第42章:生まれたことの罪
夜の鹿児島には、南の街特有の静けさがあった。
死んだ場所の沈黙ではない。
本当に休んでいる場所の静けさだった。こんな時間には通りの人影も少なく、夜明け前だというのに、空気は東京よりもずっと暖かかった。
加藤は両手をポケットに入れて歩いていた。
蓮司は、加藤以外のすべてを見ていた。
建物。
路地。
小さな民宿。
閉ざされた家。
明かりの消えた窓。
葵に何が起きているのかを説明できる魔力の痕跡が、どこかに残っていないか。彼は、ありとあらゆる場所に目を走らせていた。
だが、はっきりしたものは何もなかった。
いや、それより悪い。
少なすぎた。
「ホテルのやつじゃなかったな」
加藤が言った。
蓮司はすぐには答えなかった。
「……ああ」
「だが、追っていた」
「被害者は眠っている間に消えていた」
蓮司が言った。
「葵も、眠っている間に悪化し始めた。俺にあった中で、一番それに近い手がかりだった」
加藤は道の向こうにある古い民宿を見た。空室と書かれた看板が弱々しく点滅していた。まるで電気まで疲れているようだった。
「つまり、葵に呪いをかけた残滓がどんな姿なのか、お前は知らない」
「知らない」
「体があるのかも」
「知らない」
「近くにいるのかも」
蓮司は奥歯を噛んだ。
「知らない」
加藤は少し黙った。
「だから全部探しているのか」
蓮司は歩き続けた。
「どこにいるかわからないなら、全部探すしかない」
加藤は横目で見た。
「それは作戦じゃない」
「俺にあるのはそれだけだ」
それから、二人は何時間も歩き続けた。
最初に調べたのは、細い通りの近くにある廃業した民宿だった。二日前の夜、蓮司がそこで妙な残留物を感じた場所だった。
中は湿気と古い木材の匂いがした。何か月も開かれていない部屋の匂いも混じっていた。
加藤は廊下をゆっくり歩き、壁に触れ、天井を見上げ、それから首を横に振った。
「何もない」
蓮司はすぐには受け入れなかった。
部屋を一つずつ確認し、空の押し入れを開け、埃をかぶった布団をめくり、同じ固い顔で廊下へ戻ってきた。
次に向かったのは、二十四時間営業のコインランドリーの裏にある路地だった。
点いたままの洗濯機から漏れる白い光が、窓越しに暗闇を冷たい四角形に切っていた。蓮司は、先週この近くで一人の女が意識を失ったと言った。
加藤は地面の湿った染みのそばにしゃがみ、指を近づけ、触れずに少しだけ眉を寄せた。
「何かあるか?」
蓮司が訊いた。
「安い洗剤だな」
蓮司は加藤を見た。
「魔力の話をしてる」
「俺も、もっと劇的なものを期待してた」
二人はまた歩いた。
住宅街の一本の通りで、蓮司が急に足を止めた。
「あそこだ」
加藤は顔を上げた。
狭い通路の奥、二つのゴミ袋の間で何かが動いた。壊れかけた街灯の光の下で、小さく丸まった影の中に、二つの目が光っていた。
蓮司の手はもう剣に伸びていた。
加藤は動かなかった。
「蓮司」
「感じた」
「俺もだ」
影がゆっくり出てきた。
猫だった。
黒く、痩せていて、片耳が折れていた。あまり見つめられすぎた猫だけが持つ、あの気高くも不機嫌な顔をしていた。
猫はその場で立ち止まり、二人の狩人を見た。一度だけ鳴き、それから、これ以上注目を与える価値はないと判断したかのように歩き去った。
加藤はその背中を見送った。
「危険だったな」
蓮司は一秒だけ目を閉じた。
「何も言うな」
「何も言ってない」
「思っただろ」
「いろいろ思った」
蓮司は歩き出した。
加藤は、形になりきらない薄い笑みを浮かべながら、その隣を歩いた。
その後も、小さな神社、閉まった診療所の裏手、そして蓮司が葵の痕に似た汚染された魔力を感じたと言い張るラブホテルの駐車場まで調べた。
どの場所にも痕跡はあった。
だが、足りなかった。
古い反響。
歪んだ残留物。
そこを通っただけの下級残滓の魔力。
あるいは、かつてそこで誰かが恐怖を感じ、その圧だけが空気に薄く残ったもの。
核を示すものはない。
体へ繋がるものもない。
殺せるものもない。
加藤はすぐに問題を理解した。
蓮司は冷静に探していなかった。
残留魔力を見つけるたびに、先へ出た。
何もないたびに、顎に力が入った。
それは決意ではなかった。
必要な結果が得られないまま、同じことを長く続けすぎた人間の中に溜まる緊張だった。
「このままじゃ見つからない」
加藤が言った。
「なら、見つかるまで探す」
蓮司が言った。
「それは決意じゃない、蓮司」
加藤は言った。
「剣を持った疲労だ」
蓮司は加藤を見た。
「葵には、俺が休む時間なんてない」
加藤はその視線を受け止めた。
「猫を残滓と間違え始めたら、葵は救えない」
蓮司は何も答えなかった。
だが、直前までと同じ勢いで歩き続けることもしなかった。
それは屈したわけではなかった。
言われたことが正しいと体が先に理解してしまい、頭がまだそれを受け入れ終えていないときに起こる、あの不本意な停止だった。
「バーに行くぞ」
加藤が言った。
「飲みながら、見つけたものを整理する。それから戻る」
「嫌だ」
「蓮司」
「嫌だ」
加藤は、以前にもこの会話をしたことがあり、その終わり方まで知っている人間の忍耐で彼を見た。
「相変わらずだな」
「そっちもな」
「じゃあ、俺が受け入れるまでしつこく言い続けるのも知ってるだろ」
蓮司はゆっくり息を吐いた。
「一杯だけだ」
「一杯目で性格が良くなったら二杯目もだな」
「調子に乗るな」
蓮司の部屋には、深夜特有の静けさがあった。
普段そこに温度を与えている人間が眠っていて、他のすべてがその不在に合わせているような静けさだった。
優奈はベッドの近くの椅子に座っていた。手にはスマートフォン。画面には時刻が表示されている。
加藤と蓮司は、思っていたより戻りが遅かった。加藤が一緒だからといって、それが必ずしも何か悪いことの合図とは限らない。けれど、すべてが予定通り進んでいる証拠でもなかった。
葵が身じろぎした。
優奈はスマートフォンをしまい、近づいた。
葵は目を開けた。
自分がどうやってそこに来たのか、完全には思い出せていない人間の混乱が、その目にあった。
「何が……?」
「お茶を淹れている途中で倒れたの」
優奈が言った。
「蓮司がベッドまで運んだ。彼と加藤は、あなたを助けられるものを探しに行ってる。私は、そばにいるよう頼まれた」
葵はそれを理解しようとした。
そして視線を落とした。
その顔には、もう知っている感覚なのに、まだ慣れることができない人間の表情があった。
「ごめんなさい」
葵が言った。
「また迷惑をかけてる」
「あなたのせいじゃない」
優奈が言った。
葵は笑おうとした。
「蓮司も同じことを言います」
「じゃあ、今回は彼に賛成するわ」
葵は笑った。
今度の笑みは、先ほどよりも本物だった。小さく、思ってもいないところから届いたものに反応して出る笑みだった。
バーは、看板に名前がないか、あったとしても誰もその名前を使わないような店だった。近所の人間は、それがどの店なのか知っている。
暖かい照明。
少ないテーブル。
奥には音量を絞ったテレビがついていたが、誰も本気で見てはいなかった。
店主は質問をしない種類の人間だった。質問が助けになることは滅多にないと理解するだけのものを、もう見てきた顔をしていた。
加藤はビールを二本頼んだ。
蓮司は、飲みに来たわけじゃないと言った。
加藤は答えた。
「完璧だ。じゃあ瓶を持って、普通の人間のふりをしてろ」
蓮司は笑わなかった。
加藤は笑った。
短く、大げさではない。今がその時ではないとわかっていても、少し面白かったときに出る笑いだった。
完全に気まずいわけでも、完全に居心地がいいわけでもない時間がしばらく流れたあと、加藤が訊いた。
「この数年、何をしてた?」
蓮司は瓶を見た。
加藤は急かさなかった。少し飲み、待った。
「迷ってた」
蓮司は最後に言った。その言葉を選んだのは、それが一番正直で、同時に一番言いやすい言葉ではなかったからだった。
「支部もない。師匠もいない。帰る場所もない。生き延びた。小さな仕事をして、街を移って、残滓を見つけたら殺した」
「狩人としてか?」
加藤が訊いた。
「違う」
蓮司が言った。
「殺し方を知っている人間としてだ」
加藤はその違いに気づいた。
だが、指摘はしなかった。
ただ、記憶に置いた。
「組織の一部ではいたくなかった」
蓮司は続けた。
「でも、残滓が存在しないふりもできなかった。結局、その中間にいた。支部の外にいるのに、その世界を完全には捨てられなかった」
加藤はうなずいた。
「それで、どうして鹿児島に?」
「写真の仕事を見つけた」
蓮司が言った。
加藤は彼を見た。
「写真?」
「そうだ」
「それは予想外だな」
「だから言わなかった」
地元の雑誌だった、と蓮司は説明した。
小さなイベント、店、風景、大して手間のいらない記事用の写真。重要な仕事ではなかった。ただ、家賃と食費を払えて、自分が誰なのか、どこから来たのかをあまり説明しなくて済む仕事だった。
「そこで葵に会った」
加藤は黙って聞いた。
蓮司は、最初は距離を置いていたと話した。自分の生活はまだ残滓と繋がっていた。残滓の存在を知らない人間と、それを簡単に共有できるわけがない。
だが、葵は遠ざけにくかった。
強く押してきたからではない。
蓮司を、ただ普通の人間のように扱ったからだった。
「それが大事だったのか?」
加藤が訊いた。
蓮司は瓶を見た。
「葵は、俺が何者かを訊かなかった」
蓮司は言った。
「飯を食べたかって訊いた」
加藤は黙った。
それがどういう意味なのか、わかったからだ。
概念としてではない。
状況は違っても、自分もどこかで知っているものとして。
「葵が体調を崩したとき」
蓮司は続けた。
「最初は普通の病気だと思った。病院。検査。疲労。けど、そのうち痕が見え始めた。汚染された魔力。残留物」
「それを彼女に言わなかったのか?」
加藤が訊いた。
「怖がっていた」
「人は危険な場所にいて、理由を誰も説明してくれないと、もっと怖がるものだ」
蓮司の体が強張った。
加藤はそれを残酷に言ったわけではなかった。
ただ、言わなければ消えない真実がそこにあると知っている人間の率直さで言った。
「助かったら話す」
蓮司は言った。
「人は真実を知るべきだ。だが、その真実が、俺が救う前に彼女を壊してしまうかもしれないなら、今じゃない」
加藤は蓮司を見た。
「待つ理由は、いつだって立派に見える」
「始めるな」
「俺が始めたんじゃない」
加藤が言った。
「その言葉はお前のものだ」
蓮司は答えなかった。
バーはバーのままだった。
暖かい照明。
小さな音のテレビ。
質問をしない店主。
二人の男の間にある沈黙の中には、どちらも指摘しないものがあった。指摘すれば、二人ともすでにわかっていることに名前をつけなければならなくなるからだ。
蓮司は、自分が憎んでいる理屈の中に囚われている。
中身のない偽善者だからではない。
真実が、愛している人間に触れた瞬間、それを手放すことは簡単ではなくなるからだ。
「医者は他に何か言っていた?」
優奈は、どの方向へ開いてしまうかわからない質問をする人間の慎重さで訊いた。
葵は自分の手を見た。
「はっきりしたことは何も」
葵は言った。
「ストレスとか、疲労とか、精神的な問題とか」
「精神的な問題?」
葵は笑った。
小さく、そこに本当の明るさはなかった。
「わからないときって、少しだけ空っぽに聞こえない名前をつけるんです」
優奈は何も言わなかった。
葵は手を見つめ続けた。
「でも、完全に間違っているわけじゃないのかもしれません」
葵は言った。
「私の人生は、普通とは少し違っていたから」
一度、言葉を止めた。
「母は、私が生まれたときに死にました」
そう言う声は、何度も口にしてきた言葉のものだった。最初の鋭さはもう失っている。けれど、完全に平坦になることもない。
「出産のときに問題があったんです。私は生き残った。母は、そうじゃなかった」
優奈は聞いていた。
「父は、私を許せませんでした」
葵は言った。
その声には、ひとつの理解にたどり着いた人間の静けさがあった。
和解ではない。
完全な受容でもない。
理解だった。
なぜそうなったのかを知ることと、それでよかったと思えることは違う。
「子どもの頃、どうして父が私を見るたび、私が何か悪いことをしたみたいな目をするのかわかりませんでした」
葵は続けた。
「話すこともできない頃から。何かをすることなんて、まだできなかった頃から。大きくなって、わかりました。父にとって、私は娘じゃなかった」
少し間を置いた。
「妻がいなくなった理由だったんです」
優奈には、十分な言葉が見つからなかった。
「何か悪いことをした覚えはありません」
葵の声は震え始めていた。長いあいだしまっておいたものが、出したくなくても出てしまうときの震えだった。
「でも、私はずっと、自分が存在していることを謝りながら生きているような気がしていました」
優奈はベッドへ近づいた。
葵はこらえようとした。
泣くことは誰かの負担になると覚えてしまった人間が、それでも負担になりたくないとこらえるときの、あのこらえ方だった。
だが、こらえきれなかった。
優奈は何も言わずに、まず葵を抱きしめた。
抱きしめることより先に届き、それより価値のある言葉など、そこにはなかったからだ。
葵は泣いた。
抱きしめている間に、優奈は痕に気づいた。
はっきり見えるものではなかった。
パジャマの下、鎖骨の近くにある。何を探せばいいのかわからない人間なら見逃すものだった。
だが、優奈は何を探せばいいのか知っていた。
灰色の痕。
生きている人間の魔力ではない、汚染された魔力の質感を持つもの。
それは皮膚の下に、細い枝のように伸びていた。長い時間をかけて、ゆっくり育ってきた何かの根のように。
葵には見えていない。
優奈には見えていた。
「父は、少し前に死にました」
葵は、少しずつ落ち着いていく涙の間で言った。
「その少し後から、夢を見るようになったんです。疲れ。熱。失神も」
優奈はそれを聞いた。
父の死。
呪い。
夢。
眠りたくない。
もう一度、痕を見た。
痕が脈打った。
生きているものの鼓動ではなかった。
外から送られてきた信号に反応したような、そういう動きだった。何かが外側から呼びかけ、その痕がそれを受け取ったかのように。
葵は気づかなかった。
優奈は歯を食いしばった。
「あなたのせいじゃない」
優奈が言った。
葵は答えなかった。
「何ひとつ、あなたのせいじゃない」
優奈は、より強く繰り返した。
それは、すぐには受け入れられないことを無理に納得させるためではなかった。
真実だったからだ。
そして真実は、完全に届くまで、何度でも口にする必要があることがある。
バーで、蓮司は空になった瓶をしばらく見ていた。
「戻るべきだ」
蓮司が言った。
加藤はうなずいた。
「戻る前に」
加藤が言った。
「今夜、本当に何も見つからなかったと思うか?」
蓮司は加藤を見た。
「残滓は見つからなかった」
「それは俺の質問じゃない」
蓮司は黙った。
加藤は瓶をテーブルに置いた。
「見つかったのは、お前が葵に起きていることと少しでも似ているものを、片っ端から追っているってことだ」
蓮司は加藤を見た。
「それがどうした」
「お前は残滓を追っているんじゃない」
加藤が言った。
「自分の恐怖を追っている」
蓮司は奥歯を噛んだ。
「気をつけろ」
「いつもな」
「そうは見えない」
加藤はそれを流した。
「ホテルのやつは人を眠らせていた。だから追った。ランドリーの女は倒れた。だからあそこを調べた。駐車場の近くで妙な痕を感じたから、確認する前に走った。猫の件は言わないでおく。俺は優しい人間だからな」
蓮司は黙って加藤を見た。
「今、言っただろ」
「言わないと宣言するために言った」
「それは通らない」
「完璧だとは言ってない」
蓮司は視線をそらした。
加藤の顔が少しだけ真面目になる。
「探すことが間違っているとは言っていない。ただ、葵を呪った残滓が外に明確な痕を残していないなら、問題は外にないのかもしれない」
蓮司は再び加藤を見た。
「どういう意味だ」
加藤はすぐには答えなかった。
確信がないうちは、まだ言いたくなかった。
「まず戻ろう」
加藤が言った。
蓮司はしばらく加藤を見つめた。
それから、追及せずに立ち上がった。
加藤のことを十分に知っていたからだ。彼が何かを言わないとき、それは言う前に組み立てるべきものをまだ組み立てているからで、準備ができる前に迫っても、余計に遅くなるだけだと知っていた。
蓮司の部屋の外。
通りの向こう側に、何かが立っていた。
完全に動かないわけではない。
呼吸ではない呼吸をしているものの静けさ。
見ることではない見方で観察しているものの静けさ。
完全には点かない街灯の下、その影は、あまり直接見つめなければ人間に見えた。
ノックはしなかった。
入ってもこなかった。
まだ、その必要はなかった。
人間に見えるほどの顔は持っていなかった。
だが、彼女を憎むだけの記憶は持っていた。
葵の胸で、痕がもう一度脈打った。
まるで外にいる誰かが、彼女に生まれたことの罪を思い出させたかのように。




