↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
39/63

委栗津

私は立ち上がり、主簿(しゅぼ)の張義に向かって深く一拱手(一礼)を捧げて感謝の意を告げると、次いで文丑(ぶんしゅう)の麾下にある他の二人の千夫長たちと短く商議(協議)を交わした。そうして、老陳(ろうちん)、鉄牛(てつぎゅう)、顧墨(こぼく)の三人を呼び寄せ、連夜における「緊急渡河」の絶対の軍令を発布したのである。


私は漆黒の闇に包まれた黄河の渡口に立っていた。前世の世界から二千年の時間を隔てたこの大河は、いま私の目の前を嘩嘩(ごうごう)と音を立てて東へと流れ去っていく。眼を凝らして見れば、河幅はわずか一マイル(一キロ)にも満たず、流速もさほど速くはなかった。


しかしながら、老陳がかき集めてきた船は大小が不揃いであり、三千の軍勢が渡河を終えるまでに整々(きっちり)二時(約四時間)を費やしてなお、三分の二を渡り終えたに過ぎなかった。とりわけ、軍にとって極めて貴重な戦馬や戦車、牛車、馬車といった重い輜重(輸送物資)は、小さな船では到底装運(積載)することができず、岸辺に取り残されていた。


私が焦燥の念を抱き始めたその時、范県の主簿である張義が、七、八人の県衙(お役所)の捕快(捕り方)を引き連れて現場へと駆けつけてきた。彼らの背後には数十人の民夫(作業員)が付き従っており、あろうことか、新築された一隻の巨大な木船を力任せに担ぎ上げて運んできたのである。

「龍(りゅう)千夫長、私もあなたたちに付き従ってここを離れたい。この県衙の人間は、疾うの昔に全員が逃亡(逃跑)してしまった。このような名ばかりの破れ官(役職)など、もう未練はござらん。この大船は、県が今年の龍王廟の大礼(祭祀)に備えて監造(製造)させておいたものだ。背に腹は代えられぬ、まずは力任せにここまで担ぎ込んできた次第にございます」

私は元より、この沈着にして熱心な主簿に対して強い好感を抱いており、十分に言葉の通じる実務のプロであると感じていた。老陳の船集めを助けてくれたことに加え、今まさに雪中送炭(絶妙なタイミングでの支援)の如き助け舟を出してくれた事実に対し、私は大喜過望(激しい安堵)を覚えていた。

張義がもたらしたこの大木船のおかげで、重い戦馬や蜾重(輜重)の搬送は一気に軌道に乗り、それでもなお大船を十数往復も反転(往復)させる激しい泥臭い作業の末、払暁(夜明け)を迎える頃には、三千の兵馬とすべての輜重装備の全体を、黄河の北岸に位置する「委粟津(いぞくしん)」の地へと、完全に渡し切る(避難させる)ことに成功したのである。

私たちが北岸の砂地に辿り着いたとき、遥か彼方の南岸を望めば、十数里離れた地平線の奥に、隠微たる火把(たいまつ)の光がゆらゆらと蠢き始めていた。曹操軍の追撃部隊が、ついに范県の地へと清剿(残党狩り)に押し寄せてきたのだ。寸一秒の差での逃げ切りであった。

委粟津は、わずか十数戸の民家が身を寄せる極めて小さな渡口に過ぎず、そこには渡船の稼ぎで生計を立てる者や、漁(魚捕り)を生業とする民が静かに暮らしていた。私は即座に老陳を動かし、彼らの船と技能を我が隊へと収編(徴用)させ、代わりに彼らの食い扶持(飯)を山砦の責任で保証してやった。これは彼らの職人の手芸(技術)を後方支援に発揮させるための一辺であり、同時に、彼らの船が曹操軍の手によって軍事利用されるリスクを根本から実質的に排除(自衛)するための清算の手腕であった。

文丑は私を正式に中軍千夫長へと引き上げ、あたかも軍のすべての重担(責任)を私の両肩の上へと圧し付けたかのように見えた。麾下にある他の二人の千夫長――一人は破風刀の使い手である「呉虎(ごこ)」、もう一人は一対の鉄槌(ハンマー)を自在に操る「金威(きんい)」という男だったが、二人とも官渡の戦場で私が直々に救い出して命を活(繋ぎ止めて)やった将領であり、私に対しては完全に服帖(心服)していた。かくして、軍の決定大事を下す実質的な権限と重い責任は、完全に私の頭の上へと収束(集中)したのである。

私は委粟津の地に強固な営塁(キャンプ)を築くと、人員を的確に委派(配置)して南岸の曹兵の動向を厳密に監修(監視)させ、同時に、黄河の北岸全域に大量の捜索隊を走らせて、南岸の地獄から辛うじて生きて河を渡って逃げ戻ってきた袁紹軍の潰兵(敗残兵)たちのディグ(捜索と回収)を開始した。

わずか五日に満たぬ時間のなかに、私たちが収留(回収)した逃亡兵の数はあろうことか三千人を超え、我が軍の全体は「総勢七千人」の規模へと急速に拡張を遂げていた。これは、あの倉亭の決戦が勃発する前の左軍の物量(規模)と、実質的におおむね同じ分母であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。