第十四話 宮中の出会い
豪奢な調度品に囲まれた朗月の居室には、朝から来客が絶えない。
次から次へと高官や神官たちが手土産を持って訪れ、茶を飲みにくる。
ここぞとばかりに顔を繋ぎに来ているのだ。
部屋の空気は、焚き染められた香の匂いと大人の欲が混ざり合い、千里には息苦しい。その中で朗月は、微笑を絶やさずに来客たちへ相槌を繰り返していた。
若い女官が、盆に載せた茶器と色鮮やかな点心を運んでくる。
老宦官が進み出て、盆の上から菓子を一つ、銀の箸で摘まみ上げる。
口へと運び、次いで茶を一口含んだ。
しばし目を閉じて喉の奥で転がしてから、飲み下す。
それからようやく、盆は朗月と客人の卓へと置かれた。
(へえ。先に味見するんだ)
千里は、まじまじとその様子へ食い入る。
毒見など知る由もない千里の目には宦官の行動が、随分と食い意地の張ったじいさんだ、と映っていた。
「千里様、退屈でいらっしゃるようですね」
「へ」
千里のニヤけた顔の意図を読み取ったか、老宦官は千里の背中を部屋の外へと押し出た。
「ちぇー。まあいいけど」
息苦しい場所から逃れられたものの、やることは無い。
千里は広大な宮中の隅を、あてどなく歩き始めた。
どこへ行っても、人工的な幾何学的な形状にに刈り込まれた庭木と、冷ややかな石畳が続いている。あまりに清潔で、息が詰まる場所だ。
「ん……」
どこをどう歩いたのか。
植え込みをくぐったり、壁の穴を抜けたりを繰り返す。
突き当たりで出くわした、忘れられたような小さな箱庭の前で足が止まった。
伸び放題の草木が、かえって自然の柔らかな風情を醸し出している。
箱の中央、冬でも実をつけた木々の下で、一人の少女が屈んでいた。
下級女官に支給される、浅葱色の官服姿だ。
背中を向け、落ちた木の実を籠へ拾っている。
「朗月殿下のお連れ様、ですか?」
涼やかな声。少女の手は実を拾い続け、振り返りもしなかった。
「え、う、うん」
虚を突かれた千里に向けて、少女がゆっくりと立ち上がった。
年は十三、四ほどであろうか。亜麻色の髪を長く垂らしている。
洗い晒された木綿の衣は、金糸銀糸で埋め尽くされた宮中の景色の中で、路傍の草のように慎ましい。
平凡ないでたちの中で、たった一点の異質さが際立っていた。
純白の厚い絹布が、両目を完全に覆っている。
布の中央、眉間のあたりに第三の眼を思わせる深緑の翡翠が、銀糸で縫い付けられていた。
(目隠し……?)
言葉を継げずにいる千里へ小さく会釈をし、庭石や木の根の隆起を難なく避け、正確に千里の目の前まで歩み寄って足を止める。
「すげぇ。見えてるみたいだ」
千里の悪気がない反応を受けて、少女の小さな唇が引き上がった。
「いいえ。私は陽の光を知りませぬ」
「なんで石とか避けられるんだ?」
「世は、常にさざめいておりますから」
少女は翡翠の額を、僅かに傾げた。
「さざめく?」
「地の脈動が地上にあるものに反響し、世の輪郭を教えてくれるのです。私の頭には……うっすらとした光の条が、浮かんで見えます」
「光……おれと、同じだ!」
思わず千里は、少女へ身を乗り出した。
「あなた様も?」
少女の見えぬはずの瞳が、目隠しの下から千里を凝視しているようだ。
千里は無遠慮に手を伸ばすと、籠を持っていない方の少女の手を取った。
「あ、あの……?」
千里はその細い指先を一本の庭木の方へと向けさせた。
「あそこの木。根っこから枝に向かって光が流れてんの、分かるか?」
「……はい」
少女は抵抗することなく、千里に導かれるままに庭木へ顔を向ける。
「あの木には、この庭の中でもっとも多くの実がなります。地面から吸い上げた力が、脈打つように幹を登っていくのが感じられます」
今度は少女が千里に握られた手を、自ら少し離れた場所にある古井戸がある方向へ導いた。
「あなた様には、あちらに何が見えますか?」
庭の隅、木陰にひっそりと佇む井戸は風化した灰色の石組みで囲われていた。
石の隙間からは瑞々しい苔が、碧い刺繍のように張り付いている。
泥臭さはなく、千里の眼には、清らかな光が朝霧のように満ちて見えていた。
見えたままを伝えると、少女の桃色の唇から、「まあ」と感嘆が漏れた。
「私もです。その井戸は、都の北に座す『玉泉山』の岩清水を引いていて、雑味がなく甘露なのです」
同じものが、視えている。
「おれだけじゃなかったんだ!」
初めて出会った同志の存在を前に、千里は声を弾ませた。
「私も、このようなお話を誰かとできたのは初めてです」
誰とも分かち合えなかった、異能。
まるで隠していた宝物を分け合った親友のように、二人は声を潜めて笑い合った。
*
少女の名は「翠蓮」といった。
庭から庭へと移動しながら木の実を拾い、ぽつり、ぽつりと交わす言葉の中で、翠蓮は自身の境遇を語った。
物心ついた頃にはすでに光を失っていた翠蓮は、幼くして見習いとしてこの宮中に召し上げられたのだそうだ。
「目が見えなくとも、不自由はありませぬ。ここは壁に囲まれていて、安全ですから」
淡々と語る横顔に、悲愴な影はない。
やがて二人は箱庭のような閉ざされた中庭を抜け、宮中の回廊へと出た。
途端に視界が開け、景色はひとつの街の如き様相を呈した。
朱塗りの柱が並ぶ大通りを、様々な身なりの人々が行き交っている。
物々しい甲冑の武官たち、水瓶を運ぶ女官たち、書簡を抱える宦官や、下級文官たち。目に入る範囲だけでも、治水で賑わう黒泥村の人口より多いのではないかと錯覚する。
籠に山査子を放り込みながら、翠蓮は流れるような口調で宮中の仕組みを解説してくれた。
「あちらにいらっしゃるのが、尚食局の方々です。毎日、数千人分の食事を運び出します。向こうで文箱を運んでいるのは礼部の下官。儀式の準備に追われているのでしょう」
まるで見えているように、宮中の景色へ翡翠の目を向ける。
「しょーしょー……? れーぶ……?」
千里は聞き慣れぬ単語の羅列ばかりで混乱しそうだが、分かってきたこともある。
ここには様々な役割や仕事があって、たくさんの人間が、巨大な宮城という龍を生かすための臓器として動いているということを。
「みんな、ここで生きてるんだ」
千里が感心したように呟いた、その時だった。
「!」
翠蓮の肩が、びくりと跳ねた。
何かの気配を察したのか顔を上げ、回廊の曲がり角を鋭く振り仰ぐ。
「どうしたんだ??」
戸惑う千里に応えず、手にした実を素早く籠に放り込むや否や、その場に音もなく膝をついた。
「千里」
涼やかな声が、風に乗って届いた。
白衣の裾を翻し、こちらへと歩いてくる。
「――朗月殿下」
ざっ、と波が引くように、周囲の喧騒が凪いだ。
足早に行き交っていた女官も、大声で議論していた武官も一斉に動きを止め、道の端に寄って身を低くする。
「あ、朗月!」
千里が手を振る。
あちこちで、ひゅっ、と周囲がさざめく音が重なる。
平伏していた者たちが、信じられないものを見るように、千里を盗み見ていた。
朗月は千里の前まで歩み寄ると、隣で傅く小さな背中へ声をかけた。
「面を上げなさい。千里の相手をしてくれていたのだね。感謝する」
「……っ」
おずおずと顔を上げた翠蓮の目隠しされた貌へ、朗月は優しく微笑んだ。
千里は、翠蓮の肩に気安く手を置いた。
「こいつは翠蓮だよ。おれたち、『仲間』になったんだ」
「仲間、か」
朗月は目を細め、嬉しそうに頷いた。
「それは楽しそうだ。翠蓮、千里の友達になっておくれ」
周囲の空気が、固まった。
「恐れながら、殿下」
背後に控えていた老宦官が、咎めるように、けれど音量を絞って囁いた。
「ご慈悲は美徳なれど、過ぎれば毒となり、秩序が乱れます」
「……」
朗月は困ったように眉尻を下げ、翠蓮は再び額を地面に着ける。
「私のような卑しき者が、殿下の御声を汚すなど……滅相もないことでございます」
千里はきょとんとして、平伏する友達――翠蓮と、どこか悲しげな朗月を見比べた。
(なんでだ?)
友達になれと言っただけだ。それが、叱られるようなことなのか。
「何事か?!」
回廊の奥から絹擦れの音を荒げ、年配の女官が駆け寄ってきた。
髪を高く結い上げた、女官長である。地面に額を擦り付ける翠蓮と、佇む朗月を見るなり、血相を変えてその場に跪いた。
「これは、朗月殿下……申し訳ございません、私の監督不行き届きでございます」
女官長は顔を上げると、鋭い眼光で翠蓮を睨みつけた。
「あろうことか殿下の御前を汚すなど……! 直ちに厳罰に処し、教育し直させますゆえ」
「待ちなさい」
朗月が静かに、けれど有無を言わせぬ響きで制した。
「私が引き止めたのだ。その娘を叱らないでくれ」
朗月は女官長の言葉を遮り諭すように告げると、ふ、と寂しげに眉を寄せたまま踵を返した。
背後に控えていた老宦官が、一礼して後に続こうとして、千里へと振り返る。
「千里様。夕餉のご用意が整っておりますゆえ、共にお部屋へ参りましょう」
恭しいが、拒絶を許さぬ響きだ。
「う、うん……。翠蓮、またな!」
千里は石畳に張り付いたまま動かない少女へ、声を投げかけた。
返事はなかった。
先に歩き出した老宦官の背中を、千里は小走りで追いかける。
不意に、前を行く初老の背中が、独り言のように口を開いた。
「千里様。この宮中においては殿下に対し、然るべき礼を尽くしてくださいませ」
「礼?」
「左様でございます」
老宦官は足を止めず、淡々と続けた。
「貴方様が無作法であればあるほど、殿下が侮られるのです」
「……!」
千里の足が止まった。
構わず、老宦官は先へ進む。長い回廊に、足音が虚しく反響した。
「朗月が、悪く思われる……?」
千里は唇をへの字に曲げた。
ここは、不可解で窮屈な掟ばかりの蜘蛛の巣だ。
「千里?」
回廊の先を曲がりかけた朗月が、振り返る。
「い、いま行く!」
背中にまとわりつく湿った重苦しさから逃げようと、千里は駆け出した。




