第44章:お前が奪った命
鹿児島の森には、独特の暗さがあった。
木々が高く、密集していて、街の光が完全には届かない場所の暗さ。
真っ暗ではない。
形は見える。
けれど、細部は見えない。
見えたと思った細部が、本当にそうなのか、それとも別の何かなのか、判断できない程度の暗さだった。
残滓は二十メートル先にいた。
アパートに現れた時よりも大きくなっている。
均等に大きくなったわけではなかった。
何かに押さえ込まれていたものが、その枠を失った時のような成長だった。体の比率は、もはや普通の肉体の理屈に従っていない。
人間の形は、まだ枠として残っていた。
けれど、その中身はもう、正しい形でそこを満たしていなかった。
葵は優奈の背後にいた。
息を荒くしていた。
走ったせいの呼吸ではない。
体の内側にある何かが、体の許可を得ずに使われている時の呼吸だった。
胸の痕が、服の下で光っている。
生きているものの光ではなかった。
優奈は魔力を広げた。
蒼が彼女の前に現れる。
壁のように。
不透明ではない。
半透明だった。
光を奇妙な形で通すガラスのようで、森の暗がりの中では、熱を持たずに照らすもの特有の質感があった。
残滓が進んだ。
壁に叩きつけられた一撃が、森を揺らした。
その存在があまりにも重すぎて、周囲の空間が無視できなくなる時の揺れだった。
葉が震えた。
優奈の足元の土が、わずかに沈む。
障壁は衝撃を受け止めた。
だが、完全には消しきれなかった。
障壁は耐えた。
残滓が次の一撃のために姿勢を立て直す、その一秒で優奈は理解した。
守るだけなら負ける。
蒼天鋳造が防御に向いていないからではない。
背後にいるものを餌にする相手に対して、防御だけで耐えることは戦略ではない。
ただの秒読みだった。
優奈は切り替えた。
矢が連続で放たれた。
狙いは残滓ではない。
木々。
石。
地面。
そして角度さえ計算できれば届く、森の高い枝。
葵が見ていた。
残滓も見ていた。
二人とも、優奈が何をしているのか、まだ理解していなかった。
蒼い矢はそれぞれの点に刺さった。
打撃としてではない。
印として。
森の中に光の点が散る。
地面から見れば、それはばらばらの星座のようだった。
だが優奈の角度から見れば、それらは必要な場所にある必要な点だった。
優奈は手を閉じた。
点が繋がる。
それぞれの矢から次の点へ。
次の点から、さらに次の点へ。
蒼い魔力の糸が木々の間を編んでいく。
管理された条件で作られたもののような規則性はなかった。
けれど、それより役に立つものがあった。
今ある空間に適応する、不規則さだった。
残滓が進もうとした。
一歩目で、糸を避けなければならなくなる。
二歩目で、糸を一本壊すことになる。
三歩目には、二本の糸が交差する角度へ誘導されていた。
片方を壊せば、もう片方の範囲に入る。
森が、私の場になり始めている。
優奈はそう思った。
残滓は戦い方を変えた。
力任せ。
真正面。
計算も何もなく、持っているものすべてを一つの動きに乗せて、優奈へ向かう。
途中で三本の糸を引きちぎった。
問題の角度にあった細い木を一本、根ごと引き抜いた。
そして、優奈が最後の瞬間に作り出した障壁を殴った。
障壁の右上が欠けた。
優奈は自分の足元に足場を作り、横へ跳ぶ。
落下の動きの中で空中に槍を作り、そのまま投げた。
槍は残滓の肩を捉えた。
残滓が二歩、後退する。
ほんの一瞬。
起きたことを理解するのに必要な、正確な時間だけ。
その傷は本物に見えた。
残るように見えた。
葵が叫んだ。
胸の痕がさらに強く光る。
優奈は見た。
残滓の肩の傷が閉じ始めていた。
ゆっくりではない。
十分な燃料を与えられたものが、素早く修復されていく速度だった。
その燃料は見えていた。
葵の痕から残滓へと伸びる、細い暗い光の糸。
目に見えるものと、見るべきものを知っている者にしか見えないものとの境目に存在するような、細い線だった。
優奈は理解した。
ただ破壊することはできない。
私が本当に傷を与えれば、そのたびに呪いは葵からさらに奪い、残滓を回復させる。
今までしていた戦いの形が、その瞬間に変わった。
状況が変わったからではない。
優奈が、状況の本質を理解したからだった。
これは、優奈対残滓ではない。
葵を殺さずに残滓と戦うことだった。
葵が膝をついた。
森の地面は湿っていて、彼女の服は夜明け前の外にいるにはまるで向いていなかった。
だが今、それは二人にとって最後に気にするべきことだった。
優奈は近づこうとした。
残滓が目の前に現れた。
移動ではなかった。
位置が変わった。
視線が直線的に追える速度を超えたものが見せる、あの類の現象だった。
優奈が、残滓がもう元の場所にいないと理解しきる前に、攻撃は届いていた。
蒼い盾が反射的に現れる。
判断ではない。
頭が命じるより先に体が動くほど積み上げられた訓練だった。
衝撃が優奈の体を数メートル後ろへ滑らせる。
森の根が、彼女を止めようとできる限りの抵抗をした。
倒れた。
立ち上がった。
残滓との間に、三枚の壁を連続で作る。
勝つためではない。
時間を作るためだった。
今この瞬間、彼女が作れるものの中で、時間が一番価値のあるものだった。
残滓は一枚目を壊した。
二枚目を壊した。
三枚目は、限界ぎりぎりの振動を残して耐えた。
加藤がここにいれば、力で時間を稼げる。
蓮司がここにいれば、回復する前に切れる。
二人はいない。
そして初めて、その思考は不満としてではなく、情報として届いた。
自分が使えるもの。
使えないもの。
今ある手札で、どんな戦いをしなければならないのか。
彼女は一人だった。
なら、一人でいることを知っている者として戦う。
先ほど刺した矢は、まだそれぞれの点に残っていた。
それらを繋ぐ糸も、まだ残っている。
残滓の動きでいくつかは切れていたが、大半は生きていた。
優奈はそれを見た。
次に、森全体を見る。
木々。
蒼い光の点。
それぞれの角度。
そして、作り始めた。
一つではない。
すべてを同時に。
矢の点と点を繋ぎ、必要な場所では糸を鎖へ変え、必要な場所では糸を固めた魔力の板へ変える。
網全体が、森の地面へ降ろされた星座のように編まれていった。
残滓はその構造の中に閉じ込められた。
完璧な檻ではない。
森は完璧ではないのだから、森の中で完璧なものなど作れない。
だが、それで十分だった。
残滓が動くたびに、何かが待っていた。
避けるべき糸。
壊すべき板。
使おうとした角度を、次の要素が先に塞ぐ。
葵は地面からそれを見ていた。
そしてその表情に、さっきまでなかったものが浮かんだ。
アパートに残滓が現れてからずっとあった恐怖ではない。
もっと別のもの。
最初の矢も、二本目の矢も、三本目の矢も、そのすべてが失敗した攻撃ではなかったのだと、ようやく理解した者の表情だった。
それは準備だった。
残滓は檻を壊そうとした。
蒼い糸は耐えた。
構造のすべての点に集中を張り巡らせる優奈の負荷と、他のことに使える魔力が削られていく代償を伴いながらも、耐えた。
だが残滓は檻を見ていなかった。
葵を見ていた。
そして、話した。
「葵」
葵は動けなくなった。
「聞かないで」
優奈は構造から意識を逸らさずに言った。
「自分がどうして生きているのか、考えたことはないか」
残滓が言った。
その声には、優奈がこれまで聞いた話す残滓とは違う何かがあった。
言語の中で生きたことがないもの特有の、ずれた抑揚だけではない。
その奥に、別のものがある。
葵を知っている声。
最近になって彼女を追い始めたものには、持てないはずの知り方だった。
残滓は蒼い糸に手を近づけた。
触れた部分の皮膚が焼ける。
はっきりと見えた。
本当の傷を受けた時の音もした。
それでも手を引かなかった。
「お前の母は、生きるはずだった」
葵は答えなかった。
優奈も答えなかった。
今聞いた言葉を処理していた。
そして、処理したくないほど重い言葉だったからこそ、雑音として切り捨てられなかった。
「聞かないで」
優奈は、より強く言った。
残滓は続けた。
「お前は、あの人の代わりに生まれた」
葵の痕が脈打った。
蒼い檻が震える。
「お前は、あの人の空気を吸った」
残滓が言った。
「お前は、あの人から奪った命で育った」
葵が震え始めた。
優奈は見た。
寒さによる震えではない。
もっと内側から来る震え。
残滓が作ったのではなく、見つけた古傷の奥から来る震えだった。
優奈は葵と残滓の間に蒼い壁を作った。
攻撃を止めるためではない。
視線を切るため。
葵が、あの目から一秒でも離れられるように。
だが声は、壁を通り抜けた。
「あなたは……誰……?」
葵が言った。
残滓はすぐには答えなかった。
言葉が届く前に痛ませようとする文章だけが持つ、あの種類の間だった。
「妻を埋めた男だ」
残滓は言った。
「そして、妻の死の原因を育てなければならなかった男だ」
葵は一秒、息を止めた。
その一秒は、やけに長く感じられた。
「私は、お前の父だ」
蒼い檻が震えた。
優奈は葵を見た。
葵は動けなかった。
体が反応しなかったからではない。
体より深い場所に何かを受け取ってしまい、それを処理することに意識のすべてを使ってしまっていたからだった。
残滓は続けた。
「その痕は病ではない」
残滓は言った。
「返却だ。毎晩、お前が持つべきではなかったものを、お前から取り戻している。終われば、あの人は目を覚ます」
一拍。
「お前を殺しているのではない、葵。交換を正しているだけだ」
優奈は怒った。
目を閉じて、考えなしに動く怒りではなかった。
むしろ逆だった。
視界が澄む。
すべてを、以前よりも正確な場所へ置く怒りだった。
檻は壊さなかった。
攻撃もしなかった。
葵を見た。
「葵」
優奈は言った。
「私を見て」
葵は見られなかった。
残滓がまた言った。
「お前は生まれたのではない」
残滓は言った。
「あの人と入れ替わったんだ」
「葵」
優奈が言った。
今度は、葵が彼女を見た。
「娘は、生まれたことで母親を殺したりしない」
残滓が檻を殴った。
構造が震える。
だが耐えた。
「生まれることは、命を盗むことじゃない」
優奈は言った。
「その痕は借金じゃない。呪いよ。そこには違いがある」
残滓がもう一度、檻を殴った。
「あなたにしたことは」
優奈は葵から目を逸らさずに言った。
「あなたへ借金を背負わせたことじゃない。借金があると思い込ませたことよ。あなたは何年も、最初から存在しなかったものを払い続けてきた」
葵は泣き始めた。
残滓は怒った。
何かを支えていたものが動き始めた時、そのことに気づいた存在だけが見せる怒りだった。
暴力的というより、足場が変わっていくことを理解したものの焦りだった。
葵の痕が明滅した。
残滓のリズムではなかった。
別のもの。
もっと不規則なもの。
ずっと一つの周波数に従っていた信号が、初めて干渉を見つけたような明滅だった。
優奈は気づいた。
繋がりは、魔力だけで支えられているわけではない。
罪悪感で支えられている。
葵が、自分は死ぬべきだと信じれば、痕は進む。
葵が抵抗すれば、繋がりは弱まる。
葵は震えながら、限界に立っていて、それでもまだ向こう側へ渡っていない者の声で言った。
「私は……殺してない」
森が静止した。
完全にではない。
風は吹いていた。
葉は揺れていた。
蒼い魔力は木々の間で光っていた。
それでも残滓は、計算していなかったものを受け取った時のように止まった。
蒼い檻が、さらに強く光った。
優奈はその一瞬を逃さなかった。
槍を具現化する。
これまでより細い。
幅はなく、長さだけがある。
狙いは残滓の体ではない。
残滓と葵の間の空間だった。
その空間で、蒼い魔力が普通の目には見えないものに輪郭を与えた時、優奈は見た。
自分が探していることさえ知らずに探していたものを。
一本の線。
暗く。
ほとんど見えず。
優奈が作ったどの糸よりも細い。
葵の胸から。
痕の、まさにその場所から伸び。
残滓へと繋がっている。
長いあいだ、その道を通り続けてきたものの確かさで。
あれが本当の敵だ。
肉ではない。
縄だ。
残滓は、優奈がそれを見たことを見た。
そして檻を破った。
蒼天の星座が砕ける。
劇的な爆発ではなかった。
構造物が一番弱い点から外側へ向かって崩れていく、あの特有の順序だった。
糸が失われる。
板が砕ける。
蒼い光が木々の間に散り、少し遅れて消えていく。
優奈が完全に位置を取り直す前に、衝撃が届いた。
膝をつく。
湿った森の地面。
土に触れる手。
魔力はまだ起動している。
だが、この数分間支え続けたすべての代償が、体が無視しきれない重さになっていた。
それでも、優奈は頭を下げなかった。
残滓が進む。
最初よりも歪んでいた。
人間の形はまだ枠として残っている。
だが、その中身は、どんどん間違った形でそこを満たしていた。
大きく開きすぎた口。
首から顔へ伸びる黒い血管。
だが目だけは。
瞳のない、虹彩のない白い目だけは。
最初から変わらない注意で、葵だけを見ていた。
「お前が何を言おうと関係ない」
残滓が言った。
「あの人は戻る」
優奈は立ち上がった。
右手が震えていた。
恐怖ではない。
魔力を限界まで使い、体がまだ文句を言い終えていないのに、もう文句を言い始めている時の震えだった。
蒼が、再び指の間に灯る。
もう、どう倒すかは考えていなかった。
縄のことを考えていた。
葵の胸と残滓の間にある空間のことを。
肉でも魔力でもないもの。
何年ものあいだ、罪悪感として彼女の中に置かれ続けたものが、固まって形を持ったようなもの。
それを切るために必要なものを考えていた。
優奈は手を上げた。
蒼い魔力が、指先で震える。
もう剣はいらない。
障壁もいらない。
必要なのは、縄を見つけること。
そして葵が向こう側へ消えてしまう前に。
それを切ることだった。




