差して帰るだけなら、そんなに心配しなくてもいいと思うよ」


 優子はまだ、何か言いかけていた。

 俺はその空いている手へ、傘をそっと載せた。

 落とさないように指が閉じたところで、手を離した。


「俺が貸したくて貸してるんだから。何も差さずに帰る方が心配だよ」


 優子は傘を持ったまま、俺を見ていた。

 少ししてから、ようやく頷いた。


「……ありがとう。借りてもいい?」

「うん」

「ちゃんと返すね。でも、明日から夏休みだから」

「急がなくていいよ。夏休みが明けてからでも大丈夫」

「そんなに借りてて、いいの?」

「うん。使わない日も、リュックサックに入れてあった物だし」


 優子が袋から傘を出した。

 ゆっくり広げ、周りにぶつからないことを確かめてから開く。

 布が張ると、手元が陰になった。


 よかった、と思った。

 日傘は見つからなかったけれど、何も持たずに帰ることにはならなかった。


「気をつけて帰ってね」

「うん。勝也くんも」


 優子は手提げを持ち直した。

 さっきまでよりはっきり、こちらを見た。


「探してくれたのも、ありがとう」

「見つけられなかったけどね」

「でも、一緒に見てくれたから」


 その言葉が、少し嬉しかった。

 俺はリュックサックを背負い直した。


「じゃあ、またね」

「うん。またね」


 優子が歩き出してから、俺も靴を履き替えた。

 外へ出ると、少し先に、さっき渡した傘が見えた。

 その下を、優子が歩いていた。


 帰る方向が違うので、校門の先で別れた。

 俺は今度こそ持っている袋を確かめ、家の方へ向かった。


 夕方、翔太に会ったら、忘れ物はあったのかと聞かれるだろう。

 そう考えて少し笑い、それから、優子も自分の日傘を持って帰れたらよかったのにと思った。


     * * *


 学校から少し歩いたところに、公園があった。


 いつもなら、入口の方を少し見るくらいで通り過ぎていた。

 今日も、家へ帰って何を食べようかと考えながら、脇の道を歩いていた。


 植え込みの下に、白い物が見えた。


 初めは、袋か何かだと思った。

 2歩ほど通り過ぎてから、今見えた形が気になり、戻った。


 枝の下から、曲がった持ち手が出ていた。

 その先に、細くまとまりきらない白い布がある。


 傘だった。


 俺は手提げを地面へ置き、近づいてしゃがんだ。

 葉に隠れていた布の端が、風で少し動いた。

 半分閉じたような形になっていたけれど、片側だけが膨らんでいる。


 見覚えがある気がした。


 優子が使っていた日傘も、こんな色だった。

 持ち手も似ている。

 でも、いつも見ていたのは差しているところで、傘だけをじっと見たことはなかった。


 柄へ手を伸ばし、枝に引っかからないように持ち上げた。

 乾いた葉が、地面へ落ちた。


「……壊れてる」


 骨が曲がっていた。

 布の端から外れたところもあり、閉じているはずなのに、細い先が外へ向いている。

 下になっていた面には土がつき、布にも傷があった。


 開けば確かめられるかと思って、やめた。

 引っかかっているところを無理に動かしたら、もっと壊してしまいそうだった。

 持ち手を回し、見えるところに名前がないか探した。


 俺が見た範囲には、書かれていなかった。


 優子の物だろうか。


 さっきまで学校で探していた。

 ないと思っていた物が目の前にあるかもしれないのに、見つかったと喜ぶことができなかった。

 これがそうなら、使って帰れる形ではなかった。


 俺は、学校の方を振り返った。


 優子は、反対の道へ帰った。

 俺が見ていたところから、わざわざこちらへ来る理由はない。

 そもそも、さっきまで日傘は持っていなかった。


 どうして、ここにあるのだろう。


 考えても、分からなかった。

 まだ、優子の物だと決まったわけでもない。

 似た日傘を持っている人が、ほかにもいるのかもしれなかった。


 もう1度、植え込みの下を見た。

 俺が持ち上げた跡と、小さな葉が見えるだけだった。

 誰かが傘を持ってきたところを、見たわけではない。


 本人に、確かめてもらおう。


 そう決めると、今度は持ち方に困った。

 手提げもリュックサックも、学校から持ち帰った物でいっぱいだった。

 飛び出した骨を、そのまま中へ入れるわけにもいかない。


 柄の向きを変え、自分の腕に先が当たらないように持ち直した。

 まず家へ帰ろうと思った。

 荷物を置いて、尖ったところを何かで包んでからなら、もっと持ちやすくなる。


 袋を拾い上げ、公園を出た。

 腕へ掛けた持ち手が、食い込んだ。

 忘れ物をしたせいで、いつもより長く歩いていた。


 忘れずに帰っていたら、この傘にも気づかなかったかもしれない。

 それをよかったと言っていいのかは、分からなかった。


     * * *


 家の鍵を開け、ようやく荷物を下ろした。


 母さんは仕事へ行っていた。

 部屋へ入る前に日傘を床へ置きかけ、踏みそうになる場所だと思い直した。

 紙を広げられるところへ運び、先にリュックサックと手提げを片づけた。


 家には、使い終えた紙があった。

 何枚か重ね、骨が出ている部分へ当てる。

 先へ指を近づけないように包むと、少し時間がかかった。


 布をまとめる時も、曲がったところは戻せなかった。

 まっすぐにしようと力を入れたら、折れてしまいそうだった。

 直したつもりで悪くしたら、どう説明すればいいのか分からない。


 開かずに、そのまま持っていくことにした。


 紙で包むと、外へ飛び出していた部分が隠れた。

 それでも、畳んだ傘の形には戻らなかった。


 優子の物なら、戻ってきた方がいいと思う。

 壊れているからといって、俺が捨ててしまっていい物ではなかった。

 違ったら、その時は落とし物として届けよう。


 巻いた紙が外れないことを確かめ、手を洗った。


 昼ご飯を用意している間に、急にお腹がすいた。

 学校を出る時には、もっと早く帰ってくるつもりだった。

 食べ始めると、立ったまま傘を包んでいた時のことまで、少し前のことに感じた。


 先に届けるなら、着替えてからにしよう。

 汗をかいた制服のまま行くのも、何となく気になった。


 食器を片づけ、学校から持ち帰った物を机へ並べた。

 通知表は、母さんが帰ってきたら見せるために、ほかの紙と分けて置いた。

 連絡の紙をなくさないようファイルへ入れたところで、畳んだままの制服が目に入った。

 それも片づける。


 小さな用事を順番に済ませているうちに、午後になっていた。

 机の上にある問題集を見て、今日は何ページやればいいかと考えかけ、先に傘を届けるのだったと思い出した。


 忘れ物を取りに帰った日に、届け物まで忘れるところだった。


 時計を見ると、翔太たちとの約束には、まだ時間があった。

 優子の家へ行き、いったん戻ってくれば間に合いそうだった。


 傘を持ち、玄関の鏡へ少し顔を向けた。

 髪の変なところが跳ねていたので、手で押さえた。

 それから、何を気にしているのだろうと、自分で少し恥ずかしくなった。


 落とし物かもしれない物を、確かめてもらいに行くだけだった。


 鍵を取り、外へ出た。


     * * *


 優子の家へ向かう道は、覚えていた。


 昔は、この道の先が自分の家でもあった。

 角を曲がる前から、向こうに何があるか分かる。

 少し変わっているところを見つけるたび、変わっていないと思っていた時間の長さにも気づいた。


 中学校で再会してからは、毎日のように顔を見ていた。

 でも、家まで来るのは、それとは違った。


 小さい頃なら、優子がいるか聞いて、それから遊ぶ場所を決めていた。

 今日は何を持ってきたのか、どうして来たのか、順番に説明しなければいけない気がした。

 そう考えるほど、最初の言葉が決まらなくなった。


 門の前で、足を止めた。


 名前は、合っている。

 場所も間違えていない。

 帰る理由は何もないのに、インターホンへ手を伸ばすまでに時間がかかった。


 優子が出てきたら、何と言おう。


 これ、優子のかな。

 さっき帰る時に見つけたんだけど。


 それだけでよかった。

 頭の中では、普通に言えた。

 なのに、学校で話す時とは違う顔をして出てくるところを想像すると、急に落ち着かなくなった。


 用もないのに来たと思われたら、少し恥ずかしい。

 いや、傘を持っているのだから、用はある。

 自分で考えたことへ返事をしながら、紙を巻いた部分を握り直した。


 そのまま門の前に立っている方が、よほど変だった。

 俺は小さく息を吐き、ボタンを押した。


『はい』


 優子ではなかった。

 聞こえてきた声にほっとしかけ、それから、余計に背筋が伸びた。


「あの、同じクラスの鵜飼です」


 声が少し上ずった。

 自分で分かったので、次はゆっくり言おうとした。


「富田さんの日傘かもしれない物を見つけたので、確認してもらえたらと思って」

『傘?』

「はい。その、見つけた時には、もう壊れてたんですけど」

『ちょっと待ってね』


 返事が途切れた。

 俺は日傘へ目を落とした。


 先に、壊れていたことを言えてよかった。

 手渡してから驚かれるよりは、いい気がした。

 どこで拾ったかも、ちゃんと言えばいい。


 ドアが開いた。

 出てきたのは、優子のお母さんだった。


 見覚えがあった。

 昔、優子を呼んでもらった時の顔を思い出した。

 あの頃はもっと見上げていたのだと、目の高さが違うことに気づいた。


「わざわざありがとう。学校で見つからなかったって聞いていたの」

「はい。これなんですけど」


 差し出すと、お母さんの目が傘へ移った。

 白い布から、まっすぐになっていない骨の方へ。


「あら……」


 短い声だった。

 俺は、巻いた紙のところを示した。


「ここ、先が出てるんです。紙を巻いただけなので、気をつけてください」

「うん。ありがとう。優子の物か確かめるね。今、呼んでくるから」


 お母さんが家の方を向いた。

 俺は、慌てて声を出した。


「あ、大丈夫です」


 言ってから、何が大丈夫なのだろうと思った。

 優子の物かどうか、まだ確かめてもらっていない。

 でも、ここで待って、呼ばれて出てきた優子と話すところを考えると、顔が熱くなった。


「あの、このあと約束があるので。違ってたら、あとで教えてもらえれば」

「そう? せめてお礼だけでもと思ったんだけど」

「いえ。本当に、渡せれば大丈夫なので」


 また、大丈夫と言ってしまった。

 もっとほかの言い方があるはずなのに、口から出るのはそればかりだった。


 お母さんは、傘の柄と紙を巻いた部分を持ってくれた。

 ちゃんと受け取ってもらえたことを確かめてから、俺は手を離した。


「鵜飼くんね。ありがとう。優子に伝えておくね」

「はい。それじゃ、失礼します」


 頭を下げ、1歩下がった。

 お母さんが、気をつけてねと言った。

 俺はもう1度頷き、道へ出た。


 角を曲がるまで、後ろは見られなかった。

 歩きながら、何度も、もう少し普通に話せばよかったと思った。


 昔、隣に住んでいた勝也です。


 そう言えば、分かってもらえたかもしれない。

 今は鵜飼だけれど、あの頃は朝倉だった。

 名字だけ名乗っても、昔の俺とつながるとは限らなかった。


 でも、そこから久しぶりだとか、大きくなったとかいう話になったら、もっと照れくさくなったと思う。

 優子まで出てきたら、どこを見て話せばいいのか分からなかった。


 門の前へ行くまでは、確かめてもらうだけだと思っていたのに。


 角を曲がってから、ようやく肩の力が抜けた。

 渡せたことには、ほっとしていた。


 そのあとで、拾った場所を言っていないことに気づいた。


 公園にあった。

 帰り道に、たまたま見つけた。


 伝えるつもりだったことを、どちらも言わずに来てしまった。

 ただ、優子の物かもしれないことと、見つけた時には壊れていたことは話した。

 これで困ることはないだろうと、その時は思った。


 そもそも、どうして、あの公園にあったのだろう。

 優子が帰る方とは逆だった。


 考えかけて、約束の時間が気になった。

 携帯を開くと、思ったより遅くなっていた。


「……やば」


 途中から、走って帰った。

 家で水を飲み、財布と鍵を確かめた。

 今度は、持っていく物をちゃんと手に取ってから、玄関へ向かった。


     * * *


 翔太と春樹は、先に来ていた。


「遅い」


 翔太が言った。

 俺は携帯を出し、時刻を見せた。


「まだ、約束の時間だけど」

「俺たちは、もう来てる」

「それ、早く来たって言うんだよ」


 春樹が答えたので、俺は笑った。

 走ってきた息を整えていると、翔太が顔を覗き込んだ。


「で、袋は?」

「取りに戻ったよ」

「ちゃんとあった?」

「あった。もう家」

「今日、何回学校行ったんだよ」

「2回だよ。そんな何回も行ってないって」


 俺が言い返すと、春樹も笑った。

 次はどこへ行くかという話になり、翔太が先に歩き出した。


 明日は、授業がなかった。

 今日決めきれなかったことを、また明日相談することもできる。

 夏休みはまだ始まったばかりで、やりたいことがいくつもあった。


 優子に傘を貸したことも、家へ届けたことも、忘れてはいなかった。

 でも、どうしてあの場所にあったのかという疑問は、考えかけのままになった。


 春樹に呼ばれ、俺は顔を上げた。

 2人の隣へ並び、話の続きを聞いた。


    * * 優子視点 * *


 その日の午後、お母さんに呼ばれて部屋を出た。


 少しだけ進めていた宿題は、机へ開いたままにしてあった。

 何か手伝ってほしいのかと思って、廊下へ出たところで足が止まった。


 お母さんが、白い傘を持っていた。


「優子。これ、今朝持っていった日傘?」


 柄は、見慣れたものだった。

 布の端にある模様も、自分の傘と同じだった。

 でも、その上に紙が巻かれていた。

 紙のないところから、細い骨が斜めに出ていた。


「……私のだ」


 近づいて、柄へ手を伸ばした。

 お母さんが持ったまま、見やすいように少し向きを変えてくれた。


「そこ、引っかけないようにね。先が出てるから」

「うん」


 布が、骨に沿って揃っていなかった。

 裂けたところに、土のような汚れがついていた。

 朝、玄関で開いた時には、こんな形ではなかった。


 帰ってきたら、もう探さなくていいと思っていた。

 今日は見つからなくても、学校のどこかにあるのかもしれない。

 そう考えようとしていた。


 その傘が、開けなくなって戻ってきた。


「これ、どうしたの?」

「同じクラスの鵜飼くんが、届けてくれたの。優子のかもしれないからって」


 顔を上げた。


「勝也くんが?」

「うん。見つけた時には、もうこうなっていたんだって。危なくないように、ここを巻いてくれたみたい」


 私は、紙の重なったところを見た。

 骨の先へ直接触れずに持てるようになっていた。


「いつ来たの?」

「今、帰ったところ。呼ぼうと思ったんだけど、このあと約束があるからって」


 廊下の先に、玄関が見えた。

 もう誰もいなかった。


 来てくれたのなら、会いたかった。

 ありがとうと、自分で言いたかった。


 学校で別れたのは、お昼より前だった。

 私は帰って、ご飯を食べて、持ち帰った物を片づけた。

 それから少し休んで、宿題を始めていた。


 その間も、勝也くんは探してくれていたのだろうか。


 昇降口では、見つからないと諦めていた。

 でも、勝也くんは、私が帰ったあとも、どこかを見てくれたのかもしれない。

 その傘を持って、家まで来てくれた。


 嬉しかった。

 私のいないところでも、私のことを気にかけてくれたのが嬉しかった。

 だから余計に、部屋にいた自分がもどかしかった。


「朝は、普通に使えたのよね」


 お母さんの声で、傘へ目を戻した。


「うん。学校に着くまで差してた。傘立てに置いた時も、壊れてなかったよ」

「誰かが持っているところは、見てない?」

「見てない」


 答えたあとで、今日、階段ですれ違った時のことが浮かんだ。


 手提げ袋を取りに戻ろうとした時、美咲さんたちが下りてきた。

 私を見て、話していた声が少し小さくなった。


 まだ帰らないの、と聞かれた。

 忘れ物をしただけだと答えると、そのまま下りていった。


 あの時、誰が何を持っていたのか。

 思い出そうとしても、顔と声ばかりが浮かんだ。


 美咲さんたちがやったのだろうか。


 そう考えた途端、傘の柄を握る手に力が入った。

 莉奈さんがリュックサックへ水をかけていた時のことが浮かんだ。

 やめてと言っても、濡れた本を見せても、笑って出ていってしまった。

 部活を辞めても、教室では会う。

 夏休みに入る、その最後の日にも。


 でも、見ていない。

 この傘を持っていたところも、壊したところも、私は見ていなかった。


「学校にも、連絡しておこうね。傘立てからなくなって、壊れた状態で見つかったって」


 お母さんが言った。


「……誰が触ったのかは、分からないの」

「うん。分かっていることだけ、伝えるよ。何か気づいた人がいるかもしれないから」


 私は頷いた。

 誰かの名前を言うようには、聞かれなかった。

 少し息がしやすくなって、柄から手を離した。


「新しい日傘も、見に行こう。しばらく、外へ出る時に困るものね」

「うん。お母さん、ありがとう」

「これは、ここに置いておくね。触る時は気をつけて」


 お母さんは、紙を巻いたところが人に当たらないように、傘を端へ寄せた。

 私はもう1度、曲がった骨を見た。


 学校にあった物が、家でも怖い形をしていた。

 部屋へ戻る途中で、後ろを振り返りそうになった。


     * * *


 机のそばには、勝也くんから借りた傘が置いてあった。


 帰ってから、布を整えて、丁寧に畳んだ。

 借りた時と同じように袋へ入れて、自分の持ち物とは少し離してあった。


 持ち上げると、壊れた日傘よりも、ずっと小さかった。

 それでも、今日、家まで歩く間、頭の上に影を作ってくれた。


 日差しのことを、勝也くんは覚えていた。

 小さい頃の私を覚えていて、今日も、気にしてくれた。


 傘の袋を、両手で持った。

 少し前まで勝也くんのリュックサックに入っていた物が、今は私の部屋にある。

 そう思うと、壊れた骨ばかり浮かんでいた頭の中に、貸してくれた時の顔が戻ってきた。


 ちゃんとお礼を言いたい。

 貸してくれた傘のおかげで帰れたことも、家まで届けてくれて嬉しかったことも。


 ありがとうと声に出してみた。

 誰もいない部屋では、それだけの言葉が、すぐに言えた。


 明日から、学校へ行かなくてよかった。

 席へ着く前に机の中を確かめたり、休み時間に荷物から離れるのを怖がったりしなくてよかった。

 そのことには、ほっとしていた。


 でも、朝、勝也くんに会うこともなくなる。

 おはようと言ってもらってから、返事をする時間もなかった。


 学校には、行きたくない。

 勝也くんには、会いたい。


 どちらも、同じくらい本当だった。


 借りた傘を、元の場所へ戻した。

 上から本やノートが落ちないように、机の端も片づけた。


 自分のノートを開く時に、あの字を見ないようにしている。

 教科書の波打った端は、押さえても平らにならなかった。

 この傘は、借りた時と同じ形で返したかった。

 その時には、今日言えなかったお礼も、ちゃんと伝えようと思った。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

 日傘を探す優子を手伝い、自分の折り畳み傘を貸す。帰り道で壊れた日傘を見つけ、尖った部分を紙で包んで富田家へ届ける。


・富田優子

 壊れて戻った日傘に胸を痛めながらも、勝也の気遣いを嬉しく思う。学校を離れられる安堵と、勝也に会えなくなる寂しさを感じる。


・鶴見春樹

 終業式の朝、遊ぶ約束をする翔太に宿題や荷物のことを念押しする。忘れ物に戻る勝也を気遣い、夕方には一緒に出かける。


・鳥居翔太

 朝から勝也と春樹を遊びに誘い、夏休みを楽しみにしている。荷物を忘れた勝也をからかい、夕方にも忘れ物の行方を尋ねる。


・加藤真弓

 宿題を明日からにすると決めている翔太に笑う。教室では、窓辺に集まった勝也たちへ窓を塞がないよう声をかける。


・戸田美咲

 忘れ物を取りに戻る優子と階段ですれ違い、まだ帰らないのかと尋ねる。日傘の破損への関与は、この話では確認されていない。


・優子の母(富田美和)

 勝也から日傘を受け取り、優子に持ち主と状況を確認する。分かっている事実を学校へ伝え、新しい日傘も用意しようと話す。


・1年3組の担任

 終業式後の教室で通知表を渡し、夏休みの宿題や登校日について説明する。休み中も生活の時間を大きく変えないよう呼びかける。

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