其四
私は、一人の女性との連絡手段を手に入れた。
これは、進級の単位を手に入れたに等しい。必須科目の履修や、単位、それらも欲しい。もちろん、大変に重要かつ、欲しいものの筆頭である。が、それらはこの際は置いておく。
人間の魔道具と見紛うべき文明の利器、二つ折りの携帯電話の画面に刻まれた、一筋の「つながり」。
私は口止め工作という名の壮大な大義名分のもとにて、手に入れてしまったのである。
これは大いなる前進であった。
同時に、私の胸の奥では、何か得体の知れないエンジンが勝手に空ぶかしを始めているような、不穏な動悸がくすぶり始めていた。
弘南鉄道大鰐線で千年にある下宿へ戻る道すがら、私はその動悸の正体を懸命に理性の枠組みで押し抑えようと試みた。
――違う。これはあくまで口止め工作の進捗による高揚感なのだ。彼女が秘密を他言さえしなければ、私の平穏な(そして極めて怠惰な)狸生は守られる。そのための布石に過ぎない。私の心臓が勝手に跳ね上がっている。しかしそれは、決して、夕暮れの図書館の窓際に射す光の中で彼女が柔らかく微笑んだからではないのだ。
しかし、人間とは(あるいは化け狸とは)何とも勝手な生き物である。
否定すればするほど、脳裏にはあのときの彼女の横顔が鮮明に焼き付いて離れなくなるのだから始末に悪い。
私は早々に下宿に戻ることをあきらめ、途中下車し、折り返して土手町へと向かった。かの裏路地へ駆け込み、兄貴たちが巣食うあの怪しげな喫茶店の扉を勢いよく開け放った。
「兄貴! 大事件だ!」
カウンターの奥で相変わらず産地不明の珈琲豆をいじっていた朔太郎は、私のただならぬ気配を察知すると、ふふん、と鼻を鳴らして振り返った。
「なんだ、狸一。その顔は。もしや無事にその女子を惚れさせ、永遠の沈黙を誓わせることに成功したか?」
「誓わせてはおらぬ! だが、もっと重大な進展があったのだ!」
私はふところに手を突っ込み、文明の利器――傷だらけの紺色の二つ折りケータイを、まるで聖遺物のように誇らしげに掲げた。
「連絡先を交換したのだ! これでいつでも彼女と連絡が取れる!」
朔太郎は満足げに深くうなずいた。
「ほう、連絡先とな。上出来ではないか。で、次はどうする? まず飯に誘え。学食の片隅でもいい、あるいは土手町の小洒落たケーキ屋のクッキーでも買って持たせてやるのだ。女ウケというものはだな――」
「そんなこと私にできるはずもなかろう!」
私は即座に叫んだ。……うん、我ながら情けないことを言った気がする。
「だいたい、私は口止めのために連絡先を交換したのであって、デートの約束を取り付けたわけではない!」
「ほう、デートではないのか?」
「調査だ! 彼女のレポートの進捗状況を確認するための、厳粛なる学術的調査なのだ!」
私の必死の抗弁を、壁際に陣取る次男・中也は、道端の石ころへ向けるような眼差しで聞いていた。その上で、恐ろしく静かに告げてきた。
「そうか、ならば、その嬉しそうに揺れている尻尾はなんなのだ」
私は知らず知らずのうちに生やしていた尻尾を慌てて両手で押さえる。
揺れていた、だと? しかも嬉しそうに?
いや、断じて違う。これは……そう! 口止め工作の大いなる前進への歓喜だ!
「汚れつちまつた……」
「中也兄、それやめてくれ!!」
私は頭を抱えてカウンターに突っ伏した。
自分で自分が信じられなかった。あれほど「人間の女など不可解な生き物だ」と敬遠していたはずなのに、先ほどからポケットの中にあるケータイが放つ微かな重みが、なぜか愛おしく感じられる瞬間が確かにあるのだ。これはもはや、狸としての本能が狂い始めているとしか言いようがない。
翌日。
私は再び、約束された運命の地――大学のキャンパスへと足を踏み入れていた。
昨日とは打って変わり、私の足取りはどこか浮ついていた。自分でも「おいおい、どこへ行くんだ」と心の中でブレーキを踏むのだが、足の裏のゼンマイが勝手に図書館のほうへ私を引っ張っていく。
果たして、図書館の窓際の席には、すでに彼女の姿があった。
結城つぐみ嬢。
彼女は相変わらず山のような参考書に囲まれ、眉間にしわを寄せながらペンを走らせていた。しかし、私が近づく気配を察知したのか、ふっと顔を上げた瞬間、その険しい表情が驚きへと変わり、そしてパッと花が咲くような笑みに変わった。
「あ、田貫くん」
「……うむ。どうだ、その後の進捗は」
私はできる限りクールに、いかにも「親切な同級生」といった風情を装ってみせた。しかし、私の心臓は狸のくせに人間以上のハイペースで鼓動を打っている。
「それがね、昨日教えてもらった論文を読んだら、一気に視界が開けたの! 田貫くんが言ってた通り、ここをこう結びつければ論理が通るんだって分かってさ」
「そうだろう。その文献の著者はな、見かけによらず結構な偏屈だが、ここぞというところの着眼点だけは鋭い男なのだ」
「へえ、詳しいんだね」
「まあ、人にはそれぞれ、得手不得手というものがある」
私は鼻を高くし、ふふん、と笑ってみせた。
彼女はくすくすっと笑い、カバンから小さな包みを取り出した。
「これ、文献探し手伝ってくれたお礼……というか、差し入れ? 昨日、図書館の帰りに買ったの」
差し出されたのは、綺麗にリボンの結ばれた、いかにも上品な小箱であった。
包み紙に印刷されているのは、土手町の、少しこじゃれたケーキ屋――私のような貧乏学生(および貧乏化け狸)が財布の中身と深刻に相談し、三度も店の前で引き返した洋菓子店のものである。
「こ、これは……」
「前食べた時、美味しかったから、田貫くんにもって思って。……あ、嫌いだった?」
「嫌いなものか! 私にとっても大好物……いや、人間にとっても大好物の至宝ではないか!」
危うく、高級で手が出ない、という本音が飛び出すところだった。私は慌てて箱を受け取り、その丁寧な包装と手触りの良いリボンにクラクラとした眩暈を覚えた。
このクッキーを、彼女がわざわざ私のために買ってくれたのだという事実が、脳内で盛大に花火を打ち上げる。
「ありがとう、大切に……いや、美味しくいただく」
「うん! じゃあ、今日ももう少しだけ付き合ってよ。ここ、どうまとめたらいいか分からないところがあってさ」
それから数時間、私たちは並んで机に向かった。
彼女が悩み、私が図に描き、ときに意見を交わし、ときに他愛のない冗談を言い合って笑い合う。
不思議なことに、この図書館がいまや私にとってはこの世で最も居心地のよい隠れ家のように感じられていた。




