虎視眈眈
鄴城から委粟津の左軍大営へと帰還したのち、私は微塵の緩み(鬆懈)も見せることなく、全精力を再び軍隊の日常防衛と物資清算の実務の中へと投入していった。
この期間のなかにあって、対岸の曹操軍は決して安息(安分)してはおらず、時折百人規模の精鋭斥候や軽騎兵を渡河させて襲擾(急襲)を仕掛け、我が軍の虚実を執拗に試算(試探)しにきていた。しかしながら、私の率いる左軍の麾下にある三人の千夫長――鉄牛、金威、呉虎らは適確に兵馬を差配(配置)し、黄河の北岸において厳密な交叉防線を構築しきっていた。曹操軍の斥候がひとたび私たちの地界(領域)へと足を踏み入れれば、彼らを迎えるものは鉄牛の六十二斤に及ぶ長鉄戟、金威の双鉄槌、そして呉虎の破風大刀の一撃であった。部隊組織(建制)を以て数度の痛撃を加えた結果、曹操軍は数百具の死屍をその場に遺して敗走し、西北の隅から一寸の亀裂(死角)すら引き裂くことは叶わなかった。
曹操はどこまでも理知的な管理者(経営者)であった。委粟津の防備が極めて厳密であり、何らの脆弱性(漏洞)もディグる(捜索する)隙がないことを見届け、その上、中途での渡河が孕む危険性が極限にまで巨大であることを精算したのか、彼はひとまず即座に大規模な軍勢を以て黄河を北へと渡る計画を完全に保留(回収)したようだった。両軍は、滾々(うねる)として東へ流れ去る黄河という名の天険の要害を隔て、緩やかに、隠微にして短き地政学的バランス(地縁平衡)のなかに陥り、戦況はひとまず安穏(安定)を取り戻したのである。
しかしながら、黄河の最前線がもたらしたこの一時の安寧は、袁紹の誇ったあの北方の帝国が、いまや全盤(全面的)に雪崩を起こして崩壊しつつあるという冷酷な事実を覆い隠すことはできなかった。
官渡と倉亭における度重なる大惨敗は、袁氏というブランドが地方に対して維持していた威嚇力、および実際の統治能力(控盤力)を、文字通り地の底へと叩き落としていた。わずか一ヶ月が経過した頃、袁紹の大後方に位置する幽州、并州、さらには国境の辺境にいたるまでの一連の大郡において、同時多発的な大規模の本地叛乱(地元の豪族の造反)が勃発したのである。それまで袁氏の威光に依附(依存)していた地方の豪強(有力者)どもは、巨獣が倒れ伏すのを目にした禿鷹の如くに、一斉に反水(裏切り)を仕掛けて造反した。袁紹は鄴城の大営のなかにあって気急敗壊(激怒)し、終日血を吐きながらも、手元に残された袁譚や袁尚、そして数万の貴重な中軍の主力(コア資産)を引き連れ、さながら救火隊(消火隊)の如き慌ただしさで、各地の戦場へと鎮圧の軍を急行させねばならなかった。




