第41章:かつての教え子
受付係だった残滓は、屋上へ続く扉の入口に立ったままだった。
いや、その名残と言うべきものが。
その姿は、もはや七十歳の男のものでも、どんな年齢の男のものでもなかった。そこにあるのは、加藤と優奈がもう何度も見てきた種類のものだった。それでも、慣れたからといって見やすくなるものではなかった。
「宿泊客は……眠らなければ……なりません……」
声は老人のものだった。
だが、人間の声の使い方を完全には知らない何かに処理されていた。意識のない残滓が、何度も触れてきた言葉を再現しようとするときにまとわりつく、あの歪んだ響きがあった。
優奈は魔力を起こした。
「どうしてあなたは魔力を出さないの?」
加藤に言った。
加藤は両手をポケットに入れたまま、その残滓を見ていた。
「落ち着け」
「近づいてきてる」
「わかってる」
「加藤――」
「よく見ろ」
加藤が言った。
優奈には、何をよく見ればいいのかわからなかった。残滓はゆっくりと進んでくる。急ぐという概念そのものを持たないものの遅さだった。腕はありえない角度に曲がり、白く濁った瞳には、屋上まで届く街のわずかな光が映っていた。
「宿泊客は……眠らなければ……なりません……」
優奈はもう待てなかった。
魔力を完全に起こし、構えた。
そのとき、上から剣が落ちた。
劇的にではなかった。
正確だった。まるで誰かが動く前から角度を計算していたかのように。
剣は残滓を上から下へ貫き、一切の誤差を残さない切れ味で、その体を二つに裂いた。
残滓は音もなく崩れた。
言葉は途中で途切れた。
優奈は腕を下ろし、剣が来た方向を見た。
屋上の縁に、一人の男が立っていた。
走って降りてきたわけでも、音を立てて現れたわけでもなかった。ただ、そこにいた。もっと高い場所から来て、その場所を止まる位置として選んだ人間の立ち方だった。
年は二十代半ばほど。
冷たい目。
目立たない服。目立たないように選ばれているからこそ目立たない、そういう服だった。
片手には剣を持っていた。見せるために持つものではなく、使うために持つものだった。
加藤はその男を見た。
「久しぶりだな、蓮司」
優奈は加藤を見た。
「私の知らない狩人?」
「青山蓮司」
加藤が言った。
「俺の元教え子だ」
蓮司は挨拶に挨拶で返さなかった。いくつもの問いを抱え、その中で最初に訊くべきものを選んだ人間の顔で、加藤を見た。
「どうやって俺を見つけた」
「噂を追っていた」
加藤は言った。
「残滓を狩る残滓の噂だ。ホテルのやつが現れたとき、知っている魔力を感じた」
そこで一度、言葉を切った。
「お前だとわかった」
蓮司は驚いてはいなかった。
ただ、不機嫌そうではあった。
「相変わらず面倒な人だ」
「よく言われる」
加藤が言った。
優奈は二人の男を見比べた。いくつものことを同時に処理している顔だった。
「どうして私は彼の話を聞いたことがないの?」
加藤に訊いた。
加藤は蓮司を見た。
「何年か前、香奈に頼まれて、こいつを鍛えたんだ」
加藤は言った。
「いつか良い教師になれるように、俺が知っていることをできるだけ教えろってな」
そこで、少し間を置いた。
「蓮司は狩人を辞めた」
「辞めたんじゃない」
蓮司が言った。
「信じているふりをやめただけだ」
優奈は蓮司を見た。
「どうして?」
蓮司は優奈を見た。どこまで話すべきか、誰に話すべきかを短く見極める目だった。
「狩人は残滓を独占した」
蓮司は言った。その声は、演説をするものではなかった。ただ、思ったことを思った順に言っているだけだった。
「誰が真実を知るかを決める。何を隠すかを決める。被害者の家族に伝える説明を変える。本当の死因を消す」
一度、間を置いた。
「それで、守っていると言う」
優奈はすぐには答えなかった。
蓮司は続けた。
「狩人は真実を守っているんじゃない。管理しているだけだ」
優奈は蓮司を見た。
「残滓の存在を公表したら、社会に恐怖が広がるわ」
優奈が言った。
「迫害も起きる。準備もない人間が残滓を狩ろうとする。狩人そのものが終わるかもしれない」
「恐怖は無知より悪くない」
蓮司が言った。
「怖ければ、少なくとも逃げられる」
優奈はまた黙った。
「あなたたちは決めたんだ」
蓮司は続けた。
「普通の人間には、自分たちを殺しているものの正体を知る権利がないと」
「組織は守るために――」
「それに、自分たちの狩人にすら全部は教えない」
優奈の体が強張った。
蓮司は一瞬、加藤を見た。
「“裏切り者”の話も、本当じゃなかったんだろ?」
加藤は視線をそらした。
その仕草だけで十分だった。
「知ってる」
優奈が言った。
蓮司は動きを止めた。
予想していた答えではなかった。
「この人から聞いたのか?」
優奈は加藤を見た。
「ええ」
蓮司は笑った。
笑みではあったが、そこに愉快さはなかった。自分の中にあった地図が、ほんの少し書き換わる情報を得た者の表情に近かった。
「ずいぶん気前がいいな」
蓮司は言った。
「何年も遅いけど」
加藤は答えなかった。
優奈は抑えきれずに訊いた。
「本当に、世界が残滓のことを知る準備ができていると思うの?」
「世界はいつまで経っても準備なんてできない」
蓮司が言った。
「狩人が全員の代わりに決め続ける限りな」
「じゃあ、あなたは何をするつもりなの?」
優奈が言った。
「もう十分話した」
蓮司が言った。
加藤が会話を切った。
「その話はあとでいい」
優奈は加藤を見た。
「あとで?」
加藤は蓮司を見た。
「頼みたいことがある」
「断る」
蓮司が言った。
「まだ何か言ってないだろ」
「言わなくていい」
加藤は少し真面目な顔になった。
「なら、狩人からの頼みとして聞くな」
蓮司は加藤を見た。
「昔の師匠からの助けてくれって頼みとして聞け」
屋上がしばらく静かになった。
蓮司はすぐには答えなかった。
けれど、去りもしなかった。
「聞くだけ聞く」
蓮司が最後に言った。
「ただし、ただじゃない」
加藤はうなずいた。
優奈は加藤のそばに寄り、小声で言った。相手に聞こえないようにしているつもりだが、おそらく聞こえている。そのくらいの声だった。
「本気? あの人、正気じゃないみたいだけど」
加藤も同じ声量で答えた。
「正気じゃないんじゃない。傷ついてるんだ。似て見えることはある」
蓮司は二人を無言で見た。
「守らなきゃいけない人がいる」
蓮司が言った。
「水野葵。残滓に呪われている」
その言葉を口にするとき、蓮司は少し間を置いた。あまり何度も言ったことがなく、言うたびに同じだけ重くなる言葉だった。
「呪いは日に日に彼女を弱らせている。最初はただの疲労だった。それから熱。失神。今は、長く立っていることすら難しい」
「それに、葵からあまり離れられない」
蓮司は続けた。
「長い時間一人にすると、呪いが進む」
また一秒だけ、沈黙した。
「助けが必要だ」
助けを求めることが、この世にある中でも特に難しいことの一つで、それでも他に方法がないから口にしている。そんな声だった。
「引き受ける」
加藤が言った。
優奈もうなずいた。
蓮司は二人をしばらく見た。
「……ありがとう」
言うのに、苦労していた。
それはわかった。
「どうして私たちがここにいるってわかったの?」
優奈が訊いた。
「数日前から、あの残滓の形を追っていた」
蓮司が言った。
「偽のホテルに二人の狩人の気配を感じた。だから見に来た」
優奈はそれを理解した。
「じゃあ……私たち、眠っている間に食べられるところだったの?」
「たぶんな」
蓮司が言った。
「で、ホテルの残滓は?」
優奈が訊いた。
「あれは、葵に呪いをかけた残滓が使う形の一つだ」
蓮司が言った。
「街の中に偽の空間を作る。ホテル、民宿、休むための場所。人はそこに入って、眠って、消える」
そこで一度、言葉を切った。
「その形を壊すと、場所そのものは崩れる。けど、本体の核は出てこない。だから見つけられない」
加藤はうなずいた。
「だから見つけられなかったのか」
加藤は建物を見た。
「なかなか攻撃的なサービスだな」
建物が軋んだ。
それはゆっくりしたものではなかった。何かを告げるための軋みであり、そして実際にその告げた通りになる種類の音だった。壁にひびが入り始める。その割れ方は、普通の老朽化とは違っていた。内部の明かりが点滅する。建物全体の形から、何かが失われていく。形そのものではない。その形が本物であるという確信が、削られていくようだった。何かをある見方で見た瞬間、それまで見えていたものが見えなくなるときのように。
「形の一つが壊れると」
蓮司が言った。
「偽の空間は崩れる」
加藤は一秒、固まった。
「俺の車!」
優奈は加藤を見た。
「保険は?」
加藤は優奈を見た。
「保険?」
優奈は彼の背中を軽く叩いた。
「残念ね」
ホテルは崩れ落ちた。
加藤はその場から残骸を見つめた。
「あの車、まだ数年は持ったのに」
優奈は妙な顔で加藤を見た。
「ええ、もちろん。数年ね……」
蓮司はすでに歩き出していた。
「行くぞ」
蓮司の部屋は、鹿児島の静かな地区にあった。
中心部ではない。人通りの多い場所でもない。ほかのすべてが予測できなくても、せめて何か一つは予測できるものであってほしい。そういう人間が選ぶ場所だった。
部屋は簡素だった。
整っていた。
そこには、誰かが騒がしさより沈黙のほうを選んだ場所にある静けさがあった。たとえ、その誰かがいつも沈黙を好んでいるわけではなかったとしても。
蓮司は扉を開けた。
「帰ったの?」
中から声がした。
女性の声だった。安堵が混じっているのに、その安堵をあまり表に出したくないような響きがあった。安堵していると認めることは、心配していたと認めることにもなるからだ。
「ああ」
蓮司が言った。
水野葵が台所から姿を見せた。
淡い色のパジャマを着ていた。黒い髪は少しだけ乱れていて、外に出ずに家の中で過ごしていた人間の髪だった。
顔色は悪かった。
劇的な悪さではない。何週間も、何かに少しずつ力を奪われ続け、それをもう自分の中で普通のこととして扱い始めてしまった人間の青白さだった。
加藤と優奈を見ると、葵は足を止めた。
「ごめんなさい。蓮司が人を連れてくるなんて知らなくて」
「気にしないでください」
優奈が言った。
「彼女が優奈」
蓮司が言った。
「こっちが加藤」
「水野葵です」
葵は、少し無理をしたようで、それでも本物の笑みを浮かべた。
「はじめまして」
そして、興味ありげに加藤を見た。
「蓮司とは、どういうお知り合いなんですか?」
「俺はこいつの師匠だった」
加藤が言った。
蓮司がすぐに遮った。
「数学の」
葵は蓮司を見た。
「数学?」
「昔の話だ」
蓮司が言った。
加藤は笑った。
「ひどい生徒だった」
「ひどい教師だった」
蓮司が言った。
葵は小さく笑った。
「それで、いろいろ納得しました」
蓮司は葵を見た。
「何が?」
「何でもない」
葵はまだ笑いながら言った。
「お茶を淹れますね」
優奈が申し出た。
「手伝います」
葵と優奈は台所へ向かった。
加藤と蓮司は居間に残された。言いたいことがありすぎて、その順番を計算している二人だけが作る沈黙が、そこにあった。
蓮司は加藤を見た。
「正気か?」
加藤は、何のことを言っているのかわかっていた。
「みんな真実を知るべきなんじゃなかったのか?」
蓮司の体が強張った。
「彼女を巻き込むな」
「もう巻き込まれてる」
加藤が言った。
「呪いは、巻き込んでいいかどうかを訊かなかった」
蓮司はすぐには答えなかった。
「彼女は病気なんだ」
最後にそう言った。弁護にならないとわかっていることを説明する人間の声だった。
「呪いは進んでいる。今、真実まで背負わせることはできない。全部終わったら話す」
加藤は蓮司を見た。
「隠し事をしている奴は、みんなそう言う」
「奴らと一緒にするな」
「一緒にしてるんじゃない」
加藤が言った。
「そう聞こえるって言ってるだけだ」
蓮司は奥歯を噛んだ。
加藤は、それ以上追い詰めなかった。
「狩人のことについて、今なら話す気になったか?」
「葵が助かったらだ」
蓮司が言った。
「それまでは話さない」
加藤はうなずいた。
台所では、葵が湯を沸かしていた。
手に何か具体的な作業をさせておく必要がある人間の集中で、彼女は動いていた。頭が別のことを考えているとき、手だけでも確かなものを扱っていたい。そんなふうに。
「加藤さんって、いい人そうですね」
葵が言った。
「いい人よ」
優奈が答えた。
葵は微笑んだ。
「蓮司が先生と、その奥さんにまた会えてよかったです」
優奈は並べていたカップを落としかけた。
「奥さんじゃないです」
「すみません」
葵は本当に気まずそうに言った。
「恋人ですか?」
「それも違います」
「……あ」
「仲間です」
「そうなんですね」
葵が言った。
優奈は葵を見た。
「本当です」
葵は、争うつもりのない人の笑みでうなずいた。
「蓮司とは長いんですか?」
優奈は話題を変えた。前の話題はもう生産的ではないと判断した人間の切り替えだった。
「二年です」
葵は言った。
「地元の雑誌で写真を撮る仕事をしているんです。遠い場所に行かされることもあって、帰りが遅くなることがあります」
湯が温まり始めるのを見つめた。
「いつも疲れて帰ってくるんです。怪我をしているときもあるし。でも、何があったのかあまり説明してくれなくて」
優奈はうなずいた。
「蓮司は、遅くなるときも連絡しないし」
葵は続けた。
「怪我をしたときも言わないし、馬鹿なことをしようとしているときも言わないんです」
一度、間を置いた。
「そういう癖なんだと思い始めています」
優奈は笑った。
「似たような人を知ってるわ」
葵はお茶を淹れ、カップを盆に並べた。
それは、他のことがどうにもならないときでも、目の前のことだけは丁寧にやる人間の手つきだった。
盆を持つ。
居間へ歩き出した。
盆が震えた。
ゆっくりではなかった。
支えているものに、支えきるだけの力が残っていないとき、物はそう震える。
落ちる前に、優奈が間に合った。
両手で盆を支え、その重みを受け止め、待った。
葵は謝ろうとした。
「ごめんなさい。大丈夫です。ここ数日、こういうことがあって、でも――」
彼女の目から、何かが消えた。
ほんの一秒だけ。
「眠りたく……ない……」
葵がつぶやいた。
その一瞬、彼女の手首の皮膚の下に灰色の痕が浮かび上がった。
それは一度だけ脈打った。まるで、向こう側にある何かが彼女の言葉に反応したかのように。
そして、また消えた。
蓮司は、葵が言葉を言い終える前に居間から来ていた。
大丈夫かとは訊かなかった。
答えはもうわかっていた。
彼は、何度も練習したことのある動きで葵を抱き上げた。練習しなければならなかったから、身についてしまった動きだった。
葵は一人で歩けると言おうとしていたが、その足は違うことを言っていた。
廊下に消える前に、葵は加藤と優奈を見た。
「すみません、こんなことになって」
彼女は言った。
「休んでくださいね」
寝室の扉が閉まった。
加藤と優奈は数秒、居間に残された。
「呪い、かなり進んでるわね」
優奈が小声で言った。
「ああ」
加藤が答えた。
「残滓は強いと思う?」
加藤は、蓮司が葵を連れていった廊下のほうを見た。
「強いというより、辛抱強いんだと思う」
加藤は言った。
「そのほうが厄介なこともある」
蓮司が戻ってきた。
顔は閉じていた。あまりにも多くを内側にしまい込み、今それを開くつもりはない人間の顔だった。
「一か月以上、悪くなり続けている」
前置きもなく、蓮司は言った。
「最初は眠る時間が増えた。それから熱。失神。今は呪いの進みが早くなっている」
蓮司は優奈を見た。
「彼女のそばにいてくれ。守ってほしい」
優奈はうなずいた。
「私が守る」
蓮司はしばらく優奈を見た。
簡単には礼を言わない人間が、今は本当に感謝している。それがわかる目だった。
それから加藤を見た。
「あんたは俺と来る」
加藤はかすかに笑った。
「昔みたいだな」
蓮司は扉を開けた。
「昔を侮辱するな」
加藤はその後を追った。
「俺も会いたかったぞ」
扉が二人の背後で閉まった。
数秒のあいだ、どちらも何も言わなかった。
加藤は両手をポケットに入れて歩いていた。
蓮司は、剣をコートの下に隠し、まだ口にはしていないが行き先を知っている人間の足取りで歩いていた。
何年も前、二人は似たような道を師匠と生徒として歩いたことがあった。
加藤が何かを説明し、蓮司は学びながら、それが学ぶ価値のあるものなのかを同時に測るような、あの批判的な集中で聞いていた。
その夜、二人が一緒に歩いている理由は、信頼なのか、必要なのか、それともあまりにも長く未解決のまま残していた何かを、まだ終わらせていないからなのか、はっきりとはわからなかった。
鹿児島は、静かに眠る街の沈黙で二人を迎えた。
まるで、眠ることがまだ安全なことだとでも言うように。




