第72章:閉ざされた通路
緑色の糸が、廊下の隅々まで張り巡らされていった。
配管と扉の枠の間にぴんと張られたものもあれば、壁の表面をゆっくりと這いながら、新たな足場を探しているものもある。わずか数秒で、廊下は不規則に絡み合った糸の網に覆われ、ほとんどの出口が塞がれてしまった。
神崎は天井を見上げてから、再び目の前の残滓へ視線を戻した。
ムクロは数メートル先に立っていた。両腕を体の横に垂らしているにもかかわらず、その指先から伸びる糸は、本人が動かなくても絶えず蠢いていた。
神崎の背後では、結衣が担架を魔力の結界で守っている。
担架に横たわる狩人は脚に深い傷を負い、意識を保つのがやっとの状態だった。もう一人の狩人は呼吸を苦しそうに繰り返しながら、花のそばで壁に寄りかかっている。
三人は、残滓に占拠された部屋から彼らを救い出すことには成功した。
あとは医務室へたどり着くだけだった。
だが、目の前の敵に彼らを通すつもりはないらしい。
「誰も出られない、か」
神崎が口を開いた。
ムクロはわずかに首を傾けた。
「誰も」
「お前がどいてくれれば済む話なんだがな」
残滓は彼らの背後にある閉ざされた扉を見つめた。
「嫌だ」
「そう言うと思ったよ」
神崎は片足を前へ出した。
その瞬間、天井から一本の糸が落ちてきた。
結衣は即座に反応し、担架の上に展開していた細長い結界でそれを受け止めた。糸は光る表面に衝突し、弾かれるように軌道を変えると、近くの配管に絡みついた。
その動きを確かめる間もなく、左右から二本の糸が飛んできた。
神崎は一本目をかわしたが、二本目は袖をかすめて壁に突き刺さった。コンクリートに細い亀裂が走る。
花は、ムクロの魔力が糸の内部を流れているのを感じ取った。
短い衝撃とともに動くものもあれば、ほとんど動かず、次の命令を待っているようなものもある。
花は感知範囲を広げ、すべての糸の動きを追おうとした。
しかし、数が多すぎた。
天井には配管やケーブル、換気用のダクトが入り組んでいる。緑色の糸はその間に紛れ込み、絶えず位置を変えていた。
ムクロが片手を上げた。
配管の一本が固定具から引き剥がされ始める。
担架の真上で金属がきしんだ。
結衣は結界を広げた。直後、天井から破片が降り注いだ。いくつかは光る障壁に弾かれ、残りは周囲の床に散らばった。
負傷した狩人が反射的に頭を覆う。
神崎は落下した破片を見つめた。
ムクロは、糸で直接こちらを攻撃する必要さえない。
建物の設備そのものを武器に変えられるのだ。
ここに留まる時間が長くなるほど、脱出は困難になる。
神崎は残滓との距離を詰めた。
ムクロは床を這う三本の糸を伸ばし、それらを跳ね上げるようにして迎え撃った。
神崎は二本をかわした。しかし三本目が突然方向を変え、進路を塞ぐ。
神崎は壁に手をついた。
指先の下に、小さな魔力の印が浮かび上がる。
糸が張り詰めると同時に印が淡く輝き、糸の固定された壁面を一時的に強化した。引き寄せようとした力がそこで受け止められ、糸の動きが一瞬だけ鈍る。
神崎はその隙に身をかがめ、下をくぐり抜けた。
接近すると、魔力を込めた拳を振るう。
ムクロは後退した。
一撃は肩を捉えたものの、数本の糸が体を後方へ引っ張り、衝撃の大部分を逃がした。
神崎は追撃しなかった。
再び残滓と負傷者たちの間に立つ。
ムクロは殴られた肩を見下ろした。
「殺そうとしないんだな」
「選択肢を考えているところだ」
「もっと攻撃してもいい」
「お前こそ、道を塞ぐのをやめたらどうだ」
ムクロは答えなかった。
代わりに、指をゆっくりと握り込んだ。
天井を覆っていた糸が動き始める。
花は背後に魔力が集中するのを感じ、すぐさま振り返った。
緑色の糸が閉じた扉の枠を伝い、壁に寄りかかる狩人へ向かって伸びていた。
花は男の腕を掴み、強く引き寄せた。
糸は一瞬前まで男の首があった場所を通り抜け、金属製の扉枠に突き刺さった。
狩人は体勢を崩しかけたが、花が支えた。
「すまない……」
男は苦しい息の合間に呟いた。
「気にしないでください。私につかまっていて」
結衣は二枚目の結界を展開し、二人を覆った。
立て続けに二度、衝撃が走る。
結界の表面が震えた。
鋭い痛みが結衣の指先を駆け抜ける。
トーナメントですでに大量の魔力を使っていたうえ、先ほどの三体の残滓との戦闘でも予想以上に消耗していた。まだ結界を作り出すことはできるが、そのたびに以前より強い集中力が必要になっている。
次の糸が命中すると、光る障壁に細い亀裂が現れた。
結衣は歯を食いしばった。
負傷者に攻撃を通すわけにはいかない。
さらに魔力を注ぎ込む。
痛みは手首にまで広がった。
その様子に気づいた神崎は、新たな指示を飛ばす代わりに、敵の糸が固定されている場所へ印を移した。
強化された配管は数秒間、糸に引かれても動かなくなり、ムクロは攻撃の方向を変えざるを得なかった。
その隙に、結衣は結界を小さくした。
途端に魔力への負担が軽くなる。
廊下全体を守ろうとするより、必要な範囲だけを覆うほうがよかった。
一方、花は敵の動きを観察し続けていた。
何かがおかしい。
糸はあらゆる方向に伸びているように見える。だが、ムクロがすべての場所から同時に攻撃してくることはなかった。
ある一帯に糸を集中させるたび、別の場所では張力が弱まる。
廊下全体に、同じ強さの圧力をかけ続けることはできないのだ。
花は一瞬だけ目を閉じ、感知範囲を狭めた。
壁の向こうにいるかもしれない敵を探すのをやめる。
この区画に残る魔力の痕跡を、すべて追おうとするのもやめた。
ムクロと、今の自分たちに届く距離にある糸だけに意識を集中させる。
すると、動きが以前よりはっきりと見え始めた。
あの網は、見た目ほど完璧ではなかった。
十五メートルほど先に、保守用の扉があった。
神崎はこの廊下に入ったとき、その存在を確認していた。さらに、先ほど見た避難経路図も覚えている。
あの扉の先には保守用の通路が続いているはずだ。そして、その一部は医療区画の近くに通じている。
通常の避難経路ではない。
だが、脱出には使えるかもしれなかった。
問題は、そこまでたどり着くことだ。
ムクロは扉と担架の間に複数の糸を張っていた。天井から下がるものもあれば、異なる高さで廊下を横切るものもある。
神崎は右へ移動し、残滓の注意を引きつけた。
一本の糸が脚を狙う。
それをかわす。
次の糸が背中をかすめ、制服の布を小さく切り裂いた。
神崎は再び攻撃に転じた。
ムクロは何本もの糸を体の周囲で張り詰めさせながら後退する。
一本が神崎の腕に巻きつこうとしたが、捕まる前に身を引いた。
ムクロが首を傾けた。
「何度も同じ場所に戻るんだな」
神崎は相手を見据えた。
「お前も、いつまで経っても通してくれないからな」
ムクロが両手を上げた。
二人の間に、糸の網が形成され始める。
緑色の線が素早く交差し、不規則な障壁となって廊下の大部分を覆った。胸の高さで張られたものもあれば、下をくぐらせないよう床すれすれに伸びたものもある。
神崎はその構造を観察した。
頑丈な網だ。
だがムクロは、かなりの数の糸を神崎の正面に集めてしまっている。
花もそれを感じ取っていた。
反対側では、三か所の固定点が緩んでいる。
花は保守用の扉に目を向けた。
それから神崎を見る。
教官も、まさにその方向を見ていた。
何を狙っているのか、花には分かった。
指示を待たずに、花は歩ける狩人を担架の後ろへ移動させた。結衣のそばに身を寄せ、さりげなく横の出入口を示す。
結衣はその視線を追った。
二人は慎重に負傷者を動かし始めた。
ムクロがその動きに気づく。
網から一本の糸が離れ、彼女たちへ向かって伸びた。
神崎は以前に残しておいた印に指を触れた。
蓄えられていた魔力が一気に解放される。
印によって補強されたコンクリートは、ムクロが糸で引っ張っても動かなかった。
予想外の抵抗を受け、残滓は網の一部に必要な張力を保てなくなる。
数本の糸が緩んだ。
できた隙間は小さかった。
それでも十分だった。
結衣は担架を押し進める。
花はもう一人の狩人を支えた。男は彼女たちの速度についていくのが精いっぱいだった。
ムクロは糸を引き戻そうとした。
しかし神崎が一撃を放ち、さらに一歩後退させる。
今度の拳は脇腹に命中した。
残滓は壁にぶつかった。
その一瞬、糸の動きが止まる。
花は隙を逃さず、保守用の扉へたどり着いた。
取っ手を引く。
開かない。
もう一度試す。
扉枠が歪んでいた。
しゃがみ込んで機構を調べると、以前の衝撃で金属板がずれ、留め具を塞いでいるのが分かった。
花は武器を取り出し、先端を金属板と枠の隙間に差し込んだ。
板はほとんど動かない。
背後で結衣が、小さな結界を維持しながら担架を守っている。
花は再び力を込めた。
金属板が曲がった。
留め具が小さな音を立てて外れる。
花は肩で扉を押し、ようやく開けることができた。
向こうには、非常灯が一定間隔で並ぶ細い通路が続いていた。
花はすぐさま敵の気配を探った。
何もいない。
歩ける狩人を中へ入れ、担架を受け取るために戻った。
その頃には、ムクロは網の制御を取り戻していた。
彼の視線が神崎から開いた扉へ移る。
「出口を見つけたのか」
神崎は入口を守る位置まで下がった。
「どうやらな」
ムクロが指を伸ばした。
天井を覆っていた糸が、次々と固定点から外れ始める。
花はすぐに変化を感じ取った。
残滓が糸を集めている。
しかも今度は、そのすべてが同じ場所を目指していた。
最初の糸が槍のように廊下を貫いた。
神崎は床近くの印を利用して二本を逸らしたが、三本目が左肩を捉えた。糸の先端は制服を裂き、浅い傷を残して壁へ突き進む。
袖に血がにじみ始めた。
神崎はほとんど気にも留めなかった。
背後では結衣と花が、担架を保守用通路へ運び込もうとしている。
最初の車輪は問題なく敷居を越えた。
だが、二つ目が曲がった金属片にぶつかった。
担架が急停止する。
負傷した狩人が悲鳴を上げた。
結衣は担架を数センチ持ち上げようとしたが、その振動で男はいっそう苦しそうな声を漏らした。
花がしゃがみ込み、障害物を確認する。
車輪と扉枠の間に、金属片が挟まっていた。
引っ張る。
動かない。
近くで新たな衝撃が壁を揺らした。
神崎は数歩後退した。
ムクロの糸が、網となって押し寄せてくる。
結衣は廊下を見た。
彼女の結界には、すでに細かな亀裂が浮かんでいる。
今すぐ解除して花を手伝えば、担架は早く動かせるかもしれない。
だが、その間は負傷者が無防備になる。
結衣は歯を食いしばり、敵の攻撃が集中する場所に魔力を集めた。
結界を担架だけが隠れるほどの細長い板へと縮める。
一本の糸がぶつかった。
耐えた。
次の一本が端を叩く。
右手に鋭い痛みが走った。
指が震える。
花はようやく金属片を曲げ、車輪を自由にした。二人で担架の後部をわずかに持ち上げ、再び引っかからないよう慎重に進める。
担架が扉枠を越えた。
神崎も後退を始める。
ムクロが追ってきた。
指先から伸びる糸は廊下の幅いっぱいに広がり、壁に突き刺さったり、配管へ絡みついて強く引いたりしている。
神崎が動ける空間は、急速に狭まっていた。
緑色の一本が首の高さを横切った。
身をかがめる。
別の糸が逃げ道を塞ぐ。
神崎は印へ向けて逸らしたが、強い圧力で補強が破られてしまった。
これ以上ここに留まれば、身動きが取れなくなる。
神崎は扉まで後退した。
ムクロが片手を上げる。
大量の糸が一斉に降り注いだ。
神崎は、この廊下に準備していた最後の印を起動した。
足元のコンクリートが光る。
これまで複数の固定点に残しておいた魔力の線が、一瞬だけ輝きを放った。ムクロが糸を固定していた壁面や床が強化され、残滓の予想に反する抵抗を生み出す。
一斉に引かれた糸のいくつかが軌道を失い、互いにぶつかり合った。
神崎はその隙に扉をくぐった。
花が背後で扉を閉める。
だが、完全には閉まらなかった。
緑色の糸が、扉と枠の間に入り込んでいた。
さらに一本。
扉がゆっくりと押し開かれ始める。
ムクロが外から引っ張っているのだ。
神崎はわずかに開いた隙間を見つめた。
扉の枠は、長くは耐えられないだろう。
「先へ進むぞ」
それ以上の説明は必要なかった。
花は歩ける狩人を支え、保守用通路を進んだ。
結衣は担架を守る小さな結界を保ちながら、神崎とともに運んでいく。
先ほどの廊下よりも道幅は狭かった。
右側には電気設備や倉庫に通じる扉が並び、左側では何本もの配管が地下階へ伸びている。
その先に、防火・防災用の隔壁があった。
神崎はそれを見覚えていた。
火災や建物の損傷が起きた際、区画を隔離するための非常用設備だ。
あそこを閉じることができれば、時間を稼げる。
背後で保守用の扉が勢いよく開いた。
緑色の糸が壁を伝い始める。
ムクロが姿を現した。
怒っているようには見えなかった。
ただ、自分がここに来た目的を果たそうとしている。
通路を塞ぐ。
それだけだった。
一本の糸が担架のそばにある手すりに絡みつき、強く引いた。金属がきしむ。
結衣は負傷者の側面を守るために結界を起こした。
別の糸が、歩ける狩人へ伸びる。
花はそれを感知し、男を攻撃範囲から引き離した。
一瞬、花はムクロの複数の動きを追うことができた。しかし集中を続けると目の奥に痛みが走り、再び感知範囲を狭めざるを得なかった。
視界がほんの一瞬かすむ。
焦点を合わせ直したときには、もう隔壁のすぐ近くまで来ていた。
歩ける狩人が最初に向こう側へ渡る。
花は男を壁際に座らせた。
結衣と神崎も担架を運び込む。
結衣の右手は、担架の枠をまともに握れないほど震えていた。
最後の数メートルは、ほとんど神崎一人で押し進める形になった。
隔壁の脇には、非常用の手動操作装置があった。
神崎がレバーを操作する。
警告音が鳴り始め、重い金属製の隔壁が天井からゆっくりと降下した。
ムクロはその動きを見つめた。
一本の糸が操作装置へ伸びる。
神崎は腕を差し出し、魔力の衝撃でその軌道を逸らした。傷ついた肩に痛みが走ったが、糸を装置から遠ざけることには成功する。
隔壁がさらに下がった。
ムクロが前進した。
彼の糸は開口部を探して壁を何度も叩いた。
一本が、まだ残る隔壁下部の隙間へ入り込んだ。
結衣は再び結界を作ろうとした。
しかし現れたのは、小さく不安定な光の板だけだった。
輝きは震え、すぐに薄れ始める。
手が、もう以前のようには動かなかった。
花は糸が負傷者へ近づくのを見た。
誰かの助けを待つことなく、壁際に落ちていた金属棒を掴み、糸を叩いた。
軌道がわずかにずれ、糸が配管へ巻きつく。
ムクロが強く引いた。
金属棒は花の手から弾き飛ばされた。
花が後退する。
神崎は再び装置を操作した。
隔壁が最後まで降り切る。
金属板の間に挟まれた糸が、一斉に張り詰めた。
ムクロはその場に留めようとしたものの、隔壁の圧力と、神崎が支点に施した魔力の補強によって、最終的には引き戻すしかなかった。
廊下に重い金属音が響き渡る。
隔壁が完全に閉じた。
数秒間、誰も口を開かなかった。
結衣は壁にもたれ、両腕を力なく下ろした。
花は荒い呼吸を繰り返している。
助けた狩人は担架の近くに座り、片手で脇腹を押さえていた。
神崎は隔壁の施錠を確認した。
向こう側から衝撃が伝わる。
金属がわずかに震えた。
もう一度、何かがぶつかる音。
そして、静寂。
「行ったんですか?」
結衣が尋ねた。
花は目を閉じた。
気配は、まだそこにある。
「ううん」
神崎は隔壁の補強部分を調べた。
「なら、あいつが別の方法を見つける前に離れたほうがいいな」
結衣が顔を上げる。
「通れるようになるんですか?」
「時間があれば、おそらくな」
花は立ち上がり、再び負傷した狩人を支えた。
「じゃあ、ここにはいられませんね」
神崎は頷いた。
「そのとおりだ」
三人は先へ進んだ。
隔壁の向こう側で、ムクロは動かずに立っていた。
非常用の扉には、糸によって生じた細かな傷や歪みが残っていた。
一本の糸が金属の表面をゆっくりと滑り、板と板の間に隙間がないか探る。
わずかな継ぎ目を見つける。
圧力をかけた。
だが、構造は耐えた。
攻撃を続ければ、いずれ突破できるだろう。
ムクロはこれまでにも、侵攻の途中でいくつもの出入口を破ってきた。あの隔壁も例外ではないはずだった。
しかし、彼の背後にはまだ封鎖しておかなければならない廊下がいくつも残っていた。
張り巡らせた糸の一部は、支点から離れすぎたことで張力を失い始めている。
逃げた狩人たちを追うことに全力を注げば、これまで塞いできた通路の一部を手放さなければならない。
ムクロはゆっくりと手を下ろした。
糸が壁を伝い、元の方向へ戻っていく。
逃げた狩人は三人。
同行していた負傷者が二人。
合わせて五人が、彼の支配下から抜け出した。
ムクロはもう数秒だけ隔壁を見つめた。
やがて背を向ける。
まだ、ほかにも出口はある。
そして、その出口を使おうとしている狩人たちもいた。
臨時医務室は中央区画に近い複数の部屋を使用していた。
本来の医療設備も稼働を続けていたが、負傷者の数が増えたため、隣接する廊下にまで治療区域を広げざるを得なくなっていた。
追加の担架や医療品を載せた机が並べられ、症状の重さによって患者を分けるための簡易的な仕切りも設置されている。
神崎が花と結衣を連れて到着したとき、二人の狩人が意識のない男性を運んでいた。少し離れた場所では、医師が制服を血で染めた別の負傷者を診察している。
あちこちから声が聞こえた。
仲間の名を呼ぶ者。
この支部で働いている家族の安否を尋ねる者。
新たな負傷者を受け入れながら、懸命に秩序を保とうとする医療スタッフ。
神崎は最も近い受付へ向かった。
担架を見た医師が顔を上げる。
「負傷状況は?」
「脚に深い傷。出血が多く、意識を保つのも難しい状態です。もう一人は脇腹を負傷していて、呼吸にも問題があります」
医師は仲間を二人呼んだ。
協力して、最初の狩人を清潔な担架へ移す。
結衣も患者の腕を慎重に支え、移動を手伝った。作業が終わると、医療スタッフの邪魔にならないよう離れる。
右手を握ってみた。
指がほとんど動かない。
もう一度試す。
手首に刺すような痛みが走った。
花が近づいてきた。
「大丈夫?」
「うん」
花はその手を見た。
「結衣」
「疲れてるだけだよ」
「お医者さんに診てもらって」
結衣はため息をつく。
「今?」
「今」
結局、結衣は従った。
診察した医師は深刻な外傷こそ見つけなかったものの、魔力の過剰使用による著しい疲労を確認した。
回復するまで結界の使用を避け、休息を取るよう指示される。
花も診察を受けた。
長時間にわたる魔力感知の負荷が残っており、再び広い範囲を感知し続ける前に、体力を回復させる必要があった。
二人は水を受け取り、壁際に座った。
しばらく何も話さなかった。
花は、助け出した狩人の一人が医療スタッフに運ばれていくのを見守っていた。
男はまだ意識がある。
治療の準備をしている看護師と話している姿が見えた。
それだけで少し安心できた。
「助け出せないかと思った」
花が認めるように呟いた。
結衣も担架のほうを見た。
「私も」
花は視線を落とした。
「糸があんなに増えたとき、全部感知しようとしちゃった。余計な時間を使ったと思う」
「私は廊下全体を守ろうとして、魔力を使いすぎたし」
結衣は両手を膝の上に置いた。
「二人とも、あんまりうまくできなかったね」
「それでも脱出できた」
横から声がした。
二人が顔を上げる。
神崎だった。
避難活動を調整している担当者に報告を終え、戻ってきたらしい。
左肩には小さな包帯が巻かれていた。ムクロにつけられた傷は深くなかったが、制服の一部には乾いた血が残っている。
神崎は結衣の手を見た。
「医師には何と言われた?」
「休むようにって」
「なら、休め」
結衣は少し不満そうな顔をした。
「でも、まだ戦ってる人たちがいます」
「ここで働いている人たちもいる。回復したら、その手伝いをすればいい」
神崎は机から水のボトルを一本取り、少し飲んでから続けた。
「それに、お前たちはあの二人を生きたまま連れ帰った。それだけで十分な働きだ」
花が顔を上げた。
「でも、あの残滓は倒せませんでした」
神崎は彼女を見た。
「ムクロのことか?」
「はい」
「あいつを倒すのが俺たちの任務だったか?」
結衣は腕を組んだ。
「でも、まだあそこにいるんですよね」
「分かっている。位置はすでに報告した。今後どう封じ込めるかは、担当部署が判断することになる」
花は考え込んだ。
トーナメントでは、どの試合にも明確な始まりと終わりがあった。
勝つか、負けるか、引き分けるか。
だが今回は敵を倒せなかった。
それでも、守るべきだった二人の狩人は治療を受けている。
神崎は、花がまだ考え続けていることに気づいた。
「仙台」
「はい」
「倒した敵の数だけで、自分の働きを判断する癖はつけるな。そんなことを続けていたら、いつか何のために戦っているのか忘れるぞ」
花はゆっくりと頷いた。
ずっと聞きたいことがあったが、どう言葉にすればいいか分からなかった。
やがて意を決する。
「先生は……怖くないんですか?」
結衣も神崎を見た。
神崎は少し考えてから答えた。
「怖いさ」
二人は驚いた。
「本当に?」と結衣が尋ねる。
「怖くないほうが問題だろう」
「でも、いつも何をすればいいのか分かっているように見えます」
神崎はボトルを机に置いた。
「いつも分かっているわけじゃない。考えているうちに時間がなくなるから、決断しなければならないときもある」
結衣は膝の上の手を見下ろした。
神崎は続けた。
「大事なのは、その決断に意味があるかどうかだ」
花は再び担架の並ぶ部屋を見た。
もし神崎が、どんな犠牲を払ってでもムクロを倒そうとしていたら、今もあの廊下で戦い続けていたかもしれない。
あるいは、誰一人として脱出できなかったかもしれない。
何か答えようとした、そのときだった。
神崎の通信機が鳴った。
彼は腰から取り外す。
「神崎だ」
最初は雑音しか聞こえなかった。
やがて、指令担当者の声が届く。
『第七通路の状況について、更新があります。配置されていた部隊との連絡が途絶えました』
神崎は学生たちから視線を外した。
「いつからだ?」
『約四分前です。最後の報告では、内部への出入口付近で敵の活動が確認されていました』
神崎は黙った。
視線が、医務室と建物のほかの区画を結ぶ廊下へ移る。
「状況は確認できたのか?」
『いいえ。近隣の部隊も通信を確立できていません』
神崎は壁の時計を短く見た。
「了解した。中央指令へ報告してくれ」
『応援を送りますか?』
「今は必要ない」
通信が切れた。
花は彼の表情が変わったことに気づいた。
神崎は通信機をしまい、立ち上がる。
「行かなければならなくなった」
結衣がすぐに顔を上げた。
「別の任務ですか?」
「ああ」
「じゃあ、私たちも行きます」
「駄目だ」
迷いのない返答だった。
花も立ち上がった。
「もう診察は受けました。まだ手伝えます」
「だったら、ここで手伝ってくれ」
神崎は負傷者の治療が行われている部屋を示した。
「この区画では、避難してきた部隊の受け入れを手伝う人手が足りていない。仲間をどこへ運べばいいのか分からずにいる狩人もいる」
結衣は廊下へ目を向けた。
「先生は、どこへ行くんですか?」
神崎は一秒ほど間を置いた。
「別の仕事がある」
花はわずかに眉をひそめる。
「一人で行かなきゃいけないんですか?」
「まだ内容も知らない任務に、消耗しきった学生を二人連れていくつもりはない」
「でも、私たちも役に立てるかもしれません」
神崎は花を見た。
声を荒らげることなく答える。
「もう十分、役に立ってくれた」
花は黙った。
「あの廊下から二人の狩人を救い出した。二人とも生きていて、今は治療を受けられる。敵を倒せなかったからといって、その成果まで無かったことにするな」
結衣は言い返そうと口を開いたが、結局何も言わなかった。
神崎の言うことが正しいのは分かっている。
それでも、彼が一人で行ってしまうことが嫌だった。
神崎は通信機を手に取り、正常に動作しているか確認した。
それから肩の包帯を直し、出口へ向かった。
「先生」
花が呼び止める。
神崎は足を止めた。
「何だ?」
花は数秒ためらった。
「……大丈夫ですよね?」
神崎は彼女を見た。
「そう約束できるだけの情報は、今の俺にはない」
まさに、彼らしい答えだった。
そして、その答えは花を思っていたほど安心させてくれなかった。
「じゃあ、気をつけてください」
神崎は頷いた。
「お前たちもな」
結衣も立ち上がった。
「助けてくれて、ありがとうございました」
神崎は二人を見た。
「あそこでは、俺一人が働いていたわけじゃない」
それだけ言って、部屋を出ていった。
花と結衣は、しばらく扉を見つめていた。
彼がどこへ向かうのか、二人には分からない。
なぜ応援を要請せず、一人で行くことを選んだのかも理解できなかった。
だが、あの態度を見れば、引き止めても考えを変えるつもりがないことだけは分かった。
やがて一人の看護師が近づいてきた。
「隣の部屋に医療品を運ぶのを手伝ってもらえますか?」
結衣は花を見た。
花は頷く。
「はい、もちろんです」
二人は立ち上がった。
まだ、やるべきことは山ほど残っていた。
神崎は二つの廊下を抜け、案内板の前で足を止めた。
そこからなら、中央指令室のある区画へ簡単に戻ることができる。北部区画への道も、医療施設へ通じる通路も近かった。
神崎は壁に掲示された見取り図を確認する。
それから、再び通信機を取り出した。
先ほど受け取った情報が、小さな画面に表示されたままになっている。
彼はもう一度、報告を読み返した。
配置されていた部隊の状況は確認できていない。
敵が何体あの区画に到達したのかも分からなかった。
それでも、これ以上待つわけにはいかない。
通信機をしまい、傷ついた肩を覆う制服を整える。
そして歩き出した。
次の交差点では、医療品を運ぶ二人の狩人とすれ違った。
そのうちの一人が神崎に気づき、軽く手を上げて挨拶した。
神崎も短く応じたが、足は止めなかった。
そのまま進み、通常の照明が消え、非常灯だけが点灯している区画へ入った。
そこで廊下は三方向に分かれていた。
右へ進めば、中央指令室への最短経路。
左は、整備担当者が使用する裏通路。
正面の通路は、学生たちが普段立ち入ることのない区域へ向かって下りていた。
神崎は、その正面の通路の前で立ち止まった。
遠くから警報の音が聞こえてくる。
数秒間、その音に耳を傾けた。
それから、必要な装備を持っているか確認する。
到着した先で何を見つけることになるのか、彼には分からなかった。
だが、これ以上待てないことだけは確かだった。
神崎は階段を下り始めた。
背後で自動扉がゆっくりと閉じていく。
医務室の騒がしさは次第に遠ざかり、やがて地下区画の静寂に取って代わられた。




