第52章:誰かがあの子の目を閉じた
澪が話し終えても、誰も何も言わなかった。
古い道は、彼女たちの前に続いていた。
静かに。
暗く。
まるで、それもまた聞いていたかのように。
陽菜は妹のそばに膝をついたまま、片手をその背に添え、もう片方の手をまだ斧の近くに置いていた。強く押さえているわけではない。もう、その必要はなかった。澪はそこにいた。震えていて、青ざめていて、呼吸は乱れていた。それでも、そこにいた。
その目は、まだ彼女自身のものだった。
それだけで安心できるはずだった。
できなかった。
芽衣は少し離れたところに立っていた。片手には閉じた扇を持ち、もう片方には折りたたまれた紙を持っている。話のあいだ、ほとんど口を挟まなかった。聞いたのは必要なことだけだった。どこで、何人いて、男は何を言ったのか、そのあと何を覚えているのか。
答えはいつも不完全だった。
澪は本を覚えていた。
紙を。
蝋燭を。
白い服を。
赤い男を。
そのあとは、血。
熱。
目。
多すぎる目。
そして、それ以上は何もなかった。
陽菜は森のほうを見た。
入口はさっきと変わらないように見えた。同じ木々。同じ土。幹のあいだにある同じ暗闇。蝋燭はない。白い人影もない。奥からこちらを見つめる赤い仮面もない。
それは何の意味もなかった。
そこが問題だった。
「戻ろう」
芽衣が言った。
陽菜は答えなかった。
澪が唾を飲み込んだ。
「行きたかったわけじゃない」
その声はあまりに小さく、葉擦れの中に消えそうだった。
陽菜は妹を見た。
「わかってる」
「触られたかったわけじゃない」
「わかってる」
「でも、行った」
陽菜は歯を食いしばった。
澪に怒っていたわけではない。
ただ、自分の中にある感情をどこに置けばいいのかわからなかった。
恐怖があった。
罪悪感があった。
怒りがあった。
もっと古いものもあった。今夜より前からあったもの。澪が、自分には説明できなかった世界を外側から見つめてきた何年分もの記憶。沈黙に代償がないかのように、家族の沈黙を受け入れてきた何年分もの重さ。
澪は目を伏せた。
「知りたかったの」
陽菜は一瞬、目を閉じた。
それを聞くのは痛かった。
それが間違っているとは言えなかったからだ。
完全には。
「利用されたんだよ」
澪は小さく笑った。
笑いにはならなかった。
「それで少しも楽にはならない」
「うん」
陽菜は認めた。
「楽にはならない」
芽衣は紙を折りたたみ、ポケットにしまった。
「今度こそ戻るわよ」
陽菜は立ち上がった。
もう一度、森を見た。
芽衣はそれを見た。
その表情が即座に変わった。
「駄目」
陽菜はまだ何も言っていなかった。
言う必要はなかった。
「駄目」
芽衣は繰り返した。
「絶対に考えないで」
「芽衣」
「駄目」
澪が困惑して顔を上げた。
「何?」
芽衣は閉じた扇で陽菜を指した。
「あなたのお姉さんが、馬鹿なことをしようとしてる」
「馬鹿なことじゃない」
「じゃあ、馬鹿に聞こえないように説明して」
陽菜はすぐには答えなかった。
風が頭上の枝を揺らした。森のどこかで、何かが軋んだ。動物かもしれない。枯れ枝かもしれない。ただの何かかもしれない。
陽菜は木々から目を離さなかった。
「明日まで待ったら、いなくなる」
「だから?」
「澪は道を覚えてる。蝋燭も、開けた場所も覚えてる。まだそこにいるなら、これが何なのか確かめられる」
「確かめる?」
芽衣は一歩近づいた。
「もう十分確かめたでしょ。森の中に白い服の連中がいて、血で儀式をしてた。それがまともじゃないって確認するために、これ以上必要ない」
「まだそこにいるか知る必要がある」
「違う。天音と石田を起こす必要がある」
「それはあなたがやって」
芽衣は固まった。
「は?」
陽菜は澪を見た。
妹はまだ地面に座ったまま、服の布を握りしめていた。実際よりも幼く見えた。体の大きさではない。恐怖のせいだった。
「澪を家に連れて行って」
陽菜は言った。
「悠太を起こして。石田も起こして。全部話して。それから来て」
「あなたは?」
「見てくる」
芽衣は乾いた笑いを漏らした。
「なるほど。森に一人で入って“見てくる”人間って、絶対にカルトと戦う羽目にならないものね」
「戦わない」
「それ、単独で戦う直前の人間が言う台詞そのものなんだけど」
陽菜は斧の柄を握りしめた。
武器はまた小さくなっていた。けれど、その手の中の重さはさっきより増しているように感じた。
「一緒に行ったら、澪が危険に晒される」
「家まで連れて行って、それから全員で出ればいい」
「その頃には誰も残ってないかもしれない」
「あるいは、あなたを待ってるかもしれない」
陽菜は芽衣を見た。
芽衣は視線をそらさなかった。
冗談ではなかった。
意地を張っているわけでもなかった。
怖がっていた。
それが、陽菜に目をそらしたいと思わせた。
「開けた場所までは入らない」
陽菜は言った。
「攻撃しない。音も立てない。ただ、まだいるか確認したいだけ」
「いて、どうするの?」
「戻る」
「嘘」
陽菜は答えなかった。
芽衣は扇を握る指に力を込めた。
「大事なことになると、あなたは本当に嘘が下手ね」
澪が震える手を伸ばし、陽菜の袖を掴んだ。
「行かないで」
その手は、どんな攻撃よりも重く感じた。
「澪……」
「あそこに行かないで」
澪の声が割れた。
「あの場所は、何も見えなくても空っぽじゃない」
陽菜はもう一度、妹の前に膝をついた。
「だから、見に行かなきゃいけない」
「嫌」
「聞いて」
「嫌」
陽菜は妹の手を取った。
冷たかった。
「あなたが正気に戻ったからって、されたことが終わったわけじゃない。もう一度呼ばれるのかどうかもわからない。迎えに来るのかどうかもわからない。あの男が、まだあなたを感じ取れるのかもわからない」
澪は動きを止めた。
芽衣も同じだった。
その考えが、三人のあいだに落ちた。
重く。
口に出された今では、あまりにも当然のものとして。
陽菜は続けた。
「あなたが逃げたと知ったら、彼は動く。誰かが自分のしたことを遮ったと知っても、動く。消える前に、見ておく必要がある」
澪は首を横に振ったが、もう同じ力はなかった。
「怖い」
「私も」
その返事は、何の飾りもなく出た。
陽菜はそれを和らげようとはしなかった。
澪は彼女を見た。
「だったら行かないで」
「だから行くの」
芽衣が舌打ちした。
「説得力あること言う時のあなた、嫌い」
「つまり、やってくれるってこと?」
「つまり、まだ私があなたを殴るかどうか考えてるってこと」
陽菜は立ち上がった。
「芽衣」
芽衣は深く息を吸った。
一度。
それから澪を見た。
その視線が、どんな言葉よりも決定的だった。
澪をここに残しておくことはできない。
一人で帰らせることもできない。
そして、赤い男がまだ彼女と何らかの繋がりを持っているなら、森のそばに置いておくのは正気ではなかった。
芽衣は扇をしまった。
「十分」
陽菜は眉を寄せた。
「何?」
「十分だけ。私がこの子を家に連れて行って、天音と石田を起こして戻る。それまでに森の入口にいなかったら、私が中まで探しに行く」
「芽衣……」
「交渉してない」
陽菜はその目を見つめた。
それから頷いた。
「十分」
「それと、接触しないこと」
「しない」
「攻撃しないこと」
「しない」
「壊れた家族の悲劇のヒロインぶらないこと」
陽菜は口を開いた。
芽衣は指を一本立てた。
「そこも交渉不可」
その夜初めて、陽菜の顔に笑みに近いものが浮かんだ。
長くは続かなかった。
澪は芽衣に支えられて立ち上がった。まだ震えていた。足元が少し崩れると、芽衣が背中に腕を回した。
陽菜は妹を見た。
「彼女と行って」
澪は唇を噛んだ。
「戻ってきて」
「戻る」
「その言い方、やめて」
陽菜は黙った。
澪は彼女を知りすぎていた。
「私を安心させようとしてないみたいに言って」
陽菜は唾を飲み込んだ。
それから、少し低い声で言った。
「戻るよ。まだ、何も話してくれなかったことを、あなたに怒られなきゃいけないから」
澪は陽菜を見た。
目に涙が溜まった。
けれど今度は泣かなかった。
「うん」
「それに、戻らなかったら芽衣が面倒くさい」
「戻っても面倒くさいわよ」
芽衣が言った。
陽菜は頷いた。
「それもそう」
澪はゆっくり呼吸した。
それから姉の袖を離した。
「十分」
陽菜は頷いた。
「十分」
芽衣は澪を連れて家のほうへ歩き始めた。
走りはしなかった。
だが速かった。
陽菜は二人の姿が道の暗闇に飲み込まれていくまで見送った。しばらくのあいだ、森の入口に一人で立ち、自分の鼓動だけを聞いていた。
それから木々のほうを見た。
恐怖は消えていなかった。
ただ、整理されていた。
それは、役に立つぶん余計に厄介だった。
陽菜は斧を握り直し、森へ入った。
森は、何も変わらず彼女を迎えた。
それが最初に気づいたことだった。
突然の風はない。
声もない。
幹のあいだから現れる人影もない。
あるのは暗闇と、湿った土と、不自然なほど静かな枝だけだった。
陽菜はゆっくり進んだ。
その道は知っていた。
幼い頃、数えきれないほど通った道だった。父と。母と。疲れていないふりをしながら。時には澪が数メートルだけついてきて、誰かに呼び戻されることもあった。
その記憶が、ほとんど彼女の足を止めかけた。
止めなかった。
鼻から息を吸った。
ゆっくり吐いた。
斧は展開しなかった。
魔力も表には出さなかった。
前方に誰かがいるなら、自分の存在を知らせたくなかった。
土のいくつかの場所に、新しい足跡があった。深くはない。確実に追えるほどではない。だが、確かにあった。いくつも。一人分にしては多すぎる。
陽菜はその一つのそばにしゃがんだ。
二本の指で触れる。
湿っている。
新しい。
澪はここにいた。
そして、一人ではなかった。
胸の奥が締めつけられた。
進んだ。
その先で、道はさらに細くなった。
枝が肩をかすめる。普段なら気にも留めなかっただろう。だが今夜は、その一つ一つが、自分を止めようとする手のように感じた。あるいは、押し出そうとする手のように。
数メートル先に、木々のあいだから弱い光が見えた。
陽菜は足を止めた。
燃えている蝋燭ではなかった。
正確には違う。
消えかけの炭火のような、低く、死にかけた光だった。
開けた場所は近い。
陽菜は横へ移動し、道を外れた。幹のあいだを進み、土が固そうな場所を選んで足を置き、枯葉や見える枝を避けた。父が教えてくれたことだった。
森が踏ませようとする場所を踏むな。
その言葉があまりにも鮮明に戻り、一瞬だけ父が背後にいるように感じた。
振り返るな。
二つ目の言葉も戻った。
陽菜は従った。
太い木のところまで行き、その陰に身を隠した。
そこから、開けた場所が見えた。
澪は誇張していなかった。
低い石が不規則な円を作っていた。まだ燃えている蝋燭もあった。倒れ、消え、土の上に蝋をこぼしているものもあった。地面には黒っぽい跡があり、中央近くの平たい石の上にも同じような跡があった。
陽菜は斧を握る手に力が入りすぎて、指が痛むのを感じた。
白い服の者たちは、まだそこにいた。
全員ではない。
あるいは、全員なのかもしれない。
木々のあいだでは数えにくかった。
何人かが円の周囲を動き、物を拾い、蝋燭を消し、足で痕跡を消していた。慌てて逃げているようには見えなかった。使い終えた場所を片づけているように見えた。
それが、より恐ろしかった。
落ち着き。
慣れ。
赤い人物は中央にいた。
立っていた。
動かずに。
滑らかな仮面は、平たい石を見つめていた。
しばらくのあいだ、陽菜にはそれが考えているのか、祈っているのか、あるいは他の誰にも聞こえない何かを聞いているのかわからなかった。
その時、赤い男が片手を上げた。
全員が止まった。
開けた場所が静まり返った。
陽菜は息を止めた。
男はわずかに首を傾けた。
まるで、そこには存在しない部屋の中で何かが変わったかのように。
「一人足りない」
彼は言った。
声は大きくなかった。
それなのに、陽菜にはあまりにもはっきり届いた。
白い服の一人が近づいた。
「少女ですか」
赤い男はすぐには答えなかった。
二本の指を仮面へ持っていく。ちょうど、両目のあいだの位置へ。
陽菜は首筋の皮膚が粟立つのを感じた。
「一人で消えたわけじゃない」
白い者たちは沈黙した。
男はまた言った。
「誰かが、あの子の目を閉じた」
陽菜は歯を食いしばった。
つまり、感じ取れるのだ。
完全にではないかもしれない。
遠くから見えているわけではない。
けれど、何か。
何らかの印。
あの男と澪のあいだにある、見えない糸。
あの一撃は、妹を目覚めさせただけではなかった。
繋がりを断ったのだ。
陽菜は無意識に半歩下がった。
踵が枯れ枝に触れた。
折れてはいない。
まだ。
彼女は動きを止めた。
開けた場所で、赤い男が顔を向けた。
彼女へではない。
最初は違った。
古い道がある森のほうへ。
「探せ」
白い者たちが動き始めた。
二人が主な道のほうへ向かった。
一人が石の周りを回った。
もう一人は反対側の木々の中へ入っていった。
陽菜は距離を測った。
今退けば、囲まれる前に出られるかもしれない。
素早く動けば。
音を立てなければ。
運が良ければ。
運は、信頼できる技術ではなかった。
陽菜は一歩下がった。
ゆっくりと。
踵の下の枝が、耐えきれずに折れた。
音は小さかった。
馬鹿みたいに小さかった。
昼間なら何の意味もなかったはずの音。
だがその森で、蝋燭の下では、告白のように響いた。
すべての頭が向いた。
陽菜は隠れるのをやめた。
望んだからではない。
もう意味がなかったからだ。
斧を手に、木の陰から出た。
まだ小さいまま。
まだ展開していない。
赤い男が彼女を見上げた。
一秒のあいだ、何も言わなかった。
赤い仮面が、わずかに傾いた。
「ああ」
白い者たちは止まった。
それから、ゆっくりと円から離れ始めた。陽菜と出口へ続く道のあいだに、弧を作るように。
赤い男は、耐えがたいほど落ち着いた声で言った。
「お前だったのか」
陽菜は斧を両手で握った。
「何が」
「すでに開いていた目を、閉じた者だ」
陽菜の中に怒りが生まれた。
純粋な。
冷たい怒りだった。
「開く権利なんて、お前にはなかった」
そのあとの沈黙は短かった。
だが重かった。
白い服の一人が低い音を漏らした。陽菜の言葉が気に障ったようだった。別の一人は首を傾げた。さらに別の一人は、陽菜にはよく見えない何かを握りしめた。
赤い男は動かなかった。
「閉じた目は、いつも鍵を守ろうとする」
「そして狂人は、いつもそれっぽいことを言えば深く聞こえると思ってる」
赤い仮面は動かなかった。
やがて男は笑った。
静かに。
どこか満足したように。
「気が強いな」
陽菜は半歩横へ動いた。背中に幹を置き、完全に囲まれないように位置を変える。
「お前には、妹に何をしたのか説明するための十秒をあげる」
その言葉は、止める前に口から出ていた。
妹。
白い者たちが反応した。
小さな動き。
わずかな傾き。
認識。
赤い男は沈黙した。
それから、少しゆっくり話した。
「なら、血が血を呼び戻したわけだ」
陽菜は自分の失敗を悟った。
情報を渡すつもりはなかった。
だが、もう渡してしまった。
赤い男は片手を上げた。二人のあいだの空気を撫でるように。
「誰があの子の目を閉じたのかは知らなかった。今はわかった」
陽菜は斧を展開した。
金属が乾いた魔力音とともに大きくなり、斜めに構えられるほど広がった。光は短く、抑えられていた。それでも、白い者たちの何人かを一歩下がらせるには十分だった。
全員ではない。
一人は動かなかった。
そのほうが気になった。
「それ以上近づくな」
陽菜は言った。
赤い男は武器を見た。
「お前の家には、まだ古い道具が残っているのか」
「カルト相手にもよく効きそうだけど」
「我々はカルトではない」
陽菜は蝋燭を見た。
白い衣。
汚れた石。
赤い仮面。
「そうね。趣味の悪いカルトだった」
仮面の下から、また静かな笑いが漏れた。
「笑いは、恐怖を抱く者の助けになる」
「じゃあ、もっと笑ったほうがいいよ」
最初の白い影が攻撃した。
合図はなかった。
叫びもしなかった。
ただ左から飛び込んできた。普通の人間にしては速すぎ、訓練された者にしてはぎこちなさすぎた。
陽菜は斧を回して防いだ。
衝撃は奇妙だった。
純粋な身体能力ではない。魔力はある。だが配分が歪んでいた。壊れた管に無理やり流れを通しているようだった。白い影は金属に弾かれて横へ倒れたが、すぐに立ち上がった。
陽菜はわずかに目を見開いた。
「何をしたの……」
「他の者たちが閉じたものを開いた」
赤い男が言った。
さらに二人が前へ出た。
陽菜は一歩下がり、斧を地面へ突き立て、刃へ魔力を流した。
刃は横へ広がり、土を叩いて彼女と攻撃者たちのあいだに粉塵の線を巻き上げた。切らなかった。まだ切りたくなかった。彼らは人間だった。病んでいるのか、操られているのか、あるいはもっと悪い何かに変えられたのかはわからない。それでも人間だった。
それが、すべてを難しくしていた。
一人が粉塵の線を気にもせず越えてきた。
陽菜は柄を回し、平たい部分で叩いた。
衝撃でその身体は木に叩きつけられた。
白い影は倒れた。
また立ち上がった。
「痛みを感じてない……?」
陽菜は呟いた。
「感じている」
赤い男が答えた。
「だが今の彼らは、痛みが目を閉じる理由にはならないと知っている」
陽菜は男を見た。
「自分の声を聞くの、好きそうだね」
「聞かれるのが好きなんだ」
「同じじゃない」
別の影が右から攻撃してきた。
陽菜は身を低くし、何かが髪の上をかすめるのを感じながら、柄で低く打ち返した。相手が体勢を崩す。陽菜はその隙に、二本の木のあいだの空間へ動いた。
だが弧は閉じた。
四人の白い影が、彼女と出口のあいだに立っていた。
赤い男は一歩も動いていなかった。
それが一番嫌だった。
動かなくても、この森を自分のもののように感じさせていた。
陽菜は深く息を吸った。
十分。
芽衣は戻ってくる。
悠太と石田も。
耐えればいい。
勝つ必要はない。
耐えるだけでいい。
軽い圧力が額を撫でた。
陽菜は動きを止めた。
物理的な攻撃ではなかった。
感覚だった。
誰かが、目と目のあいだに見えない指を置こうとしたような感覚。
彼女の魔力が本能で反応した。
斧が光った。
圧力が切れた。
赤い男が首を傾げた。
「面白い」
陽菜は夜よりも深い冷たさを感じた。
「私に触るな」
「まだ触れていない」
「試してみなよ。手を失うから」
「お前の妹も似たようなことを言っていた」
陽菜は動いた。
考えなかった。
斧が巨大な音を立てて地面へ落ち、赤い男とのあいだの土を割った。彼には届かなかった。男は下がりさえしなかった。だが白い影が二人、即座に前へ割り込んだ。頭よりも身体が先に反応したかのようだった。
蝋燭のあいだに土埃が舞い上がった。
陽菜は荒く息をした。
失敗だった。
怒りに一秒を奪われた。
赤い男はそれを見ていた。
「正しい扉には、必ずひびがある」
「黙れ」
「お前の妹は、疎外感だった」
陽菜は歯を食いしばった。
「黙れ」
「お前は、罪悪感だ」
粉塵の中から白い影が現れ、陽菜の脇腹を打った。
陽菜は防ごうとしたが、衝撃で木へ押しつけられた。肺から空気が抜ける。一瞬、斧が小さくなった。
正面から次の攻撃が来た。
陽菜はわずかに身をひねり、ぎりぎりで避けた。
白い袖の端が頬をかすめた。
熱を感じた。
血。
多くはない。
十分だった。
立て直す。
赤い男が見ていた。
「誰かがお前に、扉を守るための戦い方を教えた。だが、扉がすでに開いてしまった時に何をすればいいかは、誰も教えなかったようだ」
陽菜は横に唾を吐いた。
「目の前にあっちゃいけないものを壊す方法なら教わったよ」
斧をもう一度展開した。
より大きく。
より重く。
白い影たちが進んだ。
陽菜は足を踏みしめた。
蝋燭が一つ消えた。
さらにもう一つ。
風のせいではない。
周囲で動く身体のせいだった。
暗闇が、開けた場所を侵食していく。
陽菜は武器を構えた。
そして森へ入ってから初めて、自分が手がかりを追ったのではないのだと理解した。
罠に入ったのだ。




