何故いまだに生きておられるのか
田豊の睫毛が僅かに微動し、ゆっくりと二つの眼を開いた。彼のその鷹隼(鷹)の如くに鋭利な眼光が私の身体を冷徹に一圏(一周)させ、その後に沙啞(嗄れた)声を響かせ、極めて平淡な口調で口を開いた。
「……貴様は何者だ。老夫の記憶に、貴様のような男は存在せぬな」
私は拱手の姿勢を崩さぬまま、平穏な声で返した。「学生は先生の智略と、その気高き風骨に対して、疾うの昔より深く景仰(傾倒)して参りました。先生が学生のことをご記憶にないのは至極当然のことにございますが、学生の側は、一貫して先生のことを胸の内に惦記(案じて)し続けていたのです」
田豊は言葉を返さなかった。彼は冷漠(冷たく)として首を反転させ、再び漆黒の石壁を見つめ、大牢の内部は一瞬にして長きにわたる冷場(沈黙)へと陥り、死の如き寂静が辺りを支配した。
私はその気まずい空気のなか、面色を変えることなく、ただ僅かに半歩ほど前へと身を寄せ、その声を極限まで潜めて囁いた。
「先生。あなたは不思議に思われませんか。官渡において中軍が大敗を喫し、袁本初がこの鄴城へと無惨に敗退してきた今日のこの刻にあって……、なぜ、ご自身が未だにこうして生きて(活著)おられるのかを」
その一言が放たれた刹那、田豊のあの泥人(泥人形)の如くに強張っていた巨躯が、猛然と大きく一震した。
彼は再び首をこちらへと巡らせ、その深邃(深い)なる眼眸を死に物狂いで私の顔面へと固定した。牢房のなかに響くものは、ただ私たち二人の呼吸の音だけであった。長きにわたる時間ののち、この北方第一の大脳は、ようやく極度の沙啞、しかしその奥に不可思議(信じられない)な震えを帯びた声を絞り出した。




