第十九話 北天への帰還
龍気を含んだ瑞龍湖の土を用いた「毒見皿」の効力は、瞬く間に知れ渡ることとなり、尚食局の俎上に載せられる運びとなった。
数多の議論と検証を経て裁可が下りれば、宮中での生産体制が敷かれることになる。
白葉ら三人の従者が到着してから、三日後。
朗月と千里が、再び幽谷州へ戻るための旅支度が整った。
宮城の北、玄武門の外には、五頭の馬が鼻息荒く蹄を鳴らして待機している。
ちなみに千里は朗月と同じ鞍にまたがるので、残る一頭は荷物の運搬用である。
数ヶ月前、霧に紛れて逃げるように都を後にした時とは、まるで違う光景がそこにあった。門の周囲には、別れを惜しむ多くの人々が集まっている。
朗月が人垣の中心で、次々と送られる言葉に丁寧に頷いている。
そこから少し離れた脇で、翠蓮は千里に向かい、不敵に微笑んでみせた。
「千里様。例の『舟』、首を長くしてお待ちしております」
湿っぽい別れの言葉はない。
二人は「仲間」であり、ある意味での「戦友」になったのだ。
千里は鼻を鳴らして胸をドンと叩いた。
「おうよ。完成したら都まで一番に会いに来るぜ」
「でも、私がおばあちゃんになってしまったら、千里様に気づいてもらえませんね」
「もっと早く完成させてやるし!」
童二人の様子を、陶工たちが揶揄うように、もしくは微笑ましいものを見るように、見守った。
「で、殿下……」
ざわめいていた人垣が湖を割るが如く、左右へ開いた。
ざわめきが引いた道を、偉丈夫の影が進み出てきた。
「兄上……!」
朗月が振り返った先に現れたのは、第一皇子、烈雲であった。
武人らしく鍛え上げられた肩幅と、感情を削ぎ落とした鋭い眼光。
烈雲は驚く弟――朗月の前で足を止めると、厳冬の湖面のような瞳で見下ろした。
「幽谷州の開墾、必ず成し遂げよ」
短く、重い言葉が投げかけられる。
命令なのか、激励なのか。
朗月は姿勢を正し、深く拱手した。
「はい、兄上。必ずや、豊穣の地として蘇らせてご覧に入れます」
「……」
弟の殊勝な返答に、烈雲は応えなかった。
身じろぎせずに、朗月を正面から見下ろし続けている。
「兄上……?」
第一皇子の意図が読み取れず、朗月含めて周囲の者たち誰も身動き一つできないまま、兄弟皇子を見守る。
「千里様」
そんな中、千里の袖がちょいちょいと引かれた。
「見えていらっしゃいますか?」
翠蓮が、吐息のような声で囁く。
「え……」
千里は瞬きをしたが、すぐに言葉の意味を読み取り、二人の皇子へ龍の眼を発動させた。
「ん……?」
視界に映ったのは、不可解な光景だった。
烈雲の全身からは変わらず、燃え盛る炎のような、攻撃的な紅蓮の気が立ち昇っている。
対して、朗月を包むのは、深く静謐な蒼い龍気。紗の帯が烈雲へ伸び、血が滲むように紅い気が澱む首筋を撫で付けている。
(なんだ、あれ……)
しばらく動かず見つめ合っている二人を、臣下たちは固唾を飲んで見守る。
永遠にも思える沈黙の後。
おもむろに、烈雲の手が上がった。
無骨な指先が、朗月の頭部へと伸びる。
「――え、っ」
鈍い音が響き、後頭部の高い位置で結われている朗月の髪が揺れた。
朗月が驚愕に身を強張らせる。
白葉ら従者たちが「あ」と声を漏らし、反射的に前へ踏み出しかけて、とどまった。
烈雲の手の中にあったのは、朗月の髪を留めていた銀環から垂れ下がっていた、一粒の飾り石だ。
烈雲は引きちぎった蒼玉を、感情の読めない顔で一瞥した。
「もらっていく」
それだけを言い捨て、兄は踵を返した。
振り返りもせず、大きな歩幅で風のように去っていく背中を、紅い龍気と、ちぎれた蒼い残滓が取り巻いていた。
「殿下、髪留めの珠が……」
一同が言葉を失くしていた中、最初に動いたのは白葉だった。
「良い。このままで――あ」
頭上から降り注ぐような視線を感じ、朗月は顔を上げた。
宮城の正門を見下ろす高楼の欄干に、煌びやかで重厚な二つの影――皇帝と皇后の姿があった。
「陛下! 皇后陛下!」
見送りの人々が一斉に叩頭する。砂利を踏む音さえ消え失せ、あたりは再び水を打ったような静寂に包まれた。
父帝と母后は、言葉を発することはなかった。
空を渡る一羽の鳥が鋭い鳴き声を上げて蒼天を通り過ぎる。
二人はどちらからともなく悠然と身を翻し、御簾の奥へと姿を消した。
「父上、母上……」
朗月は、誰もいなくなった高楼を眩しげに見つめ続けた。
もしかしたら――父と母はあの霧深い朝にもまた、言葉少なに高楼から不肖の息子を見守っていたのではなかったかと。
「……行こう」
朗月は短く告げると、待ちかねて小さく嘶く馬たちの方へと歩き出した。
千里は出発の時を悟る。
「じゃ、またな! 翠蓮」
千里は翠蓮の手をむんずと掴み、ぶんぶんと上下に揺すった。
「はい。またお会いしましょう」
互いの指先が、きゅっと握られる。
「私たちは、『戦友』ですから」
「――うん!」
千里は力強く頷いた。温かく小さな手をゆっくりと離し、千里は白馬の側で待っている朗月の元へと軽やかに駆けた。
*
都を出で、旬日と数日。一行は、幽谷州の地へと帰り着いた。
借り住まいのある青林村に立ち寄り、長旅の垢と旅塵をすっかり洗い落とした翌日に、黒泥村へと向かう。
村の入り口には、作業の手を止めた村人たちがずらりと並び、治水の功労者たちの帰還を今や遅しと待ちわびていた。
先頭に立ち、泥にまみれた作業着のまま待ち構えていたのは、渓舟である。
「お帰りなさいませ、殿下」
渓舟は深く腰を折り、両手を胸の前で組む拱手の礼をとった。
叩頭は朗月に禁じられている。
「いちいち額を地面につけていては仕事にならぬ」
という厳命により、村では簡略化された挨拶が浸透していた。
「出迎えをありがとう。騒がせてすまなかった」
朗月は馬を降り、莞爾として頷いて敬意に応える。
「殿下の御身に万一のことがあればと、皆、生きた心地がいたしませんでした」
渓舟は、泥と汗にまみれた顔をほころばせ、心底からの安堵を滲ませた――ふと視線が、ちょうど馬から飛び降りた千里へと滑った。
「お? おぉ……?」
渓舟は顎の無精髭を撫でながら、千里の頭のてっぺんから爪先までを、じろじろと眺め回す。
「な、なんだよ」
千里が身構えると、渓舟はニヤリと片頬を歪めた。
「ちょいと、デカくなったか? 縦にもだが……」
言いながら、無遠慮に千里の頬を両側から手のひらで挟む。
「横にもな! さては宮中で、美味いもんをたらふく食わせてもらってたな?」
「うっ、うるせぇ! 遊んできたわけじゃないぞ!」
「はいはい。こんなにツヤツヤ、もちもちになっておいて」
渓舟は伸びてきた千里の抗議の手をさらりと躱し、おぼこい両頬を鷲掴みにした。搗きたての餅のように、ぐにぐにと揉みしだく。
「ふぎゅうー!!」
情けない悲鳴に、村人たちの間にどっと笑いが弾けた。
朗月もまた、三人の従者たちと顔を見合わせ、袖で口元を隠して笑い合った。
「おれ、あっちですげーもん作ったんだぜ!」
ようやく硬い手のひらから逃れた千里は、赤くなった頬をさすりながら宮中での武勇伝を語って聞かせた。
宮中でできた戦友こと翠蓮と共に、毒味皿を作ったこと。
広大な宮中を歩き回って龍脈地図を作ったこと。
拙い言葉と、大きな身振り手振りで、成果を語る。
「ほう……成長したのは、どうやら身体の肉だけじゃねぇみたいだな」
渓舟の声はからかい混じりであったが、千里を見据える眼光は少しもふざけていなかった。
「あ、そうだ!」
思い出し、千里は手を打った。
「龍脈がバクハツした場所……おれたちが流されたところがどうなってるか、見に行きたい」
「おう、そうだな。毒見の皿とやらの話も聞かせろよ」
渓舟は短く頷き、顎で馬の方をしゃくった。
「うん! それからさ、おれ、すげーこと思いついたから、おっちゃんに聞いて欲しいんだ」
どこか似たもの同士の二人の「技術者」は、連れ立って馬の方へ歩き出した。




