第82章:東側通路
最初の残滓が倒れたとき、残りの三体はまだ加藤が動いたことすら理解していなかった。
一瞬前まで、彼は通路の入口にいた。
次の瞬間には、拳が残滓の防御を突き破り、胴体の中心へ叩き込まれていた。
衝撃で残滓の身体が折れる。
加藤は倒れるのを確認しなかった。
右足を軸に身体を回し、首元をかすめた爪を避け、二体目の腕を掴む。
その身体を流れる魔力が、接触した瞬間に反応した。
加藤はすぐに感じ取る。
熱い。
不安定。
そして、多い。
引く。
残滓が体勢を崩す。
膝が肋骨の下へ入った。
残滓の身体から、わずかな魔力が剥がれ落ちる。
空気へ散る前に、加藤が吸収した。
考える必要すらない。
今では、呼吸と同じくらい自然な動作になっていた。
三体目が背後から来る。
加藤は目の前の残滓を放し、身体を沈めた。
爪が頭上を通過する。
戦闘モードを起動。
一瞬だけ、すべてが遅くなる。
世界が変わったわけではない。
変わったのは彼自身。
筋肉が先に反応する。
脚へ力が走る。
距離の意味が薄れる。
加藤が一歩。
次にもう一歩。
残滓が振り向こうとする。
遅い。
加藤の拳が顎へ入った。
首がねじれる。
怪物は吹き飛び、壁へ激突した。
加藤はモードを解除する。
変化は即座だった。
加速が消える。
脈拍だけが高いまま残る。
一度呼吸する。
もう一度。
四体目は攻撃してこなかった。
後退した。
加藤は見つめる。
残滓が振り返った。
そして走り出した。
出口へではない。
本部のさらに内側へ。
加藤は眉をひそめた。
床に倒れていた二体目が起き上がろうとする。
加藤は胸へ手を置いた。
魔力が流れ込んでくる。
残滓が震えた。
抵抗は数秒。
やがて動かなくなる。
加藤は顔を上げた。
逃げた一体は、すでに次の交差点から消えていた。
追うことはできる。
追わなかった。
周囲を見る。
残滓の死体が三つ。
まだ空気中に残る魔力。
加藤が来る前に使われた術の残滓。
この区画全体が飽和していた。
加藤はゆっくり息を吸う。
周囲の魔力が引かれ始める。
一気にではない。
爆発のようでもない。
少しずつ。
断片。
本来ならそのまま散っていたはずのもの。
すべて吸収する。
身体の中にある魔力が再び増えていく。
完全に満たす必要はない。
そんな必要はなかった。
東側通路へ入ってから、ずっと同じことを繰り返している。
戦う。
消費する。
吸収する。
進む。
普通の狩人には維持できない速度で戦い続けられる。
だが、身体は魔力ではない。
加藤は片手を握る。
指は動く。
少し遅い。
肩を回す。
痛む。
脚にはまだ力がある。
だが筋肉は重くなり始めていた。
燃料は補充できる。
筋繊維までは交換できない。
受けた衝撃を消すこともできない。
戦闘モードを何度使ったか、身体に忘れさせることもできない。
加藤は再び交差点を見る。
あの残滓は逃げた。
初めてではなかった。
それが気に入らなかった。
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東側通路はいくつもの脇道に分かれていた。
内部の事務区画へ続くもの。
小規模な保管室や設備区画、警備員が使用する通路へつながるもの。
普段なら、退屈な場所だった。
加藤も何十回と通ったことがある。
ほとんど意識したことはなかった。
今は別の本部に見える。
外れた扉。
非常灯。
壁に乾いた血。
壊れた通信機。
天井の衝撃痕。
加藤は警戒を解かずに進む。
静かだから安全だとは限らない。
それは、すぐに学んでいた。
次の曲がり角に二体の残滓がいた。
誰かを襲っているわけではない。
扉を開けようとしていた。
一体は両手を閉鎖部へ押し当てている。
もう一体は奥側を警戒していた。
加藤は中に何があるのか聞く必要はなかった。
攻撃する。
最初の一体が振り向く。
戦闘モード。
一瞬。
加速が身体を走る。
加藤は二体の間へ入っていた。
肘を顔面へ。
残滓が扉へぶつかる。
二体目が腕を伸ばす。
掌の前に魔力の塊。
完成する前に、加藤は感じ取った。
一部を吸収。
術の密度が落ちる。
残滓はそれでも放った。
加藤が避ける。
魔力弾が床へ当たる。
敵は再び魔力を集めようとした。
間に合わない。
加藤が手首を掴む。
吸収が強まる。
残滓の魔力が不規則に抜け始めた。
怪物が振りほどこうとする。
加藤は腕をひねる。
身体も引かれる。
壁へ叩きつける。
一度。
もう一度。
最初の残滓が回復していた。
近づく音。
加藤は振り向かない。
手にしていた敵を放し、横へ一歩。
残滓が前を通り過ぎる。
加藤は後頭部を殴った。
怪物は前のめりに倒れた。
モード解除。
呼吸がまた速くなる。
もう一体が起き上がろうとする。
その前に終わらせる。
加藤は扉へ向き直った。
向こう側から何かを叩く音。
—誰かいるか?
沈黙。
加藤は閉鎖部へ手を近づける。
—加藤だ。
今度は返事があった。
—ここです!
男の声。
続けてもう一人。
—ここにいます!
加藤は機構を確認する。
壊されてはいない。
残滓が外からこじ開けようとしていた。
つまり、中にいる誰かが内側から封鎖した。
—扉から離れろ。
待つ。
—離れました!
加藤は変形した扉と枠の隙間へ指を入れる。
力を込める。
金属が耐える。
戦闘モードをほんの数秒だけ使った。
筋肉が応える。
枠が軋む。
扉が人一人通れる程度に開いた。
解除。
中から二人の狩人が出てきた。
一人は腕に応急処置の包帯。
もう一人は額に乾いた血。
どちらも戦闘を続けられる状態には見えなかった。
最初の男が廊下の残滓を見る。
次に加藤。
—入ってくると思ってました。
—もう少しだったな。
加藤は室内を見る。
もう一人。
壁にもたれて座っている。
脚を負傷。
—何人いた?
—五人です。
答えが早すぎた。
加藤は意味を理解した。
—残りの二人は?
狩人が視線を下げる。
—来られませんでした。
加藤はそれ以上聞かなかった。
中へ入る。
負傷者の前へしゃがむ。
脚には深い切り傷。
だが出血は抑えられている。
—歩けるか?
—支えてもらえれば。
加藤は立ち上がる。
—二つ前の交差点から安全なルートがある。北側通路へ入って、そのあと設備階段へ。入口には印を付けてある。
腕を巻いていた狩人がうなずく。
—完全に安全ですか?
—俺が通ったときは。
—それ、どれくらい前です?
加藤は廊下を見る。
—十分前だ。
男は理解した。
負傷者を立たせる。
もう一人が反対側へ入った。
加藤が出ようとしたとき、額に血のある狩人が言った。
—加藤さん。
止まる。
—何だ。
—外にいた奴ら……
二体の死体を見る。
—あれだけじゃありません。
加藤は待つ。
—もっといました。
—何体?
—最初は五体。
—残りの三体は?
狩人が内部を指す。
—先へ行きました。
加藤が眉を寄せる。
—お前たちがここにいたのに?
—はい。
—扉を開けようともしなかった?
—止まりもしませんでした。
男は唾を飲む。
—二体だけ残って、三体はそのまま走っていきました。
加藤はその方向を見る。
—追ったのか?
—最初は。
狩人が短く笑う。
笑いではない。
—途中で悪手だって分かりました。
加藤は残滓の死体を見る。
二体が残る。
三体が進む。
東へ入ってからずっと同じ。
戦う者。
進む者。
混乱ではない。
役割分担。
—行け。
三人が歩き始める。
額の男が二歩進んで、また加藤を見る。
—まだ行くんですか?
—ああ。
—一人で。
質問ではなかった。
一人が負傷者を支えているのを見る。
—その方がいい。
男は残滓の死体を見る。
そのあと、うなずいた。
完全に理解はしていないだろう。
それでよかった。
加藤は三人が指定した通路から消えるまで待った。
それから奥へ進んだ。
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最初の鎖は壁に突き刺さっていた。
本物ではない。
少なくとも完全には。
大半はすでに崩れている。
暗い魔力の断片だけがコンクリートへ張り付き、重い煙のようにゆっくり消えていた。
加藤は止まった。
近づく必要もない。
知っている感覚。
以前にも感じた。
廊下は壊れている。
扉は二方向から引き剥がされていた。
床には長い跡。
深い溝。
何かを凄まじい力で引きずった跡。
柱の中央には水平の線。
切断痕ではない。
圧力の跡。
加藤は近づく。
二本の指で触れる。
残った魔力が反応。
吸収能力が引こうとする。
加藤はすぐ止めた。
それだけで十分。
—ザンショウ。
名前だけが廊下に残った。
以前の戦いを思い出す。
鎖。
真正面からぶつかる戦い方。
暴力性。
そして、強い相手を見つけたとき、戦いを長引かせることを楽しむあの態度。
加藤は周囲の破壊を見る。
何かがおかしい。
戦闘痕はある。
だが長期戦ではない。
ザンショウはここを通った。
邪魔をした者を倒した。
そして先へ行った。
加藤も進む。
二十メートルほど先で最初の遺体。
狩人。
壁にもたれていた。
死んでいる。
胴体を巻くような痕。
明らかだった。
鎖。
もう一人は扉の横。
まだ息がある。
加藤は急いで近づく。
—おい。
男が目を開ける。
呼吸が浅い。
加藤は傷を確認する。
致命傷ではなさそうだ。
幸運だった。
—話せるか?
狩人がうなずく。
—鎖の奴……
—分かってる。
—あっちへ行きました。
苦しそうに腕を上げる。
通路を指す。
加藤が見る。
—一人だったか?
—違います。
男が呼吸する。
—他に二体。
—下位の奴か?
—はい。
—三体で一緒に進んだ?
—いえ。
加藤はまた彼を見る。
—何があった?
—他の奴らは……
狩人が一度目を閉じる。
—分かれました。
—どっちへ?
—一体は内部通路。もう一体は設備側へ下りました。
—ザンショウは?
—真っ直ぐです。
加藤は動かなかった。
三つの道。
三体。
無秩序な突撃ではない。
意図的な分散。
—追ったのか?
狩人が苦しそうに息を吐く。
—四人いました。
壁際の死体を見る。
—そのあと二人になりました。
加藤は肩へ手を置く。
—動くな。
通信機を出す。
雑音だけ。
数メートル移動。
駄目。
戻る。
—後ろに避難ルートがある。歩けるか?
—たぶん。
加藤は立たせる。
男が倒れかける。
支える。
普段なら安全地帯まで付き添う。
だが、時間が経つほど、内部へ進む残滓との差が広がる。
通路を見る。
負傷者を見る。
決める。
担いだ。
男が抗議する。
—歩けます—
—いい。
位置を直す。
—体力残しとけ。
来た道を戻った。
戦闘モードは使わない。
必要ない。
人一人分の重さ。
自分の脚も重い。
それでも運べる。
最初の生存者を見つけた交差点まで戻り、印を付けた避難ルート近くへ降ろす。
今度は短く通信がつながった。
—加藤より指令室。
雑音。
—東側入口、第四交差点。負傷者一名。回収を頼む。
ノイズ。
そのあと途切れた声。
『……了解……』
加藤は待つ。
それ以上はない。
十分だった。
狩人を壁へ座らせる。
—来る。
—加藤さんは?
加藤はもう立ち始めていた。
—戻る。
男が見る。
—あの鎖の奴……
加藤が止まる。
—何だ。
—俺たち全員、殺せたはずです。
加藤は答えない。
—でも通路を開けたあと、行きました。
男は加藤を見る。
—戦いたかったわけじゃない。
その言葉で、加藤はあと一秒だけ止まった。
ザンショウが。
戦いを求めていない。
立ち上がる。
—分かった。
奥へ戻る。
________________________________________
進んでいる途中、記憶が勝手に浮かんだ。
別の建物。
別の通路。
ずっと昔。
同じ場所ではない。
同じ壁でもない。
だが、感覚は同じだった。
加藤はもっと若かった。
煙の充満した通路で、なぜ熟練の狩人たちが言い争っているのか理解できないほど若かった。
正面で襲撃。
その後、反対側でも。
部隊が分かれた。
誰かが出口を守れと叫ぶ。
別の誰かが違う区画へ援軍を送れと命令する。
残滓が攻撃。
退く。
また現れる。
混乱に見えた。
何時間ものあいだ、加藤もそう思っていた。
混乱だと。
だが、後になって理解した。
いくつかの戦いには意味がなかった。
最初からなかった。
見てほしい場所を見させられた。
使ってほしい場所で力を使わされた。
人員を動かされた。
穴を作らされた。
加藤は開いた扉を思い出した。
空の通路。
守る場所を間違えたと理解した狩人の顔。
記憶が切れる。
現在。
目の前の通路は空。
見覚えがあるはずはない。
それでも、ある。
嫌になるほど。
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数分後、加藤はバリケードを見つけた。
狩人が作ったもの。
金属製の机。
二枚の警備パネル。
封鎖設備。
すべて交差点を塞ぐよう積まれている。
残滓は突破していなかった。
移動させていた。
加藤が近づく。
物の半分は左通路へ引きずられている。
中央は開いていた。
右は完全に塞がれている。
死体はない。
大きな戦闘の跡もない。
加藤は三つの道を見る。
左。
中央。
右。
封鎖された右へ近づく。
何もない。
次に左。
血。
少量。
追跡の跡。
中央はほぼ無傷。
加藤は止まる。
一つは障害物。
一つは注意を引く程度の痕跡。
最後の一つはほとんど untouched.
中央を見る。
—クソ野郎ども。
待ち伏せではない。
もう終わっている。
狩人たちに間違った道を選ばせるための仕掛け。
加藤は中央を通る。
百メートルほど先。
壊れた扉。
重要な場所ではない。
補助制御室。
入る。
端末が二つ破壊。
三つ目は動いていた。
画面に接続エラー。
経路。
閉鎖。
内部システム。
加藤は理解した。
重要施設だけを狙っているわけではない。
本部内部の移動へ影響する場所も潰している。
全部壊す必要はない。
必要な分だけでいい。
背後に音。
加藤が振り向く。
入口に下位残滓。
攻撃しない。
加藤を見て止まった。
互いに見る。
残滓が下がる。
加藤が追う。
走る。
戦闘モード。
身体に痛みが走る。
無視。
加速。
敵が曲がる。
加藤も。
二つ目。
三つ目。
残滓は無意味に逃げていない。
行き先がある。
気づくのが遅かった。
残滓が倒れた構造物を飛び越える。
加藤も続く。
着地した瞬間、鎖が見えた。
三本。
通路を横切っている。
誰も持っていない。
残留物。
事前に置かれていた。
加藤が止まる。
一つ目の鎖が張った。
加藤が触れたからではない。
簡易的な仕掛け。
横の扉が倒れる。
加藤が後ろへ跳ぶ。
構造物が床へ落ちる。
下位残滓はそのまま逃げる。
追うこともできる。
しなかった。
鎖を見る。
扉を見る。
ザンショウが通路を準備していた。
加藤用とは限らない。
誰かが追えば引っかかる。
そちらの方が嫌だった。
前に戦ったザンショウは、目の前のものを壊して解決するタイプに見えた。
今は罠を置いている。
退路を守っている。
他の残滓のために通路を作っている。
作戦の中で動いている。
加藤は戦闘モードを完全に切る。
まだ維持していたことに気づいていなかった。
心臓が速すぎる。
壁へ手をつく。
呼吸。
魔力はある。
十分。
むしろ、まだ余裕がある。
身体がそれに反対し始めていた。
十秒待つ。
十五秒。
脚の震えが少し収まる。
完全には止まらない。
それでいい。
通信機を出す。
—加藤より指令室。
雑音。
少し浅い場所へ戻りながら続ける。
—加藤より指令室。東側区画。
何もない。
さらに進む。
端末が鳴る。
『……加藤……』
タツの声。
—聞こえる。
『信号が悪い』
—そっちも褒められたもんじゃない。
短い沈黙。
タツは反応しなかった。
『報告を』
加藤は残滓が消えた通路を見る。
—東側経路は一部確保。生存者を複数発見。負傷者は避難側へ送った。残滓が内部区画へ進んでる。
『他の報告とも一致してる』
—必要がなければ戦わない。
向こう側で間。
加藤は続ける。
—一部が足止めに残って、他が進む。経路を分断してる。補助制御室にも手を出してる。
『把握してる』
タツの声がさらに硬くなった。
『香澄が内部保管区画で活動を確認した』
加藤は壁へ背中を預ける。
—確認した?
また間。
今度は別の声。
香奈。
『香澄より先に着かれた』
加藤の姿勢が変わる。
—何を取られた?
『結界用の遺物』
加藤の呼吸が一瞬止まる。
物は知っている。
詳しくではない。
それでも十分。
—ドームのやつか?
『そう』
—使えるのか?
『すぐには無理。起動にはかなりの魔力が必要』
加藤は、廊下に残る魔力を見る。
本部全体が魔力で満ちている。
狩人。
残滓。
術。
戦闘。
嫌な答えにたどり着く。
—それ、あいつらをそんなに止めないと思うけどな。
『私もそう思う』
加藤は一度目を閉じる。
—ザンショウの痕跡も見つけた。
香奈はほとんど間を置かなかった。
『確定?』
—鎖。魔力。生存者も見てる。
『今そこにいる?』
—いない。
加藤は奥を見る。
—それが変なんだ。
香奈は黙った。
—前は俺と戦いたがってた。今回は防衛線を潰して、罠を残して、そのまま先へ進んだ。殺せたのに殺さなかったって証言もある。
タツが割って入る。
『なら、あいつにも目的がある』
—ああ。
加藤は顔を拭う。
—香奈。
『何?』
—似すぎてる。
何に、とは言わなくてよかった。
通信の向こうが数秒静かになる。
香奈もいた。
同じ戦争を見た。
『分かってる』
それだけ。
加藤は自分の手を見る。
指がわずかに震えている。
握る。
開く。
タツが言った。
『魔力はどれくらい残ってる?』
加藤は笑いかけた。
—そこは問題じゃない。
続ける前に香奈が言う。
『魔力の話はしてない』
加藤は手を見るのをやめた。
—平気だ。
『銀次郎』
フルネームではない。
それでも呼び方だけで空気が少し変わった。
加藤は後頭部を壁へ預ける。
—まだ動ける。
『それも聞いてない』
加藤は黙る。
香奈が続ける。
『魔力を吸っても筋肉は治らない。骨も。疲労も消えない』
—分かってる。
『なら、分かってるように動いて』
加藤は廊下を見る。
—戻れってこと?
間。
『違う』
即答。
『東側は開けておく必要がある』
—なら意見は一致してる。
『東側は必要。でも五分早く開けるために、お前が壊れる必要はない』
加藤は目を閉じる。
—了解。
『強い個体を見つけたら報告して』
—ああ。
『それと加藤』
—何だ。
『ザンショウがお前を経路から外そうとしても追うな』
加藤が目を開ける。
—ずいぶん個人的な注意だな。
『お前を知ってるから』
通信が切れた。
加藤は端末を見る。
—信用されてるな。
しまう。
言葉は笑いにはならなかった。
________________________________________
加藤は少し速度を落として進んだ。
そうしたいからではない。
香奈が正しかったから。
東側区画にはまだ魔力が満ちている。
感じる。
吸収を広げれば、あちこちの小さな魔力が反応する。
術の残り。
死んだ敵から剥がれた断片。
壁へ付着したままの力。
魔力はまだ増やせる。
問題はその下。
脚が重い。
左肩が固くなり始めている。
戦闘モードを使うたび、呼吸が正常に戻るまで時間がかかる。
無理に起動することはできる。
するべきではない。
その違いを理解するまで、何年もかかった。
加藤はモードを使わず進む。
もう一つの遺体。
その先に残滓の死体が二つ。
崩れた壁。
ほとんど消えた鎖。
ザンショウはまだ前にいる。
だが、加藤はもう無理に追いつこうとはしなかった。
見る。
それが香奈の言いたかったことでもある。
そして見れば見るほど、嫌な感覚が強くなる。
今回の襲撃には、普通の侵攻の形がない。
前線がない。
単一の侵入口もない。
残滓は本部内部へ出現し、部隊を分断し、通信を遮り、特定施設を叩き、狩人を足止めする個体を残している。
暴力的な個体ですら経路に従っている。
加藤は次の交差点へ着いた。
左は壊れている。
右はほとんど無傷。
中央は下へ続く。
止まる。
記憶が一つ引っかかった。
完全な映像ではない。
声。
ずっと昔。
父親が数歩先を歩いている。
弘の袖には血が付いていた。
本人のものではない。
壊れた街の中で、何時間も残滓を追っていた。
銀次郎は若すぎた。
怒りすぎていた。
逃げた残滓を追おうとした。
弘が腕で止めた。
—放っとけ。
—逃げるぞ!
—ああ。
—なら追わないと。
父は敵を見なかった。
敵が離れていった場所を見た。
—あいつらがお前を追わなくなったら、あいつらが何を追ってるのかを気にしろ。
記憶が消える。
加藤は交差点に立ったまま。
何年ものあいだ、あの戦争で一番辛かったのは忘れられないことだと思っていた。
叫び声。
死者。
間違った判断。
父親。
目を閉じるたび、それらを見なくなるまで長い時間がかかった。
今は、目を閉じる必要すらない。
目の前の通路だけで十分だった。
破壊の配置。
塞がれた経路。
必要がなくなれば戦いをやめる敵。
特定の場所へ向かって進む集団。
全部そこにある。
同じではない。
それでも、似すぎている。
加藤は武器の柄を強く握った。
そして歩き出した。
襲撃が始まってから初めて、これを単なる本部侵入とは考えなくなった。
別のものだった。
知っているもの。
二度と見たくなかったもの。
最初の戦争は、何年も前に終わった。
東側通路は、それを否定していた。




