第十六話 兄弟
騒ぎが収束した後、千里と翠蓮は女官長の執務室へと通された。
女官長は二人の卓に茶を勧めると、深く安堵の息を吐いた。
「鬱金は特定の毒に触れると、あのように黒く焦げた色になる。偶然とはいえ、発見に至ったのはそなたたちのおかげだ」
居住まいを正し、深く頷く。
「礼を言う。あの膳を召し上がる予定であった烈雲殿下は無論だが……私が毒見をする手筈だったのだ」
「勿体なきお言葉」
恭しく礼をする翠蓮の隣で千里が落ち着きなくしていると、部屋の外がにわかに騒がしくなった。
「烈雲殿下、ならびに皇后陛下の御成り!」
「!」
女官長がただちに上座から立ち退き、千里や翠蓮と同じ下方へと座を移す。
「え、え??」
何が起きたのか分からず、きょろきょろする千里の袖を、翠蓮がぐい、と引いた。
耳元に囁きが飛んでくる。
「膝をついて、頭をお下げください。床に額が付くくらいに。そのまま、動かぬよう」
「う、うん」
千里は言われるがまま、見よう見まねでその場に屈み込み、ダンゴムシのように身を丸めた。
間も無く、扉が重々しく開かれる。
重たい衣擦れの音と共に現れたのは、威厳を纏った二つの影だった。
「面をお上げ。殿下の命の恩人の顔を、どうぞ見せてちょうだい」
深く優しい声だった。
千里が素直に顔を上げると、隣の翠蓮や女官長はまだ身を低くしている。
「あ、あれ?」
視線を彷徨わせていると、大輪の牡丹のような美貌の女――皇后と眼が合った。
(この人が、朗月の母ちゃんか)
黒曜の宝玉の如き瞳と、すっと通った小ぶりの鼻梁。
朗月の顔立ちが見出せる。
隣に立つ長身の男が、第一皇子・烈雲だ。
戦上手の猛将と聞いて獣のような男を想像していたが、目の前にいるのは、静かな岩山のような青年だった。その瞳は意外なほどに静謐で、寡黙な空気をかもしていた。
(……朗月と似てるところもあるけど、全然違う)
千里は、烈雲へ向けて目を凝らした。
厚みのある体から、皇帝と同じ紅の気が立ち昇っている。
特に首筋のあたりで澱みが濃く渦巻いて、血が流れ出しているようにも見えた。
「大儀であった」
烈雲の口から、腹の底に響くような低い声が降った。
肉食の蜥蜴のような目が、千里に止まる。
「其方か。朗月が連れ帰ったという童は」
「あ……」
そうだ、と答えようとして、千里は言葉に詰まった。
宦官の説教が、脳裏をよぎる。
自分の無作法が、朗月の評判を落とすことになる、と。
千里は冷や汗をかきながら、懸命に言葉を選んだ。
「え、えっと……はい!」
烈雲は無表情のまま、平坦に頷いた。
「名乗ることを許そう」
「あ?」
千里はぽかんと口を開けた。
名前を言うことに許すも、許さないもあるのか。
意味が分からず固まっていると、斜め対面から女官長が明らかに眉をひそめている。
「ぼうやの名前を教えておくれ、と言っているのですよ」
すかさず、皇后が扇子で口元を隠し、助け舟を出した。
「はい、おれ、千里! ――ぅぐっ」
元気よく答えた瞬間、脇腹に痛みが走った。
翠蓮が、見えない位置で思い切り肘を入れてきたのだ。
「――で、ございます……」
千里は涙目で付け加えた。
後で翠蓮に礼儀作法を教えてもらわねば。
「覚えておこう」
烈雲は短く告げると、興味を失ったように視線を女官長へと転じた。
「して、下手人の目星はついているのか」
「は、はい。厨房に出入りしていた者の中から数名に絞り込み、現在、身辺を洗わせております」
女官長が即座に答える。
烈雲は背後に控える護衛の武官へ、肩越しに蛇のような眼光を向けた。
「下手人は捕らえ次第、拷問にかけて吐かせろ。黒幕、協力者、その一族郎党に至るまで、全て引きずり出して斬首だ」
声に、怒りは一切ない。
手続きの流れを確認するかのような平坦さで、苛烈な粛清を命じた。
「承知いたしました」
武官たちが深く頭を垂れる。
部屋を出る間際、烈雲は女官長に背を向けたまま、低い声で言い残した。
「この童らをありがたく思うが良い。見過ごしていたら、貴様の首もなかった」
「も、申し訳ございませぬ……ッ」
女官長は声を震わせ、床に崩れ落ちた。
遠ざかる覇王の背中を、千里は固唾を吞んで見送る。
烈雲の輪郭から立ち昇る紅い靄が鎌首をもたげ、主の首をぎりぎりと締め上げるように、まとわりついていた。
「兄上の膳に……毒が!?」
部屋に戻り千里がことの次第を報告するなり、朗月は読みかけの書簡を取り落として立ち上がった。
「翠蓮が、わざと転んで膳をひっくり返したんだ」
「あの女官見習いの子か……そうか……よかった……」
震える指先で額を覆い、朗月は祈るように目を閉じる。
そんな様子を、千里は少しの不可解さを抱いて見つめた。
あの凍った蜥蜴の眼をした第一皇子は、果たして朗月に対し、同じだけの情愛を持っているのだろうか、と。
*
朗月の自室の卓上に、山海の珍味が湯気を立てている。
食欲を刺激する匂いに包まれて、千里は「待て」を強要されていた。
部屋の隅で宦官が、銀の箸を手に料理と対峙している。毒見だ。
無表情のまま、一皿、また一皿と、微量を口へ運んでは、ゆっくりと咀嚼し、嚥下する。喉仏が動くごくりという音だけが、静寂の中で不気味に響いた。
「……」
その様子を、朗月は椅子に深く腰掛けたまま、落ち着きなく見つめている。
面差しは蝋細工のように蒼白だ。
視線が、宦官の顔色や呼吸のわずかな変化に釘付けになっている。
長い沈黙のあと、銀の箸がカチリと澄んだ音を立てて箸置きに戻された。
宦官は懐から白い布を取り出し口元をぬぐうと、恭しく一礼する。
「どうぞ、お召し上がりください」
朗月の強張っていた肩から、ふっと力が抜ける。
白かった頬に血の気が戻り、表情筋が緩んだ。
「では、いただこうか、千里」
待ちきれず卓に身を乗り出している千里へと、朗月の穏やかな瞳が向いた。
その晩、千里は夕餉の卓で、朗月から「毒見」という儀式の意味を教わった。
「私が幼い頃……よく遊んだ従兄弟の皇子が、死んでしまったのだ。前日まで何事もなく健やかであったのに」
朗月は、湯気を立てる膳を前に、遠い目をして語り始めた。
「数年前にも、私に仕えてくれていた毒見役の宦官が……とても優しい男だったのだが……血を吐いて倒れたのだ」
拭い去れない深い悲嘆が指先を震わせて、箸が膳に滑り落ちた。
「毒で……?」
千里にとって衝撃だったのは、食事にあえて毒を混ぜ込み、誰かを亡き者にしようとする悪意が存在すること。それを防ぐための身代わりが、当たり前のように存在しているという事実だった。
掴んでいた熱々の饅頭が、急に冷たい石塊のように感じられる。
「心配せずともよい」
手が止まった千里を見て、朗月が寂しげに微笑む。
「私を狙う意味など、もうないのだ」
早々に後継者争いから身を引いた無力な皇子を亡き者にしたところで、誰も得はしない。
「冷めてしまうよ」
朗月はそう言って自分も椀を取り上げて、温かな汁を啜った。
「う、うん」
千里の目が、ふと大皿に載った鯉の姿蒸しを見やる。
ぬらりと光る餡の黒さが、黒泥村で遭遇した怪魚を思い出させた。
もしあの時、朗月が死んでいたらどうなっていたのか。
せっかく進み始めた治水が、止まってしまうだろう。何より、朗月が新しい州侯になるかもしれないと希望を宿した村人たちの未来も、消えていた。
毒を入れる奴は、あの怪魚と同じなのだ。
目に見えない妖獣たちが宮殿の影に潜んでいて、いつも虎視眈々と、大勢の誰かにとって大切な人を狙っているのだ。
(そんなの、許しちゃダメだ)
千里は、卓上に並ぶ美しい磁器の皿を睨みつけた。
毒見役なんていらない。
誰の命も犠牲にせず、「死」の色を見抜く方法はないか。
「……千……」
千里の手が完全に止まったことに気づき、朗月は微笑ましげに見守った。
龍の眼が、天井の隅の暗がり――ここではない何処か――を穴が開くほど凝視している。青林村で共に暮らしていた時も、この光景はしょっちゅう目にしたものだ。
朗月はそっと椀を置き、小さな発明家の邪魔にならぬよう静かに、一人で夕餉を進めた。




