倉亭の敗戦にBプラン
曹操と袁紹、二つの対峙する大軍が陸続(続々と)として黄河の畔の倉亭へと到着し、集結を完了させた。
戦前の凄まじい圧迫感は、すでに現場にいるすべての者の呼吸を困難にさせていた。
文丑の麾下(配下)にある七、八千の残部、および青州や冀州から合流(集結)してきた袁尚の部下三、四万人は、中軍の大幕からの軍令を受け、左翼の側衛として倉亭平原の最も左側に陣を敷くこととなった。曹操軍の右側主力による苛烈な攻撃の鋒矢(矛先)を真っ向から受け止める位置である。
そして私は、営房の配置を無事に完了させたのち、軍服にべっとりと付着した泥水を拭い取る間すら惜しみ、老陳と鉄牛を引き連れて、全軍の死体回収大隊長という公式の巡邏特権を最大限に利用し、緊急の面持ちで営区の後方に広がる進退の路(退路)を模索して回った。
前世における物流の管理専門家としての経験が、私の脳裏に「プランB(備えの退路)なき通路は、すべて死路(行き止まり)に過ぎない」と冷徹に告げていたからだ。地名と正確な道路状況をこの手に完全に掌握しておいて初めて、十面埋伏(包囲網)が爆発した混沌の最中にあっても、私たちの抱える数千の命が乱兵に押し流されて黄河の水底へと溺死する最悪の破産を物理的に回避できるのである。
私は顧墨が古い軍需官の遺物から手に入れてきた残破地図を広げ、戦場の周縁において大崩壊(倒産)が起きた際の避難経路をディグって(捜索して)いた。私たちは黄河の支流に沿って伸びる泥濘の古道を一途に南西方向へと索敵し、范県や定陶の方向へと突き抜ける、誰も目を向けない荒僻な山道を見出しにかかっていた。同時に私は老陳と100人の兵士を派遣し、黄河にてできるだけ船を集めることにした。
しかし、私がその蘆葦蕩(アシの茂み)の深奥に隠された狭窄な古道を完全に調査し終えるより前に、天を焦がす連天の戦鼓の響きが、何の予告もなく地平線の全体から轟然と炸裂した。
大戦の勃発は、誰の予測(予定)よりもはるかに神速であった。東漢末年における最大最強の二大勢力による終極の決戦が、ついに火蓋を切られたのだ。
轟鳴する無数の馬蹄の響きが、一瞬にして黄河両岸の死寂(静けさ)を文字通り粉砕した。




