南下の道
川を隔てて対峙するこの短き安定の時期を利用し、私たちは委粟津において、この七千人の左軍に対して組織矩陣の再構築、軍事訓練、および各種の後方庶務にいたる具体的な分工(分担)を徹底的に敷き詰めていった。
組織図の骨組み(組織框架)においては、私たちは基本的に先の計算(計画)をそのままなぞった。三つの千夫団を置き、各団の実際の編制を二千人とする。一つの千夫団はさらに垂直に四つの大隊へと細分化され、一大隊の規模を五百人とした。これら三つの団に課せられた唯一の核心任務は「実戦(打仗)」であり、全盤の重点はどこまでも高密度の防衛訓練と実戦の磨破(実戦経験)に置かれていた。
私と呉虎、金威、鉄牛らの手によって細部まで解体されたその訓練メニューは、極めて具体的であった。
まず第一に課せられたものは「令行禁止」であり、最底辺の兵丁に対して軍令への絶対の服従を叩き込んだ。たとえ前方が刀山火海(刃の山や火の海)であろうとも、号令がひとたび下されたならば、全員が鋼鉄の如き足取りで前進せねばならない。
次いで課せられたものは「号令の明確と旗幟(軍旗)の整備」であった。私たちは中級頭領たちの掲げる各色の旗と、金鼓(銅鑼や太鼓)の音との対応関係に対して、数十回に及ぶ精緻な微調整を施した。これによって、戦場が濃い霧に包まれていようとも、兵丁たちは旗の振られる方向を目にし、鼓の打たれるリズムを耳にするだけで、一瞬の内に進退の正しい反応を弾き出せるようになった。
さらに戦力を健全に維持するため、私たちは輪流抽調の方式を採択し、毎週一つの大隊を隠密に黄河の南岸へと潜行させ、曹操軍の巡邏軽騎兵を相手に低強度の実戦を演じさせた。
一回一回は決して大規模な会戦ではなかったが、この実戦という名の生々しい洗礼は、傷兵や潰卒たちの壊れかけていた精神の防衛線を繋ぎ止めるうえで、他を以ては絶対に代替できぬ巨大な役割を果たしていた。
これら三つの正規軍を支える裏で、二つの特別大隊が左軍を自走させるための巨大な両輪(核心の歯車)として機能し始めていた。
老陳の統率する「回収大隊(收尸大隊)」にいたっては、その職能は疾うの昔に単なる死体搬送の領域を凌駕(超越)していた。彼らは後方の全域を隈なく巡回し、両軍が遺棄していった各種の蜾重(輜重)、馬車、戦馬、鎧(皮甲)を残さず監査(収集)したばかりか、現地の農民や職人たちとの間で、名正言順に「物物交換(物資交換)」を開始した。削り残した塩や鉄器を軍資金とし、それらを彼らの持つ粗米や干し肉へと変換していったのである。顧墨はその帳簿のデータを精算し、全軍の糧食に対して精密な調配(配分)と備蓄の管理を敷いていた。
もう一人の顧墨が主管(管理)する「情報・別動大隊」もまた、極めて巨大な戦略的機動力を発揮し、四方の情報を網羅して、大漢帝国の全域に沸き起こる風吹草動(微かな兆候)を、絶え間なく中軍の大幕へと送り届け続けていた。




