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龍脈の子  作者: キタノユ


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第十五話 疑惑の椀

 翌日も、朗月の居室は早朝から慌ただしかった。


 卓の上には、地図や書状が所狭しと広げられている。

 額を突き合わせているのは農業土木を担う工部こうぶの技官たち、そして農業生産管理を司る戸部こぶの役人たちだ。


 議題は、かつて「都の食糧庫」と謳われた幽谷州の、農地復活計画についてであった。


灌漑かんがい水路の整備と並行し、地力の回復を――」

「運河を拓くにしても、莫大な予算が――」


 千里は最初のうちこそ、その輪の後ろから懸命に話を聞こうと努めていたが、次第にまぶたが重くなってカクン、と首が大きく揺れる。それを三度ほど繰り返した頃、ふと議論の流れが途切れた。


「……千里、退屈だろう。外を散歩しておいで」

 こうして千里は再び、やんわりと部屋を追い出されたのであった。


 千里は翠蓮と出会った中庭は避け、人気のない方回廊を選んで進む。

 突き当たったのは、井戸のある石造りの洗い場だ。

 冬のまだ冷たい風が吹き抜ける中、数人の浅葱色の人影が見える。


「ふん、いい気味だわ」

「女官長様のご機嫌が悪いのも、あの子のせいよ」


 数人の下級女官たちが、濡れた手を拭きながら早足に立ち去っていく。

 残った洗い場に、少女が独り残り、自身の背丈ほどもありそうな洗濯物の山と格闘していた。


 翠蓮だった。

 声をかけるべきか、迷った千里は柱の陰から小さな背中を見守る。


「千里様?」

 翠蓮は振り返りもせず、洗濯板の手を止めて呟いた。

 千里は柱の陰から躍り出る。


「すげーな。なんでこっち見なくても分かったんだ?」

「やはり、千里様でしたか」

 翠蓮は白い息を吐き、赤い指先を再び水桶に浸した。


「見えているというよりは……感じている、と申した方が近いかもしれませぬ」

「どう違うんだ?」


 千里は袖をまくり上げて翠蓮の隣にしゃがみ込み、洗い物の白布巾を手に取った。

 翠蓮が「濡れてしまいます」と慌てたが、「いいから」と強引に押し留め、冷たい水の中で布を揉み始める。


「で、どんな風に『感じ』るんだ?」

「……はい。周りの様子が、頭の中で波紋のように広がるのです。少し上から、私自身を覗いているような。その中に、千里様がいらっしゃるのが見えたのです」


「上から……」

 どこからともなく、鳶の声が聞こえた気がした。


「千里様には、うっすらと龍気の膜が張っています。柔らかな光の繭に包まれているような」

「えぇ?」


 千里は袖捲りした両腕を、眺める。

 ぐっと目を凝らしてみても、何も変わったところはない。


「表面ではなく、体の中……ほど深くはなく、皮膚の下といいますか。あの御方とは、また違いますけれど」

「朗月のことか?」

「はい。殿下は……」


 目隠しに縫い付けられた翡翠が、庭に注ぐ陽を受けて瞬いた。


「龍気の塊そのものでございます。眩しくて、直視できぬほどの奔流が、御身おんみの形を成して歩いているかのような」

「そう、そうなんだよな、あいつってさ」


 絞った布を籠へ放って、千里は翠蓮に伝わるように、両手で大きく身振り手振りをした。手を濡らす水が、あちこちへ飛び散る。


 自分の目には、周囲に漂う龍気が朗月へ引き寄せられているように見えていること。

 龍脈に流され瑞龍湖に落ちた時、毒々しい泥のようだった湖水が、朗月の龍気の迸流で透明に晴れ渡ったこと。


 千里は一つ一つをつたな語彙ごいで、懸命に、確かめるように説明した。


「……瑞龍湖が……鎮まったのですか?」

 隣で布を洗う音が止まった。


「かの湖は、波濤はとう逆巻く、暴威ぼういの湖として都ではおそれられております。古には、突如として水嵩みずかさを増し、都や宮中にまで水禍すいかをもたらしたことさえあったそうです。その荒ぶる様こそが、大陸をべる瑞華の覇道そのものである、と」


 龍水宮りゅうすいきゅうは、湖を鎮めるために建てられた要衝ようしょうであり、神官が祈祷きとうを捧げる、禁足の聖地に指定されているのだという。


「その荒れ湖を……朗月様がおしずめになったと?」

 声を潜め、翠蓮はあたりをはばかるように首を巡らせた。


「分かんねぇけど……あいつは何か、きれいで、でっかいものに護られているような感じがするんだ」

「はい……朗月殿下ほど、清く、温かく、眩い龍気が感じられる方は他におりませぬ」


 翠蓮の言葉に、千里は深く頷いた。

 朗月の側にいる時に感じる不思議な心地よさを、的確に言い表していたからだ。


「ああ……でも、ようございました」

 翠蓮は、ほう、と胸を撫で下ろした。


「そのうち、龍の怒りを鎮めるために人身御供を捧げることになるのではないかと……女官たちの間では、もっぱらの噂だったのです」

「ヒトミゴクウ?」

「人を供物として神に捧げることでございます」


 不穏な答えに、千里はかおしかめた。村でも、狩人たちが山神に獣を捧げていく場面をしょっちゅう目にしていたからだ。


「人身御供――生贄といえば、若くて『美しい』娘が相場なのです。みな、いつ声がかかるのかとおびえているのですよ。こんな意地悪をする人が、美しいはずありませぬ」


 翠蓮は籠に積み上げられた布巾ふきんの山を、ぺちんと叩きながら、桃色の唇に悪童の笑みを浮かべた。


「ふはは!」

 しとやかな唇から吐き出された、なんとも小気味よい毒気。

 千里は思わず腹を抱えて笑い声を上げた。



 洗い終わった白布が山のように積まれた竹籠を、千里と翠蓮の二人がかりで運ぶ。

 目指すは厨房の勝手口だ。


美味うまそうな匂いがしてきたぞ」

 活気のある声と蒸気が噴き出すその場所では、ちょうど配膳台に出来立ての料理が次々と並べられているところだった。


 丸焼きにされた仔豚、香り高い香辛料で煮込まれた羊肉、色とりどりの野菜炒めに、湯気を上げる饅頭マントウの山。


「すげぇ量」

 圧倒的な富と熱に、千里はごくりと喉を鳴らした。

 朗月の部屋で出された夕餉ゆうげが質素に見えるほど、まるで祭りでも始まるかのような騒ぎだ。


「本日は、第一皇子の烈雲れつうん様が、遠征からお戻りになる日なのです。陛下への戦勝のご報告を兼ねた、宴が催されるのです」

「朗月の、兄ちゃんってことか」

「はい」


 翠蓮の唇が、千里の耳元に近づく。


「烈雲殿下は剛の者として名高く、この大陸を統一された初代皇帝の再来とうたわれるほどの戦上手でございます。が……」


 言葉をにごし、翠蓮はあたりを警戒するように視線を巡らせた。


「ご気性が、火の如くお激しいのです。少しでもかんさわれば容赦なさりません。粗相をして手討ちにされた臣下は数知れず……。ですから千里様、くれぐれもお近づきにならぬよう」

「へえ……」


 朗月と真逆だと、千里は思った。

 青林村せいりんむらの村長の娘、すずから聞いた噂話を思い出す。

 朗月が、後継者争いから早々に脱落した「負け犬皇子」であると。


「次のコウテイって、コウテイが決めるんだっけ?」

「はい。血筋の順ではなく、陛下が御自ら皇子の器量をお見極めになり、お選びになる慣わしです。次期皇帝の座に最も近いのは、烈雲殿下だと言われているのです」

「なんで?」

「耳に入ってくる噂では、未だ絶えない各地の反乱を鎮めるために、烈雲殿下のお力が必要なのだと」


 千里は首を捻る。

 常に民のためになることを考えている朗月が、なぜ「負け」なのか。


(やっぱ、変なとこだな。ここは)

 千里は唇を尖らせ、翠蓮とともに洗濯した布巾を納めるため、厨房の勝手口へと近づいた。中から、湯気とあぶらの匂いが漂ってくる。


 ふと興味本位で、千里は龍脈の眼を凝らしてみた。

 厨房の奥、天井から吊るされた幾つもの肉塊が赤黒くよどんで見えた。


 さばかれたばかりの牛や豚だ。

 千里が山で兎や山鳥を締めたばかりの時にも見える、「死」の色。

 火を通したり干し肉にすると、不思議とその色は見えなくなる。


 厨房の奥から手前側、配膳台の方へ視線を巡らせる。

 美しく盛り付けられた膳の上で、千里の眼が止まった。


 無数の料理の中に、一つだけ、奇妙な椀があった。


 椀のふたから微かに漏れる湯気に、赤黒い点が浮かんでいるのだ。

 他の料理にはない。

 たった一つの椀だけに、まるで隠された殺意のように、死の色が混じっている。


 一人の女官が、その椀が載った盆を手に取った。


「――っ」

 千里が声を上げようとした、その時だった。


「ぁ!」

 前を歩いていた翠蓮が、短く悲鳴を上げた。

 何もない平らな床で足をもつれさせ、盆を持った女官の足元へ、滑り込むように倒れ伏したのだ。


「きゃッ!?」

 悲鳴を上げた女官の盆の上で、いくつかの椀が倒れて中身がこぼれ、袖や帯を濡らした。


「何事か!?」

 奥から女官長が目くじらを立てて飛んできた。


「どうしてくれるのよ! せっかくの帯が!」

 女官は柳眉りゅうびを逆立て、衣を濡らす汁を払った。

「今日のお祝いのために新調したのに……最悪だわ!」


 周囲の料理人や高官たちも、舌打ち交じりに集まってくる。

 だが、よろよろと起き上がった翠蓮の目を覆う白布を見て、毒気を抜かれたように口を閉ざした。


「見えぬのか」

「ちっ。仕方ない。片付けるぞ、すぐに替えを……おや?」


 苛立った指示を飛ばしていた料理長が、女官の汚れた帯を指差した。

「何だ、この色は」

 見れば、鮮やかな山吹色だった帯の一部分が、まるでそこだけ炎であぶったかのように、どす黒く変色している。


「ひっ……!」

 女官が悲鳴を上げる。

 だが、同じ汁を被ったはずの袖の絹地に、変色は見られない。


 女官長が、血相を変えて帯を掴んだ。

「この帯は……鬱金うこんで染めたものだな」

「は、はい。魔除けにもなる縁起物と聞いて、奮発したのに……」


 女官は涙目だが、女官長と料理人たちの顔色は、見る見るうちに青ざめていく。


「この椀を盛り付けたのは誰だ!!」

 女官長の裂帛れっぱくの叫びが、厨房の空気に轟く。

 配膳台の周囲は、一瞬にして蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

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