第77章:決して崩せない一線
最初の残滓たちが角を曲がって姿を現した。
海斗は両腕と両脚への魔力強化を終えたが、前には出なかった。
鏡の隣に立ったままだった。
右側では、先ほど救出した狩人が両手で武器を握り締めている。顔には乾いた血がこびりつき、呼吸も荒い。それでも構えは崩れていなかった。
原田は少し後ろにいる。
出口が塞がれていると分かってから、何度も手を握っては開いていた。今さら体調を説明する必要はない。区画に入ってから繰り返した転移のせいで、普通に動くだけでも身体が重そうだった。
正面には、少なくとも八体。
背後からも、別の残滓たちが内部通路を進んでくる。
鏡は片手を上げたままにしていた。
空気の圧力が増す。
最初に進もうとした二体の速度が、目に見えて落ちた。
一体は四肢を床につけて移動していた。増加した重力がその身体を押しつぶし、関節から嫌な音が鳴る。
もう一体は、もう少し耐えた。
一歩。
さらに前へ出る。
海斗が動いた。
真正面ではない。
側面から入った。
重力によって残滓の体重の大半が下方向へ押しつけられている間に、脚の一本を狙って蹴り込む。
関節が崩れた。
残滓が体勢を失う。
海斗は反撃される前に距離を取った。
救出した狩人が武器を振り下ろし、とどめを刺す。
空いた場所を利用して、別の残滓が突破しようとした。
鏡が二本の指を動かす。
怪物の身体が突然進行方向を変えたかのように横へ流れ、そのまま壁へ激突した。
海斗が再び踏み込む。
一発。
二発。
そして離れる。
残滓が床を這うように後退しても、追わなかった。
怪物は再び立ち上がろうとする。
ほんの一瞬、海斗の中に追撃したいという衝動が走った。
届く。
今なら仕留められる。
一歩出た。
そこで止まった。
背後から物音がした。
海斗はすぐ鏡の横へ戻る。
ほぼ同時に、後方の通路から別の残滓が現れた。
もしあのまま追っていたら、仲間の背中を空けていた。
鏡は何も言わなかった。
言う必要もなかった。
海斗自身が理解していた。
「挟まれる」
救出した狩人が言った。
原田が背後を見る。
内部通路から三つの影が近づいている。
その後ろに、四体目。
「もう挟まれてるけどな」
鏡は少しだけ手を下げた。
正面の残滓たちにかかっていた圧力が弱まる。
敵はすぐにそれを利用した。
三体が同時に前へ出る。
海斗が身構えた。
だが、鏡は後退していなかった。
待っていた。
三体が廊下の半ばまで来たところで、拳を握る。
空気そのものが沈み込んだように感じた。
残滓たちの身体が落ちる。
全員が完全に倒れたわけではない。
一体は片膝をついたまま耐えた。
もう一体は指を床へ食い込ませ、身体を支えようとしている。
三体目は胸から床へ叩きつけられた。
「今だ」
鏡が言った。
それだけで十分だった。
海斗と狩人が同時に入る。
海斗は一体目の首筋を殴った。
狩人が二体目を攻撃する。
三体目が起き上がろうとした瞬間、鏡が右腕だけに圧力を集中させた。
腕が床へ沈む。
海斗は蹴りで怪物を通路の端へ追いやった。
仕留めようとはしなかった。
必要なのは道だ。
「下がるぞ」
鏡の指示で、全員が動いた。
原田もすでに歩き始めていた。
転移は使っていない。
普通に、彼らと一緒に走っている。
海斗が横目で見る。
「階段まで一気に飛べない?」
原田が乾いた笑いを漏らした。
「もちろん」
一度息を吸う。
「そのあと俺の死体も回収してくれるならな」
海斗は何も言わなかった。
「一人なら運べる」
原田が続ける。
「誰も連れないなら、あと二回くらいは飛べるかもしれない。でも今みたいに人を運び続けたら、そのうち移動した先で立てなくなる」
鏡は敵から視線を外さずに言った。
「なら、必要になるまで誰も運ぶな」
原田は彼を見る。
「選択肢がどれも素晴らしくて助かるよ」
「文句は出てから言え」
「それ、出られる前提ですよね」
鏡は立ち上がろうとしている残滓たちを見る。
「ああ」
約束するような声ではなかった。
決定したことを口にしただけだった。
一つ前の交差点まで後退した。
鏡は敵を完全に止めようとはしなかった。
ただ、進む速度を落とす。
あるときは、敵の前方だけ重力を増やした。
別の瞬間には、身体にかかる重さを横へずらし、残滓同士をぶつけたり壁へ押しつけたりする。
長時間は維持しない。
一秒。
二秒。
足並みを崩すには、それで十分だった。
跳躍を止めるにも。
海斗が入り、そして戻ってくるためにも。
戦いながら、海斗は少しずつ理解していた。
鏡の術式は、使い方によっては圧倒的だった。
だが、広い範囲へ極端な重力を何分もかけ続ければ、鏡自身でさえ消耗する。
だから小さく変える。
一瞬だけ。
必要な場所だけ。
救出した狩人も、次第にそのリズムを理解し始めていた。
鏡が最初に敵を左へ崩したとき、男の反応は遅れた。
二度目には、すでに準備できていた。
露出した部分を攻撃し、次が来る前に戻る。
一つ一つの動きを言葉で確認する必要はなかった。
自然に形ができていく。
鏡が空間を制御する。
海斗が迎撃する。
狩人が生まれた隙を利用する。
原田は後方を警戒しながら、転移を温存する。
十メートルほど進んだ。
止まる。
防ぐ。
さらに十五メートル下がる。
右側に防護扉が見えた。
原田が操作盤を確認する。
「動く」
鏡は来た道を見た。
「全員通ったら閉めろ」
中へ入る。
最後は海斗だった。
出口が狭まっていくのを見て、一体の残滓が速度を上げた。
海斗が振り返る。
正面から受け止めることもできた。
だが、横へずれた。
残滓が跳んだ瞬間、鏡が重力の方向を変える。
軌道が大きく曲がった。
怪物が扉枠へ激突する。
海斗が側面から殴った。
残滓は元の通路へ落ちた。
海斗が扉を越える。
原田が閉鎖装置を作動させた。
金属製の扉が閉まり始める。
最後に残った隙間から、一本の爪が伸びてきた。
海斗が近づこうとする。
必要なかった。
救出した狩人が武器を振り下ろし、指先を叩き落とした。
腕が引っ込む。
扉が閉じる。
直後、反対側から衝撃が来た。
もう一度。
原田は扉へ背中を預けた。
「最高だな」
海斗は息を整えながら言った。
「そこにもたれないほうがいいと思う」
原田が見る。
「参考になる」
ちょうどその瞬間、もう一度扉が震えた。
原田はすぐに離れた。
鏡は壁に設置された地図を見る。
「進むぞ」
「これが破られるの待たないんですか?」
原田が聞く。
「待ちたいなら残れ」
原田は歩き出した。
「いつも説得力ありますね」
防護扉が稼いでくれた時間は一分にも満たなかった。
それで十分だった。
新しい廊下は前より狭く、左右にいくつかの入口がある。
ただし、どれも非常階段へ直接はつながっていない。
鏡は最も近づける経路を選んだ。
海斗は、救出した狩人の速度が少しずつ落ちていることに気づいた。
最初はほとんど分からなかった。
やがて、片脚を引きずり始める。
「怪我してる?」
男は首を横に振った。
「疲れてるだけだ」
「怪我してるように見えるけど」
「そこは攻撃されてない」
さらに二歩。
膝が崩れた。
海斗が倒れる前に身体を支える。
狩人が小さく悪態をついた。
「折れてない」
鏡が近づく。
「歩けるか?」
「ああ」
男はもう一度足をつこうとする。
表情が答えを先に出していた。
原田は来た道を見る。
防護扉への衝撃音が止まっていた。
それが良いこととは限らない。
「その速度じゃ時間がかかりすぎる」
海斗は狩人を見る。
そして原田へ。
原田は二人が何を考えているか、すぐ理解した。
「嫌だね」
海斗は何も言っていない。
「その顔やめろ」
「何も言ってないけど」
「顔が言ってる」
鏡が地図を確認する。
「階段まであと二つの通路だ」
「結構近いな」
原田が言う。
横の入口の奥を、一つの影が素早く横切った。
「……それでも遠いか」
狩人が一人で立とうとする。
「歩ける」
海斗が腕を支えた。
「必要な速度じゃ無理だ」
男は苛立ったように海斗を見る。
「ここに残る気はないぞ」
「誰もそんなこと言ってない」
原田は一度目を閉じた。
そして手を差し出す。
「腕貸せ」
狩人が戸惑う。
「何?」
「気が変わる前に」
鏡が原田を見る。
「階段までだ」
「分かってる」
「そのあと、人はもう運ぶな」
「さっきの話は覚えてますよ」
原田は狩人の腕を自分の肩へ回した。
海斗が一歩下がる。
「本当に大丈夫?」
原田は海斗を見る。
「全然」
そして消えた。
二人がいた空間だけが残る。
海斗はそこを見つめた。
「すごく安心する答えだな」
「動け」
鏡が言った。
海斗は従った。
原田が戻るまで、いつもより時間がかかった。
かなり長かった。
海斗と鏡が次の交差点へ到着しても、まだ姿を見せない。
左から最初の残滓が現れた。
特別大きくはない。
人間に近い細身の身体に、異様に長い二本の腕。
鏡が重力を強める。
怪物の身体が沈む。
海斗が攻撃した。
残滓は最初の拳を防いだ。
それまでの敵にはできなかったことだった。
海斗は角度を変える。
二発目が脇腹へ入る。
怪物が後退した。
海斗は追いかけそうになる。
右から足音。
残った。
別の敵が姿を現す。
鏡が手を動かすと、その残滓の身体が天井へ叩きつけられた。
殺すほどの力ではない。
動きを止めるには十分だった。
海斗が最初の敵を仕留める。
そのとき、原田が戻ってきた。
膝から床へ落ちた。
今度はすぐに立てなかった。
海斗が後ろへ下がる。
「原田」
「平気」
「平気には見えないけど」
「観察力が高いな」
原田は床に片手をついた。
何度か呼吸する。
鏡は敵を押さえながら、彼を見る。
「着いたか?」
原田が頷く。
「非常階段。他の連中と一緒だ」
「最初の六人も?」
「六人と、そのあと運んだ二人、それに今の一人」
海斗は数えた。
九人。
原田が立ち上がる。
完全には背筋が伸びていない。
「また転移できる?」
海斗が尋ねる。
原田は顔を片手で拭った。
「戻るだけならな」
先ほど狩人と共に消えた方向を指す。
「あれをもう一回は無理」
鏡が頷く。
「なら、やるな」
遠くに新しい残滓が現れた。
その後ろにもう一体。
原田がため息をつく。
「他のみんなは休めてるといいな」
海斗が隣へ立った。
「きっと最高の一日を過ごしてるよ」
「夢を壊すな」
先ほど閉じた防護扉から、いつの間にか衝撃音が聞こえなくなっていた。
最初に気づいたのは鏡だった。
背後が静かすぎる。
反対側の通路から追ってきていた敵の姿も、まだ見えない。
正面にいる三体だけが、ゆっくり近づいていた。
「何か変わった」
鏡が言った。
海斗が後ろを見る。
「いなくなった?」
「分からない」
原田は息を整えた。
「だったら俺たちも同じことして帰りましょうよ」
非常階段は近い。
廊下一本。
交差点一つ。
その先に扉。
鏡が進む。
三体の残滓も応じた。
一体目が走る。
鏡はゆっくり押さえようとはしなかった。
拳を握る。
残滓が激しく床へ叩きつけられた。
身体の下でタイルに亀裂が走る。
海斗が目を見開く。
今までより明らかに強い。
二体目も同じ範囲へ入った。
片膝をつく。
三体目は直前で止まった。
鏡がさらに重力を増した。
前の二体が完全に動きを封じられる。
範囲の外にいる海斗にも、空気が重くなったように感じられた。
「どれくらい維持できるんです?」
鏡は答えなかった。
こめかみを汗が一本流れている。
それで十分だった。
長くはない。
海斗が入る。
拘束されている一体へ拳を叩き込む。
完全に倒すために時間は使わない。
関節を狙う。
一つ。
もう一つ。
すぐには追ってこられないようにするだけでいい。
二体目が腕を上げようとする。
海斗が蹴り飛ばす。
「もういい!」
鏡が拳を開いた。
圧力が一気に消える。
床に張りついていた埃が、わずかに浮き上がった。
海斗は後退する。
一体目は追えない。
二体目も立ち上がるまでに時間がかかる。
三体目が動いた。
原田がその横へ出た。
転移ではない。
走ってきた。
武器を抜き、怪物の身体を殴って進路を逸らす。
「久しぶりに普通に戦ってる気がする」
海斗が反対側から攻撃する。
残滓は二人の間に挟まれた。
鏡が重心をずらす。
怪物の上半身が原田側へ傾いた。
原田は避ける。
海斗が最後の一撃を入れた。
「悪くなかったな」
原田が言う。
「危うく殴られそうだったところ?」
「殴られなかったところ」
鏡が二人の間を通り過ぎる。
「階段だ」
二人とも黙って後を追った。
非常扉が廊下の先に見えた。
数メートル手前から青い表示も確認できる。
そして、もう一つ。
扉は開いていた。
向こう側に二人の狩人が待っている。
一人は先ほど避難させた者。
もう一人は警備担当だった。
「こっちだ!」
男が腕を上げる。
原田が大きく息を吐いた。
「階段見てこんなに嬉しいの初めてかも」
海斗は後ろを見る。
残滓はまだ来ている。
速度は落ちている。
それでも進んでいる。
「まだ着いてない」
「言わなくてよかっただろ、それ」
鏡が扉の十メートルほど手前で止まった。
「二人は先に行け」
海斗も足を止める。
「鏡さんは?」
鏡は敵を見る。
「すぐ行く」
海斗は動かなかった。
「嫌です」
鏡が顔を向ける。
「質問じゃない」
「俺も質問してません」
原田が二人を見る。
「いい場面ですね」
鏡が少し眉を寄せた。
海斗は出口を指す。
「原田はもう限界です。鏡さんもかなり魔力を使ってる。俺はまだ戦えます」
「お前はトーナメントから続けてる」
「でも、まだ立ってる」
「それは――」
「前には出ません」
鏡が黙る。
海斗は続けた。
「ここにいます」
彼より前ではない。
隣に。
鏡は一瞬だけ海斗を見る。
そして再び残滓へ向き直った。
「なら離れるな」
海斗が少し笑う。
「それならできます」
原田は扉を指した。
「俺は遠慮なく行きますよ」
非常階段側へ渡る。
狩人の一人が受け止める。
原田はすぐ壁へ寄りかかった。
海斗と鏡だけが廊下に残った。
三体の残滓が近づいてくる。
その後ろにも、さらに動く影が見え始めた。
鏡は両手を上げた。
今度は、作用する前から海斗にも圧力の変化が分かった。
天井の照明が揺れる。
配管が軋む。
残滓たちの足が遅くなる。
最初の一体が落ちた。
二体目は耐えようとする。
三体目は壁へ手をついた。
海斗は鏡を見る。
さっきまでとは違う。
小さな一点ではない。
廊下のほぼ全幅に、重力をかけている。
一体がもう一度起き上がろうとした。
圧力がさらに強くなる。
腕が耐えきれず崩れた。
その下で床が軋む。
主範囲の外にいる海斗にまで、わずかな重さが届いていた。
鏡は深く息を吸う。
「下がれ」
海斗が後退する。
攻撃する必要はない。
それを理解するのも、戦いの一部だった。
数メートル。
重力は続く。
さらに後ろへ。
鏡も術式を維持したまま下がってくる。
一体が床を這おうとした。
もう一体は動かない。
三体目が範囲の端まで届きそうになる。
鏡が片手を少し握る。
怪物が再び落ちた。
扉まで到達する。
「今だ」
二人が中へ入る。
警備の狩人たちが閉鎖装置を作動させた。
非常扉が閉まり始める。
鏡が術式を解除した。
残滓たちが再び動けるようになる。
一体が走った。
海斗が構える。
扉の隙間がわずかになった瞬間、怪物が届く。
衝撃。
扉が震えた。
だが、閉じた。
ロックがかかる。
反対側から、もう一度。
原田は金属扉を眺めた。
「どれくらい持ちます?」
海斗が見る。
「聞かないほうがいい」
「それ、鏡さんの台詞だろ」
原田が鏡を指した。
さらに一撃。
先ほどより強い。
警備担当の狩人が武器を上げる。
全員が次を待った。
来ない。
二秒。
五秒。
十秒。
原田はゆっくり壁から背中を離した。
「壊れた?」
海斗が耳を澄ませる。
何も聞こえない。
鏡は扉の横にある小さな強化窓へ近づいた。
ガラスには亀裂が入っている。
それでも廊下の一部は見える。
残滓はまだいた。
少なくとも何体かは。
だが、もう扉を見ていない。
一体が離れていく。
次に、もう一体。
三体目も苦労しながら立ち上がり、後を追った。
海斗も近づく。
「何してるんです?」
鏡は見続ける。
さらに奥から別の怪物たちが現れた。
だが、誰も扉へは向かわない。
反対方向。
支部の内部へ戻っていく。
原田が海斗の肩越しに覗く。
「見逃してくれた?」
鏡は数秒してから答えた。
「違う」
海斗が彼を見る。
鏡は、最後の残滓が交差点の奥へ消えていくのを見つめていた。
「俺たちが、もう奴らにとって重要じゃなくなったんだ」
救出した九人の狩人は、階段の下の踊り場に分かれて休んでいた。
近くの区画から医療班が二人到着し、重傷者から処置を始めている。
脚を負傷した男は毛布の上に横になっていた。
原田が二番目に運んだ狩人は、腕を固定されたまま。
腹部を負傷していた男には応急処置の包帯が巻かれ、担架を待っている。
最後に原田が運んだ男は壁際に座っていた。
海斗と鏡が現れると、片手を上げる。
海斗も返した。
原田は踊り場へ着くと、空いている壁際へほとんど倒れ込むように座った。
「俺、ここにいる」
海斗も隣に座る。
「五分前は帰りたいって言ってなかった?」
「予定変更」
「新しい予定は?」
「動かない」
海斗は深く息を吐いた。
脚が痛い。
肩も痛い。
戦闘が終わった途端、トーナメントから残っていた疲労まで一気に身体へ戻ってきたようだった。
鏡はまだ立っている。
ただ、海斗には彼の呼吸も以前より深くなっているのが分かった。
救出された狩人の一人が近づいてきた。
「あの残滓を追えたはずだ」
鏡が見る。
「ああ」
「じゃあ、どうして追わなかった?」
鏡は負傷者たちを見る。
「お前たちを助けるために来たからだ」
男は黙った。
鏡は通信機を取り出した。
接続まで数秒かかる。
「鏡より指令室」
すぐに声が返る。
『どうぞ』
タツだった。
「中央第四区画。救出完了」
『生存者は?』
鏡は周囲を見る。
「九名を生存状態で確保」
短い間。
『死者は?』
「移動中に四名の遺体を確認。他区画にもいる可能性がある」
タツの声が少し低くなる。
『了解』
鏡は続けた。
「残滓は交戦を中断し、内部へ戻った」
『数は?』
「正確には不明。複数の接触を合わせれば、少なくとも十二体」
『追跡していますか?』
鏡は原田を見る。
壁へ頭を預け、目を閉じている。
次に海斗。
疲れきっているが、それをあまり見せまいとしていた。
そして負傷者たち。
「していない」
通信の向こうで短い沈黙。
『理由は?』
「負傷者がいる。こっちの班も消耗している。救出を成功させた直後に、即興の追跡で全部台無しにするつもりはない」
タツは一秒ほど置いた。
『了解。交代が来るまで位置を維持してください』
鏡が通信を切ろうとしたところで、タツが続けた。
『待ってください』
鏡が止まる。
向こう側で複数の声。
続いて、端末を操作する音。
『別の報告が入りました』
海斗が顔を上げた。
鏡は黙って待つ。
『内部倉庫付近で敵の活動を確認。白銀たちが追跡しています』
鏡は、先ほど逃げ込んできた扉を見た。
そのさらに向こうのどこかへ、彼らを追うのをやめた残滓たちが向かっている。
「了解」
『移動できますか?』
鏡は再び自分の班を見る。
「今すぐは無理だ」
『命令ではありません。状況確認です』
鏡が息を吐く。
「時間をくれ」
『了解』
通信が切れた。
海斗も十分に聞いていた。
「内部倉庫?」
「そうだ」
原田が片目を開ける。
「重要そうですね」
「おそらくな」
海斗は階段の上を見る。
「行かないんですか?」
鏡は首を横に振った。
「行かない」
「でも、そこが奴らの向かってた場所なら――」
「そうかもしれない」
海斗が眉を寄せる。
「なら――」
鏡が彼を見る。
声を荒らげる必要はなかった。
「ここには、この区画から出さなきゃならない九人がいる」
海斗は負傷者たちを見る。
黙った。
鏡が続ける。
「今追えば、自分たちが何をしに来たのかを捨てることになる」
海斗は理解した。
納得したくない気持ちは残った。
それは別の話だった。
原田はまた目を閉じた。
「それに、もし今俺まで連れて行こうとしたら、死んだふりしますからね」
海斗が見る。
「今ならそんなに演技いらなそうだけど」
原田は目を開けないまま片手を上げた。
「ありがとう」
海斗が小さく笑った。
疲労は消えない。
不安も。
残滓たちは自分から離れていった。
鏡が倒したからではない。
戦えないほど傷ついたからでもない。
ただ、彼らにこれ以上時間を使う必要がなくなった。
海斗は閉じた扉を見る。
それまでの彼は、戦いというものはどちらかが続けられなくなったときに終わるものだと思っていた。
だが今は、別の終わり方があることを理解し始めていた。
片方が、本当に欲しかったものを手に入れたとき。
そして彼らはまだ、それが何なのか知らなかった。
負傷者の移送は数分後に始まった。
追加の担架が二台到着し、交代の狩人たちも何人か来た。
一人が原田を起こそうと手を貸したとき、原田は自力で立ち上がった。
「疲れてるだけ。死んでない」
二歩進む。
止まる。
狩人が片眉を上げる。
原田はその腕を借りた。
「何も言うな」
海斗は数メートル後ろを歩いていた。
彼の脚も、決して元気ではない。
発電室で見つけた最後の狩人が近くを歩いていた。
「さっきと戦い方が違ったな」
男が言った。
海斗が見る。
「さっき?」
「あの扉が開いたときだ」
海斗は少し考える。
「ああ」
「出てきたもの全部に飛びかかりそうな顔してた」
海斗は前を見る。
鏡は最初の担架の横を歩いていた。
「たぶん、前ならそうしてたと思う」
「何が変わった?」
海斗は陽菜を思い出した。
トーナメント。
誰かを守るつもりで、何度も前に立ってきたこと。
そして、それがいつでも正しいわけではないと気づいたこと。
「まだ考えてる途中です」
狩人は頷いた。
それ以上は聞かなかった。
次の踊り場へ着くと、原田は金属製のベンチへ座り込んだ。
海斗が横を通り過ぎる。
「まだ生きてる?」
「残念ながら」
海斗が笑う。
原田が片目を開けた。
「さっき、お前が前に飛び出すと思った」
海斗は足を止めた。
彼を見る。
「俺も」
原田が短く笑った。
海斗は再び歩き始める。
それ以上、説明する必要はなかった。
階段からいくつもの区画を隔てた場所。
今しがた救出された狩人たちからも遠く離れた場所で、戦闘を放棄した残滓たちは進み続けていた。
走ってはいない。
もう急ぐ必要もなかった。
二体が交差点を横切った。
避難経路には目も向けない。
別の一体は、人間たちが隠れている扉の横を通った。
開けようとはしなかった。
そのまま進む。
さらに奥で、数秒だけ戦闘音が響いた。
やがて止んだ。
いくつもの経路が、一つの方向へ集まり始めている。
狩人が最も多い場所ではない。
出口でもない。
さらに内部へ。
倉庫へ。
そして鏡が自分に与えられた任務を最後まで遂行している頃。
別の一団が、ようやくその理由を知ろうとしていた。




