天下大勢
江東と荊州の地にあっては、年齢わずか十九歳の孫権が周瑜や張昭らの補佐を受け、血に塗れた鉄腕を以て江東内部の従わぬ門閥大族を冷酷に清算しており、江南の戦船は暗中にその鋒矢(牙)を研ぎ澄ましていた。一方、江漢の地に座して十万の雄兵を擁する荊州の刘表は、相変わらず自らの城守に汲々とする守成の犬に過ぎなかったが、汝南の大敗を経て狼狽のまま南へ逃れてきた劉備が、関羽、張飛、趙雲の三猛将を引き連れて新野の地に寄宿せんとしていた。この二条の潜竜(劉備と曹操の動向)が、間もなく荊州という名のこの澱んだ死水を徹底的に掻き回すことになるのは明白だった。
西北と西南の国境を見渡せば、西涼の辺境において重兵を握る馬騰や韓遂が、表面の上では朝廷に臣従を誓いながらも、その胯下にある十万の西涼鉄騎はすでに中原を略奪せんと蠢動を始めていた。さらに遠き蜀の地、益州にあっては、劉璋が暗弱にして内部の文武の派閥が激しい内紛を繰り返しており、国を閉ざして外の殺戮をただ冷眼に傍観していた。
そして、歴史の記録から見捨てられた辺境の地にあっては、漢中の五斗米道を率いる張魯や、交州の士燮らがうごめいていた。天下は広大であったが、これら最頂尖の巨大企業(巨大諸侯)たちによる過酷な市場独占(兼併)が進んだ結果、最底辺の民草が生き残るために残された空白の生存地帯は、日ごとに一寸ずつ削り取られ、枯渇しかけていたのである。
倉亭の大潰敗にあって、袁紹の誇った十四万の大軍のうち、生きて北岸へ逃げ戻ることができたのはわずか四万人足らずに過ぎなかった。袁紹とその息子たち、さらには審配や郭図らは鄴城のなかに逃げ込んで城門を固く閉ざし、一歩も外へ出てこようとはしなかった。彼らによって各地から強制調達されてきた諸路の兵馬は、逃げる者は逃げ、死ぬ者は死に、完全に四方へと霧散していった。
曹操はすでに勝券を手中に収めたと確信したのか、一時的にその爪牙(牙)を収め、斥候を走らせる以外には、黄河の北岸へ向けて大軍を侵攻させるような動きは今のところ見せていなかった。




