其一
平成十年代の弘前が舞台です。今の大学風景、町並みとは合わない所が多々あります。ご了承ください。
森見登美彦さんの文体を真似しようとしております。
弘前大学、大学生協において、私、田貫狸一はキャスケットを手に入れた。
念願、といっても、私はかねてよりキャスケットを欲していたわけではない。
たまたま生協の店頭に「ラスト1」と書かれた札があり、その札を見た瞬間、私の心に「ラスト1というものは買わねばならない」という、ほとんど本能に近い衝動が生じたのである。
これは私の習性なのかもしれない。
あるいは大学生の習性なのかもしれない。
私自身にもよく分からなかった。
ともあれ帽子を購入し、頭に載せた。
そして、ガラスに映った己の姿を眺めた。
「よし」
満足し、したり顔で頷いた。
「これで私も、いかにも真面目に大学へ通う人文学部生に見えるではないか」
実際には、真面目に大学へ通う人文学部生どころか、講義の出席率は幽霊に近く、取得単位数は冬の朝の池よりも心細い。
履修登録の際には「今年こそ真面目にやる」と誓うのだが、その誓いは例年、桜が満開になる頃には、弘前公園の桜と共に儚く散りゆく運命にある。
しかし、外見というものは重要である。
帽子一つで人間は大学生になれる。
少なくとも、そう信じたかった。
みちのくの学舎に人間の姿で潜り込んでいる私にとって、「大学生らしく見える」ということは、単なるお洒落以上の意味を持っていた。
なにしろ私は狸である。
正確には、狸と人間のハーフである。
その事実を知られては困る。いつ何時、油断して耳や尻尾を露見させてしまうか知れたものではない。したがって、帽子は必要だった。
私は帽子の角度を右へ二度、左へ一度調整してみた。
大学生協の購買前という学問の日常空間において、私の周囲だけ、なぜか奇妙な緊張感が漂っていた。
「うむ。文学青年だ」
独りごちて、満を持して一歩を踏み出した。
惨劇はその瞬間に幕を開けたのである。
「待ちなさい!」
背後の声に、振り返って目を向けると黒髪の女子大生が猛然と馳せ参じてくるではないか。
先ほどの声は、まさに鬼気迫るこの乙女の怒声であった。
いや、馳せ参じるという生易しい表現は撤回せねばならぬ。あれは明らかに襲いかかってきているのである。
彼女はゼミの資料らしき紙束を胸に抱え、髪を振り乱し、目を血走らせていた。
「その帽子を返しなさいーっ!」
「……帽子?」
女子大生は猛烈な勢いで迫ってくる。
「そう、あなたです!」
「なにゆえに!?」
「その帽子、私が買うって決めてたんです!」
「いや、知らん!」
あまりの恐ろしさに私は走った。
己がなぜ逃走の路を選んだのか、私自身にもとんと見当がつかなかった。
しかしながら、人生において時として人間も狸も、逃走の正当な理由を喪失した瞬間にこそ、最も猛烈に走るものなのである。
あまりにも動転していた私は、裏門からキャンパスへと足を踏み入れてしまった。そこは開けた場所で、他の学部生たちによる視線が一身に注がれる、開墾地のごとき危険地帯であった。己の退路を自ら断つ、大いなる痛恨の過失であった。
「待ちなさい!」
「待たぬ! 帽子くらい、また生協で売られるだろうに!」
「次の入荷は一年後なんです!」
「一年!?」
何ということだ。
たかが帽子である。にもかかわらず一年後。
これはもはや帽子の体をなしておらず、ほとんど希少鉱物の発掘周期に等しい。
「そんな奇怪な帽子なのか!」
「帽子そのものは普通です!」
「じゃあ、なにゆえ一年なのだね!」
「生協に聞いてください!」
まったくもって話が噛み合わない。三十六計逃げるに如かずだ、と中庭へ逃げ込むことにした。
ところが、そこでさらに事態は悪化した。
「おい、そこの男!」
眼鏡をかけた学生が大声を上げた。
他にも学生がわらわらと私めがけて集まってくる。
「その帽子……生協か!? 生協で手に入れたのだな!」
「脱げ! 今すぐ脱ぐんだ!」
「待て、そこの人文学部! ……いや、教育学部か!? どっちでもいい、脱げーっ!」
ベンチに座っていた男子学生が立ち上がり、ラウンジからは運動部員が飛び出し、さらには正体不明のビラ配りまで参戦してきた。
こうして私は、瞬く間に十数名の学生から追跡される身となった。
ああ、どうせ追われるならば、私の腹の足しになるような食材に追われたい……。リンゴの北斗でもいい……あれはしゃくしゃくとしていて、程よい酸味、それを上回る甘さがとても美味い……。
大学というところは恐ろしい。
講義にはついぞ姿を現さぬくせに、帽子一つとなれば、どこから湧いて出たのか分からぬ情熱で人々が集結する。
彼らがその情熱の百分の一でも試験勉強に注いでいたなら、この大学の卒業率は今頃、遥かに輝かしいものになっていたであろう。
「なんなのだよ、君らは! 私が何をしたというのだね!」
「その帽子を被った! それこそが問題なんだ!」
「だから、どういうことなのだ!」
心の底からそう思った、そのときである。
先ほどの女子大生が、いつの間にか隣を走っていた。
「こっち!」
彼女は手にしたゼミ資料を容赦なく振るい、猛然と迫り来る男子学生の顔面を思い切り叩いた。
その一撃たるや、学問の重みと狂気が見事に結晶化し、鮮烈なる破城槌のごとき威力を秘めていた。
「ぐわっ!」
「邪魔です!」
「君、さっき私を追いかけてきていたであろう!」
「それは帽子を返してもらうためです!」
「今は私を助けてるではないか!」
「あなたを助けているわけではありません!」
「じゃあ何なんだ!」
「走って!」
「説明なしか!? 理不尽極まりない!」
『なぜ急に共同戦線!?』
と心で叫びつつも、私たちは文京キャンパスの寒沢の過酷な急勾配の坂を下り切る、と見せかけ、寸前で反転。
野太い悲鳴が聞こえてきたので、幾人かは、あの坂を転がっていったものと思われる……。大怪我をしていなければ良いのだが。
心の内で、悲鳴の主の安否をちらりと気遣いながら、弘前学院大学前へと抜け出でた。そして、まるで蜘蛛の巣のごとく入り組んだ細い路地をちょこまかと逃げ回った。
「どこへ行った!」
「帽子を探せ!」
「脱がせろ!」
遠くから学生たちの怒号が聞こえてくる。
赤い屋根も鮮やかな洋館「外人宣教師館」の脇にある、小さな藤棚の下までたどり着いた。
「隠れられる」とは到底言い難い、ただベンチが一つぽつんと置かれただけの空間であったが、追撃の猛威から逃れた私たちは、そこに崩れるように腰を下ろしたのである。
「ぜぇ……ぜぇ……」
心臓が狸のくせに人間のように苦しい。いや、人間だろうが狸だろうが、全力で走り続けたら疲れるし、苦しい。
「一体何なのだ、あいつらは……」
女子大生も息を切らしていた。
「……その帽子には、噂があるんです」
「噂?」
彼女は真剣な顔で言った。
「『かの帽子を一週間被り切った者は、いかなる偏屈教授の心も掴む論文を書ける』」
「……」
私は帽子を脱いでしげしげと眺めた。
安っぽいキャスケットである。どう見ても、学問の神様が宿っているようにも、難攻不落の教授陣を懐柔する秘法が込められているようにも見えない。
「嘘だろう」
「もちろん、怪しい噂です」
「では、なぜ信じているのだ?」
「信じるものが他にないからです! レポートの締め切りが近いんです!」
「……論文ではなかったのか?」
「……論文のつもりで書いてるんです!」
「それは大変だな」
「大変なんです!」
「大人しく帰って書き上げたらどうかね?」
「もう、どこから手をつけていいのかわからないんですよ!」
彼女は悲痛な声を上げた。
「でも帽子は渡さないぞ」
「なぜです!」
「買ったのは私だ」
「そこを何とか!」
「嫌だ」
「お願いします!」
帽子の代金を受け取って、それでは、と手を振れば済む話である。私とてそれは百も承知であった。
しかし、今日という一日を理不尽の渦に叩き込んだ張本人が、あろうことか、この彼女なのだ。
ここで折れては、狸の沽券に関わる。沽券というものが狸にあるのかどうかは、この際どうでもよい。
私たちは睨み合った。
大学生協前で買っただけの帽子をめぐり、まるで天下分け目の合戦である。
そして、帽子を被り直した、その瞬間だった。
帽子の脇から、茶色いものが飛び出した。
ぴょこん。
「……」
「……」
得も言われぬ静寂が訪れる。
私は、一瞬、自分の頭に何が起こったのかを理解できなかった。
目の前の彼女は、《《それ》》をじっと見つめている。
「……それ……猫耳カチューシャですか?」
頭を押さえたが、遅かった。
次いで尻のあたりから、ぼふん、と何かが膨らんだ。
振り返らずともわかるが、一応振り返る。
立派な茶色い尻尾が一本、ベンチの隙間で堂々と揺れている。
「……たぬき?」
女子大生の声に、終わった、と心の内で嘆息した。
化けの皮が剥がれた。
いや、そもそも化けの皮などというものを被って大学へ潜り込んでいた時点で、いつかはこうなる運命だったのである。
帽子でどうにかなると思った己の浅はかさが恨めしい。
しかし、それにしても。
「帽子を買っただけなのに……」
私は呟いた。
狸生とは、かくも理不尽の連続なのである。
「うわーーーーーーーーーっ!」
悲痛極まる私のこの絶叫は、岩木山を静かに仰ぎ見る空へと吸い込まれるように消えていった……。




