質問、なぜ将軍(文丑)が関羽に負けたんですか
「将軍の武芸を見るに、その実力は決して関雲長に劣るものではありません。それどころか、正面から一、二百合にわたって激しく交手(交戦)したならば、最終的に彼に勝ちを収める機会すら十分に存在したはずです。それが、なぜあの瞬間にあっさりと彼に殺傷されてしまったのですか?」
私は前世において三国志の記録(演義)を読んだ際、文丑が出陣して三十合の内に徐晃を撃破し、張遼を退けたその圧倒的な神力を知っていた。
しかし、その神撃が関羽の一撃と出会うや、あろうことか十合にも満たぬうちに退兵し、そのまま関羽によって討ち取られるという最悪の結末を迎えた事実に対し、私だけでなく、その記録に触れたすべての読者が同じ疑問を抱き続けていたのだ。
文丑はこの数日、明らかに情緒が好転(回復)しており、私のこの失礼な問いに対しても怒火を燃やすことはなく、ただ面に僅かな紅潮を浮かべると、頭を低く垂れてしばらく沈思したのちに語り出した。
「中軍の大幕からの命令は、黄河を南へと渡った空虚な地帯を進み、さらに西部へと曹操軍の不意を突いて突襲せよというものだった。しかし、まさか延津へ至るや否や、逆に曹操軍の突然の包囲に遭うとは思いも寄らなかったのだ。お前も当初、戦場の残体(死体)を清算した際に見ただろうが、俺が関雲長と矛を交える前、すでに曹操軍の巨大な弓箭大隊(弓兵部隊)による奇襲に直面していた。俺自身もすでに三、四本の矢を深く身に受けていたのだ。あのような絶境にあって、彼に敵うわけがなかろう」
私は静かに首を縦に振った。彼の口にした地政学的な戦況は、私が当初、泥水のなかで死体を回収した際に看取(分析)した、曹操軍に包囲分割され、次いで密度の高い弓箭の洗礼(一斉射撃)を浴びせられていたあの生々しい痕跡と、完全に合致していた。
「将軍の功夫(武芸)にいたっては、不肖の身ながら、その実力は常山の趙雲、趙子龍をも僅かに駢(凌駕)していると考えております。かつて公孫瓚を大戦(大攻勢)にて追い詰めた際、趙雲は将軍と五、六十合にわたって激しく交手した末、自ら主体的に兵を退いたではありませんか。関雲長とて、真に正面から戦えば、断じて将軍の足元に及ぶものではありません。文丑将軍、あなたこそは、あの呂奉先がこの世を去った今の時代において、天下で数一数二(一、二を争う)の名将にございます。どうかご自身を妄自菲薄(過小評価)なさるな。もう一度雄風(覇気)を奮い立たせ、その背中を、麾下の弟兄(兄弟たち)に堂々と見せてやるべきでございますよ」
文丑は、私がこれほどまでに彼の武力を篤定(確信)しているとは夢にも思っていなかったらしく、深く、深く首を縦に振ると、再びハハハと豪快に笑い声をあげた。
「良し! 老子は次にあの関雲長に出会ったならば、必ずや大戦を三百合にわたって仕掛けてやるさ!」
正式に薬箱を収めると、営帳の帳を押し開き、私は外に広がる漆黒の夜空のなかへと足を踏み入れた。夜幕の下に連綿と数十里にわたって広がる袁紹軍の連営は、すでに内側から骨を抜き取られた龐然大物(巨大な出殻)の如くであり、隠微たる絶望の死気を濃厚に漂わせ始めていた。
前世の世界にあって、小説のなかで「数千の精鋭が数十万の大軍を打ち破り、文字通り潰滅せしめた」という記述を目にするたび、私はそれを机上の空論(誇張)であると想像していた。しかし今、己の身をこの大営の中に置いてみれば、曹操軍がもしも数千人規模の精鋭を七、八支(七、八隊)同時に組織し、死角から一斉に強襲を仕掛けたならば、この巨大な泥船を摧枯拉朽(一撃のもと)に突き崩すことなど造作もない事実であることが生々しく理解できた。
曹操が未だその決定的な一撃を仕掛けてこない理由は、ただ一つ。その必要が端からないからだ。彼は自らの老獪な清算の手腕を以て、ただ定々心心(悠然と)、この袁紹という名の破産企業をじわじわと、完全に解体していくつもりなのだろう。




