第40章:宿泊客は眠らなければならない
鹿児島へ向かう高速道路は、夜に走る道特有の長さを持っていた。車の外に広がる暗闇のせいで、車内だけがいつもより少し狭く、少しだけ親密な場所になったように感じられる。
加藤はいつも通り、落ち着いて運転していた。
助手席の優奈は腕を組み、前方の道を見つめていた。しばらく前から何かを考えていて、それを口に出さなければ、ずっと考え続けることになりそうな顔だった。
「カードで勝ってよかったわね」
優奈が言った。
加藤は横目で彼女を見た。
「負けてたら、私があなたを殺してた」
優奈は続けた。
「あんな老人に、情報の代金として私を差し出そうとするなんて信じられない」
「源蔵があの賞品を受け取るわけないだろ」
加藤は言った。
「たぶんな」
優奈が加藤のほうを向いた。
「たぶん?」
「たぶんだ」
「たぶんって言った?」
「言ったものは言った」
優奈はしばらく加藤を見つめた。いくつものことを同時に処理していて、そのどれにも納得していないような顔だった。
加藤は笑った。
いつもの抑えた笑いではなかった。もっと短く、もっと素直な、思っていたより本当に面白かったときに出る笑いだった。
優奈は前を向いた。もう反応してやらないと決めた顔をしていたが、口元に小さな笑みが浮かびかけているのを、完全には消せなかった。
「残滓を狩る残滓の話、どこで聞いたの?」
優奈は話題を変えた。その話のほうが、今の話題よりはずっとましだと言わんばかりの速さだった。
加藤は視線を道路へ戻した。
「少し前だ」
加藤は言った。
「生徒たちが来る前、一人で任務に出ていた。教師になる数週間前のことだ」
「それで?」
「任務のために情報を集めている途中で、残滓を狩る残滓の噂を聞いた」
加藤は言った。
「それが気になった。任務が終わったら調べるつもりだった」
優奈は加藤を見た。
「どうして調べなかったの?」
「香奈に怒られるからだ」
加藤は答えた。
「先に、始めた任務を終わらせる必要があった」
優奈は、そういう目で加藤を見た。
「何だよ」
加藤が言った。
「別に」
優奈は答えた。その声は、あまりにも当然すぎて説明する必要すらない、と言っているようだった。
「俺にはちゃんとした理由が――」
「加藤」
「香奈って、あの声で――」
「加藤」
「わかった。わかったよ」
「そうでしょうね」
「あとで調べに行くつもりだった」
加藤は話を戻した。
「けど、そのあと生徒たちが来て、教師をやることになった」
優奈は少しだけ加藤を見つめた。
「まあ、待ったおかげで、今は二人で行けるわね」
優奈は言った。
「危険そうな残滓だし」
加藤は笑った。
「そうは思わない」
「どうして?」
「正直に言えば、そいつは自分が何をしているのかもわからず、同じ残滓を殺しているだけの残滓だと思っている」
加藤は言った。
「人間に人間を殺す奴がいるなら、残滓に残滓を殺す奴がいてもおかしくないだろ」
優奈は加藤を見た。
しばらく黙っていた。
「……確かに」
「だろ」
「そういう顔で言わないで」
「どういう顔だ」
「自分が正しいってわかってる顔」
加藤は笑った。
移動は、二人が認めたくないほど長く続いた。サービスエリア、長い沈黙、誰もまともに聴いていない音楽、そして眠気とは少し違う疲労が、薄い膜のように肩へ積もっていった。鹿児島がようやく前方に見え始めた頃には、夜がまた戻ってきていた。
「ようやく着いたな」
加藤が前を見ながら言った。
夜の鹿児島には、南特有の温度があった。東京よりも暖かく、湿度は、車が止まったことを頭が理解するより先に、体のほうが感じ取っていた。
到着してから五分後、車の調子がおかしくなった。
突然ではなかった。長いあいだ耐えてきたものが、ついにもう十分だと決めたような、ゆっくりとした変化だった。ひとつ音が鳴り、また別の音が鳴り、アクセルを踏む足とは関係なく速度が落ちていく。
加藤は車を道路脇に寄せた。
「そろそろ車を買い替えたほうがいいんじゃない?」
優奈が言った。
「この車はまだ完璧だ」
加藤が言った。
ボンネットから煙が上がった。
加藤はそれを見た。
「お前が正しいかもしれない」
二人は車を降りた。加藤は車の周りを回りながら、よく知っているものを見極めるような顔をしていた。驚きではない。以前にもこの車と同じ会話を何度かしていて、それがどう終わるかもわかっている者の顔だった。
「駐車場まで動かすのを手伝ってくれれば」
加藤は、二十メートルほど先にあるホテルを見ながら言った。
「今夜はあそこに泊まれる」
優奈は加藤を見た。
「あなた、一応かなり強い狩人なんでしょ。車を動かすくらい、難しくないんじゃない?」
加藤はそれを処理した。
「確かに」
加藤は言った。
彼は一人で車をホテルの駐車場まで押した。車を押すことが努力ではなく、ただの作業でしかない人間の動きだった。
優奈は腕を組んでそれを見ていた。
「ホテルがあるわ」
車が駐車場に収まったあと、優奈が言った。
「泊まれるんじゃない?」
「ああ」
加藤は建物を見た。
「部屋を取ってくる。車を見ていてくれ。盗まれないようにな」
優奈は空っぽの駐車場を見た。
「誰もいないわよ。仮に誰かいたとしても、壊れた車を盗むのは狂人くらいでしょ」
「世の中には、いつでも狂人がいる」
加藤が言った。
「教師になる狂人もいるしね」
優奈が言った。
加藤は笑い、ホテルの中へ入っていった。
優奈は一人で駐車場に残った。
ホテルを見た。
車を見た。
もう一度、ホテルを見た。
招いてもいないのに、その考えはやってきた。部屋。加藤。空き部屋がちゃんとあるのか。もしなかったら――
自分の頭の中で作りかけていたその文を最後まで考える前に、優奈は顔を赤くした。まだ疑問にすらなっていない考えで赤くなるなんて、完全に馬鹿げていると自分に言い聞かせる。
「嫌よ」
小さな声で、優奈は言った。
それから息を吸った。
「何も起きない。部屋はある。ホテルなんだから。ホテルには部屋がある。それがホテルの仕事でしょ」
髪に手を通す。
「普通。全部、普通」
カウンターの向こうにいた係の老人は、情熱という概念を過去のどこかで一度検討し、理由はもう思い出せないが捨てたような見た目をしていた。
彼は加藤を見た。人を相手にしているのは仕事だからであって、特に興味があるわけではない。そんな表情だった。
「二部屋」
加藤が言った。
老人は加藤を見た。
それから、背後の鍵掛けを見た。
そして二本の鍵を取り、状況を前に進めるために最低限必要な動きで、それをカウンターに置いた。
「どうも」
加藤は金を置いた。
老人は返事をしなかった。
加藤は鍵を取り、外へ出た。
加藤が戻ってきたとき、優奈はまだ駐車場にいた。
空を見上げていた。その顔は、ひとりで内側の会話をしていて、それがあまり穏やかな内容ではなかったことを示していた。
「一人でしゃべるのはやめろ」
加藤が言った。
「やっぱり狂人はいたな」
優奈は真顔で加藤を見た。
加藤は彼女へ鍵を投げた。
優奈はそれを受け取り、手元の鍵を見た。
「どうやって寝るの?」
その声には、質問の内容に対して必要以上の重みがあった。
「一人一部屋取った」
加藤が言った。
優奈はそれを処理した。
「あ」
「何を期待してたんだ?」
「何も」
優奈は早口で言った。
「休むわ」
そう言うと、彼女はホテルの入口へ向かった。行き先ははっきりしていて、その行き先について誰にも質問されたくない人間の歩き方だった。
加藤はその背中を見送った。
「何に刺されたんだ、あいつ」
ひとりごとのように言った。
部屋は、ホテル特有の温度をしていた。
寒くもなく、暖かくもない。誰が泊まるのかわからない場所が、誰のためにも整えられていないときの温度だった。
加藤はベッドに横になった。
しばらく天井を見つめていた。部屋の暗さ。外から聞こえる鹿児島の音。それは東京の音とは違っていた。もっと静かで、もっと間があり、ひとつひとつの音のあいだに沈黙が多い。
加藤は目を閉じた。
眠りは訪れた。
そして、それと一緒に、時々訪れるものも来た。
いつもではない。
毎晩でもない。
だが、来る夜はある。
一人称で見た。
記憶としてではなく、今その瞬間に起きていることとして。
支部の廊下。
広間。
床。
母。
変えるには間に合わなかった瞬間。
そして、間に合わなかったにもかかわらず、今もなお変えられないまま残り続けている瞬間。
母が倒れるのを見た。
何もできずに。
加藤は荒い息で目を覚ました。
ベッドの上で体を起こす。呼吸が、鹿児島のホテルのベッドにいる人間のものへ戻るまで、少し時間がかかった。どこか別の場所にいる誰かの呼吸ではなく。
部屋を見回した。
暗闇。
中立的な温度。
沈黙。
「少し歩くか」
誰に言うでもなく、加藤は言った。
ホテルの屋上には、小さな町の屋上特有の景色があった。近くの建物の屋根、下にある街灯、東京よりもよく見える星空。空の場所を奪い合うものが少ないからだろう。
そして、手すりにもたれる人影があった。
屋上の扉から現れた加藤を見て、優奈は顔を向けた。誰かが来るとは思っていなかったが、拒むつもりもない。そんな表情だった。
「眠れなかったのか?」
加藤が言った。
「寝つけなかった」
優奈は答えた。
「夜中に目が覚めて、少し風に当たりたくなったの」
加藤は彼女の隣で手すりにもたれた。
「ベッドのせいか?」
優奈は少しだけ答えるのに時間を置いた。
「龍一のせい」
加藤はすぐには彼女を見なかった。
「あの話は、そうなることがある」
「話だけじゃないわ」
優奈は街を見ながら言った。
「ずっとひとつの話を信じてきて、今になってその下に別の話があったと知ることよ」
加藤は手すりに前腕を預けた。
「いつだって、下には別の話がある」
「それ、助けになってない」
「助けようとしてない」
優奈は横目で加藤を見た。
「驚くほど正直ね」
「疲れてると出る」
優奈は小さく息を吐いた。笑いと呼ぶには少し足りない呼吸だった。
しばらくのあいだ、二人は黙っていた。下には鹿児島の街。上には夜空。屋上の空気は、部屋の中よりもいくらか優しかった。残滓を狩る残滓を探しに来た街にしては、夜は静かすぎた。
「あなたは?」
やがて優奈が尋ねた。
「俺?」
「どうして眠れなかったの?」
加藤は通りのほうを見た。
「同じだ」
優奈は加藤を見つめた。その視線は、言葉になったものだけでなく、言葉にならなかったものまで拾おうとしていた。
「同じじゃないでしょ」
加藤はかすかに笑った。
「同じだとは言ってない」
優奈はそれ以上、追及しなかった。
屋上の扉が開いた。
二人は振り返った。
入口に、受付の老人が立っていた。
表情はさっきと同じだった。熱意も、特別な活力もない。ただ、やるべきことをやっているからやっている、という顔。
「宿泊客は眠らなければなりません」
老人が言った。
加藤は彼を見た。
「すみません」
加藤は言った。
「少し眠れなくて」
そこで加藤は、誤解されたくないことをどう言えばいいか迷うように間を置いた。
「別に、ベッドが悪いとかそういうことじゃなくて。ただ――」
「加藤」
優奈が言った。
「何だ?」
「見て」
加藤は老人を見た。
受付の老人は、同じことを繰り返していた。
「宿泊客は眠らなければなりません。宿泊客は眠らなければなりません。宿泊客は眠らなければなりません」
同じ声。
同じ調子。
まったく同じリズム。
話しているというより、再生しているようだった。
「大丈夫ですか?」
加藤が言った。
受付の老人は、話すのをやめた。
一秒だけ、動かなかった。
その静止は、普通の静止にしてはあまりにも深すぎた。
そして、始まった。
最初に来たのは痙攣だった。
内側から外へ出てくるような痙攣ではない。外側から内側へ入り込み、体を組み替えているような痙攣だった。その体に、組み替えていいかなど尋ねるものはいなかった。
腕が、ありえない角度に折れ曲がる。
背中が、背中として許されない曲線を描く。
顔には、加藤と優奈がよく知っている変化が始まった。皮膚が変わる。輪郭がずれる。目から、目を目たらしめているものが失われていく。
そこに残ったものは、もうカウンターにいた老人ではなかった。
それでも、同じ言葉を繰り返していた。
「宿泊客は……眠らなければ……なりません……」
それは、もはや老人の声ではなかった。老人の声を枠のように使って、別の何かが外へ出ようとしている声だった。
「宿泊客は……眠らなければ……なりません……」
加藤はそれを見た。
それから、優奈を見た。
そして、また、受付だったものを見る。残滓になったそれは、他の言葉を知らないのか、それともそれ以外を言う気がないのか、同じ言葉を同じように繰り返し続けていた。
加藤は息を吐いた。
「五つ星をつけるつもりだったんだけどな」




