其五
その日から私は、毎日、あの窓際の席に通うことになった。
もちろん、そこには厳然たる理由がある。
結城つぐみ嬢はすでにレポートの提出を終えているものの、今度は「演習発表」なる、恐ろしく大仰な関門が控えているという。ならば、参考文献の厳密な検討も必要であろうし、論旨の整合性に微塵の綻びもないか、先輩狸……ではなく、善良なる同窓生として確認せねばならぬ。発表までに彼女が無事にあの荒波を乗り切れるよう、私は引き続き、高度な学術的援助を行う必要があったのだ。
これは決して、親切心などという気恥ずかしい代物ではない。
私が彼女に多大なる貸しを作っておけば、どうなるか。かつて外人宣教師館の前で、迂闊にも正体を露見させた。国家機密に等しい、その秘密である。彼女が勢い余って他人に漏らす危険性は、地平線の彼方へと追いやられ、完全に封じ込められるのだ。実に合理的かつ、見事な「口止め工作」であった。
したがって、毎日図書館に通うことに何ら問題は存在しない。
たとえ、開館時刻の三十分前から、秋の気配も色濃い冷たい風の吹く門扉の前に突っ立ち、六時間以上誰とも話さず独りぼっちで過ごす羽目になろうとも。
たとえ、日曜日であることすらすっかり忘れて図書館まで出向き、固く閉ざされた扉を確認してすごすごと引き返す羽目になったとしても。
たとえ、彼女がいつも陣取る窓際の席を、得体の知れない文系の男子学生に占領されているのを目撃し、心の底から世界を憎み切り呪詛を吐きたくなろうとも。
それらはすべて、気宇壮大なる「調査」の一環にほかならない。
調査とは、孤独な地道な努力の積み重ねによってのみ、大輪の花を咲かせるものなのだ。
「あ、田貫くん。今日もいたんだ」
ある朝、図書館の重厚な自動扉の向こうから現れたつぐみ嬢が、私を見つけてぱっと花が咲くように笑った。
「……たまたまに決まっているだろう」
私は窓際の席の椅子に腰掛けたまま、鷹揚に、かつ人文学部生らしい気取りを忘れない絶妙なトーンで答えた。
「へえ、またしても、たまたま」
「そうだ。世の中は偶然の連鎖で出来ている。大学生というものは、日々真面目に学問の府へと足を運ぶものなのだから、私がここにいることなど確率論的必然にすぎん」
「うんうん。そうだね」
つぐみ嬢は、何やら私をからかうような(しかし妙に鮮烈な)笑みを浮かべながら、私の向かいに勝手に腰を下ろした。
私はひどく居心地が悪かった。
なぜなら、私はつい先ほどまで、彼女が今日という日に現れるかどうかを気にして、十秒に一度のペースで入口の自動扉ばかりへさりげなく視線を向けていたからである。
しかし、偶然というものは恐ろしい。
昨日もたまたま会った。今日もたまたま会った。明日も明後日も、きっと天の気まぐれによって、たまたま出会い続けるのであろう。
こうして偶然が幾重にも重なると、世の愚劣な人間どもはそれを「運命」などという、聞いていて鳥肌が立つほど大仰で甘ったるい言葉で呼び始める。
私は気高き狸であるからして、そのような科学的根拠の一切ないロマンチックな妄想には、厳正なる警戒心を抱かねばならぬ。
さて、彼女の演習の準備は、私の卓越した手助けのもと、驚異的なスピードで着実に進んでいた。
私たちは書架の迷宮を行き来し、埃まみれの古い雑誌を探し出し、机に向かっては丁々発止の議論を交わした。つぐみ嬢は、少しでも分からないことがあれば容赦なく私に尋ねたし、私も知っていること(あるいは、さも知っているかのように堂々とハッタリをかませること)ならば、惜しみなく知識をひけらかした。
彼女が難解な論理の糸口を理解したときに見せる、あの世界がぱっと明るくなるような笑顔。
あれを見ると、私の胸の奥では、まるで春の訪れとともに山菜が一斉に芽吹くかのような、正体不明の華やかなざわめきが生じるのであった。これはもちろん、私の高尚な助言が正しく功を奏したという、純然たる「知的な満足感」にほかならない。
狸といえども、知的好奇心の充足は至上の喜びなのだ。
そうに違いない。
ところで。
あの日、彼女から恵みとして授かったクッキーの箱について、私には一つ、自らの存在をも揺るがしかねない重大な懸念事項が存在していた。
箱が、どうしても捨てられないのである。
クッキー自体、とっくに胃袋に落ち、消え去っていてもおかしくない、……はずだった。
中身を食べ終えた菓子の箱など、ただの用済みの箱、いわば宇宙のゴミ屑に等しい。我が狸の隠れ家においても、日々の糧を包んでいた葉っぱや木の実の皮を、いつまでも後生大事に床の間に飾っておくような悪趣味な習慣はない。
しかし、私の薄暗い下宿の机の上には、いまだに美しいリボンの結ばれた小箱が、神聖な御神体のごとく鎮座し続けていたのだ。
湿気る前に中身を平らげてしまわねばならない。箱など邪魔なだけで、捨てようと思えば、秒速でゴミ箱行きにできる。
だが、そうすることが、何やら歴史的かつ文化的な損失であるかのように惜しまれるのだ。
この箱は、つぐみ嬢が私のためにわざわざ買い求めてくれたものである。彼女は洋菓子屋のショーケースの前で悩んだ。包みを受け取った。リボンのかかったその箱を、両手で包み込むようにして私に差し出した。あの劇的な一幕を、この箱は無言の証人として記憶しているのだ。
もちろん、彼女にとっては単なる「労働に対する心づけ」としての謝礼に過ぎぬ。
その程度の客観的事実、私にも痛いほど分かっている。
だが、だからといって、この歴史的遺物をみすみす焼却処分にせねばならぬ道理が、どこにあろうか? いや、ない。
私は自分を納得させ、箱をとりあえず机の隅にそっと置いた。
翌日、箱はより安全な本棚の最上段へ厳重に移動された。
その翌日には、夜な夜な眺めるために枕元の特等席へと昇格した。
そして、次の日の夜の静寂の中。
私は意を決して、その箱の蓋に手をかけた。
中には、驚くほど美しく、上品な楕円形のクッキーが整然と並んでいた。
……食べるのが、もったいない。
その思いが、津波のように私の全存在を押し潰す。
ここでこれらを胃袋に放り込んでしまえば、箱を開けるたびに脳裏に蘇るあの日の記憶の物質的証拠が、永遠に失われてしまうではないか。目の前にある美味なる菓子を食べぬまま保存するなど、動物的本能に反する異常事態である。はずなのだが、今の私にとって、このクッキーはもはや観念的な偶像崇拝の対象と化していた。
私はこの致命的な精神の異常を、あえて「深い文化的考察」とすり替え、見て見ぬふりを決め込んだのである。
そして、もう一つの懸念――携帯電話の呪縛があった。
傷だらけの紺色の、プリペイド式という、いかにも胡散臭い二つ折りケータイ。
あれは、長兄が珍奇なコネクションを通じて、中古屋の奥底から引っ張り出してきた、プリペイド式という代物であった。
長兄は、我が家の経済を完全に破綻させている。その上、あのケータイの名義が誰のものかすら定かではない。
どこでも電話がつながるという奇跡が、いかなる料金でどう成立しているのか、とんと見当もつかない。
そもそも、このような文明の利器を我が手に収めたこと自体が、私の平穏な狸生を根底から揺るがす大事件だったのである。
「……そういえば、この魔道具の維持費は、一体どうなっているのだ?」
例によって大学からの帰り道、千年の下宿へ直行する足をあえて曲げ、香辛料の匂いが立ち込めるあの喫茶店に立ち寄った私は、カウンターの主である長兄に詰め寄った。
「そうだな……こんな時に親父殿がいてくれれば……」
と遠い目で天井を見上げ、しんみりした空気を醸し出していた。何を言い始めるのだ、この馬鹿兄貴は。
「まだ生きていて、岩木山のふもとで元気に畑を耕しておるだろう!」
私の言葉に、長兄・朔太郎はつまらなそうに目を細めて口をひん曲げた。
「なに、細かいことはこの世の摂理に任せておけば、自然と辻褄が合うものなのだよ」
長兄は、手回しミルでガリガリと胡乱な珈琲豆を挽きながら、まったくもって信用に値しない台詞を吐き捨てた。
「摂理で通信費が払えるものか! 具体的に説明したまえ!」
「お前は視野が狭い。男ならば、目先のプリペイド残高ではなく、もっと壮大な未来の地平を見据えるべきだ」
「携帯電話の残高は未来ではなく、まさに今この瞬間の死活問題であろう!」
まったく、長男というものは、便利で厄介な電波の鎖を弟に押し付けてきたくせに、その維持管理についての問いとなると、のらりくらりと煙に巻く。そのようなことにかけては天下一品であった。
もっとも、私も私で、せっかく手に入れた人類の叡智の結晶たるケータイ電話を、有効活用できているかと問われれば、答えに窮せざるを得なかった。




