第38章:あの日の約束
東京本部の大広間は、依然として凄惨な有様だった。
衝撃によって刻まれた亀裂が壁を走り、床には無数の傷跡と砕けた石片が散乱している。建物のどこかがさらに崩れるたび、天井から細かな埃が舞い落ちた。
遠くでは、まだ爆発音や叫び声、何かが激しくぶつかり合う音が響いていた。
だが、その間隔は少しずつ長くなっている。
戦いが終わりに近づいているからではない。
戦い続けられる者そのものが、もうほとんど残っていなかったからだ。
大広間の中央には、絶縁が立っていた。
弘と龍一もまだ立っていたが、二人とも、もはや疲労を隠しきれてはいなかった。
弘の右脇腹の傷は、戦いが終わるまで無視していられるようなものではなくなっていた。体を動かすたびに傷口が引きつり、呼吸をするたびに痛みが増す。服には再び血が滲み始めていた。
それでも弘は拳を上げ、構えを崩さなかった。
龍一が維持している魔力の断片も、戦いの始めと比べれば大きく減っていた。絶縁の「絆断絶」によって繋がりを断たれたものもあれば、この場よりも助けを必要としていると龍一自身が判断し、他の区画へ送り出したものもある。
弘はもう、その判断を口に出して責めようとはしなかった。
だが、言葉にする必要もなかった。
龍一には、弘が何を考えているのかわかっていた。
絶縁は、先ほどまでと変わらぬ静けさで二人を見つめていた。
休んでいる者の静けさではない。
そもそも、休息など必要としていない存在の静けさだった。
「ずいぶん長く立っているな」
絶縁が言った。
「もうほとんど何も残っていないというのに」
龍一は視線を逸らさなかった。
「まだ十分に残っている」
絶縁はわずかに首を傾けた。
「それも、見方次第だ」
そして、地を蹴った。
最初に放たれたのは「絆断絶」だった。
龍一の魔力の断片が二つ、位置を変える暇もなくその光を失った。一つは意思を失った魔力の塊となって床へ落ち、もう一つはその場で完全に消滅する。
絶縁は結果を確認しようともしなかった。
そのまま弘へ向かった。
弘は動きを読み、左手に圧縮衝撃を集中させた。右腕ほど強い一撃は放てない。だが、その角度で使えるのは左腕だけだった。
二人の攻撃が同時に放たれる。
弘の拳が絶縁の肩を捉え、圧縮された魔力が接触の瞬間、体内へ向かって一気に解放された。
絶縁の体が揺れる。
攻撃を受けた部分を中心に、新たな亀裂が走った。
だが、絶縁の一撃もまた、弘を捉えていた。
弘の体が数メートル吹き飛ばされる。
完全に体勢を崩す寸前、片足を床に強く踏み込み、かろうじて倒れることだけは避けた。
龍一が動いた。
三つの断片が時間差で絶縁に襲いかかる。
一つ目が前進を阻む。
二つ目が右脇腹を打つ。
三つ目は、以前成功した攻撃を再現するように背後を狙った。
絶縁が片手を上げる。
繋がりが断たれた。
三つ目の断片が光を失う。
龍一は歯を食いしばった。
そのときだった。
何かが変わった。
打撃ではない。
爆発でもない。
新たな魔力の気配が、大広間へ入り込んできた。
三人が入口を見る。
そこには香奈が立っていた。
ガレキとの戦いで負った傷が、まだその体にはっきりと残っている。服の一部は脇腹の辺りで破れ、腕には何度も攻撃を受けた痕があり、ガレキの魔力の中枢を封じた右手は今もわずかに震えていた。
だが、龍一が真っ先に目を向けたのは、そのどれでもなかった。
香奈が手にしている箱だった。
弘が彼女を見る。
「何をしている」
「助けに来たのよ」
「子供たちと一緒にいるべきだ」
「子供たちは無事」
香奈は答えた。
「あなたたちは違うみたいだけど」
龍一の視線が箱に止まった。
表面に刻まれた印を認識した瞬間、その表情が変わる。
「まだだ」
香奈はすぐに意味を理解した。
黙って頷き、箱を閉じたまま構える。
絶縁は三人のハンターを見渡した。
「一人増えたところで、結果は変わらない」
香奈は大広間へ足を踏み入れた。
「それはどうかしらね」
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三人になったことで、戦いは変わった。
結果が変わったわけではない。
少なくとも、まだ。
だが、戦いそのものの形は明らかに変わった。
香奈には弘のような直接的な破壊力はなかった。
龍一のように戦場全体を支配することもできない。
彼女の戦い方に必要なのは、まったく別の種類の精密さだった。
敵に接近し、体内を巡る魔力の流れを見極め、その流れを一時的に遮断できる正確な一点を見つけなければならない。
ガレキを相手にしたときには、観察する時間があった。
だが、絶縁を相手にすれば、理解するために使った一秒が、そのまま人生最後の一秒になりかねない。
香奈は右側から距離を詰めた。
弘が正面から攻め、絶縁の注意を引きつける。
香奈が狙ったのは右肩。
絶縁が「絆断絶」を使うたび、魔力が一瞬集中しているように見える場所だった。
だが、届かなかった。
絶縁の方が先に動いた。
横薙ぎの一撃。
香奈は前腕で防いだものの、衝撃によって大きく後退した。手首から肩まで、腕全体に鋭い痛みが走る。
龍一の断片が二人の間に割り込んだ。
絶縁がそれを断ち切ろうとする。
弘の方が早かった。
圧縮衝撃。
拳が、すでに何度か攻撃を重ねていた絶縁の胴体を捉える。
亀裂が広がった。
今までよりも深く。
絶縁が後退する。
香奈は見た。
亀裂だけではない。
魔力の流れを。
ほんの一瞬。
絶縁の体内を巡る魔力が乱れた。
わずかな変化だった。
普通のハンターなら見逃していたかもしれないほど短い。
だが、香奈は見逃さなかった。
「弘」
弘が横目で彼女を見る。
「同じ場所を狙い続けて」
理由は聞かなかった。
ただ従った。
絶縁が再び突進する。
龍一が四つの断片を放った。
二つが破壊された。
三つ目が敵の進行方向を逸らす。
四つ目が脚を捉えた。
弘はその隙を逃さなかった。
再び胴体を打つ。
まったく同じ場所。
圧縮衝撃が内部へと走った。
絶縁が初めて声を漏らす。
叫びではない。
無意識に吐き出された、短い息だった。
弘は笑った。
「効いたな」
絶縁が弘を見る。
「お前も傷ついている」
「ああ」
弘は再び拳を上げる。
「俺は別に、隠そうともしていない」
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戦いは続いた。
そして、その中で絶縁は徐々に優先順位を変え始めた。
最初に香奈を観察した。
次に、その動きを。
彼女が真正面から力をぶつけるのではなく、特定の一点ばかりを狙っていることを。
理解した。
三人の中で、香奈は最も強いわけではない。
だが、最も戦況を変え得る存在だった。
最初に香奈を狙ったときは、龍一が止めた。
二度目は、弘。
三度目。
絶縁は戦い方を変えた。
直接攻撃するのではなく、より広い範囲へ「絆断絶」を放った。
龍一の断片が二つ、同時に光を失う。
龍一が一歩後退した。
「くそっ……」
そのときにはもう、絶縁は動いていた。
香奈は距離を取ろうとする。
絶縁が途中で方向を変える。
香奈が意図を理解したときには遅かった。
単純に自分を攻撃しようとしているわけではない。
弘と龍一から引き離そうとしている。
龍一が別の断片を送った。
絶縁が断ち切る。
香奈は攻撃が来るのを感じた。
だが、弘の方が先に到着した。
二人の間に割って入る。
絶縁の一撃が弘を捉えた。
弘は両腕に魔力を集中させて防いだが、その威力によって四歩も後退した。
体勢を立て直すより先に、片膝が床につく。
「弘!」
香奈が叫んだ。
弘は顔を上げる。
だが、絶縁は弘を見ていなかった。
まだ香奈を見ていた。
そして、再び動く。
弘は理解した。
正しく立ち上がる時間はない。
距離を測る暇もない。
残っている魔力を計算する余裕もない。
ただ、動いた。
香奈は、弘が再び自分の前に飛び込んでくるのを見た。
「だめ!」
絶縁が攻撃する。
弘はすべてを使った。
右拳へ集まった魔力の密度は、これまでのどの攻撃よりも高かった。
通常の圧縮衝撃ではない。
予備などなかった。
後のために残すものもない。
持っているものすべてが、その拳にあった。
弘が打つ。
拳が絶縁の胴体、その中心を正確に捉えた。
そして、解放する。
爆発音ではなかった。
もっと深い場所から響く音だった。
絶縁の体がわずかに折れ曲がった。
初めて、その内部にある何かが耐えきれず崩れたかのように。
胸から腹部へ向かって亀裂が走った。
香奈は見た。
絶縁の体内で何が起きたのかを。
魔力の流れが安定を失っている。
彼女が大広間へ入ってから、初めてだった。
完璧だった流れが崩れている。
弘の一撃は、届いていた。
だが。
絶縁もまた、反撃していた。
その腕が、弘の胸を貫いた。
香奈は息を止めた。
ほんの一秒。
弘はまだ立っていた。
拳は絶縁の胴体に触れたままだった。
弘は自分の胸を見る。
そして、もう一度顔を上げた。
絶縁が腕を引き抜く。
弘の体が崩れ落ちた。
「弘!!」
香奈の叫び声が大広間を貫いた。
龍一は叫ばなかった。
すでに動いていた。
香奈と同じものを見ていたからだ。
絶縁の魔力の流れが崩れている。
破壊されたわけではない。
封じられたわけでもない。
だが、確実に不安定だった。
そして、その機会が長く続かないことも理解していた。
残された断片が正面から襲いかかる。
絶縁が一つを破壊した。
二つ目が顔面に激突する。
三つ目が脇腹を狙う。
龍一は回り込んだ。
絶縁の背後へ到達する。
両腕をその胴体に回し、全力で拘束した。
「香奈!」
彼女はまだ弘を見ていた。
「香奈!!」
その声で我に返る。
龍一は絶縁の体を自分自身へ押しつけるように締め上げた。
「絆断絶」が龍一の体へ広がろうとしている。
「今だ!」
香奈は箱へ向かって走った。
絶縁が激しく抵抗する。
龍一は片腕が一時的に魔力との繋がりを失うのを感じた。
それでも、もう片方の腕にさらに力を込める。
「急げ!」
香奈は箱へ辿り着いた。
拾い上げる。
絶縁が片腕を動かすことに成功した。
龍一は拘束が解け始めるのを感じる。
「香奈!」
彼女は箱を開いた。
そこから現れたものは、正確には光ではなかった。
魔力だった。
だが、香奈がこれまで一度も見たことのない種類の魔力。
人間のものとも違う。
残滓のものとも違う。
長い年月をあの箱の中で過ごすうちに、まるで与えられた目的そのものが形を得たかのようだった。
箱の中から、いくつもの長いものが飛び出した。
鞭。
一本が絶縁の右腕に巻きつく。
別の一本が左腕を捉える。
二本が胴体を締め上げる。
もう一本が首へ絡みついた。
絶縁の動きが一瞬止まる。
諦めたからではない。
もう、それまでと同じようには動けなかったからだ。
鞭が締まる。
絶縁は「絆断絶」で繋がりを断ち切ろうとする。
だが、効かなかった。
その力は、龍一の断片のように、術者との繋がりによって維持されているものではない。
反対側に、一つひとつの動きを操作しているハンターはいない。
まるで箱そのものが、自分の役割を理解しているかのようだった。
香奈は両手で箱を支えた。
魔力が体から抜けていく。
速すぎる。
脚が震え始めた。
「箱を閉じるな!」
龍一が叫ぶ。
「閉じるつもりなんてない!」
絶縁が顔を動かす。
香奈を見る。
初めて、その表情が変わっていた。
恐怖ではない。
だが、それまでの絶対的な平静でもなかった。
「私を閉じ込めることはできる」
絶縁は言った。
「だが、私たちを生み出したものまで閉じ込めることはできない」
鞭が引く。
龍一は歯を食いしばった。
「それは後で考える」
絶縁の体が引きずられ始める。
少しずつ。
箱へ近づくにつれて、その体が歪み始める。
通常の空間の法則では説明できない力によって、徐々に小さくされていく。
「お前たちが、誰に存在する権利があるのかを決め続ける限り」
絶縁は続けた。
「お前たちを消したいと願う残滓は、これからも生まれ続ける」
香奈の手が焼けるように痛んだ。
「なら、私たちは戦い続ける」
絶縁は彼女を見つめた。
「それこそが、私の言っていることだ」
鞭が最後の力を込めて引いた。
龍一は、その瞬間に拘束を解く。
絶縁の姿が箱の中へ消えた。
蓋が閉じる。
そして、戦いが始まってから初めて。
大広間は完全な静寂に包まれた。
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香奈は箱から手を離した。
床へ落ちなかったのは、龍一が先に受け止めたからだった。
だが、香奈はもう箱など見ていなかった。
弘を見ていた。
走った。
弘は倒れた場所の近く、壁の下に背を預けるように座っていた。
片手を胸に当てている。
指の間から血が流れ続けていた。
香奈はその前に膝をついた。
「弘」
彼は目を開けた。
「成功したな」
香奈は唇を噛んだ。
「ええ」
「よかった」
深く息を吸おうとした。
だが、できなかった。
香奈は傷口へ手を伸ばす。
弘がその手首を掴んだ。
「いい」
「黙って」
「香奈」
「黙ってって言ったでしょ」
香奈はその手を振り払おうとした。
弘にはもう、ほとんど力が残っていない。
それでも、香奈に理解させるには十分だった。
香奈は手を止めた。
弘が彼女を見る。
「銀次郎はどうしている」
その問いに、香奈は一瞬言葉を失った。
ほんの一瞬だけ、大広間のすべてが消えたように感じた。
絶縁も。
箱も。
龍一も。
そこにいたのはただ、息子の安否を尋ねる一人の父親だった。
「無事よ」
香奈は答えた。
「私が離れたときは、憲と冴、それから警備をしていたハンターと一緒だった」
弘は一瞬、目を閉じた。
その顔に安堵が浮かぶ。
「そうか」
香奈は彼を見た。
「あの子、本当に馬鹿よ」
弘が目を開ける。
「俺の息子だからな」
「何の反論にもなってないわ」
弘はなんとか微笑んだ。
小さな笑みだった。
だが、確かにそこにあった。
それから、再び天井へ目を向ける。
「美智子は?」
香奈は一瞬答えに詰まった。
何かを知っていたからではない。
本当に、答えを知らなかったからだ。
「見てない」
弘がわずかに顔を向ける。
「来ていないのか」
「たくさんのハンターが出入りしていたわ。大吾は、動ける者全員に招集がかかったと言っていた。きっと本部のどこかにいる」
弘はゆっくり頷いた。
「なら、銀次郎を見つける」
香奈は彼を見る。
「ええ」
弘は苦しそうに息をした。
「彼女に会ったら……」
そこで言葉が途切れた。
香奈は待った。
「銀次郎を頼むと伝えてくれ」
「伝える」
弘は再び目を閉じた。
数秒間、何も言わなかった。
香奈は、意識を失ったのかと思った。
だが、再び声が聞こえた。
「お前もだ」
香奈は動きを止めた。
「何?」
弘は再び彼女を見る。
「銀次郎を頼む」
「弘……」
「あいつはどうしようもない」
香奈の喉の奥が締めつけられた。
弘は続けた。
「頑固だ。行くなと言われた場所に行く。いつ止まればいいのかも知らない」
「父親にそっくりね」
「違う。俺はもっと理性的だ」
香奈は短く笑った。
だが、その笑いは最後まで続かなかった。
途中で崩れた。
弘はそんな彼女を見つめる。
「約束してくれ」
香奈の笑みが消えた。
目の前の男を見る。
友人を。
自分が何年も教えてきた少年の父親を。
「約束する」
弘はゆっくり頷いた。
「よかった」
香奈は彼の手を握った。
「自分で伝えなさい。あなたが――」
弘は目を閉じた。
香奈は最後まで言えなかった。
待った。
一秒。
二秒。
彼の手を強く握る。
「弘」
何もない。
「弘」
静寂だけが答えた。
香奈は顔を伏せた。
数メートル後ろでは、龍一が箱を持ったまま立っていた。
何も言わなかった。
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数秒が過ぎてから、龍一はゆっくりと近づいた。
呼吸はまだ荒く、戦いの中で使った魔力の断片も、ほとんど残っていなかった。
香奈の隣で立ち止まる。
弘を見る。
そして、箱へ視線を落とす。
「すべて終わった」
香奈は顔を上げた。
まだ目には涙が残っている。
「いいえ」
龍一が彼女を見る。
「何?」
「周りを見て」
香奈は大広間を示した。
死体。
亀裂。
血。
弘。
「これが終わりだなんて思えない」
龍一は黙っていた。
やがて、視線を落とす。
「俺にとっては終わりだ」
香奈が彼を見る。
「どういう意味?」
龍一は数秒間黙った後、答えた。
「ここを出たら、辞任する」
香奈は眉を寄せた。
「龍一」
「聞いてくれ」
「嫌」
「香奈」
「今、そんな決断をするべきじゃない」
「戦いが終わるずっと前から決めていた」
香奈は立ち上がった。
「あなたのせいじゃない」
龍一は彼女を見た。
「すべてが俺のせいだとは言っていない」
「なら、全部自分のせいみたいに話すのはやめて」
「俺の責任だと言っている」
香奈が口を開こうとする。
だが、龍一はその前に続けた。
「北へハンターを送ったのは俺だ。東京の防衛を少数の者だけに任せると決めたのも俺だ。すべての戦線を同時に制御できると思った。絶縁と戦っている最中でさえ、他の区画にいるハンターを助けるために魔力を分裂させ続けた。全員を救えると、自分に言い聞かせていたからだ」
弘を見る。
「そして、できなかった」
香奈は拳を握りしめた。
「誰にも、こんなことになるなんてわからなかった」
「わかっている」
龍一は息を吐いた。
「それでも俺の責任だ。その二つは、同時に真実であり得る」
香奈は何も言えなかった。
龍一は箱を見る。
「評議会に出頭する」
香奈が顔を上げる。
「出頭?」
「俺がしたことを裁かせる。判断も。死者も。すべてだ」
「龍一……」
「そして、投獄すると決められても抵抗はしない」
「そうなるなんて、まだわからないでしょ」
龍一は疲れたように笑った。
「わかる」
香奈は首を振った。
「不公平よ」
「そうかもしれない」
「なら受け入れないで」
「俺にとって公平かどうかの話じゃない」
香奈は怒りを込めて彼を見る。
「じゃあ私はどうすればいいの? あなたが勝手に消えるのを、ここで見ていろっていうの?」
「違う」
龍一は指に手を伸ばした。
そして、指輪を外した。
香奈はそれを知っていた。
派手なものではない。
宝石も、特別な装飾もなかった。
意味を知らない者が見れば、ただの質素な指輪にしか見えなかっただろう。
だが、ハンターにとっては違った。
東京本部の指導者であることを示す象徴だった。
龍一は手を差し出した。
香奈は指輪を取らなかった。
「嫌」
「香奈」
「あなたの立場なんて欲しくない」
「俺だって、こんな形で渡したくはなかった」
「なら残って」
龍一は彼女を見る。
「できない」
「できる」
「するべきじゃない」
沈黙が二人の間に落ちた。
龍一は再び指輪を差し出した。
「お前は、俺にできなかったことを成し遂げる」
香奈が彼を見る。
「そんなこと、わからないでしょ」
「ああ」
龍一の顔に、小さな笑みが浮かぶ。
「でも、信じている」
香奈は指輪を見る。
「それじゃ足りない」
「ときには、それで十分だ」
それでも香奈は手を伸ばさなかった。
龍一は一歩近づく。
「俺は、すべてを繋ぎとめておけると思っていた。東京も。ハンターも。北も。まだ生きている一人ひとりも」
箱を見る。
「絶縁が、一つだけ正しかったことがある」
香奈が顔を上げる。
「何?」
「繋がっているものは、すべて壊れる」
沈黙。
「だが、壊れた後に新しいものを作れないという意味じゃない」
龍一は香奈の手を取り、その掌に指輪を置いた。
香奈は手を閉じなかった。
「俺と同じ間違いをするな」
香奈は彼を見る。
「できるかわからない」
「俺もわからなかった」
「全然助けになってない」
龍一は笑った。
「昔から人を助けるのは得意じゃなかった」
香奈は鼻から小さく息を吐いた。
龍一は歩き始める。
「龍一」
彼が立ち止まる。
香奈はまだ指輪を持っていた。
「箱は?」
龍一はもう片方の手に持つ箱を見る。
「二度と誰にも開けさせない」
そして再び前を向いた。
「みんなを頼む」
龍一はそのまま廊下を歩いていった。
香奈は、その姿が見えなくなるまで見続けた。
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それから数分間、香奈は何もしなかった。
やることがなかったからではない。
多すぎた。
負傷者。
死者。
破壊された本部。
子供たち。
銀次郎。
龍一。
箱。
だが、その数分間だけ、香奈は教師ではなかった。
後継者でもなかった。
未来の副長でもなかった。
ただ、破壊された大広間の床に座り、友人の遺体のそばにいる一人の女性だった。
手の中の指輪を見る。
それから弘を見る。
最後の頼みを思い出す。
――銀次郎を頼む。
香奈は指輪を握りしめた。
朝からずっと動き続けていた。
戦っていた。
命令を出していた。
答えを探していた。
最初の死体を見つけたときも、立ち止まる時間はなかった。
ガレキと戦ったときも。
大吾から箱を受け取ったときも。
弘が倒れるのを見たときも。
常に、次にやらなければならないことがあった。
だが今、この数秒間だけは違った。
そして、すぐにやらなければならないことが何もなくなった、その瞬間。
香奈は泣いた。
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数十年後。
加藤銀次郎は東京本部の廊下で壁に背を預け、腕を組んでいた。
視線は、実際には目の前のどこにも存在しない一点へ向けられている。
休んでいる者の姿勢ではなかった。
体はその廊下にいながら、意識だけが別の場所へ戻っている者の姿勢だった。
別の本部。
別の時代。
「大丈夫?」
銀次郎は顔を上げた。
数メートル離れたところに優奈がいた。
腕を組み、すでに何かがあることをわかった上で、相手がそれを認めるまでどれほど時間がかかるのか見守っているときの表情をしていた。
「完璧だ」
優奈は彼を見る。
「そんなこと聞いてない」
銀次郎はため息をついた。
「ちょっと考え事をしていただけだ」
「そう」
「たまには俺も考える」
「知らなかった」
銀次郎は笑った。
「攻撃的だな」
優奈はすぐには答えなかった。
少しだけ近づく。
「香奈から聞いた」
銀次郎の笑みがわずかに薄れた。
「何を?」
「あなたが子供だった頃のこと。戦争。ご両親。龍一」
銀次郎は目を閉じ、ため息をついた。
「あのクソババア、自分で全部隠せって言ったくせに、人に話すのは誰よりも早いな」
優奈は思わず小さく笑った。
「私が知るべきだと思ったから、話してくれたのよ」
「もちろん。いつも言い訳だけはある」
優奈は再び真剣な表情になる。
「本気で聞いてるのよ、加藤」
銀次郎が彼女を見る。
「大丈夫なの?」
銀次郎はすぐには答えなかった。
優奈は続ける。
「新しく現れた残滓のこと。言葉を話す残滓。組織。昔起きたことと似始めている今の状況のこと」
銀次郎は数秒間、彼女を見つめた。
そして笑った。
完全に偽物の笑顔ではない。
だが、すべてを見せている笑顔でもなかった。
「俺の心配はするな。完璧だ」
優奈は片方の眉を上げた。
「信じない」
「傷つくなあ」
「生きていけるわ」
「そう願うよ」
銀次郎は壁から離れた。
「それに、今はやることがある」
優奈が彼を目で追う。
「何を?」
「少し情報を探さないといけない」
「私も行く」
「必要ない」
「私も行く」
銀次郎は彼女を見る。
「必要ないって今言っただろ」
「今、無視したわ」
「実にプロフェッショナルだ」
「どこへ行くの?」
銀次郎はため息をついた。
「町田」
優奈の笑顔が、一瞬だけ消えた。
あまりにも短い変化だったため、他の誰かなら気づかなかったかもしれない。
銀次郎は気づいた。
「どうした?」
「何も」
「今のは絶対に何かある言い方だった」
「町田って言ったでしょ」
「ああ」
「誰に会いに行くの?」
銀次郎は歩き始めた。
「面白い情報を持っている人だ」
優奈はその場に一瞬立ち止まった。
町田。
情報を持っている人物。
それだけで十分だった。
記憶がすぐに蘇る。
白い髪。
自信に満ちた笑顔。
銀次郎と話すときの、あの独特な距離感。
なぜなのか、自分でもわざわざ深く考えようとはしなかったが、優奈はあの話し方があまり好きではなかった。
白銀香澄。
優奈は微笑んだ。
完璧に取り繕われた笑顔だった。
「いいわ」
銀次郎が横目で見る。
「その笑顔、怖いぞ」
「何のことかわからない」
「もちろんだろうな」
優奈は彼の横を通り過ぎた。
「来るの? 来ないの?」
銀次郎は遠ざかっていく彼女を見た。
そして笑いながら、その後を追った。
「それで問題児は俺だって言われるんだからな」
優奈は振り返らなかった。
「だってそうでしょ」
二人はそのまま廊下を歩いていった。
その背後では、本部が、まるで過去など本当に過ぎ去ったかのように、いつも通り動き続けていた。
しかし銀次郎は、誰よりもよく知っていた。
消えたように見えても、決して完全には去ってくれないものがあるということを。




