江東の孫権と周瑜
さらに遥かなる南方、秋雨が江河を白く染める江東。
建康の孫府の内部には、北方の凄まじい戦場とは截然(完全)と異なる、江南特有の贅沢な華貴(奢華)の空気が流れていた。年齢わずか十九歳にして、急遽兄の後を継いで江東の印信(権力)を毟り取ったばかりの孫権は、権力の象徴たる主座の椅子に腰掛けながらも、その身体を誰よりもきつく緊張(緊繃)させていた。
兄の孫策が暗殺(遇刺)されて斃れたばかりの今、江東の全体を牛耳る門閥世家(大族)どもは、この口元に髭すら生え揃わぬ「孫二公子」に対して、あからさまな傲慢と懐疑の視線を投げつけていた。大堂の両側に並ぶ江東の老臣たちの談笑の声は、孫権の耳には、耐え難いほどの刺耳(嫌がらせ)として響いていた。
孫権は拳を死物狂いで握り締め、その手のひらには屈辱のはじ(汗)がびっしょりと滲んでいた。身辺から伸びてきた、一条の温和にして修長(細長い)な大きな手が彼の肩をそっと抑え込むまでは。
その男の名は、周瑜であった。
周瑜は小さく首を横に振り、微かな微笑を浮かべて、今はひたすら隠忍(自制)せよと彼に視線で伝えた。
「仲謀よ、北方の官渡や倉亭の戦いなど、奴らに勝手に争わせておけば良いのだ」周瑜は兄長の如き(兄のような)親しさを以て、私的な場で彼を「主公」とは呼ばなかった。彼は酒碗を掲げ、窓の外に広がる浩瀚(広大)なる長江の大河を見つめながら、その声を清冷に、しかし確固たる響きを以て響かせた。「黄河の畔で袁本初がその生々しい血を流し尽くしたとき、曹操とて、必ずや極度の疲弊(累)を迎えることになる。私たちがその隙に江東の内部を徹底的に平定(鎮圧)し、長江の天険(天塹)の要害、さらには江東が誇る造船の技術と太湖流域の富裕さを手元に掌握しさえすれば、誰一人として、この江東から一寸の利益をも毟り取る(討得便宜)ことなどできはしないのだよ」
孫権はその言葉に深く首を縦に振り、手にした烈酒を一気にその喉へと流し込んだ。」
蜀と呉、二つの勢力の未来の巨頭(指導者)たちは、今まさに各々の泥沼のなかで、異なる野心を胸に秘めていた。彼らは夢にも思っていなかった。北方の黄河の氷のように冷たい渡口(渡し場)の傍らにあって、歴史の巨輪(歯車)が、いま将に決定的な一格(一目盛)を回転させようとしていることを。
夜幕(夜の闇)の下、大地は無数の馬蹄と蜾重(輜重)の大車がもたらす沈重(重苦しい)たる圧殺の前に、痛々しい呻き声をあげていた。黒圧圧(黒い塊)となった袁紹の中軍の残部、各路の胸の内に心機(計算)を秘めた将領たち、そして文丑の麾下にある七、八千の河北の弟兄たちは、激しい傾盆大雨(豪雨)をその身に浴びながら、浩浩蕩蕩(粛々と)として、その血を流し尽くすべき倉亭の会戦戦場へと結集を始めていた。
そして龍は、行軍大車の揺らめく帆布の陰影のなかに蹲り、老陳、鉄牛、顧墨、鄧車、孫港、夏天台といったコアの骨幹(部下たち)と共に、黙々と、文丑軍に配備した「釘の打たれた草履(草鞋)」、新しく車輪を締め直した大車の車軸、さらには各種の甲冑、鋼槍、強弓といった軍需物資の最終データを照合(清算)していた。前方の倉亭の地に待ち受けるものが生き残りであるか、あるいは全滅(死)であるか、そんなことは今の彼にはどうでも良かった。彼はただ、理解していたのだ。
――最大の嵐(風暴)が、いよいよやって来る、と。
黄河の両岸に広がる底の知れない泥沼は、他のすべての人間を泥船ごと引き摺り下ろす(拉得住)かもしれないが、私の管理するこの回収隊、ひいては文丑の率いる左軍の全体を、その泥濘の中に繋ぎ止めておける(拉得住)とは限らないのである。




