第79章:冗談抜き
エレベーターは、それより下には行かなかった。
バクは開いたままの扉と、その向こうに広がる暗い昇降路をじっと見つめた。
扉の上にある階数表示はまだ点灯していた。二つの数字の間で止まったまま、まるでシステム自身がどの階で死んだのか決めかねているようだった。
バクは片手を腰に当てる。
「なるほど。階段か」
エレベーターの横に設置された非常案内を見る。
あと三階層。
「天敵だな」
誰も答えなかった。
今のところ、それはまだ少し面白いと思えた。
バクはマスクを直し、短いツルハシの柄を握り直して、非常用の扉をくぐった。
香奈に地下へ向かうよう命じられてから、すでにかなり下まで降りてきている。
最初の頃は、まだ本部の音が届いていた。
警報。
館内放送。
急いで走る足音。
廊下を飛び交う指示。
上階で起きている戦闘の衝撃音すら、建物を伝ってここまで響いてくることがあった。
だが、下へ行けば行くほど、それらは消えていった。
一部の区画ではまだ警報が鳴っていたものの、音は弱い。
通常照明のほとんどは非常灯に置き換わっている。
壁の造りも変わっていた。
事務用の扉は減り、
代わりにコンクリート、
太い配管、
換気ダクト、
電気設備室、
そして、学生の大半が存在すら知らないであろう古い倉庫が増えていく。
バクは最初の階段を、誰にも会わずに降り切った。
二つ目の踊り場に血があった。
多くはない。
数滴の跡が、そのまま下の階へ続いている。
バクはしゃがんだ。
二本の指で触れる。
まだ乾いていない。
「雰囲気作りとしては完璧だな」
そのまま進んだ。
腰に付けていた通信機が雑音を吐く。
バクは取り出した。
「バクより指令室」
ノイズ。
「実に実りのある会話だ」
手のひらで軽く通信機を叩く。
「バクより指令室。技術区画の下層へ移動中。聞こえてる奴がいたら、俺が定年を迎える前に返事をくれ」
何もない。
通信機を戻した。
予想外ではなかった。
地下深くでは通信が不安定になると、事前に言われている。
香奈からも、報告なしで勝手に離れるなと言われていた。
バクとしては、一応報告しようとはした。
それで十分だろう。
階段の一番下に着いた。
扉は開いていた。
そして、曲がっていた。
バクは足を止めた。
金属製の扉が内側へ大きくへこんでいる。
切断されたわけではない。
引き剥がされたわけでもない。
殴られた。
扉の中央には大きな打撃痕。
枠にも複数の亀裂が走っている。
バクは数秒、その跡を見つめた。
それからツルハシを肩に乗せる。
「まあいい」
中へ入った。
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向こう側の廊下は、幅がおよそ三メートル。
窓はない。
あるのは配管とダクト、そして一定間隔で設置された白い照明だけだった。
二つは点滅している。
三つ目は壊れていた。
奥で何かが動いた。
バクはそのまま歩く。
速度は上げない。
横の入口から、一つの影が現れた。
残滓。
異様に長い脚。
胴体は何枚もの板を重ねたような形をしている。
その後ろから二体目。
続いて三体目。
バクは首を少し傾ける。
「三体?」
四体目が天井を這って現れ、そのまま床へ落ちた。
バクは上を見た。
「ああ。そっちの方がいい」
最初の一体が襲いかかる。
体格からは想像できない速度で距離を詰め、バクの頭へ腕を振るった。
バクは身を沈める。
腕が頭上を通り過ぎた。
ツルハシが跳ね上がる。
刃としてではない。
ハンマーのように。
金属の側面が残滓の腹部へ叩き込まれた。
その瞬間、バクが魔力を放つ。
短い衝撃。
凝縮された一撃。
大きな爆発は起きない。
周囲の空気がわずかに歪んだだけだった。
それでも残滓の胴体は大きくへこんだ。
怪物は数メートル吹き飛び、配管へ激突する。
二体目はすでに目の前にいた。
バクは片足を軸に回る。
爪をツルハシの柄で受け止めた。
普通の狩人なら後ろへ弾き飛ばされるほどの一撃。
バクはほとんど動かなかった。
「今のは感じ悪いな」
残滓が腕を引こうとする。
バクが逆に引っ張った。
敵を自分の方へ引き寄せる。
そのまま頭突き。
マスクが歪んだ顔面へ激突する。
立て直す前に、バクは下からツルハシを振り上げた。
再び魔力を叩き込む。
残滓の身体が浮き上がり、天井へ激突した。
三体目が横から来る。
完全には振り向けなかった。
残滓が体当たりを叩き込む。
今度はバクも押された。
靴底が一メートル近く滑る。
そこへ四体目が上から落ちてくる。
バクはツルハシを床の継ぎ目へ突き刺した。
魔力。
先端の周囲で床がひび割れる。
身体が止まった。
上から二撃目。
バクは脚で衝撃を受け止める。
倒れない。
顔を上げた。
「いや」
床からツルハシを引き抜き、そのまま怪物の膝へ叩き込む。
骨が折れる。
残滓が倒れきる前に、バクは踏み込んだ。
胸へ一撃。
さらにもう一撃。
三体目が再び襲いかかる。
バクは振り向き、肩で受けた。
身体がわずかに傾く。
残滓が口を開く。
バクはその顎の間へツルハシの柄を差し込んだ。
「それも駄目だ」
武器を通して魔力が走る。
怪物の頭が激しく揺れた。
そのまま倒れる。
最後の一体が後退した。
バクは見つめる。
残滓は二歩下がる。
それから、また彼へ突進した。
バクはため息をつく。
「一貫性は評価する」
近づかせた。
残滓が両腕を上げた瞬間、バクは短く一歩踏み込む。
近すぎた。
怪物は攻撃を最後まで振り切れない。
ツルハシが胴体の中央へ入る。
今度は吹き飛ばさなかった。
接触点へ、すべての衝撃を集中させる。
身体が折れ曲がった。
脚から力が抜ける。
バクが武器を引く。
残滓は膝をついた。
そして、そのまま前へ倒れた。
廊下に再び静けさが戻る。
バクは周囲を見た。
四つの死体。
どれも動かない。
ツルハシを持ち上げ、刃先を確認する。
「退屈するかと思ってたんだがな」
そのまま歩き続けた。
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次の区画には敵がいなかった。
その方が、バクには気に入らなかった。
最初に見つけたのは、壁から完全に引き剥がされた警備扉。
次に、壊れた信号銃。
さらに先に、真っ二つになった長柄の武器。
床には血。
先ほどよりはるかに多い。
跡はもう一本の線ではなかった。
交差している。
壁にも血痕。
扉の金属には、手の跡が残っていた。
バクは歩調を落とす。
交差点へ着く。
右側に一人。
狩人だった。
バクは近づく。
脈を確認する必要はなかった。
男はうつ伏せに倒れ、背中には大きな傷が開いている。
武器は数メートル先に落ちていた。
バクは数秒だけ見た。
そして進んだ。
もう一人。
今度は壁際。
女性だった。
両手で短い剣を握り締めたまま。
その先には残滓の死体。
さらに狩人。
もう一人。
廊下は数メートル先で広くなっていた。
そこから先には、別の技術区画へ続く両開きの扉。
主な戦闘は、そこで起きたらしい。
金属製の防壁が曲がっている。
天井板が何枚も落ちていた。
壁は傷だらけ。
狩人たちは戦った。
それだけは明らかだった。
そして、倒してもいる。
人間の死体の間に、三体の残滓。
四体目は、横の扉へ半分めり込んでいた。
バクはさらに見回す。
死んだ狩人は五人。
もしかすると六人。
倒れた構造物の下から、脚が一本見えている。
バクは口を開いた。
何も出なかった。
そのまま閉じる。
ツルハシを肩に乗せたまま、死体の間を歩く。
歩調は遅くなっていた。
足元だけを見ているわけではない。
顔。
制服。
武器。
動くものを探している。
右側から音がした。
ごく小さい。
バクが止まる。
待つ。
もう一度。
小さな衝撃音。
廊下からではない。
下からだった。
壁際に倒れている金属製の構造物を見る。
その下から腕が出ていた。
バクはすぐに近づく。
「おい」
返事はない。
しゃがむ。
端に指を差し込む。
「生きてるなら頼む。そのまま生きてろ」
かすかな音。
呼吸。
バクはツルハシを床へ置いた。
両手で構造物を掴む。
重い。
身体能力だけで楽に持ち上げられる重さではない。
両腕へ魔力が集まる。
バクが力を入れた。
金属が数センチ浮く。
下には若い狩人がいた。
二十代前半くらい。
脚が挟まっている。
額には血。
バクは持ち方を変える。
さらに持ち上げる。
「抜け」
男の反応は鈍い。
「脚だ。抜け」
今度は伝わった。
狩人が身体を引く。
ブーツが引っかかっていた。
バクがもう少し持ち上げる。
金属が軋む。
脚が抜けた。
「よし」
バクは構造物を横へ押し退けた。
轟音とともに落ちる。
狩人が起き上がろうとした。
バクは肩を支えた。
「ゆっくり」
「他の……」
バクは周囲を見る。
嘘はつかなかった。
「あとだ」
男もその視線を追った。
理解した。
バクは脚を確認する。
骨折はしていないように見える。
ただ、深い切り傷があった。
背中側の小さなポーチから応急用の包帯を取り出す。
「締めるぞ」
「やってくれ」
傷へ巻き付け、強く固定する。
狩人は歯を食いしばった。
「ここで何があった?」
男は数回呼吸してから答えた。
「南側の通路から入ってきました」
「何体?」
「分からない。七……八体くらい」
「全部こいつらがやったのか?」
狩人は首を横に振る。
「違います」
バクが顔を上げた。
「違う?」
「一体だけ、別格がいた」
男は唾を飲み込む。
「他の奴らは普通に戦ってた」
バクは包帯をさらに締める。
「安心できる話だな」
返事はない。
バクが狩人を見る。
男は壁を見つめていた。
「何が違った?」
「攻撃です」
バクが眉を寄せる。
「攻撃がどうした?」
狩人は数秒、目を閉じた。
「戻ってくるんです」
バクの手が止まった。
「説明しろ」
「俺たちが殴る」
男は苦しそうに呼吸する。
「奴を。壁を。床を。それから……」
廊下を見る。
「戻ってくる」
「何が?」
「衝撃が」
バクは壁を見る。
傷。
亀裂。
死体から遠すぎる場所にも、いくつもの衝撃痕がある。
角度がおかしいものもあった。
「どこから?」
「どこからでも」
バクは黙る。
狩人が続ける。
「一人が柱を殴った。そのあと、後ろの壁から同じ衝撃が来た」
「壁に殴られたのか?」
「はい」
「随分と行儀の悪い壁だな」
狩人は反応しなかった。
バクも笑わなかった。
「その残滓はまだ下にいる?」
男が目を開ける。
「います」
「去るところを見たのか?」
「いえ」
バクは両開きの扉を見る。
「なら、分からないな」
狩人が彼の腕を掴んだ。
「一人で行かないでください」
バクはその手を見る。
「一人じゃない」
負傷者を指す。
「行くなって言ってくれる奴がいる」
男はさらに強く掴んだ。
「本気で言ってるんです」
バクから冗談めいた調子が消えた。
「俺もだ」
その手を優しく外す。
「まず、お前をここから出す」
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通信機が電波を拾うまで、ほぼ一分かかった。
バクは負傷した狩人の腕を肩に回し、ゆっくり歩いていた。
数メートル進むたびに後ろを見る。
廊下は空のまま。
「バクより指令室。下層技術区画。生存者一名を確保。繰り返す、生存者一名」
雑音。
さらに進む。
通信機が一度大きく鳴った。
聞き取れない声。
バクは止まる。
「もう一回」
ノイズ。
そのあと、一つだけ言葉が聞こえた。
『……位置……』
「地下下層、技術区画。南側経路は使用不能。第三避難交差点に医療班を頼む」
さらに雑音。
『……了解……』
バクは通信機を見る。
「奇跡だな」
腰へ戻す。
負傷した狩人が息を吐いた。
「聞こえたんですか?」
「誰かが『了解』っぽい音を出した」
「答えになってないです」
「だから通信担当は絶対やらないんだ」
さらに進む。
交差点まで来たところで、二人の狩人と遭遇した。
一人は頭に包帯を巻いている。
もう一人は意識を失った女性を背負っていた。
気配に気づき、二人とも武器を構える。
「落ち着け」
最初にバクが姿を見せた。
二人は武器を下げる。
「獅子堂さん」
「いい歓迎だな」
頭に包帯を巻いた男が負傷者を見る。
「どこから?」
「もっと下だ」
二人の表情が変わった。
バクは生存者の腕を最初の狩人へ渡す。
「上まで連れてけ」
「獅子堂さんは?」
バクはツルハシを拾う。
「戻る」
「一人で?」
バクは暗い廊下を見る。
一瞬、何か言いそうになった。
男は待った。
冗談は出なかった。
「下に一体いる」
男は、それが生存者の話ではないと理解した。
「一緒に行けます」
バクは首を横に振る。
「お前には負傷者がいる。そっちにもな」
意識を失っている女性を指す。
「医療班を見つけたら、戦闘跡にも回してくれ。回収しなきゃならない遺体が何人かいる」
狩人が視線を下げる。
「何人です?」
バクは一秒だけ黙った。
「多すぎる」
背を向ける。
助けた狩人が呼んだ。
「獅子堂さん」
バクが肩越しに見る。
「壁を殴らないでください」
バクは彼を見つめた。
「いい助言だ」
そして地下へ戻った。
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戻る道は、行きより長く感じた。
実際は違う。
バクは距離を把握していた。
警備扉から最初の交差点まで十七歩。
壊れた武器のある廊下まで二十四歩。
戦闘跡まで三十一歩。
何も変わっていない。
一つを除いて。
バクは中へ入る前に止まった。
一つの死体の位置が変わっている。
ほんの少しだけ。
犠牲者の一人の手が、先ほどより壁に近い。
金属構造物を動かしたときにずれた可能性もある。
自重で動いたのかもしれない。
バクはどちらも信用しなかった。
ツルハシを持ち上げる。
中へ入る。
何もない。
非常灯が点滅した。
一度。
二度。
バクは死体の間を歩く。
もう何も言わなかった。
両開きの扉へ着く。
閉じていた。
先ほどは開いていたはずだ。
バクは操作機構を見る。
電源は落ちている。
誰かが手動で押して閉じた。
近づく。
まだ触らない。
左から金属音が響いた。
バクが振り向く。
何もない。
また。
今度は右。
カン。
配管。
バクは目で音を追う。
静寂。
そのあと、背後から衝撃。
振り向く。
床の金属板が震えていた。
バクは重心を少し落とす。
「いるのは分かってる」
何もない。
待つ。
手に力が入る。
両開きの扉の向こうから声がした。
「知ってる」
バクは返事をしなかった。
扉がゆっくり開く。
機械ではない。
向こう側から、誰かが押している。
一つの影が現れた。
人型。
細い。
バクより背が高い。
非常灯の下では、皮膚が灰色に見えた。
首から腕、顔の一部にかけて、円形の痕が幾重にも広がっている。
まるで、水面に生まれた波紋をそのまま皮膚へ刻みつけたようだった。
武器は持っていない。
必要ないのだろう。
バクは、そいつが出てくるのを見ていた。
残滓も彼を観察する。
視線がツルハシへ下がる。
それから周囲の死体へ。
バクもその視線を追った。
「これをやったのは、お前か?」
残滓がわずかに首を傾ける。
「先に殴ったのは、あいつらだ」
バクは壊れた壁を見る。
次に死体。
そして残滓へ戻す。
「ひでえ答えだな」
相手は反応しない。
バクが一歩進む。
「名前は?」
「ヒビキ」
バクはツルハシを一度だけ指の間で回した。
「バク」
「知ってる」
それには少しだけ興味を引かれた。
「へえ」
ヒビキが片手を上げる。
「よく喋るな」
バクは武器を握り直した。
「普通はもう少し仲良くなってから言われるんだけどな」
二人の間の距離が消えた。
バクが攻撃した。
________________________________________
ヒビキは前腕を上げた。
間違いだった。
ツルハシが叩き込まれる。
その直後、魔力の衝撃。
ヒビキの腕が折れ曲がる。
身体が吹き飛び、壁へ激突した。
コンクリートに亀裂が走る。
バクは止まらない。
踏み込む。
ヒビキは二撃目を辛うじてかわした。
ツルハシが壁を打つ。
コンクリートが裂ける。
ヒビキが蹴り返す。
バクは受け止める。
脚を掴む。
引く。
ヒビキが体勢を崩した。
バクが肩からぶつかる。
床へ叩き落とす。
ヒビキが転がった。
バクはツルハシを振り上げる。
振り下ろされる前に、ヒビキが後ろへ跳ぶ。
金属が床へ激突した。
魔力。
床が沈む。
ヒビキは数メートル先へ着地した。
バクが身体を起こす。
「もっとやるかと思った」
背後の壁が爆ぜた。
バクは辛うじて振り向いた。
見えない衝撃が背中を打つ。
身体が前へ吹き飛ぶ。
肩から落ちた。
転がる。
すぐに立ち上がる。
ツルハシが床を擦った。
バクは振り返る。
壁。
誰もいない。
ヒビキを見る。
残滓は同じ場所に立ったまま。
「今のは初めてだな」
ヒビキは答えない。
バクは握り方を変えた。
もう一度突っ込む。
今度はさらに速い。
ヒビキが後退する。
バクが横薙ぎ。
ヒビキがかわす。
ツルハシが柱へぶつかる。
コンクリートが砕けた。
バクは勢いのまま身体を回す。
肘がヒビキの顔面へ入った。
ヒビキが下がる。
バクが詰める。
拳。
防がれる。
膝。
ヒビキが逸らす。
マスクの奥で、バクが笑った。
「やっと来たな」
左側の柱が震えた。
バクがそちらを見る。
遅い。
コンクリートから衝撃が飛び出した。
目に見える波ではない。
まるで構造物そのものが、先ほど受けた力を突然返したようだった。
バクは腕を上げる。
衝撃で数メートル押された。
今度は倒れない。
ヒビキが攻撃する。
拳が見えた。
バクは柄で受ける。
二撃目が脇腹へ入る。
バクは頭突きで返した。
ヒビキが後退する。
バクはツルハシを床へ突き刺す。
ヒビキが眉を寄せた。
バクが柄を引く。
動かない。
武器はその場に固定されている。
魔力によって、床へ強く錨を下ろしたように。
背後の壁が震えた。
次の衝撃。
バクを打つ。
身体が前へ傾く。
だが、吹き飛ばされない。
手はツルハシから離れない。
靴底が数センチ滑っただけ。
バクが顔を上げる。
ヒビキはこちらを見ていた。
「面白い」
バクはツルハシを引き抜いた。
「どうも」
再び攻める。
ヒビキが壁際へ移動する。
バクは殴る直前で止めた。
残滓が首を傾ける。
バクは最後の瞬間に軌道を変える。
ツルハシの先端が顔のすぐ横を通る。
壁には触れない。
ヒビキが下がる。
バクは追わなかった。
先ほど殴った柱を見る。
次に壁。
それから、へこんだ床。
戦闘が始まってから初めて、自分の意思で止まった。
ヒビキもそれに気づく。
「分かったか」
バクは答えない。
「全部じゃない」
静寂。
ヒビキが片手を横へ伸ばした。
何にも触れていない。
その必要もなかった。
一本の配管が震えた。
バクが見る。
次に、さらに遠くの配管。
右側の壁から衝撃が来る。
バクが防ぐ。
次は床。
身体が浮いた。
片膝で着地する。
立て直す前に、背後の金属板から三撃目。
バクが振り向く。
衝撃が肩へ入る。
身体が柱へぶつかった。
ヒビキは一歩も近づいていない。
バクは呼吸する。
ゆっくり。
周囲を見る。
右の壁。
床。
金属板。
どれも、ここ数秒の間には攻撃を受けていない。
だが、以前には受けていた。
先ほどの戦闘で。
バクは死体を思い出す。
壁の傷。
助けた狩人の言葉。
殴ったあと……戻ってくるんです。
ヒビキが口を開く。
「ここには、いろんなものが残ってる」
バクが顔を上げる。
「お前も結構喋るな。俺に気を遣ってるのか?」
ヒビキは見つめる。
「必要なことだけだ」
バクは柱から身体を離す。
肩が痛む。
折れてはいない。
今のところは。
ヒビキが片手を上げる。
壁の一つが再び震える。
「続けろ」
バクは動かない。
「お前が強く殴れば殴るほど……」
床に二つ目の振動。
そのあと三つ目。
照明まで揺れる。
「……この場所は、強く返す」
バクはツルハシを見る。
金属には、細かいコンクリートの粉が付いていた。
最初にヒビキを叩きつけた壁を見る。
柱。
床。
自分自身が打った場所。
そして、他の狩人たちが死ぬ前に攻撃した場所。
地下全体が、違うものに見え始めた。
もう単なる廊下ではない。
装填済みの武器だった。
ヒビキが一歩進む。
「お前の力は便利だ」
バクはゆっくり顔を上げる。
「お前にとってか?」
「それもある」
バクは何も返さなかった。
ヒビキは、何か言葉が返ってくるのを待っているようだった。
だが、何もない。
バクは身体を起こす。
それまでの戦いでは、肩の力が抜けていた。
指の間でツルハシを回し、
身体も柔らかく、
戦いながらでも話し続けられるような余裕があった。
それが消えた。
柄を強く握る。
一度。
視線が床をなぞる。
壁。
配管。
亀裂。
最後にヒビキへ戻る。
笑っていない。
ヒビキも気づいた。
「どうした?」
バクは黙ったまま。
背後の壁が震えた。
次の衝撃は、人間一人を数メートル吹き飛ばせるほど強い。
バクはツルハシを下げた。
先端を床へ叩き込む。
魔力を流す。
金属の周囲でコンクリートが割れた。
衝撃がバクを襲う。
上着が大きく揺れる。
脚が力を受け止める。
柄を握る腕の筋肉が張った。
ツルハシは動かない。
バクも動かなかった。
振動が終わる。
しばらく、廊下のどこかで水滴が落ちる音だけが響いた。
バクは床から武器を引き抜いた。
顔を上げる。
そして前へ進んだ。
一言も発さずに。




