逃兵収容、装備拾う
私は委粟津の地に強固な営塁を築くと、人員を的確に配置して南岸の曹操軍の動向を厳密に監視させ、同時に、黄河の北岸全域に大量の捜索隊を走らせて、南岸の地獄から辛うじて生きて河を渡って逃げ戻ってきた袁紹軍の潰兵(敗残兵)たちの回収を開始した。
わずか五日に満たぬ時間のなかに、私たちが収留(回収)した逃亡兵の数はあろうことか三千人を超え、我が軍の全体は総勢七千人規模の拡張を遂げていた。これは、あの倉亭の決戦が勃発する前の左軍の物量と、実質的におおむね同じ分母であった。
倉亭の戦場を焼き尽くしたあの烈火の一撃は、袁本初の十万の傲骨を灰燼に変えただけでなく、この大漢帝国が十数年のあいだ辛うじて維持してきた脆弱なパワーバランスを根底から粉砕した。天下という名の巨大な盤面は、西暦二百一年に至り、まさに烈火烹油(激動)の如き全面的な大洗牌(大シャッフル)の刻を迎えたのである。
この諸侯が覇を競う広大な棋盤(チェス盤)の上にあって、各方勢力の命脈は、地政学的な大変動を起こし始めていた。
北方の中心たる中原においては、曹操が官渡と倉亭の圧倒的な戦勝の波に乗り、華北の覇者としての絶対的な地位を確立した。彼の鉄騎はすでに黄河を跨ぎ、残破した冀州の利権を徹底的に蚕食する準備を始めていた。
対する四世三公の袁紹は、満身に傷を負ったまま鄴城へと逃げ戻ったのち心胆を完全に喪失し、吐血を繰り返していた。このかつて天下第一を誇った大会社(袁紹軍)は、すでに内側で後継者たちの骨肉の権力闘争(内耗)という死局(破滅の泥沼)に陥っており、名存実亡の殻へと成り下がっていた。




