第二十話 龍脈の渡場
龍脈の暴発現場では、細い谷底を澄明な水流が穏やかに岩肌を縫い続けていた。
「あれ〜? もっとすごいことになってんのかと思った」
千里の気が抜けた言葉の通り、谷を埋め尽くすような崩落は見当たらない。
岸辺に鎮座していたいくつかの巨岩が、匙で掬い取られたかのように抉れ、砂地に所々に痘痕のように小さな穴が穿たれて、水面を少しだけ不自然に広げている程度であった。
だが、ひとたび千里が龍脈視を発動させると、状況は一変する。
穏やかな細い流れの真ん中に、ぽっかりと青い光の穴が空いているのだ。
噴泉の如き爆発は起きておらず、距離をとった場所から穴を覗き込めば、密度の高い青の奔流が確認できた。崖の上から谷底の川を覗いているように。
「お前は、近寄んなよ」
細い手を広げて朗月を制し、千里自身も距離を取った。
穴から微かに漏れ出す龍気が、甘い蜜の香りで誘うかのように、朗月へと手を伸ばしているのが視えたからだ。
白葉が前に進み出て、瞼を閉じた。
「……千里、お前にはどう視えているのだ? 私には、空間が歪んでいるような、妙な圧力を感じるのだが……どのような状態なのかまでは視えん」
「でっかい穴が空いてるんだ」
「巨大な龍穴ということか」
千里の回答に、白葉が納得して頷く。
その脇で、渓舟がジャブジャブと川へ足を踏み入れた。
「俺は何ともないけどな」
無造作に、千里が視ている龍穴の上を通り抜け、小さな流れを往復してみせる。
「アタシらも、何ともないねぇ」
「うむ。人を選ぶのだろうか」
紅英と蒼嶽も真似てみるが、何事も起こらなかった。
「その、私たちを飲み込むほどに大きな龍穴が空いたのは、天変地異なのか、それとも……人為的なものなのか」
朗月から提示された疑問へ、白葉が首を横に振った。
「事変の直後、我らは直ちに周辺を草の根分けて探索いたしました。されど、怪しい人影はおろか、何らかの仕掛けが施された痕跡すらも見当たりませんでした」
渓舟が続く。
「私も後から検分に加わりましたが、火薬や爆薬の類が使われた形跡は皆無でございました」
「では、自然現象ということになるか……」
「水脈も、チョロチョロと湧く大人しいものがあれば、間欠泉のごとく暴れる大物もございます。龍脈も同様なのかもしれません」
なるほど、と朗月と千里の顔へ、同時に花が咲いた。
「おっちゃん、説明が上手だな」
はしゃぐ千里の頭を渓舟が、「うるせぇ」と掻き回す。
「いでぇって! ――朗月」
渓舟の手から逃げ出した勢いで、千里は朗月の裾にしがみついた。
「ここ、人が近づかないように囲いを作ろうぜ」
「いっそ、祠を建ててはどうだろうか」
朗月の指先が、川のほとりの虚空に四角形を描く。
「治水に向けて土地神を鎮めるという名目で、禁足地としてしまった方が安心だ」
「それはご名案、すぐに木工師を手配いたします!」
紅英が明るく挙手をする。
「おっちゃん」
再び、千里は渓舟へ向き直った。
「というわけで工事の時は、ここを避けてほしいんだ。舟の『渡し場』になるかもしれねぇから」
「こんなちっこい川にか?」
渓舟の目には、数歩で越えられる浅い流れしか見えていない。
「川じゃないんだ」
千里は、宮中で翠蓮にも明かした構想――龍脈の流れに乗り、風よりも速く移動する舟を作りたいと語ってみせた。
「龍脈を渡る舟、だと」
子どもの夢物語を、誰も笑わなかった。
まさに、この場所から流され、遥か彼方の瑞龍湖まで辿り着いた二人が、ここにいるのだから。
しばしの間、壮大すぎる着想を前に誰もが瞬きを忘れた。
頭上の低い岩棚を一匹の小獣が駆け抜け、弾かれた小石が、しんと静まり返った谷底に響いた。
「……面白そうじゃねぇか……」
乾いた音に続いて、重たい沈黙を破ったのは、渓舟の低い唸り声だった。
「だがな」
言葉と裏腹に、眼差しからは一切の笑意が消え失せている。
「ボウズ。そいつは、ここだけの話にしておくんだ」
「えぇ?? なんでだよ」
いちゃもんでも付ける気か。
千里は唇を尖らせかけたが、渓舟の真剣な表情に引っ込めた。
「実現すれば、そいつは世の中の形を引っくり返しちまうシロモノになる」
「何がいけないんだ?」
「その船が、戦の火種を瞬きする間に大陸中に広げちまうってことでもある。敵将の喉元に、一瞬で刃を突きつけられるようにもなるんだからな」
千里の喉に、かっと火が着いた。
「おれは、戦がしたいんじゃねえよ!」
まただ。
どうしてこの舟が、戦の武器になるというのか。
「便利な道具ってのは、往々にして悪事によってあっという間に広められるもんだ」
「そんな勝手なことさせねえ!」
「そうだ。勝手なことをさせちゃならない」
癇癪のように頬を赤くする千里の肩に、渓舟が重く、手を置いた。
「そんな大それたもんは、選ばれた人間しか使っちゃならないんだ。だから……この話は、殿下の御前だけにしろよ」
「!」
千里は雷に打たれたように、首を上げた。
同じだ。
翠蓮が言っていたことと。
傍を見上げると、当の朗月は少しだけ困ったように目尻を下げていた。
*
朗月と千里が幽谷州に帰還を果たして以降、棄て地であったはずの黒田郷の復興は、ますます熱気が高まった。
千里は紅英が手配した陶工たちと共に、工房に籠もる日々を過ごした。
手がけていたのは、宮中で作った毒見皿を応用した食器類の製作――毒ではなく、食べ物の傷みや腐敗に反応して色が変わるものだ。
湿気が濃く、暖かな季節に向かえば食物の傷みが一層早くなる黒田郷において、民や人夫が腹を下すことを予防できれば、疫病蔓延の阻止にもつながる。
一方、朗月が都で蒔いた種もまた、着実に芽吹き始めていた。
宮中で工部や戸部の役人たちと根気強く折衝を重ねた「農地復活計画」が、動き出したのである。
朗月の帰還から間も無く、泥濘むあぜ道には似つかわしくない、雅な官服姿の中央の高官たちが、相次いで視察に訪れるようになっていた。
この頃、幽谷州の各地で、ある噂が酒の肴になっていた。
「次の州侯さま候補は、若いがとんでもない名君らしい」
と、あっという間に州の隅々まで広がった。
噂話は、願望へと変わっていく。
いつ、あの皇子が正式に州侯の印綬を帯びるのか。
気の早い者たちは、その時期を巡る賭けまで始めていた。
飯場の人夫たちの間では「次の秋の収穫祭までに」が一番人気で、「いやいや夏前だ」と強気に張る者もいる。
幽谷州の風は、すでに変わり始めていた。




