田豊は遂に左軍一員
この大変動(大洗牌)こそが、私たちに対して、得難い休養生息(インフラ再建)の時間を授けてくれたのである。
朝廷の最高層(経営陣)は、此時まさに四方の泥沼を這い回ることに必死であり、我が左軍のような偏師(地方部隊)のことなど顧みる余裕は一分も持ち合わせていなかった。一辺では、袁紹が官渡の戦い以降、度重なる敗戦を演じたかつての愛将・文醜に対して骨の髄まで厭悪(嫌悪)の色彩を抱いており、二度とその顔を見たくないと突き放していたからであり、もう一辺では、私たちの抱える七千人の戦力が委粟津の地を死守していることが、名正言順(大義名分を以て)に曹操軍の奇襲(渡河)を防ぐ盾として機能していたからに他ならない。
その上、私たちが対外的に名簿として報告していた兵力はわずか「七千人」の小規模であり、動軸(動けば)十万、二十万の軍勢が激突する河北の巨大な戦場にあっては、これしきの実力など上層部にとっては勘定に含める(警戒する)ほどの物量ではなかったのである。
ゆえに、四方の鎮圧を命じられて消耗品(砲灰)の如くに命をすり減らすあの過酷な泥沼の苦役は、破天荒(奇跡的)に私たちの頭上へ降ることはなかった。私たちは委粟津の陣営に安住(安分守己)し、ただ冷眼(冷徹)に周囲の殺戮を傍観しながら、暗中(水面下)においてこの七千人の家底(軍資金)を、より堅実に、より強固にビルドアップ(蓄積)し続けていた。
冬深く沈み込んだ臘月初八(ろうがつはつか・十二月八日)の深夜、突如として発生した一条の変故が、営帳のなかの静寂を叩き割った。
老陳が満床(足元)の泥水を踏みつけながら、満面に激しい興奮の色彩を浮かべて大幕の帳を跳ね上げ、快足で飛び込んできたのである。「頭(お頭)! 鄴城の側からとんでもねえ大ニュースが飛び込んできやしたぜ! 主公があちこの平叛(平定戦)で大捷(大勝利)を収めたとかで、冀州の民心(支持率)を買い取るために、今日、全域に向けた『大赦(全境大赦)』を唐突に宣したんですわ。あの天牢の最底層にぶち込まれていた田豊先生の二文字が……、あろうことか、大赦の釈放名簿のなかにカチッと記録されてるのを確認しやした!」
かつて鄴城の深宮に赴いて埋めておいたあの政治的遊説の種子が、ついに本物の果実(資産)を結んだ瞬間であった。
私は、この大赦の裏側にある利益のチェーン(相関関係)を誰よりも透徹(看破)していた。あの刻、私が鄴城のなかでばら撒いた碧玉の簪、大量の金銀、そして古董の字画という莫大な「孝敬(手土産)」が、この決定的な瞬間において最高の効力を発揮したのだ。もしもあの溺愛されていた小妾の枕辺風(内助の功)がなく、審配や郭図が金銀の資産を受け取って集団的な黙秘(沉默)を貫いていなければ、大赦の名簿の中に「田豊」という重罪人の名前が躍ることなど、万に一つも有り得なかった。
そして何よりも、この大逆転を加速させる触媒となったものは、あの日、鄴城の街道の上で私が袁紹の天顔を拝した際に吹き込んでおいた、あの臨機一変の「嘘(対話)」に他ならなかった。恐らく、あの『田豊は獄中にあって己の不明を懊悔し、主公を英雄と称えております』という私の言葉が、袁紹の胸の奥底に燻っていた、知識人(田豊)に対する劣等感(自卑の結び目)を完全に解きほぐした(精算した)に違いないのだ。
「老陳。お前は即座に、手回しの利く数人の心腹(部下たち)を引き連れ、今すぐ鄴城へと馬車を走らせろ」私は冷徹な声で軍令を下した。「かつて天牢の門口に配置(隠匿)しておいた回収兵たちが、すでに現地で接応(インフラの確保)を完了させているはずだ。記住(忘れるな)、いかなる代償を支払ってでも、あの先生の身体を無事にこの山へと連れ戻して(回収して)くるんだ」
「御意(得令)!」老陳は不敵な笑みを浮かべると、身体を反転させ、瞬く間に夜闇のなかへと溶け込んでいった。
果の如く(案の定)、第三日の払暁(夜明け)を迎える頃、車輪の重苦しく軋む音と共に、厚手の帆布によって厳密に遮蔽された一架の馬車が、我が左軍の軍服を身に纏った精鋭兵の一隊に護衛されながら、緩やかに文醜の中軍大営のなかへと滑り込んできた。




