其七
つぐみ嬢が、見知らぬ男子学生と親しげに語らっていた。
その男は、私よりも頭一つ分ほど背が高く、肩幅も広く、いかにも体育会系特有の底抜けに明るい健康的な笑みを湛えていた。つぐみ嬢は彼の話に耳を傾けながら、あの、私に向けるのと同じ朗らかな(あるいはそれ以上に華やかな)微笑みを浮かべている。
彼女があんなふうに無防備に笑うのを、私は知っている。私と机を並べているときにも、彼女はたしかにそうやって笑う。
だが、今、彼女の視線の先で輝いているのは、私ではない。
……まあ、つぐみ嬢にだって友人はいるだろう。同じ授業を取っているのかもしれぬ。
ふん。
背が高いが、そのぶん猫背気味になっておるように見える。肩幅が広く、その分、道幅も取っておるではないか、あれでは通行の邪魔になる。体育会系は笑い声がでかくて耳障りだ……今のところその大きな笑い声は響いてきておらぬが……。つぐみ嬢の笑顔を向けられて目じりの下がり方の品のなさと言ったら!
……私は何をつぶさに観察しているのだ……?
そう我に返りかけた時、見知らぬ男が何か気の利いた台詞を吐き、つぐみ嬢が再び楽しげに声を立てて笑った。
「……何なのだ、一体」
私の唇から、呪詛のような呟きが勝手に漏れ出した。
何が「何なのだ」なのか、私自身、謎であった。
彼女が学内のどの男と語らおうと、彼女の個人的な自由の範疇に決まっている。私以外の別の学生と親しく言葉を交わす権利だって、彼女には十全にあるはずだ。
第一、私は彼女の恋人でも保護者でも、ましてや運命の伴侶などではない。
……。
私たちはあくまで、図書館という学問の空間で偶然に席を隣り合わせているだけの、ただの無関係な大学生同士なのだ。
……もっとも、私の正体が二本足で歩く化け狸であるという致命的な例外を除けば、だが。
私は胸に抱えていた分厚い資料をぎゅっと抱きしめ直した。
なぜだか、その場にこれ以上立ち続けることが、耐え難い苦痛に感じられた。
私は彼女に声をかけることすらせず、そっと身を翻してその場に背を向けた。
別に、あの場に足を向け、自分も挨拶しても何ら差し支えはない。が、できなかったのだ。
彼女が誰とどこで何を喋ろうと、私の一切の利害関係には何らの関わり合いもないのだ。
そう理解しているはずなのに、なぜか足の裏が鉛のように重く、胸のあたりには冷たい泥が詰まったような不快な圧迫感があった。自分のつま先を見ながら、キャンパスの舗道を歩いた。私は自分の内部で起きているこの異常気象のメカニズムを解明すべく、懸命に思考を巡らせようとした。
あの長身の男子学生は、もしやつぐみ嬢と同じ、あの厳格なゼミの所属なのだろうか。
あるいは、彼女が長らく探し求めていた参考文献について、何か極秘の内部情報でも持っているというのか。だとすれば、私の与り知らないところで彼女のレポートや演習内容の作成が勝手に進展してしまうおそれがある。
これは我が「口止め工作」の根幹を揺るがす、非常事態ではないか。
いや、待て。
彼女の演習が順調に完成に向かうことは、そもそも私の目的(彼女を平穏無事に卒業させ、秘密を死守させること)に完全に合致しているはずだ。喜ばしいことこそあれ、不満を覚える筋合いなど一ミリたりとも存在しない。
では、この胸のざわめきは何なのだ。
私はキャンパスの片隅で、思わず足を止めて天を仰いだ。
皆目、見当がつかない。
そのまま大学の正門を飛び出し、弘高下の駅から私の足は、意志に反して勝手に土手町の方向へとさまよい出ていた。気づけば、あの薄暗い裏路地にひっそりと佇む、怪しげな喫茶店の扉を蹴破るようにして開けていた。
「兄貴! 聞いてくれ!」
カウンターの奥で、いつものように胡乱な気配を漂わせながら珈琲豆をいじっていた長男・朔太郎は、私のただならぬ形相を認めると、ふふんと鼻を鳴らして悠然と振り返った。
「おお、狸一。その血走った目つきは、もしや首尾よくあの女子を完全に惚れさせ、永遠の沈黙を誓わせることに成功したか?」
「惚れさせてなどいない! というか、そういう次元の話ではないのだ!」
私はカウンターにしがみつくようにして絶叫した。
「いや、待て、惚れさせていないのならば、お前はいったい何をそんなに慌てふためいているのだ。私に向かって何を報告しに来た」
「それを自分で整理するためにここへ来たのだろうが!」
「ならばもっと優雅に珈琲でも啜りながら語らんかね」
「私は優雅に談笑するために来たのではない!」
「では何だ」
「自分でもわからぬのだよ!」
店の薄暗い隅では、次兄の中也がランプの微光の下で古びた詩集のページをめくっていた。彼は私の方を一瞥すらすることなく、ページの隙間から冷徹な呟きを落とした。
「……そういえば、先日彼女からもらった菓子は、もう胃袋に収まったのか」
「……は?」
私はその不意打ちの質問に、心臓の跳ね上がりを覚えたまま硬直した。
「あの洋菓子屋の箱だ。中身は、いったい何枚入っていた?」
「……ええと、それは、だな……」
私は冷や汗を流しながら、虚空へ視線を泳がせた。
「……たしか、六枚、だったか……?」
「違うな。あれは綺麗に並べられて八枚だったはずだ」
「なぜそんな細部まで把握しているのだ!」
「お前が誇らしげに掲げて見せて、あまつさえ包装紙のシールまでこれ見よがしに何度も突きつけてきていたからな」
「掲げてなどおらん! あれはよく見えるようにだな――」
「ならば、なぜ一枚たりとも口をつけていないのだ」
中也兄の静かな声が、私の急所を正確に射抜いた。私は一瞬で言葉を失い、喉の奥を詰まらせた。
「……なぜ、それを中也兄が知っている」
「お前は、ただその小箱を抱えて毎夜悶々としているのだろう」
「っ……!」
私は一切の反論を組み立てることができなかった。
箱は捨てられない。クッキーは一粒たりとも減らない。携帯電話の送信ボタンは恐怖のあまり押せない。
そして、つぐみ嬢が学内で別の男と楽しげに笑い合っている姿を見ただけで、我が全宇宙が崩壊し、その欠片さえも消え失せたかのような絶望感に襲われる。
……。
私はたまらず両手で自分の頭を抱え込み、カウンターの板の上に崩れ落ちた。
「なあ、狸一」
中也兄が、相変わらず詩集から目を離さないまま、恐ろしいほど的確な追撃を放った。
「お前、今朝からその傷だらけの携帯電話を、いったい何回開閉した?」
「……は?」
喉から間抜けな音が漏れた。
「昨日の夕方から今朝にかけて、お前はそのガラクタを優に十七回開閉して、結局一度もメッセージを送信せずに閉じているな」
「――っ!」
私は魂の抜けたような声を上げ、カウンターにしがみついた。
「昨日ここへ駆け込んできたときには、彼女が夜風で風邪を引いているのではないかと本気で案じていただろう」
「……それはその、弘前の夜の冷え込みが予想以上に過酷であり、彼女の気管支の健康状態が我が口止め工作の遂行において致命的な変数であるからであって……!」
「一昨日は、彼女のゼミの担当教授の理不尽な機嫌の悪さに激しい怒りを燃やしていたな」
「だから! それもすべて、計画の円滑な進行を阻害する外部要因に対する正当な危機管理であって、決して私個人の感情がどうこうというわけでは――」
「汚れつちまつた恋心……」
中也兄は静かに目を落としたまま、詩集の向こうで何か呟いたようだが、聞こえなかったことにした。
だが、朔太郎はその言葉を拾っていたらしい。
「ほら見ろ! 兄の言った通りではないか! 女というものはだな、こうして巧みに惚れさせさえすれば、秘密もへったくれもなくなるのだ!」
長男・朔太郎は、相変わらず的外れで最高に調子の外れた勝利宣言を、一人で勝手に高らかに掲げ続けていた。
「違う! 惚れさせてなどいない! 私は終始一貫して、理知的に振る舞っているだけだ!」
「では、その尻から生い茂り、いまやカウンターの椅子を突き破らんばかりに盛大に逆立っているその茶色い尻尾は何なのだね」
中也兄が、あまりにも淡々と、しかし容赦なく指摘した。
「……これはその、だな!」
言い訳の言葉が、一文字も脳裏に浮かんでこない。
「狸の目から見ても、一目瞭然だぞ」
「狸だからこそ、この複雑怪奇な心理的メカニズムの特異性が理解できぬのだ!」
私はもはや、自分が何語を喋っているのかすら判別がつかぬまま、無様に叫び声を上げた。
中也兄は冷ややかに鼻を鳴らすと、再び何食わぬ顔で詩集のページを開き直した。
「……勝手にするがいい」
それきり、彼は一切の言葉を発しなくなった。その絶対的な沈黙の重みが、何よりも私を惨めに打ちのめした。
私は再びカウンターに額を押し付け、半狂乱のまま沈黙した。
わからぬ。
この不条理で非科学的な精神の変調が何であるのか、気高き化け狸の私にはわからぬのだ。私は人間の社会に潜入する生き物であり、彼女の秘密を守り抜くという大義名分のもとで、あくまで冷静かつ冷徹に利害関係を調整しているにすぎないはずだ。
そうだ。すべては工作の一環なのだ。
彼女が学内でどの男と談笑しようと、私の平穏には一文の損害ももたらさない。彼女から届くメッセージの短さに落胆する必要など、論理的に考えて存在しない。
彼女からもらったクッキーの箱を、枕元に置いて毎夜崇める必要だって――
……いや、箱の件は、あくまできれいに再利用するための資源循環的エコ活動である。
私は己の脳内で構築した完璧な(しかし泥縄式な)理論武装にしがみついた。
そうして、ゆっくりと、しかし不自然に顔を上げた。
その瞬間。
チープな電子音がけたたましく鳴り響き、紺色の二つ折りケータイが激しく震えた。
私は電撃に打たれたように跳ね上がった。
慌ててポケットからそれを引きずり出し、震える指で二つ折りの画面をパカッと勢いよく開いた。
『明日も図書館にいる?』
画面に表示されたのは、たった一行の短い文字列であった。
それだけの、あまりにも素っ気ない電子の記号にすぎないというのに。
私の胸の奥底では、歓喜の嵐が暴れ狂い始めた。倶利伽羅峠に火牛が放たれたかのような勢いである。つい先ほどまで精巧に築き上げた理屈と理論武装は、一瞬にして木端微塵に吹き飛んだ。
明日もまた、彼女に会える。
私はその事実だけで頭が真っ白になり、反射的に親指を動かして返信の作成に取りかかった。
『もちろんだとも! 君が来校するのであれば、先日私が発見した極秘の参考文献について、余すところなく詳細に解説して進ぜよう。なお、昨日の議論に関してだが――』
私はそこで激しく手を止め、額に冷や汗を浮かべながら、その長すぎる大言壮語の文章をすべて消去した。
そして、震える指で新たに打ち直した。
『いる。たまたまな』
……送信。
私は心臓の鼓動を隠すように、荒々しく携帯電話をパタンと閉じた。
パカッ。
反射的に、もう一度開いてしまう。
画面には、見慣れた「送信済み」の文字が表示されていた。
私はそれを確認し、なぜか敗北感と満足感が入り混じった奇妙な溜息をつきながら、無理やり力強くうなずいた。
「よし」
「……いったい、何がよしなのだ、弟よ」
カウンターの向こうで、朔太郎が怪訝そうに首をかしげた。
「何でもないっ!」
私は怒鳴り声を上げ、その問題の魔道具を乱暴にポケットの奥底へと押し込んだ。
その拍子に、隠しきれなかった茶色いものが、またもや、ぼふん、と膨れ上がって飛び出した。
中也兄は、詩集の向こう側で小さく、しかしあきれ返ったように深く息をついた。
私は目の前に置かれた冷め切った珈琲を、ヤケクソになって一気に飲み干した。
苦い……。
だが、なぜだか今日の珈琲は、昨日までよりもほんの少しだけ、甘ったるく味わい深い気がしたのだった。
そういう日々を、一ヶ月ほど続けていた。




