其六
千年駅というところは駅を降りても何もない。それが狸にとっては逆にありがたい。
この駅から徒歩僅かなところにある、二階建ての家。そこが私が暮らしている下宿である。
下宿人は私一人である。大家が母方の祖母なので、家賃は身内価格という、たいへん情けない特権つきだ。
その夜も、下宿の玄関をくぐる。
「ばあちゃん、ただいま」
「ああ、おかえり、狸一」
祖母が出迎えてくれる。
「また朔太郎のとこさ、行って来たのが?」
「うん、朔太郎も、中也兄も、元気でいるよ」
私の返事に、そうかい、と祖母は頷く。
「朔太郎はほんと何してるんだべなあ、喫茶店さ開いてみだって、誰も寄り付かんべ。お前も、あんたところ入りびたってればなんね」
(意:朔太郎は本当に何をしているんだろうねえ。喫茶店など開いてみても、誰も寄り付かないだろ。お前もあんなところに入り浸っていてはダメだよ)
その言葉に、私はぎくりと胸が痛む。曖昧な返事をしながら、そそくさと部屋へと戻った。
その途端、傷だらけの紺色のケータイにメッセージが届く。
『明日、図書館いる?』
つぐみ嬢から届くメッセージは、いつでも驚くほどに簡潔明瞭であった。
『演習内容まとまってきたよ!』
『ありがとう。また明日ね』
このように無駄な修飾語の一切を削ぎ落とした、実に凛々しく好ましい文章である。
それに対して、我が渾身の返信は、毎度のように大長編の様相を呈した。
『明日は朝から図書館の書架にて文献の網羅的調査を敢行する予定である。もし君が来校するのであれば、先日私が生み出した画期的な論旨展開について、もう少し詳細な講義を施すこともやぶさかではない。なお、昨日の議論に関連して追加すべき考察が――』
ここまで打ち込んで、私は自分の指先をピタリと止めた。
長すぎる。あまりにも、ねっとりと気負い込みすぎている。
これでは、彼女の爽やかな一言に対して、私だけが恋文めいた熱病に浮かされている変質者のように見えるではないか。
おまけに、このプリペイド式ケータイは文字数制限の壁が厚く、長文を送るのであれば文章を分割せねばならない。そのたびに貴重な残高という名の生命力が削り取られていく。
私は断腸の思いで、文明の利器に打ち込んだ言葉を削り削り、削りまくった。
『いる。待っている』
……待っている、だと?
それはあまりにも主観的かつ、彼女の行動を縛り付けるような、危険なニュアンスを孕んではいないか。彼女が来るのを、私が首を長くして待ち構えている図が容易に想像されてしまう。
私は慌てて『待っている』の四文字を削除し、『いる』の二文字だけに縮小した。
いや、たったの二文字というのもどうだろう。二月の地吹雪までとは言わないが、あまりにも冷淡かつ無機質な塩対応ではないか。
『いる。図書館で会おう』
これならば、学術的連絡の枠内に完璧に収まっている。
私は己の文章力の巧みさに酔いしれ、誇らしげに送信ボタンの上に神聖なる人差し指を置いた。
そして、どうしても押せなかった。
なぜだか、恐ろしいほどに気恥ずかしかったのだ。私は、うぅうと唸り声を上げながら全文字を消去し、そのまま携帯電話をパタリと乱暴に閉じた。
パカッ。
数秒の沈黙の後、私は再び魔道具を開いた。
パカッ。
もう一度、先ほどと同じ長い文章を情けなく打ち直し、そして恐怖に駆られてすべて消去した。
パカッ。
……私はいったい、夜な夜な下宿の片隅で何をやっているのだろうか。
ケータイ電話というものは、物理的に「開いたり閉じたり」するために製造された機械にすぎない。したがって、その本義を忠実に、かつ忠実すぎるほどに反復実行している私に、倫理的落ち度など微塵もないはずだ。
ただ、一通のまともな返信すら送信できずに、無限ループの迷宮に迷い込んでいるだけなのだ。
それだけのことである。
迎えた翌日、私はいつもの窓際の特等席に陣取っていた。
つぐみ嬢はまだ来ていない。私は広げた古い文献のページを、文字を追うふりをしてただ無意味に眺め続けた。
しばらくして、彼女がいつものように軽やかな足取りで入口から現れた。そして、私の姿を認めるなり、嬉しそうにこちらへまっすぐ歩いてくる。
「あ、田貫くん。今日もいたんだ」
「……たまたまに決まっているだろう」
私は昨日と一字一句違わぬ冷徹なトーンで言い放った。
つぐみ嬢は楽しげに目を細めた。
「そっか。またしても、たまたまだね。それもまた、無きにしも非ず、って感じだね」
そう言って、彼女は自然な足取りで私の向かい側の椅子に腰を下ろした。その瞬間、私の胸の奥底で、昨日から燻っていた得体の知れないエンジンが、突如として華やかな爆音を上げて再始動したのを明確に感じた。
彼女が来た。ただ、それだけの物理的現象である。
だが、彼女が到着するまでの間、私の内部がいかに焦燥の嵐に吹き荒れていたことか。そして、彼女の姿を視界に捉えた途端、胸のつかえが嘘のように消え去り、奇妙な平穏が訪れたのである。
これを学術的に分析するならば、いわゆる「調査対象者の生存および所在の確認によってもたらされる、研究者固有の精神的安定」にほかならない。私は頭の中で必死にそうラベリングを行った。定義づけさえ済ませてしまえば、世の中の不可解な恐怖などだいたいのことは怖くない。
しかし、その日の昼下がり、私は第一講堂から図書館へ向かう道で、我が目を疑うような不穏な光景に遭遇してしまった。




