甲乙丙救出案
連続数日の深夜、荒涼とした営帳のなかに、私は張義、顧墨、そして老陳の三人を薄暗い灯火の下へと秘密裏に召集し、この救出の計画を幾度となく裏表から叩いて推敲し続けた。私たちは簡陋な地図を囲み、細部まで入念に考慮し、何日もかけて反復推演を重ねた末、最終的に「甲・乙・丙」という三つの自処の手段を弾き出した。
第一の「甲方案」は、力任せに天牢を破って強硬に救い出すという手段であった。
しかし、この路は碰頭(協議)を始めた最初の夜の段階で、私を含めた四人の手によって一文字の元に抹消された。あまりにも現実離れしていたからだ。私たちは朝廷(袁紹)に対して公に反叛(造反)したわけではなく、名義の上では未だ正規の袁紹軍(左軍)である。その上、鄴城の周辺および城内の要害には、未だ数万人規模の袁軍の主力が駐札しているのだ。もしも意気地を優先させて天牢を強襲すれば、我が七千の軍勢は冀州の国境を踏み出す前に、その場で乱刀の下に碾き潰されて粉末(塵)と化すだろう。これは軍師の救出などではなく、単なる集団自殺に過ぎなかった。
第二の「乙方案」は、天牢の内部へ潜入し、田豊と極めて相貌(顔立ち)の似通った別の死刑囚を身代わりに仕立て上げ、暗中で隠密に調包(すり替え)て脱出させるという偽謀の手段であった。このロジックは道理の上では一応の実現性を帯びてはいたが、天牢の防守は極めて厳密であり、上から下へいたるまでの無数の関門に対して、あまりにも高密度の買収(打点)を仕掛けねばならず、膨大な時間と精力を浪費する上に、その結果が吉と出るか凶と出るかも全く未知数であった。
そこで私は、自らの視線を第三の「丙方案」へと完全にロック(固定)した。――それは前世において、会社が深刻な経営危機(ガバナンスの破産)に直面した際、私が最も得意としていた「政治的遊説(ロビー活動)」と「精密な広報(公関)」の手腕であった。
私の記憶が確かならば、歴史の記録における袁紹は、官渡で大敗を喫して鄴城へ退いたのち、最前線で消失した領土のことなどよりも、自身が最も溺愛していた小妾(側室)との間に新しく生まれたばかりの「最幼の息子」の病や夜泣きに対して、終日激しく心を痛めて焦燥していたはずだった。袁紹はその赤子の病状のせいで日々憂悶し、朝政のすべてを完全に放棄していたのである。
ならば、因果の死角はここにある、と私は弾き出した。その赤子の母親であり、袁紹の寵愛をこの刻一背に受けているその小妾の耳元(枕辺風)さえ動かすことができれば、その発言の重みは天子の御筆をも動かす。これこそが、絶対的な権力構造のなかに生じた最大の脆弱性(漏洞)であった。
私は老陳を呼び寄せ、かつて我が回収隊が官渡の戦場において、戦死した曹操軍や袁紹軍の高級将領(名門の世家)たちの死体から暗中で密かに中抜きし、保管(隠匿)しておいたあの「隠匿資産」の金庫を開けさせた。その中から、做工(細工)が極めて精美であり、北地の市場では滅多に見かけることの叶わぬ「碧玉の簪」や最高級のシルクの織物をいくつか引っ張り出させたのである。私はこれを顧墨の手へと委ね、彼自身の管理する地下の隠密な商路(秘密ルート)を走らせて、鄴城の深宮の内苑へとその貴重な手土産を撃ち込ませ、あの寵愛を貪る小妾の手へと確実に届けさせた。
それだけでは足りない。私はこの間もなく破産を迎えようとしている巨大な組織(袁紹軍)にあって、一人の女を討好(買収)するだけでは防衛線として不十分であることを知り尽くしていた。私は同時に、顧墨の手を介し、袁紹の身辺で常に甘言を弄している審配や郭図といった文人どもが最も好む古董(骨董)の字画や、死体から監査(回収)しておいた世家大族の随軍帳冊(利権の書類)を暗中で彼らの懐へと送り届けさせた。そればかりか、此時まさに後継者の座を巡って骨肉の争いを激化させていた長男の袁譚や三男の袁尚の元へも、戦場から清算してきた魏軍の精良な重甲や北地の名馬を、それぞれの好みに合わせて完璧に配分(賄賂として贈呈)して回らせた。




