第43章:扉の向こう
部屋には、夜明け前特有の静けさがあった。
音がない静けさではない。
何かが耳を澄ませているような静けさだった。
葵は、長いあいだ胸の奥にしまっていたものを話す声で喋っていた。
なぜ今夜、自分でも完全にはわからない理由で、それを出会って数時間しか経っていない相手に話してしまったのか。けれど、その相手は、なぜか必要な場所に、必要な時に来てくれた人だった。
優奈は聞いていた。
自分が話す番を待つ人間の聞き方ではなかった。
今いちばん役に立つことは、そこにいることだとわかっている人間の聞き方だった。必要のない言葉で、その場を埋めないために。
「加藤と蓮司は、そんなに遅くならないわ」
沈黙に何かが必要になった頃、優奈はそう言った。
「すぐ戻ってくる」
葵はうなずいた。
その動きが終わるより先に、扉が叩かれた。
優奈は顔を上げた。
強いノックではなかった。
それが最初に引っかかった。
必死な人間の音ではない。
急いで中に入りたい者の音でもない。
落ち着いていた。
間隔が整っていた。
ほとんど礼儀正しいほどだった。
三回。
少し間を置いて。
二回。
葵は廊下の方を見た。
「あの二人ですか?」
優奈はすぐには答えなかった。
立ち上がる。
「ベッドで休んでいて。私が開けるわ」
葵はもう一度うなずき、ベッドに体を預けた。
この一時間で、持っていたもの以上を使い果たしてしまった人間の疲れ方だった。
優奈は扉へ向かって廊下を歩いた。
まだ、葵が話してくれたことが頭から離れていなかった。
知ることのなかった母。
自分の存在を借金のように見ていた父。
生まれてきたことを謝り続けているような感覚の上に築かれた幼少期。
あなたのせいじゃない、と優奈は思った。
何ひとつ、あなたのせいじゃない。
その時だった。
感じた。
足が止まる。
思考ではなかった。
この仕事を長く続けていると、理屈より先に体が理解するものがある。
魔力。
扉の向こう側。
加藤ではない。
あの橙色の密度。下に戦闘モードが脈打っている感覚。長年、隣で働いてきた優奈にはよく知っているものだった。
蓮司でもない。
彼の魔力はまだ分類できるほど感じてはいなかったが、それでも違うとわかった。
別のもの。
閉ざされた扉の向こうにいてほしくない類のものだった。
優奈は魔力を起動した。
まず指先に、淡い蒼が灯る。
光を閉じ込めたガラスのように、かすかに。
しかし、準備を終える前に扉が吹き飛んだ。
開いたのではない。
壊れた。
枠ごと壁から引き剥がされた。
扉を障害物として認識していないものの力だった。そこにあるべきではないものを、ただ排除しただけだった。
入ってきた影は大きかった。
だが、完全な怪物ではなかった。
それが、何よりも悪かった。
まだ人の形を残していた。
二本の腕。
二本の脚。
広い胴体。
その上に貼りついた肌は、くすんだ肌色だった。ほとんど灰色に近い。まるで誰かが人間の姿を残そうとして、全体の構造だけを思い出したようだった。
顔も、一見すれば人間に見えた。
一見すれば、だ。
口はあまりにも動かなすぎた。
頬はあまりにも落ちくぼんでいた。
瞳のない目には、それでも認識できる意図があった。ぞっとするほどはっきりした、どこか見覚えのある執着。まるでその奥に、まだ大勢の中から特定の誰かを探せるだけのものが残っているようだった。
背は高く、重い。
だが、意味もなく歪んでいるわけではない。
死が内側から男を引き伸ばし、痛みのあった場所に力だけを詰め込んだような姿だった。
その目が、部屋の中を素早くなぞった。
何かを探している。
いや。
誰かを探している。
「葵」
それが言った。
声には、考える残滓特有のずれがあった。
言葉を覚えたのに、その言葉の中で生きたことがない者の声だった。
寝室へ続く廊下から足音がした。
「何の音……?」
葵が出てきていた。
優奈は残滓から目を離さなかった。
「部屋に戻って!」
葵は残滓を見た。
本来なら、見えるはずがなかった。
優奈はその瞬間に理解した。
あれは、わざと見せている。
優奈にではない。
葵に。
呼んでいる。
いや。
もっと悪い。
取り戻そうとしている。
葵の顔から血の気が引いた。
目の前にあるものを理解するまでの、ほんのわずかな時間で。
「なに……あれ……」
「中に戻って」
優奈は言った。
「私がなんとかする」
「怪物じゃないですか……どうやって、あんなものと……」
優奈は一秒だけ葵を見た。
恐怖に時間を使っている余裕はない。
それでも、この選択をする人間の笑みで。
「信じて」
葵は残滓を見た。
それから優奈を見た。
もう一度、残滓を見た。
そしてようやく後ろへ下がり、寝室の扉を閉めた。
残滓は、扉が閉まるまで葵を目で追った。
それから優奈を見る。
「お前が誰かは知らない」
残滓は言った。
「だが、出ていけ。葵は私のものだ」
「それは無理ね」
優奈が言った。
興味深い、と優奈は思った。
話す残滓についての報告書は読んだことがある。
加藤からも聞いたことがあった。もっと心配するべきことを、あの男はいつもの腹立つほど落ち着いた調子で話していた。
だが、報告書で読むのと。
目の前にいて、葵の名前を、まだ自分にそれを呼ぶ権利があるかのように発音するものを見るのとでは、まるで違っていた。
残滓はわずかに首を傾けた。
「ここで別の狩人に会うとは思わなかった」
残滓は言った。
「葵のことは調べていた。彼女を守っている狩人は、蓮司という名の男だと知っていた」
「残滓にしては、知りすぎているわね」
「大事なことだからだ」
残滓は言った。
「大事なことなら、覚える」
「話は終わり」
優奈の蒼い魔力が、部屋の明かりの下でガラスのように指先から灯った。
爆ぜるわけではない。
唸るわけでもない。
形を取る。
五本の矢が、彼女の前に現れた。
細く。
正確で。
縁だけが透き通って見える。
優奈の術式は、思い描いたものを何でも作れる能力ではない。
初めて彼女の戦いを見る者が、よく間違える点がそこだった。
蒼天鋳造には三つの条件が必要だった。
形。
支点。
目的。
矢は、ただの矢ではない。
攻撃にもなる。
印にもなる。
錨にもなる。
より大きな構築の始点にもなる。
優奈は敵を力で押し潰すのではない。
敵が持っていると思い込んでいる選択肢を、一つずつ削っていく。
矢が放たれた。
残滓はそれを避けた。
訓練された者の優雅さではない。
力が十分にあるため、優雅さなど二の次で済むものの、乱暴な速さだった。
二本は左右へ抜けた。
一本は上へ。
残りの二本は床と壁に刺さった。
だが、矢は攻撃ではなかった。
点だった。
矢が刺さった場所から鎖が伸びた。
固められた魔力が、別の形へ変わる。
より柔軟に。
より指向性を持って。
矢が刻んだ印を辿り、残滓の体にある支点を探す。
鎖は腕を捉えた。
胴を捉えた。
残滓が引いた。
鎖は耐えた。
「悪くない」
残滓が言った。
優奈は剣を具現化した。
蒼い魔力が、細く、澄んだ形を取る。
どんな金属よりも鋭い刃。
だが重さはなかった。
金属ではないからだ。
固められた意思だった。
優奈は距離を詰めた。
「この程度じゃ足りないと思っていたけど」
それは傲慢ではなかった。
最初から計算していて、その計算が合っていると確認した人間の、率直な評価だった。
残滓が口を開いた。
その瞬間、寝室から葵の悲鳴が上がった。
痕が反応した。
残滓も反応した。
優奈は振り向いた。
一秒。
たった一秒。
それで十分だった。
鎖がほどける。
残滓の体が膨張した。
ゆっくりではなかった。
押し込めていた力が、開いた隙間を見つけた瞬間、一気に使われたようだった。
大きくなる。
密度が増す。
重くなる。
灰色の肌が肩の上で張った。
腕がわずかに伸びた。
皮膚の下の黒い血管が、影で満たされた根のように灯った。
その力は、残滓自身の中だけから生まれたものではなかった。
葵の内側にある何かが、今それを養った。
「彼女に手を出すな」
優奈が言った。
「できない」
残滓が答えた。
優奈は寝室へ走った。
扉を勢いよく開ける。
葵はベッドの上で胸を押さえていた。
優奈が見た痕の、ちょうどその場所だった。
汚染された魔力が、皮膚の下で細い枝のように広がっている。
痕は光っていた。
生きているものの光ではない。
起動されたものの光だった。
外からの信号に応じる類の光。
葵は叫んでいた。
恐怖ではない。
痛みだった。
場所を特定できない痛み。
体のどこかから来るのではない。
体の中にあるが、体の一部ではないものから来る痛みだった。
「優奈……」
残りの空気を耐えるために使っている人間の声で、葵が言った。
「助けて……お願い……」
優奈は近づいた。
背後から衝撃が来た。
残滓が追ってきていた。
さっきより速い。
鎖がほどけた瞬間に増した大きさを持ち、抑えていたものを解放したもの特有の力を持っていた。
衝撃で、優奈の体が寝室の壁へ叩きつけられる。
発動していた魔力が、その一部を受け止めた。
残りは壁が受け止めた。
優奈は床に落ちたが、すぐに立ち上がった。
残滓は寝室の入口に立っていた。
体が大きすぎて、そこにいるだけで枠がきしんでいた。
「二人とも」
そう言った。
優奈は葵の前に立った。
片手を上げる。
障壁が現れた。
小さなものではない。
部屋の幅を覆う蒼い魔力の壁。
透明で、光を帯び、切り出したばかりのガラスのように輪郭が鋭い。
維持には集中が必要だった。
だが、維持されている限り、それは役目を果たす。
残滓が障壁を殴った。
障壁は耐えた。
もう一度、殴る。
耐えはした。
だが弱くなった。
「何なの、あの怪物……?」
優奈の背後で、葵が言った。
「何が起きてるの?」
「倒したら説明する」
優奈は、残滓の攻撃を受け止めながら言った。
「あなたも……」
葵の声に、何か違うものが混じっていた。
優奈は、振り向く前にそれに気づいた。
「あなたも力を持ってる。あれと同じなの? あれと同じなの?」
優奈は歯を食いしばった。
葵が蒼い魔力を見えているのなら、痕はもう彼女を削っているだけではない。
何かを開いている。
普通の人間には開いていてはいけないものを。
優奈は、その時理解した。
葵の悲鳴は、ただの痛みではなかった。
扉だった。
「違う」
優奈は言った。
「私は違う。あなたを助けるためにいる」
次の一撃で、障壁が崩れかけた。
完全には壊れなかった。
だが、次を受ければ完全に割れるとわかるほど、構造を失っていた。
時間がない。
優奈は左手を開いた。
部屋の中で使える四つの支点に、同時に蒼い魔力の線が走る。
天井。
床。
左右の壁。
次の瞬間、それらは形を取った。
鎖。
重くない。
太くもない。
正確な鎖。
すべてに同時に対応する時間を与えない順序で、残滓へ向かって走る。
腕を捉えた。
脚を捉えた。
胴を捉えた。
残滓は縫い止められた。
倒されたわけではない。
完全に止められたわけでもない。
だが、十分な時間だけは止められた。
「出て」
優奈は葵の腕を取った。
「どこへ……?」
「外。今すぐ」
二人は走った。
寝室から残滓の咆哮が響いた。
何かを支えていたものが、もう支えられなくなったときに出す音だった。
鎖が切れる。
重い足音が背後から迫った。
明け方の空気が、目的地を持たず、それでも目的地より急ぐべきものを持った二人の女を受け入れた。
優奈は走りながら周囲を見ていた。
建物。
道。
選択肢。
葵はどうにか走っていた。
片手で胸を押さえ、顔は青ざめ、呼吸は痛みに乱されている。
「蓮司は……知ってるんですか?」
走る苦しさと、胸の痕からまだ届く痛みの間で、葵が言った。
優奈はすぐには答えなかった。
答えがわからなかったからではない。
一番残酷ではない言い方が、わからなかったからだ。
「蓮司は狩人よ」
優奈は最後に言った。
「……だった、というべきかもしれないけど」
葵は少しつまずいたが、走り続けた。
「え……?」
「彼は、あれが何なのか知っている」
「どうして何も言ってくれなかったんですか?」
「あなたを心配させたくなかったから」
葵はすぐには答えなかった。
いくつもの意味を持つ言葉を聞いて、今はその最初の一枚しか受け止められない人間の沈黙だった。
「怪物は……」
しばらくして、葵が言った。
「あれは何なんですか?」
「残滓」
優奈は周囲を確認しながら言った。
「何かを残したまま死んで、向こう側へ渡れなかった人間。残ってしまうの。そして時間とともに、あなたが見たようなものになる」
葵は胸に手を当てた。
「じゃあ、この病気は……?」
「呪いよ」
優奈が言った。
「私が理解している限り、あれがかけた。あなたを弱らせているもの」
葵はそれを飲み込もうとした。
顔から恐怖は消えなかった。
形を変えただけだった。
「生き残るには……あれを殺すしかないんですか?」
「そうよ」
「強くなっているんですか?」
優奈は後ろを見た。
残滓の姿はまだ見えない。
だが、汚染された魔力は近くにあった。
重く。
空気を圧迫している。
「呪いがあなたを弱らせるほど」
優奈は言った。
「あれは、あなたが失った分を得ている」
葵は胸を見た。
布の下で痕が光っていた。
光っているはずのないものの光だった。
「怖いです」
葵が言った。
「わかってる」
優奈は言った。
「でも、私がなんとかする」
二人は走り続けた。
街の様子が変わり始める。
最初は細い道。
次に、間隔の空いた家々。
その次に、木々。
気づけば建物は後ろへ遠ざかり、道は暗い場所へ続いていた。
鹿児島の端を、森が少しずつ食べ始めているような場所だった。
理想的な場所ではない。
だが、閉ざされた部屋よりはいい。
少なくとも、空間がある。
少なくとも、魔力を変形させられる。
優奈は横目で葵を見た。
痕はまだ布の下で光っている。
残滓の魔力は、通常の存在のように街へ広がっていなかった。
葵に貼りついている。
葵の中にある。
呪いを、まだ生きている何かへ繋がる開いた扉として使っている。
遠くからなら、敵として感じられないかもしれない。
もしかしたら、何も感じられないかもしれない。
優奈は葵の腕を、慎重に握り直した。
なら、自分ひとりで耐えるしかない。
加藤と、あの蓮司の馬鹿はどこにいるのよ。
そう思った。
バーを出てから、すでに数分が経っていた。
蓮司は手ぶらで戻るのを嫌がった。
温かい飲み物も、熱さましのシートも、消化のいい食べ物も、呪いを壊すことはできない。加藤はそう言った。
それでも蓮司は店に入った。
「治りはしないぞ」
加藤はそう言った。
「でも、助けにはなる」
蓮司は答えた。
加藤は、それには反論しなかった。
今、蓮司は店の外の歩道に立っていた。
片手には袋。
顔には、自分が思っていたよりも長く待たされている人間の表情があった。
加藤が、少し小さめの袋を持って出てきた。
「一週間籠城するつもりみたいな買い方だな」
「必要なものを買った」
「スープを三種類買ってる」
「どれが好きかわからなかった」
加藤は蓮司を見た。
一秒、何も言わなかった。
それから、わずかに笑う。
「それは、ちゃんとした作戦だな」
蓮司は何か言い返そうとして、袋を見た。
「お茶も買った」
「なるほど」
「シートも」
「はいはい」
「あと雑誌」
加藤がまばたきした。
「雑誌?」
「眠れないとき、読むのが好きなんだ」
「蓮司」
「何だ」
「それ、車の雑誌だぞ」
蓮司は表紙を見た。
それから加藤を見た。
「あまり種類がなかった」
「車の雑誌だ」
「写真はある」
加藤は数秒、その目を見つめた。
それから自分の小さな袋を持ち上げた。
「俺は蜂蜜の飴を買った」
蓮司は彼を見た。
「葵のためか?」
「俺のためだ。今夜は必要になりそうな気がした」
蓮司は一瞬、目を閉じた。
「戻るぞ」
「いい考えだ」
加藤が言った。
「自転車まで買い始める前にな。あれも車輪はついてる」
森の中で、優奈は足を止めた。
止めたかったからではない。
何かが前に現れたからだった。
木々の間から声が届く。
「やっと見つけた」
さっきと同じ、ずれた声。
だが、さらに重かった。
さらに満ちていた。
大きくなった体が、その声にも何かを加えたようだった。
残滓は二十メートルほど先にいた。
木々の影の下では、その姿はさらに間違って見えた。
完全な獣ではない。
まだ、違う。
輪郭は大きな男のままだった。
青白くくすんだ肌には、人間だった頃の色が、古い記憶のように部分的に残っている。
首と腕では、黒い血管が表面へ向かって枝分かれし、葵の胸の痕と同じリズムで脈打っていた。
顔は、ほとんど残っていた。
それが一番悪かった。
割れた顎もない。
あり得ない数の歯もない。
角も、余分な目もない。
もっと不快なものがあった。
死に歪められる前、その人物を愛していた誰かなら、認識できてしまったかもしれない姿。
鼻の形。
口の線。
首を傾ける角度。
人間の特徴が、脳に続きを補わせ、そして補ったことを後悔させる程度にだけ歪んでいた。
瞳のない目は、葵に固定されていた。
単純な飢えではない。
所有だった。
背後には木々。
左右にも木々。
前には残滓。
優奈は立ち止まり、葵の前に体を入れるまでのわずかな時間で、使える空間を測った。
「葵を渡せ」
残滓が言った。
「そうすれば、お前は見逃す」
「無理ね」
優奈が言った。
残滓は少しの間、彼女を見た。
「なら」
そう言った。
「先にお前を殺す」
優奈は魔力を起動した。
何度も使われてきたものだけが持つ反応速度で、蒼が彼女の手に現れる。
葵は彼女の背後にいた。
森は静かだった。
聞こえるのは、二人の呼吸。
風に揺れる葉。
そして残滓の体からにじむ汚れた魔力が、病んだ圧力のように空気を押す音だけだった。
優奈はその場を動かなかった。
蒼い魔力が、光るガラスの壁のように彼女の前で開いた。
加藤はいない。
蓮司もいない。
鹿児島に来てから初めて、そのことは問題ではなかった。
残滓が葵に辿り着きたいのなら。
まず、空を越えなければならない。




