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化け狸学生の口止め工作  作者: 茶ヤマ


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3/9

其三

かくして私は、かの女子大生に接近することになったのである。


キャンパスに足を踏み入れる際、私は生きた心地がしなかった。

昨日あれほど怒号を上げて私を追い回した猛者どもが、物陰から一斉に襲いかかってくるのではないかと戦々恐々としていたのである。


だが、結果から言えば、それは完全なる杞憂であった。


帽子を被らず、ただの「影の薄い人文学部生」に戻った私に対し、すれ違う学生たちは一顧だにしない。誰一人として私を振り返りもしなければ、脱げと叫んで襲いかかってくる気配すらないのだ。


あいつらは私という人間を見ていたのではなく、ただ頭上の帽子しか見ていなかったのであろう。

己の存在感の希薄さに安堵しつつも、どこか微妙に傷つきながら、私は図書館へと足を向けた。


大学という場所は、私にとって実に奇妙な空間である。

学生証を持ち、学生として籍を置き、学生らしい服装をしているにもかかわらず、私は学生らしいことをほとんどしていない。講義に出ることは稀であるが、講義棟の配置には無駄に詳しい。目録の引き方にも慣れているし、どの建物のどの階に、学生が比較的少なく静かに座れる穴場があるかも熟知している。


つまり私は、大学生としては落第だが、大学という建物に住みつく一種の怪異としては、なかなか優秀なのである。


◇◇


さて、私は図書館にて、かの人を探さねばならぬ。


彼女はあの帽子を猛烈に欲しがっていた。期限が迫っていると言っていた。ならば、その期限の元凶たる資料を求め、彼女が図書館に潜伏している可能性は極めて高いはずだからだ。


私はそこまで考え、ふと立ち止まった。


これはいったい、何のための考察であろうか。


彼女の事情を理解することは、口止め工作に必要なのか。

必要なのだろう。

相手の事情を知らずして相手を動かそうとするのは、地図も持たずに山へ入るようなものである。山には狸がいる。狸は私である。私が山に入って自爆するわけにはいかない。


私は己の推論の完璧さに満足し、図書館の重厚な……いや、そうでもない、ただの押しボタン式自動扉の『押してください』の部分を押した。


いた。


かの人は、窓際の机に座っていた。机の上には本が何冊も積み重なり、ノートには細かい文字が隙間なく並んでいる。彼女はその文字を険しい顔で睨みつけていた。文字のほうも負けじと彼女を睨み返しているように見えた。


私は、これを好機と判断した。


好機とは、往々にして本人の都合で勝手に認定されるものである。私の場合も例外ではない。彼女がひどく忙しそうであることは、話しかけるべきでない理由になり得た。しかし同時に、彼女がひどく忙しそうであることは、話しかければ何らかの助けを必要としているかもしれない、という理由にもなり得る。


私は問答無用で後者を採用した。


人間の運命は、こうした都合のよい解釈の積み重ねによって形作られるのである。


「あの……」


声をかけると、彼女は跳ね上がるように顔を上げた。


「あ」


その「あ」には、驚きと警戒と、そしてほんの少しの「昨日の帽子の……タヌキの人だ」という認識が含まれていた。


私は内心で胸を撫で下ろした。少なくとも、彼女の記憶から私が完全に消去されていたわけではない(タヌキとして記憶されているのは心外だが)。


「あ……あなたは……」


彼女の目が、私の頭から足元までを素早く往復した。


「もう耳とか尻尾とか、出さない……?」

「出したくて出したわけじゃない」


「じゃあ、何か用……? あの、まさか化けて驚かしに来たとか……」

「そんな意味のないことはせん! 用は大いにある。……いや、用というか、昨日のことなんだが」


「帽子?」

「そう、帽子」


帽子という単語を口にした途端、彼女の顔にずしりと重い影が差した。


「まだ、見つからないんだよね」

「何が?」


「参考文献。あと、論文。先生に出すレポート……っていうか、論文のつもりなんだけど、うまくまとまらなくて……あんな噂を信じて帽子を追いかけるくらい、追い詰められてたの」


帽子そのものの話ではなかった。


私は一瞬、話の流れを見失った。人間の会話というものは、しばしばこちらの予想を盛大に裏切る。

狸の会話であれば、腹が減ったとか、畑に何が実っているとか、話題の範囲は比較的限られている。

人間は違う。帽子の話からレポートの苦悩へ、まるで川が突然決壊するように話題を移す。


「レポート?」

「うん。資料を探してるんだけど、何から読めばいいのか分からなくて。締切も近いし、これが出せなかったらゼミを落とされるかもしれなくて」


彼女はげっそりとした顔でノートを見下ろした。

その横顔には、締切という見えない怪物に追い回されている切迫感が漂っていた。


私は少しばかり同情した。


締切というものは、私も大いに苦手である。大学から送られてくる警告の書類には、たいてい恐ろしい締切が記載されている。私はそれを見なかったことにする高度な技術を身につけてきたが、見なかったことにした締切が消滅するわけではない。むしろ、見なかったことにした締切は、ある日突然、留年という恐るべき怪物に姿を変えて現れる。


これは私の苦い経験に照らして、動かしがたい事実であった。


「何についてのレポートなんだ?」

「近代文学。テーマは自由なんだけど、自由って言われると、かえって困るんだよね」


私は深くうなずいた。


自由というものは、たしかに厄介である。森の中で自由に暮らす狸にとっても、自由は必ずしも幸福を意味しない。食べ物が見つからなければ腹は減るし、冬が来れば凍える。自由とは選択肢が多いというだけのことであって、選択に成功する保証ではないのだ。


私は彼女のノートにそっと目を落とした。


並んでいる書名のいくつかには見覚えがあった。私は講義には滅多に出ないが、本を探すことは嫌いではない。

人間の作った図書館というものは、森に似ている。木々の代わりに書架が立ち並び、獣道の代わりに通路があり、奥へ奥へと進んでいくと、思いがけない場所に思いがけない知識が潜んでいる。


私はノートの書名を二つばかり指さした。


「これを読んだのか?」

「まだ。論文名で探したけど出てこなくて」


どちらも雑誌論文だったはずだ。本としてではなく、掲載された雑誌を探さねばならぬ。……が、この著者名に覚えがあるぞ……。

まず、あの分厚い『雑誌記事索引』の冊子をめくって論文が載っている掲載誌を割り出す。次にあの膨大なカード目録の森へと分け入って、その雑誌がこの館内のどの棚に眠っているかを突き止めるのだ。……もし、この大学図書館になくても、他館から取り寄せという『複写依頼』の道もある。もっとも、レポートの締切までに届くかどうかは、大いに疑問だが……。


「論文名で引いても目録には出ん。掲載誌の名で引くのだ」


彼女はハッと顔を上げた。


「え、分かるの?」

「まあ、多少はな」


私は控えめに答えた。控えめに答えたのであるが、心の中では、大学図書館の迷宮を知り尽くした孤独な案内人としての自分が、黒い長外套を颯爽と翻していた。私の背後には、知識の書架が広大に広がっている。遠くで知恵の梟が鳴いている。いや、梟ではなく狸である。私は狸であった。


「すごい。じゃあ、ちょっと一緒に探してもらってもいい……?」


彼女は縋《すが》るような目で私を見た。


私は、すぐには返事をしなかった。

口止め工作である。

そう、これは口止め工作の一環なのだ。


彼女のレポートを手伝うことによって、私は彼女に大いなる恩を売る。恩を売れば、彼女は私を悪く思わなくなり、狸であることを暴露する気も失せる。秘密を漏らす可能性を激減させる、実に合理的な計画である。長兄の言う「惚れさせる」という大仰かつ野蛮な手段を使わずとも、私はこのように穏健かつ知的な方法で問題を解決できるのだ。


「よかろう」


私は鷹揚に答えた。


彼女は、ぱっと顔を輝かせた。


「ありがとう! すごく助かる!」


その笑顔を見た瞬間、私はなぜか胸のあたりが少しばかり落ち着かなくなった。

おそらく、達成感である。


困っている相手を助けるというのは、なかなか気分のよいものだ。狸の社会では、困っている仲間に手を貸すこともあるが、そこには食べ物の分配や冬場の寝床の確保など、たいへん生々しく実際的な事情がつきまとう。人間の社会では、誰かが笑っただけで、助けた側の胸が妙に騒ぐことがあるらしい。


私はこの正体不明の現象を、ひとまず「口止め工作に伴う副作用」と分類することにした。

分類してしまいさえすれば、だいたいのことは怖くない。


私たちは席を立ち、書架へと向かった。

参考資料になる本を持ってきて、先ほどの席へと座る。


「そういえば名前を聞いてなかった」

彼女に言われ、うむ、それで私も大いに困っていたのだよ、と心の中で頷く。


「田貫狸一《たぬきりいち》だ」

「結城つぐみです。……ふふっ、たぬきって名前なんだ」


「そこを笑うな」

「『りいち』って、横光利一の『りいち』?」


「……狸と一で狸一だ」

彼女は笑うまいと必死で真面目な顔を作っている。


「笑ってもいいぞ。……ついでに言えば、一とあるのに三男だ」

「……ふぐっ!」


彼女は耐えきれず、噴き出した声を慌ててハンカチで押さえていた。


「どうしてそんなことに……っ?」


笑いをこらえる気すらない問いに、私はフイと顔を背けた。


「……その話はまた今度する」


彼女はようやく笑いを収め、レポートのテーマについて話し始めた。私は必要なところで相槌を打ち、必要なところで質問をした。質問をすれば彼女は答え、答えるうちに散らかっていた彼女の考えが整理されていくようだった。


「そうか、そこが引っかかってたのか」

「うん。なんとなく気になってたんだけど、どう言葉にすればいいか分からなくて」


「なら、先にそこを調べたほうがいい。最初から全部を読もうとすると、時間がいくらあっても足りないぞ」

「なるほど……!」


彼女は真剣な顔で大きく頷いた。


私はふと気づいた。

私は、こういうことが得意なのかもしれない。


誰かの困りごとを聞き、その中から問題の所在を見つけ、使えそうな本を探し出す。これは、少なくとも私がこれまで大学でしてきたことの中では、最も大学生らしい、誇るべき行為である。講義に出席するよりも、友人と飲み歩くよりも、よほど私の性に合っている。


そして何より、つぐみ嬢は私の話を実によく聞いた。


私が書架の場所を説明すると、彼女は感心したように頷く。私が一つの論文を勧めると、彼女は題名をメモに丁寧に書き留める。


私はそのたびに、わずかばかり得意気になった。


これは当然のことである。人間であれ狸であれ、自分の役に立つ能力が他者に認められるというのは、決して悪い気分ではない。


「田貫くんって、意外と頼りになるんだね」


彼女は感心したように言った。

私は立ち止まりかけた。


意外と。


この三文字には、たいへんな破壊力がある。意外と頼りになるということは、それまで頼りにならない阿呆だと思われていたということであろうか。

いや、待て。彼女は私のことをほとんど知らない(狸であること以外は)。知らない相手に対して、最初から頼りになるともならないとも判断できるはずがない。


つまり彼女は、私を頼りにならないと決めつけていたわけではないのだ。


しかし、「意外と」という言葉が付いた。


私はその言葉を、しばらく頭の中で転がした。


「……そうか?」

「うん。ありがとう。ひとりだったら、たぶん今日も何も進まずに泣いて帰ってたと思う」


彼女は、もう一度柔らかく笑った。

私は意地を張るように咳払いをした。


「まあ、これくらいはな」


これくらいは、である。


私は大学の講義に出ない。提出物を忘れる。必要な手続きを先延ばしにする。人間の社会における模範的学生からは、遠く離れた場所に生息している。しかし、本を探し、話を聞き、道筋をつけることならできる。


それが誰かの役に立つのであれば、悪い気はしない。


私はそう自分を納得させた。

そのとき、頭の奥で長兄の無遠慮な声が響いた。


――惚れさせて口を塞げ。


私はすぐさま、首を振ってその声を追い払った。


何を馬鹿な。私は彼女のレポートを手伝っているだけである。これは知的な援助であり、社会的な貢献であり、ひいては大学という共同体へのささやかな奉仕である。恋愛などという浮ついたものとは、何の関係もない。


そもそも、私は彼女を見て胸が騒いだことなど一度もない。

ただ、彼女が笑うと少し気分がよくなる。

彼女が困っていると、どうにかしてやりたくなる。

彼女が何を考えているのか、もう少し知りたいと思う。


それだけである。

私の目的はあくまで口止めである。口止めのために親しくなり、親しくなるために助け、助けるために図書館を歩いている。一本の筋が、実に見事に通っているではないか。


私は己の計画に満足し、つぐみ嬢とともに次の書架へ向かった。


その日、私は彼女のレポートのために三冊の本を見つけ、二本の論文を探し出した。

彼女は何度も深々と頭を下げて礼を言った。

私はそのたびに、「たいしたことではない」とクールに答えた。


帰り際、図書館の出口で彼女は言った。


「あの……また分からないことがあったら、聞いてもいい?」


彼女はピンク色の二つ折りのケータイ電話を取り出して、連絡先を交換する意思をみせた。

うむ、これはかなりの前進ではないか?


「もちろんだ。困ったときには力になろう」


私は答えた。


私は、自身の傷だらけのくすんだ紺色の二つ折りケータイを取り出した。

私の番号を彼女に教え、彼女から電話をかけてもらい完了である。

私のケータイは、長兄が面妖な仲間から購入したプリペイド式だ。電話番号さえあればショートメッセージも送れる。この型は、そう簡単に手に入らんのだ。

ああ、なんと素晴らしき代物であろうか!


私は、口止め工作の輝かしい将来を見据えた。

彼女からの接触が継続する。秘密を共有する相手との良好な関係が保たれる。これは計画上、たいへん好ましい展開である。


図書館の重(・)厚(・)な自動扉をくぐり抜け、夕暮れの弘前大学の裏門へ放り出された私の足取りは、奇妙なほどに軽やかであった。やや冷たい空気が頬に触れた。


私は暗くなりつつある道をひとりで歩きながら、今日の成果を整理した。つぐみ嬢は私を恐れていない。むしろ、少しばかり頼りにしているらしい。これならば、私が狸であるという秘密を守ってもらうことも難しくはあるまい。


ところで。

私は、次に彼女と会うのはいつだろう、と考えた。


レポートの締切はいつだったか。彼女は、ほかにどんな本を探しているのだろう。あのノートに書いていた残りの題名は、あとでこっそり調べておいたほうがよいかもしれない。


そして、帰り道を少しだけ遠回りした。

理由はない。

まったく、ないのである。



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