第49章:閉じた目
澪は古い道へ向かって歩いていた。
走ってはいなかった。
急いでいるようにも見えなかった。
それが、余計に悪かった。
夜の久山は静かだった。町のものとも、森のものとも言い切れない種類の静けさだった。家々は背後にあり、暗い屋根の下に沈んでいる。さらに上では、山が空に広がる一つの大きな影のように見えた。
澪は折りたたまれた紙を手に進んでいた。
足が土に触れるたび、その動きはほとんど完璧なほど静かだった。
完璧すぎた。
自分の意思で歩いているのではなく、彼女にだけ見える線を地面の上でたどっているかのようだった。
「目を開けなきゃ」
澪は呟いた。
その言葉には力がなかった。
恐怖もなかった。
感情もなかった。
だからこそ、人間らしく聞こえなかった。
彼女は進み続けた。
古い道は、最後の家々が途切れるところから始まっていた。その先には木々の列があり、森の入口を示していた。昼間なら、特別に不気味な場所には見えなかったかもしれない。だが夜になると、幹は動かない人影のように立ち、枝は月から来るわずかな光を遮っていた。
澪はその境目まで来た。
さらに一歩を踏み出した。
「澪」
その声が彼女を止めた。
認識したからではなかった。
心を動かされたからでもなかった。
大きな音に、逃げるべきか襲うべきかわからない動物が足を止めるように。
月野陽菜が、数メートル後ろに立っていた。
裸足だった。
髪は少し乱れていた。
呼吸は、いつもよりわずかに速い。
片手には小さな斧を握っていた。まだ大きくはなっていない。まだ。
目は妹から離れていなかった。
「澪」
もう一度、陽菜は言った。
「家に戻って」
澪はゆっくりと首を回した。
あまりにもゆっくりと。
陽菜を見た。
一瞬、見えていないようだった。
それから唇が動いた。
「目を開けなきゃ」
陽菜は斧の柄を握りしめた。
「違う。私と一緒に戻るの」
澪は瞬きをした。
一度。
二度。
「行かなきゃ」
「どこへ?」
澪は答えなかった。
森を見た。
陽菜が一歩近づいた。
「澪、聞いて。何をされたのかはわからない。でも、これはあなたじゃない」
澪はまた陽菜を見た。
目は開いていた。
けれど陽菜は、背筋をゆっくり下りていく冷たさとともに、その目が自分と同じ世界を見ていないのだと感じた。
「閉じさせないで」
澪が言った。
陽菜は動きを止めた。
「何?」
澪は紙を指の間で握りしめた。
「私の目を、閉じさせないで」
声はまだ低かった。
だが空気が変わった。
陽菜がそれに気づいたのは遅かった。
圧力。
完全な気配ではない。訓練を受けた狩人の、はっきりした魔力でもない。残滓の汚染された重さでもない。
その中間。
壊れている。
無理やり引き出されている。
澪の指の周りに、淡い流れが現れた。最初は湯気のように弱かった。だが次の瞬間、それは張り詰めた。
そして、撃ち出された。
陽菜は反射で動いた。
手の中の斧が魔力の光とともに大きくなり、その衝撃を正面から受け止めた。攻撃は大きくはなかった。だが乱暴だった。その力で陽菜は一歩後ろへ押され、踵が湿った土に沈んだ。
澪は動かなかった。
陽菜は斧の縁を見た。
妹の魔力が、金属に細い跡を残していた。
本物の跡だった。
「違う……」
陽菜は呟いた。
家のほうから、もう一つの影が走ってきた。
「月野!」
数秒後、芽衣が到着した。髪はほどけ、手には扇を持っていた。完全な制服ではなかった。外へ出る前に、何かを羽織る時間しかなかったのだ。
芽衣は陽菜を見た。
それから澪を見た。
そして斧を見た。
「今の、何?」
陽菜は答えなかった。
澪がゆっくりと空いているほうの手を上げた。
指の周りの空気が、また震えた。
芽衣が扇を開いた。
「月野」
「わからない」
「わからないって、どういうこと?」
澪が再び攻撃した。
今度、魔力は三本の歪んだ線となって放たれた。鞭になりたいのか、針になりたいのか、爪になりたいのか、自分でも決められていないような、不完全な斬撃だった。陽菜は一本目を斧で防いだ。芽衣は二本目を風の刃で切り払った。三本目は二人の間を抜け、背後の木に当たり、樹皮を削り飛ばした。
芽衣は木を見た。
それから澪を見た。
「昔から、あれができたの?」
陽菜は妹から目を離さずに首を横に振った。
「いいえ」
「本当に?」
「本当よ」
澪が一歩進んだ。
彼女の周囲で、再び圧力が高まった。
強いわけではない。
だが、そこにあった。
そして、それはありえないことだった。
陽菜は唾を飲み込んだ。
「私の家族で、両親以外に魔力を使えたのは……私だけだった」
芽衣は理解した。
表情が変わった。
ただ心配しているだけではなくなった。
今は、恐れていた。
「じゃあ、誰かが彼女にこれをさせたのね」
澪は顔を伏せた。
手の中の紙がしわになる。
「閉じないで」
彼女は呟いた。
「澪」
陽菜は一歩近づいた。
「私よ」
「閉じないで」
「陽菜よ」
澪が顔を上げた。
一瞬、その目の奥で何かが揺れたように見えた。
認識ではない。
もっと小さなもの。
反響。
陽菜はそれを見て、さらに一歩進んだ。
「澪、私を見て」
澪の魔力が弾けた。
爆発ではなかった。
拒絶だった。
淡い波が体から広がり、空気を外側へ押し出した。陽菜は斧を前に構えたが、衝撃に押し戻された。芽衣は片足を地面に突き立て、両方の扇を開いて、圧力が直撃する前に切り裂いた。
「月野、正面から近づかないで!」
「妹なの」
「だからよ」
澪はまた森へ向かって歩き始めた。
陽菜はその前に回り込んだ。
澪は振り返った。
動きはぎこちなかった。
大きすぎた。
戦い方を知らない人間の動きだった。だがその身体だけが、無理やり攻撃させられているようだった。
右手に魔力が集まる。
陽菜にはその攻撃が見えていた。
避けることもできた。
倒すこともできた。
斧を大きくして拘束し、地面を叩き、進路を断つこともできた。
でも、澪だった。
妹だった。
同じ家を裸足で走り回っていた子だった。陽菜が訓練へ行くたびに文句を言っていた子だった。どうして両親はいつも、自分には見えない場所を見ているような顔をするのかと尋ねていた子だった。
澪だった。
そして攻撃は届いた。
陽菜は斧の柄で防ごうとしたが、間に合いきらなかった。圧力が肩をかすめ、服の下に浅い線を開いた。痛みは思ったほどではなかった。
たぶん、もっと痛いものが他にあったからだ。
芽衣が風の刃を放った。
澪に向けてではない。
彼女の足元へ。
土が細い線を描いて裂け、澪は反射的に止まった。
「傷つけたくない」
芽衣が言った。
「なら傷つけないで」
「そうしようとしてる」
澪は地面の線を見た。
それから芽衣を見た。
初めて、彼女の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
口元がこわばる程度に。
「あなたたちは見えてない」
芽衣は眉をひそめた。
「何?」
澪が手を上げる。
「向こう側にあるものが、見えてない」
魔力がまた形を作った。
今度は、彼女の目の周りに。
淡い二本の線が額からまぶたへ下りていく。まるで見えない何かが、皮膚の下に道を描いたようだった。
陽菜は胃が締めつけられるのを感じた。
「澪……」
「彼らは見えてる」
澪が言った。
その声は彼女のものではなかった。
完全には。
「彼らは開いてくれる」
攻撃は芽衣へまっすぐ飛んだ。
芽衣の反応が遅れた。
見えていなかったからではない。
澪がこれほど正確に自分を狙うとは思っていなかったからだ。
陽菜が間に入った。
斧が一気に大きくなり、幅広く重い盾のように二人の間へ展開される。衝撃が金属を震わせ、腕から肩まで揺さぶった。陽菜は歯を食いしばる。
澪は止まらなかった。
次の一撃。
さらに次。
さらに次。
きれいな攻撃ではなかった。技術もない。訓練のリズムもない。借り物の怒りを投げつけるような魔力の衝動だった。まるで、澪の内側にある閉じられた扉を、誰かが中から叩いているように。
「澪、やめて!」
陽菜は斧で押し返した。
澪が二歩下がる。
芽衣は左へ回り込み、彼女を囲もうとした。
「月野、このまま進ませたら森に入る」
「わかってる」
「入ったら、何が待ってるかわからない」
「わかってる」
「なら、決めて」
陽菜は澪を見た。
澪は顔を上げた。
目は開いていた。
開きすぎていた。
「開けなきゃ」
彼女は呟いた。
陽菜は息を吸った。
一度。
深く。
あとで思い出したくないことをする前の呼吸だった。
「芽衣」
「何?」
「援護して」
芽衣は聞き返さなかった。
扇を開き、二つの風の刃を放った。澪の左右へ。傷つけるためではない。閉じ込めるためだった。刃は土と枯葉を巻き上げ、彼女の動きを一瞬だけ制限する圧力を作った。
澪は芽衣のほうを向いた。
陽菜はその一秒を使った。
走った。
斧は手の中で縮み、小さな形へ戻る。
澪が反応しようとした。
手が上がる。
淡い魔力が形になり始める。
陽菜のほうが早かった。
武器を回転させる。
刃は使わなかった。
柄を使った。
その一撃は、澪の側頭部を打った。
美しい一撃ではなかった。
英雄的な一撃でもなかった。
必死の一撃だった。
彼女の前進を断つには十分で。
それをした自分を許すには、十分ではなかった。
澪は膝から崩れた。
目の周りの魔力が揺らめく。
一度。
二度。
そして消えた。
折りたたまれた紙が手から落ちた。
陽菜は斧を手放し、澪が地面に倒れる前に抱きとめた。
「澪」
芽衣はすぐに扇を閉じ、駆け寄った。
「大丈夫?」
陽菜は答えなかった。
片手で妹の後頭部を支え、もう片手で肩を抱いていた。澪は呼吸している。意識もあった。けれど目の動きが違っていた。
混乱している。
人間の目だった。
澪は瞬きをした。
地面を見た。
それから陽菜の手を見た。
森を見た。
「……陽菜?」
その声は弱かった。
だが、彼女のものだった。
陽菜は胸の中で何かが一気にほどけるのを感じた。
「うん」
澪は眉を寄せた。
「何……?」
立ち上がろうとしたが、ふらついた。
陽菜が支えた。
「動かないで」
澪は周囲を見た。
道。
木々。
夜。
芽衣。
地面に落ちた斧。
切り裂かれた土。
震える自分の手。
「どうして、ここにいるの?」
陽菜と芽衣は顔を見合わせた。
どちらも何も言わなかった。
それが答えすぎていた。
澪は唾を飲み込んだ。
「私、何をしたの?」
「直せないことはしてない」
陽菜は言った。
その言葉は早すぎた。
守るように出すぎた。
澪は彼女をよく知っていたから、それを理解した。
「陽菜」
陽菜は目をそらした。
芽衣がかがみ込み、地面に落ちた折りたたみの紙を拾った。
開かずに見つめる。
「これを持ってた」
澪はその紙を見た。
顔色が変わった。
すべては覚えていない。
でも身体のどこかが、それを知っていた。
「いや……」
彼女は呟いた。
陽菜はまた彼女を見た。
「何を覚えてる?」
澪は目を閉じた。
さっきとは違った。
命令を受け取るような閉じ方ではなかった。
今度は違った。
あまりに多くの影の中から一つの映像を探そうとする人間の仕草だった。
「わからない」
声が震えた。
「何が起きたのか、わからない」
陽菜は何も言わなかった。
澪は額に手を当てた。
指先が、両目の間に触れた。
そのまま動きを止めた。
「誰かが……いた」
芽衣が緊張した。
「誰?」
澪は目を開けた。
「わからない」
森が風で揺れた。
葉がささやく。
遠くで枝が軋んだ。
陽菜は木々の奥を見た。
一瞬、広場の男がそこにいるのではないかと思った。
白い服の誰かがいるのではないかと。
あるいは、もっと悪い何かが。
何も見えなかった。
それは安心にはならなかった。
澪は手を下ろした。
「声を覚えてる」
陽菜は彼女に視線を戻した。
「何て言ってた?」
澪は答えようとした。
できなかった。
呼吸が速くなる。
陽菜はその手を取った。
「ゆっくりでいい。無理に思い出さなくていい」
「違う、私……」
澪は芽衣の手の中の紙を見た。
目に恐怖が浮かんだ。
さっきまでの空っぽな恐怖ではない。
本物の恐怖。
彼女自身のもの。
「家を出たんだ」
彼女は、今ようやく理解したように言った。
「また」
「うん」
陽菜が言った。
澪は姉を見た。
「私、あなたを襲った?」
陽菜はすぐには答えなかった。
澪は彼女の肩にある浅い傷を見た。
答えはそこにあった。
「陽菜……」
「大丈夫」
「違う」
「澪」
「私、大丈夫じゃない」
その言葉は低かった。
壊れていた。
そして家に戻ってきてから初めて、澪は完全にそこにいるように見えた。
それは、ほとんど余計につらかった。
今の彼女にはわかっていたからだ。
自分の中から何かが欠けていたことが。
何かに動かされていたことが。
自分が見ていないあいだに、何かが自分の身体を使っていたことが。
芽衣は紙を握りしめた。
「家に戻りましょう」
陽菜はうなずいた。
「うん」
澪を立たせるのを手伝った。
澪は震えていた。寒さのせいではなかった。少なくとも、それだけではなかった。
一歩踏み出す。
もう一歩。
離れる前に、澪は森の入口を見た。
木々の間の闇は、さっきまでと同じに見えた。
けれど今、澪はそれを恐怖で見ていた。
「あそこ」
彼女は呟いた。
陽菜は止まった。
「何?」
澪はわずかに指をさした。
はっきりした一点ではなかった。
奥のほうへ。
「たぶん、あそこに行った」
芽衣は陽菜を見た。
陽菜は森から目を離さなかった。
「どうして行ったのか覚えてる?」
澪はゆっくり首を横に振った。
それから迷った。
「ううん」
唇を噛む。
「でも、どう始まったかは覚えてる」
陽菜は彼女を見た。
澪の目は潤んでいた。
顔は青ざめていた。
身体はまだ弱っていた。
それでも、次に話した時、その声はもう空っぽではなかった。
怖がっていた。
そして、生きていた。
「話す。全部」




