戦馬の死屍の下に、一尊の、まるで鉄塔の如き魁梧(筋骨逞しい)な体躯を持った黒い顔の巨漢
(……文? 袁紹軍の中にあって、黒色の大纛を翻すことを許され、これほどの精鋼侍衛を配下に置く文姓の大将……)
(まさか、文丑か!?)
史実、そしてこの世界が辿るべき歴史の走向が、その一瞬、私の脳内で電閃雷鳴の如くに激しく駆け巡った。
延津の戦いにおいて、文丑は曹操の計略に嵌まり、この一戦のなかで関羽の手によって斬殺される運命にあるはずだった。
その事実に思い至った時、私の心根に恐怖などは微塵も湧かなかった。むしろ、前世において、徹底的に破壊された廃墟の奥底から最大の「核心資産」を発見した時と同じ、絶対たる炙熱(興奮)が胃袋の底から燃え上がっていた。
(本当にお前を見つけたというのなら、俺は、この地獄から生きて出られるかもしれない)
「うわあああああああ!!」
最初の一歩を踏み出し、手柄を独り占めにしようと死馬の死体を跳ね除けた同行の収屍兵が、次の瞬間、驚恐の絶叫を張り上げた。彼はまるで本物の悪鬼にでも出会ったかのように、泥地の上にへたり込み、手足をガタガタと震わせながら死に物狂いで後ろへと連滾帯爬(這う這うの体)で逃げ戻ってきた。
見れば、その巨大にしてすでに硬直の始まっている戦馬の死屍の下に、一尊の、まるで鉄塔の如き魁梧(筋骨逞しい)な体躯を持った黒い顔の巨漢が、力任せに圧し潰されていた。
彼の身体には、曹操軍の放った鉄羽の乱箭(無数の矢)が隙間なく突き刺さっており、さながら巨大なハリネズミのようだった。大腿部の皮肉にいたっては矢の衝撃によって激しく裂け、白森森(白々とした)骨の破片が血肉を突き破って露出しており、晩霞の残照の下で言葉を失うほどに惨烈に映えていた。しかし、最も致命的な傷口は、その背中の一刀だった。重甲が派手に破砕されたその割れ目は血肉模糊(血みどろ)と化し、黒紅色の血水が全身を完全に浸し尽くしている。
尋常の理屈を以てすれば、これほどの重創を負った人間は、とうの昔に氷のように冷たい死屍へと変わっているはずだった。
しかし、私の足取りが、あのへし折れた「文」の字の大纛の前でぴたりと止まったその時。
その肉山の胸元が、にわかに劇しく上下に起伏し、粘り気のある血の泡を伴った、まるで壊れた鞴を引くかのような、重苦しい喘息(呼吸音)を響かせたのだ。
「――唰!」
巨漢の二つの眼が、突如として見開かれた。
銅鈴の如き大きな眼球には、密密麻麻血糸(血の筋)が走り、それはあたかも絶境の淵に追い詰められ、これから万の狼の群れによって引き裂かれようとしている、満身創痍の負傷した猛獣のようだった。周囲の空気を一瞬にして氷結させるほどの、凄まじいまでの凶光がそこから放たれている。
彼の右手には、この期に及んでもなお、鮮血にまみれ、重量実に七十斤(約35キロ)を超えるであろう一振りの大刀が、死に物狂いに握り締められていた。冷え切った夕暮れの風が刃を叩くたび、刀身は低く、冷ややかにキィィンと鳴り響く。もしも私がここからさらに一歩でも近付けば、彼は残された最後の一滴の力を振り絞り、私を文字通り一刀両断にするだろう。
私は、その寒光(恐ろしい輝き)を放つ大刀の正面から視線を逸らさなかった。
後ろで立ち尽くす老兵の老陳や、無数の収屍兵たちが驚駭(驚愕)の眼差しで見つめるなか、一歩、また一歩と鉄塔の如き巨漢の前へと歩み寄り、その巨躯の前に緩やかに身を屈めた。




