其二
中央弘前駅からほどよく離れ、土手町のメイン通りの賑わいから一歩裏路地へ足を踏み入れた闇の中に、その店は存在した。
日没とともに気まぐれに灯りがともる、田貫家長男・朔太郎が営む怪しげな喫茶店であった。
太宰治なども訪れたという、弘前の老舗喫茶店を真似たつもりらしいのだが、こちらはただ薄暗く、人けがないだけの店だ。
化けの皮が剥がれ、尾の先まで素性を暴露してしまった大惨敗から数時間後。
私は店内のカウンターに突っ伏し、世の理不尽を呪って盛大に号泣していた。
「兄貴! ばれた! 完全に! 化け狸であることが、とある黒髪の女子に露見してしまったのだ!」
カウンターの奥で手回しミルをガリガリと挽き、芳しい(しかしどこか得体の知れない香辛料のような妖しい)珈琲の香りを漂わせながら、朔太郎は冷淡な眼差しを向けるばかりであった。
朔太郎。
近代詩の父のごとき高尚な名を冠せられながら、その実、威厳など毛ほども持ち合わせていない我が家の長男である。
そもそも三男である私に「一番の阿呆になれ」などという狂気じみた理由で「狸一」などという不名誉な名を与えた張本人である。彼の頭脳構造は常に混沌の渦中にあった。
何ゆえ「利一」にしてくれなかったのか……。
「お前は狸だからな」
「それはそうなのだけれども! そういう問題ではなかろう!」
「大丈夫だ、狸一。兄は弟をよく理解し、正当に評価もしているのだぞ」
「評価の基準が完全に狂っている!」
ちなみに店の壁際では、次男の中也が薄暗いランプの光の下で、「汚れつちまつた悲しみは、今日も小雪の降りかかる……」などと誰の詩ともつかぬフレーズを呟きながら、冷め切った珈琲を啜っていた。彼は彼で己の孤高なる精神世界に没頭しており、弟の切実なる存亡の危機など毛ほども眼中にないらしい。
朔太郎は静かにカップを置き、さも宇宙の真理でも悟ったかのような澄まし顔で宣った。
「案ずるな、狸一。解決策はただ一つ。その女子大生を惚れさせ、愛の力によって口を封じよ」
「無茶を言わんでくれ! そもそも私には、人間の女子に対する免疫が微塵もないのだ! 兄貴も知っておろう!」
「何が難しい。女を惚れさせればいい」
「だから、それができないからこうして泣いているのだぞ!」
「お前は、狸であろう。狸なら化かすのが本分。女ひとり惚れさせるくらい造作もない」
「その本分が露見して困っておるのだ!」
「なんとかなるものだろう」
「それならば科学的・生物学的根拠を提示したまえ!」
「昔話を読め」
「参考文献が雑すぎやしないか!」
朔太郎は胸を張りながら宣う。そのあまりの無茶ぶりに、私は情けなく絶叫した。己の女性免疫の無さをあたかも栄光の勲章のごとく堂々と誇示する三男の姿は、実に哀愁と滑稽味に満ち満ちていたに違いない。
長男のあまりの無責任ぶりに頼みの綱をあっさりと切られた私は、藁にもすがる思いで壁際の中也に向き直った。
「中也兄、頼むから助けてくれ……」
「悲しみは……分け合うものではない」
「何を言い始めるのだ!」
「だが、腹は減ったな」
「急に俗世の現実に戻らないでくれないか!」
文学気取りの詩的な黄昏から一瞬にして世俗の欲望へと暴落した次男の言葉に、私は膝から崩れ落ちそうになった。
惚れさせろ、と長兄は言う。
正確には、恋をさせて口を塞げ、と言ったのである。恋愛と口封じを同じ鍋で煮込むとは、いかにも兄らしい乱暴な発想であった。鍋の中身が煮崩れようが、灰汁が浮こうが、最後に食えればよいというのが長兄・朔太郎の人生哲学である。もっとも、兄がこれまでに煮込んできたものの大半は、金銭問題と近隣住民との揉めことであった。
「いいか、狸一。女というものはな、惚れた男の秘密をそう簡単には売らん」
「兄貴は女というものを知っているのか」
「知っているとも」
「何人くらい?」
「……人数の問題ではない」
ああ、これはダメだ、知ってるわけがない。
力が抜けた。
「……どうすれば良いと言うのだ」
カウンターに突っ伏したまま魂の抜けた声を絞り出す私に向かって、次兄の中也は、冷め切った珈琲を啜りながら言った。
「兄貴の言うことを真に受けるな。惚れさせる前に、まず普通に話せ」
「普通に?」
「普通に」
私はこの「普通に」という言葉を、たいへん警戒している。
人間は何かというと普通を求める。普通の学生、普通の暮らし、普通の恋愛。だが、普通とは何であろうか。大学の講義に出ず、学食の混雑を避けるために昼食の時間を二時間ずらし、帽子一つのために見知らぬ女子学生と弘前大学周辺を駆け回った私が、いまさら普通を求めてよいものだろうか。
そもそも私は人間ではない。
この一点をもってしても、普通という概念の適用には慎重であるべきだった。
「とにかく、その女に近づくんだよ」
と朔太郎は言った。
「親しくなれ。話を聞け。相談に乗れ。困っていたら助けろ」
「それでは、まるで善良な人間ではないか」
「そうだ。善良な人間のふりをするんだ」
「私にできると思うか」
「できないと思うから、こうして兄が助言している」
兄は誇らしげに胸を張った。
しかし、ここで一つ重大な問題が発生した。
私は彼女の名前も、学部も学年も、連絡先すら知らなかったのである。現代社会において連絡先を知らぬ相手に接近するなど、砂漠で落としたコンタクトレンズを探すようなものではないか。
「連絡先も知らんのに、どうやって会うのだ」
「図書館へ行け」
と朔太郎は即答した。
「切羽詰まった大学生の行き着く果てなど、図書館か生協のベンチと決まっている」
あまりにも雑な推論である。
だが、悲しいかな、手がかりはそれしかなかった。
この兄を信頼してよいものか、と検討した結果、百パーセント信頼できないという結論に達した。が、ほかに頼れる相手がいないという残酷な事実が、その結論を無効にした。
嗚呼、何ということだ。
私は悪態をつきながらも、重い足を引きずって、大学に行かねばならなくなったのである。
……キャスケットはここに置いていくことにした。




