第十三話 万里の門
幸いにして、この大陸の覇者たる龍帝は、礼節を知らぬ童の首をいちいち刎ねるほど矮小な器ではなかった。
「威勢のいい子猿であるな、朗月。可愛がってやるといい」
むしろ、低い唸りを愉快そうに転がした。
「子猿って言うな! あんたで七人目だぞ!」
「千里、その辺で」
「むぎゅっ!?」
視界が白に覆われた。
朗月の広い袖が被さったかと思うと、千里は頭から強く抱きすくめられたのだ。
物理的に口を封じられた千里の抗議は、上質な絹の中でくぐもって消えた。
平伏していた周囲の臣下たちの背中が「ひぃっ」と引き攣った呼気に波打つ。
朗月は腕の中で暴れる「子猿」を離さぬまま、居住まいを正した。
「――父上」
改まって朗月は、眼前の巨影へ額を伏せた。
「黒田郷の治水……予算のご裁可をいただき、感謝いたします」
緊張で乾いた喉を嚥下し、言葉を紡ぐ。
「知らぬな。お前の隠居先への手土産に、なぜ我が力添えなどしてやらねばならぬ」
皇帝の口から返ったのは、白々しいまでの嘘と、肺腑を衝く道理だった。
「……っ」
朗月は絶句する。
見透かされていた。
民のためと口では言いながら、心のどこかで幽谷州を「静かな逃げ場所」として見ていたことを。
父帝の双眸が、冷ややかに末子を射抜く。
「お前が始めた以上、軌道に載るまでは放り出すことは許されぬ。早々に幽谷州へ戻るがよい」
「は……はい!」
朗月は顔を上げた。
「幽谷州への下向の嘆願についてだが。治水の成否の目処が立ったならば、一考してやらぬでもない」
「父上……!」
朗月の瞳に光が差す。
だが、父帝は釘を刺すように低い声を被せた。
「侮るな。酷地なればこそ、民を統べるには強き力と知恵が要る。お前があの豚侯の二の舞になるような器であるならば、州侯の椅子など到底渡せぬ」
冷厳な指摘が、朗月の胸に深く突き刺さる。
甘えを捨て、幽谷の地を真に背負う覚悟があるのかと、問われていた。
「心して取り組みます!」
朗月は深く頭を垂れた。
「迎えが来るまで、宮中で待て。今のお前に、大仰な護衛団を組織するような余裕はない」
今のお前に――奇妙な含みを持たせたまま、皇帝は今度こそ踵を返した。
翻る黒衣の裾が鋭く風を切り、重厚な扉の向こうへと消えていく。
気配が完全に消失した、その瞬間。
「はぁ……っ」
その場にいた神官や高官たちが、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「今日は御体の調子が優れておられたようだ」
「だからご機嫌が麗しかったのだろう」
「……運が良かったな、あの童も」
額の汗を拭う者、震える手で胸を押さえる者。
それぞれが死刑宣告を免れた心地で、荒い深呼吸を繰り返していた。
*
その後、二人は水龍宮を後にし、宮中の端にある朗月の居室へと移された。
長い回廊を渡り、幾重もの門を潜り抜ける。
「父上は、お加減が優れないのか」
前を歩く宦官の背へ、朗月が問う。宦官は歩調を緩めず、だが僅かに言葉を濁した。
「……政務によるお疲れが、少々溜まっておられるご様子です」
「そうか。では、母上は」
「皇后陛下におかれましては……」
宦官は振り返りもせず、通り一遍の口上を述べた。
「此度は、離宮でのご祈祷へ出向かれておりますゆえ、ご不在でございます」
祈祷、か。
朗月の薄い唇が、自嘲の形に歪む。
嘘だということは、宦官の背中が語っていた。
「そう、か」
朗月は問いかけを止め、それきりの沈黙を肯定の代わりとした。
「……朗月?」
千里は、隣を歩く朗月の顔を覗き込んだ。
千里は、父母を知らない。
それが、爺と婆と同じようなものだとばかり思っていた。
叱られると少し鬱陶しいが、温かくて、安心できる大切な存在。
今の朗月からは、何も感じられない。
凍てついた横顔が千里には不思議でならず――同時に、どうしようもなく悲しく映った。
方向感覚が狂ってきた頃には、整然と刈り込まれた庭木や、人工的な美しさが支配する空間へと景色が変わっていく。
「こちらでございます。殿下がお使いになっていた頃そのままに」
宦官が恭しく扉を開け放つと、そこには千里の想像を絶する空間が広がっていた。
「ここが、朗月の部屋?」
見渡す限り、金と瑠璃と絹が競い合っている
「……すげぇ、目がチカチカする」
千里は口を開けたまま、煌びやかな部屋を見回した。
窓辺には透かし彫りの格子が嵌められ、差し込む光が机に整然と並ぶ文房四宝を照らしている。壁一面の書架には万巻の書物がぎっしりと収められ、奥部屋の寝台は精緻な彫刻が施された天蓋に覆われて、薄絹の帷が揺れている。
「ああ。久しぶりに戻ってきたが……何だか落ち着かないな」
朗月は慣れ親しんだはずの椅子に、どこか余所余所しく腰を下ろした。
千里は遠慮も躊躇もなく、寝台に飛び込んだ。
豪奢な調度品に囲まれた机で、朗月が筆をとる。文の宛先は、黒泥村に残してきた従者たちだ。
白葉も蒼嶽も無事であるか。治水に影響は無いか。自分たちは五体満足に帝都の宮城にいる旨が記されている。
「ここから手紙が村に着くまで、どんくらいかかるんだ? 春になっちまうんじゃないか?」
千里の素朴な疑問に、朗月は首を振った。
「伝書鳥と風脈を使えば、手紙は数日もかからず届くよ」
「でんしょちょう……ふうみゃく?」
「ああ。空には『風脈』と呼ばれる道があるのだ」
朗月は筆を硯に戻した。
「空には、目には見えぬ風の回廊が張り巡らされているという。その流れを読み、鳩や鷹や烏を操って文を運ばせるのだ」
「そんな便利なもんがあるなんて、知らなかった!」
「そうだな」
朗月は苦笑を浮かべ、頷いた。
風脈の伝書鳥は、勅許を得た一部の高官にしか許されていない特権的な通信網なのだ。
「なあ、朗月」
千里は寝台から飛び降りて、机越しに朗月の前に立つ。
「ん?」
「川は、舟で人とか荷物とか、運ぶよな? 風脈は、鳥で文とか運べる」
千里は小さな手で、指折り数えた。
「龍脈は?」
したためたばかりの書状を扇いでいた朗月の手が、ぴたりと止まった。
「千里……それは」
即座に「否」と首を横に振ろうとして――朗月は思いとどまる。
龍脈とは、大陸を為す七柱の龍神の血流。
人智を超えた聖流だ。
無理だと断ずる己と、遠方の山影に焦がれ、その妄想を肯定したかった己が、せめぎ合う。
「……ないのか?」
沈黙を、千里の不満げな声が破った。
「おれたち、龍脈を流れて、ここまで来たよな」
谷底で光の奔流に飲み込まれ、気がつけば帝都の瑞龍湖に落ちていた。
「…………」
沈黙を続ける朗月の面持ちを、千里は不思議そうに覗き込み、
「よし、決めた!」
正面から高らかに机を叩いた。文房四宝が机上で飛び跳ねる。
「ないなら、おれが作る」
「……作るって、何をだ」
「龍脈を流れる舟」
「な……」
呆気にとられる朗月をよそに、千里は目を輝かせて空中に見えない絵を描き始めた。
「水や風に乗れるなら、光にも乗れるはずだ。そんで、行きたい場所にすぐ行けるようになるんだ」
*
誰もがそれを、子どもの夢想と笑うだろう。
これが遥か未来、『万里の門』と呼ばれる稀代の発明となり、大陸全土を平定へと導く切り札になろうとは。
今はまだ新たな歴史の、最初の一行が記されたに過ぎなかった。




